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cocolog:90876225

宮田光雄『キリスト教と笑い』を読んだ。「笑い」は、信仰の弱さのしるしかもしれないが、それは神の勝利の約束でもあるのではないか。 (JRF 9082)

JRF 2019年4月 2日 (火)

『キリスト教と笑い』(宮田 光雄 著, 岩波新書 新赤版 219, 1992年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4004302196
https://7net.omni7.jp/detail/1101040860

JRF2019/4/21788

キリスト教に関するジョーク集を買ったとき、Amazon に関連としてオススメされた本。肝心のジョーク集については今ひとつだったが、こちらには優れたジョークの紹介が少しあり、それが良かったし、中心的な話題は、神学・哲学・心理学が渾然一体となっていて、含蓄があり、とても楽しめた。ただし、この本にジョーク集を期待すると裏切られる。

JRF2019/4/24406

……。

>じっさい、キリスト教系の出版社からも -- とくにカトリック系のものに多いようだが -- たえず新しくキリスト教的ユーモア集が出版されている。その一冊に『にんまり笑う信仰問答書[カテキズム] -- 愉快な神学』という本がある。たとえば、この中の「神学者」という章には、こんな話が載っている。

A 「神様は、天地をお造りになられる前には何をしておられたのだろうか」。
B 「神様は、そんなせんさく好きの質問をする人たちのために、地獄を用意しておられたのさ」。
<(p.3)

JRF2019/4/29229

この『にんまり笑う信仰問答書』、おもしろそうなのにネットで検索しても本が出て来ない。自費出版的なものだったのだろうか?

JRF2019/4/24320

……。

>因みに、この本の「地獄」と題する章には、こんな話がある。

一人の男が夢を見る。彼は死んで遠い遠いところにいる。そこで、とても快適な感じがしている。ちょっと休息してから彼は呼びかける。「ここに誰かいますか」-- すぐに白い衣をつけた人が出てきて尋ねる。「何をご希望ですか」「何かもらうことができますか」「何でもあなたの御希望のものを差し上げられます」「では、何か食べるものをもって来て下さい」「何を召し上がりますか、御希望のものは何でもございます」。

JRF2019/4/23526

(…)

彼は、欲しかったものをきちんと運んでもらい、それを食べて眠り、すばらしい時間を過ごした。それから演劇を見たいと所望すると、それも見せてもらえた。こうして、くり返しくり返し、彼は望むものをすべてかなえられた。しかし、ついに彼は、それに飽きあきしてしまう。それから白衣の人を呼び寄せていう。「私は何かしてみたいのですが」「申し訳ありませんが、それこそ、ここであなたに差し上げられない唯一の事柄なのです」。

JRF2019/4/22137

(…)

そこで男は言う「私は吐き気を覚える。私は飽きあきした。それなら、むしろ、私は地獄にいる方がましだ」。すると白衣の人は叫び声をあげて言う「一体、あなたは、どこにいるとお考えだったのですか」。
<(p.3-4)

JRF2019/4/26520

イスラム教や道教の天国と、キリスト教の天国観の違いだろうね。↓を書いたとき、キリスト教系の少女が「地獄」で普通に生活している描写を書いた。集団で天国を受け容れてないように見える…宗派の違いなどからそう見る者がいることの反映だったかもしれない。

《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970

JRF2019/4/23927

……。

>ヨナの神と聖書の神 -- そしてニネベの悔改めの声が天にとどくと、「思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(ヨナ 3:10)。この「思い直され」ということばは、神が《後悔して》(ルター)と訳すこともできる。それは、あまりにも人間的すぎるように思えるかもしれない。しかし、神の裁きとは、けっして避けられない《必然法則》のようなものではない。到来せざるをえないものが、かならずしもすべて到来するものとは決まっていない! 聖書の語る神は、そうした決定論的な発想からは、はっきりと区別されなければならない!<(p.42)

JRF2019/4/20668

予定説については↓に書いた。

《義認説と予定説》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_4.html

JRF2019/4/29031

人は聖人のようには生きれない。日々生活をする者にとっては、神が「思い直され」る者であって欲しい。予定説というのは荒野における信仰ではないか? 予定説という考え方は一度は知るべきだし、真実はそのようなものと心の隅に置いておいてもかまわないだろうが、荒野ではなく、またはそこから戻ってきて生活する者は、「思い直され」る神を心に抱くほうが生き易いのではないか?

JRF2019/4/27485

「思い直され」るのも二重の予定のうちとは言えるかもしれない。そういうところが「真実はそのようなもの」という留保だろう。だけど、そこに留まって普通の生活はできないと私は思う。

神が「思い直す」ことがあるということは全知性に疑いが生じ、そういう「思い直す」余地がある創造ができないというのは全能性に疑いが生じるわけだが、どちらかを知ることができないと説くのも無責任となじられるかもしれない。最近の私は、本気で「思い直す」神があると思いたいけど。

JRF2019/4/26590

《神の全知性》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_9.html

《神は至善か、暴君か》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_8.html

JRF2019/4/20528

……。

>南太平洋の先住民たちにとって、海に沈む太陽は、それが海に呑みこまれるという想像をうながした。太陽は大きな魚の腹の中にあり、翌朝ふたたび現れるとき、あきらかにそこから吐き出されるのだ、と考えられた。<(p.49)

ヨナ書って、こういう死と再生の太陽神話とつながっていたのか。

JRF2019/4/21728

……。

>新約聖書の中の福音書を読んでいると、イエスがときに涙を流したという記事(たとえば ヨハネ 11:35)に出会う。しかし、イエスが笑った、という記事は一度も出てこない。また、周囲の人びとに冗談を言って笑わせた、という記事も見当たらない。じつは、ここには、なかなか深刻な問題がふくまれている。<(p.70)

JRF2019/4/23060

イエスに声をあげての「笑い」がなかったのは、「全知」のイエスにとって意外なことなどなかったということを示しているのだろうか?

[aboutme:125348] で、田上太秀『仏典のことば さとりへの十二講』を読みながら、最初の第二講において、「笑い」とは何か考えたことがある。実際には、それ以前に考えたことを引用しているのだが…。「笑い」の正体を見極めるのは難しい。

JRF2019/4/25695

「自虐的な笑い」「権力者への笑い」は良いが、「差別的な笑い」は苦しい。「自虐的な笑い」は、あとになれば自己卑下と見られ、「権力者への笑い」はすたれるのが早いか、応用の危険のため、危険視される。「笑い」は難しい。

JRF2019/4/23685

……。

>イエスは山上の説教の有名な《至福のおしえ》で、こう語っている。

(…)

このように語るイエスの表情は、喜びに輝いていたのではなかろうか。じっさい、イエスは、《至福のおしえ》につづけて、「喜びなさい。大いに喜びなさい」とくり返している。
<(p.75-76)

JRF2019/4/26610

喜びの笑顔があったはずだ…と。そして、コミュニケーションのための微笑ぐらいはあっただろう…と。イエスは、「神」であると同時に、一人の正常な人間でもあったのだから…。

JRF2019/4/23252

……。

>イギリスの作家チェスタトンは(…)「笑い」についてこう記している。「彼(…イエスと思われる…)には何かかくしていることがあった。私は敬虔の心をもってこれを言うのだが、この驚くべき人物には、恥じらいとでも言うほかない一筋の糸があった。彼が山に登って祈った時、神がわれわれ人間に見せるにはあまりに大きすぎるものが、たしかに何かしら一つあったのである。そして私はときどき一人考えるのだ -- それは神の笑いではなかったのかと」(ミルワード編『チェスタトンの現代用語事典』春秋社)。<(p.80)

JRF2019/4/25513

神にも意外なものはある。イエスは神を喜ばせ、笑わせたのではないか。私もどちらかと言えばそう信じたい。

JRF2019/4/20937

……。

>椎名麟三は、(…)イエスが一回も笑わなかったはずはない、と考えていた。弟子たちの中には、「あの行きすぎの名人であるペトロ」もいた。だから、ペトロはかならず失敗してイエスを笑わせたにちがいない、と(『ユーモアについて』教文館)。<(p.81)

JRF2019/4/20854

>たしかに、福音書によれば、ペトロは、イエスの弟子団の中で、もっとも激情的な人物だったようにみえる。元来、シモンという名前をもつこの弟子にペトロ(=岩)という呼び名をあたえたのはイエス自身だった(マタイ 16:18)。(…)ペトロは、ローマで -- 伝説によれば、さかさまにされたまま十字架にかかり -- 殉教の死を遂げたと伝えられている。ペトロはいわば《岩》となることによって、イエスのユーモアの真実性を証明したのである。<(p.81-82)

JRF2019/4/22211

イエスも人間として笑う機会が確かにあったに違いない。笑ってあげられなければペトロがかわいそうだ。私もオッチョコチョイだが、オッチョコチョイには人を笑わせる神からの賜物としての意味があるとするなら、救いがある。

JRF2019/4/28079

……。

>研究者の中には、《善意の》ユーモアを破壊的なアイロニーから原則的に峻別すべきだという意見の人もいる。しかし、イエスの笑いとユーモアをみていると、それから、いっさいの攻撃的特徴を無条件に切り離すわけにはいかないのではなかろうか。<(p.88)

「攻撃的ユーモア」はイエスも使っている…と。

JRF2019/4/24202

……。

>「神のもの」とは何か。創世記によれば、神は自分に似せて人間を造られたという。デナリに刻まれたカイザルの像のように、人間一人びとりには神の像が刻まれている。してみれば、ここでも「神のものは神に返す」べきではないか。<(p.95)

なるほど。人は神の似像であり、人であるカエサルもまた神の似像である。カエサルの像自体が「神のもの」なのだ…と。

JRF2019/4/22090

私は何度か「神のものは神のものにカエサルのものはカエサルのものに」という説に言及し([cocolog:81757811] や [cocolog:82616563])、「Gifted なアイデアをパブリックに実現したりして「神のものは神のものに」するだけでは不十分で、戦争や疫病などがあったとき苦しむ人に国が軍が引導を渡すことが求められる場合もあるのだから、その組織にちゃんと報いて所属しないといけない」という考えを述べてきた。マタイ 22:21 の正統的解釈はそういうことではないのかもしれないけれど。

JRF2019/4/24477

……。

>平和ではなく、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(ルカ 12:49)。(…)「火」というのは、積極的に平和を《つくり出す》つとめが、生命がけの決意なしにはありえないことを告げているものであろう。<(p.115)

「命がけ」という言葉に↓を思い出す。元は、元英国首相のトニー・ブレアのカトリックへの改宗を念頭に起きなながら考えたことだったと覚える。

JRF2019/4/20660

[cocolog:70267088]
>改宗という具体的手続きは「命懸け」ってのは、どんな宗教であっても「信仰」であればそういうものだろう。<

JRF2019/4/28286

[cocolog:80804001] にも改宗について書いている。そこでは、改宗には死刑を宣告する宗教について、転生とか死と再生を持ってくることについて論じていた。死刑を宣告することについて「命がけ」という少し相対化した言葉で表してみようとしたのだったが、それを超えて何か考えれないかと思ったのだった。

JRF2019/4/24241

最近、ニュージーランドのクライストチャーチのイスラム教のモスクで銃乱射事件(テロ)があり、多くの死者が出た。その犯人は「外国人嫌いでもイスラム嫌いでもなく、自分はレイシストだ」としているらしいが、私は、ネットでイスラムから仏教への改宗はあるが仏教からイスラムへの改宗はないというのも見ていたこともあり、イスラムの改宗の禁に考えが及んだのだった。

JRF2019/4/29698

イスラム教からは改宗はできず、その子も自動的にイスラム教になる…というなら、その子まで殺して、作られるはずだったそれ以降の子孫を作られないようにするのが救いだ…という狂信がありえないかと考えた。

しかし、それは分断を生む考え方でしかない。恐怖で「一時的に」なびくことをイスラム教は認めているはずだから、表面的な信仰を抑えられても、その実、信仰は広がることになるだろう。百害あって、分断しようとする者にも、一利はない。

JRF2019/4/29980

転生のようなものでイスラム教から「救える」かというと、それは仏教がイスラムに駆逐されたところからわかるように、それは、もしかすると仏教以前の改宗に厳しい宗教には通じたのかもしれないけれど、イスラムには通じなかった。ただ、ヒンズー教はイスラムに接して、がんばっているので、まったく意味がないわけではないかもしれない。

JRF2019/4/23296

私は、中東からインドネシアに来てテロを煽るような行為については、アラビアに帰るべきことを主張することがある。それはハディースかクルアーンかは覚えていないが、ムハンマドの考え方をたしか敷衍してそのようなことを言っていたはず。

JRF2019/4/20092

そこから「(征服者は)回帰すべき。その上でまた帰ってくればよい」みたいなことが言えないかと考えた。実際的には、イスラム教への改宗者は、メッカに巡礼して、アラビアとの文化の違いを体得して戻ってきて、その土地の宗教などにある指導者のもとで奉仕する…みたいなことを想像する。

JRF2019/4/27318

しかし、このような言は、インドネシアやマレーシアなどすでに平穏にイスラム教徒が暮らしているところでは無意味だし、新しい移民者が多いヨーロッパでは「火」を投ずるようなことだ。ヨーロッパから中東に「回帰」したら、再び生活を築いたヨーロッパに「帰って」これる保証はない。

JRF2019/4/21318

一方で、イスラムから「命がけ」の改宗をした者の子のことも考えたい。彼は自分がイスラムでないと平穏に信じ続けることができるだろうか? 疑問があるのなら、彼は心の中で「巡礼」すれば十分なのではないか? 上で私は予定説を知るべきだと言った。心で荒野に巡礼し、イスラム的予定説を学んでから、「思い直す」神のもと平穏に生きればいいのではないだろうか。…などと私は考える。

JRF2019/4/21597

イスラムも価値ある信仰だと思う。でも、私のような「信仰」は、あいまいな信仰だからといって、そこに飲み込まれるのはそれはそれで正しくないように思う。何より、ご先祖様に申し訳ない。並存していければと思う。境界付近では常に命がけの決断があろう。それについてこちら側だけからまずは考えてみた。

JRF2019/4/26272

今回の事件、イスラム教には何の落ち度もないから、そこからの改宗を論じるのはフェアではないように見えるかもしれない。改宗の手続きがあることを明確にすることで、「救いたい」こちら側の納得を得るのがこの論の目的としたい。

JRF2019/4/25492

……。

>すでに新約聖書でも後期の文書では、笑いや冗談にたいする批判があらわれる。たとえば、「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談」(エペソ 5:4)などはキリスト者にふさわしくない、という。いな、さらに一歩進んで、「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい」(ヤコブ 4:9)とさえすすめられる。それは、抑制を知らぬ笑い -- 哄笑 -- からは卑俗な思いや行為が生まれることへの警告であろう。<(p.136)

JRF2019/4/21617

「笑いを悲しみに変えなさい」というのは、それだけ取れば、権力者への笑いの背後にある悲しみに気付くべきだといったことも含んでいるのだとは思う。ただ、ヤコブの手紙の文脈では、何も知らずに笑っているところから、信仰生活に入り、自分に人々に救いが足りないことを悲しむようになれ、ということみたいだが。

JRF2019/4/22247

……。

>悪魔は、《キリストの兵士》を打ち敗かすために笑いを利用する。(…)クリュソストモスは、それ(…笑い…)を悪魔のわざとみなすことを躊躇しなかった。笑いは、少なくとも愚かさのしるし、信仰の弱さのしるしだった。笑いは、いずれの修道士にも、またいずれの聖者にもふさわしくない。ただ、サラの笑ったことだけが記されている、と。<(p.145)

JRF2019/4/28859

創世記で、神の使者が年老いたサラに子供の誕生を予言したとき、サラは「そんなことはあるまい」とひそかに笑ったのだった。その前にアブラハムも笑っていた。そして生まれた子に「笑い」を意味するイサクと名付けた。「笑い」は、信仰の弱さのしるしかもしれないが、それは神の勝利の約束でもあるのではないか。

JRF2019/4/25866

……。

>たとえばミハイル・バフチーンは、中世の笑いについてこう書いている。階級的文化における生真面目さは、中世キリスト教的世界観の生真面目さとともに、恐怖や抑圧と一体化しており、「権力・抑圧・権威は、けっして笑いの言語では語らない」(『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』せりか書房)と。<(p.150)

JRF2019/4/22157

キリスト教が権力側になって、権力に対する笑いに不寛容になったという話ならよくわかるのだが、笑いが抑制されるのはその前からだから、「キリスト教徒の特徴」として「笑わない」ということがあったのだな…とわかる。

JRF2019/4/29652

……。

>宗教改革者ルターが、キリスト教の笑いとユーモアについて最大の理解者だったことは、けっして偶然ではない。じっさい、ルターにとって、イエスによる福音の精神を理解する者は、本来、笑いとユーモアを欠くことができないものだった。ルターの信仰義認論からすれば、神の救いが約束され、赦しが与えられ、喜びが告知されているところでは、暗い顔付きをしていることは不可能だったから。<(p.152)

JRF2019/4/26870

著者は、これまでのところで、キリスト教でも「終末」後かもしれないが、救いが訪れたならキリスト者も笑う、そのときのためにこそ笑いを取っておくという考え方を紹介していた。救いがすでに予定されているという新教では、すでに救いがあるのだから、笑っているべきだ…となるということなのだろう。

JRF2019/4/22997

>ルターによれば、「キリスト者は、こころ朗らかな人間でなければならない。さもなければ、彼は悪魔から誘惑されているのだ」という。<(p.162)

クリュソストモスの意見とは正反対!

JRF2019/4/24328

……。

>プロテスタント側でも、ルター主義的オーソドキシーは、あまりに主知主義的になり神学と敬虔とを一体化させたため、生き生きとしたユーモアの精神に余地を残さなくなった。<(p.170)

ドイツ敬虔主義も、ピューリタニズムも「笑い」は抑圧されがちだった…と。近代が近付いても、笑いが許されるように一本調子でなっていったわけではない…と。

JRF2019/4/24712

……。

>(…バルトはいう…)「たしかに、地獄によって脅かされ、地獄へと有罪判決が下され、地獄に陥り、すでに地獄への途上にあるということは、悪いことである。しかし、次の事実もまた、一語たりとも削除されてはならない。すなわち、われわれは、現に、ただ地獄にたいする一つの確実な勝利について知っているだけであり、それは、イエスが(地獄に)引き渡されたということであり、まさに地獄にたいするこの勝利が実現したのは、それによって地獄がもはやけっして(…)何びとにたいしても勝利を収めることが(…)できないためである」(『教会教義学』第II巻第2分冊「神の恵みの選び」)(…)。<(p.178)

JRF2019/4/25355

「地獄は空ッポだ」と。おそらく、すべて悔い改めている…ということだろう。煉獄があるとしても、すべての者は煉獄に行く前のところで悔い改め、それだけで十分とされ天国に行けるのだ…ということだろう。それは地獄や煉獄があるために悔い改めるのではもちろんない…と。

JRF2019/4/23359

私は上でも挙げた小説(↓)で、地獄らしくない地獄を描いた。その「地獄」はすでに空っぽなのだというのは、魅力的な話ではある。ただ、「思い直す」神を心に描き生活する人間にとって、その考え方は高級すぎるのではないかという気もする。

《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970

JRF2019/4/26163

……。

>オランダのある神学者が《主の祈り》を次のように言い換えているのも、同じ終末論的ユーモアの精神からであろう。

(…)

われらをサタン的なユーモアから救い出したまえ。
なぜなら、それは何らユーモアではなく、真のユーモアは汝のものなればなり

JRF2019/4/29779

(…)

-- これは、けっして世俗化された、世俗化されすぎた冗談というようにけなし去ることはできない。すでに《平野の説教》の中で、イエス自身が、はっきりこう語っていたのだから。

「今泣いている人々は幸いである。
あなたがたは笑うようになる」(ルカ 6:21)と。
<(p.209-210)

JRF2019/4/22005

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