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梶山雄一『大乗仏教の誕生 - 「さとり」と「廻向」』を読んだ。悪業は必然的に人を地獄に駆る…人も神も、その業報の必然性の前にはまったく無力である、というそれまでのインドの宗教の鉄則であったのを、それを破って、業報の必然を曲げるのが「廻向」であるらしい。 (JRF 5211)

JRF 2022年2月11日 (金)

『大乗仏教の誕生 - 「さとり」と「廻向」』(梶山 雄一 著, 講談社学術文庫 2672, 2021年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4065237823
https://7net.omni7.jp/detail/1107199732

最初は、『「さとり」と「廻向」』(講談社現代新書, 1983年)として出て、今度は増補して『「さとり」と「廻向」 - 大乗仏教の成立』(人文書院, 1997年)として出たものを、さらに講談社に戻って出したのが今回の本になるらしい。

JRF2022/2/111292

……。

直近で、師茂樹『最澄と徳一』([cocolog:93262666])を読み、仏教に最後の審判を導入することを考える中で「廻向」に注目していたため、この本が Amazon のオススメに上がってきたとき気になって買ったのだった。

ただ、この本は、最後のところで、仏教の終末論に詳しく、仏教は歴史的にはイランのゾロアスター教から「最後の審判」をある意味取り入れてきたことが語られる。そういえば「末法思想」とかもあったなぁ…とそこでやっと私は思い出した。

JRF2022/2/110373

しかし、そのような仏教の終末論は、滅びを挟みつつ、基本的にずっと続いていくことを想定していて、人または有情の数が真に少なくなり、ブッダになることが(少し)無意味になることはあまり想定していないとはあいかわらず言えるのではないかとは思う。そういう場合のことを想定するのは、私の [cocolog:93262666] での議論の「独自性」なのではなかろうか。

JRF2022/2/112761

仏教の滅びの概念は、当時の西北インドの混乱した状況から想起されたことが、この本で示唆されるが、しかし、そこでも別の人種が支配者となり、その人種がその後、発展していくことは予想できた。しかし、現代は、エネルギーなどの問題から、真に人口減少社会を考えねばならず、その印象から来る滅びの感覚に対応しなければならないところに、現代的課題がある。そこに私は対応したかったということかもしれない。

JRF2022/2/118151

ただ、仏教はそういう「真の減少」みたいなのを実は考えておらず、(転生すれば)どこかでブッダになれるぐらい人口が将来に渡って確保される…と無意識的に考えているところが、仏教を希望の宗教としている面もあるのかもしれない。仏教はキリスト教徒からすると虚無主義で、死の宗教と見られがちだが、どこまでも人類が続くみたいな楽観論はそのうちに蔵していると言えるのかもしれない。

JRF2022/2/111266

……。

さて、ここからはいつものように「引用」してところどころ簡単なコメントを付けようと思う。

JRF2022/2/119847

……。

>空の思想は必然的に不二の思想に導いてゆく。もし A なるものに実体がなく、B なるものに実体がなければ、A と B はともに実体の空なるものとして、区別されず、分つことのできないものとなる。すなわち、不二であることになる。一見対立している二つのもの、たとえば煩悩とさとりは、ともに空であるから、本質的には不二である。業報によって生死流転すること、つまり輪廻と、業報輪廻からの解放である涅槃との二つも、区別できない、不二のものである。<(p.22)

JRF2022/2/115902

>阿弥陀仏はその恩寵 -- 廻向によって、人びとを業報輪廻の海から救いあげる。『般若経』はあらゆるもの、行為もその果報も実は空であることを説き、ひいては輪廻と涅槃とが一つであることを説いて、業報の法則を超越することを教える。阿弥陀仏も空の思想も、同じように、人びとを業報から解放することを目的としていたのである。<(p.23)

JRF2022/2/113631

>しかしそのような、功徳の内容あるいは方向の転換は、業も果も本質的には実体のない、空なるものであるからこそ可能となる。阿弥陀仏が自己の功徳を迷える人びとにめぐらすということは、仏も衆生もともに空であり、不二であるからできるのである。衆生が自分の善行の功徳をさとりに転換できるのも、功徳とさとりがともに空であり、不二であるからである。こうしてみると、空の思想は、廻向の思想に論理を与えたことがわかるのである。<(p.23)

肯定と否定の命題を同時に仮定すれば矛盾が生じ、矛盾からは何でも導ける。空とは不二の論理とはそのようなものではあるまい。

JRF2022/2/113703

何ものも実体がないと言えるところの論理的ステージから離れ、実体があるかどうかは別として何かに論理的意味を見出すステージに立てば、そこで肯定されるものと否定されるものを作ってその両者の混同は許されなくなる。そこで意味のあることを言わねばならない。このあたりは、因明を記号論理的に解くこと([cocolog:93262667])につき考えたことである。

JRF2022/2/114822

廻向という作用は、ある実体から実体へ向けてということが想定される。しかし、この実体という定義は仮初めのものでしかない(すなわち空である)。廻向は相互作用的であるため、どちらがどちらへ向けてというのはそれほど重要ではなく、廻向を逆向きにしたものを含んで実体を再定義できる。すると新しいものを含んで再定義されたものは、その再定義によりさとりに向かっているとされることも可能となるのではないか。

廻向に実は方向性がないこと、これが空と廻向をつなぐ鍵ではないだろうか。

JRF2022/2/110668

例えば、念仏することは、ある意味、阿弥陀仏への帰依であり、阿弥陀仏への廻向であるが、しかし、その念仏をしようと思ったこと実体が、阿弥陀仏からの廻向でもあるのだ…といったそういうこと。

JRF2022/2/110494

そこから、さとりを得ずに死んだ者もさとりを得られることが導けるのではないか。もちろん、生きて悟ることはすばらしく、生きて悟りを得る者がいるからこそ、その者が廻向して、または、他の者の廻向が賦活されて、死んだ者にさとりを得られるのだと思う。生きてブッダになる者がいることで、ブッダになるとはどういうことかがわかるという面もあろう。そして、ブッダになるということは、そうやって他のブッダを呼び覚まし、輝やかせることを自然に含むのだと思う。

JRF2022/2/119015

こういう論理は追善供養の正当化に使えるため、僧の職務を恣意的に増やし、その純粋さを穢すと考え、嫌う者もいるかもしれないが、生きて悟ろうとすることの大切さも忘れなければ、次代への無欲さを好む仏教である以上、そこまでヒドいことにはならないと私は考える。

JRF2022/2/112168

……。

>大乗仏教という車の両輪ともいえる阿弥陀仏信仰と空の思想が、実は業報輪廻の思想の超越という同じ目的をもって発展してくること、それは西暦紀元前後の外来民族のインド侵入と西アジア文化の流入とを契機として成立してくることを、本書において語りたい、とわたくしは思う。<(p.26)

文献学的関心が本書は強いということらしい。

JRF2022/2/112635

>福音書にあらわれるイエスをめぐる物語と、仏伝に見えるブッダをめぐる物語との比較研究が、1930年代以降、ほとんど忘れさられてしまった、ということの背景には、上述の仏教文献学の発展があった。19世紀以来の西欧の学者たちを夢中にさせたブッダの物語の多くは、文献学的操作で得られた最古層の仏伝にはほとんどあらわれない。すなわち、歴史的事実とはいえないからである。<(p.78)

昔、ブッダとイエスの関係とか…マンガかな…でよく聴いた気がするが、そういうのは一時はやって、その後下火になってたんだね。

JRF2022/2/118264

>アフラ・マズダーの創造したフワルナフ(…光輪…)は、ゾロアスター教の太陽神ミスラや女神アナーヒターにも与えられている。一方インドでは、ゴータマ・ブッダが光明を放ったという話も聞かれず、フワルナフのような光明思想ももともと存在しなかった。したがって、西暦紀元前後の経典、とくに大乗経典に光明思想が強くあらわれ、仏像に頭光や身光がつけられるようになったのは、イランのフワルナフに紀源をもつことはたしかであろう。(…)<(p.118)

阿弥陀仏とゾロアスター教との関係なんて、ジョーシキ…的に考えていたけど、そういうのは、この著者が言い出したことなのかな?

JRF2022/2/117911

……。

>悪業は必然的に人を地獄に駆る。人も神も、その業報の必然性の前にはまったく無力である、というのが、それまでのインドの宗教の鉄則であった。しかし、ヒンドゥー教の側のヴィシュヌ神もシヴァ神も、仏教の阿弥陀仏も、その鉄則を破って、業報を変える、という。業報を転換するということは、廻向と呼ばれる。<(p.137)

業報の必然を曲げる。「廻向」とはそういうことなのか!

JRF2022/2/111420

ただ、それは「最後の審判」的なものがあり、どこかで業報は尽きるからその帳尻を合わせる何かがあるということで出てきたということなのだろうか? いや、それは「廻向」というより「涅槃」ではないか? そもそも業報が尽きることがあるなら、最後に致らずとも尽くすことができる…と。

JRF2022/2/110020

いや、「最後の審判」はむしろ業報を無限に延長する。わずかに善であれば善の無限実体になり、悪であれば悪の無限実体となる。その善の無限実体があれば、そこに集合した過去的な有限実体の罪は偶然に近いものとして無視されうる。将来において無限になった実体から、同化(に近いこと)によって有限の罪を無化する。それが「廻向」ということなのだろうか?

JRF2022/2/116363

悪業が悪業を生み、結果無限の悪業と評価できる…とならなければ良い。そのためにはところどころで有限に尽きているほうが都合がよい。それが「涅槃」であり、そうした者は「最後の審判」のあとの無限において、「廻向」によって救われる。無限において救う実体が全体としてブッダ。

…という感じだろうか?

JRF2022/2/115699

……。

>以上においてわたくしは銀行預金について四つの性格を合げてきた。

(1) 物理的必然性 -- 預金と借金とは幸福と不幸とに量的に対応するということ。

(2) 自己責任性 -- 預金と借金とは持ち主だけのものであり、他人に権利も責任もないということ。

(3) 方向の転換 -- それにもかかわらず、自分の預金を他人に譲渡することができるということ。

(4) 内容の転換 -- 預金は、それを物質的・精神的なものに、内容的に転換できる、ということである。
<(p.143)

JRF2022/2/117093

大乗仏教においては、これが業報においても成り立つということらしい。

>内容転換の廻向は常に善業(の結果)を解脱や寿命に換えるのであって、悪業をなにか別のものに換えるということはないようである。それは預金はそれを家屋や宝物に換えることはできるが、借金を他のものに換えることができないのと同じである。<(p.150)

借金は、他の人に払ってもらって、借金をその人にまとめる…みたいなことはできる。念仏というのは、借金を阿弥陀仏に付け換え、阿弥陀仏の実体が善業で他の人に返したものをあとから、阿弥陀仏に修行で返す…ということではないか。

JRF2022/2/116802

>もっとも一般的な内容転換は、善業の果報を菩提さとり)に換える、という、いわゆる「菩提廻向」であって、これはブッダ以外の人にもできる。善業というものは、そのままにしておけば、幸福あるいは長寿という形で、善業をなした当人に返ってくる。その善業の果報の内容を転換して、無上菩提(このうえないさとり)に換えるというのが菩提廻向である。この際、換えられた無上菩提は、やはり善業をなした当人に返ってくるのであるから、(…)内容転換の廻向というべきものである。

JRF2022/2/111150

幸福とか長寿というものは世間的・世俗的なものであるが、さとり、というものは出世間的・超越的なものである。それを世間的なものを出世間的なものに、世俗的なものを超越的なものに転換するというのであるから、これはやはり業報の法則を破っている。
<(p.150-151)

JRF2022/2/115787

涅槃に入るには善業があり過ぎてもいけないと考えてしまいがちだが、善業を超越的な善に換えるという考え方をするなら、善業があり過ぎる問題は解決するか。人を救うために善をする。その善業のカルマは、より人が救われるために使う。そういうことができる。もしできないなら阿弥陀仏は存在してない。「私」は存在していると信じる。…といったことになるのだろうか。

JRF2022/2/112652

善業のカルマを人を救うために使ってなぜ帳尻が合うか。それは悪人も救われるようにするからだ。そうやって涅槃に致ること全体が、無限において善と評価される。…といったところか。

JRF2022/2/113580

……。

>他人の善根に随喜することも空性に、法性に随喜することである。輪廻の世界のなかでの幸福をもたらす善根を無上にして完全なさとりという超越者に廻向するとは、輪廻的なものを輪廻から離脱したものに転換することである。それは業報の束縛からの開放である。こういうことを『八千頌』第6章はいっているのである。<(p.171)

ある者が他人に廻向して他人が救われることに随喜し、別の者が廻向を受けて廻向されたことに随喜できる。それがまた他人が救われることに随喜する自分を作る。「廻向を受けて廻向されたことに随喜できる」こと、それが「仏性」ということになるのだろうか?

JRF2022/2/118702

……。

>(…〈無量寿経〉の…)古訳二本では、前世に悪をなした者も、阿弥陀仏の名を聞いて悔い改めて善をなせば、極楽に生まれる、と書いてある。(…新訳の…)『大無量寿経』では、阿弥陀仏の名を聞いて、善根をさし向け、十度までそこに生まれたいという心を起こした者はみな極楽に生まれるが、ただ無間業あるいは五大罪を犯したり、正法を誹謗したりする者を除く、いっている(参32)。阿弥陀仏は極悪の人をも救うためにあらわれたのであるから、古訳二本のほうが経の意にそうものである。

JRF2022/2/117600

古訳二経は、後一世紀の動乱の北インドの社会状況を反映していると思われる。「五悪段」や悪人の救済が説かれるのはそのためである。後期〈無量寿経〉は三世紀、あるいは四世紀以後の安定したインド社会で成立したと思われる。そのため、時の政権への顧慮から、「五悪段」や「悪人往生」を省いたものと思われる。
<(p.173)

JRF2022/2/113381

「五悪段」は、p.111 に説明があり、私の言葉で言えば、末法末世的な記述のこと。

『法華経』などを読んだとき([cocolog:92105472], [cocolog:92076991])、謗法の者が救われないという記述につまづいた。古訳にはそういうのがないという記述には勇気付けられる。

JRF2022/2/112916

……。

>戦乱と略奪に明け暮れ、無常と苦をいやでも痛感させられている民衆にとって、空の思想は、奥深いものでありながら、実はもっとも身近な、受け容れやすい思想であった。<(p.184)

ここについては、Amazon 評で「鹿野苑」という方が…>ああ、これはそうかもしれないと思う。現代社会で生命の危機をある程度感じないで生きている今、この「無常」というのは生き死にのレベルで感じにくいのは確かだ。ほんとうはそうじゃないんだけど、常に自分の隣に死があるという生活ではない。<…と書いていて、確かに今の時代わかりにくくなっていること、つい忘れてしまいそうな感覚だな…と思った。

JRF2022/2/119010

……。

>しかし五蘊を存在すると認識し、執着することが誤りであるように、五蘊を空であると認識することも誤りである。スプーティはいう。「物質的存在は空であると認識される、と心にとどめてはなりません。感覚・表象・意欲についても同様であり、そして思惟は空であると認識される、と心をとどめてはなりません。」なぜならば、空とは実はものをある特徴として認識し、執着することの否定であるからである。

JRF2022/2/112600

だから、あらゆるもの、有情も仏陀も存在しない、という見方はただちに反転して、菩薩は「私はこれらの有情を捨ててはならない。私はこれらすべての有情を無量の苦しみの集まりから解き放たねばならない。また、私は百回まで切りきざまれても、彼らに対して悪心をいだいてはならない」という利他の大心と忍辱の精神をもち、一切智を得て仏陀になろうとする。
<(p.186-187)

JRF2022/2/119429

業報が尽きる涅槃がある。しかし、そのことが無限の善からの照射を受け善なる報いをもたらす。…ということと、空がある。しかし、そのことが善の根拠となる。…ということは地続きで、無限の善からの照射があるから、我々は自分をあると思っていて、空であっても「我」を使い、苦を超えた善の・生の根拠になりうる。…とすると仏教よりは一神教的になってしまうのかな?

「無限の善」とまで言ってしまうのは、仏教ではない…ということになるか。

JRF2022/2/110187

ところで、この世において救うのが「善」だとするならば、「悪」とは何か? 物質的制約のことだろうか? ↓のようにこの世に生まれたこと自体が悪の報いだから、物質的に制約され、苦しみ、悪なることをせざるを得なくなるのだろうか?

《四諦:仏教教義の提案的解釈 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html

JRF2022/2/115853

ただ、これを問えば、逆に物質的に全ての人が満たされれば、またはある程度欲も抑えてほどほどに満たせば、それが善なのかという問題が出てきたりする。このあたりで論を止めておくのが、方便として吉なのだろう。

JRF2022/2/119650

……。

>仏教(…『世紀経』?…)の終末論では、地球は火災によって破壊されるだけではなくて、いったん回復成立して、安定期を経たのちに、今度は大洪水(水災)により、さらに三度目には大暴風(風災)によっても破壊される。この三災が一単位となって世界の終末が語られる。(…)このように三度の災害が起こるのは人々の心境、具体的には瞑想の四段階(四禅)との関係が考えられているからである。

JRF2022/2/111040

世界が滅びるということは仏教者にとって悲劇ではなくて、実は当然起こるべきことにすぎない。それはむしろ世界の住人である人々が無常と空をさとって救われて行く過程と並行しているのである。
<(p.201)

終末論の常だが、さとるために滅びが必要とは、なかなか危ない発想である。

JRF2022/2/114856

>現代の宇宙論に従えば、宇宙の諸天体は永久に存在し続けるわけではない。(…)ちょうどそのように、仏教の宇宙論でも、三千大世界のなかの天体はいずれもやがて壊滅するが、長い空無の期間の後に再び成立し、維持され、また壊滅する。この成立・維持・壊滅・空無(成劫・住劫・壊劫・空劫)の四つの極めて長い期間を一サイクルとして世界は輪廻を続ける。<(p.210)

有情の輪廻は、間を置いて奇跡的につながることはあるのだろうか? 個々の単位では輪廻が断たれて、今度は世界の単位で輪廻するだけとなるのだろうか?

JRF2022/2/118290

……。

>事実、『大品般若経』の神変においては、福徳と信仰ある有情たちは、仏の放つ光に遇うだけで無上正等覚を得ることに「自然に」決定したのである。それは浄土教でいう「正定聚」に入ることに他ならない。有情たちは自らの力によってではなく、仏の神変という他力によって仏となることに決定するのである。したがって、浄土教の他力思想の起源が神変にあるのである。<(p.241)

無限の善と評価されること、それが「神変」と言えるのかも? まぁ、「最後の審判」がなくても、無限の善が確定すればいい…ということなのかもしれないが。

JRF2022/2/118147

……。

>『大無量寿経』『阿弥陀経』は、同じく大乗仏教の伝統を受け継いだチベットにも伝えられている。そして阿弥陀信仰は盛んで、十七世紀のカルマ・チャクメ(1613-1675)による『デワチェン・モンラム(極楽[往生]祈願偈)』は現在でも読誦されている。ところがチベット仏教では、法蔵菩薩は、菩薩のありかた、すなわち自らが積む善業の功徳を一切衆生に廻向して極楽に往生させるという姿勢を示すものであり、信者もそれを模範として善業に励むべきである、と理解されている。

JRF2022/2/115289

そもそも菩薩とは、菩提すなわち悟りを目指して善業に励む人である。確かに大乗仏教では、自らの善業の結果を、自分が享受(自利)のではなく、他人に振り向ける、すなわち廻向する側面(利他)に主眼が置かれるようになった(…)。しかし、自分が善業を積んで、その功徳を他人に廻向して救うという能動的・主体的立場はけっして忘れられたわけではなく、他人 -- たとえそれが仏・菩薩であっても -- からの廻向によって救われるという受動的立場は微塵も見られない。チベット仏教では、すべての信者は一人の菩薩として、一切衆生を救うために善業を積む姿勢を放棄していない。
<(p.252, 今枝由郎による解説)

JRF2022/2/114925

救われたと信じるよりも、救おうとする姿勢が尊く、それを見習うべきだというのは正しい。それこそが仏教のあるべき姿だと思う。

ただ、それでは自分が悪と感じて絶望にある者をなかなか救えないというのも事実なのではないか。生活者に信仰が善をもたらすなら、それは善い信仰であると考えてしまう私は「軽い」のかなぁ…。

JRF2022/2/115777

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