cocolog:93348917
小南一郎 訳注『楚辞』を読んだ。うちひしがれた(王族などの)元役人が世を捨てて「天上遊行」するのが中心となる「文芸」。特に「天問」は旧約聖書の『創世記』を思わせる記述が多く、即物的な解釈ができて私はとてもおもしろかった。 (JRF 6212)
JRF 2022年3月 5日 (土)
中国古典の『楚辞』。その十七篇の全訳ではなく、成立時期が戦国時代後半期から前漢時代の早い時期に形成されたと推測される前半の九篇のみの訳注。
『楚辞』は「天上遊行」が有名。うちひしがれた(王族などの)元役人が、道家的に世を捨てて「天上遊行」するのが中心となる「文芸」である。
以前、[cocolog:86489259] で牧角悦子『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 詩経・楚辞』を読み、それ以前にミルチア・エリアーデ『世界宗教史 全8巻』にも確か記述があっていつかはちゃんと読みたいと思っていた。
JRF2022/3/50072
今回読んで、いつもどおり引用しながら感想・考察を書いていく。ただ、いちおう全部読んだのだが、関心を持てたのは「天問」までだった。「天問」は旧約聖書の『創世記』を思わせる記述が多く、私にはとてもおもしろかった。
(ちなみに今回、難しい漢字を入力するのに苦労した。Google などに非常に助けられた。)
JRF2022/3/56545
……。
>江離、辟芷、秋蘭などは、まとめて香草と呼ばれる。主人公の高潔さを象徴する薫り高い草。香草は、元来、儀式の場において神に奉げられるものであり、祭祀者のまごころを特に伝える媒介物であったのだろう。そうした香草が楚辞文学の中では、さまざまに象徴的な意味を託して使用されている。<(p.17, 離騒 注)
「離騒」では、香草について詳しく書いているが、香草にはいろいろな意味…「本音」などを示す符牒があったのだろう。しかし、その意味はもう完全に失われていると言ってよさそうだ。それは古代の薬学的知識やその組織とも関連していたのかもしれない。
JRF2022/3/58686
……。
>わたしが理解されなくても、それはそれでしかたがない。わたしの真情が芳[かお]り高いものでありさえすれば、どうでもよいことなのだ。<(p.43, 離騒)
かなり投げやりな印象の句。ただ、書き下し文のほうを読むと、「わたしの真情が芳[かお]り高いものでありさえすれば、私が理解されないのもいつかは終るだろう」…と読めるのではないかという気はする。するとちょっと印象が違う。もちろん、訳者の訳のほうが正しいのではあろうが…。
JRF2022/3/50959
……。
>この一段には、主人公が、太陽神として、東方の太陽が昇る神話的な地点から天上遊行に出発することが記述される。<(p.63, 離騒 注)
つまり、これまで役人として仕えてきたが、それは太陽神がへりくだった姿であった…と。これはこれで、一つの物語類型…変身物語系に属する話なんだろうな。「鶴の恩返し」とかの原型があるところか。いまでは「なろう小説」の中にある類型か。
JRF2022/3/56437
大麻などで気が大きくなって、自分が太陽神であるという妄想に気を良くしているという描写でもあるのだろうか。香草の知識は当然、麻薬の知識でもありえただろうから、「天上遊行」は、麻薬の効果で、ただ、古代の特に安全でない麻薬を用いて身を危険にさらした…という意味も込められていたのだろうか?
JRF2022/3/59236
……。
>なおここに述べられている神女の探求は、有娀の佚女(簡狄)と有虞の二姚との二つだけに限られているが、叙事詩の本来の形態としては、主人公が行なう数多くの神女との交渉をこの部分に盛り込むことが可能であった。女神歴訪の物語りを長大に展開させることもできたのである。ただその場合にも、最終的には、すべての女神探求が無益に終わるのであった。<(p.77-78, 離騒 注)
「寅さん」の原型がここにあるということなんだろうね。
JRF2022/3/57499
……。
>終古は永遠の時間をいう。正確にいえば、円環的な時間の流れの中に入ることをいい、俗的な直線的な時間の観点からすると、無時間的で、永遠のように感受されるのである。九歌の描く元来の祭祀の中では、人々はそうした聖的な時間を神々と共有できた。<(p.172, 九歌 注)
一つ前で華厳経に関する本を読んだ([cocolog:93335769])が、そこで>美は時間を超える。…それは、芸術が遺っていくということでなく、美の中にすべての時間があるという感覚。<…と書いたが、それに相当する部分だろう。
JRF2022/3/52434
……。
「天問」では、質問が続く。答えは基本ない。…
>知っている人がいるという前提で疑問が出されている(…)。すなわち天地開闢や天地の構造についての神話的な知識は巫覡[ふげき]集団の中で伝承・共有されており、そうした人々の間で、天問の最初の部分は形成されたと推定されるからである。<(p.180, 天問 注)
質問に答えがない…というのは、ある意味、仏教の「不立文字」と同じところから出ているのではないか。というか、仏教の「不立文字」は当初、このような文学形式のことだったのではないか。
JRF2022/3/59820
禅で「不立文字」が『無門関』につながったのは、「天問」というバックグラウンドがあったかもしれない。さらに遡れば、「不立文字」自体がユーラシアで持っていたバックグラウンドを「天問」と仏教が共有していたのかもしれない。「天問」がこの先出てくるように『創世記』と似たことを語っていることを考えると後者のほうがもっともらしく思える。『創世記』神話の背景がここにあるという印象も持ってしまう。
JRF2022/3/58918
……。
「天問」には月に兎がいるという話が出てくるが…
>ちなみに朱熹「集注」には、月は鏡のようなもので、その鏡に映った大地の影(すなわち地球の姿)が月の模様だという説を引いている。<(p.182, 天問 注)
地球の影で月はかける。ある意味、正解に達していたのか…。
JRF2022/3/55704
……。
>天問の編者には、英雄たちは女性のために初志を見失なうものだという歴史観があり、その理由を尋ねている。<(p.204, 天問 注)
この先、『創世記』と似た部分が出てくるか、そこからふりかえって考えると、そういえばアダムもイブにそそのかされたことになっていたことが思い出される。
JRF2022/3/58028
これは一夫一妻が、妻が妊娠中やその後に男手を必要とすることを、逆に男が女手を必要とするかのように一人の妻を選ばせている…というところを「そそのかす」という表現になっているのだろうか? 特に支配層は一夫多妻で、女性に影響しても影響されないことが可能であるはずなのに、そうなってないところに根源的な「誘惑」を見るのかもしれない。そしてそれが人間性の根源でもあるということだろう。
JRF2022/3/53283
……。
>羿の奉げものを天帝が嘉納しなかった理由は解らない。「旧約聖書」創世記、カインとアベルの条にも似たような物語りが見える。<(p.205, 天問 注)
これは脱税神話ではないか。贈り物を基礎とすれば、常に良い物を選ぶのが当然となる。しかし、税として取るとなれば、そこから逃れることを考える者が出てくる。神に直接ささげるのではなく、人が人から集めてささげる形をとろうとしたとき、「神」に嘉納され得ないことが出てきた。それは、脱税であったかもしれないし、逆に税の取り過ぎ・中抜きであったかもしれない。そういうものが元になっているのではないか。
JRF2022/3/51030
それは国造りに関わる神話である。国造りに関する神話は、重要ではあるが、すべての人がそれが国造りに関することだと知る必要はなかっただろう。人が政治的になるのは容易なのに、政治の席はあまりにも少ないから、すべての者が政治的たることが幸せを意味しない。
即物的なことをそう悟らせず、それでいてなお、国が破れたときに復元できるよう、人々の関心を引くように物語を作り、語り継いでいくのがシャーマンの役割だったのかもしれない。
JRF2022/3/50267
……。
>すなわち九層の台は、九層からなる天と対応していた。十層からなる台は、その頂上に登れば、天帝をも下に見ることになる。(…)強いて推測すれば、中国版のバベルの塔のような伝説があったのであろう。<(p.214-215, 天問 注)
バベルの塔については↓に記事を書いていた。
《『創世記』ひろい読み - バベルの塔 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_13.html
JRF2022/3/51898
……。
>媵[よう]は、婚礼の際に花嫁に付いてゆく従者たち。(…)身分ある者を媵とするのは、その者に辱めを与えることであった。<(p.225, 天問 注)
オペラ『R.シュトラウス: ばらの騎士』では、薔薇の騎士は名誉なことだったように思う。不名誉なのは、それが、実は不倫相手や妾腹の子などとの関係を示したからでは…などと考えてしまう。
JRF2022/3/51916
……。
>なお邑が水中に沈むという伝説は、「旧約聖書」のソドムの壊滅などにも通じる、全世界に広がる伝承を基礎にいった物語りである。<(p.225, 天問 注)
[cocolog:72947619] などではソドムとゴモラやロトのその後を相続税・贈与税にからむものと私は解釈した。それにからんで、[cocolog:93101196] では、同性婚こそソドムとゴモラの問題だったのではないかと考えたりしている。
JRF2022/3/54672
……。
伊尹は殷の湯王に「奴隷」として最初仕えたという。(p.241, 天問 注 など)
これは『創世記』ではヨハネの物語を思い出す。
下々から登用するといっても、奴隷から登用するとまでなると、誰がどうやってそれほど多数の者の中から選んでくるかという問題が出てくる。
JRF2022/3/58046
例えば、蠱毒のように競わせて…とすると、それで出てきた者が、戦士にならいいかもしれないが、支配層には不必要な・ふさわしくない資質を持つことになるだろう。
そうでないとすると、くじのようなもので選んで試すということになるだろうか。そういえば、ヨハネは夢占いによって、のし上がったのだった。占いを人事評価に組み入れるという発想がそこにはあるのかもしれない。そして、それへの批判的視線があるのだろう。
それと同時に厳密な能力主義の不可能性への認識があるのかもしれない。「くじ」を使うほうが平等だという認識もあったのかもしれない。
JRF2022/3/51667
……。
>彭祖が雉のスープを調理して奉ったとき、天帝はなぜそれを喜んで食べたのか。そのようにして授かった彭祖の長寿は、実際にはどこまで延びるのであろう。<(p.242, 天問)
ここでは、『創世記』で、ヤコブが長子権を奪うのにイサクにマトゥアミーム(おいしい料理)を食べさせたことを思い出す。ヤコブは長子権を得て、彭祖は長寿を得た。
なぜそういうことが可能かというと、家畜を生む秘術…つまり、進化論的知識が背景にあり、そこで、これまでの方法…伝承のしかたと違うやり方が合理的であると納得させる…という構図があるからではないか。
JRF2022/3/57613
……。
>この篇の後半に見える若者讃歌的な内容からも知られるように、橘は若い弟子たちを象徴しており、この作品は、離騒にも見えた、香草を栽培することをいって後継者を育てることに譬えるという伝承に基づいて成立したものであろう。<(p.345, 九章 注)
「進化」や血縁主義に対抗するものとして、教育の重視があるのだろう。そして人においては、それが真相に近い。世襲の支配者も、それを子供のころから教育できることが大きいと見る。
JRF2022/3/56359
支配者はときに、私がここまでで示したような「即物的」な言い方のほうを好むのかもしれない。しかし、それこそ、離騒の主人公が嫌った在り方なのだろうと思う。「即物的」で政治に目覚めたものが多くなり過ぎれば、席は限られるのだから、政治は乱れるしかなくなる。それは民主主義でない当時には、単に「民は由らしむべし、知らしむべからず」というだけのことではなかっただろう。ただ、戦国の世は、支配者も限られた時間で学ぶことが多過ぎ、そんなにゆっくり学ぶことができなくなったという背景もあったのかもしれない。失なわれる伝統に照らされて時代が楚辞を作ったのであろう。
JRF2022/3/55315
『楚辞』(小南 一郎 訳注, 岩波文庫 赤, 2021年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003200195
https://7net.omni7.jp/detail/1107200178
JRF2022/3/56263