cocolog:90768574
『世界の名著 52 レーニン』を読んだ。革命後、独裁により過去の抑圧者の反動を抑圧しなければならない…という主張は、まぁ、わかる。が、宗教が必要と考える私とは結局あいいれない思想のように思う。 (JRF 3999)
JRF 2019年3月 4日 (月)
私の頭が悪いということなんだと思うが、途中何度も論旨がわからなくなったりして、読むのにかなり時間がかかった。
JRF2019/3/42779
……。
……。
『レーニンと現代の課題』。
……。
JRF2019/3/49733
>レーニンが民主主義と独裁の関係をいわば相対的な問題として扱っていることは明白である。つまり、レーニンによれば、歴史上の民主主義は一定の範囲内での民主主義である。ということは、あらゆる民主主義は、一方では、他の階級に対する独裁を意味している。かんたんに言えば、一つの民主主義は半面からみれば独裁的であり、この意味において、ブルジョワ民主主義はブルジョワ独裁であり、プロレタリア独裁はプロレタリア民主主義であるということができる。いずれにしても、レーニンによれば、完全なる民主主義とか完全なる独裁はありえないということになる。<(p.34)
JRF2019/3/41273
それを言ったら軍事政権とか絶対主義も民主主義になっちゃわない? まぁ、民主主義は常に独裁的であるが、独裁は必ずしも民主主義ではない…ということなのかな。
JRF2019/3/49779
……。
……。
『貧農に訴える』。
JRF2019/3/48023
……。
>一般の銀行や特殊な農民銀行は、農民みんなが土地を買えるように助けているのではない[百姓をだます連中や、手のつけようもない愚か者どもが、よくそんなことを言うけれども]。そのような銀行は、ほんの少数の農民、富農だけを佐けているのだ。<(p.78)
90年代後半の金融問題で農協が話題になったのをよく覚えている。[cocolog:86784687] で、山下一仁『農協の大罪』も読んだ。
JRF2019/3/40537
「農民」として他の職業と縦割りで分けて集まることを考えがちだけど、そうして「農民」向けの支援をするとたいていが「富農」向けの支援となってしまう…とこういうわけなんだろうね。
JRF2019/3/42070
日本でも、第一次産業就業者が少なくなって、「農民」全体がジリ貧になる上に、兼業零細になりがちなところ、大規模化を支援しようとして「富農」向けが額としては大きくなっているという面があるのではないか。とするとロシアの「富農」事情が本当に批判すべきものであったか…となると疑問が出てくる。時代として「地主」階級からの農地の解放が必要だったのかもしれないけど。
JRF2019/3/45516
零細農家は借金が宿命づけられているのではないかという直感が私にはあり(↓)、農民銀行が「富農」だけのものというのも信じがたい。
JRF2019/3/40169
[cocolog:86756868]
>AI が主に仕事をするようになったとしても、農業など 3K(キツイ・キタナイ・キケン)労働に誰かがつかなければならない。それが正当化されるよう他の人には(作り出された)仕事がなければならず、たまたまテレビなどの影響で「自発的に」就いた人が、借金などによって 3K 仕事を押しつけられるようにしているのではないか…とニート(年齢は40歳オーバーだが)な私は疑っている。<
JRF2019/3/45763
ちょっとトピックが外れるが、企業の大規模化をして輸出を増やせという主張が出てきている。
JRF2019/3/40474
はてなブックマーク - 《人口減少で日本企業に「大合併」時代が訪れる - 東洋経済オンライン》
https://toyokeizai.net/articles/-/261573
jrf:>大企業より地元の中小企業のほうが子供が作りやすかった点を考えると単純な大企業化は少子化にさらなるマイナスでは? 中小企業が大企業の革新を支えてきた面があり、それが減ったがゆえの不況・少子化の長期化では?< 2019/02/26
JRF2019/3/44813
少子化が心配なだけでなく、「輸出のための大規模化」を目指すのはかつてのロシアみたいな状況に日本がなるのではないか?…と心配。ポータブル翻訳機のある昨今、別の選択肢もあるように思うのだが…。大企業でひたすら最終製品の国産を目指すのではなく、コミュニケーションが多少必要な半製品を輸入してその国に半製品を輸出するから貿易がスムーズに行くとかそういう方向ってないのかな?
JRF2019/3/44159
まぁ、「大企業」の中の小さいものでも多くの子供を産める環境にしていくなら、それもアリなのかな…とは思うが。
JRF2019/3/42936
もしくはビジネスマンが日本を含むアジア各国で別の妻を持ち、子供を持つのを是としていくか…。が、そんな給料どこから出るんだ? あぶれる男はどうするんだ?…って話になるか。継承資産のある独身男を同性婚させて養子に(すでに子供がある)娘をもらって老後の面倒を見てもらうとか? 「娘」が男に歳が近ければ「娘」の数が足りなくなるなんてこともないのかな? 歪んでるなぁ…。
JRF2019/3/49025
子供のない娘は継承資産が貯まったらどこかの介護施設に入る…と。いや、それなら最初から独身男がどこかの施設に入ればいいんだよ。もしくは、「後妻業」にでも頼るとか。とにかく、これはない、これはないよ。
JRF2019/3/44598
……。
>ブルジョワジーにとってはむろん、つぎのことだけが必要だ。すなわち、できるだけたくさんの中農と小さい農民が金持のほうに近づくこと、ブルジョワジーと闘争しないでも困窮から抜けだせると信じるようになること、農村および都市労働者との同盟には望みをかけず、自分の勤勉と節約、自分がうまくいけば金持になれるのだということに彼らが望みをかけるようになること、これだけが必要なのだ。ブルジョワジーは、全力をあげて百姓にこんなごまかしの信念と希望をもたせようとつとめ、あらゆる甘い言葉をもって百姓を眠りこませようとつとめている。<(p.93)
JRF2019/3/41888
「自己責任」どころか「自由競争」とか「機会の平等」こそが「百姓を眠りこませる」言葉ということか…。
JRF2019/3/48246
……。
>小経営や協同組合が有利だという甘い言葉で逃げることは絶対に許されない。(…)働く人民を救うことのできる、ほんとうの「協同組合」とは、ブルジョワジー全体を相手にして闘う貧農と都市労働者の社会民主主義的同盟だ。<(p.94)
「小経営」もダメなのか…。まぁ、「自分の城を持ちたい」というのを薦めるコンサルタントもいれば、それが「甘え」だというコンサルタントもいそうだね。有能な人ほど「甘え」とされる不思議な構図。
JRF2019/3/45284
……。
>当時、農村労働者への報酬の支払いの形は、きわめて多様で(…)現物給与さらには土地貸付ですますものも多かった。だから週雇いや日雇いといった比較的進んだ形態は(…)<(p.105 注)
「日雇い」が進んだ形態になるのね。福利厚生がさっぴかれないから額が多いだけで、その他総合すると不利とかいうことはなく…と。月雇いとかは、引かれる割に保障が大したことなかったということかな。
JRF2019/3/41050
……。
>われわれと大衆の結びつきについて、現在、悲観論が横行している。だが、このような悲観論には、革命におけるプロレタリアートの役割についてのブルジョワ的な考えが隠されているばあいが、いま、ひじょうに多いことを忘れてはならない。われわれが労働者階級の教育と組織のためにもっともっと活動しなければならないということは、疑いもない。<(p.141)
JRF2019/3/46525
教育的立場に立つのは結局、ブルジョワ的出自を持つ者でしかない…というのはあるのかな。そういう出自だから根源的なところで共感ができない。だから、プロレタリアートが必要としているものを「共感的」にではなくあくまで「論理的」に導きだし、そうやって導き出した「綱領」を大事にして行動をするのかもしれない。「左翼」指導層の「論理性」「綱領重視」はそういったところから出ているのかも。
JRF2019/3/40534
……。
>ツァーリ政府は反動と結びつかずにいられるとか、選挙のさい中立でいられるとか(…)<(p.149)
なるほどね。選挙の中立からして疑うのか。じゃあ、革命政府だから選挙中立と信じられるかというと、さにあらず、向こうが中立でないのは明らかだから報復として、制限的に選挙を行ってよい…となるんだろうね。
JRF2019/3/44130
……。
>合法マルクス主義(…とは…)1890年代、ロシアで労働運動の高揚とともにマルクス主義が普及しはじめると、一部のブルジョワ・インテリゲンツィアは、マルクス主義の革命的な内容、とくにプロレタリアートの独裁の学説などを抜きさって、事実上資本主義の発展を擁護し讃美する理論を、マルクス主義の名で唱えた。彼らは合法的な新聞や雑誌でその見解を発表したのでこの名がある(…)<(p. 164-165 注)
JRF2019/3/45683
私の↓は「合法マルクス主義」的なんだろうか?
《ミクロ経済学の我流シミュレーション その1 基礎経済モデル》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2018/03/post.html
JRF2019/3/44307
……。
>「経済主義者」は、一般に階級闘争の、とくに政治闘争の奥ふかくある経済的根源についてのマルクス主義の正しい前提から、政治闘争に背を向けねばならないとか、その発展をおさえ、その規模をせばめ、その任務を低めなければならないといった、奇妙な結論を引き出した。<(p.164)
経済大事というのは [cocolog:90689746] でも引用した↓を思い出す。
JRF2019/3/49959
[aboutme:109179]
>私は、単純小選挙区制は嫌いで、複雑な形式を推す。が、英米のような「実績」を見ると、単純小選挙区制にも良さがあって、それは、選挙というお祭りに金をかけても、選挙システムそのものにコストをかけない、議会の正しさなんて実は二の次なんですよ、という割り切りにあると思う。複雑な形式とは、決戦投票ありの二回投票制の小選挙区制や小選挙区比例代表「併用制」など。<
JRF2019/3/46061
レーニンは「まず政治」なんだよね。理論的に同じ結論を導くから他の政党と妥協する…「現実主義になる」ということをしない。まず、革命で臨時政府を打ちたてて政権に参加し、あわよくばその中心にたって上から国を動かすことを重視する。
JRF2019/3/43970
……。
>ロシアのような国では、労働者階級は、資本主義のために苦しんでいる以上に資本主義の未発達のために苦しんでいるのである。だから、労働者階級には、資本主義ができるだけ広範に、自由に、急速に発達することが無条件に利益となる。<(p.174)
JRF2019/3/47522
ロシアには農産物の関税はなかったのかな? 農産物の輸出大国だったらしいから、農産物の輸入は無視できるほどだったのかな? 貿易自由化が各国で進むと、戦争をしかけにくくなる…戦争をしかけられるのは自立した大国のみとなる…とは言えるかもしれない。でも、それで平和になるかというと、大国の代理戦争をさせられたりするのだった。
JRF2019/3/41544
……。
>ブルジョワジーは、まず第一に、専制をおしつぶすよりも専制と取り引きするほうを望んでいる。<(p.198)
保守的な法律と新しい決まりとの間でうまくやりくりするのがブルジョワジーの商売なのかな?
旧体制がそれなりにうまくやってきたのにはそれなりの理由がある。旧体制をある程度残すのが現実的だ…という思考はこの時代のロシアでは「立憲民主党」の考えだったようだ。
JRF2019/3/42593
私は [cocolog:79931284] とか2009年03月02日のひとことに部分的な憲法私案みたいなのを載せて>第二条 天皇は、人が人でしかないことの象徴である<と書き、それは、>法ですべてを解決することは不可能であるという、我々の限界<を表していると書いた。これは、共和制が強調しがちな「法治」には限界があり「旧体制」に意味があるという発想に似ている。私の考え方は「立憲民主党」的なんだろうか?
JRF2019/3/41795
……。
レーニンと同じ社会民主党に属するが、立場の違う新イースクラ派はいう…
>「だから社会民主党は、臨時政府において、権力を取ったり分有したりすることを目標にすべきではなく、最左翼の革命的野党にとどまっていなければならない」<(p.204)
これって日本共産党の方針?
JRF2019/3/40997
レーニンは上でも書いたとおり、臨時政府の中心になり上から政治することを目指したため「革命的野党にとどまる」のが我慢ならないらしい。農民と労働者が武装蜂起して、それがブルジョワジーの盾として使われるのではなく、「自分たち」こそが政治の中心になるのだ…と。農民などの支持はまだ十分ではないが、革命が成就すれば「教育」されて、こちらに転ぶ…というわけ。
JRF2019/3/44639
ただ、新イースクラ派との葛藤は、ポジショントーク的で、社会民主党という政党の戦略的葛藤なのかな…とチラと私は思った。つまり、どちらに転んでも党として生き残れるように左右にわかれながら様子を見ている面もあるのかな…と。レーニンにその気はないかもしれないが、下々にはそういうところがあったのではないか?
JRF2019/3/49955
……。
>社会主義の諸問題や社会主義を目ざす闘争では(意志の)統一がないからと言って、民主主義の諸問題や共和制を目ざす闘争でもそれがないということにはならない。<(p.215)
共和主義というのがロシアの呪縛の反映だったのかな…と思う。すでに民主主義になっていれば、農地解放にツァーリの意志は関係なかっただろう。旧い体制だから、その打開には共和制でいけるという算段になったのだと思う。
JRF2019/3/42771
……。
>われわれの前にあるのは、専制から共和制への道ではなく、小ブルジョワ的民主共和制から社会主義への道である。<
スターリンのはあれは専制になるんだろうか?
社会主義に王制はありえないか…というと、今、北朝鮮がその実験中みたいなもので、ありえなくもないんじゃないか…ということになりつつある。逆に現存の社会主義国は珍しくなって、実は社会主義と王制ってよく合うんじゃないか…ってことになりそうですらある。
JRF2019/3/44731
……。
>(新イースクラ派の…)協議会の決議にはすべて、われわれがこれまで明らかにしてきた、あの思想が、共通にあらわれている。すなわち、ブルジョワ革命では、われわれは、ただわれわれに特殊な仕事だけをすべきであって、民主主義運動全体を指導したり、これを独自にやりとげるといった目的を立てたりすべきではないという、あの思想である。<(p.222)
JRF2019/3/40705
>(新イースクラ派はいう…)「(…)一方では、社会民主党が権力をとっても、社会主義の実現をも含めた労働者階級の切実な要求を、満足させることができないので、プロレタリアートの広範な大衆が失望して、党から離れていくことになり(…)、他方では、ブルジョワ諸階級を革命の事業からしりごみさせ、それによって革命の展開を弱めることになると考える」<(p.226)
JRF2019/3/41005
農民や労働者には思想的な厚みがなく暴力的な指導をしてしまうという心配もあったのかな…とは思う。指導…法律を作ったり…するにはブルジョワの力を借りないといけない…と、それが現実的だ…と。
JRF2019/3/40609
バブル崩壊まで、日本で労組が勉強熱心だったりしたのは、そのときの反省もあったりするのかな…と思う。まぁ、現代そういうのも難しくなっているのだろうが。
JRF2019/3/45667
……。
>自由を目ざす労働者の闘争とブルジョワジーの闘争との根本的な相違、プロレタリア民主主義とブルジョワ民主主義との根本的な相違もまた、ますますはっきりしてきた。<(p.258)
JRF2019/3/45642
ブルジョワが労働争議などを個別具体的に認めようとしているのに対し、レーニンはあくまで全体的に政治的にふるまう。上にも書いたが「政治的」すぎるんだよね。労働者が上に立てば労働争議なんてものはいらなくなる…的なことを考えてるということかもしれないが、それはあまりにも非現実的だろう…と私なんかは思う。でも、一方の日本では、ストなんて聞かなくなって久しいから、それはそれでモヤモヤしたものもあるけど。
JRF2019/3/46267
……。
マルクスが率いる『新ライン新聞』は述べている…
>「革命後のあらゆる臨時的な国家組織は独裁、しかも精力的な独裁を要求する。われわれは、はじめから(…プロイセンの自由主義ブルジョワジーの指導者…)カンプハウゼン[1848年3月18日以後の内閣主班]が独裁的に行動せず、古い制度の遺物をただちにこわさなかった点を非難した。カンプハウゼン氏がまぼろしの立憲制を夢みているあいだに敗北した党派[すなわち反動政党]は、官僚と軍隊のなかにその足場をかためて、あちこちで、自分から公然と闘いを挑むまでになった」<(p.265)
JRF2019/3/40306
現総理からして前政権の民主党をくさすわけだが、この国で野党が政権をとったということはある種「革命」的なことなので、当然、それまでのルールをねじまげないと新しいことができないというのがあった。それを政権から追い出せたからといって悪し様にいっていると、今度、政権を狙う者は官僚の中にもいる反動勢力を一掃しない限り安泰できないと考えるのではないか。私が「革命」するなら、官僚などから反動勢力をまずパージするだろう。失敗すればあれほど悪し様に言われるなら、どれだけ過酷なことをやってもどうせ同じだとなるのではないか。そんなことになれば、社会が不安定になる。
JRF2019/3/47853
超高齢化社会に「革命」的なことなど起きないという読みもあるのかもしれないが、私は水に落ちた犬を叩くようなことは慎むのが、現与党にとっても賢明なことのように思うけどなぁ…。
ちなみに民主党政権では、鳩山首相がなぜ辞めたのか謎だと述べたが([cocolog:87581638])、野田首相もあまりにもあっさり辞めたのが引っかかっている。何かあったのか?
JRF2019/3/47475
……。
……。
『資本主義の最高の段階としての帝国主義』。
JRF2019/3/49610
……。
>十九世紀末の高揚と1900〜1903年の恐慌。カルテルは経済生活全体の基礎になっていく。資本主義は、帝国主義に転化した。<(p.296)
恐慌の経験がカルテル中心の社会にするのに役立った。ということは、カルテルをしていたところのほうが危機を乗り越えるのに都合が良かったということ。強制的に買わせることで、需要を維持できたということなのか、逆に、金がないときにも長期的関係を重視して供給が行なわれたということなのか、その両方なのか…。
JRF2019/3/43618
……。
>合衆国の有名な石油トラスト(Standard Oil Company)は、1900年の創立である。「同社の資本金は1億5000万ドルであった。普通株が1億ドル、優先株が1億600万ドル発行された。この優先株に対して 1900〜1907年のあいだに支払われた配当は、各年度48、48、45、44、36、40、40、40%、総額3億6700万ドルである。<(p.297)
すさまじい配当だ。昔はこんなこともあったんだね。今も株式上場ですさまじい利益を得るとかあるみたいだけど。
JRF2019/3/47868
……。
>競争は、独占に転嫁してゆく。それにより生産の社会化は、巨大な進歩をとげる。とくに、技術的発明・改良の過程も、社会化される。<(p.299)
発明化がひとやまあてる…というのではなく、会社に囲われたものが半ば計画的に発明をしていく…と。それによって不安定だった発明家の地位も向上したのだろうか?
JRF2019/3/43214
……。
>支配とそれに結びついた強制の関係 -- これこそ、「資本主義の発展における最新の局面」に典型的なものであり、これこそ、全能の経済的独占体の形成から不可避的に生ぜざるをえなかったものなのであり、現に生じたものなのだ。<(p.301)
カルテルがかなり「あこぎ」な手段を使って支配をしていく。独占禁止法ができる前の世界では、買収があたりまえの「自由経済」の前には、「独占禁止法」なんて役に立たないだろう…みたいな諦めもあったのではないか。
JRF2019/3/41896
……。
>カルテルによって恐慌が避けられるというのは、なんとかして資本主義を美化しようとしているブルジョワ経済学者のおとぎ話である。<(p.302)
その後の歴史から、カルテルがあっても恐慌はあった…ということになるのだろうが、その前には、カルテルや独占こそが恐慌を救うという見建てもあったということなんだろうな。
JRF2019/3/44579
……。
>(…ヤイデルスはいう…)「(…)1900年の恐慌によって初めて、集積過程は、産業においても銀行業においても、恐ろしく促進され、強固になったのだし、また、産業との取引きが初めて大銀行の文字どおりの独占に転化され、はるかに緊密で強度なものとなった(…)」<(p.320)
恐慌が「大企業化」を促進する…。
上で書いた現代日本で「大企業化」を主張する者がいるのは、恐慌が起こりそうだから、その備えとして法システムなどを整備しておくように…ということもあるのかな?
JRF2019/3/49653
……。
株式の50%を持っていれば会社を支配できる。子会社の50%、孫会社の50% でいい。そうやって>それほど途方もない資本を持たなくても、膨大な生産分野を支配できる<。…
JRF2019/3/48523
>ばらばらな小株主の一定部分は、事実上、株主総会に出席すること等々がまったくできない(…)。株式所有の「民主化」は、ブルジョワ的詭弁家や日和見主義的な「でも社会民主主義者」たちが、「資本の民主化」とか小生産の役割と意義の増大などといった期待をかけている(あるいは、期待をかけていると公言している)ものだが、じつは、金融寡頭制の威力を増すための手段の一つなのである。<(p.322)
JRF2019/3/49814
額面の小さい株式に分割などして、それを消費者に近い株主にばらまく…そういう株式の「民主化」が批判されている。株式が少数でも使える株主代表訴訟のようなものがこのころあったのかはわからないが。
JRF2019/3/47603
日本では、90年代の金融危機の前、よく企業どうしの株式の持ち合いが話題になった。それによって突然の買収などが難しくなっていて、企業防衛の意味があったということだと思う。その株式の議決権は事実上行使されなかったのではないか。それで経営者を株主よりかなり強くしていた。日本企業は配当するための利益よりも市場シェアを重視していたのもそれに関連していたかもしれない。
JRF2019/3/47037
それが金融の国際化が叫ばれ、株主重視、配当重視で、持ち合い解消がなされたというような噂だった。本当のところはどうなのか、私はよくわからない。そのあたり今後どうすべきかという展望もあるわけではない。日本経済が元気だったころに興味ある若い人がひょっとしたら知らないかと思って書いておいた。
JRF2019/3/49293
……。
>言うまでもないことだが、もしも資本主義が、こんにちいたるところで工業にくらべて恐ろしく立ち遅れている農業を発展させうるものならば、また、もしも資本主義が、目の眩[くら]むような技術的進歩にもかかわらず、いたるところであいかわらずなかば飢えた乞食のような状態にある民衆の生活水準を引き上げうるものならば、資本の過剰などということは問題になりえないだろう。こういった「理屈」が、資本主義の小ブルジョワ的批判者たちによって、ひっきりなしに主張されている。
JRF2019/3/42254
(…)
けれども、もしも資本主義がそういうものならば、資本主義は資本主義でなくなるだろう。(…)資本主義が資本主義であるかぎり、過剰な資本は、その国の大衆の生活水準を向上させるのに向けられることはなく -- なぜなら、そうしたら、資本家の利潤が引き下げられるから -- 国外の後進諸国へ資本を輸出することによって利潤を引き上げるのに向けられるのだ。
<(p.335-336)
JRF2019/3/48718
資本は簡単に輸出できるが、労働力は簡単には輸出できない。投資して技術力を上げ、何か危機があったら引き上げることについて何か考えたことがあったが思い出せない。「ひとこと」にも見つからない。
また、持ち出しやすい機械・3Dプリンタのようなもの…と予め教育した労働者を駐在させておく…それで軍艦などから供給作戦を行えるようにしておく…といったことも考えたことがあったはず。
keyword: 3Dプリンタ
JRF2019/3/47714
……。
>すでに 1903年のうちに、ドイツの巨大会社とこのアメリカ=イギリス系トラストとのあいだに、利益分配に関連して世界分割協定が結ばれた。(…)協定は20年の期限で結ばれたが、戦争が起これば効力を失うという用意周到な但し書がつけられていた。<(p.347)
戦争誘引条項…。まぁ、戦争時にどうするか決めないといけない部分はあって、それが場合によっては戦争が起こったほうが有利になる展開もありえるに過ぎない…のかもしれないけどね。難しいところだね。こういうのは戦争後の裁判で裁かれたことはあるんだろうか?
JRF2019/3/46740
……。
>一部のブルジョワ著述家たち(…)は、国際カルテルは資本の国際化の最も顕著な表現の一つで、資本主義のもとで諸国民間の平和に期待することを可能にするものだという見解を表明している。<(p.348)
国際間で利益分配がちゃんとできているのなら、それを維持するための平和が求められる。…まぁ、そういうこともあるのかな。でも、国際間の力関係は日々変わっていていずれ戦争になる…というのは後からこの本で出てくる反論。
JRF2019/3/46982
……。
>(…セシル・ローズはいう…)「(…)帝国とは胃袋の問題である。内乱を望まないのならば、帝国主義者にならなければならない。」<(p.353)
ただし、植民地の者には人権はないが…と。アニメ『エガオノダイカ』も「帝国」が何かやってるそうだね…私は見れてないが。
JRF2019/3/45833
……。
>(…フランスの一ブルジョワ著述家はいう…)「生活がますます複雑になり、暮らしにくさが労働者大衆だけでなく中間層をも圧迫して、それがますますひどくなるため、すべての旧文明国では『焦燥、憤怒、憎悪が鬱積し、社会の安定をおびやかしている。きめられた階層の軌道からはみ出したエネルギーには、はけ口を見つけてやらなければならない。国内で爆発しないように、国外で一働きさせなければならないのだ』」<(p.359)
JRF2019/3/48880
国内の不満をそらすために排外主義を使う…というのは今でも陰謀論的にあると言われてることなんだけど、本当に意識してそういう主張をしている政治家はいるんだろうか? 苦しいときに外に解決策があるかもしれないと妄想するのは人類の半ば本能的なものなんじゃないか…とも思う。
JRF2019/3/47860
……。
>帝国主義にとってまさに特徴的なのは産業資本ではなくて、金融資本なのだ。(…)帝国主義にとってまさに特徴的なのは、農業地帯だけではなく、最も工業的な地域さえ併合しようという渇望だ(…)。というのは、第一に、地球の分割が完了しているので、再分割のさいにはどんな土地にも手を伸ばさなければならないからであり、第二に、いくつかの大列強が、覇権を握ろうとして、つまり、直接に自国のためというよりは、敵を弱めその覇権をくつがえすために、土地を奪取しようとして競争することは、帝国主義の本質にかかわることだからである(…)。<(p.363)
JRF2019/3/48808
金融資本が大事というのは、市場としての価値も見ているということなのかな? 鉄道を引いて土地を売るのをはじめ。土地を奪って再開発するのが、競争相手の力を弱め、市場支配力を増せるのも見逃せない…ということなのか。利益よりも支配・市場シェアが大事ということだったのかな?
JRF2019/3/49792
……。
>金利生活者の収入が、この世界一の「商業」国(…イギリス…)の貿易収入を五倍も上まわっている! ここにこそ、帝国主義と帝国主義的寄生性の本質があるのである。<(p.374)
リカードゥに関するひとこと(↓)を思い出す。
JRF2019/3/48343
[cocolog:70551613]
>マメ知識:リカードの比較優位における「失業者」は「利子生活者」という意味に近い。(…)設備の革新に優位を持つというのは、設備の生産によって相手の減耗をコントロールできることを意味する。(…)「比較優位」のモデルを資本取引がからむような「通貨高」の議論などにつなげるのは、かなり慎重にやらないと間違う。<
JRF2019/3/47819
「設備の革新に優位を持つというのは、設備の生産によって相手の減耗をコントロールできることを意味する。」というのが、上で見つからなかったと書いた「投資して技術力を上げ、何か危機があったら引き上げることについて」の関連だったように思う。「資本」すなわち「設備」の革新に「比較優位」があれば、単なる商品的輸出入を通じるものを超えて、競争相手国に打撃を与えることができる。逆にそれで脅して言うことを聞かすのが帝国主義でもあるのだろう。
JRF2019/3/45688
[cocolog:70355275]
>両者の経済実態が同じで需要に片寄りがあれば比較優位は自然に形成されうるが、単に過去の生産設備があるため低コストでできるということであれば、その「優位」は生産設備を革新することに優位をもったものに容易にくつがえされる。比較優位は、設備改廃の多い現代においてほぼナンセンスではないか。<
JRF2019/3/47374
この辺りを書いたころの自分はもう少し深く考えていたはずだが、今の私は相当ボケていて正直よくわからなくなっている。
JRF2019/3/40423
……。
>一方では、少数者の手に集積されて、中小資本家はもちろんのこと、どんなに零細な資本家や経営者をも対量に服従させる諸関係・諸関連の網の目を異常に細かく広く張りめぐらしている巨大な規模の金融資本、他方では、世界の分割と他国の支配をめぐるよその国民・よその国家の金融グループとの激烈な闘争 -- これらすべてが、全有産階級を一人残らず帝国主義支持の側につけている。帝国主義の展望への「一般的」熱中、帝国主義の気違いじみた擁護、ありとあらゆる手をつくしての帝国主義の美化 -- これが時代の象徴である。帝国主義のイデオロギーは労働者階級のなかにも浸透している。(…)<(p.383)
JRF2019/3/44657
支配されているはずの国民がこぞって帝国主義を支持する。その先に永続するユートピアでも見たのだろうか? それとも進化論を社会にあてはめての熱狂があったのだろうか?
JRF2019/3/49887
……。
>帝国主義の基礎を改良主義的に修正するということは幻想であり、「無邪気な願望」である(…。…)帝国主義の政治的特性をなすのは、金融寡頭制の圧迫と自由競争の排除に関連するあらゆる面での反動と民族的抑圧の強化である(…。)<(p.384-385)
むしろ、帝国主義は、自由に競争する社会進化論からの揺り戻しの面もあるのかな?
JRF2019/3/48914
……。
>自由競争は、どのような独占もなかったなら、資本主義と貿易をもっと急速に発展させるだろうということを、かりに肯定してみよう。ところが、貿易と資本主義の発展が急速であればあるほど、生産と資本の集積はますますはげしく、独占を生みだすのではないか。そして独占は、すでに生まれているのである。ほかでもない、自由競争のなかからだ! 現在では、独占が発展を遅らせはじめてはいるけれども、やはりこのことも自由競争賛成論の論拠とはならない。自由競争は、それが独占を生みだしたあとでは、もはや不可能となっているのである。<(p.388)
JRF2019/3/40447
レーニンの自由競争の否定は、社会主義を期待しているところから出ているのだろう。
ところで、独占禁止法ができて、それで自由競争は本当に戻ってきたのだろうか? 多くはそうするフリをしているだけではないか…という疑いが私にはある。ただ、独占は悪だという共通認識ができ、自由競争のフリをさせるだけでも意味はあるのかもしれないが。
JRF2019/3/46283
……。
>分け取りに参加するこれらの国々の力は同じようには変化しない。というのは、個々の企業、個々のトラスト、個々の産業部門、個々の国が均等に発展するということは、資本主義のもとではありえないからだ。(…)幻想のうちにあるのではなく、資本主義的現実のただなかにある「国際帝国主義的」同盟あるいは「超帝国主義的」同盟は、それがどのような形をとにしても -- (…)すべての帝国主義列強の全体的同盟という形にせよ -- 不可避的に戦争と戦争のあいだの「息つぎ」ということになる。<(p.394)
JRF2019/3/41743
帝国主義の間の同盟があったとしても、国際間の力関係は日々変わっていて、その後、必ず戦争がある…という予言。
JRF2019/3/42546
……。
>多くの産業部門のうちの一部門、多くの国のうちの一国、等々の資本家が独占的高利潤を獲得しているので、労働者の個々の層を買収し -- もっとも、一時のことであり、その数もかなり少数であるが -- 彼らをその部門、あるいはその国のブルジョワジーの側にひきつけて、他のすべての労働者と対立させることが経済的に可能となっている。(…)何よりも危険なのは、帝国主義との闘争は、日和見主義との闘争と切っても切れないように結びつけられていなければ、空虚な、偽りの空文句にすぎないということを、理解したがらない人々である。<(p.400)
JRF2019/3/40611
株式による金融寡頭制に似て、恩恵を受ける者をある程度、確保すれば社会の支持というのは得られるのかもしれない。それに「現実」を付きつけなければいけない…と。
JRF2019/3/48489
keyword: 義務 投票
投票を義務にしろというのは何度か私は主張している。イギリスやアメリカで投票する政党がないという議論はわかるのだが、最近の沖縄とか住民投票についても棄権が意味があるというのはまさに少なめの資本での買収の危険があることのように思う。わかってる人間をマスコミなどを用いて「買収」できる範囲で決めればいいんだ…というのはダメだろう。民主主義はインクルージョンが大事なのだから。
JRF2019/3/43345
……。
……。
『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』。
ペ・キーエフスキーという「若者」の論文を徹底的にこき落ろすのがこの論文である。ペ・キーエフスイキーはレーニンと同じ社会民主党・ボリシェヴィキの党員で、私なんかは言ってることはそこまでおかしくないと思うのだが、レーニンはテッテテキにやる。そこから私もちゃんとした思想家の目にとまるようなことがあれば、ボロクソに言われるだろうことが理解できる。
JRF2019/3/47046
……。
>民族自決ということも、民族の完全な解放と完全な独立を目ざす闘い、領土併合に反対する闘いと、まったく同じであって、このような闘い -- 蜂起もしくは戦争までも含むあらゆる形態をとる -- を社会主義者たる者は拒否することができない、社会主義者であることをやめないかぎりは。<(p.413)
それが民族解放であっても、戦争である限り協力しない…というのは日本国憲法化では逆に求められてすらいるところ。国際的な民主主義には必要なことであったとしても。
JRF2019/3/41306
まぁ、米国などの戦争に協力するという形は現在では模索されているけれども…。国連の戦争に協力するというのは日本人としてよりは一国連民として協力するというのが本来の文脈だろうとは思う。
昔はそのあたりのこともよく考えたものだが、最近はあまり…。
JRF2019/3/44467
……。
>経済的に不可能という意味で民族自決が不可能だと言うのならば、根本的に間違っている。<(p.421)
民族自決といっても、帝国主義の「ブロック経済」下では独立しても「いやがらせ」をされてやっていけないだろう…それで「経済的に不可能」ということではないかと思ったのだが、後でこれは否定される。
JRF2019/3/47719
つまり、帝国主義だろうが資本主義では、民主主義というのは買収されるもので、買収を受け容れれば帝国主義に組み入れられながら政治的「独立」はできるということらしい。
でも、ペ・キーエフスキーが言いたいのは、社会主義革命の上で独立するならやはり帝国主義に入れないのでやっぱりやっていけなくなるのではないか…ということではないかと思うが、レーニンはそういう国では社会主義革命はまだ無理と見て、まずは帝国主義内で独立すべきだということらしい。帝国主義は敵かもしれないが、社会主義へ発展するための一ステップとして正しい道ではあるから…らしい。
JRF2019/3/41992
……。
>民主的共和制は資本主義と「論理的に」矛盾する、なぜなら、富者と貧者とを「公式に」同等視しているから。これは、経済機構と政治的上部構造とのあいだの矛盾である。帝国主義に対しても、共和制は同じような矛盾をもつが、それも、自由競争を独占に変えることによってあらゆる政治的自由の実現をよりいっそう「困難」にするという点で、この矛盾は深められ、あるいは強められている。<(p.428)
JRF2019/3/46837
論理的に矛盾するものが現実的に可能となっているのは、「買収」が行われるのが資本主義の前提だからということらしい。
レーニンのここでの議論はわかりにくい。読み進めると少しはわかった気になるが。
帝国主義下でも民族自決が達成された実例としては 1905年のノルウェーの独立が話題になる。
JRF2019/3/43521
……。
>「自分たちの」軍事作戦が失敗する危険を避けるために、それぞれの弱小民族に対して、国家的独立までも含むできるだけ多くの民主主義的自由を与えることが、金融資本の立場から見て「実現可能」であるばかりでなく、ときによるとトラストにとって、その帝国主義政策、その帝国主義戦争にとって、はっきりと有利なのである。<(p.433)
国際金融資本から見れば国境というのは大きな要素ではなく、国は小さく分割されてるほうが支配しやすいということはあるのかもしれない。
JRF2019/3/48427
……。
>社会革命というものは、先進国のブルジョワジーに対するプロレタリアートの内乱と、低開発で後進的な被抑圧民族のいくたの民主主義的革命運動 -- 民族解放運動を含む -- とを結びつけている一時代としてしか起こりえない。なぜかって? なぜならば、資本主義は不均等に発展するものであり、しかも客観的現実は、高度に発達した資本主義的民族と並んで、経済的にきわめて低い、またはまったく未発達な民族がかなり多く存在することを示しているからだ。<(p.444)
JRF2019/3/47427
社会主義同時革命みたいなのは幻想でしかない…と。まぁ、この辺は戦略でもあるのかな…植民地の民族解放での混乱に乗じてプロレタリアートが革命を起こす…と。でも、現実的にはそういうときは右派的昂揚があって、労働者間でも連携を取りにくかったりもしないだろうか…と思う。プロレタリアートがまず内乱を起こして、それに植民地が応ずる…という場合、最初は少しは必要なブルジョワジーの協力がまったく得られなくなるのではないか…と思う。
JRF2019/3/44257
でも、現実にソ連はでき、ソ連圏はできたわけで、どこかにレーニンの議論の正しさはあったのだろう。
JRF2019/3/41237
……。
>帝国主義は、資本主義とまったく同じく、われわれの「不倶戴天の」敵である -- これはそのとおりだ。しかし、マルクス主義者ならだれでも、資本主義は封建主義に対して進歩的であり、帝国主義も独占以前の資本主義に対してはやはりそうであるのを忘れないはずだ。したがって、われわれが当然のことして支持するのは、帝国主義に反対するすべての闘争ではないのである。帝国主義に反対する反動的階級の闘争をわれわれは支持しないし、帝国主義と資本主義に反対する反動的階級の蜂起をわれわれは支持しない。<(p.448)
JRF2019/3/48480
帝国主義や資本主義は「リベラル」で、保守とはまた別ということなのかな。保守の蜂起なら支持しない…共闘することはない…と。
JRF2019/3/43288
……。
>蒙古人、ペルシア人、エジプト人、および完全な自主権をもたない、例外なしにすべての被抑圧民族のために、われわれが分離の自由を要求すると言っても、それは要するに、われわれが彼らの分離に賛成であるからというわけではまったくなく、ただ、自由で自発的な接近と融合に賛成し、強制的なそれには賛成しないというだけのことなのだ。ただ、それだけのことなのだ!<(p.454)
JRF2019/3/47932
一旦、分離してもかまわない…というスタンスを取りつつも、強く(再びの)融合を期待する…と。いずれ社会主義で世界は融合するのだし…と。ソ連の広い領土につながる議論がここに見えている。
JRF2019/3/42430
……。
>離婚の実例がまざまざと示しているように、離婚の完全な自由をいまになっても要求しないような者は、民主主義者でも社会主義者でもありえないが、これは要するに、この自由の欠如が、抑圧されている性、すなわち婦人を最大限に圧迫することになるからである。<(p.459)
JRF2019/3/48970
[cocolog:90739005] でロリコンマンガを読むのが道義的罪で刑法犯にすべきでないのは、離婚と同じだ…といった論理を展開した。ロリコンマンガを読むのはイエスによれば姦淫ということでいいと思うが、離婚については再婚するまでは姦通よりは契約違反ということなのかな? 子供がいなくてもそうだと思うが、子供がいる場合はいっそう、離婚に良心の呵責はあるものであり、それがまったくないというのはおかしいだろう。ただ、良心の呵責が道義的罪とまで言えるかどうかは、人によって意見が違うかもしれない。まぁ、その辺、論争的になるのもわかってあえて例としたのが私の意見であった。
JRF2019/3/44019
……。
……。
『国家と革命』。
JRF2019/3/47851
……。
>国家は、階級対立が客観的に和解しえなくなったとき、まさにその場所に、そのかぎりで、発生するのだ。逆に言えば、国家が存在しているということが、階級対立の非和解性の証明なのだ。<(p.472)
JRF2019/3/46495
>マルクスによれば、国家は階級支配の機関、一つの階級が他の階級を抑圧する機関、階級衝突を緩和しつつ階級抑圧を合法化し確固たるものにする「秩序」の創出そのものなのだ。ところが、小ブルジョワ政治家の意見によると、秩序こそはまさに階級の和解そのものなのであって(…)被抑圧階級の手から抑圧者打倒のための闘争手段・闘争方法を取り上げることなどではない、というわけなのだ。<(p.472)
JRF2019/3/49810
私は「国家とは何か」について論じたことがないが、似たようなことは↓で論じている。
《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html
JRF2019/3/48689
>
「仕方なく」ではなく「積極的に」人を殺すことを組織が求めていくこともある。私の意見が正しいというバイアスを持って見ると、次のような展開があるように考える。
* 分業と保険が競争を、競争の上でも信用がなりたつよう分配のための支配を、
* 信用と分業が共同体を、共同体が保険として公正のための権力を、
* 保険と信用が実験を、実験を見えないよう分業し犠牲を活かすための特権を、
必要として導き出したと感じる。
<
JRF2019/3/49681
まず、階級が「特権」の必要性により生まれ、そして、詳しいことを知らせないまま分配を行う「支配」をする。その納得が得にくいときは「権力」を使う。「非和解性」というか、「詳しいことは知らせないが納得しなければならない」という構図はあることになる。ときに分業のため武器は持たないという以上に闘争手段を取り上げることもあるだろう。…と、私のフレームワークではこうなるだろうか。
JRF2019/3/46380
……。
>国家が超階級的な機関であるという考えが、第二インタナショナルの空前の裏切りを、帝国主義戦争の反対からその熱烈な讃美者への大転向を、いとも自然におこなわせたのだ。彼らには、戦争による国家の敗北は、国民の破滅と思えた。国民は階級に分裂しており、国家は特定の階級の支配機関だという認識を欠いていた。だから、レーニンの「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンが、売国奴のものと思えたのだ、。たんなる厭戦、反戦気分が、戦争熱の高揚の前にいかにもろいものかは、第一次大戦の勃発がこれを証明する。ここに国家理論の重要性がある。<(p.473)
JRF2019/3/49630
でも、国家は兵士に死をも求めるが、国家が単なる「特定の階級の支配機関」だったらそれができるだろうか? 「幻想」というかもしれないが、そこには宗教的なものがあるというしかないように私は思う。国が滅んでも、そこに生きている市民がいなくなるわけではないというのは近代においてはその通りだったのかもしれないが、一方で植民地の実情など、国が滅べば、人権の大事なところを失うという恐怖に確かな根拠もあったのではないか。
JRF2019/3/43056
そもそも戦争をしないためにはどうすればいいか、という視座自体は重要だと思うけれども。
JRF2019/3/49984
……。
>「富は、その権力を、関接的にではあるが、しかしそれだけにいっそう確実に、行使する」。すなわち、まず第一に「官吏を直接買収する」という方法によって(たとえばアメリカ)、第二に「政府と取引所との同盟」という方法によって(たとえばフランスとアメリカ)。<(p.478)
上のペ・キーエフスキーの論文にすでに同様の文章があった。
JRF2019/3/49835
ここでは「政府と取引所との同盟」について。日本では年金資金などで株式の「買い支え」をしているという話になっている。これは「同盟」なんだろうか? 株価が下がらないように政府がコミットしているということではあるが、株価操作を誰かがしたとき、それに国家として制裁を加えるという話になるんだろうか? 国がだましたりだまされたりした場合、責任を追及できるのだろうか? 多くの情報を独占する国が胴元じゃなくプレイヤーとしてかかわることに本当に正当性があるのだろうか?
JRF2019/3/48678
……。
>(…エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』でいう…)「プロレタリアートは、国家権力を掌握すると、まっさきに生産手段を国有化する。ところが、プロレタリアートは、そうすることによってプロレタリアートとしての自分自身を廃絶し、いっさいの階級区別と階級対立を廃絶し、同時に国家としての国家をも廃絶する。(…)」<(p.482)
抑圧機関としての国家はなくなるが、しかし、「労働者」を統制する「党」は残るということだろう。このあたりはこの後ゆっくり見ていく。
JRF2019/3/46920
……。
>民主主義もまた国家であり、それゆえ国家が消滅するとき、民主主義もまた消滅するのだ(…。…)ブルジョワ国家は、革命によってしか「廃絶」できない。国家一般、すなわち、最も完全な民主主義ができることと言えば、「死滅」すること以外にはない。<(p.484-485)
JRF2019/3/44090
革命によりプロレタリア独裁を実現し、その後しばらくは、反動ブルジョワを抑圧することが必要だが、多数の人民には抑圧がなくなるため抑圧機関である国家は「廃絶」される。反動もなくなったころには、他を抑圧するために意見をわざわざ集約するような民主主義も必要でなくなる。…と。
JRF2019/3/47595
そこにあるのは独裁的な党による「教育と指導」…と。ソ連の「現実」を見るとそうなる。自分達の無知を疑わないのか…と疑うが、「未来のことは十分にはわからない」こともどうやらレーニンは認めている。未来のことを知り判断するのは、技術的なことというのかもしれない。普通選挙のような責任を共有する手続きみたいなものは、欺瞞だとしてしりぞけるということだろうか?
「ソ連の現実」やレーニンの考えはわからないが、マルクスなどは、官僚の選挙は考えていたようなので、選挙を完全に否定するわけでもないのかな。
JRF2019/3/47543
……。
>プロレタリアートが抑圧しなければならない階級とは、いったい何か。言うまでもなく、ブルジョワジーという搾取階級だけだ。勤労者にとって国家が必要なのは、もっぱら搾取者の反抗を抑圧するためである。<(p.490)
JRF2019/3/43578
「搾取」というが、家系的な伝統や進取のためなどの特殊な教育の必要性があったり、対外的な名誉であったり、保険として種などを保管したり…といった富の集中の必要性はあると思う。レーニンもそういうのがまったく必要ないと考えていたわけではなさそうだが、時代がメカニカルになって、そういうのがあまり必要なくなった、もっと計画的にできるようになったという判断があるのかもしれない。
JRF2019/3/45462
「搾取」論については、私は [cocolog:88932382] でいくつかの『経済原論』を読みながら、『資本論』がイノベーションや運の問題をうまく捉えていないことを批判したり、剰余価値をすべて「搾取」のように考えるのは間違いであろうと述べたりしている。
JRF2019/3/49501
……。
>官僚制度と常備軍 -- これはブルジョワ社会のからだに宿る「寄生体」、ブルジョワ社会をひき裂く内的矛盾によって生みだされた「寄生体」、しかも、まさに生命の毛穴を「ふさいでいる」寄生体だ。<(p.496)
常備軍を否定して民兵を導入しようとするのは革命が起こりうるために必要で、民主主義に緊張感を与えるものだというのは、福田歓一の本(参: [cocolog:90689746])にもあった。
JRF2019/3/40054
官僚制度を嫌うのは、夜警国家論がひょっとすると背景にあるのかな? 夜警国家ができるという論があるぐらいだから、官僚をぞんざいに扱っても良くなったのだろうという現状認識があるのかな?
JRF2019/3/48047
[aboutme:118456]
>夜警国家論の問題は、例えば、税務や障碍者支援を民間でやるとしてもその管理を警察がやるのか、プライバシーは秘密だから軍がやればいいのか…と考えると、すぐ無理があるのがわかる。さもなければ国家を果てしなく肥大させるという意味での「ファシズム」になる。
「軍」を核に国家をなしたのが事実だとしても、工人や外交などを軍が管理したかというとそうではない。夜警に慎むのが国家理念の欠かせない一面としても、それだけあるのが「自由」だとするのはあまりにもナイーブだ。
<
JRF2019/3/41273
……。
>(…マルクスとエンゲルス『共産党宣言』にいう…)「……とりわけ、コミューンは、つぎのことを証明した。すなわち『労働者階級はできあいの国家機構をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的にそって動かすことはできない』……」<(p.503)
だからブルジョワの力も必要…となるわけではなく、逆に、だからこそ既存の国家機構を奪うことを考えずまず粉砕しろ…となるようだ。レーニンの強調するところによると。
ただ、粉砕するだけなら「無政府主義」になるが、マルクスは無政府主義者では決してなく、空想ではない「現実的」な策を提示する。…らしい。
JRF2019/3/41241
……。
>(…マルクス『フランスの内乱』にいう…)「(…)コミューンの最初の布告は。常備軍を廃止し、それを武装した人民で置き換えることであった。(…)コミューンは、パリの市内各区から普通選挙によって選出された市会議員からなりたっていた。これら(…は…)いつでも解任されうるのだった。(…)警察(…も…)いつでも解任されうる機関に変えられた。(…)あらゆる部門の官吏も、まったく同様(…。…)コミューンの議員からはじまって上から下まで、公務は労働者なみの賃金ではたされなければならなかった。(…)司法官(…も同様…。)」(p.508)
JRF2019/3/40794
これが「現実的」な策。銀行員は給与を高くして不正を行わせないようにするというのを聴いたことがある。「労働者なみの賃金」というのは短期的には民衆に受けるだろうが、長期的には贈収賄がはびこるだけではないか?
JRF2019/3/48561
……。
>資本主義文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話等々をつくりだした。そして、この基盤の上では、古い「国家権力」のほとんどあらゆる機能が、単純化され、このうえなく簡略化された作業 -- 登録、記帳、点検といった -- に還元しうるので、その機能は、読み書きのできる者ならだれにでも完全に操作しうるものとなり、また、ふつうの「労働者の賃金」で完全に遂行しうるものとなって、その機能から特権的なものや「お上」諷の色合いのいっさいを取り除くことができる(また、取り除かなければならない)のだ。<(p.510)
JRF2019/3/43644
「歴史の終焉」にあたり、社会は完全にメカニカルになっていて、すべてが「作業」になっている。だから、「労働者なみの賃金」でいい…と。革新は今後もあるのかもしれないが、本質的ではありえず、それをする技術者は権力者よりもずいぶん無欲なことが多い。それは革新には責任もともなうからかもしれない。新しい時代にはその責任をとるのは個人ではない。革新をたばねる「特権」を持つのは機械的組織のシステムでいい。…ということか。
JRF2019/3/43839
この辺、今の AI に関する議論に応用できそうだ。「特権」も AI が持つ…と。人間のコントロールから実質はなれることになるが、それが最適への道なのだ…と。AI のプログラムをしデータを与えるのが「エリート」というわけでもなく、それは単なる技術者に過ぎないのだ…と。日々の生活が問題なく送れている以上の「検証」などはそもそも不可能なのだ…と。
JRF2019/3/41408
レーニンの時代にくらべれば、世は、メカニカルな方向には進んでいるとは言える。でも、そこまでの「ディストピア」になる・そうすべきだと考えるのは行き過ぎのように私は思う。
JRF2019/3/46219
……。
>議会制度からの脱出口は、もちろん、代議機関と選挙制を廃棄することにあるのではなく、代議機関をおしゃべりの場所から「行動的な」機関へと転化することにあるのだ。(…)どこでもよい、議会主義国を一瞥してみたまえ。真の「国家活動」は舞台裏でおこなわれ、各省、官房、参謀本部がそれを遂行しているのだ。そして当の議会では、「庶民」をあざむくという特別な目的をもっておしゃべりがおこなわれているだけなのだ。<(p.513)
JRF2019/3/48910
専門家でない勤労者にどこまでのことができるのだろう。民兵経験があるから戦争遂行できると考えるのか? 党の独裁のもとにおけば、逆に軍などが党を訓練してくれて党が高められる…ということだろうか? いや、軍などが訓練するのは単一政党でなくてもいい。複数の政党に学ばせるという道もあるはずだ。おそらく学ばせるために「議会の失敗」をどれほど許容するかという話になるのだろう。(日本の民主党の「失敗」を悪し様にいうのも、それも議会を学ばせるためなら意味があるのだろう。)
JRF2019/3/48272
時間的な問題ということなら、今、革命できることがレーニンには大切だったはずで、実際、革命後すぐの戦争がありいろいろ混乱したのだった。もちろん、それで学習しての「ソ連」ではあったのだろうけど。
JRF2019/3/43435
……。
>前世紀70年代のある機知にとんだドイツ社会民主党員は、郵便事業を社会主義経営の見本と呼んだ。まさにそのとおり。こんにちの郵便事業は、国家資本主義的独占の型にのっとって組織された経営である。そして帝国主義は、しだいにあらゆるトラストをこの種の型の組織に転化させつつある。(…)社会運営のメカニズムは、ここではすでにできあがっているのである。<(p.516)
JRF2019/3/49940
[cocolog:72609069] で書いたが、日本の郵政民営化の必要性というのが私はついにわからなかった。日本の最適化ではなくずいぶんイデオロギッシュになされたな…という印象。電子メールみたいなものが出てきて、郵便の重要性が減じたから…と言われれば、少しはわかった気になるが、そんな理由付けは聞いたことがない。
JRF2019/3/49589
……。
>エンゲルスは、きわめて慎重な表現で、プロレタリア国家は「すくなくとも過渡期のあいだは」住宅を無償で払い下げることは「まずあるまい」と述べている。全人民のものである住宅を個々の家族へ有料で貸し付けることは、家賃の取り立て、一定の管理、住居割当のあれこれの基準を前提としている。すべてこうしたことには、国家の一定の形態が必要とされる。だが、このばあいでも、公務員の特権的地位をそなえた特殊な軍事的・官僚的機構などはぜんぜん必要とはしない。だが、住宅の無料貸付けが可能となるような事態への移行は、国家の完全な「死滅」と結びついているのだ。<(p.525)
JRF2019/3/45332
イスラエルの「住宅政策」には軍が使われている。まぁ、それは特殊な例かもしれないが。
社会主義にとって、不動産は没収されるべき「生産手段」となるのかは難しい問題だろう。全部が公有とするならどう分配するのか。住むところの自由はどうするのか。…という問題も出てくる。そのあたりを現実的に「解決」していたのだから「ソ連」というシステムは大したものだったのかもしれないな…。
JRF2019/3/49589
……。
>(…エンゲルスはいう…)「(…)およそこの世に確固不動のものがあるとすれば、それは、わが党と労働者階級が、民主共和制においてしか支配権をにぎれないということだ。(…)」<(p.537)
AI や「メカニカル」にできないこと、というのを確保しようとして、宗教とか保守的か価値観を残すという話にするのは非効率でしかない。だからまずそれらを否定する「共和制」にする。…と。それはやはり行き過ぎのように私は思う。人間そこまでメカニカルじゃないよ。
JRF2019/3/47615
……。
>(…エンゲルスは…)無信仰状態だけを承認して、人民を愚弄せんとする宗教という阿片に対する党の闘争任務を放棄してしまうような(…ことに…)まっこうから一撃を加えているわけなのだ。<(p.543)
宗教を認めるかどうかというのが私と「共産主義者」を分かつ最大のポイントなんだろう。靖国神社については↓に書いてるようにモヤモヤしているけど、国家に宗教性があるというのは私は是認している。
JRF2019/3/40985
[cocolog:69768386]
>靖国は100年先ぐらいに大宰府天満宮みたくなればいいんじゃないか。…とか妄想することもあった。(…)「新興宗教 靖国」はレギオン的だからダメだ(…)。<
JRF2019/3/43300
宗教の組織はインターネット時代、弱くなっていってよいと思う。が、不必要とまではならないと私は考える。本当の危機においては「幻想」が、足を引っぱることもあろうが、救うこともあると思うんだよね、私は。
JRF2019/3/41447
《仏教への教義:四諦の独自解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html
>出版の時代に現れたプロテスタントの組織がカトリックに比べれば弱いのと同様に、インターネット時代にはさらに宗教組織そのものに「強さ」は必要なくなるとの判断がある<
JRF2019/3/43646
……。
>ところで、立身出世主義を完全に除去するには、たとえ無給の場合でも、国務上の名誉職をば銀行や株式会社の高収入の地位へとびうつる跳躍台として利用する -- これは、最も自由な資本主義諸国のすべてでしょっちゅうおこなわれている -- ことができないようにすることが必要だ。<(p.544)
JRF2019/3/43413
私は「天下り」批判はあまりしない(参: [cocolog:69406094])。私は政権交替がある状況で「政治任用」が広く行われるべきであり、>「政治任用」(…)をするなら、公務員の出入りが激しくなるはずなので、「天下り」以前の話が前景に出るようになって、「天下り」は問題にすらならなくなるかもしれないと私は考えている。<…から。
JRF2019/3/47963
……。
>われわれは、少数者が多数者に服従するという原則が遵守されないような社会秩序の到来を期待してはいない。しかし、(…)人間一般に対する暴力行使の、ある人間の他の人間への服従の、住民の一部分の他の部分への服従の必要はいっさい消滅するであろうことを確信する。なぜなら、人間は、暴力なしに、服従なしに、社会生活の根本的諸条件を遵守する習慣がついてくるだろうから。<(p.549)
JRF2019/3/40003
新しい世代は自然にルールを遵守するようになる…と。統制は必要ない…と。これはユートピア思想でしょ…。
JRF2019/3/44390
……。
資本主義の残滓を残した共産主義の第一段階ではまだ「ブルジョワ的権利」が人々には必要であるという…。
>マルクスは言う、ここにはじっさい「平等な権利」があるにはある。しかし、これはやはり「ブルジョワ的な権利」なのであって、すべての権利と同様に不平等を前提としている。権利とは、すべて、じっさいには等しくなく、たがいに平等でないさまざまな人間に同じ尺度を適用することである。「平等な権利」が平等の侵害であり、不公平であるのは、このためである。<(p.559)
JRF2019/3/43326
人は、結婚して子供がいたり、未婚だったり、障害があったり、様々な状態を持っている。にもかかわらず権利を与えるときは「平等に」与えねばならない。本当は、それぞれの状態に応じて必要な分を与えるべきで、それが実現するのが本当の「平等」なのだ…と。でもそれは一朝一夕にできることではないので、「ブルジョワ的平等な権利」でまずは我慢するべきだ…と。
JRF2019/3/42757
……。
>(…マルクスはいう…)「(…)共産主義の高度の段階では(…)ブルジョワ的権利の狭い視野は完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう書くことができるであろう、『各人はその能力に応じて、各人はその欲求に応じて』と」<(p.562)
ベーシックインカムなどより発展した思想がここにはある…と。
JRF2019/3/43674
……。
>われわれは十二分の確信をもって、つぎのように言う権利をもつ。資本家(…から…)の収奪は、人類社会の生産力の巨大な発展を不可避的にもたらすであろう、と。<(p.562)
イノベーションは資本家がいないほうが起きる、それが「各人はその欲求に応じて」の原資になる…と。いやぁ、それは難しいと思うけどなぁ、私は。
JRF2019/3/44808
……。
>(…プロレタリア独裁がなれば、労働者と勤務員…)が官僚に転化するのを防ぐために、マルクスとエンゲルスによってくわしく探求された方策が即刻とられるであろう。その方策とはつぎのようなものだ。(1) (官僚の)選挙制だけでなく、随時解任制。(2) 官僚に対しては労働者の賃金をこえない俸給を。(3) すべての人が統制と監督の機能を遂行し、すべての人がある期間「官僚」となり、そのことによって、だれもが「官僚」になれなくなるような状態へただちに移行すること。<(p.577)
JRF2019/3/43612
再度出てきた「官僚に労働者なみの賃金」というのはポピュリズムでしかないと思うけどなぁ。官僚選挙制は、インターネット時代、活動を広く知らせることが容易になったので、その実現に近付いてる面もあるはずだが、議員ですらネット活動は慎重になってるのが現状だからなぁ。
JRF2019/3/43861
「すべての人が官僚に」ではないが、ある程度、出向などで官僚と民間の交流は今もある。その範囲を広げるというのは、今もできるかな…とは思う。パソナに公務を投げるよりは、単純作業に近いことでも、出向で公務を体験するチャンスを与えるというのは、ありうる方向かな…とは思う。ただ、談合とかさせないようにするのはどうすればいいのだろう? 共産主義ならその点は関係なくなるのかな…。
JRF2019/3/42385
競争させようとすれば、ある程度、秘密も必要になる。「すべての人が」というのは難しくなる。すべてをオープンにした競争か…。まぁ、私はかなりいろいろオープンにしてるけどね。でも、技術的に大したことができてない。私はどこか間違っているのだろうなぁ…。
JRF2019/3/45039
『世界の名著 52 レーニン』(レーニン 著, 江口 朴郎 責任編集, 中央公論社, 1966年)
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JRF2019/3/45333