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cocolog:92288127

仏教の最適化プログラムのメモ その1。仏教は「来世がないのが良い」「生きなければならない」「自己の探求が良い」の三つの命令的前提による最適化プログラムではないか。…みたいな考えを「グローバル共有メモ」で詰めていっている。メモはやがて消えてしまうので、「ひとこと」に書き移しておく。 (JRF 5661)

JRF 2020年10月19日 (月)

動機は、[cocolog:92041503] の「真の自己」に関する議論で「来世がないのがよい」ことに関する循環論理的な部分を、記号論理で解きたかったこと。来世・真の自己・コンピュータープログラムといった周辺を攻めてみようとした。

JRF2020/10/196368

まず、キッカケとなったひとことの部分を示す。そのあと、関係ないはずだったが後に関係してきた易理(易経の理)についてのメモのあと、仏教の最適化プログラムのメモを書き移す。(誤字・脱字等の修正は少し行う。)

JRF2020/10/197341

ほんとは、こういったことをまとめて、プログラミングを知らない人向けに最適化の解説も書くなどして、ブログ記事にでもしたいと思っていた。が、書いていることが長くなりまだ考えがまとまっておらず、まとめるのが難しいのを認めざるを得なくなり、先にメモを残すだけでもしておこうとなった。もしまとめた記事を書いたならば、おそらくメモに書いたことはかなり間引かねばならないだろうことも、元のメモを残しておく動機となっている。

JRF2020/10/199566

ちなみに、「生きなければならない」が仏教からは出てこないと私は認識していて、それを擬似哲学的に「かつて宇宙に安住があったことの反作用なんだろうか」として論じた「ひとこと」(最初はグローバル共有メモ)が [cocolog:92189837] にある。それはこちらには書き移さず、そのひとことを参照して欲しい。

JRF2020/10/197232

途中、仏教経典を様々読んで考えたこともある。経典に関してのひとことは例えば [cocolog:92148121] から辿っていただきたい。「グローバル共有メモ」に仏教に関して書いたことで、経典に関するひとことで書いたことに重なるものはここには書き移さなかった。

JRF2020/10/192496

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[cocolog:92041503]

『今を生きるための仏教100話』(植木 雅俊 著, 平凡社新書 0927, 2019年)
>"真の自己"の探求こそ、釈尊が一貫して説きたかったことであり、いつの世も常に一貫して仏教の目指すべきことだということ<(No.1043-1044)

JRF2020/10/197142

「自分探し」という言葉、はやったなぁ…。法に帰依するということは、自分というのは単に自分の中にあるものとは限らないということだろう。「探求」をしていれば、それは生活・行動に出るものでもあるのだろう。阿弥陀仏や弥勒仏となりうる自分を発見し、そこに帰依する自分も同時にありうると観れるのかもしれない。

しかし、それだけでは生活できず、そして生きることを選ぶのだから、探求した上での「本当の自分」を生きることは難行になる。来世にのみ期待をかけるような生き方をして、今の自分が求めた「真の自己」を生きているなんて言えるのだろうか?

JRF2020/10/197677

一方で、かつての(正しい)望みがかなわない者にも、来世がないのが望みであるように人に見せるのが良いことと言う。「来世」として子供に期待をかけることも含めるなら、それは衆生が生き続けることの否定である。

「来世」がないのに「真の自己」を見つけろというのは、結局いくつかある類型の自己、しかも、法的に許される自己に嵌め込まれるだけではないのか? それをよしとするのは社会の発展・人口増大の否定であり、それは「真の自己」の(横方向の)探求の否定だろう。

まぁ、いかような死に方をしても納得できる方法があるようにはなるのかもしれないが。

JRF2020/10/199179

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● 2020-06-05T10:42:07Z

新型コロナ対策に苦心した医療関係者の収入が下がる、または、十分な「労賃」が得られない…というのは、天意にもとる・「凶」だと思う。持続化給付金みたいなものを多少減らしても補うべき性格のもののように思う。ただ、それをクラウドファンディングとか寄付で賄い、感謝を押し付けるようなのは、金の力が強すぎるうらみ・「吝」があるように思う。

JRF2020/10/191682

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● 2020-06-09T06:20:55Z

世を混沌と物理(もののことわり)に分ける。混沌から物理をたち上げるとき、要素還元主義的に物の理を追っていくことには限界が必ずあり、物のはじまりを擬制せねばならない。その擬制されたものを鬼と呼ぶ。鬼と物の理も含めたところに全体的な働きが現れることがある。その働きを神と呼ぶ。天意は神の一種と見えなくもない。人心は、神とも見えるがむしろ鬼のように私は思う。鬼・神は起・信なり。

JRF2020/10/198072

混沌・物理・鬼神。ものの相の一面である。鬼神も、結局は物理も擬制的なものであり、すべては混沌と言っても間違いではない。

JRF2020/10/198604

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● 2020-06-19T10:14:40Z

[易理。吉凶悔吝。]

天意に吉[かな]う・天意に凶[もと]る。人心に悔[くい]あり・人心に吝[うらみ]あり。と私は訓じる。

悔吝の説明が難しい。

JRF2020/10/193765

A からみて、A に対する B の位置がおかしい…とき、A は B に対する吝があるという。A からみて、B に対する A の位置がおかしい…とき、A は悔ありという。悔ありの場合は、相対的な B がいなくても絶対的に成立するが、吝ありの場合は、相対的にしか成立しないと言っていい。

ただし、吝があるからといって、A が B を恨んでいるかというとそうではない。A の周りの人物がストレスをためているということである。悔ありだからといって、A が心情的に悔いているとは限らず、A の(立場の)周りに人間にストレスがあるということである。

JRF2020/10/195994

吝・悔の解消は、位置が変わるだけでなく、第三者(C)の影響で解消されることもありうる。すなわち、C に B や A が応じるとき、その位置に必要性が出てきて、吝・悔が解消へと向かうこともあるのである。

うらみがあれば悔いるべきか? うらみが「恨み」であれば、高い地位の人間が下の人間を恨むようなことはないなどと言え、「恨み」がない替わりに「悔いるべし」となるかもしれないが、「吝」であれば、単にそういう状態であって、高い地位の人間の周りにストレスがあるというだけなので、悔いるべしとは必ずしも言えないと思う。

JRF2020/10/193184

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● 2020-09-08T04:52:00Z

「生きるべき」は執着ではないのか。

反作用としての「生きたい」は執着ではないと思われる。執着を無くしたはずのブッダも寿命をまっとうしたから。

死によって託された「生きるべき」は執着ではあるかもしれない。しかし、その執着をただ消すのは、「責任」の放棄で、逆に吝み(うらみ)が生じ、涅槃に至れなくなる。その執着を解消するとは、新たな生命・「生きたい」を見つけ、それに託して死んでいく。…ということではないか。

JRF2020/10/196252

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● 2020-07-11T16:14:43Z

来世とは何か。法への自己の埋め込み、子供などに未来を拓すこともここでは広く「来世」とする。ただ、一般的には転生概念であるが、それは一体なんなのか、もちろん、姿形が変わっても良いし、記憶が引き継がれると考えているかどうかもよくわからない。記憶がある場合は、記憶が単にあるだけでなく、その記憶が自分のもので、自分の考え方を裏打ちしていなければならないだろう。記憶がはっきり思い出せなくても、自分の考え方が引き継がれていればよいとするなら、それは人工知能でデータはないが学習済み行列はあることに相当するか。

JRF2020/10/192686

オブジェクト指向で考えてみる。self が出てくるが、あまりそこは考えず、法への自己の埋め込みは、クラスやモジュールが確定することに相当するか。子供などはチャイルドプロセスに仕事を引き継ぐことに相当しようか。転生は、プログラムが一端終了するが、別の環境で再生し、そこで self でありながらも別の役割を負うことに相当しようか。

JRF2020/10/197985

プログラムのコードが変わっても、同じ役割と思っていることはある。その思っているプログラマのプログラムへの信用が「真の自己」なのだろうか。 プログラマが AI になったらどうなるのだろう?

JRF2020/10/195796

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● 2020-07-15T17:52:34Z

「自帰依」は釈尊が死を前にしてアーナンダに伝えた言葉であり、アーナンダの中に釈尊がいる(教えがある)ということも含まれていると考えてもいいのかもしれない。それは「自力」というよりは、「他力」によって教えが生き延びていくということではないか。

もちろん、釈尊はアーナンダに釈尊のように教えることを期待していない。涅槃に入るとは他人の自力に期待する(できる)ことでもあるのだろう。…と思う。

JRF2020/10/197645

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● 2020-07-16T16:19:24Z

現代、僧は、涅槃に入ること・来世がないことが良いという外観を保つために善行していると極論してよいのではないか。

JRF2020/10/190828

習ったことが新しい時代に通用しなくなることに執着せず(衆生的法帰依的なものよりも涅槃を優先する)、子供が言うことを聞かないことや作品が遺らないことに執着しない(衆生的自帰依的なものよりも涅槃を優先する)。涅槃に入るのが良いこととすることで、それらに執着しないことを促し、執着による苦をやわらげる。それが、転生概念がない場合でも、もたらされる仏教の救いではないか。

JRF2020/10/190211

僧が「善行」をすることで、涅槃に入ろうとすることが善いことだとブランド化される。それはブランド化だから、僧と同じことができなくても、涅槃に入ることができる。涅槃に入る方法は、僧的な善行以外にもいろいろある。…としてはいけないのだろうか?

法華宗は法帰依、念仏宗は自帰依に寄ったデザインなのではないか?

JRF2020/10/196378

↓において、「神の記憶モデル」が「法帰依」に、「霊的肉体モデル」が「自帰依」に相当すると、私は考えている。

《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html

JRF2020/10/194271

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● 2020-07-17T13:52:11Z

仏教をある種の最適化プログラムだと見た場合、「来世がないのが良い」「執着がないのが良い」「生きなければならない」「自己の探求は良い」…を命令的前提として最適化しているのではないか。(「生きなければならない」は「自ら破滅してはならない」のほうが人だけでなくプログラムについても言え一般性があるかもしれない。)

JRF2020/10/198319

環境的前提として「自然には生き(ようとし)ている」「命令的前提が達成されないなら、「来世」で悔いる」などがあるか。

トレードオフは当然ありうる。まぁ、法は、あれでもなく、これでもなく、「最適化」でもなく、「ありのまま・真如」を見るべきなのかもしれないが。

執着がないようにするのは来世がないようにするのに含まれているような気がするが、それは来世がないようにするためには執着がないようにしなければならないと決めたからである。

JRF2020/10/194837

「罪はないほうが良い」は前提ではないのか。なくてよい。来世がないのが良く、来世がなくなるように自己を探求すれば、罪がない生き方しかない。

JRF2020/10/194979

「善根を積むのが良い」という命令的前提もあり、「無償で善行を積むのが良いとされる」という環境的前提があるのではないか。しかし「よいこと」=「生きれるようにすること」「来世がないこと」「執箸がないこと」「自己探求すること」で尽き、「よいことだからよいことをする」「あれをするにはこれがよい」とするのは自己探求の再帰可能性から導かれるから、「善根を積む」のは自己探求の資料とみなせ、特に前提として新たに設ける必要はないのではないか。

JRF2020/10/199422

「生きれるようにすること」は単に個人が生きればいいということではなく、人類が生き続けることを含む。生きることと自己探求の肯定には、社会の発展・人口増大の肯定も含まれる。「生きること」「自己探求」に有用なものについては、「衆生的法」「衆生的自」として残っていくことも求められる。

JRF2020/10/191812

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● 2020-09-24T12:16:52Z

>仏教をある種の最適化プログラムだと見た場合、「来世がないのが良い」「執着がないのが良い」「生きなければならない」「自己の探求は良い」…を命令的前提として最適化しているのではないか。<…と以前、書いた。

考え直す。「執箸がないこと」は命令的前提としてはいらない。「執着があると来世ができる」という環境的前提があればよい。…と思う。

JRF2020/10/198588

>「罪はないほうが良い」は前提ではないのか。なくてよい。来世がないのが良く、来世がなくなるように自己を探求すれば、罪がない生き方しかない。<…と以前、書いた。

「罪はないほうが良い」は、罪があれば来世があるから、ないほうがよいで十分で、自己の探求は関係がないのではないか。

…でも、「罪はない」という状態を自分のものにする必要があるのでは? 人に求め、自分にも求める必要があるのでは? 全体として減ればいいのではなく、自分も減らさねばならないというのは、少し違うのではないか。

JRF2020/10/197680

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● 2020-09-25T09:08:03Z

「苦」との関係。「来世がないのが良い」というのは、天上・地獄も含めたこの世が苦であるというところから出てくるとも言える。

来世につながるようなものは苦…善も苦なのか? 人の執着をなくすような善は苦ではない。…と思う。

JRF2020/10/194804

「自己の探求」とはすなわち「八正道」のことだとすれば、この苦の洞察とあわせて、「四諦」があらわれるといったところか。あとは「生きなければならない」を説明する必要があるが、それはこれまで少し書いてきた。

JRF2020/10/197233

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「自己の探求は良い」も命令的前提としてはいらないのではないか?

来世をなくそうと探求すれば、自己の探求が必要なことがわかる。…と。

これは公理ではなく、他の公理などから導かれる定理として示したいところだが、本当に誰しもが導くことができるだろうか?

JRF2020/10/193454

「生きなければならない」の周辺的な環境的前提として、人は死ぬというのがあり、総体として生きなければならないから、新たに人が生まれることになる。死ぬ者がいる中、来世をなくすのを続けるためには、来世をなくすのに必要な自己の探求に資する資料を生き残る者に残したほうがよい。

JRF2020/10/195834

しかし、その「自己の探求」は、「来世をなくす」のに資する場合に限られ(またはプラスして「生きなければならない」に資する場合に限られ)、残す資料もそのようなものに限られるのだろうか?

いや、「自己の探求」は自由で、自由にしていながらも、やがて、「自己を探求」するものは「来世をなくす」涅槃に致ろうとするものだ。…というのが仏教の洞察なのではないか。自由にして別の結論が導かれるなら、仏教そのものが偽となるのではないか。

JRF2020/10/199146

だから、どのような自己の探求も許し、それが「来世がないのが良い」と導けることが「来世をなくす」のに資するのであるから、自己の探求のために残す資料が、「来世をなくす」のに直接資する場合に限られるわけではないとなる。

つまるところ、「自己の探求は良い」「生きなければならない」のみを命令的前提としても、自己の探求をしていれば、すなわち「来世がないのが良い」が導かれるはず…というのが仏教の前提としてあるということではないか。

JRF2020/10/193837

ところが、本当のところは、それはそれほど自明ではない。そこは「信」に頼るしかない。だから、「来世がないのが良い」を落とすのではなく、「自己の探求は良い」を命令的前提から落とした形(「来世がないのが良い」「生きなければならない」)が、最小形になるということだろうか? そして、「来世をなくそうとすれば、自己の探求が必要なことがわかる。」というのが定理的な環境的前提となる。…と。

JRF2020/10/192263

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いや、でも、それだけだと自由な自己の探求が行われないのではないか? いや、生きるためには自己の探求が自由に行われたほうがよいというのがあるのではないか?

しかし、逆に自己の探求をすることで、生きるエネルギーが余分に必要となり、マイナスということも考えられる。

「自由」に自己を探求しても「来世をなくすのが良い」が導かれるのを示すために、仏教は、「自由に自己を探求する」のを暗に求めているのではないか?

JRF2020/10/197943

やはり、「来世がないのが良い」「生きなければならない」「自己の探求は良い」の三つが命令的前提であるとすべきではないか?

JRF2020/10/194980

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● 2020-09-25T14:33:51Z

自己の探求のためには生きなければならないから、「生きなければならない」を命令的前提から落として良いのではないか?

自己の探求に資さない(来世をなくすためにもならない)生は生きるに値しないということはありえまい。そこからすれば、「生きなければならない」を命令的前提から落とすことはできない。

JRF2020/10/193546

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今やってること自体が、「自己の探求」に含まれる。四諦にたどりついたときそのとき人は生きて自己の探求をしている。それは是認されるということではないか。

JRF2020/10/197398

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四諦に少し戻ると、「来世がないのが良い」は「この世は苦である」から導かれる。そこには「苦がないほうが良い」が隠れている。「来世がないのが良い」の替わりに「苦がないほうが良い」を命令的前提として入れることを考えてみる。

JRF2020/10/199321

性欲について、それを満たさないことによる苦と、それを満たすことで執着ができ来世ができてしまう苦は、並びたつことができないとして、どちらを取るべきか…というのが、命令的前提からはうまく出てこない。生きなければならないという面では、それを満たしたほうがいいということになり、これは仏教的結果ではない。自己の探求からはどちらが良いとも言えない。

JRF2020/10/195956

性欲がそもそもあるのは、生きていることが原因で、来世がなくなればその原因がなくなるのだから、性欲もなくなるようなものだというのは詭弁であろう。今の性欲がなくなるわけではないからである。「生きなければならない」という制約の中、性欲を満たすことが優先されることもあろう。

JRF2020/10/198883

結局、「来世がある苦のほうが大きい」という「定理」または環境的前提があり、「苦がないほうが良い」は「苦量が少ないほうが良い」と書き換えることが必要なのだろう。さらに言えば、今の苦と将来の苦の比較も必要になる。そこに割引現在価値の議論を持ち込むかどうかは別として、それはさらに「現在から(過去も?)将来にわたる苦量の和を最小にする」と書き換えることが必要なのだろう。

JRF2020/10/199718

ただ、自己の探求の過程で、苦量の割り当てが変わりうることには注意しなければならない。仏教はこれにより「来世がある」という苦をなくす方向に人は導かれると洞察するのだろうが、それは自明ではない。

そう考えると、「苦がないほうが良い」よりも「来世がないほうが良い」を命令的前提とし、「苦がないほうが良い」は、「生きなければならない」と新たな環境的前提「苦がないほうが生きやすい」をあわせてそこから定理的に導くほうがよいのかもしれない。

JRF2020/10/191664

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● 2020-09-26T22:15:54Z

「平等」をどう導くか。

「来世がないのが良い」から「執着がないのが良い」が導ける。カーストなどの身分制度が転生概念とともにあると、上の身分になろう、下の身分にならないようにしようとこだわる執着を生む。身分がなければそれもない…として「平等が良い」を導けばよいのではないか。

JRF2020/10/191126

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● 2020-09-30T18:39:21Z

>「苦がないほうが良い」は、「生きなければならない」と新たな環境的前提「苦がないほうが生きやすい」をあわせてそこから定理的に導くほうがよいのかもしれない。<…と書いた。

「来世がないほうが良い」から「執着がないほうが良い」を導き、「苦が強ければ苦のない(来)生を望む(執着を生む)」から、「苦がないほうが良い」を導くという道筋がありうる。

JRF2020/10/190517

ただ、ここで少し立ち止まる。今生で苦がなくなるなら、来世までは望まない。また、来世にも苦が続くなら、来世を望まなくなる。後者を「来世がないほうが良い」と接続すると、逆に「苦があったほうが良い」が導かれるのではないか? これはおかしい。

JRF2020/10/190337

「来世には同じ苦が続かない」という暗黙の理解があるのだろうか? しかし、それは今生を諦めても来世を望むことにつながりかねない。来世がなければ苦もないから、来世がないのが良いとはかろうじて言える。しかし、来世が必定となっているなら、来世を望む者が出るのを避けられないのではないか。

JRF2020/10/192409

「来世・来々世(の苦)もなくす」が「来世がないほうが良い」に含まれていると考えるべきということだろうか。そして「(すぐに雲散霧消しない)苦を感じているうちは、来世が必定」ということになるのだろうか。

来世には同じ苦が続く可能性があるが続かない可能性もある。続かないとなっても「生きなければならない」から生きるべき…となるのか。

JRF2020/10/191537

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「自ら破滅すれば来世が必定」として、「生きなければならない」を命令的前提から落とせないか?

落とせない。「来世がないのが良い」に「子孫がないのが良い」も含まれると考える私の枠組みでは落とせない。

JRF2020/10/191942

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● 2020-10-01T18:19:46Z

最適化論理の定理を導いていくことも、「自己の探求」に含まれるような気が私にはしている。しかし、普通、グローバルな定理はいくらあっても良いものだ。

逆に、最適化定理の集合を大きくしないことが、意味のあることなのだろうか? 生きやすくなる? 相続しやすくなる?

JRF2020/10/198957

しかし、そうすると、「個人」がもってる定理(公理)集合には、必ずしも「来世がなければ良い」「生きなければならない」「自己の探求が良い」が最初に含まれるとは限らなくなるだろう。どの定理集合からはじめるのが最適化みたいな視点も必要になってくる。

さらに分業的に、ある人が持っている初期定理集合と別の人が持っているものが違うほうが良いみたいな視点も出てくると思われる。

人が持っている定理集合が違うから、self を使った定理などが重要になってくるのではないか。

JRF2020/10/191136

自己の探求が良いとされるのは、self を使った定理の受容が難しいからということもあるのではないか。

kernel と self か…。認識は self の認識でしかないが、self は自分の境界をそのままでは意識できない。認識の正しさは認識の外にある。認識が自分にとってどういうものかを決める kernel (ある種の定理的公理集合)があり、kernel の情報を圧縮・伝達するために self という情報を使う。…って、何か言えてるだろうか? 何も言えてない気がする。

JRF2020/10/196425

でも、そうすると、グローバル変数的な学習…グローバルな中の「自分の名前」に紐付けられた学習…と、self に関する学習は違いがあるだろう。

self 自体が学習結果であるという洞察とどう関連付ければいいのだろう? kernel 内に何があるかも参照・学習できれば良いということだろうか?

kernel を「遺伝子」として、機械脳が構成される…。機械脳の学習結果を元に学習するのが(その方法を示すのが) self に関する学習なのだろうか? しかし、これは上までの self とは質が違うな…。

JRF2020/10/192952

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● 2020-10-02T18:35:02Z

kernel を「遺伝子」として、機械脳を構成するんだったら、kernel の「学習」は、復数の kernel を幾分ランダムに生んで競わせる進化的アルゴリズムによって行うというのがセオリーな気がする。

JRF2020/10/194123

そうでないとして、 kernel を複数個体内に持って競争…というのも進化的アルゴリズムの一種だろう。同じ入力に対応する・複数の出力をまとめるという違いはあるかもしれないが。

JRF2020/10/197861

そうではないもの…というと、kernel へのバックプロパゲーションが定義できる…ということになるのだろうか。しかし、そのようなものは、kernel が(公理的)定理集合みたいな以前の構想に対してはかなり難しくなるように思う。

JRF2020/10/196430

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● 2020-10-02T18:37:47Z

実際にプログラムを作る方向をほんの少し考えてみる。

定理集合があって、そこからランダムに選んで組み合わせたものから作られる定理が作られ、それが命令的前提に合致する度合でウェイトが付けられる…みたいなことになるのだろうか。

まぁ、それは置いておいて、それが(個人が)あい対する世界はどのように記述されるのだろう?

JRF2020/10/193604

「何かに欲望する」というイヴェントが発生する。「何か」が何なのかはあまり重要でないが、生きるために必要かどうかなどは大事か。

他の人とのインタラクションはどういう意味があるのだろう? どこまで記述する必要があるのか。他の人が持ち、それに対する欲望がどのくらいといったことで、定理集合による受容が何か変わりうるだろうか?

ある種のゲームを作る必要があり、その必勝法を最適化プログラムが探す…ということか?

JRF2020/10/192062

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● 2020-10-06T18:18:03Z

「来世がないほうが良い」という以上に、実は「来世なんてない」という洞察が仏教の根底にはあるのではないか。

しかし「来世なんてない」というと、普通の人は悪の道に走る可能性が心配される。そのような心配をしなくてよくなる条件は何かというのが、仏教の裏のテーマなのではないか。

JRF2020/10/197384

「来世がなくても良い」…個人が来世がなくても大丈夫となるあり方の道程に、「来世なんてない」があっても社会を成り立たせるのに導く方策が隠れているのではないか。それはより具体的には「生きなければならない」と「自己の探求が良い」を命令的前提とするのがその方策ではないか。

悪の道に走る…というと、輪廻がないため悪いことをしても罰を受けず、善いことをしても褒美がないため、善の意味が見失われる。…という心配がある。

JRF2020/10/192734

もう一つ、見落されがちだと思うが、来世に子供をつくることを含めればわかりやすいが、子供を持ってもそれは自分とは関係ない。子供に意味がない。…から翻って、自分が生きることに意味がない。…となる、生きる意味が見失われるという心配もありうる。

まず、自己を探求するためには、生きていることが必要である。そして自己の探求を続けていれば、いずれ自己肯定の必要が出てきて生きる意味が見つかる。「自己の探求が良い」から生きる意味が見つかった。

JRF2020/10/197687

次に、これまで書いてきたように、生きるとは個人が生きるだけでなく、子供を生み種として残っていくことが含まれる。業が霊的に直接来世につながらないとしても、業は他者の恨みとなって子供世代の生を脅やかすかもしれない。種として「生きなければならない」を実行するには、業がないこと、善の必要性があり、そこから善の意味が導かれた。

JRF2020/10/198218

「来世なんてない」という心理状態を、「生きなければならない」と「自己の探求が良い」の二者が自転車の両輪となって支える。どちらか一方がかけると、うまく進まなくなることがある。…ということではないか。

「来世がないほうが良い」には、社会的に来世が信じられなくても良い社会になるべきという理想も含まれていおり、来世を信じなくても荒れない今の社会は、仏教の理想とするところに近いのではないか。

JRF2020/10/197871

最適化プログラムの議論に引き戻すと、「来世がないほうが良い」は単に来世が信じられている状況で、個人に来世がなくなる…だけでなく、社会で来世がないと信じられている場合でも、問題なくプログラムが動かないといけないということではないか。

JRF2020/10/191588

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● 2020-10-07T19:47:52Z

「来世なんてない」と一般に信じられていたとしても、自分が改善しようのない差別的待遇にあるとき、来世または前世を信じるしかなくなる。そのとき来世に望みをかけるよりも前世に業があったとして「来世がないのが良い」と考えることに意味が出てくる。

前世に業があるとしたほうが、革命などで業を生むよりよく、転生があるとしたほうがマシだとするところに転生という概念が復活する余地がある。

JRF2020/10/195610

ただ、反革命的で、現状追認的なのが、本当に社会にとっていいことなのかはわからない。転生があるとしたほうが生きやすいのか、それとも革命などをしたほうが集団として生きやすくなると考えるべきなのか、難しいところ。

JRF2020/10/194967

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(来世なんてないと考えないならば)業があれば来世ができる。執着だけで業になる。…というのが環境的前提としてある。

「来世がなければ良い」は「業がなければ良い」と替えられるか? 善いことをするのも来世をうむことがある。善を業とも言えなくもないが、まぎらわしく「来世がなければ良い」を残すほうがわかりやすいのではないか。

JRF2020/10/194782

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● 2020-10-10T20:45:03Z

皆に通用する → プログラムに self を使う。
自分だけ → プログラムにむしろ self は使わない。

JRF2020/10/198190

……。

生命力・自己探求度のパラメータがあり、生命力のパラメータが高いとそれを子供を作るのに割り振れたり、自己探求度が高いとより高度な論理が使える…とか考えられる。でも来世についてはどう考えるのか? 業の深さ・執着の少なさあたりになるのか? 瞑想というコマンドを実行すると、自己探求度と執着の少なさが高くなる(生命力が低くなる?)…とか? マインクラフトみたいに生命力と空腹度は別にする? 誰も子供を生まないと集団生命力が上がり、子供を生みすぎると下がるみたいな集団パラメータは別にあるべきかもしれない。

JRF2020/10/195777

……。

モデルにおいては、人には「仕事」(何かは明示しない)があり、その継続によって社会に対する保険をかけている。「カースト」によって保険のかけ具合が異なり、低い地位の者は頻繁で害が少ないことを、高い地位にある者はめったにないが害が大きいことに保険をかけている…と考えてみる。

それぞれの地位で十分に考えなければ、社会全体が生き残っていくことはできない。

JRF2020/10/194119

社会全体で何が必要かを考えるのは、高い地位にある者の「自己探求」が必要だろうか? いや、「生きなければならない」のうちに考えることも含まれうるのではないか?

JRF2020/10/191870

「生きなければならない」に「苦がないほうが生きやすい」があったが、苦があってもなお生きるに有利なことというのもありえるかもしれない。侵略戦争…とか。そのとき「来世(への業)がないこと」「自己探求」を通じて、それが抑止される…ということだろうか。人口を増やし過ぎず、「遊ぶ」ことを重視するようになるために「自己探求」をする必要があるのだろうか?

JRF2020/10/194730

むしろ、「自己の探求」より「美の追求」としてはどうだろう? 自己の探求である必要はないのではないか?

いや、そもそも、「自己探求するのが良い」ではなく「思考を深めるのが良い」で十分ではないか。「生きなければならない」(社会的にも)があれば、いろいろただ思考を深めるより自己に対する思考を深めたほうが有利だから。

JRF2020/10/190823

いや、美も大事だから、「思考と感覚を深めるのが良い」ではないか? いや、これだと感覚を重視し過ぎだろう。「思考と記憶を深めるのが良い」ではどうだろう? 生きるためには自分の感覚を知ったほうがよいが、それを記憶するためには、美的な物があったほうがよい。…と。いや、これは執着だろう。記憶がそこまで重要というのも違うのではないか。

JRF2020/10/196947

「思考と思念を深めるのがよい」でどうだろう?…「思念」って何だ? 単なる思考ではなく、commit … 「起」が入っている…といった感じか。感覚の commit を知り、なぜそう感覚するかをやがて遡り、前段階の commit に致る…のがよい…と。(「思考と思念を深めるのがよい」は、ある意味、「真と美の探求がよい」ということでもあろう。)

ただ、そうすると、「自分」という概念が命令的前提から消えてしまう。これから先、命令的前提は、自分と社会(世界)(…の階層)は別々に適用すると注記することを必要とすべきだろう。

JRF2020/10/192253

……。

……。

● 2020-10-11T21:03:28Z

仕事をしないことで起こる害には、自己の集団に対する害と他人の集団に対する害とがある。他人に対する害の中に犯罪が含まれる。

害を発生させると業が発生する。他人の集団に対する害のほうがより業を発生させる。

業はどこに貯まるか? 他人の集団に対して害する確率が高まるという貯まり方をする。

JRF2020/10/194107

執着を減らすことで、業が薄まる…すなわちその者の他人の集団に対して害する確率を低めることができる。

ただし、執着を減らす効果はそういうプラスの効果だけとは限らない。仕事に対するこだわりを無くし、思考が浅くなることを通じて、逆に害が起こる確率を上げることも考えられる。

JRF2020/10/193313

他者を害することで自分に対する恨みが増えるといったふうにしないでよいか? 恨みシステムはあったほうがよい。…が、計算が複雑になり過ぎるのではないか? 恨みシステムを導入するなら、恨み対象を記録しておいて、他人の集団に対する害が確定したとき、害を受ける者を選ぶ確率において、恨み度が高い者に害が割り振られやすい…などとすればよいか。

JRF2020/10/196729

易理で言えば、他人の集団を害する確率を高めるのが「吝[うらみ]」、自分の集団を害する確率を高めるのが「悔[くい]」か。

他者を害したとき、他者の自分に対する恨みを増やすだけでなく、自分に対する悔いを増やすことがあるとすべきなのだろうか?

恨みの解消法などというものはないのではないか…と思ったが、悔いを長くしていると恨みが薄まるというのはあるのかもしれない。

JRF2020/10/195934

単純に悔いるよりも、執着を減らすなど思考して他者を害する確率を低めるほうが恨みの解消には良いとすべきか。

害だけでなく善行に注目する必要もありそうだ。他者を害する確率を低めるというよりも、他者の最適化のスコアを良くすれば、第三者の恨みが解消しやすくなる。…と。他者の最適化スコアを良くするために、悔いを増さねばならないとき、それを選択していれば、さらに高評価といったところか。

JRF2020/10/191295

恨みをなくすのはどう最適化に組み込まれるのか? 長い目で見れば生きやすくなり、思念としての深まりがある。…とも言えるが、直接的には来世がなくなる方向だという評価にすればよいのではないか。悔いもある種の執着だが、それで恨みがなくなるなら、そのほうが効果が大きい。…と。

JRF2020/10/194628

……。

……。

● 2020-10-12T20:01:40Z

前世の業という考え方(知識)があれば、業(他者を害する確率)や、他者への恨みを生じにくいだろう。

その前に「相殺原理」のようなものがあるのだろうか、つまり、他者を以前害していれば、その他者からの害については、業や恨みを生じにくくなる…とかあるだろうか? これは、むしろ、悔いなどで説明すべきではないか。

JRF2020/10/195245

誰かの他者への害が悔いている自分の害に一致するとき、業や恨みが発生しにくいとかはありそう。たまたまそこが一致することがあるというのはプログラムする必要があるかもしれない。

ただ、悔いは、前世の業とは別概念だろう。悔いでは自分の害が生じやすくなるが、前世の業では、自分の害が生じることを受け容れずに、自分からの業と恨みを減じることができるだろう。

前世の業を実際、バーチャルな過去の者の恨みなどとしてプログラムする必要はあるだろうか? そこまでする必要はないように思うが…。

JRF2020/10/190217

……。

……。

● 2020-10-13T19:17:45Z

「平等」は、カーストなどの身分制度が転生概念とともにあると、上の身分になろう、下の身分にならないようにしようとこだわる執着を生み、その執着がいけないから望まれるようなことを以前書いた。

JRF2020/10/197115

上位者による自分の集団への害が、下位者たる自分の責任なく及んだとき(下位者の自分の集団への害と重ならないとき?)、来世に上位者になることをより望むことになる。それは具体的には、上位者の来世が悪くなるを喜ぶこと、つまり、上位者への協力が少なくなり、つまり、上位者の自分や他者の集団を害する確率が上がる。…とすれば良いのだろうか。

JRF2020/10/197529

しかし、下位者は、そんなに自分にも不利益になることをするだろうか、むしろ来世に上位者になるチャンスがありうると思っているなら上位者に協力する社会のほうがいいと判断することもありうるのではないか。

むしろ、上位者になるために単に善行に執着するから、それが良くないということではないか。他者の最適化スコアを上げるために、恨まれてないのに悔いる。その自分への害が無視できないほど大きいということにすればよいのではないか。

JRF2020/10/196661

(他者からの)[恨み] - (自分の)[悔い] = 0 になるのが涅槃の条件か。それがプラスでもマイナスでもいけない…と。いや、しかし、その式では執着について何も言わないのが気にかかる。執着が業となってさらに害を受む確率を上げる…となれば、それはその式に現れうるものとなるかもしれない。恨みや悔いをもう少し広いものと考えれば。…しかし、そもそも「執着」ってなんだ? どう表現すればいいんだ。

JRF2020/10/190791

しかも、とても恨まれている者が大きな悔いをする…というのは、悔いのための施設を運営したりすることだろうか。それは、僧侶が涅槃に致るイメージと一致しない。僧は権力を持たないとすれば害を及ぼす集団の大きさを小さくするような何かが必要ということか?

JRF2020/10/197467

……。

世界全体の最適化スコアというものも存在しえようが、世界全体を最適化するということはあるまい。スコアを集計すればこうだというものがあるだけだろう。

ただ、全世界スコアの各要素に関する重みというのはありうる。全世界スコアをよくする方向への行動を、天意に吉[かな]う…と呼び、悪くする方向への行動を、天意に凶[もと]る…と呼んでよさそうだ。

JRF2020/10/197024

気象が変わるなどして、全世界スコアの各要素に関する重みが変化することがある。このとき、その変化に合わせて動くのも結局はスコアをよくする行動なので、天意に吉うといって良さそうだ。変化に叛いて動くのは天意に凶る。

易理の「亨[とお]る」は、局所短時間ではスコアを良くしているということだろうか。

JRF2020/10/192196

……。

「執着」は思念の固着ではないか? 眼で見るとき色がそう見えるのは思念の一種だが、それはしかたがないことだ。なぜ、そう見えるかを探求すべきだが、その思念があることは否定できない。美しいものをそう感じるのも思念でしかたのないことだ。なぜ美しいと感じるか探求し(場合によっては「結果」を残し)、より根元的な思念を識るべきだとしても。そういったものと違う、思念の固着が、執着ではないか。

全世界スコアが変化したり、そこまで大がかりでなくても、周りの状況が変化するときに、思念を最適な方向に変えられないのが、執着ではないか。

JRF2020/10/190177

それは思念の探求の不充分としてパラメータ化すれば良いのではないか? そして、思念の探求のパラメータが不充分なとき、業(害の確率)が大きくなりすぎたり、悔いが大きくなりすぎたりしているのに気付かず、解消されない。…としてはどうか。

思念の探求をするには、「瞑想」コマンドを使う。執着は「暝想」により消えると言える。…そんなんでいいのだろうか?

JRF2020/10/196333

……。

「悔い」は施設を作れば大きくできるという方向。「施設」は立派な教えのようなものでもよいということになれば、僧侶にもチャンスはあるか。しかし、その場合、「悔い」だから「自分の集団を害する」と言っても、まず、「自分の集団」が自分に続く未来の者の集団ということになるだろうし、「害する」は、限定された不利益を確実に受け容れることでしかないだろう。そんなんでいいのだろうか?

JRF2020/10/198353

……。

……。

● 2020-10-14T20:44:28Z

僧は施設のかわりに教えを「悔い」として作るという話。僧の悔いは本当は大きくないが、大きいと信じる者にとっては、恨みを小さくさせることができる。…とすればよいのではないか?

JRF2020/10/194753

このような「信」は執着ではないのだろうか? 思念の固着に違いなく、ある種の執着と言えるだろう。が、恨みを小さくさせるので、業が発生する執着とは逆のものと評価できるのかもしれない。ある種の「方便」。それを見つけ出すのも思念の探求にあたるのだろうか? 詐欺との違いは何なのか?

JRF2020/10/193485

僧集団が永続企業みたいなもので、人生の何万倍・何億倍も続くと想定されるからか…? でも、僧集団は人々の中にしかなく、新たに罪を帯びたものが僧に加わることもあろう。悔いの量が問題となるなら、それが無限に発散して利子が払えなくなる感じにならないためには、一人の僧の一生で、悔いの量が十分とならないとおかしいのではいか。罪のない偉い人が悔いをするから、それでチャラになる? すると、以前の、善行のために悔いを多くしすぎるのは涅槃から遠ざかるという理論とは矛盾をきたすことになる。

JRF2020/10/197501

僧は、別の僧が恨みのある者にはたらいて(さとして)恨みを減じることができる、そういう時間・システムがある。悔いの量より減らす恨みの量の問題。…ということだろうか。集団の思念の探求によって恨みは減じうる…と。[恨み] - [悔い] は個人の属性だけの問題ではない…と。

JRF2020/10/192838

……。

「最適化する」というものの、それは難しいことが予想される。まず、「生きなければならない」というのは子供を生んでちゃんと育つかを考えなければならない…ということは、数期にわたっての最適化を見る必要があるが、数期に渡る最適化というのは難しいものだ。また、善行を他者の最適化スコアを良くすることと書いたが、最適化スコアをみる善行したかどうかが最適化スコアに影響するという循環的構図があるのも話を難しくする。

JRF2020/10/197944

コマンドの戦略を決め、それで数期まわし、長期的な全世界スコアを見るなり、平均個体スコアを見るなりして、それをフィードバックするのではなく単に比較するだけという形にすればいいだろうか。

JRF2020/10/194310

……。

五戒の一つ、飲酒の禁について。

酒を好むというのは、執着であり思念の固着の一種だが、ロジカルな思念の固着ではなく感覚的なものである。

JRF2020/10/199600

酒を飲むコマンドを実行すれば、自分(の集団)への害の確率・他人の集団への害の確率を一時的に上げる…少なくとも一時的な業があると言えるだろう。ただ、昔は痛み止めとして意味があっただろうし、現代もストレスから逃れるのに役立つ面もあり、人によっては一時的には生きやすくなると言えよう。(まぁ、そういうときは「酒」と呼ばず、「薬」と呼ぶべきなのかもしれないが。) 一時的に個人の恨みを減らす効果があるかもしれないが、思考・思念の探求は(それを集団に行きわたらせることも)阻害されるだろう。

…とりあえず、これぐらいか。

JRF2020/10/195856

……。

五戒の一つ、邪淫の禁に関連して性愛について。

これも酒を好むのと同じである種の執着で思念の固着だろう。邪淫というほどふければ、仕事に支障が出て、自分(の集団)への害の確率・他人の集団への害の確率を一時的に上げることになろう。ただ、それより他者の配偶者を奪うなどして、恨みを買うことが問題である。これが、他人の集団への害と単純化できるかは難しいところ。

JRF2020/10/199645

性愛がないと、子供が生まれず「生きなければならない」が満たされなくなる。上にも書いたが、子供を生んで育てるのは長期の事象なので、最適化が難しいだろう。

…今はとりあえず、これぐらい。

JRF2020/10/197118

……。

……。

● 2020-10-15T17:30:05Z

僧は施設のかわりに教えを「悔い」として作るという話のつづき。

真実は…、僧は集団として集団の恨みを減じる。そのため、個人の [恨み] - [悔い] を実行するときに、集団の結果から [恨み] のほうが減じたと計算できることが認められるため、[悔い]が小さくても問題がなくなる。…という話だが…。

JRF2020/10/194623

一方で、「自分の集団」が自分に続く未来の者の集団でそこがずっと確実に害(損)を引き受けるから、そう自分の集団に教えるのが大きな「悔い」になる。…という理屈にも一片の真理があると思う。

なぜなら、恨みの消え方は個人でいろいろタイプがあり、集団の恨みを減じた「真実」を語られても納得せずまたは理解せず、特定の僧の功績で害を引き受けた「一片の真理」を語られて納得して、個人の恨みを減らすという過程がありうるからである。

つまり、「一片の真理」はある種の「方便」ということになる。

JRF2020/10/193601

しかし、その方便はモデルにおいてどう作用するか。それは、集団の思念を探求することで、集団の恨みを減らし、それがたまたまある特定の個人の恨みを減らしていた。…という形にせざるを得ないのではないか。つまり、方便がどういう内容をしているか。ということはモデルにおいては意味がなくなるのではないか。

JRF2020/10/192814

そもそも、どうして最適化のモデルをプログラムするかというと、論理学において論理の健全性を示すために論理のモデルを作るというのと同じで、仏教の真理と私の考えるすべてのものがモデルの中の社会のような簡単な枠組でも確かに成り立つことを示すことで、その仏教の真理の群は一貫性があり無矛盾となりうる基盤を持っていることを示すためである。

JRF2020/10/190638

で、「方便」の内容は、モデルにおいては意味をなさないとなりそうだが、思念の探求が集団の恨みを減じるというモデル内の動きが、実際にありうる論理(方便)でなされる証拠をモデルの外で(メタに)示す説明として意味はある。…となるのかもしれない。

当初は、kernel に論理式の集合を考えていたが、この段階になると、kernel は論理式の集合とは想像し辛くなっていることを認めねばならないようだ。

JRF2020/10/190834

もし、あくまで kernel を論理式の集合にするのにこだわって、モデル内に方便の内容を押し戻すことを考えるなら、どういうふうにすることが考えられるか? 方便の内容は、まず僧の思考の探求によって、論理式として得られるということになるだろう。そして、僧が論理式を信者に教えて信者が思念とした段階で、恨みが減じる…となろう。

JRF2020/10/190113

僧は思考を探求する際、信者が理解しえないという(ある種の)真実を知り、それを別の方法で説得するため、個人の悔いを大きく見せる方法として、バーチャルな真実としての僧団の永続を仮定するだろう。僧は、詐欺に陥らないため、バーチャルな真理体系でも真理とならないような命題は「一片の真理」としても教えない…という思念を持つだろう。

…私が今(抽象的に)考えらるのはそこまでである。

JRF2020/10/192534

……。

……。

● 2020-10-16T17:55:17Z

僧が論理式を信者に教えて信者が思念とする話のつづき。

他の者も論理式を教えることができるが、僧のものをより信頼する。…「信頼度」みたいなパラメータがあるのだろう。ただ、信頼度そのままではなく、思考をすることによってか、受け容れた論理式を検討することでその式の信頼度を下げることもあるかもしれない。式の信頼度が下がると、それを教えた者に対する信頼度も下がりうるのだろう。

JRF2020/10/195711

僧がバーチャルな真理体系を保持するのは、信頼度を維持するため。バーチャルな真理体系はそれはそれで健全性を示す別のモデルを必要とするのかもしれない。ただ、バーチャルな真理体系は唯一ではないだろうことには注意が必要だろう。

JRF2020/10/191606

……。

ある種の思考または思念で恨みのパラメータが下がるとはどういうことか。

恨みもある種の思念ではあるが、思念とは別にパラメータを持つ。ただ、恨みのパラメータをすべて説明できるような思念ができるわけではないだろう。そのようは思念は発見する必要があるとも言える。思念(信念)の中に恨みに影響のあるものが現れることができる。そういったものを寄せ集めたものの他になお、恨みの「誤差項」のようなものが残るだろう。

JRF2020/10/193825

一般に、思念の中には、行動やパラメータを規定したり制限したりするものがありうる。思念とすべきものも最初は思考としてただの命題として現れる。それをどういう行動やパラメータに関わるかというものを指定して、思念に格上げするには、ある種のコマンドが必要という感じにすればいいのではないか? いや、なんでもコマンドを実行すれば格上げできるのはおかしい。

JRF2020/10/193057

恨みをいじるには、こういう論理でなければならない…というのがあって、そこに思考がたどりつけば思念にすることができる。…といった感じではあるまいか。「ある人の悔いが大きければ恨みを下げる」というものが肉体的に定義されていて、「ある特定の A という僧が教えをすることで悔いが大きい」という命題を与えられ、その信頼度が高いと内部論理でチェックで出たとき、内部論理によって、「A の恨みを下げる」が導かれる。…という感じになるのではないか。

JRF2020/10/193888

……。

こういう論理式を使うところの無矛盾性は、最適化とは別の論理システムがあって、両者をあとから協調させる。…といったことができないか?

最適化のシステムでパラメータの数値が出る。その後すべてが終ったあとにでも、論理のシステムで、その数値と矛盾がないような論理式の構築がありうることを示せる。…という感じで。

JRF2020/10/192393

……。

僧の悔いてする「修行」は、僧自身は「悔い」だとは思っていないだろう。しかし、一般的には「悔い」…それを見る人にとっては「悔い」と同じ効果があるということだろう。

JRF2020/10/193900

……。

……。

● 2020-10-17T20:32:43Z

信頼度付きで論理式をいじるのは、口で言うのは簡単だが、めちゃめちゃ難しそう。私は論理システムは使う側で、作るほうはまともにはやったことがない。しかも、自然言語のように主語・動詞があるような論理は何度か考えたができる見込みさえたたないし、それを無矛盾なシステムにしようとするのは無謀なことのように思う。

先に最適化のほうを詰めて行くべきか。

JRF2020/10/196409

……。

信頼度付き論理をいちおう少し追ってみる。

kernel に信頼度付きの論理式の集合があって、ある信頼度以上の論理式を集め、そこから、一般的な論理システムを使って定理を導き、それをその信頼度の論理式として集合に含める。そして、kernel からいくつかの論理式を忘却する。信頼度の低い段階では矛盾があってもよい。

JRF2020/10/193304

矛盾を導き出すと、信頼度の低いものを教えた者の信用度が下がり、今後、信用度の低い者に教えられた論理式の信頼度は低くなる。逆に、信頼度の低い論理式が、信頼度の高い論理式の集合から導かれたとき、論理式の信頼度は高く更新され、信頼度の低い論理式を教えた者の信用度が少し上がる。…といった感じか。

JRF2020/10/191202

論理式は少し違ったものが無数に存在しうるものだ。「A の恨みを下げる」が一つ導かれれば、その周辺に下げるための論理式が無数にできうる。また、逆に「A の恨みを上げる」という式も存在していて、両者を総合して微妙な上げ下げができることが望ましい。そんなことは可能なのか?

JRF2020/10/197687

同じ信頼度で悔いが大きいと小さいが出てくれば、それは矛盾するということになる。しかし、ある人にとっては大きく見え、別の人にとっては小さく見え、その両者を総合するという形なら矛盾はないかもしれない。主張の人数を数えるか? でも、ある人の主張は別の人の主張のコピーということがありうる。根拠となる事実が同じか違うか…というのがありそう。根拠となる事実が共有されているのに、悔いの評価が違うときは、信用度の高い者の判断をとる…ということはあるだろう。

JRF2020/10/192462

そもそも「事実」とは何か? ある場所や時点の特定…だけではなく、ある事実が続いていたかどうかが問題となって、継続自体が「事実」とされる場合もある。そうすると、場所の広がりも事実の構成には意味があるかもしれない。抽象的な真実、具象的なものと抽象的なものがまじった事実などは扱うべきなのか。…

JRF2020/10/192429

…とまぁ、このように、信頼度付き論理は、かなり複雑なことが予想される。

そういう論理システムをまず作るというか、どこかで発明されていることが必要。発明されていたとして、それを私が知って理解して使えなければならない…というところにもまた壁がある。

最適化がかなり簡単化したものでよいように、もしかすると、もっと簡単な特殊な論理だけで最適化に対応させることができるかもしれない。ただ、それは最適化のほうを作ってからでないとわからないような気がする。

JRF2020/10/190132

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