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技術系電子本。Python による仏教社会シミュレーション( https://github.com/JRF-2018/simbd )の哲学的解説です。

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cocolog:92189836

ニーチェ『権力への意志』を読む。事前にニーチェの哲学を知っていることが前提の遺作断片集。なかなか読み進められなかった。ナチスが参考にしたとかしなかったとか言われる極論だが、私にはあまりおもしろくなかった。 (JRF 1134)

JRF 2020年9月10日 (木)

『権力への意志 (上・下)』(ニーチェ 著, 原 佑 訳, ちくま学芸文庫 ニーチェ全集12・13, 1993年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480080821 (上巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1101140217 (上巻)
https://www.amazon.co.jp/dp/448008083X (下巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1101140214 (下巻)

JRF2020/9/102745

事前にニーチェの哲学を知っていることが前提の遺作断片集。一日読んで 100ページ以下ということもあって、なかなか読み進められなかった。ナチスが参考にしたとかしなかったとか言われる極論だが、私にはあまりおもしろくなかった。ニーチェの求める貴族的な人間と違い、哲学書を読んでる余裕があるわけでもないのに、私は何やってんだろ。…と思いつつ読んだ。

JRF2020/9/100688

この本を読んだキッカケは、John K. Kruschke 『ベイズ統計モデリング - R, JAGS, Stan によるチュートリアル 原著第2版』([cocolog:91888253])を読んだときに、エクササイズ 13.1 で…、

>フリードリヒ・ニーチェの全集から、死後に特に注目を集めた著書である、力への意志 (Nietzshe, 1967) を読んでみよう。ニーチェの意思や力の概念についての数学的定式をベイズ確率理論を用いて示してみよう。統計的検定力の概念が、ニーチェの定式の特殊型であり、その逆もまた然りであることを示そう。<

JRF2020/9/104561

…とあって、関心を抱いたから、しかし、私は『権力への意志』を読み終えても、このエクササイズを解くことはできない。私は失敗したようだ。

JRF2020/9/101376

この本を読む前に仏教のお経などを読んでいた(参: [cocolog:92148121] など)。そこで、自己探求すべき・執着をなくすべき…と並んで、生きるべきが仏教の基本にあると考えた。しかし仏教からは「生きるべき」がなかなか出て来ない。そこでニーチェを読みながら、その辺りのことを「グローバル共有メモ」上で考えたりもした。それはこの次のひとこと [cocolog:92189837] で記録してある。

JRF2020/9/109186

こちらは少しだけ目に留まった部分を引用しておくだけにしたい。少しの部分だけだが、この本がどういう本か雰囲気はわかるだろう。

なお、ニーチェの利己主義の哲学を自己啓発的に読もうとする人もいるかもしれない。しかし、私はこの本を読むぐらいなら、アイン・ランド『利己主義という気概』を読むことをオススメする(参: 2009年01月10日の JRF のひとこと)。

JRF2020/9/103367

……。

>キリスト教がパスカルのごとき人間を徹底的に没落せしめたということを、けっしてゆるしてはならない。キリスト教が最も強い最も高貴な魂をこそ破滅せしめる意志をもっているという、まさにこのことでキリスト教を攻撃するということを、けっしてやめてはならない。<(上 p.253-254)

キリスト教徒の「畜群」は、パスカルのような高貴な魂を巧みに没落させるのだという。キリスト教徒はショックを受けるのかもしれないが、第三者的な私はそこまでショックを受けることもなかった。

JRF2020/9/104482

……。

>善人の固有性を吟味してみよう、なぜそれらが私たちに快感をあたえるのであろうか? それは、私たちはなんら戦う必要がないからであり、不信、用心、精神の集中や厳しさをなんら私たちに課することがないからである。私たちが怠惰で、お人好しで、気軽であって安穏としていられるのである。こうした私たちの快感こそ、私たちがわが身からそれを投影し、固有性として、価値として、善人に帰するそのものなのである。<(上 p.313-314)

JRF2020/9/101889

互いにストレスをかけないという枠をはめても追及できることはある。善人だから何もできないとは限らない。小単位のグループを作って、そこで多少の逸脱があってもその中でカバーすれば問題ない…などとすれば、できることも広がる。

道徳が非道徳からなると言っても、非道徳をしていれば必ず道徳ができるわけではない。暴力装置を抑え込み穏やかなものにするにも道徳は役立つはずである。(散逸構造などを私は想像する。)

JRF2020/9/100100

そもそも「道徳」とは何か。それそのものは言えないが、その条件なら言える。

自分の「欲求」があるとき(何かに対する欲だとするとその「何か」を第二者として)、第三者が観察してその欲求に何が必要かがわかることがある。その第三者の判断が「(…する)べきだ」(当為)となる。その「べきだ」を自分のものとしたのが「道徳」でなければならない。

JRF2020/9/103060

もちろん、これは「道徳」が満たすべき条件ではあるが、このようなものすべてが「道徳」になるとは限らない。「欲求」がどんなものでも、第三者の価値観や認識がどんなものでも良いということはあるまい。しかし、これを外れるものは「道徳」とは呼べないのではないか?

元の「欲求」が高尚すぎて本物でないとか、「第三者」が再帰的に結局自分でしかないとかはあるかもしれないが。

JRF2020/9/107683

……。

>「これこれである」という信仰は、「これこれとなるべきである」という意志へと転化されなければならない。<(下 p.136)

これはニーチェの「永劫回帰」の思想に関係しているのだろう。

[wikipedia: 永劫回帰] によると、ニーチェは…

JRF2020/9/101214

>「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。

(…)

永遠に繰り返す。故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。

JRF2020/9/103114

「これである」というものは「こうなるべき」と肯定して捉え、自らの意欲として取り込んでいくということなのだろう。

JRF2020/9/100380

……。

>根本現象は、無数の個体が少数のもののために、このものの可能化として、犠牲にされるということである。-- 欺かれてはならない、事情は民族や種族に関してもまったく同様であり、民族や種族は、偉大な過程を継続せしめる個々の価値多い諸個人の産出のための「肉体」を計成するのである。<(下 p.203-204)

JRF2020/9/109743

>これまでの生物学者たちの根本誤謬。問題は類ではなく、より強い影響をおよぼすべき個体である。(多数者は手段にすぎない。) 生は、内的諸条件の外的諸条件の順応ではなく、内からますます「外」を屈従せしめて血肉化する権力への意志である。<(下 p.204-205)

JRF2020/9/101775

次のひとこと [cocolog:92189837] で述べるが、私は、貴重だから生き残るべきという論にはくみさない。が、死が託す生はあるとは考える。

JRF2020/9/102928

……。

>人間愛のいま一つの命令。-- 子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や神経衰弱症にかかっている者の場合である。そのときはどうしたらよいのか? (…) 社会は数多くの場合生殖を予防すべきである。しかもそのうえ、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、事情によっては去勢をも、用意しておくことが許されている。<(下 p.253)

JRF2020/9/107331

優生思想については直近で [cocolog:92073987] で少し論じた。

国が去勢をさせるようなことは、現代ではもうありえないが、ただ、医療現場などにおいては、親になれる人物か・周りから支援を受けられる人物かを見定め、公的なサポートを促しながら、納得の結果を導くようなことはなされているのではないか。金銭的な余祐もある程度は求められるだろうが、それは大きくあるまいと信じる。が、衰退する日本の過重な労働環境にある産科がどこまで、その負担に耐えられるかは注視しないといけないのだろう。

JRF2020/9/106064

……。

>最後に、女性! 人類のこの半分は、弱く、典型的に病気で、むら気で、移り気である、-- 女性は、それにしがみつくために強者を必要とし、なおまた、弱者であることを、愛することを、謙虚であることを、神的としてたたえる弱さの宗教を必要とする --、ないしはむしろこう言うべきであろう、女性は強者を弱化せしめ、-- 強者を圧倒することに成功するときには支配すると。<(下 p.381)

JRF2020/9/106978

ミソジニーみたいな感じだが、注意すべきは、ニーチェには妹がおり、この『権力への意志』はその妹が、保存し編集したものであるということである。毀誉褒貶のある妹であるが、胆力はあったということだろう。

JRF2020/9/108516

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