« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »

cocolog:92076991

親鸞『顕浄土真実教行証文類 (現代語版)』または『教行信証[きょうぎょうしんしょう]』を読んだ。『歎異抄』では悪人でも往生できるというが、その経典での裏付けが気になって読んだのだった。 (JRF 3554)

JRF 2020年7月26日 (日)

『顕浄土真実教行証文類 (現代語版)』(親鸞 著, 浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 編集, 本願寺出版社, 2000年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4894166682
https://7net.omni7.jp/detail/5110608164

この本は、または『教行信証[きょうぎょうしんしょう]』と言われる。私はそちらの題でしか知らなかった。

JRF2020/7/262468

『歎異抄』([cocolog:92073249])を読んで、親鸞の思想に興味を持ち読んだ。途中で、大角修(訳)『浄土三部経』を買って部分的に参照しながら、先にこの本を読み終った。

JRF2020/7/267099

……。

浄土三部経の問題点が現れているのが↓。

>『悲華経』に説かれている。(…)人々が私の名号を聞いて念仏し、わたしの浄土に往生したいと思うなら、彼らが命を終って後、必ず往生させよう。ただし、五逆罪を犯し、聖者を謗[そし]り、正しい法を破るものは除かれる<(p.28)

JRF2020/7/264639

五逆罪を犯し、かつ、聖者をそしり、かつ、正しい法を破るものと解釈しても、たまたまそういう人がいたら、それは念仏がもたらす救いから排除されるのか…という問題が出てくる。そしておそらくここは「かつ」ではなく「または」で読むべきところで、あいまいな「正しい法を破る」だけでもアウトである。

『歎異抄』の親鸞を見れば、決してそういう者を排除しようとはしていない。実際、この本の中でも…

JRF2020/7/263397

>凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。<(p.145)

…として、排除を明確に否定している。これがどういう理路で可能なのかが問題となる。

JRF2020/7/261018

>『平等覚経』に説かれている。(…)過去にこのような功徳を積んでいない人は、この経の名を聞くことができない。ただ清らかに戒律をたもった人だけが、この本願の教えを聞くことができる。<(p.26)

まず、これは逆に解釈するのだろう。この経の名を聞くことができたということは、過去世などにおいて、清らかに戒律をたもつなどした人で、すでに資格があるとするのだろう。

これにプラスして…

JRF2020/7/267678

>『往生論註』にいわれている。(…)第十一願に、「わたしが仏になったとき、国の中の人々が正定聚に住して必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」と誓われている。<(p.120-121)

通常、『無量寿経』を素直に読めば、ここの「国」は浄土をさすものと思われるが、親鸞はそうではなく、国を「この世」と解釈しているのではないか。その証拠に…

JRF2020/7/267519

>正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことができるのは、必至滅度の願(第十一願)が成就されたことによる。<(p.144)

…と、「正定聚」→「浄土」という順番になっている。つまり、念仏を唱えられる世の中は「この国」で、第十一願により、その中のものは正定聚にあれば必ず浄土に迎えられ、正定聚には念仏を唱えさえすれば入れるのだから、念仏を唱える人で浄土に迎えられる資格のない人(五逆など)はいない。…ということになるのだろう。

JRF2020/7/261137

仮に五逆の罪を犯した人でも、それは宿業などで、本人の罪ではないとされるのかもしれない。

JRF2020/7/262239

私はそこまで無理しなくても…、地獄に行ったあと、念仏を覚えていることができて地獄で唱えれば、地獄で滅したときに浄土に向かう。…とか、すぐに浄土に入ることはできるが、浄土では過去の因縁が差し障りになることはないと言っても、本人が覚えていて、還相廻向の際に罪を滅ぼしのようなことをする。…とかでいいんじゃないかと思うが、浄土(真)宗はそうはさせたくないということだろう。

JRF2020/7/267280

このような考え方は親鸞の独創ではないようだ。

>『観無量寿経』によって法照のつくった偈。「十悪や五逆の罪をつくるようなどうしようもなく愚かな人は、はかり知れない長い間迷いの世界に沈んでいる。しかし、信心を得てひとたび阿弥陀仏の名号を称えたなら、浄土に往生して、仏と同じさとりの身が得られるのである」<(p.84)

JRF2020/7/265908

ただ、この場合、「はかり知れない長い間迷いの世界に沈んでいる」のが「名号を称え浄土に往生」する前にあることが前提になっている。

JRF2020/7/264828

[wikipedia: 歎異抄] によると>親鸞は書簡にも見られるように、どのような悪しき行いを為しても無条件に救済されるという考えは採っておらず、そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べている。<とあって、上に見たところでは留保はなかったが、実際の活動においては親鸞自身も、法照と同じく罪人には何がしかの留保を持っていた可能性はある。

JRF2020/7/261608

…上での論理は少しこじつけがあり過ぎた。これは、この本の行文類二巻までの内容で私が勝手に限あれたことで、信文類三巻以降を読むともっとまともな論理展開がある。以下をそれを説明する。

確かに『無量寿経』には五逆のものなどを除くと書かれているが、『観無量寿経』ではそうではない。

JRF2020/7/262894

>『観無量寿経』には、「五逆・十悪など多くの呼くない行いをしてきたものもまた往生できる」と説かれている。<(p.311)

この『観無量寿経』によって教えが「上書き」されていると考えるようである。ただし、そこでは正しい法を謗る罪(謗法の罪)が除かれている。

JRF2020/7/268431

>正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の往生を願うはずがあろうか。<(p.313)

釈尊は五逆の一つ父親を殺した阿闍世(アジャータシャトル)王を救った。ちゃんと悔いて反省している者は救おうとしてくれる。だから、過去に謗法の罪を犯しても悔い改めたならちゃんと救いの対象となる。

JRF2020/7/268685

つまり、信じて念仏をした段階で、過去、謗法の罪を犯したことも帳消しになり、結局、あらゆる罪を犯していようと、往生できる…ということになる。

(まぁ、釈尊が救ったのはあくまで五逆の罪なので、謗法の罪は悔いてもやっぱりダメな可能性もなくはないが…。)

では、罪を犯した者には何のデメリットもないのだろうか? そうならそれもおかしな話と言えるかもしれない。そのような者は…

JRF2020/7/263647

>ただし浄土に往生することができたとしても、蓮の花の中に包まれて、非常に長い間その中から出ることはできない。これらの罪を犯した人には、花の中にいるとき、三つのさわりがある。一つには、仏や菩薩がたに会うことができない。二つには、仏の教えを聞くことができない。三つには、他の世界の仏や菩薩がたを供養することができない。この三つのさわりを除けば、その他には何の苦しみもないのである。<(p.322-323)

JRF2020/7/268485

ちょっと思い付いたのだが、阿弥陀仏の本願では五逆や謗法のものが除かれているとしても、阿弥陀仏にならって衆生を救おうとする「菩薩」の中には五逆や謗法のものも救われるように誓願などをする者もいるのかもしれない。地獄に堕ちた者がいるなら、自分も地獄に堕ちてでも念仏などで救いたいとする者もいたかもしれない。

『観無量寿経』において「上書き」ができたのも、そのような「菩薩」がいたからではないか。実は親鸞がその一人である(一人になる)と自認していた可能性はないだろうか?

JRF2020/7/266116

……。

>本願の念仏は、凡夫や聖者が自ら励む自力の行ではない。阿弥陀仏のはたらきかけによるものであるから、行者の側からすれば不回向の行というのである。<(p.108)

他者の念仏によるよびかけも、その他者の廻向ではなく、阿弥陀仏の廻向ということ。

JRF2020/7/269135

……。

>『華厳経』に説かれている。(…)すべての仏がたの法身は、ただ一つの法身である。一つの心であり、一つの智慧である。<(p.127)

涅槃への道は究極には一つとなるのかもしれないが、涅槃は空なので、一つではなくゼロ個ではないか…。「一つの法身」は似非一神教的で私はどうも引っかかる。神の存在証明に対するのと同じく、私は、集合論の半順序集合に関する Zorn の補題や選択公理を思い出す。涅槃に近づけば一つの道に見えるところも必ず分かれ道になっていて、どこまで行っても一つになりそうなのにならない…みたいなことがあるのではないか。

JRF2020/7/261483

いろいろな仏がいるというのが、実はその証拠なのではないか。私は↓と書いたが…

JRF2020/7/263371

[cocolog:92041503]
>「来世」がないのに「真の自己」を見つけろというのは、結局いくつかある類型の自己、しかも、法的に許される自己に嵌め込まれるだけではないのか? それをよしとするのは社会の発展・人口増大の否定であり、それは「真の自己」の(横方向の)探求の否定だろう。<

横方向の「真の自己」の探求は結局(人間から見て)一つでない法身を導くのではないだろうか?

JRF2020/7/261553

……。

>また次のように説かれている(涅槃経)。(…)たださとりへの道があるとだけ信じて、さとりを得た人がいることを信じないのは、完全な信ではない。<(p.207-208)

さとりの可能性があれば、すでにそれを試し成就した人がいる。…阿弥陀仏がその例証になるということだろうか。涅槃経が先だとすると、釈尊が阿弥陀仏の道を確証したと言えるのかも?

JRF2020/7/267923

……。

>『往生論註』にいわれている。(…)浄土に生れようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。<(p.225)

「極楽」の民衆イメージはただ楽しいところだと思う。そういう宗教観のほうが歴史以前から伝統的に先にあって、そこに浄土のイメージをすべりこませている…といったように私は思うが…。

JRF2020/7/263901

……。

他力の信心は…

>速やかにさとろうとする教えでもないく、長い時を費やしてさとろうとする教えでもない。<(p.222)

無限に迷い続けることから脱出することが大事であって、さとりが早くなるのが良いということではない。…というのは [cocolog:90395921] で>「悟り」というものが早く得られることが良いこととは必ずしも言えない<と書いたのを思い出す。

JRF2020/7/266035

念仏を唱えることで、すぐに浄土に行けなくても、浄土に行く因は作ることができた…とすれば救いがある。…もちろん、基本的に必ずすぐに浄土に行けるという理屈だから、蓮の花の中で眠っているときに、地獄の夢でも見るのだろうか? …この辺は、罪を許せない私の迷いかな?

JRF2020/7/264747

>『如来会』に説かれている。(…自力の者は…)浄土に生まれても蓮の花の中に閉じこめられて外に出ることができない。その人々は花の中にいることを、花園や宮殿にいるかのように思っている。<(p.460)

JRF2020/7/264343

ここだけ読めば、花の中で五逆のものは地獄の夢を見、自力のものは天国の夢を見る。…といったことで良さそうに思う。

JRF2020/7/265088

>また次のように説かれている(無量寿経)。(…)浄土は往生しやすいにもかかわらず、往く人はまれである。<(p.240)

>『楽邦文類』の後序にいっている。(…)浄土に往生するために行を修する人は常に多いが、他力真実の教えに出会い、ただちに浄土に往生したものはほとんどいない。<(p.229-230)

JRF2020/7/261577

信なく念仏を唱えても往生できない。地獄に行ってからでも経験から信を得たならば、かつて念仏を唱えた功徳により、やがて往生できる。いや、もう死んでいるのでその瞬間往生できる。…とかあるんだろうか?

反知性主義的になるが、信は学ぶほどゆらぐ…とかするのかもしれない。極楽で不道徳な楽しみをすると思っているのでないかぎり、経を学ばずに一心不乱に念仏を唱えるのがよく、中途半端に学んで護教しようとするほど、信がゆらぎがちなので、ちゃんと師につく必要がある。…とするのが、宗内の安定にはつながるのかな…と思う。

JRF2020/7/260437

……。

>また次のように説かれている(涅槃経)。(…六師外道一人の意見として…)もし先王が過去の世になした行いがもととなって死ぬのであれば、王さまが今先王を殺したといっても、王さまに何の罪がありましょうか。<(p.269)

上で、>仮に五逆の罪を犯した人でも、それは宿業などで、本人の罪ではないとされるのかもしれない。<と私は書いたが、それは外道の説だったか!

JRF2020/7/264839

……。

>また次のように説かれている(涅槃経)。(…)また無所畏という大臣がいて、次のようにいった。「今立派な方がいます。尼乾陀若提子といいます」(中略)<(p.275)

JRF2020/7/267765

ここの「(中略)」は、まるで、それ以降の議論は「読むな」と言わんばかりの省略で気になった。ちなみに「尼乾陀若提子」はジャイナ教のニガンタ・ナータプッタ(Wikipedia によるとジャイナ教の開祖マハーヴィーラ(本名:ヴァルダマーナ))のことらしい。なぜかこの部分の現代日本語訳は値段が高い田上太秀『ブッダ臨終の説法 完訳 大般涅槃経』にしかないらしい。それは私は簡単には読めなさそうなので、ググって、次のような記述を見つけた。

JRF2020/7/263155

《宗教における思想と脱自について - 奈良大学リポジトリ》
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?id=AN00181569-19861200-1009

JRF2020/7/268504

>無所畏の推薦する尼乾陀若提子の説については、親鷺はこの名前だけあげてこの説を引用していない。もう取り上げる必要を認めなかったのであろうか。因みに説はこうである。布施も善なる行為もない。父母もない。現世 ・来世、聖者・修行・道も存在しない。人は八万劫を経過すれば自然に生死輪廻から脱する。罪ある者・ない者すべてそうである。解脱を得れば差別はない。<

JRF2020/7/262248

……。

>方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。<(p.449)

>この第十九願の行と信とをよりどころとして、釈尊は『観無量寿経』に、浄土の要門すなわち方便である仮の教えを顕[あらわ]された。<(p.486)

浄土として描かれる様には「方便」がある。

JRF2020/7/263412

真の浄土に生まれるのが「まれ」であるということも「方便」なのかな。「まれ」であるということにして、そうでなくなるよう他の「菩薩」ががんばらないといけない。そう感じる「菩薩」を増やすための方便でもある。結果的には皆、真の浄土にいつかは行く。…と。

JRF2020/7/268407

>また次のように説かれている(涅槃経)。(…)善良なものよ、もっともすぐれた真の善知識は、仏や菩薩たちである。なぜなら、常に三つの呼い方法で衆生の心をととのえて導くからである。その三つとは何かというと、一つには、この上なくやさしい言葉を用いること、二つには、この上なくきびしい言葉を用いること、三つには、やさしい言葉ときびしい言葉を併せて用いることである。<(p.521)

JRF2020/7/269522

誰でも念仏を唱えれば浄土に行けるというが「やさしい言葉」で、「まれ」にしか真の浄土に行けないというのが「きびしい言葉」になるのだろうか。

JRF2020/7/263338

……。

>『般舟三昧経』に説かれている。(…)仏教以外の教えにしたがってはならない。天の神々を拝んではならない。(…)<(p.562)

>また次のように説かれている (諸天王護持品)。(…大梵天がいう…「)だからどうか世尊、この閻浮提のすべての国土を護るために、すべての衆生を護るために、それらの鬼神を配置してください。(」…)釈尊は、「その通りである。大梵天よ、そなたがいう通りである」<(p.582)

JRF2020/7/269142

「天の神々」を拝んではならない。…「地の神々」ならいいということだろうか? むしろ、仏教を護持する「天の神々」なら拝んで良い…ということなのだろう。本地垂迹説あたりの必要性もこの辺りにあるのだろう。

でも、ここから受ける印象って、実は、仏教は護ってもらわねばならないほど弱く、それを自分のほうがエライかのように言っているのを受け容れているのは、神々のほうが「大人」だから。…といったもの。

こういうのが、イスラム教と対峙したとき仏教がもちこたえられなかった面だったりするのかもしれない。

JRF2020/7/269725

……。

>『菩薩戒経』に説かれている。(…)出家した人の規則としては、国王に向かって礼拝せず、父母に向かって礼拝せず、六親に仕えず、鬼神を礼拝しない。<(p.606-607)

キリスト教の新約聖書 マタイによる福音書 10:37-38 に「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」を思い出す。ここでは出家した者に限られるが。

JRF2020/7/268701

……。

>この書を読むものは、信順すればそれが因となり、疑い謗ってもそれが縁となり、本願のはたらきによって真実の信を得、浄土においてすぐれたさとりを得るであろう。<(p.646)

願わくはこの「ひとこと」を読んだ人にもその功徳があらんことを。まぁ、本人が望むならに限るが…。

JRF2020/7/264844

« 前のひとこと | トップページ | 次のひとこと »