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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、マーガレット・アトウッド『侍女の物語』、愛川純子『セクシィ仏教2』を読んだ。前二者は生殖に関するディストピア SF 小説で、後一者は、女性にまつわる仏教説話を載せた新書。 (JRF 0203)
JRF 2018年12月14日 (金)
ネタバレせずに書くようなスキルは私にはないようだ。ネタバレをある程度するのは、ご容赦いただきたい。
JRF2018/12/148792
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『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ 著, 土屋 政雄 訳, ハヤカワ epi 文庫, 2008年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4151200517
https://7net.omni7.jp/detail/1102616658
原著は、Kazuo Ishiguro『Never Let Me Go』(2005年)。訳は一旦、2006年に早川書房から単行本で出たらしい。
JRF2018/12/146651
「わたしを離さないで」というタイトルが逆に示唆するように、希望がするすると腕をすり抜けていく感覚…。
臓器提供者になるため「だけ」に生まれる医療用(クローン)人間達の物語が、そのうちの女性主人公の一人称で語られる。脳をつぶし人格をなくし…という方向ではなく、あくまで人格を育てながら、残酷な「人生」を歩ませる。その倫理的な問題を深く問うでもなく、ただ抑制されたタッチで感情に訴えてくる。
JRF2018/12/143098
ディストピア「SF」というものの、舞台は未来ではなく、子供時代にカセットテープやウォークマンが出てくるような現在に近い過去の話として描かれる。我々の現実世界では医療の実験が見えにくい。治験はどこかで必ずなされているが、健康な普通人にはその正体を見きわめがたい。そのスキを突くことで、すでにこのような臓器提供が行われていたとしても不思議はないというリアリティを感じさせる。実際、現実世界では、臓器移植などのために子供を生む「救世主兄弟」が知られているが、この本ではそれと違って臓器提供者は生き残ることが想定されていない。
JRF2018/12/141378
豚を操作して人の内臓を作らせるという話もあるが、私はその豚が何らかの形で食肉として出回ることに…、「この豚肉がそうではないのか」と恐怖することがある。豚肉を食べるのとその内臓を移植することに倫理的に大きな違いはないとは思うが、遺伝子レベルとは言え、人の一部を移植したものを(再)摂取することには強い抵抗を感じる。豚の中に人の「霊」があるのかと言われれば否定するしかないが、その線引きは難しい。
JRF2018/12/144135
その「線引き」の一種なのだろう、この本の臓器提供者は、子供が産まれないように操作されているそうだが、セックスはできる。まるで失ったものを求めるかのようにセックスが話題の中心になるのはしかたがないことかもしれないが、私には枝葉末節に思え、正直辟易した。現代の小説にセックスの話題が多いというのは未来においてどう映るのだろうか?
JRF2018/12/140208
再び会った「先生」の言動にショックがあるというのは、彼らでなくても普通のことだろう。生徒にとって先生は一人でも、先生にとって生徒は多くのうちの一人でしかなく、先生は、生徒の将来を考える以上に社会と闘う大人でもあり、その側面は生徒には隠されていることが多い。このあたりは普遍性がある…というか、物語のリアリティを形づくる一つの要素なのかな…と思う。
JRF2018/12/149493
私はこの本が臓器提供者の話だというのは、読む前に背景知識として知って、だからこそ本を手に取った面がある。でも、そういうことを知らずに本を読みたかったという人がいるのは理解できる。でも、そういうことを知らずにこの本を取る人はタイトルからありきたりな恋愛物などを求めがちで、それが、このショッキングな内容に触れるというのはそれはそれで落差があり過ぎると思う。そういう意味では、ノーベル賞で話題になったがゆえにプレゼントなどでこの本を手に取ったならば、それはとても幸せなこの本との出会い方だと思った。
JRF2018/12/143410
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『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド 著, 斎藤 英治 訳, ハヤカワ epi 文庫, 2001年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4151200118
https://7net.omni7.jp/detail/5110208743
原著は、Margaret Atwood『The Handmaid's Tale』(1985年)、訳は一旦、1990年に新潮社から単行本で出たらしい。
JRF2018/12/146830
1985年から未た近未来にクーデターのようなことが起こり、1985年までに進んだ女性解放の反動なのか、女性を経済から排除した体制の国「ギレアデ共和国」が誕生する。さらに原因がいまひとつ不明な産児の異常等により、子供を産むことが困難になり、強固な男性支配の体制の中、妻の他に「産む機械」としか期待されない「侍女」と呼ばれる女性の階層ができる。主人公は侍女の一人で、基本、一人称で物語が語られる。
JRF2018/12/148423
侍女は妾と違い、性的な喜びを持つことは禁止され、男性もそれとまじわるときは儀式として快楽をあまり得ないように、ことがなされる。キスも禁じられている(p.177)。侍女は本名を名乗ることも禁じられ、男性の所有物としてのみ扱われることになる。…というディストピア SF。
JRF2018/12/147488
主人公は、クーデターから時を経ない世代で、クーデター時に結婚していて5歳の娘もいた。クーデター時に逃亡を図ったが捕まり、家族バラバラにされ、主人公は侍女の境遇に落された。それから時間の経過がわかりにくいが、33歳になって「現在」に致る。子供を産む機械としての役目もそろそろ終りが近付くこと、老いた女が社会から捨てられることが示唆されているが、主人公は基本受け身でそれほど焦っている様子はない。
JRF2018/12/146689
教育係の女性はこう主張する。
>「自由には二種類あるのです(…)。したいことをする自由と、されたくないことをされない自由です。無秩序の時代にあったのは、したいことをする自由でした。今、あたながたに与えられつつあるのは、されたくないことをされない自由なのです。それを過少評価してはいけませんよ。」<(p.54)
JRF2018/12/142517
ギレアデは他国と戦争状態にある。戦争だから男社会になるのか、男社会にしたいから戦争が必要なのか…。
JRF2018/12/148070
《ロージナ茶会 JK 国立院 旭霜 (白田秀彰):Twitter:2018-12-11》
https://twitter.com/RodinaTP/status/1072414058786242561
>なんども書いてるけど、国の指導者層は、自分達より下々が優れていると統治しにくいので、馬鹿にしようとする動機をもってる。馬鹿がより馬鹿を作るのでは国が滅ぶ。だから指導者層には最も優秀な人たちがついていなくてはならない。<
JRF2018/12/149157
部下に優秀さを求めるようになる状態の一つには「戦争」がある。「競争」ではいけないのは、「競争」ではその審判者となる上のクラスがあるということだから、そこが腐敗するから。一方でロージナ茶会の白田氏の過去の TL にもあったが、民主主義が兵隊を強くする面もあり、「戦争」を一方で求めながら、ファシズムにはならないという指向もありうる。最近ではあやしくなってきているが、女性が社会に参加することでより効率的で「強い国」を目指すというのが男社会の論理としてはあると思う。人は戦いのためのみに生きるべきではないと私も思うが、多くのうちの一つの原理としては認めざるを得ない。
JRF2018/12/143331
(ちょっといってることは違うが、「なぜ人を殺してはいけないか」にいくつか原理を並立して語っている論考を以前した(↓)。同じようにいくつか並立する原理がある中に「戦争」の論理も社会を構成する一要素だとは思う。)
《なぜ人を殺してはいけないのか [ JRF の私見:税・経済・法 ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html
JRF2018/12/149608
侍女の逸脱は、その管理者の管理不行き届きとなるという点で、大家族は一蓮托生…というのは、この物語にかぎらず、現実においても家族の関係にはありがちなことかもしれない。一方、家族だからこそ知られたくないようなこともある。人の関係は複雑だ。
男が彼の地位にとってはささやかな冒険をして、それに女が巻き込まれる。男の子供っぽさ、想像力のなさが現れているのかもしれない。一方、著者が男をそういうものとして見ているという側面はありそうだ。「冒険」は好まないが、自己の拡張をなしくずし的に行おうとするのが女性というのもある種のステレオタイプではある。
JRF2018/12/142311
この本で、男は、侍女を物として扱う。私は、好んでそればかり読むわけではないが、レイプ物のポルノがあればそれも読む。そのとき、男にとって都合よく扱える女を空想するわけだが、「女性がどう思うか、その人格はどうなるのか」という視点はそのときは失なわれている。女性とまともに付き合うならば、そういう「めんどうくさいこと」も考えねばならない。それをやっている「普通の男女」はすごいと思う。パートナーでは、ときに親や子のかわりとなり幻想をうまく処理しているという面はお互いにあるんだろう。
JRF2018/12/146323
それが、この物語のように一夫多妻の特殊な関係になると、うまく再構築できず、部分的に所有権に似た物で補うというのはありがちだ。
JRF2018/12/147868
侍女は文字を読むことも許されない。「母」は教育に必要なものだが、それは「妻」など侍女以外があたることになるのだろう。実親がどういう人物かというのは子供にとって重大なファクターだと思うのだが、その辺りをあまり考慮しないことは 1980年代までの伝統的な雰囲気の中にもあったことだろうか。現代では DNA 検査等ができて、良くも悪くも「生まれ」が人に与える影響の大きさもわかっている。父親がえてしてわからないことがあるというのがこの物語の大事なラインだが、そういうのは現代では通じない。その点、少し古さは否めない。
JRF2018/12/140377
現代なら、人工知能(AI)が人を超えることで「生まれ」の差異程度では大きな違いにならないことに望みをかける形になるのだろうか。AI に侵食されないために、頭脳エリート層も含め、すべての人が多様性を気にかけ、AI を上層として「競争」する展開になるのだろうか…。ただ、コンピュータの登場以来、それを加味して社会を作ることは現在進行形でなされており、これまでと本質的に違う何か(シンギュラリティ?)がすでに起きたか、これから起きるかと言われると難しいかなとは思う。
JRF2018/12/148121
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『セクシィ仏教2』(愛川 純子 著, 田中 圭一 絵, メディアファクトリー新書 060, 2012年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4840148600
https://7net.omni7.jp/detail/1106214520
JRF2018/12/141839
『セクシィ仏教』1巻は [cocolog:89975483] で読んだ。ちなみに絵の田中圭一が本では「著者」としても挙げられているのは、一応マンガだからか? 著者を重くするのは著作権を不必要に重くすることにつながるので、火事場泥棒的な出版社の策略(?)に乗らず、私は「絵」と書いておくことにする。
JRF2018/12/148350
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仏教には「変成男子[へんじょうなんし]」という説がある。女性は一度、男子に生まれ変わってからでなければ成仏できない…という考え方。この本では仏教の女性蔑視の考え方はちゃんと紹介しているのに「変成男子」はなぜか載っていない。でも、この本を読んで、そのことについて考えたので、私は言及しておく。
「変成男子」がどうしても女性蔑視的に読まれるのは避けられないにしても、今の時代は、もう少し哲学的に解体して、予定説的な言説にできるのではないか…と思う。
JRF2018/12/140775
まず、「悟り」というものが早く得られることが良いこととは必ずしも言えないのではないかというところをスタートとする。確かに、様々な因縁により色々な生を経てなかなか成仏できないよりは、今生で成仏を遂げることは良いことであろう。しかし、悟りを開いたお釈迦様はそこですぐに入滅なさらなかったことは、悟りを開いた後の生、成仏が決定したあとの生も何がしかの意味がある、特に周りの他の生に対して意味があることを示していると考える。
JRF2018/12/149382
大乗仏教からみて「小乗」とさげすむとしても、当の上座部仏教では大を尊ぶとは限らないように、「悟り」が早いことが良いことと考えるのは、ある種の人々の価値観の吐露に過ぎない。悟りがいずれあると決まることは大事で、そこから道を逸れないとしても、いつ悟るかは運命みたいなものにまかせれば十分なのかもしれない。
JRF2018/12/143377
女性は、今生で成仏が決まらないのは、来世で成仏できるほどの因縁を積むその忍耐力が期待されてもいるからではないか。その残りの生で菩薩のように周りに良い影響を与えることができると考えるのである。
浄土に往生(転生?)するという場合、それは即ち成仏となるのか、そこで成仏するのか定かではないが、この世に再び生を受けるに相当するあり方をするなら、そのとき男の姿を必ず一度はとるのが必要なのかもしれないが、成仏後と目される姿が必ず男であるとは限らないだろう。
JRF2018/12/142504
今生で女性が成仏に近付くことによって、次に転生してきた男性・または(成仏はもっと先でも良いとして)もう一度女性として転生することを選んだ女性が、人間の世界において善行を積める。そういう男女はある意味成仏に選ばれている・予定されている。…として予定説的果実を受けとることができるのではないか。
JRF2018/12/140945
(予定説については私は↓で書いているが、選民思想的エリート意識により罪を犯しにくくなる効果などがあるとする。)
《義認説と予定説》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_4.html
JRF2018/12/149605
(↓でも予定説的な効果を取り入れることを説いているが、今回はそれとは別の道を通っての取り入れ方と言える。)
《仏教への教義:四諦の独自解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html
JRF2018/12/140958
我々が見る世の中には成仏が約束された生がある。ただし、その約束は「他者」である自分の行動の結果であるというのは、予定説よりも踏み出したところか。
JRF2018/12/145356
もちろん、男性だって悟りが遅くてもかまわない。この本にも、悟りが遅いアーナンダがいる。でも、そういう者はえてしていつまでも悟りを先に延ばし衆生を助ける側にまわろうとしがちである。それはそれで苦であるとして、悟りが早いことを良いこととしてもいいよ…男というのはまず自分を救おうとしがちだよ…というのを方便で示したのが、「変成男子」なのではあるまいか。
(…と言ってみるテスト。)
JRF2018/12/146750
なお、方便ではなく真理だとすれば、変成してきた男子は確実に大量にいるはずで、じゃあ、その現実の男子を見てどう思うかという問題はある…。(^^;
JRF2018/12/141924
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p.113 に乳房が巨大になってしまった女の霊の話が出てくる。女性も赤ん坊の頃はおっぱいを吸うので、「巨乳」好きは女性でも理解はしやすいのだと思う。一方、女性はおっぱいをあげる側にまわらねばならず、その点、おっぱい好きを「子供っぽい」と見る視点も自然なものとなるのだろう。
JRF2018/12/141631
男性から見て、子供を愛する女性は良く、子供っぽい自分を愛してくれる女性はいい…という反面の女性の側の性の倒錯として、子供を産んだのちに性欲が抑えられないという状態があるのかもしれない。案外ホルモン的、動物的なものではないかという予感もあるが、それが性の苦しみとしてあることもあることを、この本は教えてくれてるのかな…と思う。
JRF2018/12/141007
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p.128 以降、嫉妬で蛇になる、一部が蛇になる…話がある。女性は浮気した男性よりも浮気相手の女性を恨みがちという話もあった。男性側の性の悩みと言えば、好色になりがちだが、女性の側は嫉妬が大きい感じで、違いがあるなという気はする。性に関する執着は中期的には女性のほうが目立つのだろう。長期的には男のほうがしつこそうだが。
JRF2018/12/147252
p.146 の『とはずがたり』の男性遍歴のあと仏門に入って煩悩が抑えられるというのは女性ならでは…という感じが私にはする。子供を産む時期と、「さんざん産み終ったあと」の生というのは女性の中で大きな違いがありそうに思うが、そのあたりの「偏見」は晩婚化の進んだ今はなかなか言い辛い感じ。
JRF2018/12/145656
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これでも一応、配慮はしているつもりだが当然、十分ではないだろう。私のようなキモいモテない男にとって女性問題は特に難しい。
JRF2018/12/141350
ディストピア SF 小説は、ずっと以前にオーウェル『1984年』([aboutme:123256])、最近にブラッドベリ『華氏451度』とハクスリー『すばらしい新世界』([cocolog:89997835])を読んでいる。『わたしを離さないで』は、それら文庫に宣伝が載っていて興味を持った。また、タイトルからはディストピア小説とはわからなかった『侍女の物語』もどこかの Tweet でそうだと知って興味を持ち、たまたま同時に購入。同時期に中古で買った『セクシィ仏教2』とあわせて、女性に関する問題を少し考えることとなった。
JRF2018/12/141752