cocolog:91758418
フリードマン『資本主義と自由』と藪下史郎『非対称情報の経済学』を読んだ。新自由主義の特に免許制度への批判を反批判しようとして、それに関する本として読んだ。 (JRF 4034)
JRF 2020年3月17日 (火)
先に批判的に『資本主義と自由』を読み、その後、批判の参考として『非対称情報の経済学』を読もうと思っていたのだが、届いたのが『非対称情報の経済学』のほうが先だったので、こちらを先に読んだ。
JRF2020/3/176007
……。
>もし市場が独占であたり寡占的であったりするならば、生産者が価格支配力を持ち、供給量を変えることによって価格を上下させる可能性がある。その結果、上述したように市場では需要曲線と供給曲線が交わるところで価格が決まらなくなる。<(p.24)
JRF2020/3/178006
本のトピックとは関係ないが、micro_economy_*.py で独占企業をどう表せばよいのかと考えた。micro_economy_*.py では、一つの分野に企業が一社しかないという状況はしばしば起こる。その「独占」で何が有利かというと、優位性などを元にした分配が起こらないため、優位性などの意味がなくなるとは言える。
JRF2020/3/171337
が、その企業が生産するかどうかで労働市場などに影響を与えられるというのは、独占していない場合もそうなのが micro_economy_*.py の特徴で、だから何? という話になる。商品価格も独占しているから勝手に決められるわけではなく、他の分野とのかねあいが出てくる。
JRF2020/3/174686
だから、micro_economy_*.py で独占を表現しようとすれば、それが有利になるというのを人為的に作るほかないと思う。分野ごとの利益のバランスを取るときに、他の分野よりも高い利益でバランスがはかられる…とかすることはできると思う。
JRF2020/3/175876
資本家が競争していて、資本家ごとに利益のバランスを取り、独占企業を持っていれば、優位に立てるように、資本家の競争の結果のバランスをとるときに有利になるようにする…ということはできるかもしれない。
しかし、ミクロ経済学の理論のように、理屈を持って均衡が変わる…みたいなことは言えないはず。
JRF2020/3/171406
ちなみに micro_economy_*.py については↓からどうぞ。
《ミクロ経済学の我流シミュレーション その1 基礎経済モデル》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2018/03/post.html
JRF2020/3/175744
……。
>しかし現実には必ずしも情報費用は無視できる大きさではない。新しい情報技術の進歩はそうした情報の不完全性をある程度解消する役割を果たしているが、逆に最近のような急速な技術進歩によって新しい技術や商品が次から次と現れる世界においては、過去の経験から得た情報はすぐさま古くなってしまい、また情報費用が大きくなる。<(p.33)
JRF2020/3/171523
インターネットの登場、IT技術の革命は、情報費用を 0 に近付けると期待された面があり、そうであるがゆえに新古典派経済学的世界・新自由主義の世界が、完全にではないにしろ、現れやすくなると考えられた側面があるはず。
それもそろそろ考え方を変えていかなければならない…というのが割と昔からの私の論調。
JRF2020/3/171204
……。
>私的であれ公的であれ、所有権を保護するためには費用が掛かることになる。<(p.35)
文化が消費に関係している。価値を見出し、物に支出する、それが自分のものでなくコミュニティのものであっても、…というのも文化の大事な機能。所有権だけでなく文化を守るという視点にたつと、かなり広くコストが必要になる。
JRF2020/3/179963
……。
>(‥質の良い中古車を出しがちな…)新車に乗り換えるために車を手放そうとする人は、中古者の販売価格が安くなってしまえば、売却益が少なくなり、そのお金が新車購入には不十分であるため、新車をあきらめなければならなくなる。したがってそうした人々は、価格が高くなるまで車の売却を遅らそうとするかもしれない。中古車価格が上昇すると逆になり、早めにそれを売却し新車に乗り換えようとする。それに対して欠陥車の場合には、所有者は中古車価格がどうであろうとも、できるだけ早くそれを売却しようとする。<(p.85-86)
JRF2020/3/179946
価格が低いほど質が悪くなるため、価格が低くなるほど需要が減るというのは、中古市場に限らない。中古車市場のように物そのものの平均的な質についてそれが言えるというのは珍しいのかもしれないが、レストランとかサービス(用役)がからむとそういうことは大変良くある。ゆえに、情報の非対称性が問題だと言われると今ひとつピンと来ない。
JRF2020/3/177197
……。
>非対称情報の下での市場では、買い手は個々の商品の割合から、平均的な質について推測を行うことができる。すなわち、中古車市場のように欠陥車の割合が増加したときには、買い手が事故車などをつかまされる可能性が大きくなる。逆に、性能のよい車の割合が大きくなると、よい車を購入することになる可能性も大きくなる。<(p.88)
JRF2020/3/170218
相場が高いときのほうが良い買い物ができますよ…っていうのは、中古車ディーラーにとってはうれしい宣伝だろうな。なんか、金もらってるんじゃないかと疑いたくなるよな。経済学ってしばしばこういうことがあるけど、しかたないのだろうね。
JRF2020/3/173879
……。
>このように保険料の上昇と共に、リスクの小さい良質な加入者が保険市場から撤退し(…さらに保険料の上昇をまねき…)、リスクの大きな加入者だけが残る現象は、「逆選択」または「逆淘汰」と呼ばれている。高い価格でも競争できる良質なものだけが勝ち残るのが「自然淘汰」であるのに対して、この選択過程では悪い品質のものだけが勝ち残るのである。<(p.111)
悪貨は良貨を駆逐する…。
JRF2020/3/172930
……。
>個人が医療費の一部しか負担しないとすると、当然需要量は増加することになり、保険制度はその需要増加を防ぐことはできない。すなわち人々は、保険がないときにはそれほど有効でないと思う医療サービスを需要しなかったが、個人負担が少なくなるため試してみようということになる。<(p.141-142)
JRF2020/3/170955
特に所得の少ないものが、必要な医療なのに、それを受けようとしないということが起こりかねない。今、新型コロナウィルス(COVID-19)が話題で、感染症がエリート層にまでうつるというのはわかりやすいが、全体的に健康状態が悪いというのに対する最適化が起こらず、全体効用的にだけでなく経済的にも社会が良くならないということはあると思う。
JRF2020/3/170204
また、需要が増えることで、医師という知識層の人員自体を増やせるというのもある。特に、医療が他の国家資格に関するスケープゴートにされる新自由主義的文脈では、医師の需要を減らそうとすることは、知識層を薄くするのに直結するように思う。それは全体効用的によくないだろう。
JRF2020/3/179438
これについては、↓で論じた。
[cocolog:91702707]
>新自由主義的な国家資格・免許ではなく懲罰的罰金で十分だとする知識の蓄積への影響は、後者が最大級の蓄積者を出しうるが、平均的には前者のほうが平等的で新たな知見を生成しうるのではないか? 「資産市場の簡易シミュレーション」からそう考えた。<
JRF2020/3/171760
全体効用うんぬんは、↓の議論を受けている。
[cocolog:91719427]
>環境保護などを想定したボランティアについてゲーム理論的なモデルを考え、所得税からNPOを支援するような「協力」の必要性を考えた。ゲーム理論の「御用学問」性を疑う。<
JRF2020/3/178612
……。
>屈折需要曲線。(…)ある企業が商品価格を上昇させたときには、現在その企業と取引を行っている買い手は、その情報をすぐさま入手し、他の企業の商品購入に向かうため、需要量は大きく減少することになる。逆にその企業が価格を下げた場合には現在他企業と取引を行っている買い手は、この情報をすぐさま入手することができないため、取引先をこの企業に変更しようとしない。したがって需要量はそれほど増加しない。<(p.194-195)
JRF2020/3/170632
以前 [cocolog:88972860] で、需要の価格弾力性について論じた。上の屈折は、「旧商品」の屈折のしかたに似ている。
JRF2020/3/170399
逆に「新商品」の場合は、情報コストがマイナスなのだろうか? いや、情報を知ると不利になる? 情報を知る立場にあると自由に動けなくなる。だから価格上昇があると、他の商品を購入しずらくなり需要が減りにくい。価格下落があると、知った企業は欲しい分が買えず、他の企業が相対的に買っていくことになるため、需要が増えたように見える。うーん、何か違う気がするな…。
JRF2020/3/172226
……。
……。
『資本主義と自由』(ミルトン・フリードマン 著, 村井 章子 訳, 日経BPクラシックス, 2008年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4822246418
https://7net.omni7.jp/detail/1102660885
JRF2020/3/173901
原著 Milton Friedman 『Capitalism and Freedom』 は、1962年の出版で、この本は 2002年版を底本にしているらしいが、詳しいデータが本にないので、よくわからない。
新自由主義の原点のような本。
今回、私はこの本を批判的に読んだが、世の中も仮に批判的に流れたとしても、いずれ戻って来なければならない考え方という点で「名著」であることは疑いない。
特に免許・国家資格がいらないという意見について反論するためにこの本を読んだ。
JRF2020/3/171855
……。
>「国が諸君のために何をなし得るかを問い給うな。諸君が国のために何をなし得るかを問い給え」 -- ケネディ大統領の就任演説であまりに有名なこの一節(…は…)自由社会における自由人の理想にはほど遠い。(…)まず前半(は…)政府が保護し国民が保護される関係を連想させる。このような関係は、自分のことは自分で責任をとるという自由人の考え方と相容れない。次に後半(は…)政府が主で国民が僕[しもべ]という関係を連想させる。だが自由人にとって国は個人にとって国は個人の集合体に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。<(p.23-24)
JRF2020/3/171586
夜警国家論は↓で少し論じている。
[aboutme:118456]
JRF2020/3/178938
>夜警国家論の問題は、例えば、税務や障碍者支援を民間でやるとしてもその管理を警察がやるのか、プライバシーは秘密だから軍がやればいいのか…と考えると、すぐ無理があるのがわかる。さもなければ国家を果てしなく肥大させるという意味での「ファシズム」になる。
「軍」を核に国家をなしたのが事実だとしても、工人や外交などを軍が管理したかというとそうではない。夜警に慎むのが国家理念の欠かせない一面としても、それだけあるのが「自由」だとするのはあまりにもナイーブだ。
<
JRF2020/3/172546
自由と責任についてのフリードマンの意見は、ナイーブ過ぎる。人はたいていどんなことも責任をとりきれるものではない。人は日々許されて生きているのだ。一番に自分の期待を自分が裏切る。本来やるべきだったことを達成できていないが故に、家族に周囲に迷惑をかけている。でも、それが人間なのだ。…まぁ、この意見のほうがナイーブかもしれないが。
JRF2020/3/176273
また、個人は国の前に社会をつくるそれが「なぜ殺してはいけないか」を担保する(↓)。それは単なる集合体以上の機能を持つ。まして、それが国となれば敵と戦う機能を持ち、自らの命を捧げなければならないこともある。
《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html
JRF2020/3/178690
……。
>第二の原則は、政府の権力は分散されなければならないことである。政府が権力を行使せざるを得ないときは、国よりも州、州よりも郡や市で行使することが望ましい。<(p.25)
最初に国に権力を集め、それを地方に分権するといったふうにすべきで、個人が独立するように地方も独立になんでもしないといけないと考えると誤ると思う。
統一したルールを作り、その上で分権すべきだ。
JRF2020/3/173232
直近の [cocolog:91743489] で、>遺伝子組み換え作物の持ち出しを規制するより、持ち出された物が再度入国するときに特殊な関税を課し、その関税の一部を「著作権料」などとして権利者が受け取れるとしたほうが、スジがいい<とか>種苗の「著作権」などの知的財産の重要度が地方ごと企業ごとに違うようにし、それを保護(貿易)するための行政的・技術的インフラがあればよい<と述べたが、そういうふうにまず国レベルで保護をして、それを地方に分権すべきだろう。
JRF2020/3/171560
現在は車に追跡の容易な電子タグを(ナンバープレートのように)義務付けたり、商店の監視にスマホも利用できる。EU の中で国境を管理するように地境を管理しやすくなっているはずだ。サーバーのプライバシーが結局守られているように、監視のシステムがあってもプライバシーは守れるようにできるはずだ。
JRF2020/3/171241
電子網にとって地球は小さく、日本はもっと小さい。宇宙に人類がかなり遠い未来になるまで広がれないなら、電子網で覆われた上での自由を追及しなければならない。それは西部劇の時代から自由を考えていたのとはだいぶ違う自由になるだろう。
JRF2020/3/178001
……。
>政府は進歩より現状維持を、多様性より可もなく不可もない均質性を選ぶようになるだろう。けれども多様性こそ、明日の底辺を今日の平均以上に押し上げる試みに欠かせない要素なのである。<(p.27-28)
均質化で平均値を上げていたのにエリートを生むための「多様性」を持つために、非正規が増えた日本。父以下の仕事にしかつけなくなった。かつての平均以下に押し下げられた。
JRF2020/3/178652
そのあたりのことを [aboutme:138413] で書いた。>上位15%以内だけが重要なら平均を1増やすより分散を1増やしたほうがいい。<としても、分散だけを1増やすということは大抵できず、平均がずり落ちていくものだ。
JRF2020/3/177980
……。
>自発的協力を通じた調整が可能なのは、双方が十分な情報を得たうえで自発的に行う限り、経済取引はどちらにも利益をもたらすという基本的な了解が(ときに覆されるとしても)存在するからである。<(p.46)
JRF2020/3/177155
大きな企業ぐらいにならないと十分な情報は得られない。そして企業の中では年功序列の議論でよく言われるように、競争が激しいと先輩が後輩に教えるのを渋るなど、情報が伝わらなくなる。それは企業を出た社会でもいっしょじゃないか? だれが、手近かにわかるよう物事を分解するインセンティブを持つのか。経済取引のような部分最適だけではうまくいかない例だろう。
JRF2020/3/177656
……。
>資本主義社会における急進的な社会運動をみると、このような方法で資金を集めた例はない。だいたいは、自分の思想に共感してくれる少数の資産家から資金的援助を得る。<(p.53)
かつてネットの黎明期には「ホリエモン」がいた。しかし、政治に手を出そうとした瞬間に失脚した。
JRF2020/3/170769
日本は中選挙区制から小選挙区制になっていろいろな問題が出てきたが、それを中選挙区になおしたところで、かつてのようなパトロンはいないのが問題だと私は思うことがあった。が、それは問題が逆なのかもしれない。小選挙区で生きる政治家は、かつてほどパトロンを必要としておらず、だからこそ、力が及ばないような大企業が生まれるのをそれほど望んでいないのかもしれない。
JRF2020/3/179873
日本のネット企業の大企業は政商みたいになってしまった。まるで、王の力の及ばない大企業は認められないかのように。それらは、政治的な「食客」を持とうとしない。そんな国で、思想家はどう生きればいいのか。
JRF2020/3/178768
GAFA や Twitter のような多国籍企業は、日本語しかできない思想家など歯牙にもかけない。世界企業だからこそ各国から政治的に独立して民間が免許のようなものを作れるかもしれないが、政商的日本企業では汚職的免許から免れえないのではないか。
そういう日本では、伝統的には、専門職層が知識層を支えてきたと思う。相続税逃れの芸術活動なら、商人も手を出してきただろうが。
JRF2020/3/170279
日本では、再び専門職層を充実するところから、再構築していく必要があるのではないか? [cocolog:91702707] でも少し書いたが、古書を扱うような「古物商」を電子化に対応させ、NonDRM なゲームなどを扱えるようにするところからはじめてはどうだろう?
JRF2020/3/175185
逆に、アメリカやイギリスで小選挙区が二大政党制になってうまくいくのは、実は政治家が大して力を持っていないからではないか? 日本は「プライバシー」が守られず、政治家が「公平」な検察・監獄を掌握し過ぎているのかもしれない。なぜ、そうなるかというと現代は、米国の影響の強さを保持しなければならないからとせねばならないかもしれないが。
JRF2020/3/172515
……。
>技術的独占と外部効果< (p.74)
独占については『非対称情報の経済学』のほうで少し考えた。
JRF2020/3/171072
……。
>民間企業に道路を運営させ料金を徴収させるのは、ほぼ不可能ということになる。<(p.78)
上で書いたように ETC など車に電子タグを義務付けることが可能になっており、その意味ではあらゆる道路に課金できるようになっている。車もガソリン車から EV になり、ガソリン税ではない課税の仕方が求められている。[cocolog:91315288] では、GPS や地図利用に課税するようなアイデアもチラと述べたが…。
JRF2020/3/176631
この本にもどこか忘れたが、土地は基本的に独占であるということを書いていた。道路はそういう意味で独占的になりうることを考えると民間企業がやるというのは私は反対だ。が…。
JRF2020/3/176724
……。
>乗数効果(…)<。(p.160)
ケインズの乗数効果は、通貨供給量が変わらないときなどは効かない…などと述べている。
私も乗数効果には疑問を表したことがある([cocolog:86953876])。ただし、私は道路を作るような公共事業より、介護に予算をまわすことを肯定しようとそれを論じたのだった。
JRF2020/3/178672
↓では公共事業について不十分ながら考えている。
《ミクロ経済学の我流シミュレーション その5 大改良》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2020/02/post-3f22aa.html
JRF2020/3/179314
まず、「乗数効果」のようなものは、原料に原料が必要なとき、それはいわばループするので、ただの原料の増分よりもある程度大きい値、つまり乗数をかけたものが必要になる。…というのがある。
JRF2020/3/174006
さらに、公共事業を必需品に使われる原料の成長とモデル化したとき、極限すると、必需品は賃金に含まれ、賃金は原料に含まれるため、それが単純な原料の増分より必要になるというやはり乗数効果のようなものがあると言える。しかもそれには上限があるはず…というのが理論的帰結だった。
JRF2020/3/177833
……。
>教育バウチャー(。…)もうすこし小規模な例を挙げれば、イギリスでは私立学校に通う生徒の一部に地方自治体が費用を支給している。またフランスでは、私立学校に通う生徒の費用の一部を政府が負担している。<(p.177-178)
>外部効果を理由に学校に政府予算を投じるだけでなく政府が運営することについては、そうしないと、民主的で安定した社会の基盤となる共通の価値観を教えられないからだという主張がよくなされる。<(p.178)
JRF2020/3/171887
[cocolog:91445353] で書いたが、>大学無償化は、私学無償化で、これはよくない。むしろ、さらにリソースが限られてくる将来は、国公立に集中する途上国型に戻すべきだと思う。国公立を無償化するという方向なら理解できる。<…と書いた。
国公立を安くすると、優秀な生徒が集まる。すると学校のレベルが上がり、優秀だからこそ、金持ちのインテリの子弟も国公立に集まってくる。それにより、学閥ができ「共通の価値観」が貧富の差を超えて、インテリの結束力が上がる。
JRF2020/3/179903
私学助成をして「スパイ」をもぐりこませるのは、「共通の価値観」のためには必要かもしれないが、生徒本人がそれで納得できるかという問題がある。また、私学を「無償化」しても大抵それ以外のコストがかなりかかり、実質貧しい者は立ち行かなくなる。
今はパトロンが政商になって、私学の政治的な独立性も求められなくなっているだけで、しかし、(主に米国の)日本の経営にうまみがなくなって「国家の独立」が求められるようになれば、構成員の自立が求められるため、それも変えざるを得ないだろう。
そうなれば、「スパイ」になる生徒本人も、その意義を自覚することになるだろう。
JRF2020/3/178131
私も正直、教育バウチャーが正しいと思っていたころがあった。が、今は主に内田樹氏の意見に影響されて、それではダメだと思っている。
《教育についての「いつもと同じ話」 - 内田樹の研究室》
http://blog.tatsuru.com/2020/03/03_1212.html
JRF2020/3/172803
>学校教育をビジネスの言葉づかいで論じてはならない。学校教育の受益者は集団全体である。(…)「教育サービス・教育がもたらす利得=商品」ならば「学費・学習努力=代価」となる。これは論理の経済が導く結論である。そして、もしそうだとすると、親たちは同じ教育商品を提供する学校が複数あれば、その中で最も学費の安いところを選択するだろうし、同じ理由で、子どもたちは親が選んだその学校を最少の学習努力で卒業しようとするだろう。<
JRF2020/3/179916
上の私の国公立の議論は、ビジネスの言葉づかいに近いのが難点だが…。
JRF2020/3/175143
……。
>職業教育をする学校や、医師や弁護士など高度な専門職の教育をする学校には、先に挙げた基礎教育が持つ外部効果はない。<(p.195)
知識層を作るという外部効果がある。今は大学などがたくさんあって見えにくいかもしれないが、かつてはあった。それをとりもどすところからはじめるべき。
単に知識を知っているというだけでなく、金銭よりも知識に重きを置く価値観がそこにあるということが大切。(上でも挙げたが参: ↓)
JRF2020/3/175121
[cocolog:91702707]
>新自由主義的な国家資格・免許ではなく懲罰的罰金で十分だとする知識の蓄積への影響は、後者が最大級の蓄積者を出しうるが、平均的には前者のほうが平等的で新たな知見を生成しうるのではないか? 「資産市場の簡易シミュレーション」からそう考えた。<
JRF2020/3/174567
……。
>(…職業教育投資…)その一つの答が、株式会社である。貸し手は会社の持分である株式を買い、その分だけ有限責任を負う。<(p.198)
それは有限責任で奴隷が持ちたいというのと何が違うのか。
私の父が税理士を目指すとき所属していた会社の「理解」を得たという。会社がそういう「投資」をし、後日、中年を越して会社を出たかつての仲間などと緩くつながるのがお互いの利益になるということはあるのだと思う。
JRF2020/3/175701
しかし、それを株式会社にして、例えば、資格取得に失敗した人間はその会社で何をすればいいのか。それを子供へも適用すれば、子供の未来をかなり縛ることになるが、それがいいことなのか?
職業教育にも国がほどほどにお金を出し、専門家がその知識とお金でほどほどに国に貢献するのを求めるのはそんなにマズいことなのだろうか。
JRF2020/3/175630
また、民間資格を売ると言うことを考えると、それは信用商売になる。それだけでやっていくにはかなりの市場規模が必要で、やっていけず職業紹介もやるとすると、どうしても自分のところの労働者を売りやすいような合格戦術が取られかねない。それと資格取得の株式会社は競争できるだろうか。試験を作る者、スクールをやる者とどう距離をとるのかも問題になる。PC を前に試験して個人ごとに問題が変わる…などという理想もかつては語られた気がするが、公平性をどう担保したのだろう。
JRF2020/3/172546
一時期、コンプライアンスが叫ばれて、国の信用がなくても市場でもできるという話もあったように思うが、株主がそれをチェックできただろうか? 極限すると、委任者が株主だけなら、多くの場合、コンプライアンスを守る職務につく者は利益相反にならないのだろうか?
JRF2020/3/172579
……。
>(…人種差別を禁止する…)公正雇用慣行法(。…)損害には二種類あり、第一は強制による損害である。(…)第二は、強制によらない損害である。この損害は、契約交渉で双方が合意にいたらないときなどに発生する。(…)ブルース歌手支望者は仕事にありつくが、オペラ歌手支望者はあぶれるという事態も起こり得る。<(p.215)
歌手と人種の違いは、供給の調整が簡単にいくものとそうでないものという違いもある。まぁ、オペラ歌手になりたいというのも持って生まれたものかもしれないが。
JRF2020/3/177692
男女の雇用の均等の強制が、編集者に関して必要…と言われるとそれはダメだと思うが、国会議員に関してなら、必要だと私も思う。社長や編集長に関しては必要ないと思うが、大企業の社外取締役ならそういう規制もあって良いと思う。
差別を禁じれば同じ論理・機構で差別を認める日が来るというが、それに対抗する原則としての自由というのは結局、ブルジョアすなわち金を持っている者の自由でしかなく、金で何でも買えるのがいいというのと変わらない。
JRF2020/3/179812
《時間の貨幣価値:「金で買えないモノはない」か?》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/post_27.html
JRF2020/3/175294
私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。
JRF2020/3/179199
教育のある者がそこかしこにいる。それが差別をなくす第一歩だろう。そのためには教育を受けることの差別をまずなくす必要がある。それは寺小屋レベルだけの話ではない。地位が人を作ることを考えれば、その「教育」のためにはまずそういう地位に差別をなくすことからはじめなければならない。
JRF2020/3/175179
ところで、自由が必要というところから、差別をなくす法の必要性が出てきたわけだが、当然、敵からの自由のためには差別が正当化される場合も出てこよう。自由主義だからといって差別またはその禁を逃れられるわけではない。フリードマンは労働者にとって有利なことに賛成してバランスをとっているように見せているが、結局は、譲っても害のないところを譲るだけで、詭弁を弄しているといえよう。
JRF2020/3/170457
労働組合に協力的でない企業が差別的報復を受ける場合に、金にものを言わせて裏切りを誘い、逆に差別しかえすことにフリードマンは愉悦しているだけだ。組合的価値観に守るべき正義を認めていない。労働も「学び」であり、子の世代の「教育」には労働の価値が維持されるのがもっとも有効であることが考慮されていない。
JRF2020/3/174168
……。
>独占を根本から防ぐもっと効果的な手段は、税制改正である。まず、法人税は廃止すべきだ。また法人税を廃止してもしなくても、企業は配当として払い出さなかった利益も株主の所有に消すべきである。(…)この利益も、所税の申告に含めなければならない。(…)また、累進制も問題である。(…)累進制を大幅に緩和するとともに、税法そのものを見直し、税回避を促す要因を取り除く必要がある。<(p.248)
JRF2020/3/175170
[cocolog:91179993] でも書いたが、AI が中心の社会にしてベーシックインカム的なものがほぼ必須になったら、「法人税」という名目にするかどうかは別として資本への課税ということを本来強化していくという話にならなければならない。知財課税や、GAFA などに対抗するために、法人消費の消費税を増やすべきなどと私は考えたりもした。
それを個人の所得税・負の所得税でできるかというと難しいのではないか。
JRF2020/3/178731
AI が経済を動かすとなれば、株主が株式でコントロールすることの意味が薄くなり、雇われのギークがプログラムを通じて株式をコントロールすることになるのだろう。投資も、労働としてなされるようになる。…と。
そんな状態で、累進制が必要なほど所得に差が出るなら、それはクジ運みたいなものではないか。そういうときは、「結果」の平等をはかるべきではないのか。
《「結果」の平等、「機会」の平等》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post_2.html
JRF2020/3/170662
>「結果」の平等は、一見、「結果」重視に思えるかもしれないがそうではない。これは、同じ「努力」をしたのならば同じ「結果」になるよう、「結果」のほうを操作すべきだという「努力」重視の考え方である。(…)「機会」の平等は、ある時点において、それまで努力をしていようがいまいが、平等なスタートラインに立てることを保証し、それ以降はたとえ運が悪かったとしても、それを受け入れなければならないという思想である。
JRF2020/3/172665
(…)
結果の平等の実現においては、努力の判断が難しいため、努力を強制し、その強制についてきたものを努力したと判断しがちである。よって、強制されていない努力をしても、評価されにくいのが問題となる。努力を見るときには、仕事を与えてみて、それをとにかく最後までやるかどうかを見る。しかし、仕事を与えるという時点で、すでにどういう仕事を与えるかという評価が入っているのである。
<
JRF2020/3/170374
課税ベースを広げるという話も難しい。プライベートバンクなどが儲けられるのは、複雑な税制度があるがゆえという側面もあるはず。王制では特に、単純な税制というのは政治的に無理なのではないか。日本では、結局、所得・相続では課税ベースをほとんど広げられず、累進制だけが取り崩され消費税などの「国民負担」は増えるという結果になった。
JRF2020/3/171396
……。
>私たちの責任は、アダム・スミスの言葉を借りるなら、自分の利益を追求する個人が「見えざる手に導かれて、自分では考えてもいなかった目的へと向かう」ような法的枠組みを整えることである。<(p.249)
効用と金の分布は違う。部分最適を追及すれば全体最適に致るわけではない。(例えば↓)
《ボランティアについてのゲーム理論的なモデル》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2020/03/post-d45df8.html
JRF2020/3/179892
効用について全体最適に致るために法的枠組みを用意して結果を歪める必要がある。ただ、そのとき、やるべき努力は何かという評価がすでにそこには入っているものである。IT 革命の時期「やるべき努力」が見えづらく、自由にいろいろ試す必要があったことは私も認める。
しかし、もうかなり結果は見えたのではないか。今後は、自由にした部分の「結果を平等」にし社会に統合する視点も必要ではないか。まぁ、日本では、成功者もそこそこの成功でしかなく、平等にするための原資がないのかもしれないが。
JRF2020/3/179869
……。
>企業は株主の道具であり、企業の最終所有者は株主である。もしも企業が何か寄付をしたら、その行為は、株主が自分の資金の使いみちを決める自由を奪うことになる。<(p.252)
なぜ、株主がそんなに特別なのか。それなら、>自分のことは自分で責任をとる<(p.23)よう、無限責任を負えばよかろう。株主は個人的にリスクを負って新しいことに挑戦するといっても、それは起業を支える政策による有限責任でしかない。
JRF2020/3/174887
SNS では、その場の管理をユーザーは委任しており、そのことについて企業は責任を持たねばならない。労働者も働く場の管理を企業に委任していると言える。株主の利益だけを見れば良いということはない。
企業の財政が健全であることはもちろん、受任者が独立して社会的に認められた地位にいることが、背任を難しく感じさせ、結果的に株主を含む委任者の利益につながる。
JRF2020/3/178953
……。
>乗客を一人乗せるようなとき、タクシー運転手は盗みを働くチャンスが多いのではあるまいか。だとすれば、それを防ぐためにタクシー運転手を登録制にし、一人ひとりに登録番号を与えて車内に提示するよう義務づけ、被害者はその番号を通報すればよいようにするのは、効果があるかもしれない。この場合、目的は警察力を活用することだけであって、登録制はそのためのいちばん効果的な方法と言えよう。<(p.270)
JRF2020/3/176953
やるとわかっていながらの名義貸しみたいなものを封じれない。免許のように担保価値がないから。マイナンバーがダメな理由と同じ。
免許は、取るのに金と時間がかかるし、取り上げられると金では済まないような不利益を被りうる。だからこそ担保価値がある。
民間の資格は、金を積めば取得できるとなりかねない。そうしないのが資格会社の信用を作るとしても、その排除は難しい。それを刑法で禁じれば、ほぼ国家資格になるが、その新規参入も妨害するなら、それは結局、国家に対する汚職の温床になるのではないか?
JRF2020/3/176588
……。
>(…専門職による…)独占を防ぐ何らかの措置をあらかじめ講じておくことはできても、消費者の利害が広く薄く分散しているのに対し生産者の利害は集中しているので、結局は独占化を完全に食い止めることはできない。<
消費者組合みたいなものはありうるが…。
でも、この論理なら経営者の談合による「独占」で労賃が不当に安く抑えられていることも認めざるを得ないのでは?
経営者の談合に、専門家が談合で対抗しているというみたても可能では? 消費者はあくまでおこぼれをもらっているから、安く買える…となるのかな?
JRF2020/3/171208
……。
>必要なのは、誰の腕がいいのか情報を公開することではないか。そうした情報を与えられたうえでなお無資格者を利用するとしたら、それはその人の勝手である。「知らなかったからひどい目に遭った」とはもう言えない。このように、免許制を要求する理由は認定制で満たされるので、免許制を正当化する理由はもはや存在しないと思われる。<(p.274-275)
その状態で、どうやって資格者が有利に商売ができるのか。間接的に粗悪品やデマをバラまくことにならないか?
JRF2020/3/173664
……。
>「最高級」の医療サービスだけを提供すべきだという主張は、結果的には必ず参入制限に行き着き、医師の数を減らすことになる。<(p.281)
『非対称情報の経済学』のほうで述べたが、健康保険は、医師の需要を増やし、知識層の層を厚くできる。
弁護士については、弁護士檀家制度とかやればいいのではないか。
JRF2020/3/175271
keyword: 弁護士檀家制度
私は、司法制度改革のとき、弁護士の数を増やすのに賛成した。その責任から弁護士の役割を増やすことを提案することが多い。最近では、DMCA 通報に日本では弁護士が必要にしてはどうだろうと提案している。
JRF2020/3/178352
はてなブックマーク - 《ラブライブパネル批判アカウントが相次いで凍結。DMCAを悪用した嫌がらせか | ハーバー・ビジネス・オンライン》
https://hbol.jp/213407
jrf:>(…)国内に限りアカウントの停止等にはDMCA通報に弁護士的免許を必要とし、それがない場合はプロバイダ責任を免れない…みたいな規制は案外いけるのでは?<(2020/02/21)
JRF2020/3/174196
……。
>ドイツでヒトラー政権が誕生すると、専門職に就いている人がドイツやオーストリアから大量に国外に逃れた。(…)ところが、1933年から5年間の統計を見る限り、外国で専門職教育を受けアメリカで開業許可を得た人の数は、その前の5年間とまったく変わらないのである。<(p.281)
日本の「ロスジェネ」に対して、資格試験の門戸が広く開かれたのだろうか? 私は資格取得に失敗したが…。まぁ、上の弁護士と同じで、IT革命の時代、仕事にあぶれた若者が市場にあふれればベンチャービジネスがさかんになると私も踊ったものだった。日本ではあまりそうはならなかったが。というか、成功者があまりにも少なかったが。
JRF2020/3/174850
……。
>市場は多様性に対して寛容で、専門知識や専門能力が広く活用される。だから私は市場を支持するのだ。市場では、特定集団が新しい試みを妨害することはできない。市場では、どれがいちばんいいかを選ぶのは消費者であって、けっして生産者ではない。<(p.290)
インターネットは消費者に選択された者が生き残っただろうか? 無料サイトは閉鎖されたところも多い。
JRF2020/3/174908
結局、アメリカの初期には医師に免許がいらなかった。そうこから市場という「現状」を肯定している保守思想なのではないか。
専門家的価値観は、まず市場から切り離し保護したあと、再市場化して市場の良さを利用する方向で考えるべきではないか。ネット社会であっても、知識の世代を超えた存続は難しいものだから。電子書籍の相続のしにくさ(参: [cocolog:90801393])がそれをさらに難しくするだろうし。
JRF2020/3/171462
うちは母がガス警報器のレンタルをして使っているのだけど、ああいう高齢者を狙って固定的な高めの費用でなされているものも、競争があるはずだから、何がしかのサービスがやがて提供されるはずである。市場の調節機能は、そういうふうにも働くはずである。免許があっても市場にはさらされ競争している。規制はそれを歪ませているかもしれないが、競争がなくなるわけではない。
JRF2020/3/175661
……。
>「各人へは、それぞれが所有する手段を使って生産したものに応じて」 -- 市場経済における所得の分配の根拠となり得る原則がもしあるとしたら、これになるだろう。<(p.294)
そして金儲けがうまいものがとにかく評価される。なぜなら評価は金でなされるから。効用=金。それがフリードマン的自由主義。
micro_economy_*.py を作ってる私は最適化が金銭だけでは金銭的にも失敗すると結論せざるを得ない。
JRF2020/3/170899
……。
>人は口先では「運」より「実力」に価値を認めるけれども、実際には運による不平等の方が実力による不平等よりはるかに受け入れやすいものだ。<(p.301)
「労働力」を買うのはクジのようなものだ(↓)。外れクジだから買わない、当りクジにのみ報酬を支払うといったことはできない。
JRF2020/3/175835
[cocolog:88932382]
>「労働ではなく労働力」を強調するのは、私から見れば、「労働力」を買うのは一面、くじを買うようなものだからだろうと思う。工場労働に対するような労働力は、労働できなくなる「失敗」のリスクを含むくじ=保険商品としての性格を持っていると言えよう。<
JRF2020/3/174542
逆に、労働でクジを手に入れて、そのクジでどこかに当たった人がいるから、その労働に金銭で報酬が支払われなくて良いということがあって良いだろうか? 運による不平等はそんなに受け容れられるものではないのでは?
まぁ、↓ということも私は書いているが。
《誰もできないよりは誰かができたほうがいい》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2011/02/post.html
JRF2020/3/178351
……。
>市場参加者が協力し合うのは、そうすれば各自のほしいものが手に入りやすいからだ。しかし、自分が生産した分の対価を全部は受け取れないような社会では、自分の生産能力とは無関係に取り分を増やそうというスタンスで交換に臨むことになる。言い換えれば、社会全体の総生産を基準に所得が決まるような社会では、双方が満足するような交換は成り立たない。したがって物的・人的資源を最大限に有効活用するためには、少なくとも自発的な交換に依存する社会では、生産に応じて対価を払うことが必要になる。<(p.302)
JRF2020/3/174745
労働供給が少ないと賃金が上がる…のであれば、労働は参加者が多ければ取り分が減る「奪い合い」の要素を持っていると言える。生産に応じてよりも参加しないことを強制できればそのことにより高い対価を得られる。
↓で示したようにそういう状況では、奪い合いに参加しない者の対価を得にくい「ボランティア活動」へ再分配を行うことで全体効用を改善させることができることがあると言える。ある意味、税を通じてボランティアによる「生産に応じて対価を払」わせるということかもしれないが。
JRF2020/3/174581
《ボランティアについてのゲーム理論的なモデル》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2020/03/post-d45df8.html
JRF2020/3/171570
ただ、株式市場などは人が集まる(供給される)ほど利益を出している。個々には奪い合っているように見えても集まることで取り分が少なくなるという「奪い合い」ではない。そして、勝つ者は一人勝ちのようになる。運試しの要素があったとしても、それが生産に応じて受け取っていると言えるのだろうか? それは「強制」を巧妙に隠しているだけではないのか? 例えば、無限責任を誰かに押し付けて…。
JRF2020/3/170485
……。
>年金の場合も、他の経済活動同様、個人に選択の自由があり、民間企業が顧客の争奪戦を繰り広げれば、年金商品の内容は改善が進み、一人ひとりのニーズを満たせるような多様なサービスが発展するだろう。<(p.335-336)
人の一生のような長いスパンを民間企業が保障できると考えるのは、戦場にならなかったアメリカ人のおめでたさではないか? いや、戦争世代のフリードマンがそんなことは考えてないわけないか。
JRF2020/3/170484
民間でやることを認めるのは、危険なクジに誘うようなものだ。株式市場に年金資金をつっこめばボリュームが増えるから、やがて儲かる。その年金資金がとは限らないが…ということか。そうすることで儲かる胴元がいればいいということなのだろうか?
一方で安定した未来があるからリスクを取れるということもあるだろうに、すべてをリスクに引きずりこんで何がうれしいのだろう? むしろ、自由主義の背後には、何かルサンチマンがあるのではないか。
JRF2020/3/171882
……。
>自由を信奉するなら、過ちを犯す自由も認めなければならない。<(p.338)
政府の役割などいろいろ言いながらも、結局はレッセフェールですか。詐欺という「過ち」も認めますか。
JRF2020/3/172451
……。
>市場を通じてプログラムを運用する場合でも、市場を歪めたり市場機能を妨げたりしてはならない。<(p.347)
知財は認めるようだから、知財を通じて市場を歪めましょう。ちなみに、農業や工業が知財ではないとはいえない。
JRF2020/3/177374
……。
>平等主義者であると同時に自由主義者であることはできないのである。<(p.353-354)
《「自由と平等」のレトリック》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/11/post.html
>ここにあるのは「自由」と「平等」の対立ではなく、「自由」と「自由」のトレードオフであり、「平等」を感じさせる枠組の変容である。(…)平等を自由と対置するレトリックにはまって、まず自由を制限するという考えに及ぶのは避けたい。<
JRF2020/3/177969
『非対称情報の経済学 スティグリッツと新しい経済学』(藪下 史郎 著, 光文社新書, 2002年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4334031498
https://7net.omni7.jp/detail/5110191339
JRF2020/3/179188