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技術系電子本。Python による仏教社会シミュレーション( https://github.com/JRF-2018/simbd )の哲学的解説です。

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cocolog:92105472

『法華経』の現代語訳を読んだ。お経の第一に挙げる人もいるぐらいだから、他のお経や教えを集め紹介するようなものかとか思っていたが、そうではなかった。 (JRF 1396)

JRF 2020年8月 6日 (木)

この本の前に 『維摩経』『浄土三部経』の現代語訳、『歎異抄』、親鸞『教行信証』、を読んでいる([cocolog:92073249], [cocolog:92076991], [cocolog:92083486])。

JRF2020/8/67990

……。

『全品現代語訳 法華経』(大角 修 訳, 角川ソフィア文庫, 2018年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4044003912
https://7net.omni7.jp/detail/1106855373

JRF2020/8/67282

『法華経』こと『妙法蓮華経』を『無量義経』と『観普賢経』で挟む形になっている。様々な解説・コラムがあり、読み物として大変わかりやすくなっている。(が、子供が読むのは辛いかな。)

JRF2020/8/62189

>法華経には、(…)数ヶ所に差別的な記述がある。(…)これは現代の口語訳では削除されるべき記述だと判断して割愛した。<(p.22)

それはとても良くないことだと思う。聖書などでもそうだが、時代によって問題になった箇所を削除したりすると、変な誤解が生じることがある。そこだけ妙な興味をもたれたり、真実の教えとして密かに差別が生まれたり。聖典を「傷付けた」という謗りも招きかねない。訳した上で注をするぐらいのほうが、後世のためには良かったと私は思う。

JRF2020/8/68163

……。

少し前、「グローバル共有メモ」に書いたことだが…。

涅槃経において釈尊は死の前にアーナンダに「自帰依(または自灯明)」「法帰依(法灯明)」を説いたという(↓)。

>この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ<(中村元訳『ブッダ最後の旅』より…らしい)

JRF2020/8/61195

アーナンダに語ったというのが大事なところで、「自帰依」は、アーナンダの中に釈尊がいる(教えがある)ということも含まれていると考えてもいいと私は思う。それは「自分の力」というよりは、「他人の力」によって教えが生き延びていくということ。もちろん、釈尊はアーナンダに釈尊のように教えることを期待していない。涅槃に入るとは他人の自力に期待する(できる)ことでもあるのだろう。…と思う。

JRF2020/8/68790

念仏宗つまり念仏者の宗派は自帰依を、法華宗つまり持経者の宗派は法帰依をどちらかと言えば重視する…というのが、私の見建てで、念仏宗については、これまでお経をそのセンで読んできた。

法華経についてまだよくわかってない段階で「法」字がついているからそう考えていて、お経の第一に挙げる人もいるぐらいだから、他のお経や教えを集め紹介するようなものかとか思っていたが、そうではなかった。

JRF2020/8/60415

同じく「グローバル共有メモ」に、法帰依は、オブジェクト指向プログラミングにおいて、self に対するクラスを定義することのようなものかもしれない…と書いたが、確かに、法華経はいくつもの仏の成り方を論じていて、そこに自分がなれる(なれそうな)ところを観るというのは、そのセンでの法帰依に近いとは言えるが、それが中心であるとは言い難い。

JRF2020/8/66550

釈尊が仏として、無限に近い生命を持ち、釈尊として悟ったのは、それまでの長い転生があったからというのは、法華経が最初に言ったことではないと私は思っていたのだが、どうもそれが中心の教えと目されるらしく、そのような考え方が広まったのは法華経があったからなのかもしれない。そのように釈尊を仏を「抽象化」するという方向性は、法に自らを埋葬する法帰依的と言えなくもない。

JRF2020/8/68650

>それにしても、法華経には不思議なことが書かれているので、読む人を困惑させます。なかでも、法華経のなかで「法華経というすばらしい経典がある」とくりかえし説かれているのが奇妙です。しかも、すばらしい経典だという法華経の中身は最後まで明かされることなく終わってしまいます。つまるところ、法華経を讃えた経典が法華経なのであり、奇妙な自己撞着に陥っているかのように見えます。<(p.17, はじめに)

JRF2020/8/61010

ループやメタといった現代のプログラミングにつながる構造がある…。そういった概念…複雑な法概念を人類に慣れさせるという意味があったのかもしれない。

JRF2020/8/66707

……。

>この世がすでに釈迦牟尼仏の浄土である<(p.46, コラム)

『維摩経』に似たような話はあったか…。

JRF2020/8/60561

……。

>三つの車と炎の家(三車火宅の譬喩)<(p.74)

火事の家から導き出すのに方便を使い、火事から逃げたところで、方便とは違う宝を与えても嘘を言ったことにはならない…というたとえ。

しかし、真の宝は涅槃すなわち空なわけで、それは火宅にいて遊んでいた者が本当に望むことなのか…とは思う。

JRF2020/8/63017

……。

>大富豪の貧しい子(長者窮子の譬喩)<(p.90)

子が貧しくなって父と気づかずに父の家で奴隷のようにして働くようになる。糞尿を汲み出す仕事をするが、自信を失っていた子はそれでも満足する。やがて、父が「我が子」と呼ぶようになっても気付かない。父が死ぬときに明かされ、やっと、子は喜んで財を相続できた。…というたとえ。「小乗」でもやがて仏になれるこころもちをそうたとえた。

JRF2020/8/67222

もちろん、「糞尿を汲み出す仕事」も立派な仕事であるとはいえ「イヤな仕事」ではあるだろう。それを満足して行うことを「万物は空であるという教えによってつとめはげむ」ことにたとえる…というのはすごい。一見、悪し様に言ってるようでそうではない。それもまた必要なことだった。…後の禅宗につながるところか。

JRF2020/8/63211

……。

>比丘たちよ。プールナは、過去七仏(現在の釈迦如来につながる過去の諸仏)のもとで説法第一でした。そして、今わたしのもとでも、未来の諸仏のもとでも説法第一です。<(p.140)

未来の中に読んでいる(またはその周囲の)「自分」が含まれうる。これが私が法帰依的と感じるところ。

JRF2020/8/60214

……。

>法華経は一字一句、真実である。とすれば、「法師品」にある受難の予告も現実にならねばならない。智顗も最澄も法華経を受け継いだけれども形ばかりのもので、日蓮に至って、ようやく法華経の予告が完結した。約された救済も現実のものとなろう。これが日蓮の確信であった。<(p.166, コラム)

最近ご逝去された五島勉 の『ノストラダムスの大予言』を思い出す。いわゆる「狂信」のたぐいだが、これが力になったんだろうな…。

JRF2020/8/61718

……。

>釈迦牟尼世尊ご自身の分身[ふんじん]<(p.181)

釈尊は無限の命があるばかりか、同時に別のところに現れることもできる。姿も変えられる。…とすれば、仏性すなわち釈尊…というのも近く、聖霊にも近くなるのだろう。それがこの世が釈尊の浄土たるゆえんか。

JRF2020/8/62643

……。

>(…)デーヴァダッタは悪人の代表格とされるのだが、法華経では、その悪人が釈尊の善知識(善友・導き手)であったといい、悪人でも仏になれると説く。このことを「悪人成仏」という。<(p.201, コラム)

親鸞『教行信証』を読んだ([cocolog:92076991])とき、>釈尊が救ったのはあくまで五逆の罪なので、謗法の罪は悔いてもやっぱりダメな可能性もなくはない<…と書いたが、提婆達多が「救われた」ということは、謗法の罪でも諦めてはいけないということなのだろう。

JRF2020/8/67657

……。

>常住あることなく、また起滅あることなし。常に変わらずにあるものはなく、生じたり消滅したりするものでもありません。<(p.216)

涅槃に入るのは、私は転生からの「消滅」のように考えてしまいがちだが違うのかな? むしろ、涅槃に入るのは、「無限」になる・「メタ」な存在になることに近いのだろうか?

JRF2020/8/66008

……。

>おびただしい菩薩がそのようにして仏を礼し終えますのに、五十小劫が過ぎました。(…)それは長い時でしたが、世尊の威力をもって、人々には半日の出来事のように思われました。<(p.231,232)

法華経の時間設定は、釈尊入滅前のわずかな日数のはず。その間に「劫」が過ぎ去ることも可能。…とすれば、他の如来の寿命のすごく長い「劫」もまた、一瞬のように短いように人が感じることがあるのかもしれない。まるで、星からの光が届く距離は長くても、それを短い年数で測るかのように。

JRF2020/8/66334

……。

>私が仏になって今までに無量無辺百千万億那由他阿僧祇の劫が過ぎました(…)<(p.254)

人としての滅度が方便ということではあるが、無限の命こそが方便という観方もできるわけで…。

JRF2020/8/60384

……。

>世尊は宿王華菩薩に告げました。(…)菩薩よ。星々の力をもつ者よ。(…)遠い過去(…)日月浄明徳如来(…)という仏がありました。(…)喜見菩薩(…つまり目に好ましい者…)は、香油を身に塗り、日月浄明徳如来の前において、(…)みずからの身に火を点じました。(…)もろもろの世界の諸仏は同時に、この菩薩を祝福しました。(…)「(…)これぞ第一の布施であり、最上の布施である」<(p.329-332)

JRF2020/8/62920

>喜見菩薩は、他のだれでもありません。今の薬王菩薩(…つまり医薬の王たる菩薩…)なのです。(…)もし発心して阿耨多羅三藐三菩提を得たいと望むのであれば、手の指あるいは足の指のひとつでも灯明として仏塔を供養しなさい。<(p.336-337,155)

焼身自殺による布施をたたえる。これこそ、この法華経が迫害されると予言しなければならなかったその部分のように思う。

JRF2020/8/60792

ただ、重要なことはこれは「薬王菩薩」に関するものだということ。医学の発展のために身を捧げる覚悟を説いているのかもしれない。でも、だからと言って、だから「善い」という話ではない。私がここで、思い出すのが、インドの神、ガネーシャ。

JRF2020/8/68832

《メガテン 第二集 ガネーシャ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/07/post_1.html
>[wikipedia:ガネーシャ] によると、親のシヴァが首を切ってどこかに投げたあと、無実なのがわかって、探すとみつからない。しかたなく象の首を付けたんだそうです。これまた不思議な話です。象の頭は西でみつかった開頭術で脳の皮質部分を除いたものを表したものなのか(…)<

JRF2020/8/62124

生きた人間の開頭手術を行ったのではないか…という疑いが私にはある。それに信仰を「利用」したのか…と。もしそうなら、その点、ローマのガレノス([cocolog:92031461])のほうが倫理的だった。その呪いがインドと西欧の差にもなったのではないかと私は思ってしまう。

JRF2020/8/66422

ただ、医学というか看護のためには、伝染病のようなものにも触れなければならない。「伝染病」というちゃんとした概念はなくても死穢などは恐れられていた世界で、身を焼くほどの勇気は修行者に求められていたのかもしれない。…ととりつくろってみる。

JRF2020/8/62752

……。

>「南無観世音菩薩」の名号を通して祈るならば、菩薩の威神力によって、たとえ大火のなかにあっても焼かれることなく救いだされます。川で大水に流されるようなときでも、浅瀬にたどりつくでしょう。(…)<(p.356-357)

『観無量寿経』を読んだ([cocolog:92083486])とき、観音信仰について、>災禍にあえば、正観ではなかったとなるか。「正観」のできる余祐のあるような金持ち・知恵者で、幸福な者からなるカルトを教団に中心に置く原理のようなものか。<…と書いた。

JRF2020/8/68566

つまり、観音信仰の正体は「生存バイアス」ではないかという疑いを書いた。それだけなら、これも法華経が迫害される理由となりかねない。

しかし、もう少しよく考えてみれば、観音に祈る姿・真摯に救いを求める姿を見せることで、その子などが、人を救おうという「菩薩の心」をはぐくむことはあるだろう。

JRF2020/8/61690

また、観音が助けるものの姿をとるとすることにより、助ける側が「助けたい」という本能が刺激されたとき(観音のせいにして)身分などの違いを越えて助けやすくなる…ということはあるのかもしれないと思う。一方、助けられた側は観音を拝むことになるが、観音を助けた人に重ねるから、決して助ける人を粗略にするわけではない。

そこは観音信仰に現世利益があるのだろう。

JRF2020/8/69826

……。

……。

差別的な記述が削られていることが気になって、前から気になっていたもう一つの翻訳も買ってしまった。

『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』(植木 雅俊 訳, 角川ソフィア文庫, 2018年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4044004099
https://7net.omni7.jp/detail/1106902347

JRF2020/8/64367

この本は、>日本語らしい表現に改め<(p.19)、さらに>重復した箇所をバッサリと割愛し、過剰な修飾語や形容詞、過剰な述語動詞の羅列は簡略化した<(p.20)…などと書かれているが、差別語を排除したなどとは書かれていない。実際、後に示すように差別語もしっかり載っていた。

大角訳は絵やコラムなどがあり、植木訳よりより一般向けに書かれていて、普通に法華経とは何かという知識を得たいだけの人は、大角訳を読んだほうがいいのだろう。

JRF2020/8/65351

一方、聖典として読みたい人は、植木訳のほうがいいだろう。なぜなら、他者が自分の知らないところを批判してきて、あとから本当にそのような記述があって不信感を抱くということがない。悪評の不意打ちがない。…から。

JRF2020/8/64915

ただ、植木訳は、如来や菩薩の名前が、例えば「"星宿の王によって花で飾られた神通をもつもの" (宿王華) という菩薩」みたいに、章の最初では下にカッコで漢名も書いてくれるのであるが、それ以降は漢名でなく、"星宿の王によって花で飾られた神通をもつもの" という長ったらしい「開いた名前」で参照され、それが読みにくく覚えにくかったりする。まぁ、とはいえ、この問題は、聖典っぽい雰囲気が出ているのであまり問題とはならないのかもしれない。

JRF2020/8/60615

また、植木訳は、一部のダーラニー(呪文)のカタカナを省略している。これは聖典として読むには不適だろう。植木は「呪文」は迷信に過ぎないと思っているのだろうが、聖典として読む人(特に声に出して読む人)にとっては、あったほうがいいものだ。ページ数の制限があったのかもしれないが、今後の版で足してもらえるなら、有り難く思う人もいるだろう。

あと、植木訳に絵や写真は一切ない。また、解説も言葉足らずの印象を受ける。これは、植木は他に法華経の解説を書いているため、そちらを参照するのが前提なのかもしれない。

JRF2020/8/65338

……。

大角訳・植木訳の雰囲気の違いを伝えるため、例として、同じと思われる部分を少し長めに引用してみる。私は「(…)」は普段は中略記号として使っているが、ここでは中略はなく、継続を表す記号として見て欲しい。場所は方便品第二から。

まずは大角訳から。大角訳は内容が詰まっている。それは解説のようなものが訳の途中にはさまれるからであろう。またわかりやすいように呼びかけも多い。

JRF2020/8/68964

>シャーリプトラよ、あなたは知らねばなりません。

わたしが仏の眼をもって観るに、輪廻の六道に生をうけた者たちは、徳の少ない貧窮な心のために生死の険しい道をますます険しく踏み入り、まるで牛が尾を愛するように、迷いと欲望を離れられずにいます。偽りは信じやすく、正しいことは見ようとしません。わたしがかつてガヤー市の郊外でさとりに達したとき、わたしは、そのことを深く悲しみました。そして、三つの週を樹下に坐して、このように思いました。

JRF2020/8/66782

(…)

「さとりの真理は、とうてい人々の理解できるものではない。それを話せば、人々は不信におちいって、わたしを捨てるであろう。ますます邪見の深みにはまって、迷い苦しむことになるであろう。わたしは人々に説くことなく絶対の平安に去ろ」

そのとき、ブラフマー (梵天)、インドラ (帝釈天) などの神々が法輪を転じることを求めたけれども、目先の快楽にとらわれ、無知におおわれている人々をどのようにして導けるであろうか。

わたしは過去の諸仏に思念を向けました。そして、諸仏が方便の力をもって生きとし生けるものを導いたように、わたしも三乗の教えを示し、あなたがた一人ひとりに説こうと決意しました。

JRF2020/8/64194

(…)

そのとき、わたしは十方の諸仏の雄々しい獅子の声を聞きました。

「世尊よ。方便の力を発動し、すべて生命あるもののために三乗を説きたまえ」

シャーリプトラよ。わたしは、このように思いました。

「わたしは、濁悪の世に出たのであるから、過去の諸仏がなされたようにわたしもおこなっていこう」

わたしは、ヴァラーナシー (ベナレス) の鹿野苑におもむき、五人の比丘に最初の説法をおこないました。
<(大角訳 p.61-63)

JRF2020/8/68923

一方の植木訳は次のようになる。翻訳調で固いが、こちらのほうが正確なのだろう。

>ここで釈尊は、菩提樹の下で覚りを得て真理の車輪を転ずること(転法輪)を決断するまでの二十一日間にわたる熟慮の内容を回想された。

JRF2020/8/68150

(…)

六種の生存領域 (六道) に心が閉じ込められた心の貧困な衆生に同情しながらも、「これは、卓越した希有なる知である。しかしながら、これらの衆生は迷いによって盲目で無知で、諸々の苦によって征服されている。それらの愚かなものたちは、私が法を説いたとしても、罵りの言葉を発し、悪しき境遇 (悪趣) に陥るであろう。従って、私にとって何も説かないほうがいいのだ。まさに今、私は安らかに入滅すべきである」と。その時、梵天が説法を懇請 (梵天勧請) した。

JRF2020/8/62946

(…)

そこで、世尊は、過去のブッダだちを思い浮かべつつ、「それらのブッダたちの示された巧みなる方便のように、今、私もまたこのブッダの覚りを三つの種類に分類して説いてから、ここに示すことにしよう」と決断した。

JRF2020/8/60645

(…)

すると、十方におられるブッダたちが姿を現し、「素晴らしいことです」という声を発して、「私たちもまた最高の位を覚った時、教えとしての乗り物を三つに分類して、〈あなたたちは、ブッダになるであろう〉と説くのだ。心の卑しい傾向を持つ無知な人間たちは、それを信じようとしない。それ故に私たちは、その原因を把握して巧みなる方便を用いつつ、それらの無知な人間たちが、ブッダになるという結果を願うようになることを広く称讃しながら、多くの菩薩たちを教化するのである」と語りかけた。その言葉を聞いて、釈尊は心を高揚させ、「賢明な世間の指導者たちが語られるように、そのように私も実行いたしましょう」と答えた。

JRF2020/8/61971

(…)

そこで、世尊はヴァーラーナシー (波羅奈) 近郊の鹿の園 (鹿野苑) に赴き、五人の男性出家者 (五比丘) たちに法を説き始めた。
<(植木訳, p.45-46)

JRF2020/8/65345

……。

ここからは引用は植木訳から。

JRF2020/8/67753

……。

差別的表現の例も挙げておこう。

>それらの愚かなものたちが、人間の身体を得る時も、その場合、身体に障害があり、片足が不自由で、しかも背骨が湾曲していて、盲目で、愚鈍で、最も卑しい生まれとなり、私のこの経を信じないであいる。それらの愚かなものたちは、世間において信頼されなくなり、それらの愚かなものたちの口から腐敗した臭いが漂っている。

JRF2020/8/69450

(…)

人間として生まれても、盲目、聾者、愚鈍の状態になり、常に貧困で、他人の召使いになる。身体にはかさぶた、疥癬、さらに発疹、ハンセン病や、ハンセン病の白い斑点があり、さらに腐敗した臭いがある。
<(p.69-70)

JRF2020/8/68659

この章にも「解説」はあって、女性差別の話題は出てくるが、この部分に関する言及はない。聖典だから何も書かない…というならわかるが、解説があるのならば、差別について、「こういったことを理由とした差別があったが、それは無くしていかねばならない」旨が一言あってしかるべきだと思う。

JRF2020/8/66498

ただ、どこにもまったくないわけではなく…。

>ただ、「皮膚の黒さもなくなる」という箇所は、当時のインド社会の価値観の範囲内での"功徳"を論じたものであり、時代的制約をまぬかれていないといえよう。<(p.248, 解説)

…と、「時代的制約」に言及しているところも一箇所あった。

JRF2020/8/67698

……。

>『すべての法を体得していない人に、何故に涅槃があろうか』と。<(p.111)

涅槃イコール転生がなくなること…ぐらいに思っている私は、無為にも涅槃になりうるとか思っているけど、本来は、法を体得して、法を知らないことによりしてしまう転生から離れることが必要なんだね。

JRF2020/8/64211

……。

>(…)この経典の受持者たちに対して、たとえ真実であっても、不快な言葉を一語でも告げる(…という行為は…)よりいっそう悪しき行為である<(p.181)

私は真実であるかどうかはわからないが「批判」をする。それが悪しき行為なのだという。まぁ、私が地獄行きであることには変わりはないのだろうが…。

JRF2020/8/69644

……。

>この提婆達多品は、デーヴァダッタ (提婆達多) の成仏 (悪人成仏) と龍女の成仏 (女人成仏) を説くものとして、「皆成仏道」を説く『法華経』の思想を補完するものとして後世に付け足された。<(p.218-219, 解説)

ここ、後世の付加だったのか…。後世の付加と目されるところ、結構多く、焼身自殺のところも、そうらしい。あそこが中心というわけではなかったのか…。

JRF2020/8/60432

……。

>龍女は、小乗仏教の女性観と成仏観に固執しているシャーリプトラたちがなかなか信じないために、彼らを説得するために男になって成仏してみせた。「変成男子」は、女性の成仏に必要不可欠の条件ではなく、あくまで説得の手段であった。<(p.221, 解説)

私は、[cocolog:90395921] などで「変成男子」と取り上げているが、そこでは浄土に関係なく、一般に仏教では、女性は一度死んで男性に転生してからでないと成仏できない…という教えがあると誤解していた。

JRF2020/8/62542

……。

>「(…)ただし、このサハー世界以外においてであります。理由は何か? このサハー世界にいる衆生は、傲慢で、善い果報をもたらす立派な行ない (善根) が乏しく、常に意地が悪く、悪意があり、生まれつき心が歪んでいるからです」<(p.224)

ここ、読んでて違和感を持った。菩薩がこのサハー以外の世界を指定する。その理由がこの我々の世界がヒドイから…というもの。

JRF2020/8/63716

普通というか常になのかもしれないが、「サハー世界」と言えば「この我々の世界」のことかもしれないが、ここでは、「このサハー世界にいる衆生」は、「その(サハー世界的な)世界にいる衆生もまた」としたほうが、文脈的に自然ではないか?

つまり、菩薩がこのサハー以外の世界を指定する…その世界は我々の世界に似てヒドイ世界だが、我々の世界は他の人にまかせて、より広くそういう恵まれない世界を、だからこそ、指定する。…といったほうがここの文脈的には自然なように思われるのだが…。

まぁ、大角訳でもそうなので、ここはそれしか読み方がないのかもしれない。

JRF2020/8/64850

……。

>仏道修業の基本である経典読誦をやっていなかったこの(…常不軽…)菩薩の振る舞いが、『法華経』に適っていて自得したということになると、ここには重要なメッセージが込められていることになる。「誰も軽んじない振る舞いこそが、法華経」であったということになる。<(p.321)

法華経は反差別の思想である…と。植木が中心的とみるのはここなんだね。中身のないお経ではない…と。

JRF2020/8/66827

……。

>欧米の学者の間では、この(…観世音…)菩薩が男女の姿を取り得ることで、ジェンダーフリーの象徴と考える人がいたが、サンスクリット原典に立ち還ると、それは言えない(…)。<(p.389)

JRF2020/8/60761

欧米の学者は、(キリスト教異端的にもあった)グノーシス主義の両性具有との関係を見ているのではないか? 話は変わるが、今も、BL とかを論じるときは、欧米保守派の学者はグノーシスとの関連を疑っているのではいか? 私も少し疑っている。BL などがグノーシスの影響を受けているというのではなく、グノーシスもまた、BL に萌えるような感性が背景にあったのでは…といった感じで。

JRF2020/8/60110

……。

……。

追記。

機会があって石原慎太郎『新解釈 現代語訳 法華経』も読んだ。

『新解釈 現代語訳 法華経』(石原 慎太郎 著, 幻冬舎, 2020年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4344036336
https://7net.omni7.jp/detail/1107112616

母が図書館から借りてきたのをまた借りして読んだのだった。

JRF2020/8/300987

いきなり序品第一(p.27)で、白毫から光を出したのが文殊菩薩と読めるところがあり、「おや?」と思った。法華経の細かい部分をかなり忘れていたので、これまでのはサンスクリット語訳で、これは漢文訳だろうから、そう読めたりもするのかな…とか思ったが、その後を読んでみると、サンスクリット語訳とそう大きな差があるわけではないようだった。

JRF2020/8/305544

あの石原慎太郎が書いたということで、独自の挿話があったり小説風の物語になっっていたりするのかな…とか思ったら、そういうことはまったくなく、普通の法華経だった。

差別語もあるのはよいとして、仏教用語も辞書を引けとばかりに註がないのが良いか悪いかわからない。陀羅尼の途中省略はないようだが、普賢菩薩勧発品第二十八の陀羅尼はまるごと省略されていたりする。それらをかんがみると、聖典として読むにも、入門として読むにも適さない感じだった。

JRF2020/8/309523

母は私に譲る形で読むのをやめたようだが、石原慎太郎だから借りたという母には読み通し難い本だったようだ。

JRF2020/8/302557

……。

ちなみに、上で大角訳と植木訳を比較している方便品第二の石原訳を長く引用してみよう。

JRF2020/8/301158

>舎利弗よ、知って欲しい。私は仏の身をもって観察して、六種類の因縁の境涯にある生きとし生けるものを見ると、貧しさに困ったり、福徳と智慧がなく、生と死の険しい道に入って、苦しみは相次いで絶えることはない。五官の欲望に深く執着して、そのありさまは、牛がよくするように、自分の尻尾にすがろうとして、ぐるぐる回りをするようなものだ。

激しい欲望にさいなまれ、そのために盲[めしい]となって、暗い世の中を見通すことができない。そして、偉大な力を持つ仏に、その苦しみを断つ方法を求めないであえいでいる。

JRF2020/8/301769

(…)

多くの誤った考え方に、深く入り込んでしまい、新しい苦しみによって、さらにその苦しみを捨てようとしているが、こうした人々のために、私は大きな憐れみの心を起こしたのだ。

私はかつて悟りを開いた菩提樹の下に、初めは座り込み、そしてまた立ち上がって、菩提樹の木を眺め、その周囲を歩き回って、三十七日の間、このようなことを考えた。

JRF2020/8/306189

(…長過ぎるので中略…。)

舎利弗よ、知るがよい。私は尊い仏の、奥深く、清らかな美しい声を聞いて、喜んで仏に帰依し奉ると唱えたのだ。そしてまた、このように考えた。『私は汚れた、悪い世に出現してきた。多くの仏たちが、今まで説かれたように、私もまたそのように行っていこう』と、こう考えた後、波羅奈[はらない] (ベナレス、現バラナシ) に出かけていったのだ。

JRF2020/8/308289

(…)

そしてあらゆるものが、本来そのままでは、ひ弱であるというありようは、言葉でもって言い表すことができないので、教えの手立てを講じて、五人の比丘たちに法を説いたのだ。これを『転法輪』と名付けた。(…)
<(p.76-78)

JRF2020/8/301955

ここは最初のほうだからということもあって、とても詳しい説明になっている。後半はここまでクドくはない。

JRF2020/8/304072

……。

……。

で、石原訳を読んだのとはあまり関係ないが、法華経についてちょっと妄想したことを…。

法華経は、法華経はすばらしいと説くがその内容がいまいち不明だというのが大角修の見解だった。

また、法華経を読めば、眼耳鼻がものすごく良くなったり、多宝仏のストゥーパが現れたりするはずなのに、特にそういうことはない。

JRF2020/8/306905

…ということを考えあわせると、実は、我々が読む法華経は「本物」ではないのではないか…とか妄想した。法華経の「真伝」は別にある。…と。

または、秘密の教えであるのは、実はその内容がまだ決まってなかったからで、内容が決まるまで、修飾の物語だけ作って捨て置かれていたのが、誰かが見つけて「内容」を作ったのではないか。…とか妄想した。

まぁ、ただの妄想で、それ以上の意味はないけど。

JRF2020/8/300353

修正 「これまでのはサンスクリット語訳で」→「これまでのはサンスクリット語訳または抄訳で」。

JRF2020/8/306683

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