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cocolog:93009141

田上太秀『仏陀のいいたかったこと』を再読した。私の仏教知識はこの著者によるところが大きい。著者の「ファン」になるキッカケとなった本が、この本である。それを今回、再読した。初読時の2001年当時のメモがあるので、それも記す。 (JRF 0835)

JRF 2021年9月16日 (木)

keyword: 田上 太秀

このエントリの一つ前に田上太秀『仏教の真実』を読んだ([cocolog:92999303])が、そこにも書いたように、私は田上太秀氏の本をこれまで何冊も読んでおり、ある意味ファンである。私の仏教知識は氏によるところが大きい。ファンになるキッカケとなった本が、↓である。それを今回、再読した。

JRF2021/9/164617

『仏陀のいいたかったこと』(田上 太秀 著, 講談社学術文庫 1422, 2000年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061594222
https://7net.omni7.jp/detail/1101645775

JRF2021/9/164485

最初に読んだのは 2001年ぐらいである。そのころのメモが残っていて、そのメモの紹介がこの「ひとこと」のメインコンテンツである。ちなみに、そのメモを元に↓でいくつかの記事を書いている。メンドウなのでそれらの記事には個々に言及しない。

《JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/

JRF2021/9/164238

なお、2001年ごろのメモの紹介の前に再読して感じたことを先にいくつかメモしておく。

JRF2021/9/162961

……。

>バラモン教の祭儀に関する種々の綱要書を見ると、人間の一争の重大な時期、つまり出生、命名、入盟式(学問をするための入門式)、結婚式、葬式などのいわゆる通過儀礼には決まった呪術的・宗教的祭祀がなされている。しかし、いままで紹介したようなこれらバラモンの祭儀、あるいは通過儀礼などの宗教儀礼などは、釈尊によってことごとく軽視され、無意味なものとして一蹴された。<(p.61)

JRF2021/9/164945

釈尊は Subscription を求めたという感じなのかな、現代風に言えば。

私の simbd(↓) では死に関してからしか金を取らないようにしてある。しかし、死をことほがないよう、死から得た金は贅沢に使うのではなく、僧の数を増やすことのみに使われるという感じにした。

JRF2021/9/168469

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

JRF2021/9/160970

人は「捨て扶持」で生きる乞食者に鬼神からのリスクを減殺してくれるよう求めるものなので、中でも死の際に、お金を渡すというのは「信者」のほうからやりたいことだったのではないか。

命名・結婚・七五三などは、何かをして病から逃れたいという気持ち・逃れたという感謝から出るもので、それも「信者」側が必要としていることのように思う。

それを Subscription 一本にしたというのは、僧側から見たらわかりやすいかもしれないが、「信者」側からすれば需要に合ってない面もあったのではないか?

JRF2021/9/169580

>さまざまな御札に、みんなワッと飛びついている。これらの御札は一枚の紙切れにすぎない。<(p.67)

keyword: 捨て扶持

私の「捨て扶持」理論に関連して、リスクを減らすことにお金を払うと、減らす仕事をしている者は、一時的にリスクを減らすのに協力したとしても、再びお金をもらうために今度はリスクを(見せるのを)増やそうとするオソレがあるとできる。

JRF2021/9/162579

現代の保険は、保険金を払う契約にして、それを払うのを少なくしたいからリスクを減らすという建付けにしてこれをギリギリ回避している。(逆に保険金を騙し取るような不正・保険金を出すべきなのに出さない不正が出てくるが。)

そういうのがない過去においては、このオソレをどう排除するかが問題で、その解決の一つが、再生産を必要としない者にリスクを減らすのをお願いする…というものだったのだと思う。

JRF2021/9/160529

その具体例が、お札を売ったりすることだったのではないか。これはこれで昔はある程度合理性があったものと私には思われる。

ちょっと前に「神を信じると何が良いのか。良いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。」と因果応報を信じる利点・仕組みを書いたが、それに似たようなことがここにもあると思う。

因果応報などへの信仰の必要性はあり、信仰のためのバーチャルな真実を含むある種合理的な理論が必要で、その体系が様々な宗教になる…とも言える。

JRF2021/9/167453

……。

>人は愛執によって何かの行為を起こし、その善悪の積み重ねを繰り返し、習慣力としての業[ごう]をつくる。その業が世界をつくり、人を形づくるというのである。輪廻は、すべて業に促されて、いろいろの因縁の助けを得て現象するというのが、釈尊の輪廻説であった。<(p.163)

誰かの業が別の誰かの結果を導く。それが輪廻である。…というのには、因果応報を信じることのご利益がない。自分の業が自分の結果を導くというのでないと…。

ただ、この点、次のページにはすでに考慮がなされていた。

JRF2021/9/161929

>では、霊魂の存在を否定した仏教は、その輪廻の生存を続ける主体をどのように考えたのだろうか。かの仏教僧(…ナーガセーナ…)は、(…ミリンダ…)王に対して、「たとえばある人が、一つの灯火から他の灯火へと火を点ずるときに、灯火が一方から他方へ転移するのだろうか」と質問した。王は「そうではない」と答えた。そこで僧は、「王よ、それと同じように一つの身体から他の身体に主体が転移するのではなく、しかも生まれるのです」と教えている。<(.165)

JRF2021/9/167853

田上太秀『仏教の真実』のところ([cocolog:92999303])でも書いたが、釈尊が否定しているのはアートマン(の俗流理解)なのであって、霊魂的なものは否定していないのではないか。また、後世の、涅槃に致ったものが法になる・法に一致していくというのは、ブラフマン=アートマン(梵我一如)の考え方を受けたもので、そういう意味でのアートマン自体も否定していないのではないか。

JRF2021/9/161275

田上太秀『ブッダの最期のことば』を読んだとき([cocolog:92137624])に書いたことを少し繰り返すが、↓に書いたように神の記憶モデルと霊的肉体モデルという魂に関する少なくとも二つの有効な議論がある。

JRF2021/9/168379

《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。説 1. 神の記憶モデル(…)説 2. 霊的肉体モデル(…)。<

JRF2021/9/160497

そして、>死んで閻魔大王に会うというとき、人は「霊的肉体」を得ていると言えるだろう。一方で、閻魔帳が自分以上に自分を知っているというのは「神の記憶」に近い。<>ちなみに、霊的肉体や神の記憶は、アートマンのように常住不滅で同一である必要はまったくない。そうである可能性をまったく排除するものでもないが…。<

神の記憶モデル的なものとと霊的肉体モデル的なもの、どちらも可能性があり、どちらかでしかないように考えられるが、どちらもありうる「神秘」があるのかもしれない。

JRF2021/9/160962

「俗流アートマン理解」なる藁人形があるとして(私のもそれだとして)、それを否定して燃やすのは、まぁ、おもしろいのかもしれないが、霊魂の否定はもうすべきではないと私は思う。著者の(青春)時代に必要なレトリックだったのかもしれないが…。

まぁただ確かに、今の時代も、霊魂を否定しないまでもその存在を気にせず、戒のかわりに、法律を守って資格試験に備えて勉強して、仕事を失わないようにそこそこコンプライアンスにも気を付けているほうが、「解脱」には近いんじゃないかという気もしないではないが。

JRF2021/9/163006

……。

>反対に無明がなければ行がなく、行なければ識がなく……。そして生がなければ老死などの苦がなくなることになる。これは「これが滅びると、かれが滅びる」という詩文に当たる。つまり四苦から解放され、安心立命を得るには根本的には無明をなくすことが大切だというわけである。<(p.171)

田上太秀『仏教の真実』を読んだところ([cocolog:92999303])の私の考察で「無明」が出てきた。

JRF2021/9/163371

>まるで雑霊が集まって人の霊となるかのように読めるかもしれないが、そういうことではない。「我々」というのも後からできあがった「己」が振り替えったとき、そのある意味「無明」の状態をそういうしかない…という程度のことである。まぁ、信仰的には、「我々」は多次元的な神的存在達の交差のようなものとできるかもしれない。<

JRF2021/9/161411

「無明をなくす」と言えば、つまり「我々」をなくす、そうやって産まれてくる「生」をなくすということになりはしないか。それは間違っている。修行者たる自分の次の「生」がなくなるというのはいいのかもしれないが、一般に産まれてくる赤ん坊の生を否定してしまってはいけない。そのためには、それは「無明」ではなく「多次元的な神的存在達の交差」…「我々」だったとするような「信」を振り返って持つべきではないか。今の時代だとその「信」は具体的には、進化論的歴史の結果、脳の中にあるものを「我々」とすればいいのではないか。

JRF2021/9/168248

修行者は、修行者の生・なした真実の発見が奇跡的偶然ではなく、進化論的歴史の中の必然であることを識る・識らせることで、「無明をなくす」とできるのではないか。

JRF2021/9/167234

……。

……。

今回再読して考えたことはここまで。

ここからが2001年ごろに考えたメモになる。

なお、当時はメモをそのまま公開することを考えておらず、舌足らずな点がいつもの「ひとこと」以上にあるが、当時の雰囲気を伝えるという「歴史的価値」を考えてそのままにする。逆に若かった分、今よりも鋭い点もあるかもしれず、そこを楽しんでいただけたらと思う。

JRF2021/9/165316

引用も今のように本を忠実に写すようなことを必ずしもやらず、要約で済ましページの数値を付したものが多い。ほとんど忠実なものは><で囲い、そうでないものは「」で囲うようにした(それぐらいの編集はした)が、そのルールに従わないものもあるかもしれない。

ご寛恕いただきたい。

JRF2021/9/165863

なお、読み直して一つ気になったこととして、仏教は方便で答えるという点がある。方便とは嘘のことで、それでは詐欺ではないか…ということ。これは、真実とされるものも本当の意味で真実ではなく、言葉の限界のようなものがあり、すべてがある意味方便であり、その人にとってより適切な方便があるのみで、真実は体得するしかないものなのだ。…という説明をすればよいのではないか。それで納得していただけるかはわからないが…。

JRF2021/9/169145

……。

……。

『仏陀のいいたかったこと』(田上太秀、講談社学術文庫, 2000年)を読んで (2001-01-23--2001-01-27)

JRF2021/9/164861

この本は、伝統的仏教理解に立たず、上座部仏教などが受け継いだ、釈尊に近い時代の仏教聖典から、釈尊の元々の教えは何であったかを推理した原典主義の仏教解説本である。このような研究は、近年ヨーロッパの研究者を中心に可能となった原典の現代語訳にその成果を負うている。基本的に、著者は、日本や中国に信者の多い大乗仏教よりも上座部仏教の姿勢に近い態度をとっている。

JRF2021/9/162170

この本の思想としては、男女平等と中道と聖俗分離を説く姿勢が印象的だが、私は仏教の本質を「中道」と表現することや、聖俗分離に違和感を感じた。また、大乗の基本概念である仏性を否定する部分は論理的に間違いがあるように思えた。ある意味、この著者が上座部仏教に基づく現代的解釈をなすならば、私はそれに仏教という同じフィールドで、真っ向から対抗する大乗仏教に基づく現代的解釈をしていると言えるかもしれない。

あるものが「善か悪か」と聞かれたときに「どちらでもない」と答えるのが仏教ではない。「どちらでもないが、敢えていえば今は善だ」と方便を答えるのが仏教だと私は考える。

JRF2021/9/169963

仏教の特徴は、方便をつくるための議論をするところにある。つまり、このような方便でいいのではないかとする姿勢の上に、その方便をつくり得る合理的な知識を要求するのである。そのようにして、合理性を暗にほのめかすことで、合理的主張に神秘性(や感覚的権威)をもたせるのである。

仏教は無神論であるといわれることがあるが、仏教は神や霊魂の存在を否定しない。ただ、神や霊魂の存在を必要条件として、儀式や道徳を導くことがないだけである。仏教の教義は、神がいようがいまいが、人々が究極的に求めるものとして設けられている。

JRF2021/9/167458

そもそも、釈尊の教えがどうであったということではなく、真実はどうであるかを説くべきである。釈尊にこだわる人は、釈尊が自分を唯一のブッダではないといったことにもっと注意するべきだ。だから、釈尊ではなく「ブッダ」がいいたかったことという題なのかもしれないが。

JRF2021/9/163039

……。

>** 1 インドにも「諸子百家」がいた<

「バラモン教は、神への祭祀を重視し、宇宙原理のブラフマン(梵)と個人に内在する原理のアートマン(我、霊魂)は本来一体であるという梵我一如の哲学を心にひそめ、永遠の真理、不滅の原理を体験しようとした。」(p.17) 「神託の聖典崇拝、祭祀の絶対励行、生まれによる階級制度の尊重が特徴であった。」(p.19)

JRF2021/9/165156

「バラモンに対抗して、瞑想主義であったり、人間中心の道徳を説いた「自由思想家」をシュラマナ(沙門)と呼んだ。このような自由思想家は、ギリシャではソフィスト、中国では諸子百家などが、前5世紀または前6世紀から前3世紀ごろに共通して活躍している。」(p.20)

JRF2021/9/169370

「現在仏教に伝えられているシュラマナは6人おり、それらを六師外道と呼んでいる。「外道(ティールタカラ)」は本来、「渡し場や港を作る人」の意で、侮蔑的意味はなかった。」(p.21)

「業(カルマン)の原義は、祭祀そのものを指した。バラモン達は司祭の業のみが、生天という楽果をもたらす善因であるとした。シュラマナ達は、日々の生活行為こそが業とし、業に神の介在を不要とした。」(p.22)

JRF2021/9/164664

>ヴェーダ聖典に叙述される神話的宇宙創造説はもう人々の知的要望に応えうるものではなかったのである。つねに人の側に立って、感覚を通して理解できる現実的なものでなければ、当時のインドの知識人の心を惹きつけることはできなかった。<(p.24) 「釈尊は、そのようなヴェーダ聖典至上主義を否定したシュラマナ達の一人であった。」(p.24)

JRF2021/9/160592

……。

六師外道の説。

「アジタの唯物四元素説:「あの世もなければ霊の転生もない。布施も祭祀も必要ない。人は地・水・火・風の4つの元素から構成されている。」あの世でこの世の報いがないのは結果的に快楽主義的である。」(p.26)

「パクダの七要素説:「物質的な地・水・火・風と精神的な苦・楽・霊魂の七要素で世界は構成されている。これらは神の創造によるのではなく、常住(永遠)で(超時間的に)不動不変である。」安心立命の説」(p.27)

JRF2021/9/165581

「ゴーサーラの輪廻浄化説(ジャイナ教に吸収された):「生き物は、支配する力も、意志の力ももってはおらず、ただ、運命と状況と本性によって支配されるのみである。人は輪廻によって、前世の宿命を反復して、宿命によって徐々に最終の解脱に近づくだけで、それを修行によって早めることはできない。人は神によって創造されたわけではないから、苦行や呪術にも効果はない。」」(p.27)

ゴーサーラの説は「果報は寝て待て」の思想といえよう。運命を神の恩恵、状況を状況に対する自由意思の動き、本性をイデアと捉えれば、三位一体的である。

JRF2021/9/162288

「サンジャヤの懐疑論:「道徳的、宗教的なあらゆる教理は、論証し叙述する価値をもたない。自分の足下をよく見るべきで、証明できない判断を中止すれば迷いはない。」」(p.29)

「プーラナの無因果説:「人が判断した善悪は、人間の仮にきめたものでしかない。よって善い因が善い果を生んだという因果説は思いこみでしかない。」」(p.30)

JRF2021/9/168655


「勝利者」ニガンダのジャイナ教

「物事はある点から捉えた判断ができるのみであり、より正確な判断をするためには多方面の視点が必要である。ある視点から因果を判断することはできるし、その一面においては論証し叙述する価値はある。

宇宙は霊魂と非霊魂の二種から判断できる。霊魂は様々なアートマンが一つの生き物の中にある多我説をとる。非霊魂は運動の条件・静止の条件・虚空・物質の4種あるとする。

人の霊魂は上昇性を持つが、物質が身・口・意(こころ)の三種の業によって繋縛(けばく)されている。業の繋縛から解脱するためには苦行をし、その結果の死は称賛される。」
」(p.31)

JRF2021/9/162020

私は考える…「運動の条件・静止の条件・虚空・物質」は「火・水・風・地」に相当か? 「身・口・意」は、「運命と状況と本性」に相当か?

肉体を原罪とし、そこからの解脱を勝利とする。まるで原始キリスト教である。

JRF2021/9/166310

……。

>** 2 釈尊の立場と伝道<

「釈尊は、精神の純粋性を信じて苦行をする当時の修行を捨てた。肉体も精神も健康でなければならないと考え、タブーとされた牛乳を飲むことで物心二元論への離別をあらわにした。」(p.37)

「釈尊は 12 月 8 日明星をみて開悟した。いつの時代にもだれからも支持される「法」を確信し、体得した。」(p.39)

「釈尊は、理解者がいないことを案じて、悟りを自分のものとしたままで入滅しようとしたが、「ブラフマンの声」によって初心を思いだし、人々の悟りを試みることにした。」(p.40)

JRF2021/9/164811

釈尊の「復活」。しかし、これは逆にいえば、悟りは自分一人のものでも悟りであるとする思想である。

JRF2021/9/165135

……。

「かつての修行仲間が釈尊のはじめての弟子となった。これで自他ともに認めるブッダとなった。」(p.43)

「二人の行商人に悟ったばかりの「人の道」、秘奥の「法」を説いた。当時のバラモンには考えられない姿勢である。」(p.45)

伝道のはじめとして、事情通の行商人に法をとくのは、わりに普通のことだったのではないか。もし行商人が教えを受け入れれば、その教えは遠くにまで届き評判を聞いたパトロンがつくかもしれないからである。

JRF2021/9/166747

……。

「様々な人に説くために、説法には用意周到な方便が用いられている。対機[たいき]説法、応病与薬の説法である。」(p.45)

バラモンがマイクロソフト、シュラマナがフリーソフトといったところか。

JRF2021/9/168800

……。

>釈尊は縁起の法則をもとに説明する。ものはすべて原因とそれに付随、付加する条件との相互作用によって結果するというのである。どんな原因も一定の結果を生むとは限らない。結果はその原因に与えられている条件によっていかようにも変化するのである。ものは原因と条件(縁)との関係で生成し、消滅する法則を釈尊は「法」と見た。<(p.52)

釈尊は世の法を「因果」ではなく「縁起」と見る。つまり、実際に世にある法は「縁起」であるが、有限である人が知識とできるのは、その一部を切り出した「因果」のみであるということだ。抽象数学的「因果」と確率論的「縁起」という見方もできるかもしれない。

JRF2021/9/163868

来世の道理も、自分のとらえた縁起によって今だけの方便を構成できるのみであり、来世を証明できる人間がいない以上、それを「正しい来世の道理」とするしか方法はない。ということだろう。

私の言葉で言えば、経験的で代替性の蓄積が「縁」、想起や認識や普遍に基づく選択が「起」となろう。

JRF2021/9/165966

……。

「釈尊は娼婦との交友もあり、娼婦の家に招かれ、供養も受けた。」(p.55)

キリストと姦通者の例を思い出す。(ヨハネの福音書 08:01)

JRF2021/9/162999

……。

「釈尊は賤民が供養した豚肉(またはキノコ)料理を食べて死ぬ。」(p.56) 「仏教は、釈尊を超越的な力をもった神ではなく、あくまで人として扱っている。」(p.57)

これとイスラム教のタブーは関係があるのか?

JRF2021/9/165117

……。

>** 3 過去の因習を超える<

「釈尊は祭祀を軽視し、神々の存在を前提にした教説を人々に示すことはなかったが、神々の存在を頭から否定したわけではない。」(p.61)

釈尊は、神はいるとしてもいないとしてもどちらでも良いとし、修行者には神を前提にした議論を許さなかったが、在俗者には自ら神を使った方便を述べた。

JRF2021/9/166805

……。

「仏教修行者は、今日のように葬儀などの祭祀に職業的に関与することはなかった。」(p.63)

「釈尊「つねに五戒を守り、正しい考えをもち、慎みある行いをする人がいたとして、この人を死後、地獄に堕落させようと大勢の人が祭祀をしても無意味である。」バラモンなどの行う呪術や祈願が無意味であることを述べているが、この批判は現代の仏教界にそのままあてはまる。」(p.66)

JRF2021/9/165297

しかし、釈尊の時代に布施をもらうことができたのは、バラモン教が築いた迷信という資産があったからである。近代のように生まれたときからの仏教徒が大半を占めるようになれば、仏教徒自らが迷信による需要創出をしなければならないのではないだろうか。

JRF2021/9/168977

……。

「釈尊:「人の本性に差別があるのではない。蓮にいろいろあるように(縁によって)人に差ができるだけである。女も男と同じく悟りに至るだろう。」」

「著者:「釈尊が述べるように、行いによって善となり、行いによって悪となると思いたい。」」(p.68)

「著者:「釈尊は、人間の性を善とも悪とも説かなかった。したがって、人間の本性について、それがブッダになれる可能性があるとか、反対に、悪魔の性質があるとか、そんな説法をしたことはない。」」(p.72)

JRF2021/9/165309

釈尊がのべていることと著者は違うのではないか。善悪は「行い」によるのではなく、その生まれた環境(や遺伝)などの「縁」によって善となったり悪となったりするということではないか。蓮に色々な色があるというのは、誰の子供であるかということを説き、「生まれ」の違いを認めているのではないか。もちろん、その色がいいとか悪いとかいうのは、周りの勝手な判断であり、色として目立つ以前に水面に出るか出ないかという違いは、環境によって起きることとも述べているといえよう。

JRF2021/9/162378

この「人の本性」が、大乗仏教の仏性にあたるのだろうが、著者にいわせれば、仏性といった時点で善悪の判断をしているところが問題なのだろう。しかし、「本性に差別がない」という原「因」に対し、「悟りに至る」という結「果」の説明をしている以上、「人の本性」の外延的定義は「悟りを開く可能性」としても問題はないと思う。(むろん、可能性である以上、他の「縁」でできなくなることもありうる。)そして、これは誰にでもあり、悟りを開くことを善いこととして広めようと釈尊は決心したわけだから、その可能性を善とし、仏になれる可能性「仏性」が誰にでもあると言っても良いと私は考える。

JRF2021/9/165695

ようは自分にとって「仏性」という良縁があっても悟りに対する悪縁は排除できないことを忘れなければ良い。

JRF2021/9/168865

……。

「人の行為によって差別があり、正しい行為をなす人は皆バラモンと呼ばれるというのが釈尊の平等に対する考えである。」(p.71)

違う。むしろ釈尊は予定説的であり、努力を求める結果の平等よりも、結果を受け入れる機会の平等があるのみだという事実を述べているにすぎない。「バラモンと呼ばれる」というのは事実に反することであり、そうある「べきだ」という社会目標としての平等概念はもっていなかったのではないか。(釈尊は制度の改革を目指さなかったことは著者も認めている。(p.74)) 目標としてあったのは、人々の悟りであり、事実としての仏性の平等の認識があったと私は考える。

JRF2021/9/162964

……。

「制度の改革は人心を惑わせる。これでは人の道を説くことに反する。」(p.74)

著者の解釈は制度におかれた体(俗)と人道を信じる心(僧)の物心二元論(p.37)ではないか。それとも「格」の違いは認めるということか。

JRF2021/9/166829

……。

「教団の中では無階級だが、出家の順番によって席順は違った。](p.75)

後世になって、カトリックに教会内の平等の名目化と叙階がうまれたように、当初は仏教でもそういう建前だったのだろう。

JRF2021/9/165440

……。

「賤民に逃げ場を提供しにもかかわらず、初期の教団の構成者はバラモンなどの上流階級が中心となり、賤民の名はむしろ珍しい例としてあげられているだけである。」(p.76)

まず、賤民には、それを管理する上流階級があり、賤民に頼る上流階級が改宗を認めなかったことも考えられる。

JRF2021/9/161076

しかし、最大の理由は、教えの難しさにあったのではないか。理性的な教えはそれを理解できる教育的素養を必要とする。結果的に能力に自信のある上流階級しか入信しないところが、賤民の不信感を募らせて教祖を極端な行動に走らせる一方、上流階級の顕示欲をくすぐり、その支持を増やしたのではないか。

この状態を教祖が意図したものかどうかを争って、最初の教団分裂が起こったのではないか。私は「意図したものではない」という立場が正しいとすべきだと考える。

JRF2021/9/162088

……。

>** 4 日常生活に根ざした教え<

>釈尊は、悟りを開いたあとの説法では、つねに極端を離れた中道の実践を、強調している。<(p.82)

JRF2021/9/169371

たしかに極端を離れることを説いているが、本当に「中道」という名の善を強調しているのだろうか。「中道」の原義はどうかしらない。しかし、今の「中道」という言葉には、「両端の争いを収めるために真ん中をとる」という意味が強いのではないか。この「真ん中」を善とし「極端」を悪とするのも、やはり一つの極端である。「極端でない」の逆は、あくまで「どちらでもない」または「不明」である。この意味から「中道」が離れたところに解釈される可能性が強いのならば、「中道」という言葉は使うべきではない。

JRF2021/9/160329

あるものが「善か悪か」と聞かれたときに「どちらでもなく真ん中に道がある」と答えるのが、著者の語る中道であろう。私は、仏教とは「どちらでもないが、敢えていえば今は善だ」と方便を答えるものだと考える。あることを「やりたい」という人に常に「ほどほどに」と答えるのではなく、現実を判断して「どちらかといえばやるべきだ」と答えることもある(「ほどほどに」と答えることもある)のが本来の姿と考える。

JRF2021/9/167214

むろん、方便としての「中道」には意味がある。人は縁を無視して極端に走りがちであるから、現状と理想の真ん中をとるところで我慢させ、それが現実として定着したところで、再び理想との真ん中をとる操作を繰り返すことで、適当なところに徐々に落ち着かせていくのは、そう悪い方法ではない。

方便を必要とする人は、方便にも統一性を求めるものである。そういう意味では「中道」を説くのは無難ではあるかもしれないが、僧までも方便に統一性を求めるのは一神教の態度であると私は考える。仏教では、特定の方便を「方便にすぎない」と気づけるように教えるべきではないか。

JRF2021/9/165684

……。

>善いとか悪いとかは、所詮、バランスがとれているかどうかによってつけられる言葉にすぎない。善いと思ってしたことが、しすぎると結果的に悪くなることが多い。<(p.83)

善いと思ってしたことが、しすぎなくても悪くなることがある。バランスがとれていれば良いというのも一面的で、たとえばレースなどでは安全とスピードの両方が善いならばそれにこしたことはない。両方が追えなくなってはじめて、最適なバランスを「追求」することになる。

JRF2021/9/166864

……。

「五戒とは、生き物を殺さない(殺生)、盗みをしない(偸盗[ちゅうとう])、邪まな性行為をしない(邪淫)、嘘をつかない(妄語)、酒を飲まない(飲酒[おんじゅ])、の五つである。」(p.85)

「一つ一つの戒が無意識のうちに守られている状態にならなければならない。」(p.86)

「八正道の最後に正定があるが、これは坐禅によって縁起を見る修行で時間的余裕のある出家者しかできない。」(p.88)

「釈尊のいうには、八正道は様々な修行者の通った古い道で、釈尊の発見や発明ではない。」(p.90)

JRF2021/9/160392

……。

「八正道の「正」は教理の上から解釈すれば「中」である。」(p.91)

これは間違い。確率分布は正規分布だけではない。

JRF2021/9/166425

……。

>** 5 男女平等を説く<

「この経を見ると、釈尊は女性を悪い者のようにとらえているようだが、実際はこんなことをアーナンダに言ったわけではないと思われる。」(p.96)

このように経典に書かれた教祖の言を否定するのは、一神教では見られない態度である。教祖の言の一部を否定すれば、都合のよい剽窃を認めることになると考えるからである。聖書では、このような場合、「状況に応じた説明だ」とするなどして、何らかの特別な解釈で切り抜ける。

JRF2021/9/169097

たとえば、ここでは、その当時「男が子供のころから女性の教育や外出を邪魔をしているがゆえに、そのような性質が社会の中に記憶されてしまった」という現実を釈尊がのべた、と説明するだろう。

JRF2021/9/160681

……。

「仏教ではもともと母、父の順に書いた。これが中国に渡ったときに父、母の順に書くようになった。」(p.97)

母の優越が、女性の全体としての優越を意味していたとは限らない。単なる母性の優越のみで、それ以外を良いものとみなしていなかったかもしれない。大地母神崇拝の名残りということも考えられる。

また、母父の順は、むしろ、強いものが譲るという意識の現れであり、母は弱いから父が譲って前に書くことにしたのかもしれない。

JRF2021/9/160099

……。

「法華経の女人五障罪は後の創作だが、変成男子[へんじょうなんし]の考えは原始仏教にもあった。」(p.100)

「尼僧の教団は仏教が初めてつくったものである。仏教誕生から百年後か二百年後にインドを訪れたギリシャ人が、女性の哲学者の存在を驚くべきものとして語っている。」(p.103)

JRF2021/9/167707

尼僧院が結局ハーレムと化すことが心配されたのだろう。当然、尼僧院を守る人間が必要となるが、それを去勢という形で自分を傷付けた男子がやるというのも宗教的ではあるまい。教団がそのような誤解を受けてしまうことも望ましくなかっただろう。このあたりを解決できるほど治安が良かったのだろうか。

JRF2021/9/164654

かつて、寡婦は何らかの形で男性の庇護を受けることができたのが、宗教の縛りがきつくなりすぎ、逆に、そのようなことに障害が生まれていたのかもしれない。長寿の女性が増えることで、独身で暮らす高齢女性が、何らかの社会的役割を求めていたのかもしれない。

このように尼僧院の潜在的供給者がいた一方、女性の駆け込み寺や保育所の役割を担うものとして、尼僧院にそれなりの潜在的需要もあったのだろう。

JRF2021/9/163989

……。

「釈尊の実母は彼の誕生まもなく死んだため、彼は実母の妹ゴータミーによって育てられた。ゴータミーが最初の尼僧になるが、ゴータミーは釈尊によって半ば強制的に出家させられたゴータミーの実子に対する子煩悩によって、出家をしたことも考えられる。」(p.106)

「養母ゴータミーの尼僧教団の誕生には、アーナンダのとりなしと懇願があった。」(p.108)

JRF2021/9/169942

むしろ、釈尊とアーナンダは尼僧教団の必要性を認めていたが、彼らは少数派であったため、釈尊死後に尼僧教団を否定する多数派によって、釈尊の尼僧教団反対説をでっちあげられたのではないか。

ゴータミーの出家は、アーナンダのアイデアかもしれないが、釈尊とアーナンダが、尼僧教団の権威づけのために敢えてゴータミーに懇願したものではないか。さらにはゴータミーが実母でないというのも、尼僧教団の権威を否定するためになされた後世の創作ではないか。

JRF2021/9/166594

……。

>** 6 国家・国王との関係<

「インド人は、宇宙の創造神ブラフマンが、宇宙の法則、秩序、普遍的法(ダルマ)となったと考えた。(p.114)」

インド・アーリア語族の一神教の元祖か。

JRF2021/9/161723

……。

「国王は宗教家に服従するという態度をとっていた。」(p.116) 「原始仏教では、王が教団を従属することも、教団が王に近づくこともなかった。原始仏教には、王宮に近づくことさえ許さない突入王宮戒があった。」(p.119)

問:なぜ、権力をもった王は、自ら教祖になろうとせず、宗教家に従ったのだろうか。

JRF2021/9/165669

答:「戦争が起きたときに勝てるもの(王)」と「戦争をおこさないようにするもの (宗教家)」は別々でなければ信用されない。武器をたくさん蓄えて、戦争を望んでいないと唱えても説得力はないからである。イスラムは両者が一致することがままあり、その際は、強力な力を発揮したが、その後、「戦争をおこさないようにするもの」が必要となったときに分裂することになった。

JRF2021/9/163333

「戦争をおこさないようにする」宗教も、ひとたび長い安定が訪れたあと、「他人のせいで」不況となったり、民族の威信を保つ必要があったりして、人々が戦争を求めるようになると、または、王の権威がないなかで戦争を求めるようにしたくなると、「戦争が起きたときに勝てる」宗教が必要となる。このときカエザロ・パピズムの問題が起きる。

ただし、「戦争が起きたときに勝てる」宗教は、王を「敵」とする「真の王」を中心とした宗教組織の存在も結果的に許すことになる。そうなると、国内の安定を妨げ、戦争に勝てなくなることも多い。

JRF2021/9/165022

問:なぜ、王は新たな宗教を求めていたか。

答:諸子百家の時代は、「農業と身分」(自前主義)の宗教から「商業と貨幣」(国際分業)の宗教に脱皮する始まりの時期であった。通商から税を得るために下のものにだけ強く国際情勢に疎い貴族とは別の管理者を王は必要としていた。また、市民は、王の商業基盤の獲得など自分達には差し迫った理由のない戦争に疲れ、問題を戦争ではなく合理的な交渉で解決できるようにする枠組みを求めていた。新しい宗教には、単に伝統を守るだけでなく、商業的付加価値を産み出す動機づけも求められていた。

JRF2021/9/166176

洪水伝説は、「採集と狩猟」に結び付いたシャーマニズムが、「農業と身分」に結び付いた多神教に変わるときに、自然破壊を食い止める動機付けをなくしたために起こった災害を記録したものだろう。

なお、宗教改革は、「商業と貨幣」の時代から「軽工業と紙幣(銀行)」の時代への変化が背景にある。現在は「重工業と債券(公開市場)」の時代から「環境制御と電子マネー」の時代への過渡期なのかもしれない。

JRF2021/9/169876

生産力の拡大と都市の発達によって、治安のための人口調節が必要となり、避妊技術の少ない当時には、宗教のみがその役割を担うことができた。多すぎる貴族を直接減らすために僧院が必要とされた面もあった。

JRF2021/9/161640

……。

「 国王の権威を人倫の法のもとに隷属させるべきだという考えには、仏教の国王誕生説が大きなかかわりをもっていると思われる。」(p.121)

「国王誕生説では、民主が世襲化してのちの国王となったとある。民主は元々、「民が主権をもつ」ではなく「民が選んだ主」という意味だった。」(p.123)

むしろ、先に法の優越の考えがあったから「民主」的な国王誕生説を創ったのだろう。

JRF2021/9/163062

……。

「世記経:「まず大火災が生じ、その火災が消えたあと、天と地が生まれようとしているときに、多くの生き物が誕生した。……男女の区別もなかった。……人々の中で大地から湧き出す地味を食べ過ぎたものは、苦痛をあじわったりした。人々は健康や美貌を気にするようになった。……そのうちに、自然のうるち米に恵まれ、働かずとも調味せずとも賞味できた。これを食べるうちに男女の差ができ、子供が生めるようになった。……」」(p.121)

大火災から世界が生じたというのは、拝火教の影響または太陽信仰の名残りか。

JRF2021/9/165830

煩悩の原罪は性には関係なく、働いたり調味をしたりすることに性差は関係がないこと、性差すら外的原因によることを唱えているのだろう。

JRF2021/9/164372

……。

「昼間は国王と官吏が荒らし、夜は盗賊が荒らすという表現が仏教にはある。」(p.124)

JRF2021/9/165051

……。

>** 7 俗世と出家<

「スッタニパータの釈尊:「わたくしにあっては、心が大地です。信が種です。戒が雨です。智慧が軛(くびき)と犁(すき)です。反省が犁の柄にあたります。禅定が犁を縛る縄です。正しい思念が犁の先と鞭にあたります。軛をかけた牛は努力のことです。これが涅槃ん境地に導いてくれるのです。このように耕作すると、その実りは不死です。」」(p.130)

JRF2021/9/166354

自分の心に信仰の種をまくと、戒の雨にうたれながら、信仰は成長する。智慧は、思考を柔らかくする犁と、行動を制御する軛である。反省することは、思考を正しい方向にとどめる犂の柄であり、正しく考えることで犂の先がするどくなり、牛への鞭がよく効くようになる。軛をかけた牛は、生きようと努力する力である。自分の心に育った実りが、他のための不死となる。

JRF2021/9/166023

……。

「インドの仏教教団では生産活動がすべて禁じられたわけであるから、その生活は乞食[こつじき]生活が中心であった。乞食は大切な修行と考えられた。」(p.133)

乞食は強制的に信者に接する機会をもたせる点で意味があり、出家者に教えの納得責任を課すと同時に客観的に在俗者への模範性のチェックをしたのだろう。

JRF2021/9/162029

……。

「元来、仏教に飲酒の戒はあっても肉食の戒はない。」(p.138)

「俗に染まらない生き方、考え方を根底に確立しておくために、乞食を強制した。布施と乞食という形で、一面において俗生活の上に出家生活が依存しているため、カースト廃止運動はしなかった。」(p.141)

違うのではないか。教えを広めるためには尊敬を得なければならない。尊敬を得るためには模範となる生活を信者に見せるのが効果的である。しかし、厳しい戒律を守ると称していながら、街に出る元気があっては合理的な信者に見破られる。そこで、可能な範囲の戒と乞食修行が励行されたのではないか。

JRF2021/9/168782

出家者の乞食こそ布教のための最大の方便であったと私は考える。

女性蔑視を後世の創作というのならば、聖俗分離の重視もまた創作といって良いはずである。出家者と在俗者の分離と、在俗では女もいるのに尼僧教団を認めないという姿勢は、同根の主張と思われる。これらこそ釈尊の死後の結集を支配した僧達の最大の方便ではないだろうか。

JRF2021/9/169550

……。

>** 8 霊魂を否定し、無我を唱える<

「古代インド人の世界観

転変説:「世界は最高神、あるいは一なる絶対者によって創造された」

積集[しゃくじゅう]説:「世界はいくつかの原理的要素が集まって構成されている。」
」(p.142)

JRF2021/9/160605

……。

「ブラフマンは世界や個々の生き物の中に遍在しているが、われわれの感覚には識別されず、理性によってのみ識知される。自分にブラフマンの分身として内在する我(アートマン)を自覚したときにブラフマンを知ることができるという。」(p.143)

JRF2021/9/166470

……。

「釈尊は世界は因縁によって生成していると考えた。神も不滅原理も立てず、ものは種々の因縁によって結果するというのである。」(p.145)

「ものはみな、いろいろなもの同士のかかわりの上で成り立ち、また他のものを因縁として現象している。第一原因や絶対原因はないとする。」(p.146)

JRF2021/9/162099

世界そのものは「縁起」ではなく「(因)縁」のみでできている。我々が「起」としてなすことも、実際には「縁」に過ぎない。しかし、我々が認識できる範囲では、因果を捉えうる場合も多く、縁を見て起をなそうとする努力はまったく無駄というわけではない。というのであろう。

著者は、第一原因はないというが、では p.121 の天地創造は方便か?

JRF2021/9/163945

……。

「空の原義は「中空」、ふくれあがって中身がないことをいう。」(p.146)

「夢は本来空であったというのと同じく、ものの本来性を指して空といっている。」(p.148)

「『仏教語大辞典』(東京書籍刊)に説明されている空の語義をみると、要約するに、空はなにもないことではなく、あるべきはずと考えられたものがないことで、いわゆる「無」、つまり存在しないというのではない。」(p.148)

JRF2021/9/164574

「ものは本来空であるから縁起している(因縁によって生起している)といえるし、また縁起しているから空であるともいえる。本来実在するものではなかった空が、縁起によって実在と感覚できるようになる。」(p.146)

これはおかしい。縁起によって実在ができるというのならば、その縁起こそが基礎となる実在であるという考え方が可能となる。つまり、「本来空」とは虚空を表し、そこに基礎実在(アトムなど)があって、そこから世界が構成されるという主張になってしまう。それとも、観測できない実在をもって空とするのだろうか?

JRF2021/9/166907

空とは、個々の縁起を完全に言葉にはできないことを表すと私は考える。「縁起 X は空」という事実自体からも一つの縁起がおこりうる。あらゆる縁起は、言葉にとらえることはできない以上、本来、空である。すなわち空は縁起の一種となりえ、縁起は常に空である。

若干簡単化すれば、縁起を「命題」とすると、空とはある命題が「不明」であることを表すと考える。むろん、「命題 X が「不明」」というのも一つの「命題」であり、どのように捉えても言葉である限り、あらゆる「命題」には「不明」な部分がつきまとう。すなわち空は縁起の一種であり、縁起は常に空である。

JRF2021/9/162226

それとも空は変項のことか。つまり、人が縁起を見るとき、変項が縁起の一部として現れると考えるが、究極的には縁起すべてを変項とするしかない。すなわち空は縁起の一部と解釈できるが、縁起は本来空そのものである。

いずれにせよ、本来空は、せいぜい我々は認識でのみ世界を感知できるということをセンセーショナルに述べただけであり、本来空という真理を受け入れたとしても、それによって物事を自由にできるわけでもなく、動機づけとしても無意味である。

JRF2021/9/164477

……。

「ものは本来空であるから、ものに執着しても、いずれ裏切られてしまう。したがって、ものに執着する観念を捨て去れと教える。」(p.148)

JRF2021/9/166505

著者の解釈で本来空を「執着を捨てよう」に繋げるのは無理がある。つまり、本来空だから執着したって無駄であるというならば、執着しなくても無駄であるということになる。私はこれは論理的におかしいと思うのだが、著者を含め、ほとんどの人がこの説明で納得していたことを見ると、動機づけとしては機能しているといえよう。この点は、「我思うゆえに我あり」が、他の存在の認識も「思う」理由も説明せず、「人は神の理性の像」というカトリックの伝統的解釈に矛盾しないのに、自律の動機づけに受け取られるのと同様である。

JRF2021/9/161261

私は、執着を捨てるとは、因縁は無限に続くことを知り、適度なところで判断を下すしかないことを覚えることと考える。

JRF2021/9/160765

……。

「釈尊(スッタニパータ):「つねによく気をつけ、自我に執着する見解を打ち破って、世界を空(sun~n~a)と観察せよ。」」(p.150)

自我への執着では永遠にのこるものはない。「自我」と認識する範囲を広げていけば、それは永遠に生きることになるということか。

または、そもそも我などないのだから、我が相続されることもない。もし、体を我とするならば、体の先にある彼もまた我である。思い通りになる自分の手にさえ制約はある。彼我の差は乗り越えられるものである。ということか。

JRF2021/9/163924

これは、自我の境界に我を発見し、その物質への延長を拒否したデカルト(Descartes or Cartesius)とは反対である。

JRF2021/9/168255

……。

「『テーラーガーター(長老の回想録』:「一切知者の行く境地は空であり、足跡がなく解脱している。」」(p.152)

一切知者になるためには、人の足跡をたどる経験主義だけではダメだということか。

JRF2021/9/161482

……。

「『泡沫』:「本体はなく、本体はみかけだけのものである。人を構成する五蘊(心(感受・表象・形成・識別)と体)も本来空である。」」(p.153)

「五蘊は永遠不滅の原理などではなく、霊魂や神の分身が宿るはずもない。これを霊魂否定の「無我説」という。」(p.153)

人は神のイメージであるという聖書との類似。

JRF2021/9/162816

<pre>
五蘊
- 感受 -- 感覚
- 表象 -- 名前づけ
- 形成 -- 行動の命令
- 識別 -- 似た者の分類
</pre>

JRF2021/9/165781

……。

「釈尊の五要素説は、アジタのものとは違い、人は物質だけで構成されているとは考えないし、パクタのものとは違い、本来空という考えに立っているから、霊魂不滅説は生まれてこない。」(p.153)

釈尊は死後の霊について「述べない」のだから、釈尊の話を聞いた人間から霊魂不滅説は「生まれうる」のである。

JRF2021/9/168158

……。

「人間の誕生についてさえわからない人間が、どうして世界の成立を論じる力をもち合わせているだろうか。」(p.155)

小がわからなければ大がわからないというのは、あらゆることがそもそも方便にすぎないとする立場に反する考えである。

コップの中の水面の動きがわからないからといって、投げられたコップを避けない人間はいない。

JRF2021/9/163976

……。

「輪廻のことをインド原語でサンサーラといい、「流れるもの」が原意である。人から生まれた行為(業)は、それがどんなものであっても果報を生む。この業は死後も消えることはない。生が業によって次の生につながる繰り返しを輪廻と呼び、今の生は「輪廻の河の一つの波」であるというのが、インドに昔からある思想である。バラモンのヨーガは、苦しみの現世に再生する種子を断絶する方法として教えられた。」(p.157)

JRF2021/9/169213

……。

「釈尊は出家者に対しては「八生道を実践すれば死後生天できる」と説いていない。」(p.160)

「釈尊は、身・行・意の三種の業を正しく繰り返せば、それが習慣力として身につき、その習慣力が因縁となって、次の生をもたらすことを輪廻と考えた。」(p.161)

「釈尊は生や死の主体を出家者が問うことを禁じた。」(p.162)

「釈尊は輪廻の原動力を愛執であると考えた。」(p.162)

JRF2021/9/169764

つまり、修行によって、現世に生きる(今の自我がとらえる別の)存在に次の生をもたらすことが、輪廻であるというのが著者の主張だろう。単純にいえば、次の世代のために今の世代があるということである。しかし、これでは「生を多く残すことが善」とする考え方につながり、この時代に宗教に求められた人口調節の役目は果たせない。

または、次の生は、空に対する因縁でしかなく即物的にとらえるなという否定神学か。

JRF2021/9/161786

なぜ「自我」を広げなければならないのかの動機づけとして、生天することを目的とさせず、永遠に生きることを目的とさせ、「思い」をなくすことによって、「思い通り」を実現させるのが仏教の特徴ということか。(つまり、生の肯定、享楽心の否定。)

JRF2021/9/165728

……。

「『ミリンダ王の問い』のギリシャ人:「同じ皿の上で燃える焔は、朝の焔と夜の焔とは別のものではなく、同じ焔に依存して燃える焔である。生ずるものと滅するものとは別のものだが、そこには持続するものがある。」」(p.164)

「『ミリンダ王の問い』の仏教僧:「輪廻の主体は、灯火が一方から他方へ転移するのではないように、一つの身体から他の身体に転移するのではなく、しかも生まれる。」」(p.165)

JRF2021/9/162206

仏教の輪廻とは物理法則の連鎖を意味し、我々も物理法則で動くということを言いたかったのか。

昔の人は物理法則を知らなかったから、真実の開示を行う輪廻の説明は、これで良かったのかもしれないが、義務教育を受けた合理的現代人にとっては、真実の開示としては効果がないし、そもそもこの輪廻の解釈は何の動機づけも与えない。

JRF2021/9/167007

出家者に対しても、「我」という方便をどう構成するかを考えたとき、「霊」は動機づけのためにやはり必要ではないか。出家者の永遠に生きたいという欲求を肯定する方便が必要ではないか。出家者が「霊」で簡単に説明を終わらしてしまうことを禁じただけで、方便を信じることも否定しないと考えるべきではないか。

この著者に訪ねなければならないのは「なぜ釈尊は死ではなく生という方便を選んだか」だろう。

JRF2021/9/168572

人は現状を説明し自らの地位や欲望、伝統に対する不安を消す(「やっぱり正しい」と確信するための)論理として世界観を求めた。釈尊は、従来の世界観に言葉としては似ているが、まったく新しい意味を込めたより合理的な世界観を「発見」した。釈尊は自分が救いに出る理由を、自らの履歴・因縁に置いて伝道を決意した。何故、そのような因縁があったかを説明できず、ブラフマンの導きという方便を使った。

JRF2021/9/169775

つまり、人は公理から様々な定理を導きだすべきであるが、何故、そのような公理を使うかは究極的には証明しようがないことである。その最小の公理が五戒である。この五戒は神がいようがいまいが、人は不可能と知りつつもそれらすべてが満たされることを望んでいる。五戒は人が欲するものであり、そこからあらゆる行動指針を導出すべきである。その導出規則が、空(空集合)と縁起(集合操作)である。空であれば五戒に反しないように縁起としての方便をつくる。出家者には、その行動指針の導出を求めた。

JRF2021/9/169923

……。

>** 9 ブッダになることを教える<

>親の赤白の二滴(卵子と精子)<(p.167)

赤と白にはそういう意味があったのか。卵子は昔は摘出できるわけではないから、生理にからめて赤だと思われていたわけだな。

JRF2021/9/169517

……。

「極楽浄土といえど、楽しみがあるならば、いつかは苦しみがあるはずである。釈尊の求めた究極の安らぎではない。それは輪廻の苦からの解放である。二度とこの世界に生を受けず、生・老・病・死のリズムに乗らないことである。」(p.168)

JRF2021/9/167320

……。

十二縁起。

「無明(無知)によって行(形成作用)がある。行によって識(分別作用)がある。識によって名色(名称と形相、すなわち五蘊=人身のこと)がある。名色によって六処(六つの感官、眼耳鼻舌身意)がある。六処によって触(外界との接触)がある。触によって受(感受作用)がある。受によって愛(欲望)がある。愛によって取(執着)がある。取によって有(存在)がある。有によって生(生まれること)がある。生によって老死・愁・悲・苦・悩が生ずる。これらのものによって苦の集まりができる。これが縁りて起こるという。(相応部経典巻二、『法説』) 」(p.171)

JRF2021/9/161518

無明である以上、結局は行(行動の生起)によって決するしかない。行は何者かに識(認識)されるが、識のためには名色というタグによって六処からくる情報をふりわけねばならない。六処は外界に触して受(受信)する。受によって識を得ない愛(あればほしいという条件反射)がうまれ、愛を肯定するうちに取(常にほしいという中毒的欲望)が生まれ、取が持続して満たされることを識することで有(自分のものとして有り続けているはずだという知覚)となり、有の名色が生となる。

JRF2021/9/163179

「無明によって「私」は行(意志)を起こす。その行が六処の分別作用を惹き起こすことになる。これがさらに肉体と心の具体的なはたらき(名色)を生み出すことになる。六処は外界のものと接触し(触)、ものを感受する(受)。六処はそれぞれ感覚して、心の中にそれら外界のものに対して欲(愛)をもつようになる。欲をもつから執着(取)が生まれる。心のはたらきが執着するところに一つの境界がつくられる。この執着が存在(有)をもたらす。その存在がいかなる形にか次の生をもたらすことになる。」(p.172)

JRF2021/9/163202

著者の理解と私の理解との間では名色・愛・生の解釈が大きく違う。著者は他者の生と考えるが、私は自分の生と考えている。

ところで意は第六感か?だとすると霊魂の存在を認めているのではないか?

JRF2021/9/161431

……。

「たとえば、物に執着した人は、物を中心としてしか、すべてを見たり考えたりできなくなる。このように何かに対する執着が、いかなる形にしろ、何かの存在を生み出す。」(p.173)

ここは説明がおかしい。何かの存在に執着するのであって、本来、逆ではない。

JRF2021/9/161867

……。


<pre>
[無明・行]過去世における現世への原因となるもの

[識・名色・六処・職・受]いま受けている結果=身体

[愛・取・有]いまの生きざま、来世への原因となるもの

[生・老死]来世に結果する再生
</pre>
」(p.173)

そして、この生が行につながる。

JRF2021/9/163626

……。

「業と惑と事(苦の生存)。業が惑を生み、惑が事を生み、事が業を生む。無明であるがゆえに惑し、行を通じて業を生み、身体こそが事となって、その生きざまは惑いの中にあり、生と死が業となり、無明に帰す。」(p.174)

ややこじつけの感が強い。

JRF2021/9/161562

……。

「相応部経典「たとえば二つの木をたがいに摩擦しあうと煙を出して火を生ずる。反対に二つの木が相離れれば、いま生じた煙と火は消えてしまうであろう。」」(p.177)

そして、火のつきはじめならすぐに消えるが、しばらくすれば、相離しても火は消えない。これが執着というわけだろう。

JRF2021/9/165735

……。

「縁起(縁滅も)を知ることが一切知といわれる。釈尊を一切知者と呼ぶことがあるが、彼はものの縁起を熟知しているからである。」(p.179)

「一切」すべて「知」ることができないからこそ縁起なのである。一切知者というのは、目にうつる事象すべてを被覆するように見える体系を提示できる者のことをいうのだろう。

JRF2021/9/168197

……。

「釈尊:「その法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る。」

この「私」は釈尊とも自分自身の意とも考えうる。」(p.180)

何故「知る」ではなく「見る」なのか。そこにはすべてを「知」り頭の中でシミュレートすることはできず、一面的にしか見えないという理解があるのではないか。だとすると、この「見る」は釈尊というよりも自分自身と解釈するべきである。

JRF2021/9/162038

……。

「仏教では修行の基本体系は戒・定・慧の三学から成ると教えている。戒は身体的修行、定は精神的修行、慧は外へ向けての修行である。戒と定が体得されると、そこに知慧が生まれる。知慧を得て慈悲の心が生まれ衆生済度の修行が始まる。」(p.181)

JRF2021/9/161474

……。

「八正道と三学

<pre>
慧 -+- 正見 正しい観察
+- 正思惟 正しい思念
+- 正語 正しい言葉

戒 -+- 正業 正しい行為
+- 正命 正しい生活態度
+- 正精進 正しい努力

定 -+- 正念 正しい記憶
+- 正定 正しい注意

修行は 戒 → 定 → 慧 と進む。
</pre>
」(p.182)

これは、出家者の修行に届まらないもので、順序は変わりうると考える。

JRF2021/9/163856

<pre>
正しい見方で物事をとらえれれるようになったら、
正しい思索で正見を活かす方法を考案する。それにもとづいて

正しい言葉で人に語りかけ、
正しい行いで接する人を救い、

正しい生活態度で人に見えにくいところでも人の模範となり、
正しい努力で将来あるかもしれない問題に事前に手をうっておく。以上によって、

正しい記憶として人々の中にあって縁となり、
正しい注意を、修行者がいわなくとも、人々が引き起こすようになる。
</pre>

JRF2021/9/166455

出家者にとっては八正道などの言葉を知るのが正見である。在俗者も無意識のうちに八正道を実践しているものである。

出家者は、教えを護り、教えを広める仕事のために、在俗者と共通項の少ない修行を必要とする職業というだけのことである。現在のように、「ホワイトカラー」が中心となった世の中では、むしろ、出家者と共通項の多い修行を求められる在俗者のほうが多数だろう。

JRF2021/9/165649

……。

「ブッダは普通名詞である。」(p.185)

JRF2021/9/168600

……。

>** 10 出家者の正しい生活態度<

「ゴーサーラの率いるシュラマナは、運命論者で、食うために説法してまわっていた。そのような生活を仏教徒の正命に対する邪命(じゃみょう)といった。」(p.186)

運命論者だから、説法が成功して得た報酬は自分の運命的に得たものとして、際限なく自分のものにできたということか。つまり、オランダのカルヴァン主義のようであったのか?

JRF2021/9/169464

……。

「釈尊までは、動物のいけにえによって生天できると説いたが、釈尊は、財産のいけにえ「布施」によって生天できると在俗者に説いた。貧しいものにも少量の布施を求めたが、布施の効果は資産 対 布施の比によるとした。」(p.189)

JRF2021/9/167137

……。

「アショーカ王の布施は井戸や施設など、一対多の今も将来も必要な布施だった。」(p.190)

私は、これが正精進の具体例だと考える。

JRF2021/9/162562

……。

「「無尽蔵」などの金融業まがいの事業が、釈尊の死後の教団では公然と相当広汎に行われたと考えられている。」(p.194)

僧院の金融業化は、この当時むしろ普通であり、ひょっとすると、それが盛んなフェニキアなどから仏教にも伝わったのかもしれない。金融には信用が必要であり、高利貸しの暴力的取立てよりは、宗教家による柔和な取立てのほうがマシだという判断もあっただろう。

JRF2021/9/166935

……。

>** 11 釈尊後の仏教<

「釈尊が亡くなったあと、教えが消え去ることを危惧して、すぐに、初めての結集[けつじゅう](唱和による丸暗記された教義の確認)が行われた。その後、根本となる戒律や教法が成立したが、同時に、保守・革新の分裂がおこった。」(p.196)

むしろ、釈尊の存命中は結集ができなかったのではないか。不死を唱える新興宗教の組織の中で並ぶものなき教祖が亡くなったことは、それなりの打撃があっただろうが、八十まで生きたということは、準備も十分すぎるほどなされていただろう。

JRF2021/9/169888

釈尊の死が、賤民の家で起こったというのは、決して元気ではない体でも、なお賤民の家に行くことで、なんらかの意志表示をしようとしていたことも考えられる。

著者は、保守の側に立っているようだが、これらの状況を考えると私は、むしろ革新の側が釈尊の意志を反映していたのではないかと考える。

JRF2021/9/164020

……。

「保守グループを上座部、改革グループを大衆部といった。大衆部は十カ条からなる改革案を提示したが、退けられた。その中には「酒とならないヤシ汁は飲んで良い」や「金銀の貯蔵を認める」という問題が多いものがあった。なお、王族は上座部を支持し、彼らの中からミャンマー、スリランカ、ギリシャに伝道者を送った。」(p.198)

JRF2021/9/168900

著者は、大衆部の改革案を、怠惰なものとして一蹴しているが、ヤシ汁は牛乳などがないところでは、その代わりとなっただろうし、布施の伝統のない場所で布教を行うためには、金銀の携帯も必要であっただろう。改革案に共通しているのは、「自力で」遠くに布教するのには必要なものという点である。逆に改革案を認めないことで、王と仏教の結び付きがなくてはならないものになってしまったのではないだろうか。

JRF2021/9/161796

……。

「釈尊の死後、学問的研究に没頭する学僧たちは、ブッダになれるのは釈尊ただ一人であるという教義を主張しはじめた。それに対して仏教復興を目指すマハーヤーナ運動(誰でもの仏教運動)が起こった。」(p.202)

死んだ教祖の偉大さを強調するばかりに、釈尊を神格化したため、その付随的名称であるブッダが多神教における神概念と混同され、現人神を否定する仏教の伝統にしたがって、そのような主張がなされるようになったのだろう。

JRF2021/9/162963

……。

>** 12 大乗仏教の誕生<

「釈尊の立場に反して、大乗仏教徒は、人間の心の本性を清浄と見た。」(p.205)

が、同時にアーラヤ識の存在を認めている。つまり、清浄であっても、煩悩から逃れられないと言っている。

JRF2021/9/163164

……。

「大乗仏教徒は、彼らとは違う仏教徒を釈尊の説法だけを頼りに修行する、主体性のない修行者として、侮蔑の意味を込めて、声聞(しょうもん)と呼んだ。」(p.206)

JRF2021/9/168119

……。

「仏教文献をわけると経・律・論に分かれる。これを三蔵と呼ぶ。

<pre>
経典 -- 釈尊が直接説示した教えをまとめた文献
律典 -- 教団の戒律をまとめ集めた文献
論典 -- 釈尊の教え、つまり経について研究した論文集
</pre>
」(p.210)

JRF2021/9/166316

「大乗の経典の中には、死後かなりたったあとに釈尊が来臨などして、その声を聞いた修行者が、一種預言者的に創作したものが多数ある。」(p.212)

大乗は釈尊だけをブッダとしない者でありながら、釈尊の権威を頼りにしなければならないところがいかにも苦しい。

JRF2021/9/169093

……。

「大乗仏教徒は、大衆のための仏教復興運動を起こしたといわれているが、その創作した経典は、当時の貴族語であったサンスクリット語で書かれている。その運動が、本当に下層の民衆の中に浸透したかうたがわしい。」(p.215)

「グプタ朝の下にあっては仏教典もサンスクリット語で書かねばならなかったということである。口語の教えを重視した釈尊の姿勢を貫くことができなかったのである。」(p.215)

JRF2021/9/160145

大衆運動といっても、やはり布教のためには権威を必要とされてしまう。新しい運動というだけで、権威は弱くなってしまうものである。経典を書くときは、決して自分たちの学識が劣っているわけではないことを証明する必要があったのかもしれない。

それに、そもそも教えは言葉によるべきという伝統がそのころには残っていて、書かれた経典の言語にはこだわらなかったのかもしれない。

JRF2021/9/164640

……。

「維摩居士が在俗生活をして法を説いているからといって、あまりそれを模倣してはならない。かれはブッダの化身で、すでに煩悩を離れた人である。凡夫が彼をまねて説教をするのは見当違いである。」(p.218)

著者の述べることは正しいが、維摩居士の話でいいたかったのは、ただ、出家者として学識に勤んでいるのは、遊んでいるのと同じ利己的な行為だということではないか。

JRF2021/9/165228

いずれにせよ、維摩居士が「ブッダの生まれ変わり」というのはおかしな話である。ブッダは生まれ変わらないからこそブッダであるはずと仏教は教えている。この場合は、本来、生まれ変わらなくて良いものを、本人の慈悲によって、生まれ変わったと解釈するのだろう。

JRF2021/9/169523

……。

>** 13 意識下の世界を見る<

「『小空経』の釈尊:「何かがそこにないとき、それについて、それは空であるとみる。しかもなお、そこに何か残った(もの)があれば、それはここにじつにあるのだと人は知る。」」(p.220)

何らかの名前があってはじめて、認識できるという唯名論に似た空観念である。

JRF2021/9/165799

……。

「『小空経』の釈尊:「どんなに空じていっても現実に肉体そのものからくるわずらいが残る」」(p.223)

人為煩悩説との違いは、行為に煩悩が必ず付着しているとは考えない点である。

JRF2021/9/165084

……。

「大乗仏教の唯識思想は、六処の意をよく観察すると、そこに自我を考えるこころ、すなわち、マナ識があり、さらに自我意識の下にこれを支配するアーラヤ識があることを見た。」(p.225)

マナ識が潜在意識、アーラヤ識が反射神経ということか。

JRF2021/9/166930

……。

「このアーラヤ識に悟りを得るための教えを聞くはたらきもあると考えた。」(p.228)

つまり、大乗は、非理性による理解を認めたということか。それとも、ギリシャ正教のように、言葉ではない、身体的な教えも大事だとしたのか。

JRF2021/9/168176

……。

「『摂(しょう)大乗論』:「ブッダの世界、すなわち、真理の世界から流れ出た多くの教えを、たえず繰り返し聞くこと(薫習(くんじゅう))により、その聞くことが習い性となる。それが種子として形成されて、最後には悟りの心を得るに至る。」」(p.228)

おお、これは動機付けの理論としては正しい。潜在意識下に象徴を刷り込んでおき、あとから、その象徴の意味を開示することで、強い印象を与えることができる。悟りとして得るべき真実が、悟りとして認識されるようにするためにはこのような努力が必要なのかもしれない。

JRF2021/9/160761

……。

>** 14 ブッダになるために<

「戒はつまり繰り返し規律を行ない、習慣となるまで身に付けさせることを意味する。」(p.235)

「相手に応じて一つの教えは種々の方便をもって説かれるが、相手がそれを実践のうえで戒として修得すれば、教えを再び説く必要はなくなる。」(p.242)

「『中部経典巻一』の釈尊:「修行者たち、実に筏の譬喩[ひゆ]を知っている君たちは教えもまた捨てられるべきである。いわんや邪教をや。」」(p.241)

JRF2021/9/161349

……。

>** 解説 湯山 豊<

「ブッダが愚者の教えとして否定しているのは本来的な自己(アートマン)であり、アートマン=ブラフマン説は彼によって全く言及されていないことを付言しておきます。」(p.246)

つまり、湯山氏は、自己の範囲を広げていくという部分を指して汎神論は仏教と両立すると考えているのだろう。

JRF2021/9/163159

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