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cocolog:92999303

田上太秀『仏教の真実』を読んだ。著者は釈迦は霊魂を否定していたと説く。著者の若いころから今に続く時代は科学万能で、無神論が支配しがちであったこともあり、無神論から出発して説きはじめるのがわかりやすく、そういう方便だったということではないか。 (JRF 8711)

JRF 2021年9月12日 (日)

keyword: 田上 太秀

私は田上太秀氏の本をこれまで何冊も読んでおり、ある意味ファンである。私の仏教知識は氏によるところが大きい。その流れでこの本に興味をもった。

JRF2021/9/121707

『仏教の真実』(田上 太秀 著, 講談社現代新書 2220, 2013年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4062882205
https://7net.omni7.jp/detail/1106314434

JRF2021/9/126043

「まえがき」からかなり挑戦的なことを述べる。

>しかし、釈迦は霊魂の存在を否定している。(…)現代の日本仏教で霊魂不滅を説いているのは釈迦のさとりを否定することと言える。いまの仏教の最大の問題はこの霊魂信仰にあると思われる。<(p.5)

そして、秋月龍珉『誤解された仏教』(講談社学術文庫)の「まえがき」から次のような引用をする。

JRF2021/9/129972

>>霊魂を認めない。あの世も信じない、。輪廻転生も否定する。三世の因果も信じない。葬式だの法事だのいう死者儀礼は本来の仏教とは関わりなかった。仏教は無神・無霊魂論なのだから、霊魂どころか、「神も仏もあるものか」などというような仏も認めない。私はひたすら「摩訶般若波羅蜜多(悟りの智慧の完成)は仏道の第一義なり」ということだけを信じ、それだけを提唱する。<<(p.6)

私の今の直感に近いのは、やや激しいが、タイキ…という方の Amazon 評(一部引用↓)である。

JRF2021/9/124415


著者はいう、
「いまの仏教の最大の問題はこの霊魂信仰にあると思われる」

霊や死後の世界を否定して仏教(宗教)が成り立つはずないのである。
自分が見えない、感じないということで霊魂や神を否定している。

問題となる霊魂信仰は、多くの仏教研究者や僧侶が
霊魂を信じずに供養している詐欺的行為にあるのである。

あるいは、現代の僧侶では不成仏霊を成仏させることもできない実力不足が問題なのである。

JRF2021/9/124982

著者は霊魂は否定する。しかし、釈尊も輪廻転生を語っていたことを述べ、天上界…(そのうちの無色界は「物質的なものがなく、心識だけがある生物の世界」)…への転生が仏教に取り入れられていたことも説く。天界への転生というのはまるで霊魂の世界への転生ではないか! インドの世界観だけが正しいのではなく、日本の古来(?)の世界観も正しいとし、現世と重なる幽冥界的なところへの転生があると考えれば、霊魂の理論は仏教とあいいれないとは限らないと私は考える。

JRF2021/9/123705

ただ、アートマンが常在不変の一者であるとして、霊魂がアートマンである…というのは、釈尊は否定したのだと思う。なぜなら、端的に解脱して涅槃に致ったとき転生から離れると語るのだから、それはある意味消えたということだから、霊は常在不変ではなくなることを意味するから。もちろん、解脱したものが法と(一体化)して存在しているということもありうるかもしれず、それもアートマンと見る者がいてもおかしくはないが、普通はそれはブラフマン的な領域で、そうは見ないということだろう。

JRF2021/9/122156

秋月氏が言われているような転生もないとすれば、涅槃の教えもなくなる。転生を特に僧の間では積極的に説かなかったとしても、それをまったく認めないのはやはり「外道」ではないか。

著者の若いころから今に続く時代は科学万能で、無神論が支配しがちであったこともあり、無神論から出発して説くのが、わかりやすく、そう説きはじめるのが方便であった可能性はある。

もちろん、仏教がそれまでの宗教と比べ無神論的であったことは私も認める。以前、次のようなことを書いた。

JRF2021/9/124015

[cocolog:92288127]
>「来世がないほうが良い」という以上に、実は「来世なんてない」という洞察が仏教の根底にはあるのではないか。

しかし「来世なんてない」というと、普通の人は悪の道に走る可能性が心配される。そのような心配をしなくてよくなる条件は何かというのが、仏教の裏のテーマなのではないか。

(…)

「来世がないほうが良い」には、社会的に来世が信じられなくても良い社会になるべきという理想も含まれており、来世を信じなくても荒れない今の社会は、仏教の理想とするところに近いのではないか。

JRF2021/9/127323

「涅槃に達する」「来世がない」ことがあるとしても、そうだから「因果応報がないので、悪の道に行ってもいい」と考えさせない体系をバーチャルな真実なども使って組み上げていくのまでが仏教なのではないか。「悪いことをすべきでないが、悪いことをしても因果応報がない」で終らせてしまえば、それは唯物論的な外道だろう。外道でない体系の作り方は時代ごとに違って良いのかもしれないが。

JRF2021/9/125699

無神論的なことを真理としても、それをして自暴自棄に民衆がならないように、どうできるかがテーマとしてある中、著者は、無神論的現代で、それをどう行うかを試しているのかもしれない。その解が八正道の重視であったりするわけだが、まるまるそれがこの本に結実しているとも言える。

あと、これも著者から今の時代に続く仏教理解の(いくつかの流派の)特徴として、原始仏教への回帰の姿勢があまりにも強いというのがある。もちろん、いろいろな仏典が釈尊の名を借りていたように原始を尊ぶ姿勢はずっとあったと思うが、原典…原始仏典のみの重視に見える姿勢は、私は、キリスト教の「聖書のみ」の影響を受けていると疑う。

JRF2021/9/121185

現在、そういう時代からの転換が必要にもなっているのではないか?

科学万能の無神論をベースにするのは、もう、今からすればある種の「外道」としていいのだと思う。そして、そこから霊魂などをどう認めるか…という方向に行く必要があるわけだが、忘れてはならないのが、1995年地下鉄サリン事件という宗教テロを起こしたオウム真理教がもう一方の極に「外道」としてあるということである。それらを踏まえての私…。

JRF2021/9/124743

私は「シミュレーション仏教」の試みをしている(↓)が、このようなあり方も当然、将来「外道」とされるのだろう。私の信条はシンクレティズム的で「外道」の謗[そし]りを免れ得ないが、↓に関してはそこまで外道ではないと思っているのだが…。

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

JRF2021/9/128701

……。

著者は、現代の僧が世俗的なことを批判するが、著者が教えを現代的にしているように、僧も現代に適応しているとして良いのではないか。以前↓と書いた。

[cocolog:92288127]
>僧が「善行」をすることで、涅槃に入ろうとすることが善いことだとブランド化される。それはブランド化だから、僧と同じことができなくても、涅槃に入ることができる。涅槃に入る方法は、僧的な善行以外にもいろいろある。…としてはいけないのだろうか?<

JRF2021/9/122029

田上太秀『ブッダの最期のことば』(NHK 出版)を読んだとき([cocolog:92137624])に書いたが、僧団があることで菩薩の行がやりやすくなる。…みたいなことはあると思う。僧団がなくなるからといって、過去に何者かが仏となったことは無効化されるわけではないはずとしても。

僧は教えを維持する役割を担ってはいるが、その方法は、原始に戻るだけが正しいのではないと私は思う。僧の「善行」のあり方は時代によって変わるのだと思う。変わらない部分もあるべきだとは思うが。

JRF2021/9/129764

……。

>禅を通して己を観察した時、己とは何か、己のものは何かなどを知る。その結果、釈迦は作られた己の体には己という実体はない。また己のものなどなにもないと理解したのである。<(p.92)

以前、著者の本、田上太秀『仏典のことば さとりへの十二講』(講談社学術文庫)を読んだとき([aboutme:125348])、>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。<…と私は書いた。

JRF2021/9/127671

我々というものはある意味最初からありうるが、己というのは、そういう「我々」がいろいろ試す中で限界を知って、得られる知識…境界の知識でしかない…というのが私の考え方である。我々を境界して私になる…境界に意味がある。他と違う比較的自由に意味がある。己のものというのも境界としてちゃんと意味がある。

JRF2021/9/126810

最初は己はないんだとというのは合意できるし、アートマンみたいなものがなければならないみたいなことはない…というのも合意できる。しかし、己に実体がないというのは合意できない。実体という規制が己を形作る。ただ、そこから先を問うことは、啓示でもなければ無理だというだけのことだ。(ちなみに私は統合失調症を経験しており、奇跡も神も実感としてありうるという立場である。)

JRF2021/9/126738

また、[cocolog:92189837] で、だいたい、なぜ「生きなければならない」というと、かつて宇宙に安住があったことの反作用として総意として「生きたい」があり、その総意を受け継ぐために個々に「生きなければならない」のだと書いた。

JRF2021/9/120593

総意が個を作るわけではないが、意は与えられた個の中で個々に総意から個の意に致るのではないか。与えられた個の中で「我々」から「己」に致るのではないかと考える。それはまるで雑霊が集まって人の霊となるかのように読めるかもしれないが、そういうことではない。「我々」というのも後からできあがった「己」が振り替えったとき、そのある意味「無明」の状態をそういうしかない…という程度のことである。まぁ、信仰的には、「我々」は多次元的な神的存在達の交差のようなものとできるかもしれない。ここのイメージはぶっちゃけ↓の説3'による。

JRF2021/9/127337

《『創世記』ひろい読み - 神の像・似像 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_1.html

JRF2021/9/129351

……。

蛇足的に…。

>有学者の有学とは「学ぶことがまだ残っている」の意味で、反対に無学者の無学は「もう学ぶことはない」という意味(…)。仏教では釈迦は達人、達者の典型であり、また無学者と呼ばれている。<(p.175-177)

JRF2021/9/127031

ここは「Linux チョットデキル」を思い出す。Linux の作者がそう述べる T シャツを着ていたことから話題になったもので、「チョットデキル」は IT 用語では「すごい知識がある」ことの意味になってしまった。

釈尊の「無学者」も案外、釈尊の謙遜が先にあって、後の時代に逆に著者が述べるような意味になり、それがまた逆点して巷で使われるような意味になっているのでは…と疑う。

JRF2021/9/129137

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