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田上太秀『ブッダの最期のことば』と『「涅槃経」を読む』を読んだ。要するに「怠けるな」というのが釈尊の遺言なのだという。私は著者と違って「山川草木悉皆成仏」も問題ないと思うし、霊があるというのも問題ないと思う。「変成男子」も解釈によってはアリではないかと思う。 (JRF 0516)

JRF 2020年8月18日 (火)

この本の前に 『維摩経』『浄土三部経』『法華経』、親鸞『教行信証』、日蓮『立正安国論』、『ブッダのことば - スッタニパータ』の現代語訳と『歎異抄』を読んでいる([cocolog:92073249], [cocolog:92076991], [cocolog:92083486], [cocolog:92105472],[cocolog:92107574], [cocolog:92126483])。

JRF2020/8/189125

『ブッダの最期のことば』(田上 太秀 著, NHK 出版, 2013年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4140816066
https://7net.omni7.jp/detail/5110162270

JRF2020/8/182789

涅槃経を中心に仏教の教義を述べる本。

>釈尊の遺言は言い換えると、「諸行無常であるから、精進しつづけよ」ということになる。<(p.18)

要するに「怠けるな」というのが釈尊の遺言なのだという。

JRF2020/8/187234

私は、結果を重視するといいながら、結果を出すためには周りから遊びと思われていることもしなければいけない。結果が出せるなら遊んでいていい。(逆に結果が出ていないなら何もやってないのと同じ。)…などと言いつつ、実際には、努力を怠っていたのだと思う。私が失敗しているのは、それが大きな理由なのだろう。

JRF2020/8/187647

《「結果」の平等、「機会」の平等》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post_2.html
>機会の平等の力点は、「運」またはそう見えるものを評価しようとするところにある。特に新しい技術の登場などで、どういう「努力」が結果に結び付くのかわからない場合は、機会の平等を重視しようという風潮が強くなるのは当然ともいえる。<

JRF2020/8/186637

……。

>このように『涅槃経』には、紀元前に編纂されたもの(編纂経典)と、紀元後に創作されたもの(創作経典)があるので、以後、本書では前者を古い『涅槃経』、後者を新しい『涅槃経』と区別して呼ぶことにする。<(p.12)

私は、新しい『涅槃経』が『大般涅槃経』で、古い『涅槃経』を単に『涅槃経』と呼ぶのだと誤解していた。古い『涅槃経』も『大般涅槃経』と呼ばれることに変わりはないらしい。

JRF2020/8/188120

……。

>八正道は唯一のさとりへの道である。<(p.64)

八正道については↓などで述べている。

《十二縁起と八正道:仏教教義の提案的解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-1.html
>在俗者も生活のうちで八正道などの言葉にふれ、無意識のうちに八正道を実践しているものと私はする。例えば、公共事業という方便は実は正精進の姿ではないか。<

JRF2020/8/183218

……。

>ブッダの不滅も仏性の不滅も、要するに、「不滅」とはものが変化している状態は無常であるが、それらのものが有益となるものに変わり、相続していくこと、なくならないこと、受け継がれていくこと、享受されていくことを「不滅」と説明している。<(p.113)

JRF2020/8/185243

『スッタニパータ』を読んだとき([cocolog:92126483])、>僧団が法を維持しなければ、ニルヴァーナもない・消失する。…ということなのだろうか?<と疑問を呈した。相続がなければ、達成されたはずの「不滅」性はどうなるのかという疑問にもなる。

大乗的議論を妄想してみると…、

JRF2020/8/188854

僧団が小さくなるということは、菩薩の受け皿が小さくなるということではないか。菩薩が人を救いにくくなり、救う功徳を積めない菩薩たちが涅槃に入るのが遅れるようになる。ある意味、ニルヴァーナが小さくというか「遅く」なる。もちろん、僧団が消失しても菩薩は働きをやめないだろうから、遅々とするが救いは継続され、菩薩は徐々にニルヴァーナに入っていくのだろう。そして、ニルヴァーナは入るのに早いか遅いかはあまり関係がない。だから、人々が救われるのが減るが、ニルヴァーナは消失せず、不滅性は保たれる。

JRF2020/8/187054

…と、いったふうに解釈してみてはどうだろう? こうすれば、僧団が法を維持することに宗教的意味が出てくる。

JRF2020/8/184411

……。

>釈尊はたしかに、ブッダになれるとは説いたが、一般信者には、まず生天できる道を説法したことが、ほかの仏典でも記されている。<(p.115)

善いことをすれば天に生まれるなら、菩薩は人を救うと次は天に生まれていしまい、人を救えなくなる。だから、適度に悪いことをする…というわけにもいくまい。天に生まれるという「良いこと」は放棄できるオプションのようなもの…ということになるのだろうか。だから、ブッダになるにしても、善いことをしない必要はない。…と。

JRF2020/8/184400

……。

>新しい『涅槃経』では、仏性の教えを誹謗し、信じない者を一闡提と呼び悪人の中でも最も許せない人物と位置づけている。<(p.137)

どうも話を追っていると、「一闡提」はイスラム教における「無信仰者」の扱いに近い。

JRF2020/8/189863

当然こちらの宗教を信仰するはずなのに、信仰しないガンコ者。道徳があるためには神を知る必要があるはずで、それを知らないというのは道徳の必要性すら認めていないことが疑われる。逆に、無神論者でも科学という核を持ち道徳の必要性を認めていれば、信仰にやがて致りうる種子を持っている。…が、そうでない者は…ということではないか。

JRF2020/8/188160

なかなか解脱できないことで逆に疑いを持つようになった者について、一闡提の心を起こさせた(p.146-147)というのは、信仰に属しながら心が離れることで、道徳の種子を失わせたからではないだろうか。

ググると、「一闡提」を「無宗教者」と呼ぶのも見る。そういうことではないか。

JRF2020/8/180985

……。

>信仰上、山川草木悉有仏性は考えられるとしても、山川草木悉皆成仏は善根を積むこと、菩提心を起こすこと、八正道を修めることの三つを抜きにしてはありえないと経典が教えている点を銘記すべきである。<(p.188)

生命または意思を持つとはどういうことかというのはよくわかっていない。

JRF2020/8/186170

木が人に彫らせる…そういう意思のありかたもあるのかもしれない。>蟻も、ハイエナも、ゴキブリも、熊も、ライオンも、鯨も<(p.178)みな意思・仏性があるなら、そういう木に意思を見出して何が悪かろう。

JRF2020/8/185774

死んで霊がそのあたりに存在するなら、五蘊を離れて、執着がなくなり、よほどの恨みがなく教えさえあれば「成仏」しやすいのかもしれない。死人は「ほとけ」になりうるほど善い人だった・悪い部分はあっても救いのある人だったと思い返し、死後「ほとけ」になるという信仰はそれほど罪のあるものではない。信仰は論理的なものではなく、並立していてもよい。信じる先が多過ぎて寄進先が多いのは不幸だが、純粋な信仰を求めるのも僧や支配者側の都合で不幸ではないのか。

JRF2020/8/186914

そういう、霊が「ほとけ」になるあり方があるなら、「善根を積むこと、菩提心を起こすこと、八正道を修めること」に相当するようなことをクリアした「山川草木悉皆成仏」もありうるのではないか。仏教には様々な流派がある。そういうフトコロの広い宗教だと信じたい。

JRF2020/8/189283

大乗仏教は、ブッダの悟りをものすごく時間のかかることにしてしまった。「簡単」といっては語弊があるが、原始仏教では一生のうちにブッダになれるものだった。「山川草木悉皆成仏」は、ブッダになることを「簡単」に引き戻す意味があるとも言える。一度、「ほとけ」になる…「ほとけ」になると決まってからも、菩薩として何度も転生的なことをする必要があるとしても。

JRF2020/8/184701

ただし、そういった成仏の否定は、何らかの犠牲をともなうような偶像崇拝をさせないことを目的とした面もあったろう。そういうことが再び起こるような愚はおかさないようにしないといけない。

JRF2020/8/184445

……。

>釈尊は呪文を唱え、合掌し、祈願しても、因果の道理を変えることはできないと教えている。地獄に落ちるほどの悪行を祈祷したり、経文を読んだりして天に生まれるようにできたら、それこそ人倫の道を否定することになる。<(p.205)

因果応報の概念は逆転し、悪い結果にあるものは、悪いことをしたはずだとなりやすい。このあたりのことは著者は差別の例を出して言及したつもりでいるのかもしれないが、結局は、そのあたり浅い認識で終始している観がある。旧約聖書のヨブ記の深みには達していない(参↓)。

JRF2020/8/181152

《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html

祈りは、それを見る人に「菩提心」のようなものを起こさせる。『法華経』を読んだとき、観音信仰についてはそのあたりのことを述べた([cocolog:92105472])。

JRF2020/8/188527

……。

>ひどい女性蔑視の内容である。無上の仏法として仏性思想を強調した経典が、このような性差別の内容を記述していることについて、これまで筆者の知るところでは、仏教学者も僧侶も触れてこなかったのである。つまり、この文章に触れることはタブーであって、これを隠して仏性思想を説いてきたのが事実である。(…)臭いものには蓋をしてきたと考えられる。<(p.258)

JRF2020/8/183287

「変成男子」について、私は、[cocolog:90395921] で愛川純子『セクシィ仏教2』を読みながら、ある種の予定説をもたらすものとして擁護している。

その理論的根拠・なぜ女性はすぐに成仏できないかを今、考えたい。

JRF2020/8/183823

人は種として生きつづけなければならないというのも、釈尊が生を択んだところから導かれる。そのためには子を残していかないといけない。そして子を産めば愛着をもって育てることが求められる。

JRF2020/8/183885

男性の場合、代わりがいくらでもいるので、精を残さないことは普通、執着がないことになり善いこととできる。しかし、女性の場合、一人一人が子を産むのが基本となる。子を産まない女性がいることを認めるとしても、普通、子を産むのは善いとせざるを得ない。そして、その子に執着することが求められるから、執着をなくせとはなかなか言えない。男は戦争で亡くなったとでも思えば、出家しても問題はないが、女性はそうではない(なかった)。

JRF2020/8/189206

そして、執着をなくすのがブッダになる道と説く以上、女性がブッダになることが善いことと説けない。(男性も在家として子を育て執着する必要があればブッダになれとは言えない。)だから、善さを貫徹するためには、変成男子の教えが必要になる。…という理論はどうだろう?

女性が淫乱だからとかそういう理由ではない。子供を得るために必要なのだ。この世が地獄的であってもそれをなくすのが正しく善いわけではないから、生を肯定するために必要なのだ。…という論になる。

JRF2020/8/186614

このあたり、親権を母方に与える論理と親和性があるかもしれない。戦時のことなどを考えると、母方のほうが子を育てる文化資本があるから、話がまとまらず離婚したときデフォルトでは母方に親権を与えるべきとなるのだろう。

…白田秀彰『性表現規制の文化史』を読んだときに考えたこと(↓など)を少し思い出した。

JRF2020/8/180153

[cocolog:87865666]
>ただ、「えっち」は、飲食などと同じ生理的な快楽の中では、命の誕生とそれにともなうリスクという重大な結果に結び付いていることも事実で、特に、産婦人科が今ほど発展していない時代には、「間違い」が母体等を傷付けることがないようにする必要はあったものと私には思われる。<

JRF2020/8/183559

>性交の出来不出来で、淘汰がかかるのは人間という種にとって正しくないという直観もあったのではないか、それが夫の妻に対する尊厳を認めることに繋っていたのではないかと思うが、どうだろう?<

JRF2020/8/183981

女性は産むから自分の子供であることが明白だが、男性側は浮気を簡単には察知できないため、DNA検査などがない時代は、女性を上から抑えつけて動きにくくできる必要があったのかもしれない。その代わり、男性に働いてもらうという契約があったか…とふと思ったが、それについては、女性も家事労働で大変だったから、そういう契約性は少し違うか。

JRF2020/8/187808

……。

>五蘊を離れて仏性を理解することはできないと教えている。<(p.269)

一方で、>唯一の、同一の仏性があらゆる生類に不変に共有されている<(p.171)ともいう。

このあたりの議論で私は↓を思い出す。

JRF2020/8/181190

keyword: 魂の座

《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。説 1. 神の記憶モデル(…)説 2. 霊的肉体モデル(…)。<

JRF2020/8/187297

上で>生命または意思を持つとはどういうことかというのはよくわかっていない。<と述べたが、かりに科学的に意思がどのようにできているかがわかったとしても、なお、霊魂を否定できないことを説明するものとして↑の記事がある。

JRF2020/8/181910

2008年12月4日のひとこと
>《魂の座》の記事で注目して欲しいのは実は「説2」。説1の神の記憶モデルは自然法則の自動性を死後にまでつきつめると容易に導かれ、説1だけを真理とするのはカトリックとかでは実は異端なのだと思う。

JRF2020/8/188000

(…)

それに対し説2は神の介入をやたらと認めるようで「日本人」は稚拙とみなすかもしれないが、ロジカルには、これもまた反駁できない説明であることに気付いて欲しい。いちいち神が登場して魂を「霊的肉体」に移すんだというイメージを含らませれば、自らの存在への見方は変わってくると思う。

JRF2020/8/181980

なにより、現に…

[aboutme:75920]
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていない<。

本当に「その日」が来るかは疑わしい。

JRF2020/8/181928

上の>唯一の、同一の仏性があらゆる生類に不変に共有されている<というのは、「神の記憶モデル」に似て、>五蘊を離れて仏性を理解することはできない<というのは、「霊的肉体モデル」に似ているという印象を持った。

死んで閻魔大王に会うというとき、人は「霊的肉体」を得ていると言えるだろう。一方で、閻魔帳が自分以上に自分を知っているというのは「神の記憶」に近い。

JRF2020/8/183373

転生の途中、タイムラグがあれば、そのときは「霊的肉体」で活動しているのであるが、結局、自分が否定できない「外部性」をもとに転生にからめとられるところは、「神の記憶」的な部分かもしれない。

二極の見方は昔からあり、それが仏性の議論にもあらわれているのではないか?

ちなみに、霊的肉体や神の記憶は、アートマンのように常住不滅で同一である必要はまったくない。そうである可能性をまったく排除するものでもないが…。

JRF2020/8/182110

……。

>釈尊も身体は地・水・火・風の四つからなると説いた。(…)つまり、身体は物質的要素から構成されていて、そこには霊魂は不在という考えが貫かれている。<(p.276)

>身近な例では、人体には己の霊魂があると思い込んで、その己の霊魂に導かれて来世もあると信じているが、己の来世とか霊魂があると信じているのは単なるわが身への執著から生まれた妄想にすぎないと釈尊は説く。<(p.309)

JRF2020/8/180919

転生に霊魂の概念は含まれていると思うが、微妙なところなのか…。

霊魂がないと決めてかかるのも浅薄ではないか。大人になって子供のころの直感を超えて、「霊魂がない」と考えはじめるのは普通のことであるが、しかし、さらによく考えれば、霊魂がないという証拠も薄弱なのである。人間に意思・知性があるという大きな謎を忘れてはならない。科学が発達したからこそ、それがなおわからないことに意味が見出せる。

JRF2020/8/185568

ただし、素朴には「霊魂がない」と見うることも事実で、その事実に意味を見出すというなら、それを禁じる法はないという話ではあろう。創造論を信じる者が、進化論にも神のメッセージとして意味があると考えるのと同じように。…と私なぞは考えてしまう。「上から目線」で不遜かもしれないが…。

JRF2020/8/185904


……。

……。

気になったので、↓もいちおう読んでみた。

『「涅槃経」を読む -- ブッダ臨終の説法』(田上 太秀 著, 講談社学術文庫, 2004年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061596861
https://7net.omni7.jp/detail/1102151694

JRF2020/8/182936

上の『ブッダの最期のことば』と同じ著者によるもので、出版に約10年の開きがある。

読んでみると、重なっている部分は非常に多い。共に独自の情報はあるが、一方を持っているなら他方は必要ないものと思われる。『ブッダの最期のことば』では著者は参考文献に著者の『「涅槃経」を読む』以外の講談社学術文庫の著書を挙げているが、『「涅槃経」を読む』は挙げていない。著者も、『ブッダの最期のことば』は『「涅槃経」を読む』をアップデートしたものという認識なのだろう。

JRF2020/8/184406

私のように田上太秀の「フォロワー」的関心がない人は、『ブッダの最期のことば』を読んでおけば十分だろう。

違いは例えば、『ブッダの最期のことば』で、古い『涅槃経』・新しい『涅槃経』と呼んでいるのが、『「涅槃経」を読む』ではそれぞれ、『原始涅槃経』・『大乗涅槃経』と呼んでいる。…といったぐあい。

JRF2020/8/182788

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