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ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル,エッシャー、バッハ』を読んだ。ゲーデルの不完全性定理を中心にエッシャーの絵、バッハの音楽を取り入れながら、AI や禅にも言及する「博識」的なとても分厚い本。大学生時代からいつかは読んでみたいと思っていた。 (JRF 7510)

JRF 2022年8月24日 (水)

『ゲーデル,エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環 20周年記念版』(ダグラス・R・ホフスタッター 著, 野崎 昭弘 & はやし・はじめ & 柳瀬 尚紀 訳, 白揚社, 2005年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4826901259
https://7net.omni7.jp/detail/1102248921

JRF2022/8/245180

ゲーデルの不完全性定理を中心にエッシャーの絵、バッハの音楽を取り入れながら、AI や禅にも言及する「博識」的・いってしまえば「衒学的」なとても分厚い本で、原著は 1979年、日本語版第一版は1985年の古い本である。

JRF2022/8/243134

不完全性定理の一般向け解説が読みたければ、今では、結城浩『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』([cocolog:88125718]) などがあるため、その目的ではオススメできる本ではなくなっているが、昭和な時代の生命と機械に対する真剣な考察・時代の雰囲気を知りたいなら、ぜひ読むべき本となる。

JRF2022/8/240497

私が大学時代に専門として選んでいく形式論理・不完全性定理を説明した本ということで、大学生時代からいつかはこの本を読んでみたいと思っていた。研究室にはこの本(の第一版)があったのだが、とても時間が取れず読めていなかった。研究室を出た後は、中古で安くなるのを待っていたが、安くならないまま、ここまできて、興味を持つかもしれない大学一年生の甥に紹介するのに、読んでおいたほうがよかろうというギリギリのタイミングで買ったのだった。

JRF2022/8/240878

私のかつての専門に近いこともあり、また、時代的に私が考えてきたことと重なる部分が多かった。かつて書いたブログの記事などをよく思い出したりした。そういうことを本の引用をしながらちょっとこの下で書いていこうと思う。

JRF2022/8/245574

……。

「GEB」とは「ゲーデル、エッシャー、バッハ」のことであり、この本のことでもある…

>一言で言えば、GEB は生命のない物質から生命のある存在がどのように生まれるかを述べようとするたいへん個人的な試みだ。自己とは何であり、石や水たまりのように自己をもたないものからいかにして自己が生まれるのか。「私」とは何なのか。(…)<(p.P-4)

JRF2022/8/247714

この本は不完全性定理の証明の解説でありながら、その目的は生命の不思議を考えることにあるという。不完全性定理の証明には自己言及的な部分があり、そこが生命を思わせるということだろう。ただ、私はそういうイメージはあまり持っていない。

JRF2022/8/248586

繰り込み群、フラクタル…自己言及的な考えの大事さは私も認めるところであるが、それと生命の自己とはだいぶ違うという印象が今の私には強い。自己言及的な技法は、生命の自己を示すのに結局は使われるかもしれないが、そういう技法は(一連の似通った)技法でしかないと今では思っている。

JRF2022/8/249411

あと、生命がなぜ生まれるかについては↓のコラムで私の考えを示した。(「なぜ生きるのだろう?」という問いにとりあえずの答えを出した部分は [cocolog:92189837] でも読める。)

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q

JRF2022/8/240528


かつて宇宙には地球以外の文明があり、それが滅んだこともあったかもしれない。その文明以前には文明はなかった・生物はなかったが、何がしかの定常状態やパターンぐらいは偶然に生じていたことだろう。そういう文明または定常状態・パターンを「安住」と呼ぼう。(…)

JRF2022/8/242067

とにかく、その安住が崩壊したとしよう。そのとき、永い年月を得たあとかもしれないが、その安住の残骸(例えば、同じパターン的形質の岩があるとか)を根拠として、別の安住が起ち上がることもあるだろう。そこでは安住の残骸と同じものがあったほうがよいとなろう。それを探し求める実体になる…ということだ。これを物理学用語から少し離れるが安住の「反作用」と呼ぼう。

JRF2022/8/243974

新たな定常状態としてかつての継続を求めるものは、反って自らの継続も求めていることになる。そこにはある種の定常状態が・個物とはまだ言えないものの「総体として生きたい」が生じていると考える。

(…)「総体として生きたい」までが出れば個々が「生きなければならない」はすぐに出る。

JRF2022/8/240862

……。

>無矛盾性 = どの定理も(ある想像可能な世界で)正しいと解釈できる場合。<(p.116)

無矛盾性といえば consistency … 一貫性のほうを私は考えてしまうが、ここでは soundness …健全性のことのように思う。

JRF2022/8/244280

……。

絵に入ったあと元の世界に戻るにはトニックを飲む…という文脈…

>あらかじめ絵のなかに押し入れられないで、ひょいっとトニックを飲んだらどうなるんだろう?<(p.121)

JRF2022/8/245916

Haskell で goto が使えるようにできるという記事を昔書いたが、そのとき例の中にちょうど、「あらかじめ絵のなかに押し入れられないで、ひょいっとトニックを飲む」に相当することを書き入れておいた。「ここから return に向かうこともできる。」と書いている部分である。ただ、この例では単に停止するだけで不思議なことは起こらなかったはず。

JRF2022/8/248278

《Haskell の callCC で goto を作る - JRF のソフトウェア Tips》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2011/01/post-2.html

JRF2022/8/248754

……。

>再帰性は、パラドクスすれすれのように見えることがある。たとえば、再帰的定義というものがある。(…)<(p.141)

ここは↓の演繹と帰納についての記事を思い出した。

《メタ論理: 演驛と帰納 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/01/post_10.html

JRF2022/8/241759


「演驛」とは論理的に命題を導くことである。

「帰納法」は演驛の一つである。しかし、(数学的)帰納法を学ぶことで、人は帰納のなんたるかを知る。それが「帰納」である。

JRF2022/8/242884

……。

>超自然数<(p.451)。

自然数に対する負数や虚数といった「拡張概念」がある。

私は並列処理について形式化(のコンピュータ上でのエミュレーション)を考えていたときに「虚実行」という概念を偶然作ってしまったことがある。

JRF2022/8/242873

《Exhaustive Lock Dependency Emulator その1 並列処理の総当り - JRF のソフトウェア Tips》
http://jrf.cocolog-nifty.com/software/2011/06/post-1.html

《ショック。ELDE (Exhaustive Lock Dependency Emulator) に大きなミスを発見。実際にはありえない「虚実行」を数え上げてた。 - JRF のひとこと》
http://jrf.cocolog-nifty.com/statuses/2018/04/post-683a.html

JRF2022/8/249849

「実実行」「虚実行」という概念は魅力的で、私はすごいものを発明してしまったのではないかとか妄想したものだが、しかし、この本のこの部分を読んでると、そういう「拡張概念」はよく出てくるもので、ポピュラーなものでなければとりたてて特別視すべきものではないのかもしれない。

JRF2022/8/242971

……。

AI 作曲について…

>しかし、それまでは、「この曲はコンピュータによって作曲された」といういい方は私には気楽にできない。<(p.598)

絵を描くAI「Midjourney」などが今話題になっている。この作曲版を見たときも著者は、「作曲した」と見なさないことができるだろうか?

JRF2022/8/249107

>いずれにしても、人工知能に痛切に欠けているのは、「一歩退いて」何が進行しているかを見わたすことができ、この展望に立って目前の仕事に対する取り組み方を修正できるようなプログラムなのである。<(p.602)

これはゲームに対するものなど、「強化学習」が今がんばっているところで、このあたりも著者は今ならどう判断するのだろう?

JRF2022/8/241726

チェスが勝てないというのもそうだが、今では AI が可能にした部分は大きい。この本に書いてあるようにコンピュータが達成していない部分が、人間知能の本質とされるわけで、それは今後も続くわけではあるが、絵画などこれまでそれは人のほうが得意だという場面で AI が勝ることが増えてきていて、時代の転換点に来ているな…と私は思う。

ところで私は霊魂的なものを認めがちな人間である。仮にコンピュータに知能がそなわりチューリングテストをパスしてもなお、「霊魂」の余地があることを私は明らかに述べている。

JRF2022/8/241408

[cocolog:92137624]
>>
《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。説 1. 神の記憶モデル(…)説 2. 霊的肉体モデル(…)。<

JRF2022/8/249616

上で>生命または意思を持つとはどういうことかというのはよくわかっていない。<と述べたが、かりに科学的に意思がどのようにできているかがわかったとしても、なお、霊魂を否定できないことを説明するものとして↑の記事がある。

JRF2022/8/248813

2008年12月4日のひとこと
>《魂の座》の記事で注目して欲しいのは実は「説2」。説1の神の記憶モデルは自然法則の自動性を死後にまでつきつめると容易に導かれ、説1だけを真理とするのはカトリックとかでは実は異端なのだと思う。

JRF2022/8/241780

(…)

それに対し説2は神の介入をやたらと認めるようで「日本人」は稚拙とみなすかもしれないが、ロジカルには、これもまた反駁できない説明であることに気付いて欲しい。いちいち神が登場して魂を「霊的肉体」に移すんだというイメージを含らませれば、自らの存在への見方は変わってくると思う。

JRF2022/8/247065

なにより、現に…

[aboutme:75920]
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていない<。

本当に「その日」が来るかは疑わしい。
<<

JRF2022/8/246076

……。

>ではゲーデルの定理は、われわれがわれわれの心について考えるうえで、何ひとつ提供するものがないのか? 私はあると思うが、それは一部の人々が当然こうだと考えつく神秘的および制限的な点においてではない。<(p.696)

JRF2022/8/248432

私はゲーデルの定理の大切な帰結はいわゆる「三値論理」がほとんど無意味であることを示した点にあると考えている。西洋は「真」「偽」の二値で考えるのに対し、東洋は「真」「偽」「わからない」の三値がある…みたいな言説に昔の私はつまづいたものだが、しかし、ゲーデルの定理が述べるところによれば、「真」「偽」の二値であろうと必ず「わからない」というメタな状態がありえるため、「わからない」というのを無理に考えなくてもいい…のである。

JRF2022/8/246922

逆に三値を考えれば、「「真」「偽」がわかるのか「わからない」のか」がわからないという状況が必ずで出てくるというのが、不完全性定理の教えるところだからである。

JRF2022/8/248798

《不完全性定理: 「真」「偽」「わからない」 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/__33e0.html
>ある「命題の真偽」は証明できないが、「ある「命題の真偽」が証明できない」ことは証明できることがあるというのが不完全性定理の骨子である。プログラマならば、すべての真偽を証明するプログラムを書こうとすると必ず無限ループに陥るプログラムになることが示せると言えばわかりやすいか。<

JRF2022/8/241594

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