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cocolog:92073249

『維摩経』の現代語訳と『歎異抄』を読んだ。このあと浄土三部経や法華経なども読むつもり。 (JRF 9077)

JRF 2020年7月25日 (土)

ここの議論の前段階として、植木雅俊『今を生きるための仏教100話』のひとこと([cocolog:92041503])と、「グローバル共有メモ」の 2020-07-11T16:14:43Z から 2020-07-17T13:52:11Z のメモがある。メモは後日、ブログ記事にでもまとめたい。

JRF2020/7/253571

……。

『サンスクリット版全訳 現代語訳 維摩経』(植木 雅俊 訳, 角川ソフィア文庫, 2019年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4044004870
https://7net.omni7.jp/detail/1107008508

JRF2020/7/258528

Amazon 評によると、最初、表紙のサンスクリット文字に誤字があったようである。届いた紙の本を見てみると、修正されたバージョンだった。中身は初版だったので、表紙だけ換えたものが届いたのかもしれない。

訳者については [cocolog:92041503] で『今を生きるための仏教100話』という本を先に読んでいた。

JRF2020/7/256738

「乱暴者」の維摩居士が活躍する経というのをどこかで読んでいた。それで、維摩居士が、あやしいところに出入りしては、神通力を発揮しつつ、こんな悪いことをしているが、悪には染まったことにはならないんだ…的な物語を勝手に期待していた。

ところが、読んでみると、むしろ、維摩居士(ヴィマラキールティ)が病で寝込んでいるところに、文殊菩薩(マンジュシリー)がお見舞いが来て議論するというのがメインストーリーになっている。維摩居士は確かに「自由」で豪放磊落なのだが、それは議論においてであって、神通力を多少発揮したりする以外は、経の中での行動はそれほど乱暴ではない。

JRF2020/7/251483

仏陀の十大弟子が、小乗的な「声聞」とされ、ヴィマラキールティにかつてやりこめられたため、見舞いに行くのをいやがるという小人物として描かれているあたりは私には違和感がある。このあたりは、この後に書かれた法華経では改善されるらしいのだが…。

JRF2020/7/250350

我々の世界(娑婆(サハー)世界)は、五濁の盛んな教化しにくい世界であるがゆえにこそ、わざわざ釈尊や菩薩は頑固な衆生を救済する功徳を積めると喜んでこの世界にあるのだという。逆に言えば、もっと楽に修業できる世界がありうることが実際説かれている。このあたり、後の浄土教につながるのかな…と思った。

JRF2020/7/259814

……。

……。

『歎異抄』(金子 大栄 校注, 岩波文庫 青, 1931年・1981年改版)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003331826
https://7net.omni7.jp/detail/1100318807

著者は厳密には不明だが、親鸞の弟子の唯円によるとするのが定説のようだ。

この本には、現代語訳がないが、細かい助動詞はすっとばしながらなものの、だいたい読めた。

JRF2020/7/255997

……。

>これ即ち弥陀の本願が釈迦の教説となって現われたのである。そしてその釈迦の教説は、善導・法然・親鸞へと伝えられた。その伝承は言うまでもなく知解によるものではない。いずれも深く自力の限界を知ることによりて行われたのである。<(p.15)

「自力の限界」それはある種「無我の境地」・空にあるということだろうか。他力というは、ある種、自己を空とすることで、自への執着をなくす意味があるのかもしれない。

JRF2020/7/254338

しかし、念仏は念じ継がれることにも着目せざるを得ない。念仏を唱えるものは、阿弥陀仏のような頼れる在り方をやがてよしとするだろう(還相[げんそう]廻向)。そこに自らを頼れることを継いでいく自帰依の伝統があるのではないか。念仏がやがて念じ継がれることを考えれば、念仏そのものが廻向なのだろう(往相廻向)。

JRF2020/7/258006

>しかるにその「浄土のさとり」はすでにいうごとく弥陀と同証するものである。したがって仏とならば、また弥陀と同じく「おもふがごとく衆生を利益」しるるものとなるであろう。それは還相廻向として説かれたものである。<(p.20)

JRF2020/7/255691

他者の念仏は阿弥陀仏からの呼びかけであり、自分が何によってか念仏を唱えはじめたときの信こそ阿弥陀仏によって与えられたものであり、唱えられるというそのことがある種の選びになっているのだろう。キリスト教の信仰義認や予定説の文脈を思い出す。

JRF2020/7/259290

>いずれの行も及びがたき身と知る者にも、念仏をもって、わが善とし、わが行とする心は離れない。しかしその心ほど念仏の真義に反[そむ]くものはないのである。<(p.53)

自分(の考え)を継がせるため・衆生的自帰依としてなされる念仏(や往相廻向と自覚してなされる念仏)は、(自己への)一種の執着であり、あまりよいものではない。たくまずして念仏を継ぐほうが上に掲げた自帰依の伝統となろう。

JRF2020/7/255341

よくよく考えれば、念仏は「称名」であって、名を広めることを是認しているとも言え、それが自帰依の一種であることを証ししていると言えるかもしれない。

JRF2020/7/251653

……。

>よろこぶべきことをよろこばせないのは煩悩の所為[しわざ]であり、浄土のこいしくないのは苦悩の世界に執着があるからである。<(p.56)

しかし、そういう教える側に「教えたい」という煩悩があることこそ、教える側も弥陀の本願の対象となっているあかしということでめでたいのだろう。

JRF2020/7/256496

>しかるに学問をもって他宗と優劣を争うならば、それは知識に執着することともなり、また様々な煩悩も起る。<

異義を唱えるのも煩悩とわかってやっているのであれば、浄土真宗らしく、救いがあるということなのだろう。一般の者もそうしなければならないと考えはじめるとすれば害があり、歎[なげ]かわしいことではあるが…といったところか。

JRF2020/7/254744

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