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中村元(訳)『ブッダ最後の旅 - 大パリニッバーナ経』を読んだ。自帰依・法帰依の教え、「怠けるな」の遺言があるところを確かめた。この段階では、まだ釈尊の神格化が進んでいないことが意外だった。 (JRF 8630)

JRF 2020年8月22日 (土)

この本の前に 『維摩経』『浄土三部経』『法華経』、親鸞『教行信証』、日蓮『立正安国論』、『ブッダのことば - スッタニパータ』の現代語訳と『歎異抄』を読んでいる([cocolog:92073249], [cocolog:92076991], [cocolog:92083486], [cocolog:92105472],[cocolog:92107574], [cocolog:92126483])。

また、直前に、田上太秀『ブッダの最期のことば』と『「涅槃経」を読む』を読んでいる([cocolog:92137624])。

JRF2020/8/224795

……。

『ブッダ最後の旅 - 大パリニッバーナ経』(中村 元 訳, 岩波文庫 青, 1980年・2010年改版)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003332512
https://7net.omni7.jp/detail/1102021843

JRF2020/8/223595

この本は、釈尊の死について描く原始仏教のお経で、『涅槃経』と呼ばれることが多い。法華経を読んだ印象があったので、どれほど神格化がなされているかにも関心があったが、この段階では、まだ釈尊の神格化が進んでいないことが意外だった。ただ、中村元の「原始仏教」は人間・釈尊を描くものという思いが、反映している部分も大きいのかな…と思わないでもない。

JRF2020/8/226782

『涅槃経』には原始仏教のものと大乗仏教のものの二つある…といったところは、この本にはほとんど記載がない。大乗仏教のものはほぼ黙殺している。それに関心があるなら、田上太秀『ブッダの最期のことば』などを読めば良いだろう。

JRF2020/8/224312

……。

>(…サーリプッタは釈尊に言った…)「)…)さとりに関してさらに熟知せる人は、尊師のほかには、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう。また現在にも存在しないであろう」と。<(p.28)

そういってから釈尊に問い詰められるサーリプッタの論によると、さとりをひらくものは、尊師の道を必ず通るので、釈尊を超えることはできない。逆に言えば、釈尊が最大だが、最大の者は複数いるということであった。

JRF2020/8/221697

そして釈尊によると…

>聖者ごとに解脱の内容がいろいろであり、解脱の内容はいろいろで、複数であったのである。<(p.222, 訳註)

大乗的議論において、涅槃は空で「一つ」というかゼロでも、そこに致るあり方は複数あると私は考えてきた([cocolog:92076991], [cocolog:92126483])が、原始仏教的な枠組でそれが確かめられた格好か。

JRF2020/8/221287

……。

>仏教は、ジャイナ教と非常に良く似ているにもかかわらず、ジャイナ教とは異って、ものをつくる道徳が賞讃され、大乗仏教になるといよいよ強調されるが、その萌芽がここに見られると解し得ることになる。<(p.233, 訳註)

経済が発達し新興の経済家を支持基盤として持った仏教といったところか。

JRF2020/8/224108

……。

釈尊が体調を崩したあと死も予期しうる状況で…

>「(…)アーナンダよ、修行者たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完[まった]き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は存在しない。

JRF2020/8/221136

(…)

アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にもでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。 -- 誰でも学ぼうと望む人々は --」
<(p.64-66)

JRF2020/8/222033

自帰依・法帰依、または自灯明・法灯明と呼ばれる教えで、これまで何度か言及してきた。

JRF2020/8/227800

[cocolog:92105472]
>アーナンダに語ったというのが大事なところで、「自帰依」は、アーナンダの中に釈尊がいる(教えがある)ということも含まれていると考えてもいいと私は思う。それは「自分の力」というよりは、「他人の力」によって教えが生き延びていくということ。もちろん、釈尊はアーナンダに釈尊のように教えることを期待していない。涅槃に入るとは他人の自力に期待する(できる)ことでもあるのだろう。…と思う。<

JRF2020/8/224007

自帰依は、アーナンダが釈尊を受け継いでいるかどうかよりも、アーナンダがアーナンダの意見としての仏道を持って自立していることが大事なのであろう。そして、僧団(サンガ)に法が受け継がれる法帰依ももちろん、大事だが。

JRF2020/8/228277

>ゴータマ・ブッダは、以下の文から見て明らかなように、自分が教団の指導者であるということをみずから否定している。たよるべきものは、めいめいの自己であり、それはまた普遍的な法に合致すべきものである。<(p.252, 訳註)

釈尊にしてみれば、集団管理体制の一員という感覚だったのかな? 謙虚さが人間的魅力の一つでもあったのかな?

JRF2020/8/229226

……。

>釈尊は永く生きようと思えば、できるのであるが、決意によって入滅するということは何を意味するかについて、後代の仏教徒の学者の間では盛んに議論されるのである。(…)良く考えてみると、このようなテーマのとりあげかたは『法華経』の場合と本質的に異なっていない。この意味において『法華経』の精神は原始仏教に由来しているということができる。<(p.264-265, 訳註)

法華経について↓と述べたが、中村元もそのような認識なのか…。

JRF2020/8/223793

[cocolog:92105472]
>釈尊が仏として、無限に近い生命を持ち、釈尊として悟ったのは、それまでの長い転生があったからというのは、法華経が最初に言ったことではないと私は思っていたのだが、どうもそれが中心の教えと目されるらしく、そのような考え方が広まったのは法華経があったからなのかもしれない。<

JRF2020/8/228015

……。

>そこで尊師は修行僧たちに告げられた、「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう。-- もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから三ヶ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう」と。<(p.102)

「怠けるな」というのが遺言とのことだったが、ここに現れている。この後、もう一ヶ所出てくる。

JRF2020/8/229900

私は書いた小説(↓)の中で、>怠惰を責める地獄は特にありませんが<…と書いたが、仏教では普通に怠け者は地獄行きなんだろうね。それとも、単に怠け者は現世で報いを受けるはずだから、地獄行きというほどのことはないのかな?

《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970

JRF2020/8/229985

……。

釈尊が死んだ直接的原因となった食べ物「スーカラ・マッダヴァ」。「柔らかい野豚の肉料理」か「きのこ料理」かで意見がわかれている。直訳すると前者であるらしいが、後者になる理由を次のように説明する。

JRF2020/8/229958

>「きのこ」というのが原意であったと考えられる。現在フランスの高級料理として珍重されているトリュフ(…)は地面に隠れているので、嗅覚のすぐれた豚に探させるという。これは西洋で古代から高級食材として知られているので、スーカラ・マッダヴァもあるいはそのたぐいかもしれない(…)。<(p.291, 訳註)

JRF2020/8/224617

釈尊が肉を食って死んだというのが都合が悪いから「きのこ料理」ということにしているのではないか…という邪推は当たらないらしい。

JRF2020/8/223083

>しかし(…きのこ料理と普通解する…)南方仏教徒は「柔らかい豚肉」と解することに抵抗を感じなかった。そのわけは、托鉢のとき施与される食物の中に肉があってもそれを食することは差支えないと考えられて来たからである。デーヴァダッタの異端問題に見られるように、ブッダは肉食禁止に賛成しなかったと言われている。<(p.292, 訳註)

JRF2020/8/220478

……。

>仏教の修行僧は、自分の修養につとめることだけをせよ。葬儀などやるな、という思想は原始仏教聖典にまま散見するが、ここにも現れているのである。またブッダの遺骨崇拝も世俗人のやることであり、出家修行僧のかかずらうことではないと考えていたことが、ここでも知られる。<(p.314, 訳註)

葬儀は基本、世俗人がやることなんだね。出家者はあくまでゲスト…といったところだったのだろうか?

JRF2020/8/229298

……。

>「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。<(p.165)

「わたしが説いた教えとわたしの制した戒律」が「自帰依と法帰依」に相当するなら、私の上の説は正しいことになりそう。少年マンガ風に「お前の中で私は生きている!」…といったところか。

JRF2020/8/226165

……。

>「(…)アーナンダよ。わたしが亡くなったのちには、修行僧チャンナには、〈清浄な罰〉(ブラフマ・ダンダ)を加えなさい。」「尊い方よ。〈清浄な罰〉というのは、そもそも何ですか?」「アーナンダよ。修行僧チャンナは、自分の欲することは何でも言ってもよい。しかし修行僧たちはかれに話しかけてはならないし、訓戒してはならないし、教えさとしてはならない。」<(p.166)

「無視」ですか…。仏教国の日本で、「いじめ」に無視が使われやすいのは、案外こういうところに典拠があったりするんだろうか?

JRF2020/8/227364

……。

>そこで尊師は修行僧たちに告げた。-- 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。<(p.168)

「諸行無常だから怠けるな」が遺言。[cocolog:92137624] にも書いたが、耳が痛い。

JRF2020/8/223094

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