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「ゲームは死後、むくわれる」? (JRF 6912)
JRF 2018年7月20日 (金)
しかし、それから数十年たってこう言わざるを得ない。「ゲームは役に立たなかった。」もちろん、幸運な例外はあろうが、ほとんどの人にとってそうではないか。
我々の世代も老境にさしかかり多かれ少なかれ呆けていく。その認知の歪みを緩くして、心の平安を取り戻すために、「ゲームは死後、報われるのだ」という信仰を採用するのはどうだろうと考えてみる。ただし、それは、この後続く者にとって、今後より一層ゲームにはげむようにする方向にはしない。もちろん、若者達がゲームを役立てられる社会にするなら、それを阻む理由はないが。
JRF2018/7/206738
……。
「ゲームは死後、報われるのだ」というところを進めてみる…。
ゲームは現世には意味はないし、来世への影響は中立だ。ゲームをやってたからといってすぐに地獄行きというわけではない。ゲームばかりやって人生をおろそかにするような人間は地獄行きと決まるものかもしれないが、ゲームをやりながらも天国に行く人間はいくらでもいる。もちろん、ゲームをやったから天国に行くということもない。
JRF2018/7/205381
天国に行った者は、ゲームの記憶を通じて手引きできる。地獄に行った者はゲームの記憶を少し違った形で記憶していて、それに関しても苦しんでいるとする。しかし、それを蜘蛛の糸のように使うことができる。
…などととしてはどうか。
JRF2018/7/205046
そして、[cocolog:70803146] で儒教と遺品の関係を少し考え、直近の [cocolog:89675814] でレトロゲームの経済を考えたが、煉獄にいる家族を祈りなどで導くようにゲームを状態良く残すことで、死後のゲームの記憶の共有を促すことになり、追善供養になるだろう。
JRF2018/7/200805
また、↓や後述の小説で述べたように、コスチュームをまとったキャラで対戦することを祭や神事としていくことで、特別な者はゲームをしてもいいと社会に認めさせるという方向で、ゲームへの支持のベースを作ることができるかもしれない。
《Virtua Fighter 5 FS コスプレ:七曜 編》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2012/12/post-1.html
または、ゲームはお経のようなものかもしれない。それがなければ救われないということはないが、それをすることで徳を積むのである。
JRF2018/7/202756
……。
私は今は寛解しているが、統合失調症という診断をしばしば受け、非現実的な妄想を抱くことがある。その中の一つで、ゲームの中に多神教的神が封じられ、ゲームがされるごとにしばし復活すると妄想したことがあった。(そのようなことは↓の小説にも書いた。)
《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970
JRF2018/7/205034
死後にも夢を見るとしよう。死後だから現世のものよりはより意味を含んでいるかもしれない。でも、夢だから天国や地獄に関係なく、ゲーム的で、まるで夢のゲーム世界に招待されるかもしれない。ゲーマーだった者は、そこで有利に働けるだろう。しかし、それは死後とはいえ夢の中のことでしかない。ゲームの中で他の神に祈ったり、涜神的行為をしても、その人にとっては、それはロールプレイでバーチャルなものでしかない。しかし、その世界に「封じられた」神にとっては違う。
JRF2018/7/203084
ゲームは遊び。遊びは神への感謝である。ゲームに封じられた神がどう思おうと、本当の神は、それを遊びとして、感謝として受けとる。
…などというのもどうだろう?
JRF2018/7/202457
……。
[cocolog:89600026] で述べたが、>ゲームをしたからリアルでいいことあった…なんていらない。ゲームがそもそも人生<なのである。
ネットなどソーシャルな側面は、死後の社会の反映と考える。実際は、ゲームプレイに欲しかったのを死後にうつして理想化するのであるが、説くときは、逆に説こう。
JRF2018/7/203654
……。
逆に宗教色を嫌う人、確固たる宗教を持っていて異教的要素に困惑する人もいるので難しい部分はあるが、こういう考え方もできるかもしれないという仮想性が意味がある…ということ。「仮想性が意味がある」とすることはゲームそのものへの評価につながる。ここは大黒学氏の「すべての宗教はフィクションである」というのと少し似ているかもしれない。あれも時代の要請なのか…。
JRF2018/7/206763
それはどうあれ、きっと私より何倍もすごい方が現れて、私が仮に考えたようなことより、すごい考え方をもたらすことと思う。私のは私自身が信じているとも言えず、一思考実験として、話半分にお受けとりください。
JRF2018/7/209967
ゲームは現実にほとんど役に立たない。が、なぜかおもしろい。
昭和(後期)のころは大人たちが、「努力が報われる」というということを子供に示そうとしていて、将棋などの「遊び」も極めれば役に立つのだという観方を提供していたと思う。そんななかコンピュータゲームが出現して、「こんなにおもしろいものが、役に立たないわけがない。」と私なぞは信じたものだった。
JRF2018/7/203229