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cocolog:93717633

[cocolog:93624438] に書写した必需品と贅沢品の宇宙的独立関係と、「シミュレーション仏教」の本目的三条件「生きなければならない」「思考と思念を深めるのがよい」「来世がないのがよい」は、似たことを言っているのではないかと考えた。 (JRF 2163)

JRF 2022年9月 6日 (火)

[cocolog:93624438] にメモから次のようなコピペをした。

>>
非常に高いエネルギー状態がありうるからこそ、中間的状態が選ばれうるというのは、脳や社会にもそういう面はあるのかもしれない。そう考えると、『シミュレーション仏教』や micro_economy_*.py などの「経済シミュレーションの話」にもつながってくるかもしれない。

特に >>2022-06-11T18:08:34Z の一連のメモにおいて、次のように書いた。

JRF2022/9/68438


話を大きくして人類・生命の目的はなんだろうか。ある程度の数を存続させること…「中位存続」が大きくあるだろう。しかし、中位存続がほぼできるとなれば、上の文脈からの「贅沢をする」ことが次の目的となるのではないか。

ただし、そこには不確実性下でという条件がある。このような不確実性下…つまりランダムな変動を許す中で有限値が無限に維持されるということはほぼありえない。つまり、P(絶滅) = 1 … 絶滅の確率は 1 である。

JRF2022/9/63291

しかし、人類は「有限」と言いつつリアルな存在だから、その生存(時間)の分割はいかようにでもできる。無限の宇宙に比べたとき、確率を計算すれば 0 でも、生き残る可能性はありうる。

そのような確率 0 を生き延びるような発明を持たらす知財があるとすれば、その価値は 0 の逆数で無限になる。

しかし、だからといって、贅沢品に全賭けするのがいいかというとそうではない。次の時間に無限の価値がある知財が得られる確率はほぼ 0 だろうからである。

JRF2022/9/65776

すると 0 と無限をかけて現在価値というのを考えると、その平均は決まらないということになろう。評価できないのである。贅沢の中位存続への寄与ははかりがたいということになる。

(…)

人々に「降りてきた」知財がどれくらい「使える…役に立つ」か…それが中位存続…ある意味「必需品」…と贅沢品の重視の度合を決めるとなる。つまり、知財の「降りてきぐあい」が「効用」を決定するのである。

JRF2022/9/68302

絶滅を超えて広がるという部分が、確率がとても低いがありうる非常に高いエネルギー状態ということになり、逆の観方をすると、それがありうるからこそ中間状態である知財のアイデアが降りてくる…というふうに考えることはできまいか。
<<

JRF2022/9/63817

これを、「必需品と贅沢品の宇宙的独立関係」と呼ぼう。生きるための必需品と、知恵のための贅沢品は、宇宙論的に、その評価が独立であることが求められているのである。…といいたいわけだ。オオゲサだが。

JRF2022/9/61253

……。

ところで、無限に生きのびさせるためには、一回の大きな発明では終らず、無限回の「発明」の系列が必要かもしれない。すると、それは無限の濃度を持つので、一つ一つの評価は有限でも良くないかもしれない。すると、そういう発明に無限の価値があるとする上の論理は適用できなくなるだろう。それはマズイ。

JRF2022/9/68645

つまり、無限回であっても、その生活次元での無限の濃度よりは本質的に少なくスカスカであるか、何かもっと特別なトリックで、発明の評価はコーシー分布のように平均値を持たない…みたいにできないといけない。そうする条件とは何なのだろう?…わからない。それは今後の課題としたい。

JRF2022/9/67316

あと、発明に時間的厚みがあると「平均を持たない」ということはできず、平均が出てきて、必需の一種として回収できるかもしれない。無限回で時間的厚みがあっても、それが本質的な無限にならない…みたいな条件が必要なのかもしれない。これもよくわからず今後の課題としたい。

JRF2022/9/65572

……。

そして、今回の本題に移るわけだが、「シミュレーション仏教」(↓)において本目的三条件として、「生きなければならない」「思考と思念を深めるのがよい」「来世がないのがよい」を挙げたが、この「生きなければならない」は上の必需品に、「思考と思念を深めるのがよい」(と「来世がないのがよい」)は、上の贅沢品にちょうど相当するのではないかというアイデアが、天下り的に私に浮かんだ。

JRF2022/9/68470

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

JRF2022/9/63135

……。

ところで、「生きなければならない」は「総体として生きたい」から出るというのが↑での私の議論だった。

「総体として生きる」…永く生きる…には大きく二つの方向性がある。一つは、数多く生きるということ、もう一つは個体の寿命を長くして生きるということである。

長寿と数がトレードオフになっていると考え、それが贅沢を重視するか否かになっているとすれば、長寿を選ぶのが贅沢を選ぶことになるだろう。(しかし、そんなにわかりやすい関係になっているとも限らず、あえて短寿命・少数を選ぶこともありうるのではないかとも思うが…。)

JRF2022/9/62917

ただの長寿ではダメかもしれない。贅沢は知恵のためであった。生きている間、思考ができるよう、健康に長寿することのほうが目的となるかもしれない。もしかすると、そのため、生存競争して、不健康な長寿個体を排除するのが、正当化されるのではあるまいか…?

違う思考を持つため確立した個が多いほうがいいということもあるかもしれない。ほとんど統合された自我をもつ生息地だけが広いアメーバのような「個体」一つというのは、思考については考えが偏りダメなのではないか。

JRF2022/9/69820

……。

贅沢品と「思考と思念を深めるのがよい」の関係は以上で考察できているかもしれない。しかし、「来世がなければよい」とはこの場合どういうことか。

必需品・贅沢品の宇宙的枠組みの中で、その次元はこの三次元に限られるだろうか? 人類が無限に生きる中、もしかするとこの宇宙とは違う宇宙に進出するかもしれない。すると、これまではこの宇宙のみで無限に生きることが課題になっていたのが、それが違う宇宙も含んだより大きな宇宙での無限存続が問題になるのかもしれない。

JRF2022/9/61897

フラクタルと華厳経に関するひとこと([cocolog:93701863])で、「有限に涅槃する」か「菩薩になる」かで無限や有限のとらえ各に違いがあることを述べたが、「来世がなければよい」というのは、違う宇宙を発見しても、元の宇宙での無限を目指すべきということなのか、それとも、来世の宇宙に転生してこの宇宙を攻めないように…ということなのか?

JRF2022/9/68745

議論が行き過ぎたので少し考えを戻そう。上で、「発明に時間的厚み」があるかないかを問題にした。これをある程度以上…無限にあるとすることで、評価の平均をもたらすような本質的な無限を発生させない…という必要はあるのかもしれない。ある程度以上の時間評価の否認。…それが「来世がなければよい」ということだろうか。いや、違う宇宙のことも考えれば、ある程度以上の時「空」評価の否認ということが、「来世がなければよい」かもしれない。

JRF2022/9/61370

生物において…、思考そのものは「相続」されるべきではない。転生的になるべきではない。永続する価値を生んだ個体を評価しない。そういう個になろうとしない。そういう個は、まるで「発明」を「必需」と比較可能と見せ、他を圧迫し過ぎるから。…となっているのではないか? それが「来世がなければよい」に相当する部分なのかもしれない。

キリスト教において、「永続する価値を生んだ個体を評価しない」というのは、マリア信仰を否定するように読めるかもしれないが、マリア信仰の場合、「そういう価値はありうるが、もう二度とはない」という形になっているということではないか?

JRF2022/9/61492

……。

追記。

○ 2022-09-10T07:30:21Z

[cocolog:93717633] で必需品と贅沢品の宇宙的独立関係という話をした。 [cocolog:93701863] ではフラクタル次元について論じている。

独立関係とは軸を作ることすなわち次元を一つ定義するということと考えると、両者は関係してくるか。「来世がないのがよい」あたりは、1未満のフラクタル次元がそれで定義されるかもしれない…という話になればおもしろいのだが。

JRF2022/9/105894

逆に、必需品と贅沢品は、完全な独立でなくても、ある種の入れ子構造を作るとフラクタル的に次元ができて、平均が定義できないとみなせる…とかできないか?

JRF2022/9/109985

……。

……。

追記。

○ 2022-09-17T07:48:14Z

必需品と贅沢品への適正な投資量が独立であったとしても、必需品については 0 にしてもいいということはありえない。

JRF2022/9/176834

必需品は最低限必要な量があり、その量から1単位増えるごとに、贅沢品を1単位増やすことの適正さが判別しづらくなっていく。そしてどこかで(ベイズ的に?)5分5分「的」割合となって必需品と贅沢品の追加の望ましい量が「独立」になる。ただし、それは5分5分にするのが正しいというのではなく、平均が定義できないため、どの量の割り当てでも適正となる…ということである。

JRF2022/9/171069

どこまで必需品を増やしたときそうなるかというその具体的な点は求めることはできないかもしれないが、そこは必ず有限で、それに似たこととして、ある必需品の量を与えるとある有限点で、そこ以上ならば必ず、平均が定義できないという点が存在することは示せるかもしれない。

JRF2022/9/174401

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