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cocolog:93262666

師茂樹『最澄と徳一』を読んだ。因明と仏性と空に関する議論が興味深かった。 (JRF 8711)

JRF 2022年1月20日 (木)

『最澄と徳一 - 仏教史上最大の対決』(師 茂樹 著, 岩波新書 新赤版 1899, 2021年10月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4004318998
https://7net.omni7.jp/detail/1107233030

JRF2022/1/204179

↓の記事を読んで特に因明に興味を持ち購入した。

《今から1200年前、2人の僧侶の間で行われた“仏教史上最大の対決”の大論争…「三一権実諍論」ってなんだ? | 文春オンライン》
https://bunshun.jp/articles/-/51300

JRF2022/1/202512

私は現在、「シミュレーション仏教」(↓)に関する電子本を書こうとしている段階で、仏教に関する(安い)本をいくつか「答え合わせ」的にインプットとして読んでる。少し前は、理趣経などが載っている宮坂宥勝 訳注『密教経典』を読んだりしていた([cocolog:93225056])。

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

JRF2022/1/206021

この本は、「三一権実諍論」を扱うという。それは「三乗説と一乗説のどちらが方便の教えで、どちらが真実の教えなのか」を争った論争らしい。「シミュレーション仏教」をする過程で、法印に触れ([cocolog:93023146])、一実相印か三法印か四法印かという問題があって、それが気になっていたが、一と三だからよもやそれと関係があるのかと気になったのも本書を読んだ関心の大きな部分だった。ただそれは、結果的には関係がないようだった。(そう私は判断した。)

JRF2022/1/208680

さて、これからはいつものごとく、引用したあと私の考えを示していく。

なお、因明については記述が大きく煩瑣になったので、ページを分けた。このページでも少し言及するが、ぜひ↓も辿っていただきたい。

JRF2022/1/202473

[cocolog:93262667]
>仏教的因明的導出を可能にする様相一階述語論理を考えていたら、キリスト教の三位一体を否定する結果が導き出せてしまって驚いたが、さらによく検討したところ導出におかしいところがあってホッとした。<

JRF2022/1/209305

……。

>主流派(…部派…)の人々にとって、人々に教えを語り、導くことができるブッダ(仏陀、「目覚めた者」)は世界にたった一人、釈迦仏だけである。<(p.ii)

ここは歴史の記述なのだが、私はハッとした。私の理解は、大乗の広まった日本での「原始仏教」のこのところの動きに影響され、ブッダが一人という考え方がありえたことは、記憶のむこうに行っていた。原始仏教においては誰でも涅槃に入ることができ、涅槃に入ればブッダなのだ…という理解になっていた。それが違うということを思い出させてくれた。いろいろな考え方があったのだ。

JRF2022/1/200162

……。

三乗説とは p.ii によれば、釈迦の弟子とその後継者によって受け継がれ教えを聞くだけで阿羅漢になり涅槃に入ることを目指す声聞乗と、師から教えを聞くことによるのではなく独力で解脱して悟り涅槃に入る縁覚とよばれるゴールを目指す独覚乗と、多くの人に教えを説いて救うブッダを目指す菩薩乗があり、声聞乗と独覚乗はブッダにはならないという説であるらしい。

p.v からは、それとほぼ同じの五姓各別説が紹介されている。それによると…

JRF2022/1/208925

>唯識派の人々は、修行者の素質による違いを、家柄、血筋などを意味する種姓(ゴートラ) -- 現代でも使う「素性」の語源である -- という言葉を用いて表現した。声聞としての素質を持ち、修行の結果、輪廻からの解脱を得る声聞種姓、独覚になるための素質を持ち、同じく輪廻からの解脱を得る独覚種姓、菩薩としての素質を持ち、将来的にはブッダになる菩薩種姓である。これ以外に、複数の素質を持っているためゴールが不確定の不定姓や、どの素質も持っていない無性がいるという。<(p.v-vi)

JRF2022/1/207114

そして、これに対するのが一乗説で、>「生きとし生けるものはいずれブッダになれる」とする『法華経』や、「生きとし生けるものにはブッダとなる素質がある(一切衆生悉有仏性)」と説く『涅槃経』<(p.iv) の考え方である。

で、ここからが私の意見なのだが、まず、素質というのはいってみれば過去の可能性であって、素質はあったけど活かさなかったというのは普通にありえ、だから、仏性はあったが、ブッダにはならなかった…という者がいても良いはずとまず思う。

JRF2022/1/200941

しかし、ここでの議論を読んでいると、そういう考え方は仏性に関しては間違いで、仏性という素質がある者は、やがてブッダになるのが必然であり、ブッダにならなかったのなら、仏性がなかった…という理解になる感じだ。

その理解に沿って、じゃあ、例えば独覚について、すでに涅槃にいたり転生しないから、それ以上の修行はできず、だから、もうブッダにはならないゆえに仏性がなかった。…ということになる…というのが、五姓各別説になるということだが、そうとしか限らないものなのか。

JRF2022/1/205901

[cocolog:93225056] で、竜樹『十二門論』の宇宙論を批判する中で、>星は独り輝くというメタファからは、世界がライプニッツのモナドのように独り閉じている独覚者的な時空があり、それを観測することで何がしかの影響がある世界というのもあるかもしれない。<…と書いた。

JRF2022/1/201644

菩薩が、独覚または独覚が生きた環境に理を見出して、ブッダの教えに目覚めることがあるかもしれない。仮にその独覚がいなくても成り立つことでも、その独覚にことよせることがあるかもしれない。そういう他者の「廻向」によって、独覚もやがてブッダになることはありえないことなのだろうか。ここでいう「廻向」は通常の意味とは違うかもしれないが。

いや、それがありうるなら、無性のものはもちろん、謗法の魔王として扱われた者も、(逆縁的な)廻向によりブッダとなるかもしれない。

JRF2022/1/205538

[cocolog:93225056] でキリスト教と仏教の対比を少し考えたが、キリスト教の最後の審判的な考えも少し取り込めるかもしれない。三浦俊彦『多宇宙と輪廻転生 - 人間原理のパラドクス』の議論を受けてのものだが、この世界に人がいなくなる場合、または、生きる者がいなくなる場合というのもありえるかもしれない。そうなると、人に教えるブッダになるというのはそれ以上、不可能になるということだろうか?

JRF2022/1/205099

刺激的過ぎるかもしれないので、別の宇宙・世界での話としてもよいのだが、その宇宙における六道が滅びかかっているとしよう。するとすでにそれ以外の者が涅槃に達したのでなければ、転生先がなくなる者も出てくるわけだが、それでもブッダになれるということは、一人の人間が、複数の転生者よりなることも考えねばならないかもしれない。

それは一つの「魂」が全き人間であるということとは違い、それでもブッダになれるということは、部分的な「魂」からの廻向でブッダになるということもあるということだろう。

JRF2022/1/209412

ならば、世界が滅びていく中で、例えば、最後に花が咲くのが最終的な廻向となりブッダとなる者があることもありえるのではないだろうか。

JRF2022/1/201920

さらに言えば、宇宙の人口減があるなら、菩薩となって、十分に他者を救うということができなくなるから、そのために、独覚的な者となってからブッダになる必要も出てくるのではないか。独覚的に涅槃にあり、やがて来る廻向でブッダになることを目覚すことも、仏性を持つ者の自然なあり方の一つであったとはならないだろうか? あさましく他者の教えとなることをあえて目覚さない…そういう選択があとからよしとされることもありえるのではないだろうか。(もちろん、増える人口を支持し、そのもとで人に教えるために生きることを選択するのが基本的に良いことだとしても。)

JRF2022/1/202659

そして、そうやって終る世界・宇宙自体が、一つの独覚的世界であり、他の宇宙からの廻向を待つ存在であることもありうるのではないか。

または、そういう世界は最後の審判的に、神によって、生きとし生ける者がその全体としてブッダとされるのかもしれない。

(ちょっと私の書いた小説(↓)のことを思い出す。…)

《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970

JRF2022/1/206623

『大日経 住心品』([cocolog:93225056])では、修行者が奇蹟を起こせるようなことが書いていた。仏教は唯心論的だからそういうことが可能なのだという論法だった。しかし、もちろん、奇蹟は起こるものではない。モーセの奇蹟さえやがて物理的な奇蹟とされがちである。世界は、まるで奇蹟がないかのように進む。それこそが真だ。

keyword: モーセ

JRF2022/1/203081

ブッダになるという奇蹟のためには、奇蹟のないこの世界(六道も含む?)の中に因がないといけないかもしれない。例えば、最後に花が咲くという因でも良いかもしれないが。だとすると、ある世界が終ったことで別の世界に物理的に花を咲かせることができればそれだけで、その「ある世界」を構成していた生きものがブッダであったとされることもありえ得ないわけではないのではないか。

そのことによりやがてブッダとされる、そういう世界(六道)に住んでいるということが、仏性がある…ということなのかもしれない。

JRF2022/1/205911

実は統合失調症を経験した私にとって、奇蹟はありうるもので、ただ、この世界はやがて奇蹟があったことを拒絶する…という認識になる。奇蹟がなくても成り立つものしか、この世界では有効にならない。それはブッダになる…といった死後の世界的なものに関してまでも真実なのか、興味のあるところである。独覚的な者がこの世界で忘れ去られたのち再び世界に影響するのは奇蹟のようなことかもしれない。そのような奇蹟はあると考えてよいものなのか。

JRF2022/1/205927

……。

>『大仏頂経』(…)の一部で、あらゆる存在が空であることを証明する論証式が説かれている(…)。

真理においては、作られたもの(有為法)は空である。条件(縁)によって生ずるから、幻のように。

作られることがないもの(無為法)も、生じたり滅したりしないから、実体がない。空中の花のように。
<(p.46)

JRF2022/1/201508

有為法については、要は物理学は還元主義的にどこまでも還元できて、際限がないであろう…ということだと思う。

無為法については、命題などの論理・真実は、言われる前から存在しており、生じたり滅したりせず、実体があるわけではない…ということだと思う。

それを同じことだというのは、唯心論に立つ修行者が、まるで物理の奇蹟を起こせると言うことで、人々が教えに関心を抱くようにさせる、ためにする方便であると識るべきである。

JRF2022/1/200637

確かに、私は [cocolog:93225056] で、竜樹『十二門論』の宇宙論を批判する中で、無からの創造を言うときに、ある「真実的存在」がありうることが確定するとき忽然と世界がそれ以前から創造されることを認めており、それを敷衍すれば、無為法的な真実の導出から逆算して、有為法的な実体が生まれることもあると認めねばならないかもしれない。

JRF2022/1/208561

しかし、そういうことがこの世界でありうるとしても、それは物理学でやがて極小の世界に関して起きるだけのことだろう。有為法と無為法には両者には厳然とした違いがあり、空のあわいがあって、科学がやがてそこに到達することがあるとしても、仏教的修行がそれを方便として以外に活かせることはないであろう。

JRF2022/1/208538

ただ、科学でそういうことが発見されれば、原子の発見から原子爆弾につながったように、なにか大きな兵器に利用されて、人々の生活に影響することがないとまではいえない。…とは思うが、それは基本的に仏教のあずかり知らぬところだろう。

JRF2022/1/204043

……。

p.92 によると、ブッダの後継者達の説…アビダルマ…が、ブッダの教えの本質(法性)にかなう、という理由で、やがて仏説…「ブッダの言葉」とされた(アビダルマ仏説論)。それにより…、

>「(1) 現存する聖典に見られない理論でも、法性に叶えば仏説であり、(2) 隠没[おんもつ]した経の中に説かれていたかも知れず、(3) 自分の建てる「法性」と矛盾した仏説があっても未了義であると主張することができる」という「極端に言えば、任意の説を仏説とすることができる」ような枠組みができてしまった(本庄1989)。<(p.92)

JRF2022/1/202827

……。

因明という仏教論理学について。

> (…因明用語の…) 共許[きょうご]とは、論争において当事者である二者(…)の双方が承認しているという意味である。(…)共許とほぼ同じ意味の極成[ごくじょう]や、自教相違(自分がよりどころとする学説と矛盾する主張をする過失)、自語相違(自己矛盾する主張をする過失)、立已成の失(すでに立証されていることを主張する過失)といった因明用語(…がある…)。<(p.119-120)

因明については上で書いたように [cocolog:93262667] で書いた。

JRF2022/1/205476

そこでの議論を少し繰り返すが、論理学のもっとも基本的な三段論法には弱点がある。それは存在に関する三段論法には間違いが含まれやすいということである。

JRF2022/1/204754

<pre>
∃x.P(x)→Q(x) P(a)
-------------------------
Q(a)
</pre>

というのがその間違いである。(∃x.P(x)→Q(x) は「P(x) ならば Q(x) という x が存在する」と読む。)

JRF2022/1/202783

最近、スカートめくりに関して他のところで議論した([cocolog:93208056])ので、それをちょっと利用すると、まず、P(x) を「x が女子である」とし、Q(x) を「x はスカートめくりが楽しい」としよう。私は男だが、私が女子ならばスカートめくりが楽しいだろうと言える…つまり、∃x. P(x) → Q(x) は言えるわけである。

JRF2022/1/207050

そして、ある人 a が女子だっとしよう(つまり P(a))。上の「三段論法」から、Q(a) すなわち a もスカートめくりが楽しいと言える。…とするのは明らな間違いであろう。

では、これを少し弱めて「三段論法」の Q(a) を ◇Q(a) すなわち「Q(a) の可能性がある」に置きかえたらどうだろう?

JRF2022/1/208582

しかし、女子にとってはスカートめくりが楽しくないのは必然なのかもしれない。でも、仮に女子の中でスカートめくりが楽しいというもの(b)が一人でもいたとすればどうか、スカートめくりが楽しくないのが必然ということはなくなるだろう。よって、

JRF2022/1/207531

<pre>
∃x.P(x)→Q(x) P(a) P(b) Q(b)
-------------------------
◇Q(a)
</pre>

…これならば正しいのではないか。

こういうことを行いたかったのが、実は因明の最初の意図だったのではないか…というのが私が思ったことだった。

JRF2022/1/205418

P(x) が「x が人である」、Q(x) が「x がブッダになる」…とすれば、仏性に関する議論になる。

JRF2022/1/203990

また、上で挙げた「シミュレーション仏教」において、本目的三条件を満たすもののシミュレーションがある種の結論を導くこと、一貫性をもってそういう「モデル」を一つ作ることが、現実において、本目的三条件がある種の結論を導けることがあり得ないわけではないことを示すことになると考え、私がやったことを支持しようとした。それは、P(x) を「x が本目的三条件を満たす」とし Q(x) を「x がある種の結論を導く」ことを示す「因明」だったのではないか…と考えるようになった。

JRF2022/1/209585

この本の例…


主張(宗): あの山には火がある。
理由(因): 煙があるから。
同類例(同喩(…例喩…)): 煙があるところには必ず火がある。かまどのように。
<(p.125)

…も、これは「因明」としては過失があるらしいが…

JRF2022/1/205332

P(x) に「x には煙がある」、Q(x) に「x には火がある」とすれば、∃x.P(x)→Q(x) は、かまどについて、煙があるかまどに火があったことで成り立ち、また、特定のかまどを b として P(b)、Q(b) も成り立つ。だから、a を「あの山」として P(a) だから、Q(a) すなわち「あの山」に火があることを示した。そういう上の式の適用と言える。

JRF2022/1/207798

ただ、因明について書いた [cocolog:93262667] では、「偶然」を扱い新たな公理系を作る前の、通常使われている様相一階述語論理からの帰結では、そういう式は正しくない…というのが結論になってしまった。

JRF2022/1/201485

なぜなら、別の c があって、P(c) かつ ¬Q(c) つまり「Q(c) でない」とすると、まず上の式から a を c と置いて、◇Q(c) が導けるが、¬Q(c) はすなわち □¬Q(c) (必然的に Q(c) でない) だから、□¬Q(c) = ¬◇Q(c) (Q(c) の可能性はない)でもあり、 ◇Q(c) と ¬◇Q(c) が同時に成り立つのは矛盾となるからである。(ちなみに ◇Q(c) と ◇¬Q(c) なら同時に成り立っても問題はないのだが。)

JRF2022/1/207592

ここからの帰結として、「あり得ないわけではない」ということと、「可能性がある」には、差がある。…ということになる。P(a) のとき「Q(a) はあり得ないわけではない」(メタ論理的に Q(a) も同時に前提として矛盾が必ず生じるとは限らない)が、「Q(a) の可能性がある」とまで言ってしまうのは言い過ぎということである。

JRF2022/1/205123

そこから仏性とは「ブッダになる可能性がある」ということだが、「ブッダになることがあり得ないわけではない」…とすることと、「ブッダになる可能性がある」ということは論理的に区別すべき問題だということがわかる。

ただ、上の式がまったく成り立たないというのは私にとっては納得いく話ではなく、[cocolog:93262667] では「偶然」を扱うアヤシゲな議論がなされていく。

JRF2022/1/209792

そのアヤシゲな議論の途中で、「必然的にブッダにならない」という者がいることが、「たまたまブッダになる」ことを不可能にし、必然的にブッダになるか、必然的にブッダにならないかのどちらかでしかない…となるような体系もありうるのでは…と間違えた導出から考えたことがあった。つまり、「必然的にブッダにならない」者すなわち「無性」がいることが魅力的で、必要だと考えることが合理的と思える瞬間はあった。

JRF2022/1/205378

結論的には、P(x) を「x が人である」、Q(x) を「x がブッダになる」として、∃x. P(x)→□Q(x)) を、「ブラフマーが人であれば必然的にブッダである」から導き、人である釈尊がブッダであることから、すべての人にブッダになる可能性が開かれた…と言うのはアリではないかというもの。むしろ逆で、釈尊がブッダになったから、「ブラフマーが人であれば必然的にブッダである」ようになった。ブッダになるとはそのようなことである…ということかもしれないが。

JRF2022/1/204775

また、必然的にブッダにならない人がいたすると、P(x)→□Q(x) なるようなブラフマー的存在 x は、すべて、¬P(x) …人でないとなった。すべての人にブッダになる可能性があるかないかというのは、世界の始源の観方にすら影響があるということかもしれない。

JRF2022/1/202442

(P(x) を「x が人である」ではなく「x が実在である」としたほうが「悉有仏性」らしくなるが、すると P(x) 「ブラフマーが実在である」が真である可能性が出てくるのは少しやっかいか。まぁ、ここは、Q(x) が「x が神になる」として、創造神が人になれば必然的に神になるとした場合どうかというのも示唆したかったのでこうしたまでのこと。)

JRF2022/1/203865

……。

>大乗仏教徒にとって、仏教以外の宗教を信じている人を説得し、考えを変えてもらい、仏教に帰依させることができれば、それは救済活動であり、利他業である(他宗教の立場からすれば、余計なお世話かもしれないが)。したがって、因明を用いた問答は利他業なのである。<(p.130)

↓を思い出す。

JRF2022/1/201264

《『新約聖書』ひろい読み - イエスはサタンか - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_4.html
>しかし、サタンによって人と人が争っているならば、争い続けられるだけの余裕が、サタンの繁栄の余地を提供することになる。<

そういった争いがあることが、むしろ、人を呼びこむことによって党勢の拡大につながることもあるのだろう。

JRF2022/1/201012

……。

>究極の真理に至る道程には、言葉で解決すべき無数の問題が横たわっている。仏道を歩む者は、最後には言葉を捨てるとしても、それまでは言葉を使って正確に教理を理解し、言葉を使って高僧と問答し、言葉を使って誰かを説得しなければならない。問答で教理上の未解決問題を解こうとしていたこの時代の人々にとってはなおさらであろう。<(p.160-161)

これはこの本の裏の帯にも書かれていて名言である。

JRF2022/1/201371

私は独覚的に、高僧など師の説諭を受けてないのが恥ずかしい。インターネットでブログをしていれば、議論ができるだろうという甘い見通しが当初はあったが、その期待が無駄であると識らねばならぬとして十年以上過ぎた感じなのに、まだ、そういう態度を諦めきれないでいる。あさましい。他人に届くような言葉になっていないのも大きなところなのだが、その理由として、師を持たぬのも大きいのだろう。

JRF2022/1/207361

……。

>「悟りを聞く能力を欠く者」を意味するとされる一闡提はブッダになることができない<(p.183)

上で論理的に「必然的にブッダにならない」ことが意味があったのかもしれないといったことを書いた。ただ、それは議論の途中でその必要性は変化した。これが修行で目が覚めていく段階でも同じことがあるのかはよくわからない。そうなのかもしれないし、それはまったく的を外しているのかもしれない。

JRF2022/1/200927

……。

>(…)無神論なども含めた多様な宗教的立場のあいだの対話が大きな課題となっている。こういった社会において、一乗思想に基づき「すべての人は将来、必ずブッダになります」という理念をそのまま弘めようとすることは可能なのであろうか。もしかすると、現代社会においては、ブッダになること以外にも複数のゴールがある、と主張する五姓各別説のほうが適しているのかもしれない。<(p.206)

ブッダになるのだけがゴールではない…と。なるほど、そういう考え方もありうるのか。

JRF2022/1/205224

すべての人にブッダになる可能性はある、しかし、ブッダになるのだけがゴールではない。実際ブッダにならない人もいるが、それはブッダになる可能性がなかったということにはならない。そもそもブッダになる可能性があるかどうかで人を差別してはならない。ブッダになることを望むかどうかでも差別してはならない。

JRF2022/1/200950

ブッダになることが望ましいと思う者の中で、ブッダになることを望まなかった者も、廻向するなどしてブッダになったとみなすことはあるかもしれないが、それはブッダにならなかった者が差別されるべきだからではない。そうなるのは、望ましいと思う者が、すべての人がブッダになるべきという我を通したからである。しかし、本来は無我なのだから、その我にある意味大きな意味はなく、ブッダになることを望まなかった者は、望まないなりに自らが望んだとこを目指す「ありのまま」で良い。

JRF2022/1/209530

終末があるならすべてがブッダとなったとする者も、終末がないならすべてがブッダになりうるとする者も、そうでない者も含めたその全体が真如であり、ブラフマーが回帰したかのように、一つのブッダの身体となることが予定されているのかもしれない。その終末までまたは永遠を有限に体現したブッダの身体は一であり多である。

…といった感じになるのだろうか?

JRF2022/1/204514

……。

……。

追記。


仏教に最後の審判を取り入れる方向について。

仏教は、過去かなりの期間に渡って人が生き、この先もかなりの期間に渡って人が生き続けることを想定しがちだ。しかし、我々は人類の登場した過去がかなり昔のこととしても仏教が想像したほどには昔まで遡れないことも知っている。未来もかなり未来まで続くかもしれないが、仏教が想像したほどの未来までには届かないかもしれない。

JRF2022/2/60569

人類・世界が滅ぶかもしれない。そのときブッダになっても教えるべき人がいない・物がない。もし、それが別の新しい世界につながりうるというとき、それは記録などが残って…という唯物論的な継続ではなく、奇跡による継続ということになるだろう。そのような「奇跡」を認めるなら、なぜ、独覚に回向して彼がブッダになるような奇跡もないと言えるのか。そういうこともありうるのではないのか。…と思う。

JRF2022/2/65278

必然による転生も、滅びによってついえつつ、なお継続するなら、「奇跡」を介して継続して何が悪い。その「奇跡」は神的存在であったりもっと卑小な者の意志の偶然である…いや偶然だからこそ「奇跡」なのかもしれない。

法則の必然と意志の偶然がどのように絡みあっているかは定かではない。ここの議論は、[cocolog:93225056] で竜樹『十二門論』の宇宙論を批判する中ででてきた、無限に続く・続いてきた宇宙と、創造神と共に忽然と現れる宇宙の絡み合いに似ている。

JRF2022/2/60796

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