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cocolog:92189837

なぜ生きるのだろう? なぜ生命は(種を微妙に変えながらも)同種のものを増やそうとするのだろう? かつて宇宙に安住があったことの反作用なんだろうか。 (JRF 6413)

JRF 2020年9月10日 (木)

ニーチェ『権力への意志』を読んだ([cocolog:92189836])。この本を読む前に仏教のお経などを読んでいた(参: [cocolog:92148121] など)が、そこで、自己探求すべき・執着をなくすべき…と並んで、生きるべきが仏教の基本にあると考えた。しかし仏教からは「生きるべき」がなかなか出て来ない。そこでニーチェを読みながら、その辺りのことを「グローバル共有メモ」上で考えた。そのメモはすぐに消えてしまうので、それを記録するため、「ひとこと」のほうに残すことにした。

JRF2020/9/102311

……。

まず、本題に入る前に前段階のメモから。

「(追記: )」とあるのは、こちらに移すときの追記。「……。」が区切り、「(…)」が継続、「……。……。」が大きな区切り。

JRF2020/9/101018

……。

……。

ここから「前段階」。

JRF2020/9/102989

……。

……。

地獄のような悪夢をちょくちょく見る。日頃の行いが良くないからだろうか?

夢に出てくる要素は、日常から取られているのだろうから、あまりに変化のない私のような日常だと、夢が訴えるのに適した情景がないため、変な情景が選ばれやすく「悪夢」となってしまうんだろうか?…よくわからないが。

JRF2020/9/102664

……。

宇宙人的陰謀論。最近、原始仏教の教説を読んでいて、涅槃に入ると、彼岸に渡って意識が変わるみたいな話が出てきて、それは、宇宙人・異世界人的な意識に実際なるということだったのでは?…涅槃は、今はそうではなくなっているが、昔は、コンタクティになることだったのでは?…とか妄想した。SF 小説の設定としておもしろいかな?…ぐらいの妄想。

JRF2020/9/108129

……。

たんぱく質などから、実験室で生命が作れたとしても、生命を作りたいと思った当為を完全に否定することはできないのではないか。

JRF2020/9/105767

……。

生命を創ろうとしたその試みが、創ることをやめたとしても、ある種の生命の「はじまり」を構成していたということはあるのではないか。

…ニーチェ『権力への意志』を読みながらそんなことを考える。

(追記: このメモは 8月22日で、たまたま、8月25日に大阪万博のロゴマーク、「いのちの輝き」くん、ネット通称「コロシテくん」が発表された。)

JRF2020/9/102779

……。

我思う故にありうるのは「我々」までであって(追記: 参: [aboutme:125348])、「私」は比較的思うようにできたりできなかったりすることの学習結果でしかない。ただし、学習が進む中心の「我」は「私」の学習が進む以前に形成が終わっていることが多い。

…というのを人工知能(AI)に活かす道はないものか?

JRF2020/9/101236

……。

東大あたりという印象があるが、知能・精神を機械で説明できるかのような外観を装う派閥があるように私には見える。私の意見としては、精神を機械論的に説明することはそう簡単にできないと思っている。

ニーチェの宗教論もまるで説明しているかのような外観を与えるだけで、その「奇跡」を再構成できるようなものではないのではないか。…などと思う。

もちろん、そういった説明する努力は無意味なものではなく、それに近いことを私もしているが。

JRF2020/9/107543

……。

「道徳」とは何か。(追記: それそのものは言えないとしても、その条件なら言える。)

自分の「欲求」があるとき(何かに対する欲だとするとその「何か」を第二者として)、第三者が観察してその欲求に何が必要かがわかることがある。その第三者の判断が「(…する)べきだ」(当為)となる。その「べきだ」を自分のものとしたのが「道徳」でなければならない。

JRF2020/9/109980

(…)

もちろん、これは「道徳」が満たすべき条件ではあるが、このようなものすべてが「道徳」になるとは限らない。「欲求」がどんなものでも、第三者の価値観や認識がどんなものでも良いということはあるまい。しかし、これを外れるものは「道徳」とは呼べないのではないか?

元の「欲求」が高尚すぎて本物でないとか、「第三者」が再帰的に結局自分でしかないとかはあるかもしれないが。

JRF2020/9/107921

……。

……。

ここまで「前段階」。

ここから「本題」。

JRF2020/9/100316

……。

……。

なぜ生きるのだろう?

なぜ生命は(種を微妙に変えながらも)同種のものを増やそうとするのだろう?

気象的な現象の反作用的なものなんだろうか? 反作用だとすればもとの作用ってなんだ?

JRF2020/9/107077

……。

(追記: かつて宇宙に) 安住があったことの反作用なんだろうか。

物理的な事象により、定常状態やパターンができる。それが壊れたことがやがて生命につながっているのではないか。

(追記: 定常状態が壊れて生命につながった例として…) 同じパターン的形質の岩があるとか。

さらに突き詰めれば、等質的な空間(無明?)があったことが必要なのかもしれない。

…論理的でなさすぎるかな? これもある種の妄想?

JRF2020/9/104035

……。

それとも、「無明」という「非等質性」を等質とみなせるほど貫く強烈な光・エネルギーが本質なのだろうか?

JRF2020/9/100411

……。

人類が生き残るべきなのは、生命が知性が貴重だからか?

ならば貴重なもののほうが生き残るべきなのか? いや、生き残る意思の強いものが生き残るべきというとニーチェにつながってくるのかな。

貴重なものが生き残るべきだが、貴重さは人が測れるものではない。…とか?

宇宙に広がること、次元を超えて広がることが「恩返し」(反作用)で、そこまで人という種を継続させるべき…。それに…反作用という物理現象に…意味があるのか?

JRF2020/9/107481

(…)

人は生命は反作用により総体として生きたいという欲求がある。ならば太陽系などに終わりがあるため、宇宙に広がり、次元を超えて広がる「べきだ」。…とは言えるのかもしれないが、「生きるべきだ」は出てこない…ということだろうか。

総体として生きたいから、個々に「生きるべきだ」は現れることはある。しかし、その総体が生きるべきというのは出てこないため、個々の「生きるべきだ」もそこに上限があるということになるのか。

(散逸構造を思い出す。)

いや、総体が生きたかったのなら、そこから飛び出した個々には他から望まれなくても「生きるべき」となるといっていいのではないか?

JRF2020/9/105797

……。

別に死がなくても総体として生きたいなら個々に生きるべきは出るはず。

結局、生きたいのなら生きるべきだということでは? 個体が生きたいと思ってなくても、総体として生きたいなら、その個体も生きるべきということでは?

いや、生きる「べきだ」というとき、その「べきだ」を判定する第三者、または、物理過程が要ると私は感じているのでは?

物理過程による「べきだ」があるということ?

JRF2020/9/105510

……。

他者の死が「生きるべき」を構成することはないのだろうか。たんに「生きたい」だけでなく個々が犠牲になっても総体として長く生を続けていることにメリットがないだろうか?

反作用が「活かされてる」ところに、よりエネルギーを送るような「引力」がありうるのだろうか? そうすれば生をつなぐことに正のフィードバックがかかるのでは? ただ、現在、宇宙レベルで、そういうものがあるようには見えないが…。

JRF2020/9/102807

(…)

二つの個体が総体として生きたいというとき、どちらかの個体を犠牲にすることで、もう一つの個体が生きられるようになるということはあるだろう。このとき、生きたくなくなったから生きるのをやめるということは認められなく、生きたくなくても総体として生きたかったのだから生きることが求められる。「生きたい」を保存しなければならない。それが「生きるべき」になるのではないか。

「総体として生きたい」を継続するための方法を探す。上の「引力」はないとしても、生きるための原料を探し取りに行くというのはある種の「引力」なのではないか。

JRF2020/9/105646

……。

「生きるべき」は執着ではないのか。

反作用としての「生きたい」は執着ではないと思われる。執着を無くしたはずのブッダも寿命をまっとうしたから。

死によって託された「生きるべき」は執着ではあるかもしれない。しかし、その執着をただ消すのは、「責任」の放棄で、逆に吝み(うらみ)が生じ、涅槃に至れなくなる。その執着を解消するとは、新たな生命・「生きたい」を見つけ、それに託して死んでいく。…ということではないか。

JRF2020/9/109069

……。

「反作用」とは何か?

定常状態などがかつてあって、なくなったそれらを再び求めるような作用を私は言っている。

そんな「法則」がありうるのか? そのような「法則」があるとして、なぜそのようなものがあるのか?

世界はそうあるからということでよいなら、総体として生きたいという欲があるというのも世界はそうあるからとしていいのではないか?

JRF2020/9/104794

……。

「反作用」は宇宙で普遍的に見られるもの。「生命」は(今のところ)地球にしか見られない。

「反作用」が必ず「生命」をうむわけではない。そこには「偶然」がなければならない。

どこにもここにもある「法則」と「偶然」ですべてが説明できると私はしたい。…ということだろうか。

宇宙時代、「生きたい」はどこにでもある「法則」ではなくなった。…と。

あと、「生命」は「偶然」だけで説明するのは足らず、「法則」か何かでその確率を増す必要がある…と私が感じているということだろう。

JRF2020/9/104947

……。

……。

ここまで「本題」。

JRF2020/9/100236

……。

……。

追記。

上のを書いた直後にメモした続き。

ここから。

JRF2020/9/194002

……。

……。

H.V.ギュンター&C.トゥルンパ『タントラ 叡智の曙光』と、地橋秀雄『ブッダの瞑想法 - ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』を読んだ。2007年と2010年に一度読んだものの再読。

かつて finalvent さんがネットで紹介していた。私はオウム真理教事件もあって、原始仏教・上座部仏教系には警戒感があったが、finalvent さんのすすめとあって読んだと記憶している。

JRF2020/9/192973

……。

「生きたい」は仏教でも否定されてない。…と書いた。

しかし、四苦・生老病死によれば、生は苦であり、やはり滅すべきものではないか?

一旦、いや、死で託された生は苦だろう…とかいろいろ考えたが、考えを変えた。

生は苦であっても、人は生を選ぶ。その「選ぼうとする」のが私が「生きたい」として示したことだ。…と。

JRF2020/9/195129

考えてみれば、生も老も病も死もそうなりたいと願わないのにそこに向かう。そこに向かうというものが私が「生きたい」で示したかったものではないか?

それは十二縁起とかアーラヤ識とかで説明できるのだろうか? さもなくば、それが「我」?

しかし、そうすると、諸法無我の教えとあわない。とすると、それは「我」だと考えてはいけないのかもしれない。(もしかすると「我」ではなく「我々」なのかもしれないがそうとも限るまい。)

JRF2020/9/196665

……。

生に向かうもの、老に向かうもの、病に向かうもの、死に向かうもの、それぞれ、「総体として生きたい」が必要としたものということで一元に思えるが、しかし仏教では別の四つのものとしてみる必要があるのではないか。

もしくは「総体として生きたい」が必要としたものが「苦」なのか? だとすれば「苦」自体が我々の印象の苦しみとは違い、物理的な重みや思いこだわりをしか表していないということなのだろうか? いや、四諦を参照する限りはそうではない。

JRF2020/9/190383

苦と感じる何かがあるということだと、「我」が問題になる。諸法無我。しかしそれは「我」ではない…。

仏性? 万物が仏になるためにこの世で総体として生きたい…と?

JRF2020/9/196114

……。


うーん、これも「仏教への教義」すなわち「仏教教義の提案的解釈」になるのかなぁ…?

「総体として生きたい」はある。それが仏性やアーラヤ識や十二縁起から説明する方法はあるかもしれないが、あえてそうしない。説明を求められたら「反作用」を持ち出して説明するが、それが確定的なものとはしない。

JRF2020/9/199396

とにかく、理論上のテンポラルな公理として「「総体として生きたい」はある」とし、そこから「生きるべき」などを導く。これは「私の教え」ということになるのだろう。あまり新宗教をたてるような態度はよくないが、釈尊も仏教を宗教としたくなかったみたいだし、それをまねてこうするのは許されるのではないか。

JRF2020/9/199565

「仏教教義の提案的解釈」というよりは、仏教教義と矛盾しない範囲で仮に立てる(仏教にはなさそうに見える)理論的公理…といった感じか。

仏教的根拠は基本「ない」があえてあげれば、釈尊が生を選んで寿命を全うしたことを挙げるか。

JRF2020/9/193394

……。

私が(素人)哲学者として、普通の哲学者との違いは私が統合失調症持ちであること。

「奇跡」が起きることを感じることがしばしばあるということ。

起きて欲しい奇跡が、まして起きて欲しいときに、起こるわけではない。それは旧約聖書でもしばしばそうであるように。

JRF2020/9/191536

さらに、起きた奇跡に関しても、出エジプトのモーセの奇蹟も今では科学的に説明しようとする人がいるように、奇跡は時間が経てば、偶然性に埋もれてしまい、ほぼ証拠がなくなる。「証拠がある」ものでもそうなるのだから、大抵の奇跡のようにほぼ自分にしかわからない符牒などであった場合はなおさらになる。

JRF2020/9/192850

しかし、テレビがたまたま良いタイミングで何かを言ったとか、母が誰かに会ったとかそういうぐらいの奇跡はしばしば起こっているのを私は感じている。まぁ、それぐらいのものの頻度も最近は減って来ているのであるが…。

ところで、「奇跡」と感じるぐらいだから、何らかの特別な意味を状況に見出していることは事実だが、そのメッセージ性はその奇跡の瞬間にも意味不明であることが多い。

JRF2020/9/198353

さらに、その奇跡を起こしたのが何者かになってくるとさらにわけがわからなくなる。人間じゃないはずだから唯一神だ…みたいな理路があるわけでなく、神・宇宙人・異世界人といった上位存在だけでなく、雑霊みたいなものから、人間の未知の自然現象、(その複数の相乗など)まで、可能性はいくらでもある。その中から、師みたいなのを選んだことも、統合失調症の強い発作時にはなかったわけではないが、そういうことはむしろ少ない。

JRF2020/9/195641

だから、私の哲学には、正常人が受け容れやすいよう超常現象みたいなものがなくても成り立つようにする「理性」はあるが、一般に狂気とされがちな「信仰」の余地もかなり認める方向にある。そこが違う。ただ、完全な「コンタクティ」・能力者ではないから、狂気も抑えめであるだけ。

(ただ、「信仰」の余地もかなり認める方向にあるのは、統合失調症持ちになる前からかなりそうだった。そういう素地があったから統合失調症になったんだろうか…?)

JRF2020/9/193265

……。

奇跡を起こしたのが誰か…というところで、複数の相乗があると書いた。奇跡を起こしたと思っている者がいたとしても、それよりさらに上位(?)のものの意を知らずに受けている可能性がありうるということ。キリスト教で天使が奇跡を起こしたのも神の意志ととらえるようなことが、もっといろいろ錯綜して起こりうるということ。

JRF2020/9/194284

これを受け容れるとさらなる「洞察」が得られる。それはその奇跡が「誰から」だけでなく「誰へ」向けてのものなのかも問題となるということ。当然、「誰へ」と言えば一旦は「私へ」となるわけだが、実際には「ハブ」(ハブ空港などのハブ)でしかなく、複数の相乗者のうちのある者からある者へのメッセージという意味合いが濃いという可能性もなくはない。…などと考えるわけである。

JRF2020/9/190630

私に奇跡が訪れるのは私が「偉大」・「選ばれたもの」なのではなく、「ハブ」としてたまたま使い易かったからに過ぎない。…などというこじらせた解釈を生むことになる。(奇跡を得た私が人々に知らせる必要はなく、私がすべきこともちょっとしたゴミを拾うなり脇にやるようなことぐらいである。…みたいになる。涼宮ハルヒとか思い出すね。)

この辺哲学的にどう活かすべきかはわからないが、統合失調症者の解釈としては知っておいても良いかも。

JRF2020/9/195186

……。

ヴィパッサナー瞑想。「我」を見るべき時に見ないことで、結局、「我」を強化し「我」の責任にすることで、奇跡があったときの関係性を見過ごしたりしているのではないか? 支配者の名を畏れ多くも口に出さないようなことが「我」に対してなされているだけではないか。自分の「自然な行為」は支配層の意を受けているもの。支配層以外の影響などに気付けなくなっているのではないか。…ニーチェを事前に読んだため、仏教はクシャトリアのブッダによる畜群宗教ではないかという疑いから、そう感じてしまう。

JRF2020/9/190476

……。

……。

ここまで。

JRF2020/9/194297

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