cocolog:92126483
中村元(訳)『ブッダのことば - スッタニパータ』を再読した。ニルヴァーナ(涅槃)はいってみれば空で、そこに致ろうとして無限の施行が行われうる。そのありかたが法として確立することもニルヴァーナと呼ぶ。…みたいなことを考えたりもした。 (JRF 7197)
JRF 2020年8月14日 (金)
『ブッダのことば - スッタニパータ』(中村 元 訳, 岩波文庫, 1984年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4003330110
http://7net.omni7.jp/detail/1101171019
JRF2020/8/147882
……。
まずは、紹介のために解説から…
>いまここに訳出した『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。
JRF2020/8/148409
(…)
この『ブッダのことば(スッタニパータ)』の中では発展する以前の簡単素朴な、最初期の仏教が示されている。そこには後代のような煩瑣な教理は少しも述べられていない。ブッダ(釈尊)はこのような単純なすなおな形で、人として歩むべき道を説いたのである。
<(p.433-438, 解説)
JRF2020/8/146786
「原始仏教」というと、オウム真理教の事件もあったので、残酷な教えでも載っているのかと思うかもしれないが、そんなことはない。聖書・法華経とかは結構、残虐なこともあったりするが、この経典に関してはない。
JRF2020/8/147137
……。
>(…ゴーダマ・ブッダ…)は特殊な哲学説や形而上学説を唱導したのではない。人間としての真の道を自覚して生きることをめざし、生を終るまで実践していたのである。<(p.271, 註)
ただ、この経典からは、あまり生き生きとした印象は受けない。
JRF2020/8/141524
……。
>六つの重罪 -- cha abithanani. 母を殺し、父を殺し、阿羅漢を殺し、仏の身体から血を出し、僧団の和合を破り、異教徒の教えに従うこと(…)をいう(…)。<(p.302, 註)
前半五つは「五逆」として知られる罪。「異教徒の教えに従うこと」を罪とするのは、このところの読書ではあまり見なかったな。異教徒排斥は、異教徒と勢力を争う宗教の常だが、仏教でもその程度かという感想に私はなってしまう。
JRF2020/8/143267
……。
>よく炊[かし]がれ、よく調理されて、他人から与えられた純粋で美味な米飯の食物を舌鼓うって食べる人は、なまぐさを食うのである。カッサバよ。<(p.54)
このあと、鳥肉とともに米飯をとるという表現が出てきて、ここの米飯は一般の米の飯がダメなんじゃなく、贅沢な、まぜごはん的なものがダメ的に受け取れなくもないが、初期は、米飯も「なまぐさ」とされたということではないか。
JRF2020/8/145001
[cocolog:91445353] で>ヴィーガンやジャイナ教は、虫を殺す農業は認める。<と書いたが、それはだいたい私の勘違いで、仏教でも当初は、虫を多く殺さねばできない米は、「なまぐさ」とされていた…ということだろうか? …わからない。
JRF2020/8/148529
……。
>世俗の人が、そのままでニルヴァーナを体得できるかどうかということは、原始仏教においての大きな問題であったが、『スッタニパータ』のこの一連の詩句からみると、世俗の人が出家してニルヴァーナを証するのではなくて、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる(しかし、のちに教団が発達すると、このような見解は教団一般には採用されなかった)。<(p.310, 註)
僧団が法を維持しなければ、ニルヴァーナもない・消失する。…ということなのだろうか?
JRF2020/8/148627
……。
>ここで注目すべきことは、この詩句においては、カースト制を乱さないことを理想としているということである。だからカースト制度を容認しているわけである。他方、多くの仏典では、カーストの区別は無意義であると説いている。そこの関係がどうなるのか、ということが問題となるが、恐らく世俗の世界においてはカーストを容認して、高い立場から見るとカーストの上下関係は無意味である、ということを言おうとしたのであろう。だから、仏教は階級闘争の理論を説いたのではない、と言えよう。<(p.314, 註)
JRF2020/8/143049
ただ、ここの部分に関してだけ言えば、バラモンの特権を行使しないように、下々が守っている範を越えないように諭していると取れ、平等を指向しているとも取れる。
JRF2020/8/146065
……。
>(1)生きものを害してはならぬ。与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。(7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはらなぬ。(8)地上に床を敷いて臥すべし。これこそ実に八つの項目からなるウポーサタ(斎戒)であるという。苦しみを終滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。そうしてそれぞれ半月の第八日、第十四日、第十五日にウポーサタを修せよ。<(p.83)
JRF2020/8/140516
在家の八斎戒。最初の三つの他は必ずしも固定されたものではないらしく、常に守れというわけでもないらしい。守ろうと思えば守れるものがほとんどだが、「地上に床を敷いて臥すべし」は現代日本では守れる人が限られているか。
JRF2020/8/147214
……。
>世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。-- 進み行く車が轄[くさび]に結ばれているように。熱心な修行と清らかな行いと感官の生御と自制と、-- これによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である。<(p.141)
JRF2020/8/148809
ここは、バラモンは、生まれによるか、行為によるかが問題となっているところで、この本では「行為による」と結論付けてるかのように読めるが、それは違うのではないか。ここではブッダは、両者を止揚しようとしているので、バラモンは行為に束縛されない=行為を超えているいるがゆえに、(生まれによるのではないことはもちろんだが)「行為」にもよらないと説いているのではないか。
JRF2020/8/140699
……。
>ここには〈地獄とはこの世に見られるものである〉という、恐ろしく現代的な、また哲学的な解釈が、今から千六百年前のブッダゴーサによっって表明されているのは、驚くべきことである。そうして、右の詩から見ると、最初期の仏教でもそのように考えられていたらしい。<(p.373, 註)
JRF2020/8/141645
↓を思い出す。
《四諦:仏教教義の提案的解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html
>苦諦 - 現世は苦である。人は前世での煩悩の咎めをうけるために、無常なこの世に煩悩の権化として生まれるのである。この世において、人の行いは常に煩悩の徴しとならざるを得ない。この世に生まれた者は釈迦といえどもこの因果に苦しまねばならない。<
JRF2020/8/148342
……。
>仏教は、普通は「法を説く」と言われているのに、ここでは「法」(dhamma)を否定している。その意味は〈教義〉なるものを否定しているのである。教義を否定したところに仏教がある(…)。<(p.384, 註)
論争をせず、教義もないのが初期仏教。意外に自由だったのかな?
JRF2020/8/148651
……。
>わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行なってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。<(p.201)
医術がダメ…。
JRF2020/8/142599
[cocolog:92031461] で>医術にも「当たるも八卦・当たらぬも八卦」的側面がある。治療をほどこしても治らないことがあれば、治療をほどこさないでも自然治癒することがある。かりにうまく行かなくても言いくるめるのは、占術と似ていると言えなくもない。古代中国において占術と医術は似ていた。<と書いたが、古代では一種の占いのようなものなので、医術が禁じられたのか。
JRF2020/8/146447
それとも普通に、毒薬などを扱うことがあり、それを「実験」しなければならないことが厭われたのか。
それとも単に、ここでは懐妊術と並んで述べられているので、それと並ぶぐらいの医術の中でも特定のものだけが禁じられているに過ぎないのか。
…どれになるのだろう?
『法華経』には薬王菩薩などがいて、後世では一般的な医術の禁がなかったのは確実だが…。
JRF2020/8/140080
……。
>ここでは、「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう」(…)という。この文章から見るかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。ブッダゴーサの註によると(…)ニルヴァーナを目的と見なし、戒などの実践を手段と見なしている。(…)しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実現されないであろう。<(p.420, 註)
JRF2020/8/148440
ニルヴァーナ(涅槃)はいってみれば空で、そこに致ろうとして無限の施行が行われうる。そのありかたが法として確立することもニルヴァーナと呼ぶ。…みたいなことを考えたりもしたが、どうか。
日々学ぶあり方が法としてあることがニルヴァーナでよく、ただ、それは同時に手段とも受け取れがちだが、法になっていない手段なら、まだそれはニルヴァーナと呼べないということで、矛盾を回避できるのではないか。
JRF2020/8/141422
……。
>最初期の仏教では、或る場合には、教義を信ずることという意味の信仰(saddha)は説かなかったが、教えを聞いて心が澄むという意味の信(pasada)は、これを説いていたのである。<(p.430, 註)
「仏教」は「信仰」ではなく「哲学」であるといったところだろうか。それで救われる人もいるのかもしれない。
JRF2020/8/140477
この本の前に 『維摩経』『浄土三部経』『法華経』、親鸞『教行信証』、日蓮『立正安国論』の現代語訳と『歎異抄』を読んでいる([cocolog:92073249], [cocolog:92076991], [cocolog:92083486], [cocolog:92105472],[cocolog:92107574])。
2016年3月に一度、この本を読んでいた([cocolog:84709327])が、すっかり忘れてしまっていた。基本的には、ここを読む前にそのひとことを読んで欲しい。重複することも二・三書くかもしれないが…。
JRF2020/8/149720