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cocolog:93335769

華厳経の本を三冊読んだ。木村清孝『華厳経入門』、鎌田茂雄『華厳の思想』、大角修『善財童子の旅 - 現代語訳 華厳経「入法界品」』。唯心論で小の中に大があるという世界観。無限・有限と独覚・転生・涅槃について考えた。 (JRF 0342)

JRF 2022年2月26日 (土)

電子本『「シミュレーション仏教」の試み』(仮称)(参:↓)の出版に向けてほとんど準備が整っている中、それを書いてる最中にいくつか仏教に関する本を読んでいた(梶山雄一『大乗仏教の誕生 - 「さとり」と「廻向」』([cocolog:93307988]) や 師茂樹『最澄と徳一』([cocolog:93262666]) など)。そんな中でまた、手を付けたのがこの華厳経に関する本三冊。

JRF2022/2/262425

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

それでは一冊ずつ見ていく。

JRF2022/2/269860

……。

……。

『華厳経入門』(木村 清孝 著, 角川ソフィア文庫, 2015年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4044089124
https://7net.omni7.jp/detail/1106485282

JRF2022/2/269090

本書の原本は木村清孝『華厳経をよむ - 仏のさとりと菩薩の実践広大・壮麗な宗教宇宙 』(NHKライブラリー, 1997年5月)で、さらにその元は、1994年4月から一年間 NHK ラジオ第二放送の『宗教の時間』でした話の内容であるらしい。それらから加筆されているとのことだが、Amazon 評によると、絵巻物の写真などがいくつか削除されているらしい。

JRF2022/2/263085

……。

>ここには、仏教の唯心論的世界観が端的に示されているといってよいでしょう。このように『華厳経』は、まず第一に私たちの常識に挑戦し、自己と自己を取り巻く世界の全体を心の表れとみなし、この見方に立って仏と私たち衆生も一体であると論じます。<(p.16)

仏教の唯心論はこのブログで読んだ中でもこれまでにも何度か言及があった。

keyword: 唯心論

JRF2022/2/260333

仏教の唯心論は、西洋的な「すべてが我の妄想」といったものではなく、その「我」自体が大きな「心」の一部となるようなもので、「思い通り」の解釈も独特なのだと思う。

JRF2022/2/261464

己の心も「心」が作ったもので、この「心」は縁起するもの。一方で、「心」は創造神の心でも汎神論的心でもない。「心」の境界があいまい…と言ってしまっては言い過ぎであり、境界のようなものがあること自体は否定はされないのだろう。「心」の成り立ちには、もちろん自己の部分…自己の願いなどもあるし、仏もあるし、地獄もある。仏が作用して「己の心」と思う部分ができ、地獄の話を聴いて、またはその存在があることで、心の在り方が影響を受ける。「心」にとってしばしば実在は大きな問題ではないから、浄土がリアルといって何が悪い…みたいに発展してきた面もあるのだろう。

JRF2022/2/265414

>私たちは、ともすれば、外界の実在性とその自律性、つまり、たとえば自分が勤める会社や官庁も、日本という国も、さらには国際社会も、自分とはほとんど関係なく厳然と存在し、それぞれの機能に従って動いているということを鵜呑みにして、絶望的になったり、自暴自棄になったりしがちです。しかし、上で述べたように、『華厳経』や唯識の教えによれば、私たちは誰もが自分の世界を自分でつくりあげ、それを生きる存在です。その意味では、私たち一人ひとりがかけがえのない固有の世界の創造者なのです。<(p.17)

JRF2022/2/263426

アニメ『Sonny Boy』([cocolog:93043500])を思い出す。さえない男子が主人公で、女の子がついてきて、世界を創造している。…というその物語は、観る側がさえない人間でそれでいて正義感があって、ある意味世界の一部を創造している…という自己投影のしやすさが考えられていて、女の子がついてくるというのは…青春物の条件だから…なのだろう。

JRF2022/2/261286

その最終回、主人公は、「現実世界」を選択して、そのはずなのにそこで苦しみ、心が揺らいでいる様子、しかし、その中でみすぼらしい現実を生きていっていた。それは私の統合失調症での経験に近く、心に響いたのだった。

成長を延長して全能感に接近した中学生が夢に見るような、自在に心のありのままの世界で生きることはできない。その少し悲しいことを受け容れて生きていっているそういう現状は、「会社や官庁」に勤められるようになった人間は忘れがちなことなんだろうか。

JRF2022/2/264333

……。

>次に『華厳経』における注目すべき第二の考え方は、つきつめていえば、「小が大であり、一つがすべてである」という思想です。<(p.17-18)

法でとらえれば大きなシステムも小さなシステムも変わらないということだろうか。大きなシステムと小さなシステムの組み合わせ方はいろいろある。…と。

JRF2022/2/265231

遺伝子みたいなものの直感もあったのだろう。ゼノンのパラドクス「アキレスと亀」とか、等比数列の無限和が有限に留まる…とかそういうのも、直感としてはあったのだろう。0 と 1/0 が無限大という話は、空の話として田上太秀『仏典のことば さとりへの十二講』を読んだとき([cocolog:93013747])に出ていた。

JRF2022/2/260304

>すなわち、『華厳経』においては、具体的事物や事象に関しても、時間に関しても、個々のものを決して孤立した実体的な存在とは捉えず、あらゆる存在が他のすべて、ないし全体と限りなくかかわりあい、通じあい、はたらきあい、含みあっているとされます。詩的に表現すれば、一滴の雫[しずく]が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきに永遠の時間が凝縮されている、というわけです。

JRF2022/2/269690

このような見方は、すぐれた文学者や芸術家の美の世界の捉え方にもうかがえます。たとえば、『奥の細道』で有名な俳人の松尾芭蕉は、立石寺を訪れたときに、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の句を残しております。これは常識的な立場からは、「蝉が鳴いているのに、どうして閑かであるといえるのか」という反論さえ出てきそうな句ですが、おそらく芭蕉はこの蝉の声を、すべての周囲の音と動きを奪い取り、一切を深い静寂へと導き入れるものとして聴いたのです。

JRF2022/2/261193

少なくとも芭蕉にとっては、この蝉の声は、暫時、全宇宙を飲み込んだのです。「閑か」とは、そういう存在の深淵が開かれたすがたの表現なのではないでしょうか。
<(p.19-20)

JRF2022/2/262916

ここはこの本の中で最も美しい部分ではないか。美は時間を超える。…それは、芸術が遺っていくということでなく、美の中にすべての時間があるという感覚。『華厳経』という長い経で示したいのは、そういう「感覚」なのか…。

でも、それを無理にとりだすのは、魔境とか統合失調症の世界になってしまうように思うのだが…。

JRF2022/2/264560

>氏が主張される「関係主義」を、より仏教の立場に引き寄せ、私なりのことばで表現すれば、「縁起的な存在観・世界観」ということになります。これは、ごく簡単にやさしくいいますと、主に華厳宗の人びとが先に述べた「一つがすべてである」という考え方を一つの方向に徹底させたもの(…)。<(p.27)

一つがすべて…で最近私が考えていたのは、仏教論理学の因明で、存在記号を全称記号に置き換えること([cocolog:93262667])。帰納とかアブダクションとか言われるもの。どうすれば、そういうことをやっていいのか…。

JRF2022/2/267748

……。

>ゾロアスター教のアフラ・マズダーの原像から、前述のアスラの王ヴァイローチャナを経て『華厳経』の盧舎那仏が誕生したと考えるのも、あながち無理ではないと思われます。<(p.44)

ちょうどその辺の話は、直近の梶山雄一『大乗仏教の誕生 - 「さとり」と「廻向」』([cocolog:93307988])にもあった。

JRF2022/2/265532

……。

>私たち一人ひとりが、実は正しい教えを、釈尊の声をいつも聞きつつあるのです。私たちはきっと、普荘厳童子と同じような素直な心、柔らかな心をもつときに、初めてそういう声を聞き、教えに香りづけられ、仏の子として、人間として成長していくのだろうと思います。<(p.102)

素直な心があれば、仏の声はすでに届いている。魅力的な教えだが、なかなか、特に若い頃は、そうではない・そうでなかった気がするなぁ…私は。

JRF2022/2/265869

……。

>譬えば貧窮の人、日夜に他の宝を数うるも、自ら半銭の分なきが如し。多聞もまた是の如し。

(…)

また喩えば、貧乏な人が毎日毎晩よその人のお金を数えながら自分には一銭もないように、多く聞くだけの人もそれと同じである。

(…)

ここには、「ただの博識は無意味である」という仏教の基本的な考え方が、巧みな比喩を通じて簡明に示されているといえましょう。なお、ここに挙げた最後の喩え「自ら半銭の分なし」は、無駄な努力を表す比喩として禅宗などで盛んに用いられるにいたっております。
<(p.113-114)

JRF2022/2/264460

正しい知識は必要だが、博識は無意味。「シミュレーション仏教」で「思考と思念を深めるのがよい」としたが、そこは反省すべきか。

JRF2022/2/265985

……。

>文殊よ、法は永遠不変であり、究極の法はただ一つである。一切の自在を得た人は、みな一筋の道を通って迷いの世界を出る。

(…)

中国において、老子・荘子をはじめ、その流れを汲む道家の人びとは、根源の真理を「道」と名づけ、その体得に努めました。この「道」の仏教的表現とみなしうる上の教説が、中国、ないし東アジアの仏教者たちに広く受容され、好んで語り継がれてきたのも、決して偶然ではないでしょう。
<(p.114-115)

JRF2022/2/268825

keyword: 易経

「道教」と「仏教」の関連。「道教」ついては「易経」についてしばしば私は言及するが、↓というちょっとした「感想」も書いている。

《道を語り解く − 教え説くのではなく》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html

JRF2022/2/265858

……。

>私たちは、改めて、願いがもつ重要な意味、すなわち願いこそがすべての行動の基盤であり、いかなる願いをもって生きるかがその人の存在のあり方を決めるということに思いを潜[ひそ]めるべきではないでしょうか。<(p.122)

己とは限らぬ己の心の中で大きな部分が「願い」ということなのだろう。カラダも大事だけどね。

JRF2022/2/260982

……。

>『華厳経』は、一方において仏の力、仏の支えを強調しながら、他方また、修行者の主体的な自覚を菩薩道のかなめとして力説するのです。<(p.132)

他力だけでなく自力も大切。大事なことだが、その教えに驚きはない。

JRF2022/2/267776

……。

>初めて発心する時、便[すなわ]ち正覚を成ず(…)。<(p.138)

『華厳経』の有名で大事な部分、密教の聖典を読んでるときにも似た記述はあった([cocolog:93225056])が、元はこっちか。ただ、これを言葉通りに受け取るのは「違う」らしい…。

JRF2022/2/260506

>道元禅師は、主著『正法眼蔵』の「発無上心」の巻で、「しかあるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず」といっておられます。発心とさとりをちょうどマラソンのスタートとゴールのようにみなし、一度発心したらあとは長い長い修行がつづき、最後に仏のさとりというゴールに到達すると考える人は、まったく仏教を知らない人だというのです。まことの仏教では、発心のしつづけ、さとりの開きつづけの中で、私たちの実践は展開していくと見なければなりません。<(p.140)

JRF2022/2/268049

内心ある種、白痴のように驚き続けることこそ、正しい在り方なのだろう。一切智は「知ったかぶり」と対極にあるということだろう。

JRF2022/2/265396

……。

>菩薩には、衆生のためにし、衆生を喜ばせることが自分の喜びとなるるほかはない。-- 「歓喜行」は、この菩薩の実践理想を高く掲げているといえましょう。<(p.150)

「十行」の最初が「歓喜行」。まずは喜びからはじめるというから、どういう喜びかと思ったら、そういう喜びなのか。性的な意味…例えば結婚して子供を産み育てることと関連している…というわけでもないのかな?

JRF2022/2/265178

……。

>如来は世に出られず、また涅槃にも入られない。<(p.158)

菩薩は涅槃にはまだおもむかない。仏は涅槃にあるのか、ないのか。涅槃にはあるのだろうが、仏が涅槃にあって、人々に影響できるなら、なぜ、菩薩は涅槃に致ろうとしないのか。私は未だにここの基本的なところがよくわかっていない。

人を救うのを僧にまかせるだけではダメだということだろうか? 僧が涅槃に致ろうとするだけでは社会を支えられない。…と。

JRF2022/2/262032

涅槃に入った仏を尊ぶのは、仏が転生して何かをしているわけではないから、涅槃からは動いていない。仏を尊んで教えることは、仏への廻向であると同時に、廻向の無方向性([cocolog:93307988])からすると、仏からの廻向でもあり、でもそれは涅槃から動じたことにならない。

…とするなら、独覚や声聞でなぜ悪いかという話にはなる。

菩薩的動機がなくただ涅槃に入ることが可能であるということなのか。それは涅槃に入っていても、さとりではないのか。さとりは菩薩的動機がないといけないから?

仏が一時代・一世界に一人という考え方があったから、そうなったという話でしかないのか?

JRF2022/2/266160

……。

>これら十の廻向の中で何よりも注目すべきものは、第一の「救護一切衆生離衆生相廻向」でしょう。(…)この境位にある菩薩は(…)「すべての悪の世界において、はるかな未来世にいたるまで、あらゆる衆生にに代って無量の苦しみを受けよう」と誓い、「このわが身をもって、悪の世界にあるすべての衆生の罪をあがない、安らぎを得させよう」と念ずる、といわれます。(…)この「代受苦」の思想は(…)くり返し出てまいります。

JRF2022/2/261269

このような精神は、残念ながらいまの仏教界においてさほど真剣に受け止められていないようです。しかし、キリスト教世界にはいまもこの精神が生きている証拠があります。マザー・テレサ(1910-97)の愛がその一例です。
<(p.160)

JRF2022/2/261104

イエス・キリスト的自己犠牲は仏教にもないわけではない。…と。キリスト教と仏教をつなぐもの。『教行信証』([cocolog:92076991])の親鸞などもこのような信条を持っていた…五逆や謗法のものも救われるように誓願し直す菩薩になろうとしたりしていた…のではないか…と私は思う。

JRF2022/2/266665

……。

>(…『十地経』の…)十地は十波羅蜜、つまり、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・方便・願・力・智の十の実践の完成に対応しているとされます。<(p.171)

布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧…で六波羅蜜。

こういう用語、ほんとは覚えないといけないんだろうけど、なかなか…。

JRF2022/2/266686

……。

>さて、第六地(…智慧実現の境地…)について考察を進めるに当たって、初めに注意しておきたいことがあります。それは、この第六地の教説の中に「三つの(迷いの)世界は仮に現れている空虚なものであって、ただ心が作り出しているにすぎない」(三界虚妄、唯是心作)ということばが出てくるのですが、これが従来は、あたかも第六地の教説を、いな、「十地品」全体の教説を代表するもののように受けとられてきた傾向があることです。(…)けれども、このことばだけから第六地を捉えたり、十地の全体を考えたりすることは正しくありません。

JRF2022/2/263099

とくに漢訳の文章には、おそらくサンスクリット原本が対応する語をもたなかったであろう「虚妄」および「作」の語が入っているために、東アジア世界においては、「心」が何か実体的な、世界創造の本体のように考えられ、さらにその心の真偽とそれによって作りあげられる世界(三界)の虚妄性との関係がかまびすしく議論されるにいたりました。
<(p.178)

JRF2022/2/269117

「唯心論」といっても、「そういうもの」ではないということか。汎神論的なブラフマーの「心」からの創造で、しかし、それは虚妄で、真の世界は別にある…みたいな、グノーシス主義にちょっと似た考えがあったのかな?

JRF2022/2/260538

……。

>釈尊がこの世に出現された目的を輪廻のうちにあるすべての衆生、なかでも地獄に沈んでいる衆生の救済に見ようとする宗教的確信の表れ<(p.199)

「地獄」のような古い「迷信」は『華厳経』の著者には虚妄として真剣にかえりみられないのではないか…と勝手に私は思ってた。「地獄がある」という直感は人々に根強くあるものだと思う。それは菩薩をこころざすものが(途中で?)忘れがちな部分ではないか。

JRF2022/2/268602

……。

>「男でなければ最高の存在とはなりえない」というインド的な性差別観を脱しておりません。こと女性の見方に関しては、大乗仏教の思想には明らかに限界があります。<(p.20)

こういうのがダメだとちゃんと書いてあると書いておかないと、フェミニズム的にアウトとされかねないので引用しておく。

女性と仏教については、例えば、「変成男子」について、私は、[cocolog:90395921] で愛川純子『セクシィ仏教2』を読みながら、ある種の予定説をもたらすものとして擁護してたりする。

JRF2022/2/263521

上で「白痴」という言葉を使ったりしたけど、言葉狩りのようなことをして、しかし、どこかでその言葉があったとき、そこに絶望してしまわせてはいけないと思う。救いのある言葉づかいを残すことのほうが、廻向になるのではないか。「変成男子」も一見女性差別だが、それを無かったことにするのではなく、別の意味を付けて忘れず、しかし実質で差別しないようにしていくことのほうが、良い廻向になるのではないだろうか。

JRF2022/2/269991

……。

>たとえば、虚空は、万物のよりどころとなるが、虚空そのものにはよりどころはない。仏の智慧もまたこれと同じで、一切の世間の智慧、および、世間を超える智慧のよりどころとなるが、仏の智慧そのものにはよりどころがない。<(p.211)

普遍性を追求し過ぎて、特別なもの、差別[しゃべつ]あることを恐れ過ぎているのではないかと感じる。キリスト教の奇跡は特別なものだし、そうでないもっと卑小なものが偶然特別にあり、そこ以外にないことがありうるということが忘れられているのではないか。

JRF2022/2/264027

「一期一会」と言えば、一期に永遠を見てしまうだろう。そうではない。忘れ去られていいものはあり、しかしそれは存在して悪いわけではない。何かのためにならないことが責められないことは大事なことだと思う。ニート的な生活をしている私はそういう考え方もする。

JRF2022/2/267368

ただ、特別な物への視点は次に「薬王樹」が語られるから、『華厳経』の作者にもそこに言及すべきという意図はあったのだろう。しかし、それは意味のある特別な物だ。もっと意味のない物に言及すべきだったと思う。菩薩は意味のない物をよりどころとしていたとしても悪くないと思う。仏が道に落ちていた棒のおかしさを未だに夢に見る…別に執着しているわけではなく、世界の実相がそこに現れていたとかいうたいそうな理由もないが…みたいなことがあって良いと思う。

JRF2022/2/268430

……。

行を妨げる「十魔」の中に「善知識魔」という意外な魔が挙げられる。…

>私たちが正しい道を学んでいこうとするとき、善知識(…)、すなわち、真実の同朋[とも]たるよき師、ないし、先達の存在は不可欠です。しかし、ややもしますと、弟子が抱く師への信頼は、おそらくその師がすぐれていればいるほど、いつのまにか執[とら]われへと変わる可能性があります。(…)「たとえどれほど立派な師でも、師その人を絶対視してしまえば、師は悪魔に変わるぞ」と警告しているわけです。(…)「法に依りて、人に依らざれ」(…)。<(p.222)

JRF2022/2/262892

教える側にまわる経験をしてみる…というのは大事なことで、例えば、テストの問題を作るのに、どういうところから問題を持ってくるかとかを知るとかやってみないとわからないことが多い。そうすれば師の別のエラさと共に限界も見えてくるはず。

私はそういうのがわからず大学院まで行って失敗してしまった。

JRF2022/2/269999

……。

『入法界品』の五番目の師のメーガはカーストでは最下層に属する良医。その師が逆に弟子となる善財童子を礼拝する。そこには複雑な心理的情景があるが、やはりカーストが最下層だからというのも考慮すべきものと著者たちは捉えているだろう。

>作者たちに差別意識が払拭されていないことは認めなければなりません。<(p.248)

JRF2022/2/265152

……。

>(…『入法界品』…)にはこれまで挙げてきたようなきわめて真摯な善知識たちにまじって、特異な実践と指導をする人びとも登場します。一見、仏道に反する行いに見えるところから「反道行」などと名づけられます(…)。<(p.249)

「反道行」の三人は、火の海で修行するような激しい苦行のバラモン、ひどい刑罰を加える支配者の満足王、絶世の美女の遊女。いずれも、善財童子はいったんはいぶかしみつつ教えを受けることになる。

JRF2022/2/264987

……。

『入法界品』で最後から二番目の五十二番目の師は弥勒菩薩。楼閣で幻のようなものを見せられる。…

>その中で楼閣内の仮構性が追究されていることは、おそらく修行の進展の中で起こるいわゆる神秘体験がいかに深いかを示すと同時に、そうした体験が絶対視されてはならず、その空なる本質が見究められるべきことを表しているのでしょう。<(p.256-257)

統合失調症の経験のようなものは、修行者にも魔境とかいろいろあるんだろう…と思う。そこであった「奇跡」を信じるな…というのは難しいことだ。まあ、「体験が絶対視されてはならず」ということは、そういうものを忘れない程度なら悪くはないのかもしれない。

JRF2022/2/269118

……。

>本書が、「カネ」に換算してすべてのものの価値をはかるという風潮に終止符を打ち、心を育[はぐく]み、大きく美しい世界にイメージを広げることの大切さを見直すきっかけの一つになればと、切に願っている。<(p.268, 文庫本あとがき)

JRF2022/2/268681

ホリエモンと同じ時代を生きた者として私は、ああいう行動が、昔で言えば、給料が安いのに官庁を目指すような「自己犠牲」的精神に支えられていたことを知っている。斜陽の日本で外圧があって、あえて「カネ」に換算することにこだわらざるを得なかった。それで成功して、脆弱だった日本のネット企業を救い、逆転して世界に乗り出そうとしていた。ライブドアは、RSS リーダーに投資したり、かなりネットの企業を救うようなことをやっていた。

JRF2022/2/266479

もちろん、問題はあっただろうが、その意志をまったく悪だとすることは私は間違っているとしか思えない。あのころ同じ時代を日本で過ごしたのに、この本の作者ですら、そういった者に慈悲はないのか。それが私にはとても悲しい、絶望的だ。

《時間の貨幣価値:「金で買えないモノはない」か? - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/post_27.html

JRF2022/2/264066

……。

……。

『華厳の思想』(鎌田 茂雄 著, 講談社学術文庫 827, 1988年5月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061588273
https://7net.omni7.jp/detail/1100627049

元は、『華厳の思想』(鎌田 茂雄 著, 講談社, 1983年5月)。

上の『華厳経入門』と似た構成だが、より時代が古く、更新されてない情報はありそうだが、伝統的解釈はむしろよく残しているのではないかと思った。また、華厳経だけではなく華厳宗についても『華厳経入門』より詳しい感じだった。

JRF2022/2/264782

>限りあるもの、小さなもののなかに、無限なるもの、大いなるものを見ようとする考え方こそ、華厳思想の本質であるので、日本人の創造になる茶道や華道のなかにも華厳思想は生きつづけている。<(p.7)

『華厳経入門』と主題はだいたい同じようだ。ただ、『華厳経入門』ほど唯心論であることを強調しないようだ。そこには少しためらいがある感じ。

JRF2022/2/267425

……。

>『華厳経』の母胎はインドで成立した。『華厳経』には三種あったとされている。第一は、上本の『華厳経』である。それは三千大千世界を十集めた大宇宙に遍満する無限の数量の微塵の数ほどもある偈文から成り立っている。第二は、中本の『華厳経』である。それは四十九万八千八百偈、一千二百品から成り立っている。第三は、下本の『華厳経』である。それは十万偈、三十八品から成り立っている。この三種の『華厳経』のなかで、上本と中本の『華厳経』は竜宮にあって、この地上に伝わらず、第三の下本の『華厳経』のみ、この地上に伝えられ弘まったという。

JRF2022/2/262712

(…)

上本の華厳経は、『大不思議解脱経』ともいわれた。大不思議とは人間のはからい、人間の思惟を絶したことをいう。『華厳経』は人智を絶した仏の智慧によって書かれた。その仏の智慧は空間的には大宇宙の広さをもち、時間的には無限の時間を包摂していた。『華厳経』とは大宇宙の微塵そのものである。大宇宙がすなわち『華厳経』というのである。
<(p.22-23)

この伝説は、『華厳経入門』にはなかった。

JRF2022/2/265628

……。

『華厳経入門』では、「華厳」は、サンスクリットでは「ガンダ ヴューハ」で、その訳としては「ガンダ」が「雑華」、「ヴューハ」が「厳飾」と訳すのが伝統と言いながら、「雑華」を「いろいろな花」とするのに疑問を呈していた。しかし、『華厳の思想』では伝統に従うことで魅力的な解釈を呈示する。

「いろいろな花」は、菊でもボタンでもよく、ナズナの花でもいい…

JRF2022/2/263876

>よく見れば薺[なずな]花さく垣ねかな 芭蕉

ナズナの花は小さくおよそ存在の意味がないが、よく見ると垣根の下でナズナの花がひっそり咲いている。それはそれなりに力いっぱい全力をもって咲いている。ボタンのまねをしろといっても、ナズナはナズナで、大きな花を咲かすことができない。しかし、ナズナは何をもってしても代えることのできない全存在を、そこに咲かしているわけである。だから尊いわで、芭蕉が農家の垣根の下をちょっと見て、あ、ナズナの花があるなと思い、その句をよんだのもなんとなくわかる気がする。

JRF2022/2/261374

(…)

個とは何か。絶対に余人をもっては代えられないのが個である。だめな人はだめなりにだめな個であり、それなりに立派なのである。すぐれた者はすぐれたなりにそれは個であり、どんなにすぐれた個だっても、それは裏から見ればやはり迷いをもった個である。表面から見ただけでは、なかなかそれがつかめない。それは交徹[きょうてつ]の論理で考えていかないと、つかめないわけである。
>(p.45-47)

JRF2022/2/263565

私が『華厳経入門』のところで批判した、「特別なもの、差別[しゃべつ]あることを恐れ過ぎている」というのにちゃんと応えている。伝統はちゃんと問題を補っていたのではないか。そして近時それが忘れられがちと言えるのかもしれない。

JRF2022/2/267726

……。

十地のうちの歓喜地…

>第一歓喜地にインドの菩薩で入りえたのは弥勒と無着の二人で、『摂大乗論』の注釈や『唯識三十頌』を書いた世親菩薩でさえ、死んでから第一地に入ったという。それほどインド的な知性でいうと修行の道はたいへんなものであり、無限のなかに生きてくわけである。<(p.65)

そうか、この本のこの後出てくるような、世を捨てて修行するのが本筋だから、そういう菩薩が知られていないだけ…というわけでもないんだね。厳しいな。

JRF2022/2/265429

……。

「入法界品」ではいろいろな人に話を聴きに行く。そうやって聴きにいくことはすばらしい…。

>悪魔の話でもいい。悪魔は悪魔なりに悪いことをしようとずいぶん努力もし苦労を重ねている。それは悪魔の所業にしろ、たいへんな苦労を経ているわけだと思う。悪魔は悪魔なりの悪魔の哲学を持っている。とにかくお辞儀をして、教えを受けてごらんなさいと文殊菩薩は言われた。<(p.71)

ここで私は、水木しげるのマンガを思い出した。あれも華厳の伝統が影響していたのだろうか?

JRF2022/2/265670

……。

>ふつうはどこまでも先生は先生、生徒は生徒となるが、先生は人に法を説くことによって、またその法に教えられていくわけである。善財童子が道を求めて何か質問をする、それによって善知識も学ぶわけで、善知識にとって善財童子はまた先生であるはずである。そういう関係が説かれていく。

たんに善財童子が修行者であって、五十三人が善知識で先生であるのだというのではなくて、これは先生と生徒が不二の関係において法界(真理の世界)をともどもに学んでいくのである、とそういうことを言っているようである。
<(p.72)

JRF2022/2/264720

……。

『華厳の思想』の著者は、『華厳経』において『華厳経入門』には見られなかった力点を「性起品」に置く。「性起品」は仏性を一切にあらわれているものとして語る。それにより…

JRF2022/2/267878

>どんなに悪とか煩悩、汚濁、そういうものが現実性であると実際には見えても、仏の光から見れば、それは仮の存在、仮に形を成してあるものだと考える。『華厳経』の立場からは、悪は非存在になっていき、あらゆるものは仏性のなかに生かされていくのだという考え方になるのである。

JRF2022/2/261933

(…)

華厳の場合には、悪とか煩悩、汚濁などはみな仮の存在であり、全部仏のなかに包まれていくので消えていく。こうなると修行もいらなくなってしまう。華厳が宗教としての生命を持ちえなかったのはここにある。哲学としては理解がつくのだが、実際にこれでは人は救えないわけである。
<(p.74-75)

JRF2022/2/266893

修行者でない者を宗教に導くには、性善説的なほうがいいのかもしれないが、修行者でない者に実践を促し、具体的な救いをもたらすためには、悪は悪として見つめなければならない…ということか。

JRF2022/2/263793

……。

>仏教の経典は、根本は同じものだが、衆生の要求によって、仏をいろいろに描く。

(…)

その意味で仏教は唯物論である。フォイエルバッハのいうように、神が人をつくったのではなく、人間が神をつくった。人間のさまざまな「要請」がいろいろな仏を生んでいった。そして逆に、人間がつくった仏によって人間は救われるわけである。<(p.79)

そういい切ってしまっては、人はついて来ないのではないか。ついて来なければ救うこともなかなかできない。

JRF2022/2/260632

……。

>『華嚴経』は革命的なことをいった。初発心のときが正覚だといった。そうすると、過程や段階が全部なくなる。これはまさしく革命的な思想だといえる。僧院で瞑想して、一生懸命、仏教の学問をやったり、坐禅がかりやらなければ悟れないというよ9うなことではなくて、ふだん、普通の仕事をしている人でも、私でも、発心さえしっかりしていれば、必ず悟れるという安心が得られるということなのである。<(p.110)

『華厳経入門』では慎重に避けていた言い方をしている。ただ、ここ以外のところでは『華厳の思想』の著者も言葉を濁しがちなので、ここはリップサービスだろう。

JRF2022/2/265169

……。

この本の後半は日中韓の華厳宗の話になる。興味深い話もあるが、ここでは読み飛ばしておく。一点だけ拾っておこう…。

JRF2022/2/264080

>四種法界(…)(1)事法界 (2)理法界 (3)理事無礙法界 (4)事事無礙法界。

事法界というのは現実の世界、あるいは事実の世界といってもよい。(…)哲学的用語でいえば客観世界といってもいい。

理法界とは理性[りしょう]の世界、空の世界であり、理事無礙法界とは理性と現象とが無礙なる関係による世界であり、最後の事事無礙法界とは、現象の個物と個物とが融通する世界である。
<(p.184-185)

JRF2022/2/269181

>「古池や蛙飛び込む水の音」を英訳すると何もなくなってしまう。蛙がいて池のなかにとび込んだ、そうしたら音が聞こえたでは事法界になってしまうが、芭蕉のあの句は事事無礙法界である。そこには聞いている芭蕉も蛙もない、ポチャーンという音だけが宇宙を破っている。そのなかに蛙と芭蕉が事事無礙法界で遊んでいることになる。遊ぶといってもただの遊びでなく遊戯、遊泳しているといってもよいが、溶け合っていることをいうので、それを英語に訳すと事法界に戻ってしまうのである。芭蕉のその句を、どこか森の池でも見ながら思い出すと事事無礙法界がわかってくる。<(p.195)

JRF2022/2/265730

師茂樹『最澄と徳一』を読んだとき([cocolog:93262666])、次のように書いた。


>『大仏頂経』(…)の一部で、あらゆる存在が空であることを証明する論証式が説かれている(…)。

真理においては、作られたもの(有為法)は空である。条件(縁)によって生ずるから、幻のように。

作られることがないもの(無為法)も、生じたり滅したりしないから、実体がない。空中の花のように。

JRF2022/2/265565

有為法については、要は物理学は還元主義的にどこまでも還元できて、際限がないであろう…ということだと思う。

無為法については、命題などの論理・真実は、言われる前から存在しており、生じたり滅したりせず、実体があるわけではない…ということだと思う。

それを同じことだというのは、唯心論に立つ修行者が、まるで物理の奇蹟を起こせると言うことで、人々が教えに関心を抱くようにさせる、ためにする方便であると識るべきである。

JRF2022/2/269625

この無為法と有為法の空を同じものと見るのが、「理事無礙法界」であろう。そして一度、理を経由するから、本来還元のしかたが違う有為法の事物どうしすら同じ空と見てしまうのが、「事事無礙法界」ではないか。

JRF2022/2/260396

……。

……。

『善財童子の旅:〔現代語訳〕華厳経「入法界品」』(大角 修 著, 春秋社, 2014年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4393135784
https://7net.omni7.jp/detail/1106427072

仏を目指し菩薩になろうとする善財童子が五十三の「善知識」つまり「師友」を求めて旅する物語。

JRF2022/2/266789

五十三の善知識はそれぞれ違うが、正直、私にはその違いがわからないことのほうが多い。それでも、この本には善知識にあった最後にごく短い「要約」を載せてくれていて、それを読んでやっと違いを理解する…ということがままあった。

JRF2022/2/268797

……。

>『華厳経』は六十巻もしくは八十巻の長大な経典で、その最後が「入法界品」である。その内容は善財童子という若者が菩薩の行法を問うために五十三人の善知識(師友)を訪ねて旅をする物語である。この師友の数にちなんで東海道五十三次がつくられたといわれている。<(p.1)

「東海道五十三次」ってここからだったのか!

JRF2022/2/265195

……。

1番目の善知識…

>メーガシュリー比丘の語るのは、池に無数の蓮華が咲いて点々と水面をおおうように諸仏は法界(世界全体)に満ちているということであった。<(p.19)

わりとスキマはある…と。

しかし、これが初心を大事にする華厳経の第一の善知識なのか、意外だな。まぁ、だから上の『華厳の思想』のようにこの前の文殊菩薩を第一にして再登場時を数えない考え方もあるのだろうが。

JRF2022/2/268002

なお、善知識が五十三という数は決まっているらしいが、この数え方には諸説あるらしい。『善財童子の旅』は最後に二人セットで出てくる方々を一人の善知識と数えるのに対し、『華厳の思想』ではその二人は二人として数えるかわりに、後に紹介する、「教えはない」といって教えなかったものを善知識に加えないことで五十三という数字にしていた。

JRF2022/2/262644

……。

六波羅蜜について挙げて、その精進に関する部分…

>菩薩の勇猛精進を修して魔の軍勢を敗走させる者<(p.42)

私は八正道の「正精進」は、正しい公共事業…みたいに思っているのだが、この経においては少なくとも「精進」は戦争に近いという解釈もあるようだ。すると、イスラム教の「ジハード」ととても意味が似ていると言えそうだ。

JRF2022/2/265905

……。

>良家の子よ。菩薩が無上菩提を求めるのは、衆生の一人を救うためではありません。百人、千人、ないし不可説数であっても、特定の人を救うためでもありません。菩薩の道をゆく者は一切刹土の衆生界を教化し、成就に導くために菩提心をおこすのです。<(p.49)

多くの人を救う、というより法で普[あまね]く人を救うほうが立派だとは私も思う。

しかし、特定のなんでもない一人をその心のドアをこじあけて救うことがあれば、それは菩薩として立派で十分な行いをした。…とするほうがありがたい教えのように思う。何人救うかの問題ではなく、確かに救ったか否かが問題であって欲しい。私はそう願う。

JRF2022/2/266827

まぁ、長い転生の中、そういう救いをする段階がある…でもいいのかもしれないが。

↓で、はじめて問題を知ったのだが、私の考え方は「照于一隅」という考え方に通ずる考え方だと思う。

JRF2022/2/267073

《damepon:Twitter:2022-02-17》
https://twitter.com/damepon_x/status/1494188084594118656

照千一隅此則国宝
照于一隅此則国宝
…どっちやねん
見た感じ「千」にしか見えんけどナー
それにしても、一字違うだけで随分と意味の変わる言葉よ

JRF2022/2/261863

『華厳経』は一の中に多を見る経という。ならば、一人を救うことが、多を救うことと同じ価値があると見て、間違っていないのではないか。

JRF2022/2/261087

……。

>スダナは無数の諸仏の一仏に近付いて、み足をいただいて礼拝し、その足下で一昼夜を過ごした。また別の一仏の足下では七日七夜、また半月、また一年、また百年、さらには百千億年、さらには一劫・百劫ないし不可説那由他の劫にわたって仏の足下にいた。(…)そして仙人がスダナの手を放すと、もとの状態に戻った。<(p.53)

「5億年ボタン」とか「精神と時の部屋」とか、そこに行くと時間が過ぎるが、戻ってくると時間がたっていないってのは、マンガとかである。逆、浦島太郎。ちなみに前者は、5億年の間の記億は消されるらしいが。後者は修行のために使っていたので、この部分により似ているか。

JRF2022/2/263465

……。

>菩薩の道をゆく者は、人びとを豊かにする実学も身につけなければならない。<(p.65)

行基などの方向。なかなか両立は難しそう。

JRF2022/2/261955

……。

>第十層には、一切の如来が充満していた。<(p.76)

そういえば、一時代一世界に仏は一人なんて制限があるという話もあったような気がするが、もう『華厳経』ぐらいになると仏の同時存在は気にしないんだね。

JRF2022/2/263324

……。

17番目の善知識アナラ。反道行で上では「満足王」と書いた者…

>良家の子よ、私はこのような人びとが悪心を調御して自分を取り戻させるように、そして安らぎを得られるように、菩薩の大悲の威神力によって幻の獄吏を現し、幻の罪人たちを現して恐ろしい処刑のようすを見せるのである。<(p.85)

「幻」といったんはいうのだが…。

JRF2022/2/265391

>真に威大な菩薩は無生法忍(あらゆる事象は空であり不生不滅であるという真理)を体得して、じつのところは万物が幻の如くであり、それゆえ固定した善悪はないことを教えて、人はもちろん、むし蟻にも害心を消滅させることができるのである。<(p.86)

もし、現実も「幻」だというなら、幻でムゴイ刑罰をして良いなら、現実という「幻」でもムゴイ刑罰をしてもよいということにならないか?

唯心論でよいならば、罪を犯しても、それは心の中でしたのと同じことだから、別に良いのか。ダメならば、心の中でも罪を犯してはいけないのか。

JRF2022/2/261893

表現規制論で、よく話題になるのがキリスト教の姦淫の定義、『マタイ 5:28』>しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 <の、性表現、性的妄想が禁じられる部分。理趣経では逆に認められてるとしてそれを読んだこともあったのだった([cocolog:93225056])。

『華厳経』は心の中なら問題ない…という立場で良いのだろうか。そして、おそらく本当にエラい菩薩であれば、現実の罪もいい場合があるということだったのではないか。

JRF2022/2/269979

大乗の周辺の罪というのはあったのではないか。『法華経』を読んだとき([cocolog:92105472])にも述べたが、ガネーシャにちなみ、生きた人間の開頭手術を行ったのではないか…という疑いが私にはある。

なお、この世界自体がシミュレーションであるというシミュレーション・アーギュメントというもの(↓)もある。それにショックを受ける人もいるが、いずれにせよ人は生きていくものだ。

《シミュレーション・アーギュメントを論駁する - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/10/post.html

JRF2022/2/263264

……。

>菩薩は世間の法も説いて人びとに福利をもたらし、どこにでも顕れて人びとの苦しみを取り除く。<(p.112)

世間の法律も守るというのは、「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルのものに」(マタイ 22:21)を思い出す。宗教者に必要なことではあるのだろう。

JRF2022/2/262874

……。

25番目の善知識、遊女ヴァスミトラー…、

>もし、わたくしを抱擁するなら、その者は摂一切衆生の三昧(欲情を離れ、一切衆生を救いとる心境)を得ます。もし、わたくしと接吻するなら、その者は諸功徳密蔵の三昧(欲情を離れ、多くの福徳をもつ心境)を得ます。<(p.121)

>菩薩は遊女の蠱惑もそなえて人を魅了し、しかも欲情を超克させて心身を爽快にする。<(p.122)

JRF2022/2/261628

天にも昇る気持ち…から、実際昇天したみたいに人が変わる…と。ちょっと恐ろしいな。マルチの勧誘みたい。

こういう話を読むと、『華厳経』にはさらに元となる物語があったのかな…と思う。

JRF2022/2/263324

……。

>良家の子よ。仏が実際に入滅することはありません。仏を思慕する思いが人びとにおこるように涅槃(入滅)の姿を見せることはあっても、十万の一切の諸仏に入滅する仏はいません。<(p.123)

上で私は仏は涅槃にあるのかと疑問に呈したが、「涅槃にない」というのが答えということになるのだろうか…。

JRF2022/2/265528

……。

27番目の善知識、観世音菩薩。あの観音さま…

>そして私は今、字輪(「南無観世音菩薩」の名号)を念じる法門を生起させました。我が名を念じるならば、私は種々の方便をもって、その人の望みをかなえます。あるいは苦悩・恐怖を取り除いて、かの無上菩提を求める心を目覚めさせ、倦むことなく歩めるように不退転を得させます。いまだかつて、その時を失したことはありません。<(p.129)

『法華経』を読んだとき([cocolog:92105472])も観音様が出てきたが、それについて↓のように書いた。

JRF2022/2/265036

>観音信仰の正体は「生存バイアス」ではないかという疑い(…はあるが…)。

観音に祈る姿・真摯に救いを求める姿を見せることで、その子などが、人を救おうという「菩薩の心」をはぐくむことはあるだろう。

また、観音が助けるものの姿をとるとすることにより、助ける側が「助けたい」という本能が刺激されたとき(観音のせいにして)身分などの違いを越えて助けやすくなる…ということはあるのかもしれないと思う。一方、助けられた側は観音を拝むことになるが、観音を助けた人に重ねるから、決して助ける人を粗略にするわけではない。

そこは観音信仰に現世利益があるのだろう。

JRF2022/2/269355

……。

>真に威大な菩薩たちは、(…)一切衆生に応じて身体を現します。その平等智において仏道にこだわることもありません。<(p.133)

救うには仏道にこだわらない…。あまねく救うなら、これぐらいでないといけないとは思う。

JRF2022/2/265234

……。

>菩薩は時を超えて諸仏を供養し、諸仏の力を受けて人びとの苦を除く。<(p.188)

供養は大事。僧などを供養できることがありがたいことということなのだろう。要は「供養してくれ」…と。こういう教えがあって生活が支えられてるのはうらやましい。

JRF2022/2/269938

……。

30番目からはマガタ国など釈迦由来の地に移り、女神などを善知識とすることが続く。

天界の神が、仏道をおさめるため人に転生するために、神ですら・神だからこそ犯しやすい意外な細かい戒のようなものがある…といったこともあるのだろうか?

人の不幸を夢に留めてあげるのが不妄語戒に反するとか、プログラムの異常動作的なものを止めてあげるのが不殺生戒に反するとか、シミュレーションをするのが不歌舞観聴戒に反するとか。

JRF2022/2/267244

……。

>菩薩は乱世・悪世のときでも、仏の教戒を保持して歩みつづける。<(p.194)

悪世の蔓延を防ぐため、境界を作る必要があり、作っている神がいるのかもしれない。一方で境界を空として超えて救いたい者もいるのだろう。夢と現[うつつ]、心の中とリアルは神にとって判然とするものでなく、恣意的な境界が必要なのかもしれない。ある神にとての境界と別の神にとっての境界は違い、複数の神が魔方陣のように世界を護って、「罪」を引き受けているのかもしれない。

JRF2022/2/260688

仏でも時空間を超えてまですべてを救うことはできないのだろう。いや、ある意味法となって無限に救うのであるが、その法がかえって過酷とならないように、境界を設けるなどされることもあり、ところどころ届かないところがあるのだろう。届かないこと自体がまったく悪いこととは言えない。仏に限界があるというよりも、世界の成り立ち、または論理に限界があるのだろう。

JRF2022/2/263384

……。

38番目の善知識、星々の夜の女神…、

>このときの王子が、遠い過去の私です。そして王子を殺そうとした五百人の大臣は今の悪人である提婆達多の眷属となって生まれましたが、如来は教化して、みな無上菩提に至る道に置かれたのでした。<(p.209)

「たまたま」如来の善知識…と言えば言い過ぎか、如来が悟るキッカケになる者はありうる。一方で、過去の因縁により善知識となる者もありうるが、こちらは「必然」そうであることになる。

JRF2022/2/269109

偶然と必然。世界は縁起でできており厳密な「偶然」などないというのが仏教の立場かもしれないが、私は「偶然」はあると思う。何かの意志で善いことをしたり罪を犯したりしたとき、または「奇跡」が起こったとき、それは遠からず「偶然」と区別がつかなくなる。罪が重いほど「偶然」とは見なされにくいが、いずれ「偶然」とみなせると「シミュレーション仏教」では考えたものだった。

「シミュレーション仏教」を離れれば、因縁による「必然」も私は否定しない。しかし、それだけでない「偶然」もありうるはずだと思う。

JRF2022/2/264192

過去世で善であっても、現世に生まれて偶然によって悪道に落ちることもあり、悪であっても偶然善道を歩むこともある。それは必然的な因縁でないことはあり、仏にもどうしようもない「偶然」が存在すると私は思う。サイコロを振って決まったかのように、善いことも悪いこともたまたまありえただけなのだ。それは誰のせいでもない。

「たまたま」如来に悟る偶然が起こったときなど、その偶然にできた善根は善い結果を生むだろうが、普通はその根は有限な時間の中で尽きるだろう。善だけは無限に評価されるとしたいが、その理由はない。

JRF2022/2/261094

如来が法という善を生んだときはどうなるか。それは無限に尽きない…というのが仏教のセオリーだが、しかし、それはゼノンのパラドックス的無限で、ある見方をすれば有限ということではないか。そして、その有限ならば、如来が思い出すことで、偶然にできた善根が普くではないがところどころ思い出されて「無限」に残ることもあるのではないか。

JRF2022/2/262778

……。

>あなたは菩薩の不可思議の法門を修し、(…)寂滅(さとり)の法を修習して、甚深の如来の法を達せられるでしょう。<(p.217)

無限を望めば境界が生じ、ところどころ偶然があるのではないか。メーガシュリー比丘のところの「池に無数の蓮華が咲いて点々と水面をおおうような法界」というのの「スキマ」にあるのは「偶然」ではないか。

JRF2022/2/266116

有限に涅槃するがゆえに逆に無限に影響できるということもあるのではないか。涅槃を選ぶのは、ゼノンのパラドックス的有限における無限を選びそこで普く法となることで、スキマなく影響できる。菩薩になるのは、その無限を超えようとすることだが、その無限は境界があることを避けられず影響が偏在的になり法とは呼べなくなる。…ということではないか。

無限と転生・涅槃の関係は、梶山雄一『大乗仏教の誕生』を読んだとき([cocolog:93307988])、考えたことに影響されている。

JRF2022/2/260929

>「最後の審判」はむしろ業報を無限に延長する。わずかに善であれば善の無限実体になり、悪であれば悪の無限実体となる。その善の無限実体があれば、そこに集合した過去的な有限実体の罪は偶然に近いものとして無視されうる。将来において無限になった実体から、同化(に近いこと)によって有限の罪を無化する。それが「廻向」ということなのだろうか?

悪業が悪業を生み、結果無限の悪業と評価できる…とならなければ良い。そのためにはところどころで有限に尽きているほうが都合がよい。それが「涅槃」であり、そうした者は「最後の審判」のあとの無限において、「廻向」によって救われる。無限において救う実体が全体としてブッダ。

JRF2022/2/264432

…そういうのが阿弥陀様ということだった。

JRF2022/2/264621

……。

>かの釈迦如来の母妃は、すでに世を離れて無所住に住し、浄法身となられ、善業の化身、意識だけの身、不生不滅の身、幻夢の身、三世に壊[え]することない身、非身の身となっておられる。このようなお姿を、人が見ることはできない。ただ、普賢菩薩のみが見ることができよう。<(p.230)

仏教には転生という概念はあるが、幽霊や霊界のような概念はない…みたいな意見をネットで読んだことがあるが、ここの部分はまさに「幽霊」だ! まぁ、釈尊が、常住不滅のアートマンという意味での「霊魂」を否定したというのは私も認めるところではあるが。

JRF2022/2/266097

……。

43番目の善知識、少年たちの教師…、

>しかし教師ヴィシュヴァーミトラは自身は何も教えることなく(…)<(p.243)

この何も教えないというところ、ただそれだけの存在に意味があるとするところで、『華厳経入門』のところで批判した「特別なもの、差別[しゃべつ]あることを恐れ過ぎている」というのにここもちゃんと応えている。スゴイ。

JRF2022/2/263916

実はここから、荘厳過ぎる善知識を離れ、より現実的な善知識が続いて現れる。上で>『華厳経』にはさらに元となる物語があった<と書いたが、どうもここが原物語を強く残しているところではないかという気もする。

しかし『ヨブ記』を思い出すと原物語が後から書かれた物語を挟んでいるとしたとしても、そこに強い意味があったように、ここでの物語の残し方も、かなり意義のあるものになっている。

JRF2022/2/268023

一つには、ここは釈尊の母に出会ったちょうどあとぐらいに配置されているが、釈尊が生まれるそのときはスゴイ奇跡が起きたが、その後しばらくはあまり奇跡が起きなかったことに対応しているのだと思う。

今一つは、あとで述べる。

JRF2022/2/266422

……。

>菩薩は無限と有限を区別せず、しかも無限の境地にある。<(p.249)

私は有限・無限にこだわり過ぎているのかもしれない。数学の発達した現代人が陥りやすい迷いなのかも。

JRF2022/2/266702

……。

51番目の善知識、弥勒菩薩。ここで、善財童子は楼閣に入れられ、楼閣内で仏になる奇跡を見せられたあと、楼閣の外に出される。すべては夢であったかのように…。

>そのとき、弥勒菩薩が指を弾く音が聞こえた。するとスダナは、もとの楼閣を出ていた。<(p.274)

実はこの『華厳経 入法界品』自体が、弥勒菩薩の楼閣のようなものなのだろう。華厳[けごん]は仮現[かげん]というわけだ。

JRF2022/2/260899

そして、「入法界品」のここに致るまでの数人の、より現実的な善知識は現実的だからリアルというわけではなく、それも幻だということだろう。これを教えるのが上で「今一つは、あとで述べる」といった部分である。現実的な部分が、幻だと教えられたときに効果を上げる。

JRF2022/2/267272

……。

解説である「おわりに」にて…

>(…仏教という…)その信仰を育んだのは、人間を超えた崇高なものへの思いである。また、太陽や星々の運行、天候・気候、作物の稔りなどの森羅万象に働いている大きな力への思いである。それを通俗の心理学や大脳生理学のような物質的な世界に閉じこめて霊典を貶めてはならない。そんなことをすれば、「空」の瞑想で見つめられた諸仏の輝きの虚空は、ただの「からっぽ」の空間になってしまう。<(p.301)

JRF2022/2/269687

「シミュレーション仏教」の私には耳が痛い。「閉じこめる」つもりはないんだけどな…。「霊典を貶めて」というのは地獄往きの「謗法」ということだろうか、そこまで言われねばならないのか…。そこには「こんなところにつながりが…」という驚きがあるだけだろうに。

JRF2022/2/267974

……。

独覚の涅槃でいい。…という私の考えをつきつめていくと、それならすぐに自殺すればいい…みたいになるのかもしれない。涅槃が自殺につながらないためには、菩薩たるべき…菩薩のような大きな望みを持つべきということかもしれない。

JRF2022/2/262544

特定の誰かを一人救えばいいというのも問題があるかもしれない。そこには一人で何とかしようとしかしない姿勢があるからだ。しかし、組織にならなければこのような「教え」も残らない。実践の連鎖は起きない。求めよ。組織となり「独覚」によりすでに滅びたところにあった物を探し求めるべきだ。無限に残ることを企図してこのように教えればしかし「有限」な組織になるだろう。しかし、私は有限でよい。そうやっても自由な偶然があるのが世界の実相であるべきだから。

JRF2022/2/268155

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