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中村元(訳)『ブッダの真理のことば・感興のことば』を読んだ。いってみればブッダによる箴言集。座右の書が『法句経』(ダンマパダ、真理のことば)…って人、すごい信用できそう。 (JRF 6031)
JRF 2020年8月23日 (日)
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『ブッダの真理のことば・感興のことば』(中村 元 訳, 岩波文庫 青, 1978年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003330218
https://7net.omni7.jp/detail/1100372726
『真理のことば』と『感興のことば』は、いってみればブッダによる箴言集。
JRF2020/8/233469
『真理のことば』は、『ダンマパダ』または『法句経』として、世界的に知られているもの。『感興のことば』は、『ウダーナヴァルガ』で、漢文やチベット語への翻訳はあり昔は知られていたが、現在、世界的にはあまり知られていないものらしい。
『感興のことば』は、『真理のことば』と重なる部分が非常に多い。そのため、この先の引用は、ほぼ『真理のことば』部分から取ることになった。
Amazon にこれを愛読書として挙げる人がいるが、座右の書が『法句経』(ダンマパダ、真理のことば)…って人、すごい信用できそう。…逆に(怠惰な私には)コワイぐらい。
JRF2020/8/239244
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>実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息[や]むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。<(p.10, 五)
少年マンガに出てきそうな、王道の倫理。この種の箴言を改めて読めるのがこの書の良さだろう。
JRF2020/8/238176
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>たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。-- 牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。<(p.12, 一九)
私は数々のお経を読むヒマがあって、それをブログに書いているが、「実行」をともなわないなら、怠けているに等しい。…と。
何をすれば「実行」になるのか…。次を考えないとな…。
JRF2020/8/230017
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>自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財を国をも望んではならぬ。邪[よこしま]なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行いあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。<(p.22, 八四)
子を望んではならぬ。…ただ、それが自帰依や法帰依に帰依するならいいのではないか…というのが、これまでの私の論調だった。歌舞伎役者が自分の子につがせようと執着するのは基本的によくない。しかし、それが歌舞伎を通じた日本人という自意識・または、演劇の発展という法に寄与するなら、むしろやるべき…ということになるだろうか。
JRF2020/8/234976
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>戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。<(p.24, 一〇三)
「己に勝て」…これも少年マンガ的箴言だね。
JRF2020/8/232579
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>若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。(p.31, 一五五)
『若い時に、財を獲る』というと今では、年金の積み立てのことだろうか? 老いて生活保護に頼ることになったり、そのとき財政破綻していて死ぬしかなくなったりするのに安楽死が認められてない…とかが私が持つ恐怖。私は、もっと早く死ぬと思ってた。死んでいいと思ってた。
JRF2020/8/238687
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>たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。<(p.33, 一六六)
この「自分のつとめ」というところ…。
>他方ナーダラ長老は(…)「利」と訳している。そうすると、「自分の利をこころがけよ」ということになり、この詩の意義は多分に独善的となる。<(p.103, 一六六 訳註)
なさけは人の為ならず…といったところか。
JRF2020/8/239562
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>真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事にうよって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。<(p.41, 二二四)
「真実を語れ。」…ブログでは真実を露悪的にすら語りたいと思ってきた。「怒るな。」…相手の事情も鑑み怒らないのを旨としたいが、プログラミングや PC に関しては怒ってしまうのは何とかしたいと思っている。「乏しいなかから与えよ。」…これはほとんどできてない。
ただ、これらが、私の理想とするところだな…という気がする。
JRF2020/8/238745
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>恥を知らず、烏[からす]のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。<(p.44, 二四四)
恥知らずは生活し易い…だからと言って易々と生活している者が皆恥知らずのわけではない。つつましいがゆえに生活し易い者もいよう。そういう者に私はなりたい。
JRF2020/8/233743
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>原始仏教もヨーガを認めていたのである。ヨーガとは「結びつける」という意味で、心を散乱させないように一つの対象に結びつけることである。しかしそれは後代の曲芸のようなハタ・ヨーガとは異っていた。<(p.125, 二八二 訳注)
「曲芸」…ハタ・ヨーガのことは知らないが、ヒドイ言われようだな…。
JRF2020/8/235452
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>(「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。<(p.51, 二九四)
() 内は、ブッダゴーサなどの註により補ったものらしい。つまり、() がないのがそのまま経典には載っているということで、かなりブッソウな話になる。
JRF2020/8/230440
臨済録にあるらしい「殺仏殺祖」…「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得ん」(参↓)を思わせる。
《「仏に逢うては仏を殺し・・」の理解は超簡単。あなたも既に経験済 - 肉は見た目が10割》
https://tsukumochi.com/about-meat63/
JRF2020/8/238877
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>大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧[かて]を食べて肥り、くりかえし母体に入って(迷いの生存をつづける)。<(p.55, 三二五)
まるで私のことじゃないか。耳が痛い。私は豚…意外に筋肉質な豚以下だ。
JRF2020/8/235500
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>前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。<(p.59, 三四八)
中道というのは中間とはまた違い、おそらく止揚ともまた違うんだろうね。中道は止揚よりも全体を活かすイメージが私にはある。
JRF2020/8/236204
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これまでは『真理のことば』から。これからは『感興のことば』から。
JRF2020/8/233937
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>それ故に、愛するものをつくってはならぬ。愛するものであるということはわざわいである。愛するものも憎むものも存在しない人々には、わずらいの絆は存在しない。<(p.178, 第5章八)
ボッチを認めてくれるんだね。なお、この句も『真理のことば』p.40 二一一に対応するものがあるが、そこでは>愛するものであるということはわざわいである。<が>愛する人を失うのはわざわいである。<となっていて、ボッチ向きの句にはなっておらず、私には響かなかった。
JRF2020/8/235282
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>技術を習ったり、看病をしたり、鳥や獣のまねをしたり、神々につかえ、財産を保全するようなことを、ここではすべて一つの極端説と見なしている。したがって、最初期の仏教は、サンジャヤからサーリプッタに至る線の上での実践、つまり東西の懐疑論者たちが行なっていたような「何ごとにもこだわらぬ生活」をめざしていたのだろう。(これは『スッタニパータ』の古層の説くところである。) 利他的な慈悲の精神にもとづく活動をしたのは、少しく時代を経過した後のことであったらしい。<(p.351, 第27章一一 訳注)
JRF2020/8/231059
「鳥や獣のまね」…トーテム、トーテミズム。私は統合失調症の発作のとき、ハンガーを二つ持って(弓のように見たてて?)、天使の羽が動物のどの部分に相当するか体で示そうとした。鳥や獣のまねというのは人間には根元的にある宗教意識なのではないか。私はそういった部分は、(犠牲宗教的な部分は沈静させたまま)復権させたほうが良いように思う。インテリな人間には必要のないはずの運動が必要だったりするように、そういったものも必要なのではないか。ちなみに中国には(華佗)五禽戯とか形意拳とかあるそうだが。
JRF2020/8/232728
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>妄想して考え出された現象界もなく、個人存在の連続もなく、障害もなくなって、はたらきのなくなった人。-- 愛執を離れて行じている聖者を、神々も世人も、それだと識ることがない。<(p.267, 第29章五一)
本当の聖者は人に知られない。ブログやっても人に知られてない私が良いということではないんだろうな…。ブログとかやって承認欲求を満たそうとそもそもしないのが聖者なのだろう。
JRF2020/8/237171
この本の前に 『維摩経』『浄土三部経』『法華経』『涅槃経』、親鸞『教行信証』、日蓮『立正安国論』、『ブッダのことば - スッタニパータ』の現代語訳と『歎異抄』を読んでいる([cocolog:92073249], [cocolog:92076991], [cocolog:92083486], [cocolog:92105472],[cocolog:92107574], [cocolog:92126483],[cocolog:92146569],[cocolog:92137624)]。
このところのお経を読むシリーズはとりあえずこれで最後になりそう。
JRF2020/8/233968