cocolog:90689746
福田歓一『近代民主主義とその展望』と『近代の政治思想』を読んだ。AI とベーシックインカムの組み合わせをディストピアと見る思想。私は、Twitter とか政治への参加は現代的な形で模索されているので、そこまで絶望的ではないと思うのだが…。 (JRF 4062)
JRF 2019年2月15日 (金)
中古で購入したため、ところどころ蛍光ペンで線が引かれていた。その印と私が抜き出そうとしたところが一致することもあればそうでないこともあったが、今回抜き書きした以外にもこの本には「大切だ」と思えるところが多く、いつか再読せねばならないと思わせる本だった。
JRF2019/2/154660
1977年だと中国の文化大革命が終ってすぐでまだ実態が十分伝わってないということなのか、毛沢東思想をほぼ激賞したりしているところ(p.182-184)なんかは、時代を感じさせるが、基本的に、それ以前の歴史に立脚して論を立てているので、議論が古びていないと思う。
JRF2019/2/151406
……。
>民主主義という言葉は、戦後三十年のうちに、はじめの強いアピールをすっかり失ってしまいまして、戦後民主主義は虚妄であった、とまでいわれるようになったのであります(…。)<(p.1)
JRF2019/2/155225
1977年の段階でそうなんだね。ベルリンの壁崩壊は、「民主主義の勝利」というよりは「資本主義の勝利」ということで、その後は軍事介入があまり民主的になされなかったり…と、精神的な幻滅だけでなく現実の問題を突き付けられている面はある。しかし、ほとんどの国は「民主主義」であろうとし続けているのも事実。まぁ、この先の時代、AI の時代・少子の時代になって、民主主義のオルタナティブを探る動き(参:[cocolog:90657239])も出てくるのかもしれないが。
JRF2019/2/150801
……。
>(…)ワイマール憲法は、(…)社会権の保障の条項、たとえば有名な「所有は義務づける」という条項さえ備えていました。<(p.6)
「所有は義務づける」をググると「所有は義務を伴う」のことだし、納税が義務付けられていることだという説明が出てくる。それが社会権の保障とどう絡むのだろう? 社会主義的な規定ということだから、社会のために所有を役立てねばならない…通常は所有からのあがり(の一部)を納税する…ということだろうか?
JRF2019/2/153212
……。
>第二次大戦後には、資本主義も自己修正を試みて、苦しみながらではありますけれども、時とともに自信を持つようになった。とくに植民地解放という宿題にけりをつけながら、しかも高度資本主義国相互の間で繁栄をもたらすことに成功いたしました。<(p.11)
なるほど。植民地が経済社会の大きな部分を担っているという意見もあったんだろうね。だから、それが抜けることには大きな不安もあったのだ…と。これは私は迂闊にも持ってない視点だった。
JRF2019/2/152477
理論的には、植民地なしでもやっていけることがわかっていた…ということかもしれないが、その理論を私はこれと指摘できないな…あるとしたら、どこにその理論があるのだろう?
JRF2019/2/151390
……。
>(…古代ギリシアのポリスでは…)このように公職の選任に抽選が使われたことは、自由民の間には一切の差別をしないことであります。抽選は完全な偶然であって、有能無能さえも問わないからであります。治者と被治者とが同一なるものという民主政治の実質を保障したのがこの制度であって、だからアリストテレスは、「抽選こそは民主政体の特徴である」と申しました。したがって選挙は、むしろ貴族制的な制度であるとされています。<(p.25)
JRF2019/2/157902
このあとイギリスの例でも地主が選挙でほぼ選ばれるのが決まっていたとかいう例が出てきた。
以前、私は、衆議院・参議院議員選挙のとき、ある程度しぼったら後はクジ引きで決めることを勧めたことがある(↓)し、実際、そうして投票したこともある。それはある意味、原始的民主主義への回帰という側面もあったと言えるのかな…?
JRF2019/2/156612
[cocolog:88301140]
>私は [cocolog:85522171] や [cocolog:75002323] にも書いたが、あやふやな決定を瞬間風速に左右されないためには、サイコロのほうがランダム成分がある分頑強だと思っている。<
JRF2019/2/152050
……。
>抽選(…)にあたって(…政治や裁判に参加するとなると…)働く機会が奪われて、たちまち暮らしにひびく。そういう平民にも、なお政治に参加する平等な機会を保障しようとすれば、報酬を与えるほかないわけであります。ペリクレスはまさにこの報酬を与えることによって、参加の機会を保障したわけでありますが、そのペリクレスの時代に(…)スパルタ(…)に敗れてしまうわけであります。そしてこの敗戦以後の状態のなかで、(…)ソクラテスの弁明を聞きながら、しかもなお有罪を叫んだ人々は、だいたい報酬をもらって集まって来た平民でありました。<(p.26)
JRF2019/2/150295
そしてそれを見たプラトンは民主政体に敵意を抱く…と。
ベーシックインカムの議論を少し思う。納税と言えば消費税ぐらいの人々が裁判や政治にたずさわることに反感は起きないのだろうか…。社会の側に職を用意する責任はあるといえども、労働は義務で、働けないのはしかたがないというのがあって、やっと納税者は納得できるということではないのか…。だから、少なくとも、ベーシックインカムをやるなら、憲法27条1項の勤労の義務は改めないとダメだろうね。
JRF2019/2/159910
……。
>ゲルマン世界の中世は世襲的な身分社会でありまして、そこでは、法は圧倒的に慣習であり、もしつくられるときにはそれは身分間の契約だったのであります。したがいまして、立法、つまり法律をつくるという観念はきわめて薄かったわけであります。つまり、与えられた秩序そのものが法であり、たとえば、国王の権力というものもこの秩序のための一つの機関として考えられる。元来この慣習法を維持し、それを支えていくのが国王の役割でありますから、権力が法に服従するのは当然のことであって、法は権力への制限なのであります。<(p.39)
JRF2019/2/159678
自然法以外は身分契約といった感じなのだろうか。権力への制限を上の者が受け容れるのは戦争で戦って(死んで)もらう必要があるからなんだろうな。
JRF2019/2/156560
……。
>(…アメリカ…)独立後につくられました十三州をまとめる連邦憲法は、当時率直に語られましたように、デモクラシーの行き過ぎを抑えるという意図によってつくられた。(…)その根底に流れているのは、数において圧倒的に多い貧しい民衆に対する恐怖であります。<(p.48-49)
JRF2019/2/157944
フランス革命後しばらくは「民主主義」は貧民の独裁的政治を意味し、その言葉が好意的に受け容れられるようになったのは第一次世界大戦のあとだという。「民主主義」を実現したアメリカでさえ、その害は恐れられていた…と。
JRF2019/2/159343
……。
>レーニンは階級独裁が結局個人独裁になるという必然を知り、さらにその必要を隠そうといたしませんでした。『ソヴィエト権力の当面の任務』のなかでは、レーニンはプロレタリアートを、すでに存在するものとしてではなしに、まさに指導によってつくり出すものとして描き出しております。歴史上はじめての労働者国家は、まさにこういう権力者自身の自己変革と、権力者による規律の強制として生まれ出たわけであります。<(p.103)
JRF2019/2/154523
「ダブルスタンダード」はダメだと言われる。でも、「自分に厳しく他人には甘く」というのは当然そうあるべきだ。というのは、自分には甘くしてしまいがちだから、それぐらいでちょうどいいということがある。
JRF2019/2/156632
次に問題となるのが「自分」はどこまでがそうなのか、家族は…政治家にとって国家は…どうなのか…という問題が出てくる。「自分に厳しく」という原理を国家でやろうとしたのが上の「権力者自身の自己変革と、権力者による規律の強制」ということなのかな…と思う。レーニンの著作は他にも名前がいくつか出てくるが、おもしろそう…。
JRF2019/2/153968
……。
>ところで、古代の民主主義がすでにポリスという共同体を前提とし、その意味では政治社会それ自体は自明の所与として受け取ってよかったのに対しまして、近代民主主義の決定的な特色は、まさにそれが、まずもって社会を構成する原理であったというところにありました。このことが、実は自由・平等という新しい価値原理に密接するわけであります。<(p.113)
JRF2019/2/150387
>このことによって自由は、たとえば古代における自由とまったく違って、権力からの自由、権力の干渉を許さない聖域として、一つの積極的な価値になりました。<(p.114)
「構成原理としての近代民主主義」というのはここに来るまでにも何度か(p.61とか)出ていたのだが、よくわからなかった。ここの部分で少し見えてきたように思う。
JRF2019/2/155093
古代 → 集まって何ごとかをなしとげる自由があった。
近代 → 集団に属するだけで得られる(はずの)自由がある。
実際には集団が保障していて、集団に属さない者には与えられないのだけど、たとえば、それは「基本的人権」なので海外に出ていった先でもその外国に関係なく守られるべき権利ということにもなる。大航海時代を経た権利という感じがする。
JRF2019/2/154733
国があって人が集まっているというよりも、基本的人権を守ろうとするところに人が集まっていて、それがたまたま国になっている…という建前が、「構成原理としての民主主義」ということではないかと私は理解した。
JRF2019/2/157259
……。
>(…)ある社会に属するものとしてでもなく、論理的にはそういう政治社会に先立つ人間の生まれながらの権利、人間の自然の権利としたものは、実は十七世紀におけるイングランドの革命であり、その基本的なモデルになりましたのは、国教制度に反抗するピューリタンたちの信教の自由、内面の自由、良心の自由の主張でありました。(…ピューリタンという…)少数者の主張であったがゆえに、彼らの自由の主張は、他の人間の自由の尊重と結びつかざるを得なかったのであります。<(p.115)
JRF2019/2/155828
説得と討論が大事といっても、多数派からはそれを行うインセンティブが少ない。少数者こそが問題に気付き普遍的な一歩・偉大な一歩を踏み出さねばならないし、そうすべきだということなのだろう。いつもうまくいくものではないかもしれないが、理想はここにあるのだろう。
JRF2019/2/150980
……。
>参政権を行使して、個人が公共生活に参加することが、一人一人の人間の十全なる発達、自我の実現を果たしていくうえに、どうしても欠かせない条件であると考えましたのは、歴史の章で申しましたように、ジョン・スチュアート・ミルであり、ことにトマス・ヒル・グリーンでありました。この場合に、公共生活への参加が実質的な意味を持つためには、参加に必要な知識と情報を持つことが前提条件であります。さらに、参加にふさわしい活動の場がなければ無意味であります。
JRF2019/2/151527
(…)
だから思想の自由・言論の自由・出版の自由・集会の自由・結社の自由というようなものは、単に権力からの自由、民事上の自由として意味を持っているばかりでなしに、実は権力への自由、政治的な自由の前提条件としての意味を持っていることを忘れてはならないのであります。
<(p.120)
JRF2019/2/153563
思想の自由・言論の自由・出版の自由・集会の自由・結社の自由は、政治への参加を通じて、一人一人の人間の十全なる発達、自我の実現といった基本的な人間を作るために必要とされている…と。政治的でない者は亜人間である…といったところか。厳しいな…。
JRF2019/2/151721
……。
>トマス・ヒル・グリーンによって、国家がはじめて個人を超えた実体として描かれるようになった(…。…)それによって、自由主義、個人本位の思想を修正したのであります。たとえばジョン・ロックの場合には、私有財産は自然権であって、国権の最高機関である議会を通じても侵すことは出来ないとされていたのですが、私有財産を制約しながら、私有財産に一定の制約を加えながらでも、人間の間に連帯をつくり出さなければならないという主張が、実は現代の福祉国家に向かっていく道を開くことになったわけであります。<(p.121)
JRF2019/2/154162
個人個人の社会契約だけはダメで、国家の側が連帯を生み出そうとしないといけない。パターナリズムかもしれないが、そうしないと個人が発達しないことがある。…というのに似た話は、小島寛之『確率的発想法』([cocolog:90564871])で出てきた(↓)。
JRF2019/2/151301
>このミニマム・インカムについて、(…宇沢は…)貨幣で供給するべきではなく、「社会的共通資本」の安定的な供給を通じて保証すべきである(…と主張しました。…)貨幣による個人的な自由の享受は、個人的な論理を改善できず、個人の硬直性を総合した形で社会の慣性を継続させるだけかもしれません。しかし、社会的共通資本の供給は、集団的であり、また誰もその供給から逃れえないという公共財の性格をもつため、人々に個人的論理の過誤を気づかせる可能性をもっているのです。<
JRF2019/2/154495
……。
>(…)キリスト教の考えにおいては、この地上の人間にどんなに大きな差別があろうと、(…)違いは神の前にはまったく無意味であり、いわば無限大の前には、いかなる数値も意味を失うというのが神の前の平等であり、法の前の平等はこの神の前の平等が世俗化されて出てきた観念であります。(…)こういう平等は実質とはかかわりないという意味で、形式的平等という性質を持つわけであります。(…これに対し…)財産の不平等を打ち破ることによって、実質的にも平等を実現しようという試みは、はじめから民主主義と結びついておりました。<(p.123)
JRF2019/2/154373
神の前の平等については私は↓で記事にしている。
《神の前での平等》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_3.html
JRF2019/2/154273
アメリカは機会の平等を重視する国で今そこが覇権を握っていることもあって、財産の平等・結果の平等はないがしろにされがち。ただ、↓を書いたころと違い、IT革命なども終ったとみるべき時代になりつつあり、エリートのみが AI に関わるとなりそうな情勢で、「努力が実を結ばなくても受け容れるべきだ」という機会の平等をこのまま押し通すべきかと問われれば、私は否じゃないかな…と傾いている。
JRF2019/2/155535
《「結果」の平等、「機会」の平等》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post_2.html
JRF2019/2/153304
民主主義がやがて財産の平等も実現していくのか…。ある程度の平等というものでさえ、国際的な競争が難しくしているように思う。「世界政府」に問題があるとしても、AIという資本に課税が必要そうな状況で、「法人税」という名にするかは別として法人税や高額所得税を上げれない状況はなんとかして是正すべきだと私は思うんだが…。
JRF2019/2/151825
……。
>今日民主主義の制度化として受け取られているさまざまな機構は、前にも申しましたように、元来民主主義の理念とはなんの関係もない、さまざまの歴史的な遺産、とくに立憲主義の遺産に由来するという事情があります。したがって、今日民主主義の機構とされているものは、もともと自由とか平等とかいう民主主義の価値原理を実現するために、そういう目的で構成されたものではないのでありまして、せいぜいすでにでき上がっていたものが、そういう目的のために使われるうようになったというにすぎません。<(p.128-129)
JRF2019/2/152404
「民主主義のオルタナティブ」というか民主主義の制度の更新が必要なのかな…。でもそれって「世界政府」とか「インターナショナル」とかが必要で、無理筋でないか…という気はする。まぁ、まずは日本の場合は国連憲章から敵国条項を抜いてもらうあたりから始めるべき…ということだろうが。
JRF2019/2/150556
……。
>つまり専門の実技を習得した政治のプロというものが必要になっていて、その意味では素人の手にあまる。素人判断で片づけることが、必ずいい結果を生むという保証はないのであります。それはリンカーン流にいえば、確かに人民の政治であるかもしれない。しかし、人民のための政治であることもまた必要であって、そのためにはリアリズム、現実的な判断の能力が必要である。<(p.135-136)
JRF2019/2/151922
「人民のための政治」に、プロが必要であり、プロは「人民」のなかにいるものとする…という意味があったのか…。
JRF2019/2/156190
……。
>(…)特殊な要求を主張することは、民主主義に外れるのでしょうか。いや、現実に海が埋め立てられて、有毒ガスの出る工場が建てられるとなれば、そんなものには来てほしくないという要求の充足を切り落としたのでは、民主主義は形骸化するほかないでしょう。(…)近代国家が保障する自由の枠内にいつもとどまって、実力行使にまでは決していかないという保障も、またないのであります。
JRF2019/2/159210
(…)
一方では、運動がそれ自体一つの秩序を生んでいく、そういう努力を期待するほかない。しかし、同時にその努力と見合って、(…)抵抗をどう機構のなかに取り込み、機構を問題の解決に役立つものにしていくかという(…)努力がなされなければならないのであります。
<(p.158-160)
JRF2019/2/159035
「テロ」までいくとダメなんだろうね。バリケードやハンガーストライキはどうだろう? 私はそこぐらいまではありだと思うけどなぁ…。私もいつか闘う日が来るんだろうか…。
JRF2019/2/150928
……。
>(…)政治のほかに政治の及ばない社会の領域があって、そこでは、それぞれの人間が、自分の利害の最善の判定者として行動していけばよい。<(p.164)
以前、↓ということを書いた。
JRF2019/2/159955
[aboutme:109179]
>私は、単純小選挙区制は嫌いで、複雑な形式を推す。が、英米のような「実績」を見ると、単純小選挙区制にも良さがあって、それは、選挙というお祭りに金をかけても、選挙システムそのものにコストをかけない、議会の正しさなんて実は二の次なんですよ、という割り切りにあると思う。複雑な形式とは、決戦投票ありの二回投票制の小選挙区制や小選挙区比例代表「併用制」など。<
JRF2019/2/159241
要は経済こそが大事。軍事技術を買うにしても。…といったところ。政治が中心に見えがちだけどそうではない…と。
JRF2019/2/157604
……。
>(…)たとえば理性によって政治をコントロールしていこうとする場合にも、ギリシアの世界でプラトンが考えましたような、身分制の社会を構想するのではなしに、文字どおり、万人の理性を解放することによって共同生活をつくろう、という民主主義の理想が生まれたのであります。それが構成原理としての民主主義の意味であります。<(p.191)
「構成原理としての民主主義」という言葉、またわからなくなったぞ…。
JRF2019/2/159570
生産や家政(そうじ・洗濯など含む)を機械がかなり担うようになった。それがすべての人を奴隷から解放し、すべての人に「理性の余地」をつくるという側面も考慮されたのだと思う。それに十分応えるほど人々は政治的にならなかった…ということかもしれないが。
JRF2019/2/152510
……。
>ただ、この民主主義に根本的な一つの特徴、ほかに求めがたい長所があるとすれば、それのみが、人間の政治生活を営むうえに、人間の尊厳と両立するという一点であります。このことを忘れて民主主義を論ずることは、すべて無意味なことであると私は思います。<(p.208)
民主主義は治者と被治者が一致する…世襲の多い国会を見てそんなことが言えるかなぁ…。
JRF2019/2/153274
……。
……。
『近代の政治思想 - その現実的・理論的諸前提』(福田 歓一 著, 岩波新書 青版 A2, 1970年)
https://www.amazon.co.jp/dp/400410002X
https://7net.omni7.jp/detail/1100270317
上の本のあとに新品で買って読んだが、出たのはこちらが先になる。
JRF2019/2/153992
…… 。
>私のような年齢の者には、たしか日中戦争のころに聞いたおぼえのある「近代の超克」というようなスローガンさえ、また耳に入ってまいります。しかも、経済成長で自信をつけたせいもあるのでしょうが、このごろ日本では、ヨーロッパはおいてきぼりにされていてもう死にかけている。なんにも学ぶところがない(…)という意見がだいぶはやってまいりまし(…た。…)それなのに、何とこれを二つくっつけてヨーロッパの近代などと申しますのは、いよいよスマートな話ではない。<(p.3)
JRF2019/2/154391
ところが、2019年現在、日本はどんどん落ち目になっていて、ヨーロッパのように「踏み止まる」にはどうすればいいか…という視点も出て来かねない始末…。
JRF2019/2/154778
……。
>ご承知のとおり、(…)現実主義なるものは、政治を考えます場合に、力という契機を非常に重要視する。政治を動かしているものは力であって、けっして思想ではないという見解であります。(…しかし…)一つの軍隊のなかで、最下級の若い兵隊は、これを指揮しております年寄りの司令官よりも、強いにきまっております。(…)要員が組織としての規律に服すかどうか(…。)その軍隊を一つの組織として成り立たせている思想がなければ、そもそも、物理的な暴力装置としての軍隊というものは成り立たないというわけであります。<(p.5-7)
JRF2019/2/159905
軍隊は人間が構成している。だから、革命のときに中立や寝返ることを期待できたりする。軍隊を味方に着けるような現実的な言説こそが野党に凄みを与えるのであって、反対のための反対をして人気取りしているようなのは、選挙では少しは票を取るかもしれないが、権力者的にはちっとも怖くない・迫力がないということであろう。
JRF2019/2/158259
……。
>(…)政治思想の変革は、もちろん近代自然科学のもたらした大きな世界像の変化を背景として進み、とりわけ自然科学のつくりあげた自然の新しい見方が、古い社会像の解体に役立つのでありますが、同時にこれによって古い自然の観念から解放された人間の自由が確立し、社会の組みなおしが進むことが、新しい自然認識、自然科学の自覚化、方法化を支え、新しい世界観を貫徹する、という意味をもつのであります。<(p.23)
JRF2019/2/150635
科学が政治思想に与える影響は上の本でも考えた。逆もあるということだろう。このあたり技術者は過小評価し過ぎかもしれない。
JRF2019/2/155873
……。
>近代とはまさにそういう偶像崇拝をうちこわし、人間をおさえつけている事実のカラクリを見破ることによって開かれた時代でありました。<(p.25)
ところが、現代、AI は何がどうなっているかよくわからないまま使うという点でブラックボックス化する可能性が高い。再び、「偶像崇拝」に陥ることはないのだろうか?
JRF2019/2/157517
AI(人工知能)はブラックボックス的なので、人が意志の秘密を知る前に、コンピュータがシンギュラリティ(?)に達してしまい、意志の秘密がわからないまま、コンピューターが意志を持ち、コンピューター自身も意志の秘密を理解していない、または、人間だけが意志の秘密を理解していない…という状況はありえるのではないか?…と最近少し考えた。
JRF2019/2/156680
ただ、人工知能はトレース可能なものではあるだろうから、それが意志を持ったとき解析不能となるほどのものなどありうるか? コンピュターを道具に使わなければわからないとしても、理解可能なアルゴリズムで解析できないようなプログラムになりうるだろうか? …とは思う。
JRF2019/2/150157
意志には、時空の多重性において繰り込み構造がある…とか統合失調症のときに妄想したが、そうなら一つの次元に留まっている限り意志の秘密は解かれないわけだが、それにしては様々な動物が「意志」を持っているわけで、そこまで複雑な構造を持つか…とも思う。まぁ、現に人間機械論から長く時間がたっても意志の秘密は解かれてないわけで、いろんな可能性は残っている。
JRF2019/2/157578
……。
>中世に、「王様は人間の上にいる、しかし法の下にいる」といわれましたのは、つまり国王は伝統を破ることはできない。伝統にしたがった裁定、慣習にしたがった処理だけが、人に対して権威をもち、もしこの伝統を勝手に破ったならば、それは暴君であって権威をもたないという考えであります。<(p.43)
JRF2019/2/155020
>つまり、秩序はあらかじめ人間の手に及ばない「自然」として与えられているのですが、人間はそのなかにおける自分の地位を自覚して、そうして秩序に自分をあわせるところに、人間の尊厳と人間の理性の働きが見出されたわけであります。<(p.46)
上の本でゲルマンについての部分で同じことが述べられていた。
意外に現代でも、現代のエリート層・高額所得国際人の間でも、これは言えて、ローマ法やゲルマン法や神学に基づいた批判をすれば、効くんじゃないか…とか私は妄想することがある。
JRF2019/2/159929
……。
>(…ルネッサンスのヒューマニズムでは…)人間そのものが、(…教会…)の秩序に組み込まれた微小な存在として、ひたすら本分を守ろうとするのではなしに、人間が一つにはその感性を解放して、ありのままに人間らしい活動をはじめることを当然と考えると同時に、もう一つはかつては宗教のもとに罪深いものとされた人間のうちに、実は大きな自信、あるいは人間の尊厳という考え方が生まれたことであります。<(p.48-49)
JRF2019/2/155012
自由意志を重視する方向に舵を切ったということなんだろうね。
《自由意思と神の恩寵》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html
JRF2019/2/150272
……。
>(…ルネッサンスでは…)人間と人間とのあいだには、もはや秩序はくずれているわけでありますから、争いが絶えない。そして競争に勝った人間はのしあがって、そしてあらゆる自己の持っているものを伸ばすことができるけれども、それは反面において、競争に負けた人間がみじめに、かつて持っっていた安定を失って、け落とされているくという過程にならざるをえないわけであります。<(p.50)
JRF2019/2/153402
身分が固定されているままかもしれないけど、その中では格差がすごいことになっている。…と。そして格差を是正するのではなく、身分の枠も壊す方向になっていく…ということかな。それに耐えられないから、国ごとに分かれてそこで身分を再定義しようとした…ということなのだろうか?
JRF2019/2/154999
……。
「国」という言葉には、公共のものを意味するコモンウェルスやリパブリックと、権力や支配を意味するスタトがある…。
JRF2019/2/157637
>このマキアヴェリのような、スタト -- 国家という考え方をいたしますならば、国家の問題はひと言で申しますならば、支配とその手段の問題であります。(…この)暴力をいかに組織して、そして権力者が自己の権力欲を満足させていくかという観点から、政治というものを見、そのような権力支配の一つの機構として、国家というものを考えるという伝統、この考え方はまったく中世になかった考え方でありますが、それが一つルネッサンスの遺産として、生まれるわけであります。<(p.55-56)
JRF2019/2/157071
むき出しの格差に対し、どう政治社会を捉えなおすか、という課題に一方ではマキアヴェリが生まれ、もう一方では、トマス・モアなどのユートピア論が生まれたという。
JRF2019/2/154438
>モアの場合、(…)カムパネッラなどの場合にもそうでありますが、すべての悪の根源、現実の悪の根源として槍玉にあがりましたものは、象徴的にも私有財産であります。(…)このユートピアについて非常に特徴的なことを三つあげておきます。一つは(…)すべての人間が平等に、等しく肉体労働に従事する世界である(…ということ。…)人間のやる仕事のなかで、労働というものは、卑しい人間のやむをえずやる仕事にすぎなかった。それがすべての人間の義務になった(…。…)第二に、(…)万人に余暇が生まれるとされたことであります。(…)三番目には、(…)平和の世界でなければならない(…ということ。)<(p.58-59)
JRF2019/2/158729
社会主義がユートピア思想から出ている、その淵源はキリスト教的には『使徒行伝』のような初期キリスト教共同体なんだろうね。ユートピア思想については、モリスの『ユートピアだより』([cocolog:83220604])は読んだことがある。
JRF2019/2/158937
……。
>(…)宗教改革の出発点には、ルネッサンスとまったく逆に、人間の尊厳ではなしに、人間の徹底的な無力化が果されます。つまり人間は宗教的な意味で、自己を救済する力はない。人間に自己を救済する力がないとすれば、宗教的な救いはどこからくるか、それは神のみからくる。(…)それは教会制度を通じてくるのではなしに、直接に、人間の魂、人間の内面が神を求め、この神の恵みを受けいれたときにのみくる。つまり人間そのものの徹底的な無力化によって、逆説的にも人間の内面生活、目に見えない個人の良心というものが、思想的に絶対的な意味を持つようになります。<(p.62)
JRF2019/2/151791
このあたりは、↓の話。
《義認説と予定説》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_4.html
JRF2019/2/154668
……。
>(…絶対主義は…)実は国内においては、カトリックを厳格に信じさせておりましたフランスは、しかし同じカトリックである競争相手のオーストリアのハプスブルク家に対抗しますために、ドイツにおいては、プロテスタントを助けるというような、パワー・ポリティクスが仮借なくイデオロギー(…すなわち宗教…)を無視する面と、逆にそのイデオロギーゆえに、政治生活における闘争が、単にこの利害をどう決済するかといったことを越えた深刻な問題になり、内乱や戦想がせいさんな宗教戦争になる面と、双方を生々しく持っている。
JRF2019/2/153274
(…)
そこで政治思想にとっての絶対主義の問題は端的にいって、二つの問題つまり一つは権力の問題で、一つは自由の問題であります。そしてその権力の問題は主権という新しい概念のなかに結晶し、自由の問題はまさに人権という、これまた新しい概念をつくりあげていくわけであります。
<(p.78-79)
JRF2019/2/151629
フランスが国家としてドイツのプロテスタントを助けていたというのは知らなかった。私は無知だ。
JRF2019/2/154295
……。
>ルネッサンスの時代の戦争は、なるほどずいぶん残忍なこともありますけれども、ある意味では、たいへんのんきな面がありまして、お互いに傭兵と傭兵でいくさをするわけですから、商売として戦争をしている人間は、うまくいくさをしたふりをしていればいい。だいたい兵力を見れば、あとは取引きで片づけて、両方とも殺されず、適当に金はもらえるようにやっていくわけですが、ところが戦争をするという場合でも、宗教がからんでまりますと、そういうわけにはいかない。聖戦の意識というものがあらわれてまいります。<(p.81)
JRF2019/2/152056
やっぱり。「普通の戦争」は戦わないのがデフォルトだったんだろうな…とは思っていた。それが「陰謀論」ではなく、こういう知識人にも支持されるとは…。
JRF2019/2/150323
……。
権力は「必要悪」だから…、
JRF2019/2/158819
>(…)この社会のなかの権力の要素を、できるだけ解消してしまおうという場合に、大きく言って、そこに二つのやり方があるわけであります。一つは、権力というものは、たしかに不愉快なもので、個人を越えて存在しているけれでも、それは治められている人間の同意を取りつけて、その範囲でだけ使うようにすれば、コントロールできる、といういわば権力の制限であります。
JRF2019/2/159270
(…)
いま一つは、権力それ自体を被治者が乗っとって、すべての人間によって行使するのがよい、という、いわば自治の考え方、治者と被治者との区別を消してしまう考え方であります。あとの考え方から出てまいりますのが、近代国家の一つの原理である人民主権(…。)
<(p.100-101)
JRF2019/2/150128
インターネット(PC) → 人民主権。
スマホ → 制限。
…という関係があるか。でも、スマホが、一義的に制限しているのは権力ではなく、自分ができる行為だ。人民主権の主権を制限しているということだろうか?…違うな。権力も制限するが、自分達も制限を受け容れるということではないか?…これもちょっと違うな。
JRF2019/2/154441
過去の蓄積という高みから、情報を自由に発信するのが権力とされ、それを嫌って、その制限のために自らに対する制限も受け容れたということではないか?
JRF2019/2/151080
だが、社会への再包摂のためには後述のルソーが考えたように民主主義への参加が必要だろう。それは Twitter や Facebook で十分という意見もあるかもしれないが、情報を自由に発信することに反感を持っているなら、そういう層を導き入れることはできない。
JRF2019/2/157912
記録を遺すことをナッジし、未来の政治に寄与できないだろうか。私的引用を駆使して「日記」を付けさせる。…というのも嫌われるかもしれない。「日記」のようなものを買えるようにしてはどうだろう? 懐かしい「あの頃」の議論やビデオなどを同人的にまとめたものをメルカリとかで売ったりしても良いことにできないか。非クラウドにすれば売れる…「常習犯」に課税する(補償金を払わせる)ことで、逆にこれを可能にできないか?…
JRF2019/2/155197
……。
>(…)ローマ教皇を頂点といたします教会制度(…)そこで、だれが教会の政治を行なっていくかを考えますと、いわば君主としての法皇の権威によって、役人としての各級の聖職者は上からの任命によって決まっていたわけであります。ところが原理的に、そういう教会制度を否定しました改革派、たとえばカルヴィニズムの場合に、教会というのは、なによりも新しい信仰をもった人間の集団である、人間の相互組織であるという性格をもたざるを得ない。そして、だれがその教会の牧師になるかは、実は信徒、それもおもだった人々の意見によって、適当な人を招くわけで、上からの任命によって決まるわけではない。
JRF2019/2/150083
(…)
つまり、さっき申しました政治社会の二つのタイプ、あるいは政治社会の理解のしかたにおける古いタイプと新しいタイプとが、実は政治の現実のなかで実現されるよりも先に、信仰の組織のなかであらわれていたわけであります。
<(p.110)
選挙をやって選ぶという民主主義ではなかったけれども、かつての自民党が党首を選ぶような感じのことは行われていた…といったところか。
JRF2019/2/159665
……。
>(…イギリスでは…)自由の保障の第一に信教の自由、内面の自由をかかげていることは、きわめて特徴的な点であります。これに対しまして、のちのフランス革命では、思想的にこういう宗教との結びつきはなくなります。つまり人間の自由というものを、むしろ宗教からの解放のなかに求めるのがその特色であります。ラディカルな党派ほど人民主権一辺倒になりまして、寛容から遠ざかるばかりでなく、その戦闘的な宗教否定は、皮肉にも「理性」崇拝という人為的な信仰をつくりだし、革命的独裁がこの疑似宗教と結びつくのであります。<(p.114)
JRF2019/2/152296
革命思想は疑似宗教…。「無神論」的であるといっても。背景には「聖霊の時代」を自覚する宗教意識があったのだろうか?
JRF2019/2/154724
……。
>この「理性」ということばは、もはや与えられた秩序そのもののなかに理性がある、あるいは実体的な秩序が理性の実現だ、というのではなくなって、逆に自由に秩序を組み立てていく人間の能力が理性と呼ばれるという大きな変革を、これまた遂げていくわけであります。<(p.116)
「従順」こそ「理性」というのは、今も残っていそうだけど…。
JRF2019/2/152061
……。
>(…「人間は人間にとって狼である」の…)ホッブスにとりまして、自然を超える人間の能力に非常な自信を与えましたのは、何と申しましても科学の発展という実績でありまして、ことばを使いましての人間の推理能力、つまり、人間の理性というものが、何よりも人間を他の動物から区別する。自然の世界を乗り越える文化という人間のいとなみを、もっともはっきりと例示しているのであります。<(p.119)
JRF2019/2/155528
>ホッブスの場合にこの富、つまり人間の生存の手段の総量というものが、固定的に考えられていたということであります。富の社会的総量は有限であるばかりでなく、はじめから一定したものだという固定的イメイジがある。ところがその富はホッブスによれば元来生物としての人間が生存のために必要とする手段にほかならない。<(p.121)
JRF2019/2/155773
>彼のいう「自然状態」つまりいっさいの社会的統制をとりはずした人間世界には、もちろん身分制度などあるはずはありませんから、人間すべて平等である。しかもこの平等な人間が神様から命じられた第一の義務は「自己保存」(…)その手段に対する人間の欲求(…)を、端的に自然権として肯定しているのであります。(…)身分によって徳目をわりあてるという伝統的なやり方の清算(…。…)こういう「人間にとって自然であることを罪とするのは、人間の存在自体が罪だというのと同じだ」と申します。<(p.122-123)
JRF2019/2/152188
生存への欲望は自然で、「人間にとって自然であることを罪とするのは、人間の存在自体が罪だというのと同じだ」…というパワーワード。
JRF2019/2/159298
>もしこういう生物的人間が、他の動物のように、単に本能にだけ従って生きるものでありますならば、そこにはまだしも解決の余地がある。彼らは大体おなかの空いたときに食い、のどのかわいたときに飲み、もし、その時に食物も水もなければ、結局倒れてしまうことでケリがつく、と考えられるからであります。ところが(…)ホッブスの人間は(…)他の動物よりは知能が進んでいる。彼(…は…)先が見えるのであります。(…)複数の人間が、そのわけまえを争って、いまはいらなくても先になればいりそうなものは、何とか自分のものにしておきたい、眼の色をかえる(…ので…)あります。<(p.123-124)
JRF2019/2/157020
>こういう個人は自分で秩序をつくり、安定した社会生活をつくりだす能力に欠けているわけであります。(…)こういう不安定な、自律できない人間に他人の生存を尊重させるには、ルールを強制するしかない。無制約な欲求を生御するには刑罰の恐怖以外にはないから、国家権力はいっさい無制約でなくてはならない。そこにホッブスの絶対主義の主張が引き出されるわけであります。<(p.124-125)
JRF2019/2/156920
ホッブスは身分を否定した状態からはじめて、絶対主義を主張した…と。支配する側の能力の限界についてはどう考えたんだろう?
JRF2019/2/152961
……。
>ところで(…)この不安定な人間像を安定させて、個人を自律させましたのは、ホッブスの次の段階のジョン・ロックであります。人間の生存の手段、その欲求の対象、富という問題についてロックはたいへん楽観的なことを申しました。彼自身のいい方を申しますと、「慈愛深い神様は、人間がみんなの生存に必要なものをゆたかに与えて下さる」というわけであります。(…)ロックになりますと、富というものは、まさに生産の問題として考えられる。そしてその富の生産を可能にするのが、ほかならぬ人間の労働だ、というわけであります。
JRF2019/2/153026
(…)
富の無限の増殖ということを説明(…すると…)新約聖書に、「一粒の麦もし死なずば、一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」という、有名なことばがありますけれども、手のなかにもっております一握りのもみというのものを、そのまま精白して食べてしまえば、一食にも足りない。しかしそれを播いて、育てて、やがて収穫するという働きがあれば、人間は、あるいは一年間の生活を支えることができる(…ということ…)。
<(p.126-127)
JRF2019/2/151817
>自分の労働力というものを、合理的に配分しながら投入して、穀物を育てていくという行動様式がなければ、実は農業というものは、そもそも原理的に成立しないのであります。そこで問題になりますことは、この場合半年先に、どれだけの収穫が得られるかということは、現在には、つまり感覚に訴えては知りえないわけであります。それを知りうるというのは、単なる感性の働きではなくて、実は想像力の問題であり、目に見えないものを見通すという予測能力とそれが人間の行動を動かすということが、まず必要であります。
JRF2019/2/156001
(…)
さらに加えて、計画的に自分の労働を投下するだけの理性的なコントロール、自己規律が必要なのであります。これが人間の生存の手段つまり、富というものをふやしていく前提であり、万人の欲求を充足する条件なのであります。
<(p.128)
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を思い出す。
JRF2019/2/151240
>(…これに…)必要なのは、人間の人間的な資質、むしろこういう行動様式のパターンだということになります。ロックはそれを「ラショナル・アンド・インダストリアス」、つまり理性的であってかつ勤勉な、そういう人間と申しました。こういう行動様式において、人間は自律的な生活体系として自己完結する。その具体的な自律の証明が、私有財産にほかならなと、ロックは考えたわけであります。
<(p.130)
JRF2019/2/156679
勤勉さを保証するのは、自分のものにしていいよ…という「私有財産」の制度にある…と。資本主義における「私有財産」の神聖性。墾田永年私財法の話を思い出す。
JRF2019/2/153290
昔↓のように書いた。
[aboutme:137553]
>昔ネットのどこかに書いたが、逃げた先に自由があるとは限らず、例えば「エロ本を買う自由」を得るためにさえ印刷技術の発展等いろいろな仕事が必要だったし、今も不断に必要なのだ。「自由」とはどちらかと言えば築いていくものだ。<
JRF2019/2/157286
《「自由と平等」のレトリック》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/11/post.html
> 技術革新をはじめ社会の発展は、新商品を買う自由をはじめ、自由を増大させていく。それが新たな所得機会を産み、自由が平等に現実性を与えていくような段階もあるだろう。しかし、「平等を求める」または広く「社会の変容を求める」といった場合、これまでの自由を犠牲にしなければならないことも多いのが現実だろう。(それでも、全体として自由を増やすような策があると私は信じたいけれども。)<
JRF2019/2/152918
生産が自由をもたらすということで私はロックの考え方に近いのかもしれない。
JRF2019/2/158007
……。
革命を前にしたルソーの段階、フランス社会では、ロックの理想とした自律的な自営農は存在できなくなっていた。商業が上前をはねる上に重税を課す。そしてブルジョワや貴族は消費を楽しむ。…と。そこでは啓蒙思想が全盛であった。
JRF2019/2/158868
>(…啓蒙思想においては…)快楽への欲求があればこそ、人間は工夫して便利なものを生み出すのだ。文明はこうして進むのだという評価であります。(…)こういう思想は、感性の解放という点ではロックに似ております。事実ロックの影響なしには、そもそもフランス啓蒙思想というものは考えられない。しかも、もしロックの感性の解放が、さきほど申し上げましたように、実は限られた人々だけのものであったということまで勘定に入れますならば、ロックよりずっと進んでおりまして、そういう差別が全然ありません。
JRF2019/2/158971
(…)
しかし、こういう欲望の解放は、ホッブスやロックの場合とちがいまして、それが生存の手段への要求である、というそもそもの出発点がすっぽり抜けおちている。(…)感性のかげにかくれながら、しかも人間の自律を可能にした理性の契機(…)が、すっぽり抜けおちている(…。…)文明が、進歩が、ゆたかさが、テクノロジーがそれはすべて片付けてくれる。文明万歳! であります。
<(p.142-144)
JRF2019/2/151948
>けれども、その文明社会なるものは、アナーキーでも成り立つものでしょうか。文明の礼讃者でも、(…)さすがにそれは心配になります。そこで持ち出されますのが、一つは法律であります。(…)もう一つは道徳であります。曰く「人類全体の利益になるように行動せよ」。(…)けれどもそんな便利な法律は誰がつくってくれますか。それから人類全体の利益などということは人間が毎日くらしていくのに、指針になるほどハッキリしたものですか。第一それは快楽を求めるのを本性とする人間にどうして期待できるのでしょうか。それには答えがないのであります。<(p.144)
JRF2019/2/158790
>こういう結構な思想、文明社会の福音に徹底的に異議を申し立てたのが(…)わがジャン・ジャック・ルソーであったのであります。(…)この社会では、「公共の理性が教えるのと正反対の格律を各人に強制する」ために、人間の心情は堕落し、倒錯に陥ります。どのようにこの状態を美化して見ても、そこにあるものは「虚偽にして軽薄な一つの形骸、徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」にすぎないというのであります。<(p.145)
JRF2019/2/153595
>(…ルソー…)によりますと生物としての人間は生存の本能とともにあわれみの本能をもっている。(…)ところが人間のこの美しい性質は、人間が動物よりも高次の能力を発展させ、文化を築くことによって失われてしまう。(…)人間が自分のつくりだしたものの奴隷になってしまうのであります。この人間疎外の過程(…。)<(p.147)
JRF2019/2/157250
>ルソーは理性を人間の利己心と結びつけて考える。また私有財産を人間疎外のはじまりだとして批判する。(…)文明社会でいちばん人間らしさを失っているのは、むしろ恵まれているように見える人間である。理性ばかり働かせている哲学者などは、人間らしい感情を失いはてている。それにくらべれば無知な庶民はこんな世の中でもまだ同情心をもちつづけている、というのであります。<(p.148)
JRF2019/2/156260
>人間疎外に抗議して自然に帰れというように見えますが、しかし、ルソーは人間は「森に帰って熊と一緒にくらす」わけにはいかない、とはっきり申します。<(p.148)
JRF2019/2/158802
>ルソーの構想する社会は、すべてのメンバーが共同してつくりあげるだけではなしに、すべてのメンバーによって運営される社会でなければならない。その意味で徹底した平等が実現し、不平等がおこるのを防ぐ社会でなければならない。ルソーはそのために、人間の自由の実現を人民主権の一点にかけるようになります。<(p.149-150)
JRF2019/2/150073
>ルソーは下積みの庶民のなかに美しい人間性が生きのびていると考えましたけれども、だからと言って、ルソーがこういう人々に社会を組み直したり、また制度を運営したりできる、と考えたわけではありません。(…しかし…)人間がどんなに不完全であっても、結局、自ら秩序の主体として参加しないでは、彼は秩序の主体にはならない。逆に、ルソーの構想する制度は、この不完全な人間に主体性を与えることによって、彼を真に自律的な人間につくりあげるような社会でなければならない。<(p.150-151)
JRF2019/2/151538
ミルの「参政権を行使して、個人が公共生活に参加することが、一人一人の人間の十全なる発達、自我の実現を果たしていく」というところと繋る…と。
JRF2019/2/154038
民主主義にしていれば、国民がバカでは発展できなくなるから、国民を教育するようになる…という発想に似ている。教える側が感化されることもある。…とは言え、ルソーがいいたいのはそういうことではなかったんだろうな。どちらが教えると決まっているわけでもない…というのも違う。むしろ労働者が教えるのだ…という方向に社会主義は向かうのだけれども…。ルソーの段階では、庶民の同情心・信頼に感化されろということなのかな…?
JRF2019/2/150825
>けれどもルソーは、人民が集って、本当にまじめに討論するなら、そこから正しい公共の利益が見出される、と主張したのです。(…)こうして得られた人民の意志、それをルソーは一般意志と呼びます(。…)この一般意志は、単に個々のなまみの人間の意志の総和ではない。そして一般意志を強制することは、「自由であることを強制する」ことだと言い切ります。(…)政治に参加することは、人間が自由になるための根本的条件であって、単に権力を制限するための手段ではなくなります。<(p.157-158)
JRF2019/2/150806
東浩紀『一般意志 2.0』なんてのもあったね。読んでないが。Twitter や Facebook が「人類の発展」に寄与すると同時に、発展そのものであるという考えはあるのかもしれない…と思う。
JRF2019/2/153405
……。
民兵という制度があるところでは、社会のマネージメントをする政治家の資質が厳しく問われるのに対し…。
JRF2019/2/154675
>(…)最後の手段を権力が完全に独占しているところでは、本来社会的な問題が無雑作に治安の問題として処理されがちでありまして、それはこういう近代的な政治の観念の不在をありありと暴露するものにほかなりません。これは日本の将来を考えます上で、十分注意しなければならない点であります。<(p.172)
JRF2019/2/156661
安保闘争の時代の意見ではあるが、日本の未来を予言するものでもある。私は、最近では違法ダウンロード拡大などの著作権問題にこれを感じている。著作権問題もある意味、実力行使的抵抗がなされたのであったが、バーチャルであったため軽く見られたという面はあったかもしれない。
JRF2019/2/157834
……。
>(…)近代の思想家たちが立ち向かったのは、絶対主義のつくりあげた地域国家・主権国家という現実でありました。彼らはそれを政治社会を人間にまで還元すること、人間のどのような能力が政治社会を可能にするのかを問うこと、こうして政治の問題を人間の自覚の問題、哲学の問題に戻して、この怪物のメカニズムをとらえ、カラクリを見通したのです。<(p.173)
これこそ近代政治思想を他と分ける諸前提。
ただそれは産業革命の前で、絶対主義を代位した国民国家を前提としていた。…と(p.174)。
JRF2019/2/153929
……。
>(…)消費は美徳である。消費者は王様である、などというコマーシャルが流されております。けれども、それが人間に本当の満足を与えるか、ということになりますと、これは全然別の話でありまして、ちょうどルソーが当時の文明を批判しましたように、そこには自然から遠ざかった人間の疎外感と、人間性の倒錯とがその何倍もの規模で、もっと深刻に人間を蝕ばんでいきます。
JRF2019/2/150286
(…)
たしかに生産力の水準の上昇は人間の感性の解放を可能にしたけれども、同時に、自然と向き合って労働する人間の理性の契機をも見失わせて、個人の自律性をいちじるしく弱くする。そして自親を失った個人は、感性への惑溺のなかに、その無力感をまぎらわす道を求めがちであります。
<(p.177)
JRF2019/2/158808
感性への惑溺か…。「近ごろの若い者は…」感性に惑溺していると見えるもの。インターネット世代、コンテンツを作るのが正義と信じた私の世代の次のスマホ世代は、感性に惑溺しているように見える。ただ、コンテンツを二次創作するというのも「感性に惑溺」には違いなかったかもしれないとは思う。
JRF2019/2/159137
……。
>(…ルソー…)の政治理論の果たされなかった主題は、国際平和の組織でした。それを受けついだカントは永久平和の理念を述べて、これを実現する条件として、軍備の全廃や、政治の民主化をあげました。実際、絶対主義の家産的な考え方や、秘密外交を清算すれば、平和が維持できるという期待は、根強くつづきました。<(p.180)
「秘密外交」と言えば、TPP とか著作権がらみ(ACTA)とかがニュースになっていた。あれはカントが読まれなくなったという現代を反映しているということなのかな?
JRF2019/2/156777
……。
>さきほど申しました、軽気球が飛んだのを見て戦争ができなくなるだろうという観測があったことを教えてくれましたのは現代アメリカの国際政治学者シューマンの書物でありますが、彼がなんのためにそういうエピソードを持ち出したかと申しますと、核兵器の破壊力というものを人間が知ったら、戦争はなくなるだろうという素朴な意見がある。しかし、そういうことをいうなら、八十年も前からそういう楽観論はあったけれども、戦争がなくなったわけではない、という例示のためであります。
JRF2019/2/151501
(…)
ところが、彼とならぶもう一人の国際政治学者モーゲンソーが最近、核兵器についてなにをいっているかと申しますと、核戦略というものは、自国の国民を守れるものではなく、潜在敵国が自国民に攻撃をかけてくるのを抑止できるだけである。もしその抑止が失敗した場合、政府は自国民の破壊の源泉になる。こういう場合にいったい伝統的な意味での国防とか安全とかの考えが成り立つものか、を鋭く問うているのです。
<(p.182-183)
JRF2019/2/152905
「相互確証破壊」。冷戦期の議論で、実は現代にもその問題は残っているのだが、あまり意識されなくなっている。核はどんどん拡散しているが、日本では311以降、核エネルギーへの夢も信仰的な恐怖も薄れ、関心があまり持たれない。
JRF2019/2/152475
……。
>蒋介石の軍隊を最終的に打ち倒した武器は、皮肉なことに何よりもアメリカが蒋介石の軍隊に送り込んだ武器でありました。毛沢東は「革命は銃剣から生まれる」と申しますけれども、その軍隊は思想から生まれたのでありまして、そうだからこそ「唯武器論」は戒められ、「思想第一」が説かれるのであります。<(p.186)
共産主義は思想で国家を勝ち取ったという自己認識があるからこそ、思想の統制にうるさい…ということか…。
JRF2019/2/153268
……。
>ルソーはそれでもまだ自営農民の国の夢みることができました。倒錯した人間性への深い絶望にとらえられながら、それでもなお、人間は一人一人では利己的で、愚かしくてどうしようもないけれども、集まって討論すれば理性に到達することができる、という楽観をふるいおこして、政治社会の構想に希望をつなぐことができました。しかし、近代がこれほどまでに人間の生存の条件を変えてしまったとき、そのような楽観をなおもちつづけることはできるでしょうか。<(p.190)
JRF2019/2/154554
2ch (今は 5ch) で、討論がまがりにもなされたあと、まとめサイトという「編集」が大事になった。このサイトでアクセスが増えたな…というときは、まとめサイトで取り上げられたから…ということが多かった。そこから、政治的な記事へは向かわないのがガッカリなんだけど、でも、政治社会が刷新されている感覚が私にはある。「討論」もまた発展していっているのではないか。
JRF2019/2/158774
SNS を逆にモデルにした党運営みたいなものを考えたことがある↓…、
[cocolog:74483905]
>実際は皆 SNS を使うわけではないんだけど、SNS の管理等をモデルとした党管理が行われる。その党の組織運営の仮想(架装)が、現実の SNS システムとして動いているという実証が必要だという主義。…ってどうだろう?<
が、それが「日本会議」という形になっているという直感もある。
JRF2019/2/152850
アニメにおいて、3D を使うのが主流になりそうだと予想できたことがあった。わざわざ手で描くようなことはしなくなる…と。しかし、AI 描画というものが出てきて逆に 2D が再注目されるに致っている。「時代遅れ」の技術を保存しておくことが、次の技術につながることがある。
JRF2019/2/154870
今は見えづらくなったかつての討論の技術がまたかつての討論そのものが、再び装いを変えて登場するということがあるのではないか。この「ひとこと」もそのような試みの一つなのかもしれない。
JRF2019/2/158437
……。
>感性の解放は庶民にまで徹底して、その意味では大いに民主的になったけれども、解放された感性は生存の事実、その手段への欲求という原点からはなれてしまって、とめどのない倒錯をまるごと認めることになった(…。)<(p.191)
JRF2019/2/157434
simple_market_0.pl (↓)では、労働はランダムに割り当てられるものにした。そして、総額が増えない金の交換により知的財産がどんどん増えていくという構成にした。それは感性の解放への雑音として労働があるということでしかないのだろうか? それではダメだろう…なんとかモデルを更新したいのだが…。
《外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2011/01/post.html
JRF2019/2/155960
著作権や知的財産権を重視するという方向を私は模索しているのだが、それは「感性に惑溺」することでしかないのだろうか?
JRF2019/2/153352
……。
>もし、これからの工業社会がローマの場合の植民地のあがりの代りに、生産をオートメイションの機械にまかせ、生産から切り離された人間に、現代の「パンとサーカス」とをあてがって、その感性を充足するとき、人間はどのようにして理性に到達できるのでしょうか。それとも、少数の知的エリートだけが創造的な仕事を、しかも無目的におしすすめ、大多数の人間が徒食して、倒錯した感性への惑溺に気晴らしを求めるような未来図は、私のただの妄想なのでしょうか。<(p.192)
JRF2019/2/154293
日本は超高齢化社会となり、「民主主義」のままでは、高齢者の意見だけが通り社会が動かなくなることが予想される。そこで「専門家支配」、エリートの支配が必要ではないかと考えたことがある([cocolog:89428585])。その背景には AI の発達…「オートメイション」の発達があるのも確か。
JRF2019/2/150483
私がベーシックインカム(BI)論をしばしば取り上げるのも、一般人=庶民には仕事がなくなり、著作物の編集等の二次創作などで小銭を稼ぐことしかできなくなるのではないかという「妄想」があるから。それが「大多数の人間が徒食して、倒錯した感性への惑溺」であり、ディストピアであるというのが著者の見解だが、私はそこまでダメな社会とも思わないんだよね…。
JRF2019/2/157901
……。
……。
日本には「どうやったってよくならない」という閉塞感がただよっている。その大きな要因はなんと言っても「少子化」だろう。しかし、この「少子化」という事態、世界規模でみると資源・環境の制約のためむしろ必要とされているのがやっかい。昔であれば、新天地を宇宙に求めたり、核の「無限のエネルギー」に夢をはせたりできたのだが、それらは100年単位でもどうも難しいぞ…という話になっていて、先に持続可能な社会を築く必要がありそうだ…となっている。
JRF2019/2/150461
人口減少を世界のトレンドとすべきだから、それを移民で解決するのは今後の地球のシミュレーションを一国でしているとすれば、望ましくない。むしろ、ヒトやモノの移動を制限して、今後の地球のシミュレーションをそれぞれが試すほうがいいのではないか…という動き…経済のブロック化も心配されるところになっている。そのために、まず、情報もブロックせねばならないということで、インターネットの制限の話につながってくる。
JRF2019/2/157687
これはホッブスの世界観に少し似ている。そこでは資源の限られた世界で、絶対主義が必要とされた。強い権力を求める指向は、「資源が限られている」以上しかたないのかもしれない。閉じた世界がいくともあるというのは、ライプニッツのモナドを思い出させるが…。
JRF2019/2/150248
しかし、世界を完全に分断することもそれはそれで現実的ではなくなっている。世界はいっしょに発展する他はない。どう発展するかが問題となっている。技術的な発展だけを追及してうまくいくなら、冷戦にソ連が勝っていたのではないか。そうではないんだというドグマが形成されたと見るべきで、そこでは人文的な発展も求められる。特に著作権を含めた著作物の発展は、エネルギーや農産物を産まないが、軍事のように「無駄」がなく、省資源である。
JRF2019/2/150965
もちろん、著作物の作る文化が価値を創り、ヒトとモノの移動を促すという側面もあるが、知的財産に分配する資源が増えれば、資源に制約があるという状況ではそれ以外に使われる資源は相対的に少なくなるという寸法である。Amazon や生協は買い物に行くより効率的であることが多く、表現(宣伝・評判)が大事になっているのは、その傾向が形になったものかもしれない。(もちろん、それらも独占を許せば話は変わるだろうが。)
JRF2019/2/156592
現代では、技術は文化によらず、資本の論理により移動するため、文化が技術の裏付けを持ちにくい。資本が去るとき、技術も去るのが日本のここのところの歴史であった。かつての秋葉原や今の深センのように技術は文化を形成しうるといっても、技術がその国を去ったときその文化もほぼ消えてしまう。これでは文化が技術と対立して、退行が文化となりかねない。
JRF2019/2/159354
日本では、学術的に技術を保存しようと、小さくなる富の中、文系から理系へのシフトを画策しているのだろう。それで、科学論文が減ったとか減ってないとかあるようだが、経済は低迷している。もしかすると、これは冷戦でソ連が勝てなかったのに似た失敗なのかもしれない。少子化で資源の割り当てが減る中、その分を相対的な著作物の発展で補えていないということがあるのかもしれない。「退行文化」を逆手にとってということかもしれないが、ゲームとかアニメとか世界的にがんばってはいるんだけどね。
JRF2019/2/153736
いくつかの国では禁止されているガチャも日本は規制せずにいる。著作物が SF ならばいいというわけでもあるまい。技術への注目を増やすために軍事的危機を煽るというのも禁じ手だろう。子供っぽさへの「退行」でなければ、何が可能なのか…。
JRF2019/2/159994
…日本のこのところの経済には、文化に染まっていた主婦層を、老人介護の労働に繰り出す…という意味もあったのだろう。身寄りのない老人が悲惨に死ぬようになれば、少子化も止まるのかもしれないが、それは孤独死が予想される私には個人的にも望ましくない未来だ。それを技術的に・社会科学的に解決できたら…と思う。
JRF2019/2/150349
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受信: 2019-03-17 21:39:39 (JST)
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受信: 2019-03-17 21:39:54 (JST)
『近代民主主義とその展望』(福田 歓一 著, 岩波新書 黄版 1, 1977年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4004200016
https://7net.omni7.jp/detail/1102303330
JRF2019/2/157456