cocolog:89122076
金利は破綻のリスクに対する保障としてあり、その本質は社会に確保される「捨て扶持」にあるのではないか? 投資により所得が増えるのは、「捨て扶持」を利用するところからリスクを取るところに移動し、人口増に寄与するからではないか? (JRF 8908)
JRF 2018年3月30日 (金)
しかし、結局、目覚ましい成果は出なかった。ここらで一旦、考えたことをメモし、この思考を休止したい。そして他のことに移ろうと思う。この「ひとこと」はそのメモである。
JRF2018/3/308073
……。
ある共同体を考えよう。そこは原始的…といっても農業をしている共同体で、カツカツで生活している。今度、生産性を増やすための機械を導入しようとして、その技術の習得をした者達が帰って来た。ちゃんと機械を使えるようになるのか不安なところ。…といったぐらいのストーリー。
JRF2018/3/306189
機械の製作はいくつか成功したが、一つ失敗してしまう。そして失敗した分だけ、食料の生産が予定どおりに行かず、また機械の技術を習得する予定だった者が農業に戻るため習得に行けなくなり、その分機械の生産がさらに滞り、さらに生産が足りなくなり…といったスパイラルの可能性があると考える。
JRF2018/3/305000
このようなスパイラルを防止するためには、余分な食料があったほうが良かった。そうすれば、機械の習得には送り出せたかもしれないから。もちろん、余分な機械でも良かったのだが、そこまでの余祐はまだないのだろう。
JRF2018/3/307175
仮に失敗がなかったなら、余分な食料は必要なくなり、どういう形でか捨てられることになる。これを食料として与えられる者がいたらどうなるだろう? 「捨て扶持」で暮らす者がいたとする。そうすると、彼は「捨て扶持」が必要になると自分の食べる物がなくなって死ぬか、他に去るしかなくなるのだから、彼は必要になる事態が起きないようにするだろう。「捨て扶持」で暮らす者の存在が、どういう形でか破綻のリスクを回避するのに役立つ…と考える。
JRF2018/3/300737
「捨て扶持」が必要なのはリスクがあるからである。ゆえに、生産しない彼が、「捨て扶持」そのものを増やそうとすることはその必要性を社会に認めさせるということで、社会にリスクを増やそうとすることとイコールである。ゆえに、彼は「捨て扶持」を増やそうとしてはならない。…とする。
JRF2018/3/306265
「捨て扶持」が必要なものとして、彼を生産する者の仲間とみなすことはできない。なぜなら、そこを必要とみなすと、それは「捨て扶持」でなくなり、別のスパイラルを招くことになるから。だから、彼は社会の再生産に寄与しない。…とする。
農産物が足りなくなると、栄養状態が悪くなって、老人と子供が先に死んでいく。それらが「捨て扶持で暮らす者」だろうか…?
JRF2018/3/303400
《科学に佇む読書心:Twitter:2013-10-13》
https://twitter.com/endbooks/status/395478670883553280
JRF2018/3/305581
>”飢饉の際は、一家族のうち成人ことに男がまず死亡し、つぎに子どもまたは成人女性という順に死んでゆく事例が過去帳に多い。子供にできるだけ食物を配分した結果ではないか。” http://t.co/c7juxC8NRn 『間引きと水子 子育てのフォークロア』千葉徳爾・大津忠男<
JRF2018/3/308605
「老人や子供」というより「祭祀用家畜やペット」が「捨て扶持で暮らすもの」なのかもしれない。本人でなくとも誰かが愛して、それに生きていて欲しいと願いできるだけ捨て扶持が常にある状態を維持すればいいということだから。まぁ、この先は、基本的には働くなった「老人」をイメージしているが、ちょっと露悪的なイメージにしている面もある。
JRF2018/3/305074
……。
上の「共同体モデル」と違い、通常のミクロ経済学的「自己責任モデル」の場合、破綻があったとしても、価格を上げれば需要が下がり、供給と釣り合うと考えるのが基本となるだろう。土地の状況によって、地価が変わるというのもそのセンの話だ。需要と供給のメカニズムで貨幣という考え方も必要になるかもしれない。
自己責任モデルでも、社会でできることは結局、共同体モデルのままではないのか?
JRF2018/3/303916
自己責任モデルの場合、「捨て扶持」は政府によって確保されると考えるべきだろうか。社会の「保険」が必要になる。多く生産した者が多く取るのが基本となるだろうが、土地の収量など「運」によって違いが出るから、努力が正当に評価されるよう税を取って調整する。その「税」が「保険料」ということになるだろうか。
JRF2018/3/306226
自己責任で破綻に対応する場合、破綻のリスクに応じて、金利を取るということは合理的だろう。これは社会の「保険」とは別で、破綻したその者を救うことはない。その者は(夜逃げしたあと)人足などになって別の収入源を得ることになるが、破綻のしわ寄せはまわりまわってどこかの「捨て扶持で暮らす者」を一旦は減らすのだろう。
JRF2018/3/304750
金利を得る前には貸出が必要で、その貸出によって捨て扶持で暮らしていた者がそれを買うようになる。金利が払えるためには、また誰かに貸出がなされて、それがまわってこなければならない。破綻がどこかであったとしても、また、他で貸出がなされて捨て扶持が買われねばならない。金利が存在しうるということは捨て扶持が存在することを意味するが、金利で暮らす者自体が捨て扶持で暮らす者なのではなく、将来金利を受け容れられるある者の存在が別にあるということだろう。
JRF2018/3/305113
税として引き上げられた「捨て扶持」は、役人が働く原資とするために商人が買い上げねばならない。値段が下がることを恐れて市場では売れず、破綻した者が再度、働ける者となるまでのつなぎとしての扶持となる。次に破綻があれば、そこから死者が出る。これは「老人」とは限らず、貯蓄なども影響し、「渡世人」が奪い合って死ぬ場合もある。…とすると少しリアリティがあるか?
JRF2018/3/304730
「捨て扶持で暮らす者」は「老人」かもしれないが、捨て扶持がなくなって死ぬか退場する者は「老人」とは限らず、一般の中から「選ばれる」…とする。
JRF2018/3/306584
需要が減ると品質の悪いものから順に供給されなくなる。しかし、借金取りが、なんとか金にするような働きもあり、その場合、情報コストを金利を払うものが余計に払っているということになる。それは情報資本があるから、そのコストを安価に出せるということ。リスクを軽減するために情報資本という社会資本ができているとみなせる。そこに政府が協力する余地があり、金利の存在を是認できる。捨て扶持で暮らす者の存在がリスクを軽減していることになる。…と思う。
JRF2018/3/309672
なお、マルクス経済学で、労働による剰余価値が本来のもので剰余価値率は一定なのに対し、利潤は後に資本家間で調整されたもので利潤率はそれぞれ異なるといった議論があるが、それと金利と捨て扶持の関係は似ているのではないか?…とちょっと思った。捨て扶持として必要な量はものによって違う。しかし、それで暮らしあう者が融通するためには一定の金利という基準が必要で、この部分、剰余価値が一定で、利益が別というののちょうど逆じゃないか?
JRF2018/3/305212
……。
生産人口が増えるとき、徐々に生産が難しいところで生産が行なわれていく。生産が余剰分を持たない上に、破綻のリスクはこれまで同様かそれより大きいところで生産が行われるようにもなる。それでも質の悪い物は生産できているかもしれないし、その者が次に他で働くときに経験を活かせるという点で、通常の意味での生産力は増えていなくても「潜在生産力」は増えるのかもしれない。
JRF2018/3/305609
しかし、それが「捨て扶持」を増やす行為ではないのは、自らが捨て扶持を得ていたところから、それを買い、「捨て扶持」をそうでない「普通の生産物」に転換しているからではないか。それにより社会の再生産も許されることになる。
JRF2018/3/309323
生産する場合でも、破綻のリスクが減らせる生産はありうる。捨て扶持で暮らす者が増えることだけがリスクを減らすというのはやや不自然だ。しかし、モデルを簡単にするため、破綻のリスクも働く者の生産では変えられないと仮定する。
JRF2018/3/306635
そう仮定すると、捨て扶持で暮らす者が減ることで、少し遅れて捨て扶持が必要となるリスクが上がり、実際、破綻が起こって、ますます捨て扶持で暮らす者が減るスパイラルが起きるとできよう。
JRF2018/3/305245
逆に捨て扶持で暮らす者が増え過ぎるリスクとは何か? 働いている者だけが再生産・すなわち人口増に貢献できるとすれば、全体の人口減がリスクになりそうだ。人口増と安定性のトレードオフ…。捨て扶持を使うような破綻のリスクは減るが、全体の生産が少なくなるので一人あたりの捨て扶持が少なくなり、それはそれで捨て扶持で暮らす者の減るリスクは上がる…とすべきか…。
JRF2018/3/309288
「老人」すなわち捨て扶持で暮らす者の増減はどうなるか? まず、捨て扶持が必要となるなどして死ぬ確率が上がったときに「自然死」することで減る。捨て扶持が増えたときは増えるのではないか? 新生児など人口増のとき、相対的に…割合が減るのではないか。
人口増があるが破綻のリスクが多い多産多死社会。安定的だが、死者はそれなりに出て人口増のない少産多死社会。多産多死と少産多死の間に中産中死の領域があるのではないか?
JRF2018/3/307434
……。
少し数学的にモデル化しよう。
人口を p で表し、働いている人口を w、捨て扶持で暮らす人口を p - w とする。再生産すなわち子供を生むのは働いている人だけで、年率 a すなわち a * w の新生があるとする。
JRF2018/3/308813
捨て扶持で暮らす人の割合が少ないと、破綻のリスクが増える。逆にいうと、働いている人が多いと破綻(で死ぬ人)のリスクが増えるということ。(ただし死ぬ人は、破綻する人とは限らず捨て扶持で暮らす人かもしれない。上で書いたように一般の中から「選ばれる」。)それを割合 b を使って b * w だけ年間死ぬとする。それとは別に自然死というのはあって、割合 k だけ、すなわち k * p だけ死ぬとする。
JRF2018/3/300565
すなわち Δp = a * w - b * w - k * p と考える。人口を単に増やしても死が増えるなら良くなく、「安定成長」が経済学において課題としよう。「社会の安定」が人口が増えも減りもしないことと考えると、Δp = 0 <=> w/p = k/(a-b) であるべきことがわかる。人口増すなわち Δp >= 0 のためには w/p >= k/(a-b)。安定成長が死が少ないこととするとΔp >= 0 でありながら b * w を最低にするような w … というのは結局、先と同じ w/p = k/(a-b) のこととなる。
JRF2018/3/305048
これは中産中死が存在するという予想と異なり、「少産多死」がすなわち「中産中死」に他ならないということになってしまい、具合が悪い。何か理論的に見落しがあるのではないか?
JRF2018/3/301291
まぁ、それはそれとして、w/p = k/(a-b) の意味を考えよう。戦争などで b が大きくなれば、w/p を大きくせざるを得ない。逆に b が小さくなれば働く人は少なく留めねばならないとなる。…まぁまぁ、常識的な結果でしかない。
JRF2018/3/303869
……。
貸付について少し詳しく考える。
「破綻の可能性のあるところに貸し付ける(投資)」と「破綻したところに当座の資金を貸し付ける(資金繰り)」の二つの貸し付けのパターンがある。
JRF2018/3/300096
破綻すれば捨て扶持を誰かが使うことになるので、そのリスクを増やさないためには、破綻が貸主にとってもペナルティとなる必要があるがそうなっているかが問題となる。
JRF2018/3/303812
「資金繰り」の場合、破綻で儲かることになる。これでは貸主は破綻を望むと見られてもしかたがない。この場合は、一方で、預金を受け、破綻があれば預金が減るため商売的にうまみが少ないとなる銀行業にすれば、問題が少なくなるのではないか?
JRF2018/3/304623
「投資」の場合、破綻によって損をしないように十分な金利をとるわけであるが、破綻がないほうが儲かるようになっている。こちらは問題は少ない。
JRF2018/3/308500
「投資」が高利貸しに、「資金繰り」が銀行に対応するのかと思うが、実際の業務は逆のように思われる。銀行が投資的資金を出して、雨の日に傘を取り上げる=資金繰りに積極的でないように思われる。また高利貸しは、資金繰りに金を出しながら、破綻にまで追い込むことで身ぐるみをはがそうとする印象がある。これらは、すべきでないから目立つのか、何かがおかしいのか…。
JRF2018/3/307895
現金を貸し付けて物を買わせることから、貯蔵資産に対する需要を少なくしている(貨幣価値を下落させている)のではないかと少し考えた。しかし、返す段階になれば、現金を強く欲するようになるという点では、中立または未来に向けて現金の需要を確保していると言えるだろう。
JRF2018/3/302212
「投資」は w/p = k/(a-b) の式においては、a を増やし b を増やし、場合によっては k を減らそうとしている…というよりは、w を増やしているだけと考えるべきか。投資により所得が増えるというのは、すなわちこの w が増えていることを差すのだろうか。一方、「資金繰り」ではこの式はどういうことになるのだろう? w が減ろうとしているのを踏み留まらせている…ということではあるのだが、k が増えようとしている…というよりは p が減ろうとしていると考えるべきか。
JRF2018/3/306386
……。
……。
以上が、このところ考えていたところである。手元のメモにはまだいろいろ書いてあるが、とりあえず書き残すべきことはここに書いたかな…と思う。ここまで我慢強く読んで来られた方がいるとしたら、おわかりのように中途半端なところで終っている。しかし、長く思考に時間を使ったが、これが私の今のところの限界と認めるしかなかった。
JRF2018/3/305235
中でも、金利と捨て扶持をつなげるところの議論は、自分でもよくわかっておらず、勢いでこじつけた、すなわち「ごまかした」と言っていい。申し訳ない。
JRF2018/3/305090
今回、超高齢化で働く人が相対的に少なくなるのを肯定的にとらえられないかという思いもあって思考していたが、道半ばで終るしかなかった。残念だ。誰かが続いてくれるなら、それに勝る喜びはない。(まぁ、いないだろうが…。orz)
JRF2018/3/308291
……。
「捨て扶持」理論ともいうべきものをこの二ヶ月半ほど考えていた。Tweet Sig を作った([cocolog:88703123])あと、考えはじめ、その途中で、『経済原論』を読み([cocolog:88932382])、価格弾力性について考えた([cocolog:88972860])り、基礎経済学のシミュレーションを作った([cocolog:89067097])りしたのだった。
JRF2018/3/302446