cocolog:93013747
田上太秀『仏典のことば さとりへの十二講』を再読した。「諸法皆空」は simbd には何にあたるのだろう? 空であると知ること、それは世界の実相を知ることである。それを知ることで「エネルギー」を得て世界を変えていける。…ということではないか? (JRF 5476)
JRF 2021年9月19日 (日)
『仏典のことば さとりへの十二講』(田上 太秀 著, 講談社学術文庫 1995, 2010年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4062919958
https://7net.omni7.jp/detail/1102915520
JRF2021/9/196479
その、以前読んだときのメモは↓の二つのエントリに分かれている。「ひとこと」の初期のころのもので今よりさらに読みにくいといは思うが、このエントリを読んだあとにでも興味がわけば読んでいただきたい。
JRF2021/9/191999
[aboutme:125348]
>我思うゆえにありうるのは我々までであって、我が自立して存在するとまではいえない。しかし、常に我々と思えないほど人は絶望的に孤独であり、そこに多くとも「我」しかない。孤独ということは、私を我々と思うのを Imaginary に留めねば、生物として危ういということである。<
[aboutme:126822]
>田上 太秀『仏典のことば さとりへの十二講』の「ひとこと」。最終講の最後の最後でコメントが300件を超えて書けなくなった。ここに続きを書く。<
さて、再読して考えたことを書いていく。
JRF2021/9/195181
……。
>さらに驚くべきことは、「すべてのものに私(私のもの)というものがない」と説いた点である。私とか私のものが、世間にはまったくないという意味である。<(p.6)
田上太秀『仏陀のいいたかったこと』を再読した([cocolog:93009141])ところで、転生について自分が継続しているということがなければ、因果応報の教えとして有効でなくなるから、自分の継続はあるべきだろう…みたいなことを書いたが、それが「諸法無我」によって否定されていると読める。
JRF2021/9/192259
私も「我思うゆえにありうるのは我々までである」といって、最初期の我の成立を問題視するが、その後については、境界としても我を認めるのが私の方向である。しかし、それも否定されていると読める。
さらに、ブラフマン=アートマンの一致…「梵天一如」も、我が法になる…または、結果として法として我はあった…というのもまた否定されているようにも読める。
JRF2021/9/199331
simbd (↓)を作ったとき self をプログラムで使ってはいるが、それは我と呼べるような AI ですらない。我がなくても世界の実相はつかめる…我の必要なく世界・諸法をつかめ…世界に我の必要なくせしめよ…とは言えるのかもしれない。…とは思うが、「諸法無我」はそういう意味なのだろうか? 「諸法無我」がそういう意味なら、私もある程度は納得ができるが…。
JRF2021/9/197214
《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd
JRF2021/9/192289
……。
>第一講 諸行無常 -- 世間は流転している 1.世間は無常と諦観する<(p.17)
諸行無常は simbd のどこに現れているだろうか…と考えてみる。諸行無常そのものは現れていない。しかし、諸行無常がもたらす諦観こそが、simbd において、憎しみを宥める soothe として結実しているのではないかと思う。
諸行無常を説く仏教がないと、soothe がなくなる…完全になくなるわけではないが、効果が薄れる…として良さそうだ。この場合「仏教がなくなる」とは「来世がないほうが良い」の軽視…ということになろうかと思う。
JRF2021/9/195701
soothe は憎しみの平均値が一定に達すると起き、その一定の判断を上に上げたり下に下げたりするところに「来世がないほうが良い」がかかわるといった感じになろう。
一方で、soothe は個々には、相手への憎しみごとに成功したり失敗したりする。諸行無常が宥める根拠なら、個々で違っての個の中の相手ごとに変わるということはないはずである。それをどう考えるか? …それは、仏教が対機説法で人を教えるから…とすればいいのではないか。諸行無常は全体の平均を下げるが、具体的な教えは対機説法によるから、問題になった相手についてのみ宥められるのだ。…といった感じに考えればよいのだと思う。
JRF2021/9/194938
ここに挙げた soothe のほかに soothe にはもう一種のパスがある。それは祭りなどを想定した、政治的憎しみに対する soothe である。ただ、考えてみると、諸行無常は、政治的憎しみに対しても効きそうである。だから、今はそうなってなかったが、祭りでないほうの soothe においても、政治的憎しみも宥められるように変更すべきだろう。
商業的憎しみ・憎まれについても同様のことが言えそうだが、こちらについては、独自の体系を持っているので、オプションで指定できるパラメータを追加して、諸行無常が説かれない状況を作るときいっしょにそのオプションもいじるということで対応しよう。
JRF2021/9/194452
あと経済については「諸行無常」については別のパスがあり、上昇指向(ambition)を抑える働きがある…とできるかもしれない。
JRF2021/9/194118
諸行無常を説かない soothe の少ないもの(lsth …と呼ぶ)から普通に説く normal への移行は、「思考と思念を深めるのがよい」を軽視する lpe から normal への移行に似て、他の本目的三条件には関係なく進めることができる感じがする。ただ lpe は ltom (low tombs population) をするときには必要とされたように、mamb (much ambtion) は lsth をするときには必要とされる…ということにすべきかもしれない。
JRF2021/9/198773
……。
>空のもとの意味は「膨れ上がった」であった。<(p.85)
空は 0 であると同時に 1/0 の無限大を表し、1/0 が「膨れ上がった」ということだろうか? むしろ、空としては、極限や微分作用素・積分を考えるべきだろうか? 無限小を無限個集めれば有限に留まり、その数値はなんとでも変化できる。そのなんとでもなれるからこそ、それにより世界が作られうる…ということだろうか?
JRF2021/9/193200
>では、ゼロが虚無だけの意味であるとすると、10 という数字の 0 はどのように理解すればよいだろうか。(…)10の数は 9 に 1 をプラスして得た数字であり、0 の記号は 1 から 0 までの数を含む意味がある。もし 100000 という数の 0 が虚無であれば、その 0 を重ねて書く意味があるだろうか。この場合、一の位の 0、十の位の 0 ないし万の位の 0、それぞれ虚無なのだろうか。そうではなく、それらの 0 はかぎりなく膨張した数を表す記号ではないか。0 をもっと増やせば、0 の内容はますます膨張していく。数字のシューニャ、すなわち 0 は膨張するものなのである。<(p.88-89)
JRF2021/9/196964
>世間を空と観察することは、私たちにどんな生きる術を教えたのだろうか。<(p.95)
「諸法皆空」は simbd には何にあたるのだろう? 空であると知ること、それは世界の実相を知ることである。それを知ることで世界を変えていける。世界を「膨張」させていける。…ということではないか?本目的三条件などをそれがないところからあるところに移行するときには「エネルギー」がいると私は考えた。その「エネルギー」を与えるものこそ、「諸法皆空」が示すものではないか?
JRF2021/9/190438
simbd では「カルマ」は牢にまだ入ってないことを表すに過ぎない。「諸行無常」は soothe でしかない。そして、「諸法皆空」は、それが浸透することで、どこにエネルギーがあるかが知られ変化できる…ということでしかない。…そういうふうに言えないだろうか?
「諸法皆空」は現代で言えば科学知識の発見のようなものということになる。
空であると、ある種のシミュレーションで表せると、観じることで、できることが広がる…。本当か?
JRF2021/9/193092
……。
>「解脱は足ることを知る境地」という説明は、注意すべきである。五欲の求めるに任せて生きるのではなく、五欲のはたらきを制御して、すぎないように行動すること、むさぼらないことが足ることの意味である。<(p.108)
人は過ぎた欲望に落ちやすいものである。例えば、エロマンガも読んでるうちにかなりヒドイ内容でも平気になってくる。そのとき、どのエロマンガを良いとしていけば、ヒドイ内容一辺倒なところから、少しマシな倫理に上がれるかを示すことが、「解脱」への道になる…みたいなことはあると思う。
JRF2021/9/194319
上に上がれるということは階段を連想すれば、下にも下がれるということで、そのような「指示」が逆にスロープとなって、まともな人間を突き落とすと見えることもあるかもしれない。しかし、それはそうではない。現代はエスカレータのある時代で、「エネルギー」を投入しながら「指示」すれば、「解脱」への道にちゃんとなると思いたい。
JRF2021/9/191179
……。
>『維摩経』に次のような説明がある。(…)諸法はみな妄想なり。<(p.139)
僧団があれば菩薩の行がしやすくなる([cocolog:92137624])とか、僧団がひいては人々が法を守るようになることが、涅槃に行くことの意義で、そこにブラフマン=アートマンの梵我一如の境地がある…みたいに私は考えがちだが、『維摩経』はそれは妄想だというのだろう。
JRF2021/9/198425
確かに僧団が、または、人類が滅びてしまえば、教えの継続による法はなくなる。しかし、遺跡が残っていれば、何がしか後続のものが法に気付きやすいということはあるかもしれない。遺跡がなくても、星の・銀河の色が違えば、何かに気付くことがあるかもしれない。そこに法そのものはなくても意味があることはありうる。
法が残らないとしてもそうなのである。まして、世界にかかわる法が真実なら、再び発見されることはあろう。そこにかつての「我」の影響はほぼないかもしれないが、帰依するところは同じではないか。
JRF2021/9/198990
…ただ、これこそ妄想だと言われれば、それまでのことである。
現実世界のことで考えてみるだけでそうなのである。まして、鬼神の世界・霊の世界がありうるとすれば、もっと神妙な方法で、法が受け継がれることもありうるのではないか? 鬼神の世界・霊の世界の法は現世の法とかなり異なるというのもありえそうなことではあるが。
…ただ、これも妄想だと言われれば、それまでのことである。
JRF2021/9/197983
……。
>この外来の飾りにおおわれているために、その身体のありのままの姿である不浄の特徴を知らずに男は女を喜び、女は男を喜ぶ。 (『清浄道論』)<(p.167)
これを読んだ第一感として、LGBT は現在の不浄観を担っているのではないかと思った。だからこそ、エリート層は人々に不浄観を抱かせるため LGBT の尊重をうたっているのではないか。…と考えた。
JRF2021/9/195759
人々の中には LGBT に対する反感がかつてあった。だから、LGBT を尊重しろと聴くと、自分が人を愛するということは、「不浄」の LGBT の愛と同じなのかとなることで、自分の愛も不浄であると気付くことができた。
しかし、LGBT の権利が確立し、それが普通のことになれば、そもそも LGBT が不浄というわけではないのだから、そこから発生する不浄観もなくなる。
するとどうなるか?
結果的に自己の愛の不浄性に気付くことが難しくなるということではないか。それはこの本の解説を読む限り自己愛の過多を生むのであろう。
JRF2021/9/190138
それがマズいということであれば、LGBT に、より「不浄」なペドフィリアなども足していく方向になるのか。それとも別の方法で自己愛の過多を抑えていくのか…。
JRF2021/9/191079
同性婚に相続税の配偶者控除がまともに認められるようになれば、次に来るのはペドフィリアも足していく方向だろうな…とは予想がつくが。(そのほうが財産の継承に有利なので。) 個人的にはその方向は、ソドム・ゴモラの道だと「妄想」しているので、なんとか防ぎたい。(私の同性婚に関する考え方は相互養子契約について書いた [cocolog:92422763], [cocolog:91445353], [cocolog:89997835] をご参照のこと。)
JRF2021/9/191940
……。
以前読んだときのメモ [aboutme:125348] を私も再読してみたが、読むのに疲れた。自分で書いたことだが、今ではわからなくなっている部分もある。疲れた自分に関して一部、引用して終ろう。
JRF2021/9/190983
>正直、私はこのような内観を究めるような議論に疲れてしまっている。かつてほどモデルを内に見出していくことに耐え難くなった。修業というのは、それを乗り切る体力を付けることでもあったのではという空想を抱く。
>生身から生じる煩いを除くには、ひたすら正しい習慣(戒)を習得し、教えを反復することが解脱への道だと教えているのである。<(p.148、第六講)
<
私は修業が足りない!
JRF2021/9/194056
このエントリの直近で田上太秀『仏教の真実』を読み([cocolog:92999303])、また、田上太秀『仏陀のいいたかったこと』を再読した([cocolog:93009141])。そこにも書いたように、私は田上太秀氏の本をこれまで何冊も読んでおり、ある意味ファンである。私の仏教知識は氏によるところが大きい。↓の本も私のターニングポイントとなった本で、ある意味、この「ひとこと」のブログを本のメモとして積極的に使うキッカケとなった本である。
JRF2021/9/199071