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cocolog:93039063

棚村重行『現代人のための教理史ガイド』を再読した。ただし、それとはあまり関係なく、「シミュレーション仏教」を作っている合間に、「シミュレーション キリスト教」はどのようなものか少し考えてみたりした。 (JRF 5318)

JRF 2021年10月 1日 (金)

「シミュレーション仏教」を作っている。

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

JRF2021/10/12288

シミュレーションを回しているときはヒマなので、「シミュレーション キリスト教 (Simulation Christianity)」はどのようなものか少し考えてみたりする。

↓を再読しながら考えた。

JRF2021/10/12709

『現代人のための教理史ガイド』(棚村 重行 著, 教文館, 2001 年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4764265524
https://7net.omni7.jp/detail/1101742102

JRF2021/10/18834

この本、昔読んだときはかなり影響を受けた。今はキリスト教・神学からだいぶ離れていたこともあり、以前ほどは心に響かなかった。

今回は文を引用したりはしないものの、考える刺激にはなったことは述べておく。

JRF2021/10/12520

……。

キリスト教の特徴の一つは、カルト性があって少ない人数でも生き抜けるにもかかわらず、ユダヤ教から継いだ支配のための宗教という要素も持っていて、単なるカルトでなくなっても潰れてしまわないところにあるだろう。

最後の審判は、輪廻転生に比べて、上昇志向を焚き付け、現世での革命を志向しがちであり、本来なら支配しにくい。しかし、ユダヤ教の伝統により、そうであっても「彼ら」には支配できるということではないか。他の宗教ではキリスト教徒を支配しにくいので、結局キリスト教が支配者の宗教になりやすかったということではないか。

JRF2021/10/15292

その「ユダヤ教の伝統」とは何か? 終末の期待だろうか? 終末が近いのだからとしてやり過ごせる。…と。でも、それだと終末を自分の手で引き寄せようとする者を制御できないのではないか? カルトだから、自分達はそれを察知し活かせるということだろうか? でも、カルトにありがちな分派があるとそうはいかない。まぁ、「終末を引き寄せる」理論は戦争には強そうだというのはあるかな。

JRF2021/10/18470

カルト性と支配の両立には、神性人性の議論や三位一体が関わってる予感があるが、具体的にどう関わってるかと問われると考えが及ばない。カルトになるのに、一般に人が神(と等しいもの)になるというのは、信じて神になり切れるものが限られるという点で利点はあるかもしれないし、一方で自分が神かもしれないと考えることもカルトに利点はありそう。ただ、唯一神が最後にイエスになった、その一回切りということだから、あまり関係がなさそうにも思う。むしろ、カルトは奇跡によるつながりがセオリーだが、それが三位一体などとどう関わるかと言われると、今のところ特に私に考えはない。

JRF2021/10/12306

受肉…聖餐式は奇跡と解釈するとしても、カルトに必要な奇跡はそのようなものではないと思う。聖書に治癒の寄跡があって人を呼ぶという構造はあるかもしれないが、だからと言ってイエスがいなくなってからはそれがカルトにつながるとは思えない。救われた(と信じる)者のみが信者として残るという構造にはなっていない。

終末思想があるから、奇跡が十分に起こってなくても、終末までごまかせばいい…終末がすべてを解決してくれる…そのうちなんとかなるだろう…みたいに考えれる…ってことはあるのかな?

JRF2021/10/17973

……。

神性人性の議論(単性説とか)において、まず、人が神に近しいものになれるとしても神でなかった者が神そのものにはなれない…というのは、唯一神信仰でそれを認めると、神が人になって天に帰るという構造になり、それはつまり何度もあって良いということになり、輪廻転生と変わらない。まずそこを避けるというのは、「最後の審判」のほうが絶対的な教えであるということだろう。あと、救世主イエスを神と見ることを避ける道もなかったのだろう…真の救世主は「終末」における唯一神のたった一度の転生という信仰理論が先にあったか。

JRF2021/10/10168

次に、イエスが神でしかなかったとするとイエスのやったことは本質的にマネられないとなる。そうすると人間の模範として意味がなくなるし、使徒がその権能をマネすることもできないとなる。教会の権威のためには、イエスは全き人でもあるべきだったということだろう。ここはカルト性と関わるところかもしれない。

カルト性を維持しながら、「最後の審判」が広まっても支配ができる…。それが条件という話ではあったが、なぜ支配ができるのか…が出て来てない。カルト性を持ってるから支配できるという話なのか…。

JRF2021/10/11722

……。

あと、三位一体の聖霊がどこから出てくるかだが、元々は異言を語るようなものも取り込むところにパワーがあったのだと思うが、今も残ってるのは、信者の独自解釈をあまり責めないことでカルト性を柔らげる機能があるということだろうか。それだけだと弱過ぎる気がするが…。

JRF2021/10/14637

教会の日常において、説教とともに聖霊が賦活される…といったことになるのだと思うが、聖餐があるから聖霊が宿るわけではないが、聖霊が宿る者は聖餐を受けており、そこには受肉による人性と聖霊という神性の一致がある…とかいう理屈になるんだろうか…。信者を神秘につなぎとめる役割がある? …あるとしてもやはり弱過ぎる気がする…。(ちなみに、三位一体的には、このとき聖霊が神で、パンとワインがキリストで、いただく信者がこの世界に送られた聖霊といった理解になるのだろう。)

JRF2021/10/12744

スピリチアル…精神の次元だけなら奇跡は割と起こる…というのもあるのか? 聖霊の宗教でもあることが、終末思想が十分にないときでも、カルト性をつなぎとめている? むしろそこから入って、終末思想を広げるのだろうか?

カルト性は選民思想性でもあるが、それに寄与しているということか?

JRF2021/10/16676

……。

カルト性をむしろ嫌う一般信者に対する支配の源は、原罪と贖罪の概念になるんだろうか。罪とみなし、また罪を許す権能がある。その権威こそが一般への支配を可能にする。…と。なぜ原罪を信じさせることができるのか、根拠が薄弱な気がするが、一方にカルト性があるため、カルトの側からそうでない者達を押して信じさせるということなのか…。

愛の強調は、選民思想・カルト性の急峻さを柔らげるものではあるが、信者どうしの愛ということになるとカルト性を作り出すものでもあるか…。まぁ、権威などというものは実際には生じてないから、いっしょに集まる愛が必要ということかもしれないが。

JRF2021/10/19269

ちなみにシミュレーションで愛か権威かという軸を考えるとすれば、権威に傾けると再分配は強制的になり、縁にも恵まれない者に分配がいくが、愛を重視すると地域をまたぐような再分配はなくなる…といった感じにすればいいのだろうか?

JRF2021/10/14742

……。

救世主キリストが神でなければならないとして、三位一体の子でもあるというのをどう考えるかだが、神の終末におけるたった一度の転生をしたと神が認めるのがその子であるということになるのだと思う。それ以外の転生は神自身のものではないとする。それにより唯一性が保たれる。…と。

一方で、三位一体の聖霊の存在は、神の発出自体は、救世主のみで終りではなく、発出自体はありうることを示すと同時に、たった一度の転生という概念をあまり強力にしないことの宣言でもあるのではないか。

JRF2021/10/10858

……。

「シミュレーション仏教」と比べて、キリスト教の構造というものを考えると、組織論がとても大きな比重があるように私には思える。

「最後の審判」を維持するのが大目的で、それはつまり平等と活性を大目的としているということではあるのだろう。そこは命令的命題という以上に絶対的命題で、聖書(マルコによる福音書 12:28-12:34 など)に書かれているように、「神を愛する」が第一の命題であるのは、神が「最後の審判」の神だからですらあるからではないか。

JRF2021/10/14259

その大目的がありながら支配が成立するにはどう組織を作るのかというのが大きく、組織論が大事と私が見たところ。

逆に支配が成り立たないとどうなるか…というのを考えるところから、シミュレーションにアプローチをかければいいのだろうか?

市民の憎しみが警察などに共有されないことがキリスト教の条件の一つではないか…みたいな話を [cocolog:92960749] などでしたが、私の「シミュレーション仏教」みたいに一文化モデルではなく、輪廻転生文化との隣接みたなものから考えていく必要がある気がする。

JRF2021/10/11382

……。

因果応報の神は広く信じられているほうが都合がいいから、そこで宣教の意味は出るが、すでに因果応報を信じている者について、「最後の審判」を広める意味は何か。選民思想のためには、積極的に宣教しないのも有利であろうに。

その意味、一つには、輪廻転生を信じる敵対組織の「革命」による打破があり、また一つには、終末を引き寄せようとする者を察知するため、似た教えを除去する必要がある…というのはあるかもしれない。

JRF2021/10/18205

ただ最初は、選ばれた者の間でのみ「最後の審判」を維持するという目的がまずあった…それが当時のユダヤ教であったというのはあるかもしれない。自分達だけ平等と活性を維持すれば、敵を打ち負かせる…と。

それがキリスト教になり広まったのは、すでに支配者となったローマとある意味戦わねばならなかったから宣教が重視されたという側面はあるのかもしれない。そして、支配宗教となってからは、似た教えを追討する必要があったということではないか。

JRF2021/10/13251

……。

ユダヤ教は最初から「最後の審判」を強く打ち出す宗教ではなかったが、それを取り入れてうまく生き残った支配宗教ということではあったのではないか。そのような支配宗教のうち、神の(何度の)転生もない唯一神信仰を維持できたものの中で、ローマの支配の中でも生き残ったのはマレだったということだろう。唯一神信仰がもたらす神の(何度の)転生もない純粋な「最後の審判」=革命宗教が「勝利」のカギだったのではないか。

JRF2021/10/13882

……。

「ただ信仰によって義とされる」というのは、行いによってではない…ということである意味、因果応報の否定で、その目指すところはシミュレーション仏教における「来世がないほうが良い」に似たものがあるのかもしれない。

意味不明となった戒律や煩瑣な儀式が不要であるという方向でもありうるが、それだけではない。「来世がないほうが良い」に似ているということは他の信者の行為に対して諦観を増すことが「信仰」なのだろうか? 許しあっていれば過ごしやすい、特に自分に何かあったときも許してもらえることは大きい…というのはあるか。そのほうが、皆が悪いことをしないよう監視しあっているよりはいい。…と。

JRF2021/10/10674

ただ、前書いた「神を信じると何が良いのか。良いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。」も、人が監視し合う必要はなく、そう信じておのおの行動していれば、誰かが結果的に悪いことをしてしまうようでも全体で見れば、それで十分良い報いはあるはずで、それを「信仰のみ」と言ったという可能性はないか。…それはないか。

JRF2021/10/11718

行為によって義とされる方向は、自由意志論の方向でもあるらしい。上の議論を考えるとそれは教会が行為を監視すべきかどうかの議論でもあったのかもしれない。監視しているなら求められればその結果を支配者に告げねばならなかっただろう。それを嫌ったということではないか。

JRF2021/10/18728

人々が行動を監視し裁くという道は神を十字架にかけるものですらある。あの「ユダヤ人」が十字架にかけたことは人類の全的堕落の証拠であった。その誤りを人々に・アダムにそして神自身がある意味認め、引き受けた。しかし、因果応報の信の義を示す復活そのものはなしにされない。行動の監視は義とはされないが、姿を見せた神にふさわしいものになろうとすることへの協力は、「救おうとすること」は、許されるものになった。人に対してだけでなく自分に対しても。

JRF2021/10/16531

そのような神を信じている(共同体に属する)ことが大事で、実際の行動…どころか何かになろうとしているその意志自体も他者は問題にしてはいけない。それが行いではなく信のみで義とする恩寵である。

…というのを一面では真実とするということだろうか。「それはないか」といったところ、意外にアリなのかも?

JRF2021/10/11876

(そしてこのような転換は、念仏宗などとも共通するのかも? いつの時代もリバイバルされる考え方なのかな? 「シミュレーション仏教」では逮捕率を下げるか、牢を少なくする方向になるのか。で、そのためには憎しみへの soothe が必要というロジックだったが…。)

JRF2021/10/17861

……。

神が自由意志を創造できないということはない。「シミュレーション仏教」の枠組で、カルマが減るのは、それが偶然…というか長い目で見ればいずれ起こる必然だからという議論があった。偶然は偶然であったことの証拠をいずれなくす。神が反省すれば…神の視点に立ってみれば…自由意志は…奇跡などの発現も…起こすはずだった必然のように見なせるのかもしれない。(まぁ、神から見てどこまでいっても「偶然」というのは「永遠の命」を持っていることに等しいのかもしれないが。)

JRF2021/10/11202

しかし、人間から見ればキリスト教徒以外の「偶然」も、意味のあるものとして記録していっても罰は当たらないと思う。キリスト教徒のみ自由意志があり、それらのみまともに記録する価値があるとするのはどうかと思う。人より長く意志を持続する教会であるがゆえに記録で(神の意志を代表し)人のかつての意志を踏みにじっていくのは、あまり良いこととは思えない。「シミュレーション仏教」の枠組で言えば、ちゃんとした記録が減り、災害が起きやすくなるのではないか。

JRF2021/10/10703

行為か恩寵かという枠組で、恩寵・「信仰のみ」を重視することの利点はあるが、そのトレードオフとして、記録の上書きが起こるなら問題がある…ということだろう。「自由意志の否定」が、行動が互いに監視されているがゆえに本当の意味での自由意志がない…という意味なら両立できるかもしれないが、多くの場合「自由意志」はそういう意味ではあるまい。

JRF2021/10/17230

……。

行動の監視と少し似ているが、教会の問題でもある、終末を引き寄せようとする者を察知した場合どうするか?…に話を戻そう。

そのような者は、イエス(の復活)によってある意味終末は「すでに」来ているという論法で徐々になだめていく…ということだろうか? いつの時代も「終末」の証拠が教会によって作られている…みたいな陰謀論をとなえるべきか…。終末を引き寄せようとしている者の終末感を満足させるにはどうするかを研究する機関が必要で、それが神学者集団に後世なったということだろうか?

JRF2021/10/10052

つまり、神学者に十分リソースを割[さ]かないと、終末を引き寄せる者が暴れ出し、社会が荒れる。神学者に十分リソースを割くと、終末を引き寄せる者をコントロールでき、終末を引き寄せる者を逆に増やして彼らの技術投資で戦争にも強くなる…といった感じなのだろうか?

そして、これは「行動の監視」ではありえないので、教会外部に(支配者に)知らせる必要はないのだろう。自発的な協力はあるとしても。

JRF2021/10/13907

……。

ここで「市民の憎しみが警察などに共有されないことがキリスト教の条件」という話を再考しよう。

市民に憎しみが生じたとき、通常は、憎しみがストレスとなって(軽)犯罪を誘発しそうに思えるが、シミュレーション仏教の枠組では、憎しみは同時に捕まえる側にも作用して、捕まる人間が増えるのが先になるため、捕まることを嫌って憎しみが増えただけでは犯罪が増えないと考えた。その代わり、生者の憎しみに関係ない死者の憎しみの僧によるコントロールが、(軽)犯罪数に作用するのだ…と考えた。

JRF2021/10/19360

ところが、キリスト教成立時のように、市民と警察などの支配層の間で憎しみが共有されていないと、このような回路が寸断される。憎しみが犯罪を生みそれがまた憎しみを生むという負の連鎖に陥る。このとき、一般には、憎しみが「荒廃世界の幻想」を作り犯罪を増やすことになるが、信者に選民思想…選ばれた者のみが救われるという思想があれば、他者の憎しみ…「荒廃世界の幻想」に影響されにくくなって、信者たちだけは犯罪を犯すことから免れえるのではないか。…というところまで考えていた。

JRF2021/10/16978

そこから先だが…、まず、信者の選民思想を刺激することは、同時に終末思想も刺激することになる。すると、終末を引き寄せようとする者が増え、彼らが、信者以外の犯罪を煽ろうとする…とできるのではないか。それに対し、問題があるとされると、教会側は、神学者にリソースを割き、終末を引き寄せる者のコントロールをするようになる。

JRF2021/10/12541

すると、煽りが少なくなったため、憎しみが犯罪を増す回路が若干弱まる。犯罪が減った「ご利益」を見て、支配層がキリスト教に効果があることの確認が取れ、支配層にも宣教が成功しやすくなる。すると、市民の憎しみが支配層の憎しみになる回路が接続され、憎しみが犯罪増につながりにくくなる。スパイラルが逆回転し、憎しみ自体も少なくなる。…

…と、風が吹けば桶屋が儲かる的な強引なロジックだが、一応このようなことは言えるのではないか。

JRF2021/10/18611

結果的には(神学者含む)僧が(相対的に)多いことが犯罪減につながった…と仏教でもキリスト教でもできるが、僧の役割に違いがある。仏教では、僧は管理された墓=記録を重視しているのに対し、キリスト教では、神学者の哲学のようなものが、キーになっている。

仏教では記録を重視すると考えたが、実際にはキリスト教のほうが記録が残っているようだ。それはなぜか? 仏教は、管理してない墓に執着せず忘れることが求められたのに対し、キリスト教では特にそういうこともなく、記録が残らないこともあったが残ることも排除されなかったということではないか。

JRF2021/10/11959

……。

……。

イスラムについても少し考える。イスラムは、改宗者に死を与える「力の宗教」で、ある意味効率的で合理的な面を持ち、効率性という意味では政教一致もそうなのだろう。問題は、どうしてそれがイスラムという宗教でしか成し遂げられなかったかという点。何がイスラムの成立を可能にしたのか? 何が戒律を受け容れ、守らせているのか?

JRF2021/10/18640

私は以前は、紙幣の誕生がイスラムに絡んでいると見ていた。[wikipedia: 貨幣史] にあるように、実際にはイスラムは紙幣をなかなか受け容れず、イスラムの誕生と紙幣の誕生は時期的にだいぶ離れたものではあるのだが、いずれ紙幣が必要になるそのような条件の中で、効率的な宗教・政治体制が求められていたのではないか。貨幣の問題がイスラムの成立に絡んでいたのではないか。…と考えていたことがある。

JRF2021/10/15401

しかし、そうであったとしても、イスラムの教えそのものはそこからは出て来ない。そもそも貨幣の問題はどこでも問題であったはずだ。…結局、私は何もわかっていない。

あと、そこと接するインドがなぜ、イスラム化されなかったかにも興味がある。宗教的に何がどうやって防いだのか?

この辺は、私が生きてる間に答えを得ることができるだろうか? …という感じの穏やかな疑問。

JRF2021/10/18501

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