cocolog:92296901
坂井豊貴『「決め方」の経済学』を読んだ。コンドルセの陪審定理を「数が多ければ多数決は必ず正しい」として紹介する者がいたように記憶しているが、それに反駁するため、その定理が載っているこの本を読んだ。多数決は正しさも誤りも増幅するだけである。 (JRF 0086)
JRF 2020年10月23日 (金)
コンドルセの陪審定理を「数が多ければ多数決は必ず正しい」として紹介する者がいたように記憶している。それはおかしいと思って、↓のようにブックマークした。
はてなブックマーク - 《「多数決で正しい判断ができる確率」を計算する | 「決め方」の経済学 | ダイヤモンド・オンライン》
https://diamond.jp/articles/-/96688
JRF2020/10/239510
jrf: >有害な理論。コンドルセによるものらしい。多数決では正しいとは何かが決まっていないのに、誤る可能性の率がまずわかるという仮定に悪意を感じる。高々、熱心さの度合で多数決が決まることしか言えてないのでは。< 2016/07/31
JRF2020/10/239997
そのあと、モトネタらしき今回の本を買ったのだが、しばらく読まずにいた。それを今回やっと読んだ。
読む直前に Wikipedia を読んだ。
はてなブックマーク - 《陪審定理 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%AE%9A%E7%90%86
JRF2020/10/234528
>片方の選択肢が正解である二者択一の問題(○×問題など)について、
(仮定1)多数決に参加する人の人数が十分多い
(仮定2)各参加者の投票行動は、他の参加者が正解を選ぶ確率に影響を与えない
この二つの条件が揃うとき、
(結論1)多数決によって正解が選ばれる確率は100%か0%のどちらかであり、中間は存在しない
(結論2)多数決が正解を選ぶ条件は、多数決参加者の平均正解率が1/2を越えている事である
<
JRF2020/10/236242
jrf:>結論1はおかしい。きのこたけのこ論争に正解があるとしてそのときどきで平均正解率はゆらぎ明らかではない。すると得票率の事前予想は100%か0%に限らなくなる。ただ平均正解率がわかれば得票が予想できるというだけ。< 2020/10/20
JRF2020/10/235293
……。
陪審定理は…、例えば 3人 の多数決を例に挙げると、1人が正解する確率を p とすると、多数決が正解する確率は P = p ** 3 + 3 * (p ** 2) * (1 - p) になる。人間が熟慮すれば p > 0.5 であることが予想される。すると p > 0.5 のもとでは P > p になる。しかも、人数を増やせば P は 100% に近づく。…というもの。
JRF2020/10/233411
ただし、p < 0.5 ならば、逆に P < p になり(y = P - p とおくと y = 0 の点は 1, 1/2 なるグラフになることからわかる。)、人数が多ければ p は 0% に近づく。(そのことは本にも書かれている。)
JRF2020/10/231977
>1人の人間の判断がコイントスに劣るケース、つまり p < 0.5 のケースはどうすればよいのか。このとき陪審定理の結論は p > 0.5 のときと逆になって、多数決の判断が正しい確率 P は、1人の判断が正しい確率 p を必ず下回る<(p.136)
JRF2020/10/234365
つまり、正解のかたよりをよくも悪くも増幅するのが多数決というのが実態となる。
熟慮すれば p > 0.5 になるというが本当にそうだろうか? 熟慮した結果が p = 0.3 とかのことはおおいにありうるのではないか。(きのことたけのこアルフォート論争で、アルフォートを正解としたときのように?)
JRF2020/10/238777
裁判などで、正しさには簡単に致れるものではないはずで、まだ熟慮していない段階での正しい確率とは何か、それをどう決めることができるというのか。神の視点から見て、熟慮前は単に 0.5 付近だといえるだけではないのか。熟慮した結果、部分的に間違っているものは、0.7 なのか 0.3 なのか、答えられるだろうか?
JRF2020/10/237530
p < 0.5 ならば少数決をすればいいと本には書いてる(p.136)が、それは、次の (1) に反するのではないか。少数決は、共通の目的に関するものではなくなるのではないか。
JRF2020/10/231845
>陪審定理で多数決を正当化できるための条件をまとめておこう。
(1) 多数決で決める対象に、皆の共通の目的がある。
(2) 有権者の判断が正しい確率 p は 0.5 より高い。
(3) 有権者は各自で判断する。ボスに従ったり、空気に流されたり、「勝ち馬」に乗ろうとしない。
<(p.134)
JRF2020/10/239400
この本の論調ではないが、「数が多ければ多数決は必ず正しい」にはさらにおかしい。
きのこたけのこ論争(お菓子の「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらがうまいかの論争、そこに「アルフォート」を加えることもある)に正解があるとしたときのように、平均正解率の値はゆらぎ事前には予測できない。
JRF2020/10/230305
「多数決によって正解が選ばれる確率は 100% か 0% のどちらかであり、中間は存在しない」というのは、平均正解率が決まっている特殊な場合にのみ言えることがわかる。ただ平均正解率がわかれば正解・不正解のどちらに増幅されるかがわかるというだけである。
「平均正解率のゆらぎ」を確率的に表すことができれば、そのゆらぎにおける得票率の期待値は別に求まり、それは 100% や 0% ではないであろう。
JRF2020/10/238706
……。
……。
陪審定理についてはこれぐらいにして、次はボルダルールについて。
私は次のような意見を持っている。
JRF2020/10/238307
[aboutme:109179]
>私は、単純小選挙区制は嫌いで、複雑な形式を推す。が、英米のような「実績」を見ると、単純小選挙区制にも良さがあって、それは、選挙というお祭りに金をかけても、選挙システムそのものにコストをかけない、議会の正しさなんて実は二の次なんですよ、という割り切りにあると思う。複雑な形式とは、決戦投票ありの二回投票制の小選挙区制や小選挙区比例代表「併用制」など。<
JRF2020/10/231111
ボルダルールは、1位2位3位を書かせて「1位に3点、2位に2点、3位に1点」などとして集計するスコアリングルールの一種。著者はこれを推す。
ボルダルールにすると、大政党が 1 位 2 位を取りやすくなるのではないか。それともボルダルールは 1 人を決めるためのもので、何人かのうち複数人を選ぶような形式には適さないということだろうか?
JRF2020/10/233466
>有権者は、多数決だと「本当は(…2000年米大統領戦でブッシュ・ゴア・ネーダーのうち…)ネーダーに投票したいが、どうせ負けるので次善のゴアに投票しよう」といった戦略的な投票をしうる。いわば正直ではない投票行動をするのだ。ボルダルールでも、ブッシュの支持層が「本当は『ブッシュ、ゴア、ネーダー』の順に好むが、ゴアの得点を下げるために『ブッシュ、ネーダー、ゴア』の順を表明する」ことが得になりうる。ライバルをわざと下位に置くという、正直ではない投票行動だ。多数決でも、ボルダルールでも、あるいは決戦投票付き多数決でも、すべての有権者が正直に自分の意思を表明するとは限らない。
JRF2020/10/239612
(…)
誰にとっても正直に自分の意思を表明するのが常に得になる決め方を、耐戦略性を満たすという。だが、例外的な状況を除いて、およそ常識的に考えうるあらゆる決め方は耐戦略性を満たさないことが知られており、これをギバート・サタスウェイト定理という。なお、例外的な状況とは、選択肢が一直線に並べられ、「真ん中」を定義できるときだ(…)。
<(p.140-141)
JRF2020/10/236067
今も二人区や自民党以外の候補者の区などでぜったい事前調整しただろうという不思議な立候補選略がとられることがある。単純小選挙区制のように、戦略性が大きくあるということも「支配層」には大事なことなのかもしれない。
JRF2020/10/238268
『「決め方」の経済学 - 「みんなの意見のまとめ方」を科学する』(坂井 豊貴 著, ダイアモンド社, 2016年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4478064873
https://7net.omni7.jp/detail/1106663007
JRF2020/10/234163