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cocolog:93225056

宮坂宥勝 訳注『密教経典』を読んだ。自らの中には、進化を経て得てきた「悪しきもの」もあるはずである。ただ、それはある時代には必要だったもので、その意味では善で清いものだ。だから性も清い…というのが密教の立場なのだろう。 (JRF 3641)

JRF 2022年1月 1日 (土)

『密教経典』(宮坂 宥勝 訳注, 講談社学術文庫 2062, 2011年)
https://www.amazon.co.jp/dp/406292062X
https://7net.omni7.jp/detail/1106052484

JRF2022/1/10687

2021年12月12日ごろ、ポリコレまたはフェミニズムの文脈でキリスト教的な創作的性表現の規制に対し、仏教では性表現が認められているとして、理趣経を紹介するものがあった。スラドだったか、Togetter か Twitter か…そういうサイトのユーザーのコメントだったと思うのだが、今探すとどうしても見つからない…。

とにかく、それで関心を持って探したところ。この本に辿り着いた。

私は、「シミュレーション仏教」という一連のプログラムを作っていて、今は一段落してそれのドキュメントとして、電子本を書いている途中。

JRF2022/1/10470

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

JRF2022/1/12830

「シミュレーション仏教」をやる前、仏教経典をいろいろ読んでおり([cocolog:92148121] など)、また一段落して、田上太秀の仏教ガイドをいろいろ読んだりした([cocolog:93013747] など)。その流れで、ある意味、「シミュレーション仏教」の答え合わせ的な意識を持って、この本を読むことになった。

この本を読みはじめたころに次のようなメモを書いた。

JRF2022/1/10087

……。

○ 2021-12-25T12:18:06Z

私の属する宗教は何なのだろう?

私はほんの少し転べばキリスト教徒になっていただろう。ただ、信に入るより先に神学を学んでおり、カトリックもプロテスタントもどちらも一長一短があってどちらかに属すというのは考えられなかった。だから、神学から教会の必要性はわかっているが、現在ある教会に属することはできないし、伝統の大切さも痛感しているから、新派に属したり立ち上げたりすることは是としえない。ただ、キリスト教(またはユダヤ教・イスラム教などの一神教)に親しみを持っていることは確かだ。

JRF2022/1/19591

同時に、私は「シミュレーション仏教」をやるぐらい仏教にも関心があり、おそらく私の葬式は(何もしなければ)家族葬で仏教式になると思う。仏教からは離れがたい。

私はキリストの復活を信じる仏教哲学者で、本地垂迹的であってもそうでなくても様々な古い神々にも親しみを持ち、(天)職としては前に言ったように易者で、タロットのゲームを広めようとしている。様々な矛盾を鯨飲するある意味最悪のシンクレティスト(?, シンクレティズム信者のこと)ということになろう。

JRF2022/1/15996

党派を組まないからそれでやっていけてるが、しかし、党派に属することなくいつまでもおれるかは微妙なところだろう。

JRF2022/1/13186

……。

この本を読んで思ったのは、仏教的心の追及は奧深く、普通の仏教徒は、それを続けていれば、キリスト教の詳細な神学的議論に関心を持つヒマなどないということ。

僧でもないのに教学や神学を学び、どちらとも態度を決めかねている私は、仏教哲学者であるとしても「外道」でしかない。

現代、普通の人は、美しく生きようと思ったら、仏教であれキリスト教であれ、宗教家に必要とされるような思想にとらわれてはいけないのだろう。そういうことは僧などにまかせて、生活を大事にすべきだ。

JRF2022/1/15160

……。

……。

この先は引用しながらコメントしていく。

まずは、『大日経 入真言門住心品第一』について。この本には「大日経」があると書かれていているが、全品ではなく、この「住心品」だけが載っている。

JRF2022/1/19364

……。

>(如来の智慧という) すばらしい財宝の王がおさめられている楼閣は、高くて無限だからその中間がない。<(p.14)

「高くて無限だからその中間がない」という現代数学的な響き。これが密教なのか…とまず驚いた。

JRF2022/1/16961

……。

>『理趣経』巻上に(…)「(…)親[まのあた]り五智金剛杵を受け、すなわち灌頂を与う。(…)」<(p.24, 注)

金剛杵的衝撃を受けたあと、水を注いだということかもしれないが、読んで最初に得た印象は、金剛杵で眉間を割られてそこから血が吹き出し、それにより灌頂する…というイメージ。ヨハネ受難曲で鞭打たれたイエスの背中の血が虹になるというイメージがあるが、それを思い出した。

JRF2022/1/19562

……。

>(…秘密主は世尊に問う…)「(…)尊き師よ。このような智慧は、何を原因とし、何が根であり、何が究極的なものであるか」と。(…世尊は答える…)「(…)さとりを求める心(菩提心)を原因とし、大いなるあわれみ(大悲)を根とし、手だて(方便)を究極的なものとするのである」と。<(p.29-31)

ここがこの品の中心的な部分か。

JRF2022/1/13553

……。

>(…『大智度論』巻一…)「(…)我が第一甚深の法は、微妙にして無量無数・不可思議なり。(…)一切智人にあらずんば、すなわち解すること能わず。故に信力を以て初めとし、慧等によって、しかも初めて仏法に入るにはあらず」<(p.31, 注)

無限を識るには、信から入るしかない…と。智慧を学ぼうとしてもそれは有限でしかなく、信から入って仏と一体となるしかないということだろう。仏教の真理は、人は、ある意味、一生のうちで極められるものではない。…と。

JRF2022/1/15978

キリスト教では、人に必要なことならば、一生のうちに極められないようには神は人を創造してないとなるのだろう。個人にできることは有限としても、いずれ人の世の終末が訪れれば、そのときには、それまでの大勢の人々により人の領域は十分広く外に向かっており、神の国において無限の広がりを持った世界に通ずるのかもしれない。まぁ、この先の未来は、AI による把握も含めた「一生のうち」ということになるのかもしれないが。

JRF2022/1/11534

……。

>虚空の相はこれ菩提なり。(…)大空のかたちはとりもなおさず、さとり(のすがた)である。<(p.34)

現代の我々は宇宙の諸相を知った。「シミュレーション仏教」のように外観してある種のモデルを見出すこともできる。モデルのとり方はいろいろありうる。ある意味、さとりにもいろいろあるのだろう。しかし、いろいろあってもさとりは一味…>仏の教えはいろいろ味わい方はあるけれど、結局、一味、料理の基本となっている塩味のような一味である<([aboutme:125348])…ということだろう。

JRF2022/1/11818

>仏のおっしゃられるのには、「秘密主よ。自らの心に、さとりと全智をたずね求めるのである。なぜであるかというならば、(人は誰であっても、自らの心というものの)本来の性質は清らかなものであるからである。(…)」<(p.35)

外の世界の知も、自分の心の中のものでしかない。

JRF2022/1/16411

自らの中には、進化を経て得てきた「悪しきもの」もあるはずである。ただ、それはある時代には必要だったもので、その意味では善で清いものだ。実はそれは外の世界にある「悪しきもの」も同じかもしれない。…ということではないか、この部分を現代風に言えば。

こういう考え方は善悪二元論の影響の強い西洋よりはインドより東の東洋の考え方かもしれない。

JRF2022/1/12628

……。

>心は内に在らず、外に在らず、及び両中間にも心は不可得なり。<(p.36)

JRF2022/1/14894

ここでいう心は、知や理解ではない。心は縁起するもので己の中にとどまるものでもない。だからといって、とらえどころのないものこそ心…というわけでもない。仏教では、概念を不可知論的にのみ置くことをヨシとしない。それは迷いに人を置き去りにすることだ。仏教は、ちゃんとモデル化し、たとえば十二因縁論などにする。それは辿り着ける真理ではなく、教えられねばわからないものである。迷うものからすれば間に合わせの命題にしか思えないかもしれないが、悟っていない者にも正しいとして問題ないことが顕らかとなっている真理なのである。そこに「仏教」の意義がある。

JRF2022/1/14773

……。

>菩薩は、ここに住して仏道を修め学ぶならば、長い間つとめなくて、(…)まさしく五種の超人的能力を発揮し(…)<(p.43)

訳注者は迷信的力とは区別したいようだが、ここは迷信的力のことだろう。迷信をあえて否定していない。

JRF2022/1/16084

迷信的力は現実においては偶然的なもの以外には実現しないものだ。しかし、修行者はどういう方向に理想があるかはその力の説明から理解できるようになる。はじめから諦めているようでは何も見えない。仏教は、望みを否定し、修行する前のすべての感覚を忘れることを促すような死の哲学ではない。

願いがすべて成就するということは、願いそのものがそもそも保守的なものであった、そういう願いしかないように修行していったということかもしれない。しかし、より良いことが成就するよう修行する中で、願いも深化(進化?)していくはずである。

JRF2022/1/13012

何より奇跡を信じて、すぐ修行に入ることが吉なのであろう。ことさら学ぼうとするよりも信から入るべし。

JRF2022/1/16714

……。

>供養の行為[おこない]を修行して、これによって初めてさとりを求める心が発現する。<(p.51)

仏教を学ぶには供養からはじめないといけないのだろう。それは信に入るということで、そのはじめは僧の生活を支えることが大事なのだろう。教学や知慧ではなく。

JRF2022/1/16169

……。

>以上(…)三十種のインドの哲学諸派の説が紹介されたことになる。これらはすべて因果の理法にくらく、実体的自我をたてて、それに執われるものとして批判される。<(p.56, 注)

仏教は、縁起と無我で、心も縁起でそこに自我があると思うそれも縁起でしかない…と。まぁ、しかし、元々の釈尊の教えは、涅槃に入ると魂みたいなものはないとするから、常住不滅のアートマンはない…としても、法としては遺りうるし、涅槃に入るわけでない場合は、転生時の本人たるべき魂のようなものはありうる。…ということだとは思うが、ここでは、さらに無我の方向に進んでいる感じか。

JRF2022/1/19787

……。

>どのようなものが(19)女の心であるかというと、(過度の)欲望にしたがう。<(p.71)

フェミニストがしばしば、仏教経典における女性蔑視を批判してないと批判することがあるので、挙げておく。

ここは著者が男性修行者だから、自分の抑えた性欲の敵である女性をこういったまでのことで、著者が女性修行者であれば、男の心を欲望にしたがうとして問題なかった部分であろう。ここはわかりやすさ重視の列挙の部分だから。

JRF2022/1/12626

……。

>どのようなものが(22)農夫の心であるかというと、(農耕のことについて)まず広く聞いてから後に求めるもの(すなわち作業)にしたがう(真言の実践者もまた、まず指導者について広く学んでから、後に実践しようとすれば、一生は学ぶだけで終り、ついに実践修行のときをなくしてしまう)。<(p.72)

まず信から入り、修行が完成するのを待たずに、学びながら実践していくのが良い…ということ。菩薩を重視し、本来は悟りにほぼ永劫のときがかかるとする大乗らしい考え方。

JRF2022/1/16799

……。

>秘密主よ、大乗の行あり。(…)存在するところのものには実体性がない。(…)秘密主よ。(…)すべてのものは実体性がないという観念そのものも捨てれば心は自由自在(…)。<(p.87-88)

唯心論・観念論・世界のすべては自分の妄想でしかない…といった論に近いところを通過すべし、しかるのちにそれを捨てるべしということか。ただ、自分の心だけは確実に存在する(我思うゆえに我あり?)とするわけでもないから、大乗行は、唯心論などとも少し違うのかな…。

JRF2022/1/19923

……。

>(…真言の実践者すなわち金剛薩埵[こんごうさった]は…)あとに力を残す行為のはたらきと心の迷いとを滅して解脱[さとり]を得ても、しかもあとに力を残す行為のはたらきと心の迷いとを具えている。<(p.91)

>(…一行『大日経疏』巻第二…)「行者、一切の業煩悩を解脱する時に、すなわち一切の業煩悩は仏事にあらざることなしと知る」<(p.92, 注)

煩悩も必要なもの…というのは、進化で得た「悪しきもの」も善なのだという上の解釈に連なるもので、密教的と言えるのかも。

JRF2022/1/14181

……。

>十善業道(…)(9)不瞋恚 感情的に怒るなかれ。<(p.97, 注)

私は普段は自分でも穏やかなほうだと思うのだが、しかし、コンピュータに関することだけは怒ってしまう。プログラムにおけるバグや、Microsoft や Google のヤリ口につい声を荒げてしまう。毎度、反省はするのだが…。

そういう「仕事」に責任感を持っていて、他はそうでない…ということなのか。単に、昔からの趣味なので、一家言が多いということなのか。

JRF2022/1/18604

……。

>(7)水月は、真言の菩薩の清らかな心には諸尊のさとりの世界のありさまが映じたりするが、それは水面に映る月影のようなものだと観ずる。<(p.99, 注)

私はときどき自分はエライんじゃないかと思いたくなって、人から賞賛される様子を想い浮かべたりする。もちろん、私はエラくないから、賞賛や注意を得られないのであるが、しかし、そういう妄想もときにはしないとモチベーションを維持しづらい。やむをえまい。

JRF2022/1/16487

……。

……。

次に『理趣経』について。

先に一点ググらないとわからなかったこと。「羯磨」とはカルマのことらしい。

JRF2022/1/11734

……。

>加持(…とは…) サンスクリット語アディシュターナの訳語。本来は神秘的な呪力を意味したが、密教では仏菩薩などが、不可思議な力のはたらくを加えて、生きとし生けるものを護ること。<(p.114, 注)

加持祈祷の「加持」ってそういう意味だったんだ…。持を加える…だから、忍耐とか護りのようなものを与えるのかと思ってた。

JRF2022/1/11751

……。

理趣経が邪教的に見られる性の肯定の部分は、最初のほうに現れる。

>いわゆる妙適清浄の句、これ菩薩の位なり。(…)いうところの性的快楽が本来清らかなものである、という成句(=地位)は、そのまま菩薩の立場である。<(p.118)

ここから、性に関する肯定が続く。

JRF2022/1/19420

>見清浄の句、これ菩薩の位なり。(…)異性を見ることが本来清らかであるという成句(=地位)はそのまま菩薩の立場である。<(p.118,119)

ここが、私がこの経を読むキッカケになった部分で性表現が許されると解釈できるという部分だろう。

JRF2022/1/16665

キリスト教では、性表現、性的妄想が禁じられるのは『マタイ 5:28』>しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 <…を典拠とし、強固なものだ。私は特に二次元の性表現が認められるよう↓のように解釈して、何とかこの強固さを緩めようとしているが、支持はない。

JRF2022/1/18321

[aboutme:116119]
>女の敵は、案外、女だよ。(…)エッチなことを想像するのも姦淫だという説があるけど、誰かが姦淫していると想像させる(噂話をひろめる)ほうがより重い「姦淫」だろう<。

JRF2022/1/12067

この理趣経の部分は上にあるとおり、>見清浄の句、これ菩薩の位なり。<のみで、なぜこれが「異性を見ると…」ということになるのかわかり辛い。ここら辺は全部こんなアッサリした感じなのを全部性に関するものとして訳しているので、おそらくサンスクリット語などの原典を見れば、または教学の伝統などから、こう訳すしかないないものなのだろう。

JRF2022/1/13703

ここら辺の結びは次のようなもので、なぜ性を肯定するかが語られる。

>右にのべたようなことがなぜいわれるか。およそ、この世の中にありとあらゆるもので、それ自体の本性が清らかでないものは一つとしてなく(ありとあらゆるもののそれ自体の本性ははもともと空の性質をもつものである)、だから、ましてやさとりの真実の智慧がまたどうして清らかでないことがあろうか。<(p.120)

JRF2022/1/16955

『大日経 住心品』のところでも似た議論があった。私の解釈としては、人は進化してきたもので悪といってもそれは(「シミュレーション仏教」で重視するところの)「生きなければならない」に必要な善であったということで、まして性は生き残るために発達してきたもので不善であるはずがない…といったことになるかと思う。もちろん、人にとってそれ(性行為など)以外の生は大きく、または人類が達するべき真理は大きく、それにとらわれて過ぎていてはダメであろうが。

JRF2022/1/11911

……。

ここから少し先に行ってそこから遡る。

>灌頂施・義利施・法施・資生施の四種施<(p.138, 注)

灌頂が智慧を開くことについて、そのなりゆきを語った部分があり、そこでなされる施[ほどこ]しが、この四種施である。

JRF2022/1/19272

この前の段落を読んだところ、私は、まず、「灌頂施」というのがキリスト教の洗礼のように、信者をまず信者として受け容れることと考える。次に、「義利施」の義利は義理人情の義理で、「シミュレーション仏教」で老人やみなしごの扶養を僧などが斡旋するようなことと思う。「法施」の法は、法律のようなもので、ただ涅槃に致ったものが宇宙の法になる…ということも含むものだと思う。そして「資生施」は、段落に書いてるところを引用すると>生活のたすけとなる飲食物や臥具などを施し与えること<…である。

JRF2022/1/16312

修行する宗教者は、俗人をまず信者とし、その組織の中で扶養などの関係性を作ってあげ、徐々に法を定め、法に従わせるようにする。ここまでは資力があまりなくてもできるので、そういうことをまずする。しかるのちでいいから、物質的な生活も満足に導いてあげるべきだ。…ということではないか。

ここからは離れた前の部分に次のような文がある。

JRF2022/1/10018

>金剛杵を手にする者よ。もしもこの四つのものを生み出す教えを聞いて、本経を声をあげて読み、教えを受けおぼえるならば、たとえ今まさに量り知れないほどの重い罪を犯したとしても、きっとよくすべての迷いの世界である悪しき所を超越して、中略、まさしくさとりを得る場所に坐して、速やかによく無上の正しい覚りの境地を体得することができる。<(p.126,127)

「量り知れないほどの重い罪を犯した」者でもよいと。では、「四つのものを生み出す教え」=「四出生の法」とはいかなるものか。それはこの前項に次のように書かれている。

JRF2022/1/11455

>いわゆる金剛平等の現等覚なり。大菩提は金剛堅固なるを以ての故なり。義平等の現等覚なり。大菩提は一義利なるを以ての故なり。法平等の現等覚なり。大菩提は自性清浄なるを以ての故なり。一切業平等の現等覚なり。一切分別無分別の性なるを以ての故なり。<(p.125)

これを私なりに解釈しよう。金剛平等はまずあとにまわし…。

JRF2022/1/10458

義平等は、義利=義理が一つだから、さとった者には、扶養する家族が一つ…「人類皆兄弟」…と考えている…ということではないか。

法平等は、公平無私に法を作れる、または法になれる人物であれということではないか。ここは「悪人」を自覚する者には難しいかもしれないが、この経を唱え、真言を唱えているときは、そういう修行にある間は、自らがそういう私になっていると考えてもいいということではないか。

JRF2022/1/15834

一切業平等は、罪・業・カルマを負ってしまうというのは、一種、天災のようなやむをえなかったものと考えるということではないか。それもある時代はある種の善であった。…と。もちろん、現時点で、悪いは悪いとしてそこから離れる自分がなければならないが、「罪を憎んで人を憎まず」…ということではないか。

そして、金剛平等は、以上のようになった自分は動じない…動じてはいけない。揺るがない自分でなければならない。…ということではないか。

JRF2022/1/12295

なお、「金剛平等」という句は p.146 に性に絡んでまた別の意味らしく出てくるが、そこについてはここには引用しない。性に関する部分は意外に少なく、上で引用した最初のほうと、そこぐらいしかほぼない。もしかすると、ちゃんと読める人には性に関する示唆が他の部分でも読めるのかもしれないが、私にはわからなかった。

JRF2022/1/13715

……。

>(…)忿怒[ふんぬ]は平等なり。(…)忿怒は調伏なり。(…)忿怒は法性なり。(…)忿怒は金剛性なり。(…)<(p.152)

性の次は怒りの肯定…義理が出てきたり、悪人への門戸の開き方も考えると、どうもこの理趣経というのは、ヤクザの経典になっているのではないかという気がする。ヤクザの教えの源流の一つなのかもしれない。

道に外れがちなものを仏教に誘うための経という側面があるということだろうか。

JRF2022/1/18507

……。

……。

次に『大日経疏 (抄)』について。

これは大日経の注解で「抄」は抄録=はっしょって集録したものである。住心品の部分のみ載っている。

JRF2022/1/11901

……。

>世の中のもののさまざまなはたらきは太陽の光によってなされることができるのである。<(p.179)

石油も(有機起源説にしたがえば)元は植物で、そのエネルギーは過去の太陽エネルギーで、地上で人が使うエネルギーは元は太陽エネルギーというのがほとんどである。ただ、地震は地熱などの活動から起こるし、原子力のようなものもあり、特に現代はエネルギーは太陽エネルギーだけとは言い難い感じになっている。

JRF2022/1/19082

……。

>(応化身)は、大日如来の身体、あるいは言葉、あるいは意[こころ]より生じたものではない。<(p.184)

…ということは、応化身は大日如来本人そのものという意味だろうか?

JRF2022/1/14902

>本地法身 本地身ともいう。加持身の対。あらゆるものの根本となる真実相の法身、永遠不変の大日如来。本地身は真理の教えを説くとするのが古義真言宗、本地身は説かず加持身が説くとするのが新義真言宗の立場。<(p.195, 注)

キリスト教のフィリオクェ論争みたいだね。新義真言宗が「本地身は説くが加持身も説く」であった場合はまさにそんな感じだが、本地身が説かないというのはちょっと違うか。教団の価値をどれぐらいに見るか…という部分なのだろうか。

JRF2022/1/17723

……。

>この教えをいただく者は、行ずる心がなくてしかも自然に行ないにかない、到達する心がないのに、自然の到達する。<(p.219)

浄土宗的な易行…というわけでないとすれば、キリスト教予定説的に、修業者ならば行・到をしているものだ…といった感じなのだろうか。

JRF2022/1/15960

……。

>三業 身・口・意の三業で、身体と言葉と意[こころ]のはたらき。密教では、迷えるなみの者も本質的には仏のおこないと言葉とこころをもつとみるので、とくに三密、すなわちこれらを三つの秘密のはたらきという。<(p.225)

「迷えるなみの者」の中から、わざと悪におもむくもの=神を試す者があらわれたときどうするのだろう? だから、そうならないよう秘密にするのだろうか?

JRF2022/1/17962

……。

>もとよりこれらは同一のすがたをとっているからして、自らの心(自心)・大空(虚空)・さとりの智慧(菩提)という三つの名があるというだけである。<(p.261)

三つが一つというと、キリスト教では神=キリスト=聖霊の三位一体だが、神が虚空として、自心=キリスト・菩提=聖霊なのか、自心=聖霊・菩提=キリストなのか…。いや、このあてはめはうまくいかないな。

JRF2022/1/18521

>不壊[ふえ]を以ての故に、亦復[また]悲[ひ]を根本とし、方便波羅蜜を満足することを得。<(p.260)

ここら辺が訳を読んでもよくわからない。

JRF2022/1/17506

さとりの智慧(菩提)から慈悲が出て、それが心と虚空=自然に作用して、願いなどを成就する(方便波羅蜜を満足する)ように見えるが、菩提と心と虚空は一体なので、成就してもどれかが失なわれるわけでも、足されるわけでもなく、ありのままの姿のままである…といったことなのだろうか。つまり、上で私が書いた唯心論的な部分のごとく、すべて心(が描いたもの)だから思いのままに成就するのだ…成就する思いしか浮かばせないのだ…といった感じなのだろうか。

JRF2022/1/14358

……。

>竜樹の『十二門論』(…)「もし、自在(主宰神)が万物を作らば、何処[いずこ]に住して万物を作るとなすや、この住処はこれ自在の作となすや、これ他の作となすや、もし自在の作ならば、何処に住して作るとなすや。もし余処に住して作らば、余処はまた誰の作なるか。かくの如くならば、すなわち無窮なり。もし他が作ならばすなわちこの自在あり。このこと然らず。この故に、世間の万物は自在の作にあらず。(…)」<(p.281, 注)

JRF2022/1/14205

宇宙創世論または次元創世論ではじまりはあるかという問題。創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのか…と。

JRF2022/1/15143

でもね、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうけど。

JRF2022/1/19158

少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それは無限の中の一部かもしれない…。

結局これはどちらもありうる話なのだと思う。

JRF2022/1/12634

しかも、忽然と創造される話に過去の創造が出てきたが、過去を未来につないで円環にすることも考えれるかもしれない。いろんな時代の創造が円環のように閉じる。円というのは放射上に向こう側に線を引くこともでき、その線に沿って、例えばあるところの色が逆になった上で別のところの音楽になるといった影響のしかたもあるかもしれない。それは十二支のように規則的に並ぶかもしれないし、十二星座のように大きかったり小さかったりする「時代」が並ぶかもしれない。円環が何度もまわりながら、線を太くするように創造がなされていく…。

JRF2022/1/14878

星は独り輝くというメタファからは、世界がライプニッツのモナドのように独り閉じている独覚者的な時空があり、それを観測することで何がしかの影響がある世界というのもあるかもしれない。物質的に不完全なイメージの力…イデアが強い世界もあるかもしれない。

JRF2022/1/16716

円環と忽然と無限が複雑にからみ合うことも考えられる。しかもそれは固定されたものではないとすれば、それ自身が一個の生物の姿をしているかもしれない。いや、複数の動物でもいい…となると、亀と象が出てくるような「古代インドの宇宙観」も間違いではないのかもしれない。

《【誤解だった】古代インド人は蛇と亀とゾウが地球を支えているとは考えていなかった - Togetter》
https://togetter.com/li/1152069

JRF2022/1/10698

……。

……。

次に『理趣釈』について。

『理趣経』の注釈で、曼荼羅の描き方に詳しい。

JRF2022/1/18963

……。

>蔵識のうちにあって、堅くて金剛のように摧[くだ]きがたい煩悩の余習を修道によって断ち切り、本源的な空をさとる金剛のように強固な智慧を起こす密教の深遠な瞑想の境地によって、法身の光明遍く照らす毘盧遮那如来をさとり得るのである。<(p.324)

『理趣釈』には、私が『理趣経』に感じた「易行」的雰囲気は薄い。技術的な曼荼羅論が多く、特に難しく思う。まずしっかりとした修行を求めているように思う。

JRF2022/1/16076

……。

>だからさまざまな経典は、この世界はただ心の現われにすぎないこと[三界唯心]を説き、心の清らかさによって、生きとし生けるものは清らかとなり、心の汚染によって生きとし生けるものは汚れに染まる。<(p.342)

唯心論であることがハッキリ表明され、この点はわかりやすい。イメージの力が大事なので、曼荼羅が大事という理路なのだろう。

JRF2022/1/17902

……。

理趣経の次々と性行為などを認める部分、その注釈は次のような感じになる。

>「欲箭清浄の句云々」とは、欲金剛の瞑想の境地を修めることによって、「欲箭清浄の句」を得るということである。これによって欲金剛菩薩の位を得る。<(p.3445)

このように「…清浄の句」を、ある金剛の名に結び付ける文だけが続く。それが性に関するものだというものは、最初の説明にしか付さない。そして、ここに挙げられる金剛について、曼荼羅の描き方などをこの後説いていく。

あたかも、曼荼羅を空想することが、性行為の代わりにかるかのごとしである。

JRF2022/1/18631

……。

>我に二種あり、いわゆる人我・法我にして、この二種は皆これ妄情の所執なり。名づけて増益の辺となす。もし損減・増益を離るれば、すなわち中道に契[かな]う。<(p.358)

>人我法我 人我は、個人存在としての自我が実在するとみる実体的自我。法我は、存在するものは固定的に実在するとみる実体的存在。これら両者の実在性を否定するのが、大乗および密教の立場である。<(p.360, 注)

JRF2022/1/18429

「常住不滅のアートマンはない…としても、法としては遺りうる」と上で書いたが、これが法我にあたるのかもしれない。また、「転生時の本人たるべき魂」…とも書いたが、因果応報で人に善行を動機付けるため、転生を認める場合、転生する自分…魂のようなもの…という概念が必要になる。これが人我なのではないか。

JRF2022/1/19838

それらは唯物論的に考えれば実在しておらず、バーチャルな真理でしかない。しかし、仏教というのは、そういった唯物論を超えたところにあり、人我・法我をまったく否定してしまうのも間違いなのではないだろうか。

JRF2022/1/19411

「シミュレーション仏教」では、転生がなくても人が罪を犯しにくいのは、牢獄があって捕まるからである。そこには捕まえる人がいて、そして、その典拠となる法がある。これがあるから、人我・法我という考えが薄くても世の中が成り立つ。そういう世の中になっていくべきだという見解が、「大乗および密教の立場」に影響しているのかもしれない。

JRF2022/1/14943

しかし、人が煩悩に染まることで、多くの人が捕まったり、必要以上に罰や、厳しい法を求めることもあるだろう。そういうときは、人我・法我というバーチャルな真理=方便に戻ることもしかたないのではないか。もちろん、人が煩悩に染まること自体を仏教のその他の真理や方便を使って無くしていくべきだとしても。

JRF2022/1/18948

釈尊も、人我・法我を直接ヨシとはしなかったかもしれないが、涅槃の際に、自灯明・法灯明という似たものを述べているではないか。それらは空かもしれないが方便としては残すべきだろう。これも善いものとするのが、大日経 住心品などから導ける密教的立場ではないか。

JRF2022/1/12650

……。

>ある時は、他者の身体に吽[うん]字の五股金剛杵を観想せよ。中央の把処に十六大菩薩を観想し、自らの金剛杵をもって、かの蓮華に与える。(金剛杵と蓮華の)二体が密接に結びあって瞑想と智慧とになる。だから、「瑜伽広品」のなかに、かくされた意図をもって、男女が性交して、人の本性を汚す五種の対象がそのまま大いなる仏の事[わざ]を成就することを説く。<(p.401-402)

JRF2022/1/14664

金剛杵を男根に、蓮華を女陰に見たてる…と。これまでもそうだったのだろうか…。そんなふうには思えないが。こういうハッキリ性交が出てくるのは、理趣釈では、最初の羅列のところと、ここ以外ない感じ。

ところで、女陰と言えば観音様だが、蓮華もそうなんだね…。

JRF2022/1/12327

……。

>「灌頂施」とは、どのようなことか。深い瞑想の実践者は、自分自身が虚空蔵菩薩であると想うがよい。金剛宝をもってあらゆる如来を灌頂することである。「義利施」とは、仏教修行者やバラモンに修行のたすけとなる生活の道具を恵み施すことである。「法施」とは、施しのために姿を現わさずして天竜八部などのために教えを説くことなどである。「資生施」とは、畜生の類に施し与えることである。(なぜかというと、)修行者は虚空蔵菩薩の瞑想世界の実践を修めるからである。<(p.407)

JRF2022/1/13738

ここは、私の上の「理趣経」における四種施の解釈とはかなり異なる。もちろん、「理趣釈」のほうが正しいのだろう。ただ、注を読むと、かならずしも私の解釈も外していないのではないか…という気もする。

JRF2022/1/13835

>灌頂施 灌頂は、如来の五つの智慧を象徴する五箇の瓶の水を弟子の頭頂に灌いで仏の位を継承させる密教の儀式で、灌頂施は、灌頂によって得た宝部の智慧を施すこと、すなわち灌頂によって五つの智慧を開顕する意。

義利施 利益、また金銭などの財宝を施すこと。

法施 仏の説いた真理の教えを施すこと。

資生施 生活のたすけとなる飲食・臥具などのさまざまなものを施すこと。
<(p.407-408, 注)

JRF2022/1/16851

……。

>(…金剛輪菩薩の曼荼羅について…)瞑想をおこなう者が誓戒を破ったり、または密教の伝法の師で不正によって師の位を失なったとしても、この輪壇(曼荼羅)を制作することによって、そのままもとの密教の伝法の師の位に復帰し、すべての瞑想世界に関する真言を修めるならば、速やかに成就することを得る。<(p.431)

ここまで現世ご利益のハッキリした曼荼羅は他に書いていない。なぜこれだけこんなに即物的なのだろう?

JRF2022/1/18733

……。

……。

最後に『解説』から…。

JRF2022/1/18749

……。

大日経 住心品の補足として…。

>さとりとは要するに「ありのままに自らの心(の実相)を知ること」(如実知自心)である、とする。それはブッダグヒヤによれば、「自らの心の空性をさとること」である。<(p.487)

「シミュレーション仏教」の解説で、「空性」という言葉を使って、私の造語かと心配していたが、典拠があるようだ。私の使い方と、少し意味にズレがあるかもしれないが。

JRF2022/1/14276

……。

理趣経の補足として…。

JRF2022/1/11341

>(…理趣経について…)その内容とするところは、密教における永遠の理想像ともいうべき金剛薩埵の大楽三昧の世界を明らかにしたものである。大楽三昧というのは、大いなる絶対の安楽の境地であって、それはあらゆる存在するところのものが清らかな宇宙生命の活動そのものとして開けている絶対の風光をいう。たとえば、一般仏教(顕教)では断つべきものとされるわれわれの煩悩も、密教のさとりの立場からみるとき、それは宇宙生命の発現なのであって、取り除くべきものでなく、制御し浄化されるべきものである。したがって、大楽三昧においては捨つべきものも取るべきいかなるものも存しない。<(p.495)

JRF2022/1/13719

ここを読んで、この「ひとこと」では「進化」や「宇宙」の語が出てきたが、それが間違いでなかったという印象を抱く。

JRF2022/1/19713

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