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cocolog:92041503

植木雅俊『今を生きるための仏教100話』を読んだ。著者の博士は、会社勤めをしながら、サンスクリット語経典を翻訳するなど。私はただただ頭が下がるばかり。久々に仏教の哲学について考えた。 (JRF 8081)

JRF 2020年7月12日 (日)

『今を生きるための仏教100話』(植木 雅俊 著, 平凡社新書 0927, 2019年)
https://www.amazon.co.jp/dp/B081GZ1G41 (Kindle 版)
https://7net.omni7.jp/detail/1107035001 (書籍版)

JRF2020/7/125795

私はマンガ以外は Kindle ではあまり買わないのだが、紙に比べてあまりにも安いのでこれは Kindle で買った。ただ、画面で読む縦書きに慣れてないせいか、読むのに時間がかかってしまった。紙で買ったほうが良かったかも。

著者の博士は、会社勤めをしながら、サンスクリット語経典を翻訳するなど。私はただただ頭が下がるばかり。翻訳した経典はまず『法華経』そして『維摩経』など。

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……。

>わが心(一心)が尊く勝れたもの(妙)だということを覚知した時、そのまま他者の心(余心)もまた尊く勝れたものだと知る/信ずることができる。<(No.324-326)

[cocolog:90689746]にも書いたが、私は、「自分に厳しく他人には甘く」というのは当然そうあるべきだと考える。自分には甘くしてしまいがちだから、それぐらいでちょうどいい。

もちろん、人によっては残業をすることが厳しさであったり、逆に定時に帰ることが厳しさだったり…といった具合に人によって「厳しさ」の定義が違うことに注意しなければならない。

JRF2020/7/122858

ある人から見たとき、自分にだけ甘い基準を適用しているように見えることがある。それをマネして良いという開き直りがあるとマズい。そういうことがないようシングルスタンダードのように見せるため、自分と他人とを同じ基準にしたほうがわかりやすい。シグナルとしてシングルスタンダードを使ったほうが良いものと思われる。

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ただ、基本は「自分に厳しく他人には甘く」のダブルスタンダードである。同じ基準で程度の違いを出せるなら、そこで自分を厳しめにしていくことはときに必要だろう。

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そういう「ダブルスタンダード」を認めるなら、「わが心を優れたもの」としなくても、「他者の心は優れたもの」とできる。自尊心がないから、他人の優れたところがわからないというのは間違いだと思う。自尊心があったほうが他人の優れたところがよりわかるというかもしれないが、自意識だけ過剰な人間もいる。他人を認めるためにまず自尊心が必要ということは必ずしもない。

JRF2020/7/125402

自尊心がなければ、他者の評価ができないなら、この先、私は何者も評価できなくなるだろう。

他者をちゃんと評価するためには、自分もある程度やってみたほうがよいというのは、また、別の話。

JRF2020/7/125461

……。

>人が声を出すのに二種類有るという。一つは、自己の心に思っていることを何とか伝えたいとして発される声、もう一つは、自分自身は何も知らないのに、知っているかのように「人をたぶらかす」ために出す声だという。<(No.408-410)

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わからないことをわからないなりに伝えることもあろう。たとえ、その者が「人をたぶらかす」ために発した声だとしても、そこから伝わることもある。まぁ、釈尊ぐらいの者ならば、わからずに伝えるためだけに発する言葉・行く末の効果がわからない言葉などなかったのだろうけれども。

私に関しては、そんなのばっかりだ。

JRF2020/7/127353

……。

>"真の自己"の探求こそ、釈尊が一貫して説きたかったことであり、いつの世も常に一貫して仏教の目指すべきことだということ<(No.1043-1044)

「自分探し」という言葉、はやったなぁ…。法に帰依するということは、自分というのは単に自分の中にあるものとは限らないということだろう。「探求」をしていれば、それは生活・行動に出るものでもあるのだろう。阿弥陀仏や弥勒仏となりうる自分を発見し、そこに帰依する自分も同時にありうると観れるのかもしれない。

JRF2020/7/125324

しかし、それだけでは生活できず、そして生きることを選ぶのだから、探求した上での「本当の自分」を生きることは難行になる。来世にのみ期待をかけるような生き方をして、今の自分が求めた「真の自己」を生きているなんて言えるのだろうか?

一方で、かつての(正しい)望みがかなわない者にも、来世がないのが望みであるように人に見せるのが良いことと言う。「来世」として子供に期待をかけることも含めるなら、それは衆生が生き続けることの否定である。

JRF2020/7/126139

「来世」がないのに「真の自己」を見つけろというのは、結局いくつかある類型の自己、しかも、法的に許される自己に嵌め込まれるだけではないのか? それをよしとするのは社会の発展・人口増大の否定であり、それは「真の自己」の(横方向の)探求の否定だろう。

まぁ、いかような死に方をしても納得できる方法があるようにはなるのかもしれないが。

JRF2020/7/122651

……。

>鳩摩羅什訳に存在しないサンスクリット原典(ケルン・南条本)の第三一偈(詩句)には、観音が導師となる阿弥陀仏の浄土に女性は一人も誕生しないとある。<(No.1977-1979)

>「女性は穢れているので成仏できない」(女人不成仏)とまで言われるようになるのである。<(No.2162-2164)

>『大智度論』巻五六(…)そこで仏が言った。「女性も仏となれるのだ。ただ、女身を転じて男身となることによってである」と。<(No.2231-2236)

JRF2020/7/124096

著者は、仏教におけるジェンダー平等論で博士になったらしい。

JRF2020/7/127546

私は、[cocolog:90395921] で愛川純子『セクシィ仏教2』を読みながら、「変成男子」をある種の予定説をもたらすものとして擁護している。

JRF2020/7/124822

>まず、「悟り」というものが早く得られることが良いこととは必ずしも言えないのではないかというところをスタートとする。(…)女性は、今生で成仏が決まらないのは、来世で成仏できるほどの因縁を積むその忍耐力が期待されてもいるからではないか。その残りの生で菩薩のように周りに良い影響を与えることができると考える(…。)

JRF2020/7/128818

(…)

今生で女性が成仏に近付くことによって、次に転生してきた男性・または(成仏はもっと先でも良いとして)もう一度女性として転生することを選んだ女性が、人間の世界においeて善行を積める。そういう男女はある意味成仏に選ばれている・予定されている。

JRF2020/7/123361

……。

>けれども、「法」が「人」の身体であることはありえない。真理に意志があるはずもなく、喜怒哀楽の感情もあるはずがない。<(No.3253-3254)

まぁ、このあたりは、人工知能という「真理」のかたまりが、意志を持てばまた変わってくるところなのかな…とは思う。コンピューター上でそれがありうるなら、コンピューター登場以前にも宇宙にある真理が意志を持ち得ないわけがない…となるかならないか…。

JRF2020/7/128197

……。

……。

私の考え方は、まさに机上の空論で、それを信じ続けやがて仏になったような、または、誰かが修業して辿り着いたような真理ではない。むしろ、人生の敗北者として、巻き返しがほぼかなわぬところからなされる遠吠えのようなもの。反面教師にすらなれない。

著者のような在野の成功は光で、多くの若者にはここを目指して欲しいと思う。

JRF2020/7/123010

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