cocolog:92537310
知恵が試される状況では、死がかかる。そこでは知恵を示すよりは、愚かで素朴な回答をしたほうが、命を長らえやすい。なぜか? 愚かだから殺した支配者は、自分も愚かなのに、自分を殺さないことに整合性がなくなるから。そう考えて愚かな回答をすることは知恵のあることだから。 (JRF 2805)
JRF 2021年2月 6日 (土)
なぜそうなるか?
知恵があろうと愚かであろうとそれを殺す支配者は愚かである。支配者はしばしばそれより上の支配者などがいるもので、自分が示した基準によって自業自得的に裁かれる。…とまず認めよう。
すると、知恵があるから殺した支配者は、愚かであるが、自分が知恵があると思っていようと愚かだから、自分が殺されないことに整合性がある。
それに対し、愚かだから殺した支配者は、自分も愚かなのに、自分を殺さないことに整合性がなくなる。
そして、さらに、このように考えて、愚かな回答をしたものは知恵があるとできる。知恵があったのだから、「愚かだから殺した」というのは間違いになる。
JRF2021/2/64631
結果、愚かな者は殺さないのが合理的な支配者である。支配者が合理的でないなら、そもそもどうしたって無駄である。そいういった簡単に人を殺す支配者の下では、愚かな回答を選ぶほうがよい。
このことからも、自由がなければ、知恵が活かされず、社会が発展することがないのがわかる。
JRF2021/2/60725
(「反知性主義」とは違うと思う。今回の話は↓のコメント欄での議論に触発されて考えたもの。「グローバル共有メモ」が初出。)
《二封筒問題のシミュレーション その3 整数拡張編 [ JRF のソフトウェア Tips ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2020/11/post-cc834b.html
JRF2021/2/69639
知恵が試される状況では、死がかかる。
知恵を示すのが求められるのに、知恵の発揮の仕方によっては、(知恵に自信があって試そうとする者が相手であるから、) 嫉妬のようなものを買いやすく、やがて死につながることになりかねない。
そういう場所では知恵を示すよりは、愚かで素朴な回答をしたほうが、命を生き延べさせやすい。昔、ユダヤ教の知恵者などが殺されたりしたが、愚かな「信仰」を守り殉教することが、その後の信仰を強くしたりする。ただ、今回は、それとは別の話である。
知恵があるから殺されることはあっても、愚かだから殺されるということはあまりない。
JRF2021/2/65362