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cocolog:92984837

易理。象[しょう]または天意について。…。天意は従わせることはできない。予想できないから。しかし、予想しなければならない。人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない。… (JRF 4501)

JRF 2021年9月 5日 (日)

以前 [cocolog:92189837] で、なぜ「生きなければならない」かを考えた。「なぜ生命は(種を微妙に変えながらも)同種のものを増やそうとするのか」に対し、「かつて宇宙に安住があったことの反作用なんだろうか。物理的な事象により、定常状態やパターンができる。それが壊れたことがやがて生命につながっているのではないか。」と考えた。そして「生命は反作用により総体として生きたいという欲求…総意がある」とし、「総体として生きたい」ところから、死んだ生に対する責任が生じ「生きなければならない」が出てくると考えた。

JRF2021/9/58586

象…気象などは天意の現れと見られるが、象から天意が推し測られるものである。しかしそれだけではない。天意は「生きなければならない」の総意と重なる部分があるだろう。上に述べたように総意はパターンなどの反作用であったとするなら、総意が象に現れて不思議はない。

JRF2021/9/57239

また、以前 [cocolog:92288127] などで、「世を混沌と物理(もののことわり)に分ける。混沌から物理をたち上げるとき、要素還元主義的に物の理を追っていくことには限界が必ずあり、物のはじまりを擬制せねばならない。その擬制されたものを鬼と呼ぶ。鬼と物の理も含めたところに全体的な働きが現れることがある。その働きを神と呼ぶ。天意は神の一種と見えなくもない。人心は、神とも見えるがむしろ鬼のように私は思う。鬼・神は起・信なり。」…と述べた。

JRF2021/9/51360

気は鬼[き]であり、心は神[しん]でもあろう。天意は神の一種ということであった。

象に神[かみ]の現れを見るのはおおかた気の迷いであるが、気象…気圧など…が人の心に影響を与えるのは事実である。人の気を動かすものを神[しん]とするならそこに神が現れている。人の気を鬼とし、物理の象とあわせて働いているのを神とも見れるかもしれない。

荒天が続けば怒っているとして擬人化して天意を導くことがある。しかしそれより気圧で人の心がしずんでるほうが天意という名を持つ者の効果にふさわしい気がする。

JRF2021/9/52041

なぜ擬人化するか。もっとも親しい神が心だからそれに引き寄せて考えていることだろうか。逆に言えば、神は心とは限らず行動から意を類推できない場合があるから「引き寄せる」必要があるのではないか。どういうタイプの神なのか、象から推し測ることがなされる。そのときの象はさまざまなところから取れる。

JRF2021/9/54048

天がただ天ならばなんともならないが、天意・神が人の気からも成るなら、神意は更[か]えうる。例えば、荒天が続いて、王を非難するのが天意だとすることもできるが、占者がうまく導けば、王に問題がなくさらなる驚異への警告を天意とし、王はむしろそれを取りなしていると更えうる。逆に天意に問題があると見えれば、それを取りなし、下々に罪をなすりつけることもありえたが。

JRF2021/9/50904

ただ、擬人化は呪いと化すことがある。神にささげたものを皆で食べてるうちはいい。しかし、焼きつくすささげものになると難しくなる。それが動物の脂肪のように人に害があるものならいい。しかし、人の生贄とまでなると呪いは強いと言えるだろう。

逆に擬人化は、呪いに姿を与えるから、その宥め方も出てくるという観方もできるかもしれない。姿があるからこそ、人の手を離れることも、人が利用することもできるようになる。

擬人化から少し離れよう。

象をどう見なすかということは受け継がれてきている部分もあればそうでない部分もある。

JRF2021/9/50063

象は進化の歴史の中で必要だったときがあろう。そして多くは今のことに関係がない。象は克服されるものなのか? 克服すべきということは呪いのようなものになっている…と?

ある物が根源の恐怖で、何者かがその恐怖を利用して脅していたというとき、その者を恐怖しなくていいというのが「克服」なのかもしれないが、それが根源の恐怖を忘れさせるなら、それは「克服」とは違う。

一生のうちに出会わない「根源の恐怖」は忘れてしかたないものだ。忘れてならないものなら、その象を見出せるはずではないか。その象を見出せると一生のうちに誰かが判断したからこそ忘れられたのではないか。

JRF2021/9/51675

生物の最初は、何らかの象に頼っていたことがあり、象から離れたとき象の必要性に気付くようなことがあったのではないか。時代が下って人に近くなったとき、狩りで何者かの象または跡を見つけることが重要であることはあっただろう。しかし、今は象をそれほど気にしない。

なぜなら象が書になってるからではないか。象は今は書なり。最近は写でもあるかもしれないが。

JRF2021/9/54036

擬人化に話を戻す。

擬人化には利害ある。

利は、覚えやすいことではないか。それがあたかも人のなにがしであったかのようにして長く覚えることができる。ただこれは、むしろ逆ではないか。象を覚えるために発達した能力を人を覚えるのに使っているというのが進化論的ではないか?

害は、間違った解決策を採らせることである。先に述べた「呪い」のようなものである。むしろ擬人化しても人外的なものとして、予想できぬものとして異化してきた面も強いのではないか。象からの擬人化に留まらず、人は人でないことを(同族の)人以外に求めがちなのではないか。

JRF2021/9/56522

擬人化を容易に否定できるようになったのは覚えずとも書があるようになったからという面もあると思う。一生を超えて象を忘れないということも書を保存しておくことで、ある意味やりやすくなった。

象を覚えるために生きるものが必要なくなった?…しかし、象を覚えるために生きていたものなどいたであろうか? 人の歴史では、一時期、いたこともあったかもしれないが…。字ができてそれが役立ったこともあっただろうが…。

JRF2021/9/54279

人以前には、生きるために象を覚えたのであって、象を覚えさせるために生かされた者などなかったのではないか?

象が同じでなければ生きられなかったのが、象を克服することで生きられるようになり、やがて別の象にとらえられるようになる者が出てくる。(前に [cocolog:92960749] で偶然と必然の話をしたが…。) それは偶然によるのか、必然がいくつもあることによるのか。生き物ができた瞬間は複数の必然が偶然となった瞬間の一つであるかもしれない。

JRF2021/9/59503

生き物の先に我々の属す人があるとして、その向こうに天意があった。

天意は異化されたもので、もっとも優れたものか? 『ヨブ記』に現れた神を思う。…人の基準からすれば優れていないこともある。ならば、ある基準ならやはりもっとも優れたものなのか?

天意に姿を与えて従わせることはできない。本当のところを予想できないから。しかし、占者は予知できるところを超えたところを予想しなければならない。そのような予想は外れるものだ。しかし、外れたとしても、天意に人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない。そこから、その前の予想にも工夫がいることになる。

JRF2021/9/58822

天意に人が従い続けることが重要なのは、そうすることで、できることがあるから。例えば…[cocolog:92930043] や [cocolog:92960749] で「神を信じると何が良いのか。良いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。」…と述べたような益がある。それ以外にもいろいろ益があろう。

JRF2021/9/57852

しかしそれらが象から得られる「天意」の真実だろうか? 象は古しえからある「伝達手段」である。それへの観方が現在変わっていることにより、明白な何かを見過ごしている可能性がある。

天意は神は象によって知れるのか。自らの体や心の中にも象はあること、気付いていない象がありうることを考えあわせれば、神は象によって知れるといって、あながち間違いではないであろう。

JRF2021/9/52800

いや、事が起きる前にまったく象に現れえないということもありうるか。常に象があるほど生易しくはない。前振れなく「それ」が訪れることがある。ただ、前からある神や天意と関連付けないとそれが神または天意の現れにならないだけ。振り返れば象から知れたとできる…せねばならないということだろう。

JRF2021/9/63264

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