cocolog:93369982
佐藤優『神学の思考』と『神学の技法』を読んだ。前者は再読。救いは「外」から来る…。「宣教しても無駄だ、聖霊がないから」ではなく、「外」を残す必要があり、「撤退」する「愛」により宣教が控えられてるなら、外の我々にも救いがありうる。 (JRF 2845)
JRF 2022年3月14日 (月)
以前『神学の思考』を読んで、そのときなぜかここにいつものような引用メモを残さなかった([cocolog:86784687])。その後、[cocolog:87611452] には一部引用があり、[cocolog:93262667] で言及している。そういう意味ではメモしてないのに結構、影響を受けてたかもしれない。今回続きの『神学の技法』が発売されてるのをはじめて知り、それで『神学の思考』を再読したあと、『神学の技法』を買って読んだ。
いつものように引用しながらコメントしていく。まずは『神学の思考』から。
JRF2022/3/144121
……。
……。
『神学の思考 - キリスト教とは何か』(佐藤 優 著, 平凡社, 2015年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4582717179
https://7net.omni7.jp/detail/1106492723
JRF2022/3/149062
……。
>(…)神学的に深く考察すると、キリスト教は人間の理性と衝突します。キリスト教は、人間が原罪を持っていると考えます。それですから、人間が造りだした文化や社会制度に肯定的価値を付与することは、根源においてできないのです。キリスト教の本質は、アンチ・ヒューマニズム(反人間中心主義)なのです。日常用語では、ヒューマニズムには肯定的な価値が付与されます。しかし、神に触れることのない、人間だけのヒューマニズムには、いささかの肯定的な価値も付与されません。<(p.16)
JRF2022/3/147776
逆説的に…ということではあるが、ここまでハッキリ言うところが、著者ならではだろう。ある意味わかりやすく、全編この調子が続いていて、私は(別に反キリスト教という文脈ではなく、人格的に)好感を持つ。
理性を高く評価し他を低く見すぎるのは、「造物主」を低く見るグノーシスに近いということもあるのかな?
JRF2022/3/147427
……。
>カトリック神学、正教神学では、イエス・キリストを経由する以外で、神について知る回路が残されています。それは自然です。「存在の類比」に関連して述べましたが、神が造った自然には、神の意思があるので、人間が自然を通じて神を知ることができるという発想があるのです。プロテスタント神学者でも、自然神学に肯定的評価を与える人はいますが、本書では、カール・バルト、ヨゼフ・ルクル・フロマートカの自然神学を忌避し、キリスト論に神論を包摂する考え方の延長で記述を進めます。<(p.57)
以前書いたのとカトリックに関しては逆だなぁ…。
JRF2022/3/145243
[cocolog:89975483]
>以前、[cocolog:87123943] と [cocolog:89280989] で>進化論が成り立つように見えることにも「神の意志」、大きな意味があるはず<と書き、>この「自然から学ぶ」という姿勢そのものをアウグスティヌス…そしておそらくカトリックは否定しがち<と書いた<
「進化論が成り立つように見えることにも神の意志があるはず」…というのは間違いなのだろうか? それとも浅薄…つまり、単純過ぎて深みがなく、人にうったえかけることができないということなのだろうか。
JRF2022/3/141668
……。
>神が悪でないのは当然の事実ですが、この世に悪が存在しているのも、また事実です。そのメカニズムは人知を超えたところにあるので、考えない -- これが正教の結論です。「不合理ゆえに我信じる」という信仰の形にもっていくのです。また、正教では、人間の理性はごく一部でしかないという人間観を持っているので、人知を超えたものは考えないという結論も受け入れやすいのです。悪は確実にあるけれど、神には悪に対する責任はないし、神は見えないので神の正義を見ることもできない。
JRF2022/3/144617
神が悪を許しておく理由はわからないけれど、神がそれでいいと考えていることをわれわれは然[しか]りと受け止めて、個別の状況においてイエス・キリストに倣う。正教の考えはドストエフスキーの小説によく表れています。
<(p.92)
ギリシャ正教の考え方はいつも参考になる。私が今後、転ぶとすれば、カトリックか正教だろう。
JRF2022/3/140986
神義論については『ヨブ記』が有名でそれについては長めの記事を書いている。
《「ヨブ記」を読む - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
JRF2022/3/141124
ドストエフスキーについても、ここで挙げるべき記事がある。
《正教とロシア革命前夜:『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』を読んで - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/03/post_1.html
JRF2022/3/147993
……。
>ここで重要なのは、創造に対する視座の転換です。ドイツのプロテスタント神学者ユルゲン・モルトマンは、ユダヤ教のカバラー思想を援用して、こう考えました。
「神はこの世界に満ち満ちていたが、その神が自発的に収縮をし、空いた隙間に人間の世界ができた。そこは神が不在の世界なので、人間が何かをして悪を生み出すのは当然であり、それに対して神は何の責任も負っていない。神のやったことは、自己撤退して場を造っただけである」
<(p.109)
JRF2022/3/144342
>アウグスティヌスは、神は人間と自然を自らの外部に造り出したと考えました。しかし、このような考え方をすると、神は人間と自然がない領域には遍在していないことになります。神が支配していない領域、 すなわち神の主権が及ばない領域が存在することになるのです。遍在することができない神は、ユダヤ教、キリスト教の神概念と相容れないように見えます。ここで、カバラー思想を援用して、モルトマンは神の自己限定 (その結果、神の収縮が起きる) について考えるのです。
JRF2022/3/143139
>しかし、事実、神の外を考えるような一つの可能性がある。すなわち、創造に先立つ神の自己限定の仮定のみが、神の神性と矛盾せずに一致させられる。神ご自身の「外の」世界を創造するために、無限なる神は前もって有限性に対して、ご自身の中の場所を明け渡したに相違いない。神のこのようなご自身の中への退去が、神が創造的にその中へと働きかける場所を明け渡す。全能と遍在の神が神の現在を撤退し力を制限することによって、またそうする限りにおいてのみ、神の無からの創造のためのあの無が成立する。(…)<
つまり、神が収縮した後にできた空間で、われわれは造られたのです。
<(p.112-113)
JRF2022/3/145819
>神はもともと宇宙の隅々にまで満ちていました。それがあるとき、「縮もう」と決めたのです。人間から見れば神の気まぐれのように見えますが、そこに神の意志があるのです。すなわち、神が自らの場を人間に開け渡すという意志です。<(p.114)
JRF2022/3/147191
カバラの考え方で、この世に神がいないように見えるということの一つの応答ということだが、ただ、これは「自由意志弁護説」の亜種でしかないように私などは思う。神は介入できないわけではないことは著者なども認めるのだから。もちろん、なぜ神が撤退したかを問うことに意味を見出すこともできるのだろうが…。
次のような記事が関連か…。
《神は至善か、暴君か - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_8.html
JRF2022/3/145859
《神の全知性 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_9.html
《自由意思と神の恩寵 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html
JRF2022/3/145512
……。
>虚無の起源をモルトマンの言葉をもとに詳しく考察してみましょう。
>創造を可能とするために、神は、「ご自身からご自身へと撤退される」。この謙虚な神の自己限定が、神の外へと向けられる創造的活動に先立つ。この点において、神がこの世界と関わるかぎり、神の自己卑下は創造によって初めて始まるのではなく、既に創造の前に始まっているのであり、神の創造の前提である。神の創造的愛は、神の謙虚な、ご自身を卑下する愛において、基礎づけられている。(…)<
<(p.117)
JRF2022/3/141511
自己卑下が創造の本質であり、つまり、創造の本質とはイエスである。…と。最近書いた↓を思い出す。
JRF2022/3/147160
[cocolog:93225056]
>でもね、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうけど。<
JRF2022/3/146707
……。
>(…スコラ神学など…)こういう体系的な神学は、学術的に精緻であっても、人間の救済には役立ちません。「旅人の神学」は、このようなスコラ神学と対極的な神学です。神学は、終末に向かう旅の途上にあるので、そのときの状況に応じて大胆に変容しなくては、人間の救済に貢献できないという発想で、論理的整合性よりも、具体的懸案事項の解決を優先するのが「旅人の神学」の特徴です。モルトマンの創造論は優れた「旅人の神学」です。<(p.140)
JRF2022/3/145412
ユダヤ人大量虐殺を経た現代において、モルトマンの創造論が果たす役割がある。…と。それは、(再び)ユダヤ教から取っているという他に、「神がいない」ように見えることの説明があるということだろうか? 聖霊により希望があるということが救いなのだろうか? 神が撤退することが、植民地から撤退したヨーロッパに正当性をもたらすということか?
JRF2022/3/143593
……。
>聖書を素直に読めば、そのような解釈ができるにもかかわらず、神学者たちは、長い間、神はまずアダムという男を造って、そこから女を造ったという、男を女の上位に置く解釈をしてきたのです。この男権主義的な聖書解釈を脱構築することが現在の神学の課題になっています。<(p.165)
JRF2022/3/144740
創世記1:26-27 については、↓に書いているが、合わせ鏡にいくつもの神のイメージが映り、それが人になっているという解釈もできると私は考えている。そして、これを敷衍すると、最初に映ったイメージが男になったのだから、神はどちらかといえばむしろ女であるということになる。つまり、神は最初に作ったのは男だから、男上位とは限らず、むしろ神により似ている女が上位だという考え方もできるわけである。
JRF2022/3/148854
《『創世記』ひろい読み - 神の像・似像 - JRF の私見:宗教と動機付け ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_1.html
まぁ、こういうのは異教的解釈だからダメなんだろうけど。
JRF2022/3/147782
……。
>このブーバーの人間観に対してアメリカ神学は反論します。世俗化論で有名なハーヴェイ・コックス(Harvey Cox, 1929-) は、すべての人間関係を「我」と「汝」にしたら窮屈でしょうがないから、「我」と「汝」の関係は数人でよく、それ以外の関係は「我」と「あなた」の関係でいいと主張します。(…)農村では顔も名前もわかっているから、例えば牛乳屋さんとケンカすると牛乳が買いづらくなりますが、都市のコンビニでは店員の名前を覚える必要もなく、万が一店員とケンカしても別のコンビニに行けばいいだけです。
JRF2022/3/149940
選択肢が増える中で、より深い人間関係を選ぶことができるのが都市の特長であり、一人ひとりがばらばらに見えながらも、人間の可能性を無限に開いているのが都市であると考えたのです。これは新自由主義の基本哲学です。
しかし、この新自由主義の考え方では、人間的な交わりである「我」と「汝」の関係はなくなり、「我」と「それ」、モノとモノの関係になってしまいます。店員の名前も覚えないようでは、「我」と「あなた」にもなりえません。
<(p.173-174)
JRF2022/3/140788
新自由主義の哲学がこんなところで説明されることになるとは。無限に対する誤解のようなものがあるんだね。
ちなみに、私は、新型コロナの騒ぎがはじまったころ、「新自由主義」についての批判を [cocolog:91758418] と [cocolog:91765142] で行っていた。
JRF2022/3/144700
……。
>グノーシス主義者は、ユダヤ教、キリスト教、ギリシア神話、プラトン哲学の素材を取り入れて、独自の神話を構成します。言い換えるならば、グノーシス主義は既成の宗教や思想を編集する力を持っているのです。<(p.227)
JRF2022/3/142226
私は結構いろいろな宗教を参考にしている。このつど発売した↓(参: [cocolog:93361273])では最初にキリスト教・易経を参考にしながら、仏教をしている。私ってグノーシス主義者なのだろうか?
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
JRF2022/3/149041
……。
>キリスト教神学の場合、以前から何度も述べているように、論理整合性がきちんとついている言説が異端として却[しりぞ]けられる傾向があります。<(p.238)
神学に論理整合性がないわけではない。浅薄な論理整合性が問題なのだろう。そして、浅薄な論理整合性で満足してしまうのが私の問題なのだろう。
JRF2022/3/144687
……。
>啓示解釈の正しさを証明するのは、自己啓示を行った神自身です。人間の側から言えることは、「私はこのような啓示解釈が絶対に正しいと思う」というところまでです。この限界を超えて、自らの啓示解釈を他者に強要しようとすると宗教戦争が起きます。神学者は、自分の解釈の正しさを、あくまでも神に求めるべきです。そうすれば、人間の世界では「絶対に正しいと当事者が信じていることが複数ある」という現実を受け入れることができるようになります。
JRF2022/3/146635
巷[ちまた]では、「一神教は不寛容だ」という俗説が流布しています。自らの判断基準を絶対視し、全知全能の神を受け入れていない中途半端な一神教徒が不寛容になるのです。三一の神を信じるキリスト教徒は、神に従うがゆえに、人間の社会における多元性を認めます。
<(p.251)
これは著者がプロテスタントだから言えることだろうと思う。まぁ、カトリックもドグマ以外はこういう態度を取れるのかもしれないが。ここを敷衍すると、新自由主義もプロテスタント的な文脈から出てきたんだろうな…と思う。
JRF2022/3/148685
……。
>伝統的なキリスト教の様式に固執するのは、割礼を信仰の基準と考えた、ユダヤ教の残滓を克服することができなかったキリスト教徒たちと同じです。伝統的キリスト教徒にとって本質的と考えられていた、敬虔、清い生活、市民的に上品な立ち居振る舞いという類[たぐ]いの事柄とキリスト教の本質を取り違えてはいけません。それは、人間の努力が救済の前提条件になるという思想が忍び込んでくるからです。パウロの時代に、一部のキリスト教徒が割礼を救済の前提条件と考えたのと同じ誤謬です。キリスト教の本質を私たちに再認識させることがキリスト教の課題なのです。<(p.303)
JRF2022/3/140764
著者の宣教の姿勢はとても立派だと思う。しかし、改宗した者が、結局、「キリスト教徒」的振る舞いを求められるなら、いっしょではないかと思う。かといって、組織に属さずにキリスト教徒たりえるのか。カトリックや正教に惹かれる私には疑問である。
JRF2022/3/146982
……。
……。
『神学の技法 - キリスト教は役に立つ』(佐藤 優 著, 平凡社, 2018年5月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4582717195
https://7net.omni7.jp/detail/1106887867
JRF2022/3/146977
……。
>イエス・キリストは、十字架による苦難を引き受けることによって、人間への愛を示しました。つまり、愛は、人間が主体的に苦難を引き受けることを抜きにして成立しません。このイエス・キリストに倣った行動を実践することが、キリスト教徒に求められています。<(p.39)
JRF2022/3/146857
神は「事件」または「奇蹟」を起こして、象徴的に物事を明示する。それは単なる象徴とは違い、それがその時起きるのにも意味があるのであるが、しかし、それはむしろ後の時代に多くの意味をもたらす象徴として機能する。「象徴」という言葉が偶像崇拝を思い出させるなら、「しるし」と言おう。どうも「しるし」が神にとっては必要なことで、それを「偶然」起こる事件から選んで、神が介入するように見える。
JRF2022/3/145940
人であるキリストの行為だからこそ人は倣えると感じることができ、キリストが神だからこそ、倣わなければならないとわかる。それが成り立つタイミングに神は人となられた。そのタイミングは、真の救世主は「終末」における唯一神のたった一度の転生として理解できる宗教的環境があり、ローマの支配で、市民の憎しみが警察などに共有されず教えが活かしやすい時であった([cocolog:93039063])。そういう「時」はこの先もあるように思えるが、実は広い宇宙で一回きりのタイミングだったのかもしれない。
JRF2022/3/149267
そのときキリストが見せた愛は、偶然であるが必然でもあった。イエスがそうなったから、神とした。しかしそれは予定されていた。そうならないことは可能であったが、そうなることは予定されたことだった。神が愛により撤退している度合いに応じて、偶然があり、その偶然により決まったこともあったのだろう。
世の中が広がれば、何が偶然で必然であったかが変わる。そこに緊張があり、「キリスト教徒」には受け容れられないようなことも主張されるに致るのだろう。「愛」が試されるときか。
JRF2022/3/146237
……。
>「肉」とは身体を持った人間のことです。肉によらずにキリストを知るとは、人間の意思や理性ではなく、聖霊(神)の力によってキリストを知るということです。<(p.55)
救いは「外」から来る。
宣教される側に霊のようなものがあらかじめあったから宣教が成功する。…というのはキリスト教では認めないのではなかったか。それは宣教を一度してうまくいかなかったときなどに宣教の不熱心さを生むからだろう。だとするなら、宣教は基本的に「伝聞」によってのみ成功するということになる。
JRF2022/3/146515
または、「良いニュース」の「伝聞」だけでないなら、「聖霊」もそのとき伝えられるということではないか。それが「聖霊」が人にとって外部のものであるということの「しるし」にもなっている。その「しるし」はキリスト者にとっても有効である。聖霊のない人間が救われないというなら、宣教すべきということになる。
JRF2022/3/140324
キリスト教が広まる以前は少し考えないことにして、現在のようにキリスト教が世界に広まれば、聖霊を宿している人は、(キリスト者から見た)キリスト者以外にもいるのかもしれない。そういう人から聖霊の働きを(外部的に)得るキリスト者もいるのかもしれない。救いは「外」から来る…。そういう「外」を残すのが今の時代、必然なのかもしれない。
JRF2022/3/146106
……。
>キリスト教徒は、小市民的な財産を守るために革命に反対するのではなく、人間による革命にある悪を批判し、悪に敏感でありながら、革命家によってつくられた新しい社会の建設に批判的に協力すべきであると、バルトは考えています。<(p.103)
JRF2022/3/140117
>キリスト教は、政治理論や社会理論ではなく、教会は政党ではありません。従って、キリスト教徒は自らの信仰的良心に従ってさまざまな政治態度を取ります。信仰的良心に基づいて、ある人は革命に参与し、別の人は合法的に現在の体制を改革しようとします。また、信仰的良心に基づいて反革命的な運動に関与するキリスト教徒もいるでしょう。そのうちどの立場が絶対に正しいとは言えません。どのような立場を取る人であろうとも、神の怒りから逃れることはできないのです。しかし、神の怒りの中に込められている意味を、われわれは正確に理解しなくてはなりません。<(p.119)
JRF2022/3/145282
著者は、保守に傾きつつ、「革命」も排除しない。「ソ連」に一定のシンパシーを持っているからかと私は疑う。
JRF2022/3/143616
……。
>バルトが今までの神学が全部駄目だと思ったきっかけとは、当時の神学界の一番の大御所だった、アドルフ・フォン・ハルナックという人が起草して知識人宣言を書くことになったものの、彼は、その知識人宣言のなかで第一次世界大戦でドイツの戦争支持を唱えたことです。それを見て、バルトの今までの神学というのは全部崩れ、すべて新しくやり直さなければならないと考えたわけです。しかし当時パウロについて扱うというのは、神学界から馬鹿にされる話だった。要するに史的イエスの研究では、パウロがもともとの純粋なキリスト教を捻じ曲げたと考えられていたからです。<(p.131)
JRF2022/3/140002
史的イエスの探求はパウロの軽視につながる。…と。
JRF2022/3/147641
……。
>それからさらに、バルトやフロマートカは、キリスト教が宣教をやめるべきだと言いました。文化帝国主義と一体化していて、それ以外の宣教のやり方がわからなくなっていたからです。だから基本的にはキリスト教徒の数を増やしていくということではなく、ノックをしてきた者には話しましょうという姿勢に変わっていった。<(p.143)
「宣教しても無駄だ、聖霊がないから」ではなく、すでに十分伝えたが「外」を残す必要があり、キリスト者でなくても救われうるから…と考えたのなら、(我々にも)救いがあるのだけど…。「撤退」する「愛」が求められているのかもしれない。
JRF2022/3/148524
……。
>聖書を読んでキリスト教徒になるのではなく、聖書に証言されたイエス・キリストと人格的に出会うことで、信仰が「伝染」するのです。あるいは、聖書を通さなくても、最初のきっかけは、身近にいるキリスト教徒からの感化の場合もあります。そのときも、その人を通じて、イエス・キリストと出会っているのです。イエス・キリストの現実(リアリティ)と出会うことなくして、キリスト教信仰は成立しません。<(p.161)
「宣教」は、「聖霊」というよりは「イエス・キリスト」自身と出会うということかぁ…やっぱり、本物のキリスト者の言うことは説得力が違うな。
JRF2022/3/148058
……。
>ユダヤ思想のダイナミズムとギリシア哲学の観察という視座が総合されてキリスト教神学は構築されています。それだから、信仰も対象として単に理解するだけではなく、「理解するために信じる」という形を取ります。<(p.167)
この辺は、神学は論理なのでキリスト者でなくても理解できるようになっていると確か今回読んだ中にあったこととは矛盾しているのかな…と思う。
JRF2022/3/146373
……。
>(…特にプロテスタントが…)この点を誤解して、教会に通わずとも「目に見えない教会」にキリスト教徒が所属できるという考えは間違いです。<(p.191)
これはよく言われること。私はキリストが「唯一神」である可能性があると信じていると言っても、教会に通わない限りは救いはない…というのはよく言われることで、わかっている。
ただ、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ 20:16)などを参考に、外にいるほうが「先になる」可能性があると信じているテイで、仏教式の葬式を上げられるような「外」にいるのも許されうることではないかと思いたい。
JRF2022/3/149784
……。
>スターリン主義が、粛清や反対派弾圧を継続的に行うのは、階級社会の残滓を徹底的に除去すれば、そこから本来、人間が持つ善性のみが発現された理想郷が出現すると考えるからです。<(p.202)
悪を除去すれば善くなる…というのはしばしば外れる。それは基本的なことで、忘れがちだけど。でも、まぁ、「批判」が必要は局面は多い。
JRF2022/3/141563
……。
>しかし、このような現実の生を軽視する考えは間違えています。この世の生は、死後の「永遠の命」とは、別のカテゴリーに属します。この世の生は、それ自体で完結しているので、それ自体で重要性を持ちます。<(p.212)
「シミュレーション仏教」で「生きなければならない」を強調したのとつながるか…?
JRF2022/3/140085
……。
>終末は同時にイエス・キリストが生きていた時代への復古でもあるのです。<(p.225)
「すでに」と「いまだ」のはざまで、「すでに」の最初を回復する必要がある。…と。
ちなみに、「最後の審判」または「終末」と阿弥陀信仰をつなげた話を、最近、華厳経の本を三冊読んだとき([cocolog:93335769])や、梶山雄一『大乗仏教の誕生』を読んだとき([cocolog:93307988])などにしたのだった。
JRF2022/3/140579
ゼノンのパラドックス的な有限でおさまる無限で、普遍的法たることはできるが、その「有限」を超えて無限であろうとすれば、菩薩は法になれず「偶然」を除去できないという話であった。
そこからすると終末があって実際にこの世界が有限であることが、逆に神が無限であることを証明することになるのかもしれない。しかし、神がイエスという人で有限であったなら、世界のほうが無限でもよかったから、終末がまだ訪れないということか。イエスが神として再臨するとき、世界の有限が確定する。…と。
JRF2022/3/147756
いや、こんな似非宗教的論理が通用するとは思えないが…。
…では、「神の国」の「永遠」とは何か? 「偶然」がない?…いや、むしろ「偶然」が真の「偶然」なのではないか。にも関わらず「人」が永続しそれを乗り超える…と。
…この辺は、小説のプロット的なものでしかない。
小説のプロットなら、すでに何度も実際には終末が来ており、そのたびごとに終末が来てないところから再スタートする歴史が作られる…的なことも考えられる。(例えば↓に似た話がある。) しかし、それは弛緩した終末感をもたらすだけだ。
JRF2022/3/144957
《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970
キリスト教の枠内に留まっている限りは、上のような小説につまづく可能性はないが、そうでないと、「すでに」と「いまだ」の間に「小説」を作ってしまう者も出てくるのではないか。
JRF2022/3/143484
……。
>よい行いをすることと救済の間には、何の関連もありません。救済は、人間の行為とまったく関係なく、ただ神からの恩恵によってのみ実現するのです。<(p.276)
人は悪い状況におかれることがある。だから、「よい行い」ができるかどうかはさして重要ではない。「よい行い」をしていると見えたからと言って、内心ではどうなのかわからない。いや、内心が悪いような場合でも、実のところはそれは悪い状況のせいが大きいので、救いがありうるかもしれない。…というのが背後にあるのだろう。即物的に考えると。
JRF2022/3/141854
それでも何かしらの「しるし」があると考えると、↓に近付くか。
《四諦:仏教教義の提案的解釈 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html
>無常の世を超越した存在である自らの仏性からの回向であれば、自らの意志にかかわらず、他人の煩悩に自らの功徳の徴しが表れるはずである。<
JRF2022/3/140309
無限の神からすれば、どんな大きな善も小さく、どんな小さな善も大きい。…か。
神の国で永遠に生きると予定されている人間の存在は「偶然」ではない。…と。逆に「偶然」でしかない人間存在がある…なんてことがありうるのか? すべての人について、神にとって「偶然」でも誰か人にとっては人は「偶然」ではありえなかった。ただ、人がそれに執着することが善いことなのかは、一考に値するところか。
JRF2022/3/148933
神の国で永遠に生きることは本当に善いことなのか? 「生きなければならない」から長寿は善いことなんだろうけど。ゲームとかマンガとかでは不死者の苦しみとか出てくるけどね…。
まぁ、ほっとくとこういう「迷い」に陥るから、教会に属すというのが大切なんだろうね。
JRF2022/3/143521
……。
>人間の力で、終末、すなわち救済の時を早めることはできません。しかし、人間の力によって終末を引き寄せようという運動が繰り返し発生します。<(p.292)
「シミュレーション キリスト教」を考える過程([cocolog:93039063])で、>神学者に十分リソースを割[さ]かないと、終末を引き寄せる者が暴れ出し、社会が荒れる。神学者に十分リソースを割くと、終末を引き寄せる者をコントロールでき、終末を引き寄せる者を逆に増やして彼らの技術投資で戦争にも強くなる<…と書いた。
JRF2022/3/148743
事実上、ちょっと神学者にコビを売った感じかな。ただ、私は特にキリスト教の初期は結構、そういう面があったのではないかと本気で考えている。
JRF2022/3/144101
……。
>死ぬときには、肉体だけでなく魂も死ぬというのがキリスト教の考え方です。<(p.337)
復活するということは、神の記憶のようなものには残っているわけで、それを魂的なものと考えられないわけではない。煉獄の問題と同じ問題があるということではあるが、死後の世界を人の事情で決めるわけにもいかないわけだし…。まぁ、神が様々な事実による「啓示」からの人の「類推」を大きく裏切ることはない…と予想できるのかもしれないが…。
JRF2022/3/142796
[cocolog:93009141]
>
田上太秀『ブッダの最期のことば』を読んだとき([cocolog:92137624])に書いたことを少し繰り返すが、↓に書いたように神の記憶モデルと霊的肉体モデルという魂に関する少なくとも二つの有効な議論がある。
JRF2022/3/142666
《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。説 1. 神の記憶モデル(…)説 2. 霊的肉体モデル(…)。<
JRF2022/3/141465
そして、>死んで閻魔大王に会うというとき、人は「霊的肉体」を得ていると言えるだろう。一方で、閻魔帳が自分以上に自分を知っているというのは「神の記憶」に近い。<>ちなみに、霊的肉体や神の記憶は、アートマンのように常住不滅で同一である必要はまったくない。そうである可能性をまったく排除するものでもないが…。<
神の記憶モデル的なものとと霊的肉体モデル的なもの、どちらも可能性があり、どちらかでしかないように考えられるが、どちらもありうる「神秘」があるのかもしれない。
<
JRF2022/3/146498
「霊的肉体」が異端であるという話はこの本にはあったが、ちょっと上とも文脈が違うし…。
JRF2022/3/143770
元は「ウェブ平凡」で 2014年4月 から 2017年2月 の連載。
《佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】》
https://mt.webheibon.jp/blog/satomasaru/
JRF2022/3/145622