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cocolog:93763227

セネカ『怒りについて 他一篇』を読んだ。「他一篇」は『神慮について』。外面的には虚の世界・死後の世界も考慮すべきだが、今善きことをする人は、善人が現実在において救われることをあくまで信じて「生きる」べきである。 (JRF 8950)

JRF 2022年10月 1日 (土)

『怒りについて 他一篇』(セネカ 著, 茂手木 元蔵 訳, 岩波文庫 青 607-2, 1980年12月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8226I
https://7net.omni7.jp/detail/1100371663

JRF2022/10/18099

セネカはローマで紀元1世紀ごろ、イエスと同時代に生きた哲学者。岩波文庫には新しいセネカ『怒りについて 他二篇』というものもあり、「他…篇」の部分の収録作が違う。私は、『神慮について』が読みたかったので、『他一篇』のほうを特に選んで(中古で)買った。

幼いころからなぜか↓のようにセネカという名前に関心があった。そのわりに著書を読んでなかったことに今さら気付いたので、今回、読んでみようとしたのだった。

JRF2022/10/14603

《ソウルキャリバー4 キャラクリ 懐かしキャラ 編 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2010/11/post-1.html
>『宇宙の騎士テッカマン』からアンドロー梅田。なぜか私はこのキャラをセネカの名で覚えていて、テッカマンの二次創作をすることばあれば、必ず登場させたいと想っていた。<

JRF2022/10/13227

セネカの書のうち、私が関心を持てそうなのは、『神慮について』だったのでそれを載ってる本を求めた。が、しかし、『神慮について』からはあまり得るところはなく、むしろ、『怒りについて』のほうがおもしろかった。

いつも通り引用しながらコメントしていくが、今回は特に引用が主になってしまったきらいがある。

JRF2022/10/15166

……。

……。

『怒りについて』。

JRF2022/10/15592

……。

>もし怒りが抑制を受けることを許すならば、それは他の名前で呼ばれなければならない。それはすでに怒りであることを止めたのである。<(p.24)

勇気や子供を叱るようなことはここでいう怒りではないのだという。

JRF2022/10/13386

……。

>(…)人の子でも、虚弱で異常に生まれれば水に浸ける。それも怒りではなく、健全なものから無用なものを引離す理性のすることである。<(p.34)

この部分、感情的はとっかかりを覚えるが…。

JRF2022/10/18957

……。

>ゼノンも言うように、賢者の心のなかにさえも、たとえ傷は治っても傷痕は残るからである。それゆえ賢者も、激情の或るしるしか影ぐらいは感ずるであろうが、しかし激情そのものからは自由であろう。<(p.38)

怒りの影のようなものは浮かぶが、それは表に出てこない。…と。そうであれば実質存在しない。…と。

JRF2022/10/13356

……。

>理性は必要とあれば、声も音も立てることなく全家族を根こそぎ引き抜き、国に有害な一族を妻子もろとも滅ぼし、住居そのものも打ち壊して地面と均[なら]し、自由の敵である家名をも根絶する。<(p.42)

アニメ『現実主義勇者の王国再建記』でいうところの(ということはマキアベリズムの)、残虐の使い方を心得る…といったところか。感情的に残虐であってはならない。…と。

JRF2022/10/15796

……。

>個々の人に怒らないためには、人間一般を許さなければならない。(…)子供であるという以上に大きく正しい免罪の理由は、人間であるということである。<(p.63)

ヒューマニズム…この辺はキリスト教の神学的なんだよな…。

JRF2022/10/17059

……。

ラベリウスの詩の一句…

>大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる。<(p.66)

安倍元首相の国葬があった([cocolog:93746054])が、安倍氏は、そのある種のポピュリズムが反対運動を大きくしたし、そうであるがゆえのポピュリズム…数の力で反対を無視しうるという形をみせること…で権力を保った面もあったように思う。(参↓)

JRF2022/10/17235

《国葬という政治的失着 - 内田樹の研究室》
http://blog.tatsuru.com/2022/09/27_1151.html

JRF2022/10/13401

>安倍時代はそれで済んだ。選挙で勝てば「民意は得た」と居直って、個別的な事案については、どれほど国民の反対があっても無視することができた。国民の反対を無視しうるということそのものが磐石の権力基盤の上に政権が成立しているという事実を証し立てていると国民たちは信じ込まされたのである。「あれほど権力的にふるまうことができるのは、実際に権力があるからだ」と国民は合理的に推論して、権力者に抗うことを諦めた。

JRF2022/10/13748

そのようにして、10年にわたって、法律も憲法も無視し、国民の反対も無視することが「できた」のは、逆説的だけれども、安倍晋三という政治家に「他の総理大臣たちに卓越した力」があったと認めざるを得ない。

JRF2022/10/14641

……。

>怒りを治す最良の薬は「引き延ばし」である。<(p.93)

怒りを6秒耐えることで怒りを柔らげ人当たりを良くする…6秒ルールとか5秒ルールとか、現代だと言われることがあるね。もちろん、もっと引き延ばせるならそれに越したことはないんだろうけど。

JRF2022/10/17237

……。

>罪を犯した者は、すでに自分自身によって罰せられているのである。<(p.95)

人は理性(イデア?)があり罪を犯そうとしない。罪を犯したというそのとき、すでに理性は穢されている。それはすでに自らの本性が罰を受けているということなのだ…ということだろう。罪を犯すことは罰を受けるに値いするが、罪を犯すこと自体がすでに罰になっているということでもあるのだろう。実際に罪に人が報いて罰を課すのは二義的でしかない、心弱き他の人が間違わないよう社会の外観を保つためでしかない…と。

JRF2022/10/15502

……。

>懲罰は決して過去に合わすべきではなく、将来に合わすべきである。懲罰は怒ることではなく、用心することだからである。おそらく、もしも根性の曲った悪い人間は誰でも罰を受けねばならないとすれば、懲罰を免れる者は一人もないであろう。<(p.99)

私は「オレが悪い」が口癖だが、ある意味、誰しもが悪いのであろう。かといって自分の悪さが許されはしないのだが。その償いにはまず、将来に社会に益となるようにすべきなのであろう。それはとても難しいが。

JRF2022/10/14476

……。

>幾人かの王に仕えて年老いた人の言葉は、余りにも有名である。或る人が彼に向かって、宮廷では全く珍しいこと、つまり老年に達することを、どんなふうにして努めてきたかとたずねた。すると彼はこう答えた。「被害に甘んじ、感謝を表わすことによって」と。<(p.101)

これは「卑屈」というべきもので、私もときどき「卑屈」になるが、セネカはそれをどう見ているかは難しい。このあとも王に息子を目の前で殺される親の例などがある。どうもそういうときは、セネカは、卑屈になるよりも、死んで抗議すべきと考えてそうなフシがあるが、よくわからない。

JRF2022/10/15500

イエスは「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 」と述べる (『マタイによる福音書』5:39)。それは「卑屈」とは違うように思う。

「被害に甘んじ、感謝を表わす」にも、自分と目の前の強者のみで答えを出すのではなく、大きな流れの中での自分がいることでの最善を試みているなら良いのかもしれない。

JRF2022/10/17635

……。

>もしわれわれが自分の短気なことに気付いたなら、交わる相手には、われわれの顔色や言葉に素直に従う者たちをむしろ選ぶべきであろう。なるほど、われわれはとかく彼らによって甘やかされ、自分の意志に反することは何も聞かないという悪習に引き入れられることもあろう。しかし、そこには自分の悪癖に陥らないための余裕と平静とが与えられるという利益がある。<(p.126)

JRF2022/10/19323

SNS のブロック機能を使うべし…ということだろう。私は「ブロック」はどうも表現の自由・知る権利を害しているようで使う気になれない。有名人ではなく、誹謗中傷にさらされたことがないから、そう思えているだけかもしれないが。

JRF2022/10/17785

……。

>今後は馬鹿者たちと会ってはならない。かつて学ばなかった者は、これからも学ぼうとしない。お前は彼に、必要以上に遠慮のない注意を与えた。その結果は彼を改心させたのではなく、怒らせてしまった。これからはお前の言うことが真実であるかどうかのみならず、言い聞かせる相手が真実に堪えるかどうかも考えるがよい。立派な人物は注意されることを好むが、極悪の人間ほど忠告者に激しい反感を示す。<(p.173)

JRF2022/10/15141

真実だと思っていることを言うと、誹謗中傷とされる世の中にどんどんなってきている。人は弱いので真実を見誤る。そんな簡単に侮辱罪などが認められるべきではない…と私は思う。受忍限度は重く、批判される自分に厳しくないといけない…と思うのだが。

JRF2022/10/16803

……。

>われわれは誰にとっても恐怖の種であってはならず、危険な存在であってもならない。また、危害、損失、悪口、嘲笑を軽んじ、かつ崇高な精神をもって、長くはない不幸を堪え忍ばねばならない。人々も言うように、われわれが後ろを見返り、左右を見回している間に、やがて死の運命は近付くであろう。<(p.182-183)

JRF2022/10/15218

人には組織が必要で、すると上に立つ人間がいて、そういう人間は凡庸ではいられない。「恐怖の種」または「危険な存在」とある意味ならねばならない人間は、危害、損失、悪口、嘲笑と不必要に関われば無事には済まされない。死の運命を感じながら、感覚を麻痺させない魂が、崇高な精神なのだろう。

JRF2022/10/17040

……。

……。

『神慮について』。

JRF2022/10/14776

……。

>何かの災厄が、どうして善き人々に起こるのか -- 神慮が存するにもかかわらず<(p.187)

この問いに対する、セネカの解答は、基本的には、善き人にはその善きことを示すために神が試練を与えるからだ…というものである。

JRF2022/10/13547

このテーマは、神学的には「神義論」と呼ばれる分野で、『旧約聖書』の『ヨブ記』で語られるものそのものである。ヨブ記については↓という記事を以前書き、電子書籍にも載せた。ぜひ、そちらを読んでいただきたい。ヨブ記は、セネカの議論も包摂しながら、様々な議論を導いている。

JRF2022/10/10069

《「ヨブ記」を読む - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html

『道を語り解く』(JRF 著, JRF 電版, 2016年初版・2020年第二版)
http://amazon.co.jp/dp/B01CERFZLA/

JRF2022/10/10853

そういう私にはセネカの解答から得たものは少ないように思う。単に私は過去にとらわれて意地になっているのかもしれないが。

JRF2022/10/10593

……。

>神は善き人を享楽のなかにはおかず、彼を試練し、堅固にし、神意に合わさんとするのである。<(p.190)

JRF2022/10/13013

……。

>限度を越えたものはすべて有害であるが、とりわけ最も危険なのは幸福の過剰である。それは脳を扇動し、心を無用の想像に呼び込み、真偽の境に濃い霧を注ぐのである。<(p.206)

ここはストア哲学の禁欲主義的主張と言えるかもしれない。セネカはストア哲学者とは必ずしも見なされないらしいが。

JRF2022/10/16554

……。

>善き人々は苦労をし、自分を使い、また使われ、しかもそれを自ら進んで行なう。彼らは運命に引きずられるのではない。それに付いて行くのであり、歩調を合わせるのである。もしも彼らが先のことを知っていたなら、それに先んじたことであろう。<(p.210)

思うままに生きる・進化する。…のではなく、理性で考えた善さを背負って生きる・増えようとすることが、人間を・生物を完成に導く…ということだろうか。それは何万年・何億年という試練に堪えうる方法なのだろうか?

JRF2022/10/12329

……。

神は次のように言うと思うべき…、

>私がお前たちに必要であると思ったすべてのことのうちで、死ぬこと以上に容易なことは、何一つ作らなかったのである。<(p.217)

なぜ、死なないか、それをかえりみれば、試練に堪えうる…ということだろうか…?

JRF2022/10/19485

……。

……。

今現在の自分なりに「神義論」を考えてみよう。

まず、私の著作から次の引用をする。

JRF2022/10/11724

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
>因果応報の神を信じると何が良いのか? …良いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。…これを「有神論の基本定理」のように私は見なす。<

JRF2022/10/10179

善いことをすることには、直接的とはいいがたく、ある意味間接的に、善い報いがある。…ということである。

JRF2022/10/15217

そして『ヨブ記』のエリフなども持ち出す自然の摂理がある。それは人間というものを越えた何がしかの創造の摂理があることを表しているようにも読みとれる。災厄はそういった大きな流れの中の摂理として起き、その善さは人間のスケールでははかれない。その中でも善人は「間接的」に善い報いを受けているはずだが、個々のスケールでみると割に合わないことも多いであろう。

JRF2022/10/11389

神はある意味、現実在については、全体しか見ていない。すべての個も見ているが、個は偶然にしかかえりみようとなさらない。個々の帳尻はきっと「死後の世界」も含めた虚の世界において達成されるのであろう。そして、その虚の世界の出来事の話は、現実在にちゃんと影響する。ただ、どこまでが現か虚か、個か全かはこれもはかりがたいものとなるのだろう。(そのあたりは、最近、フラクタル次元と華厳経について考えたこと [cocolog:93701863] に接続するのだろう。)

JRF2022/10/15461

[aboutme:129789]
>私はどちらかと言えば、この世に偽善以外の善はなく、だから(善に意味がないとするのではなく、)たとえ偽善であると感じようとも、大善をなそうとして小悪を気にしないよりは、小さな善を厭わない道を意識として持つべきだと思うようになった。<

JRF2022/10/19233

現実在における善はある範囲における善のみであって、大きく見れば偽善なのだ。何かを見過ごしている。しかし、それを見て神は善しとされる・義とされる。そして虚の世界にわたることになるかもしれないが、善い報いがあるのだろうと思う。

ただ、上のヨブ記の私の記事を読んでいただければ、こう書いている。

JRF2022/10/15640

>旧約聖書は「宗教書」であるにもかかわらず、「死後の生」への言及は驚くほど少ない。義人が「死後救済」されるなどということはヨブ記の時代には言えなかったと見るべきほどだ。序の問いの一つ「しばしば善人が苦しみ、悪人が恵まれるのはなぜか。」に「死後に帳尻を合わせるからだ。」という答えはなくなる。<

私は、安易な答えを求め、それに耐えられなくなったということかもしれない。

JRF2022/10/13688

>逆に言うと、いつ義人が救われるのかと言えば、その生のうちと考えるべきで、神の介入=奇蹟があることをむしろ信じ続けることが必要とされていたのだと私は考える。それが「生ける者の神」への信仰だったと言えよう。<

JRF2022/10/14705

今善きことをする人は、善人が現実在において救われることをあくまで信じて「生きる」べきであろう。私は本当のところを知らないが、実際に「救い」はあるのだろう。上の虚の世界うんぬんは、きっと、外面的にそうであるようにも受けとれるようにしてくれているという以上のこと、それこそ「虚」でしかない。

JRF2022/10/12908

……。

追記。

どうも、物理的な摂理のみの空間から、総体として生きたい(参: [cocolog:93717633] とか『「シミュレーション仏教の試み』とか)という意志が生まれたことが確率的な一つの奇跡であって、神はそれを大切に思い、他の人為的な奇跡をどうもあまりなさらない。

総体として生きたいことからは個々に他者を救おうという意志も生まれる。それが貴重なのだろう。その世界では、上の有神論の定理が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあることは、神はわかっておられた。

JRF2022/10/16637

その世界では、神は・天意は・摂理は、人が従い続けるよう優れたものであらせられなければならない([cocolog:92984837])。

すべての個は全体として生きるのではなく個として生きている。神が・天意が・摂理がより信じられるため、一人の個としても現実において救われるべきことを理解するなら、他者を救うべきであることがその世界の住人にはわかる。虚の世界を取り去った姿に、現実の救いがないなら、やがて神や天意や摂理は信じられなくなり、善きことも消えてしまう。

JRF2022/10/13613

神にとって個を救うことは主観においてにまかされている。きっと、神を信じる者には、死のとき神が善と認めた偽善に報いてくれていたことがわかるのだろう。残った者は虚の世界を求めがちで、それは死ぬまでの主観を安心させる。

JRF2022/10/11935

人並みの悪しかなく、善に生きていて、なお苦難の多い人生なら、それは全体としてはこの世界の現実に役立っていて神に善とされるから、天国に向けた試練であるとでも思えばよいのであろう。自分がやっていることが偽善だから苦しいのだ…とか思うのはまちがいである。結局は全体が大事なのだから自己を犠牲にして革命のようなことが案外必要なときもあるかもしれない。

私みたいに「自分が悪い」と思って生きているなら、少しでも全体の役に立てないか、考えて今からでもそう生きれば、私全体として神に善しとされるチャンスが広がるのではないか、そう信じたい。

JRF2022/10/19732

……。

追記。補足。

「神にとって個を救うことは主観においてにまかされている。きっと、神を信じる者には、死のとき神が善と認めた偽善に報いてくれていたことがわかるのだろう。」という部分を補足する。

JRF2022/10/25792

個々に因果応報的に救われるようにするのは人の働きが大きいが、その「人の働き」は神から来るものと見なすことができる。つまり、人を通じて神が作用する。それにより、現実に救いがあると信じさせようとするのだから、神をたのむものは自らも現実に救いがあると信じるべきとなる。信じた結果どうなったか。ユダヤ教の伝統において、それは長い間うまくいった。だから、死後の世界(の詳細)は必ずしも大事ではないかもしれない。「神を信じる者には、死のとき神が善と認めた偽善に報いてくれていたことがわかるのだろう。」と信じてよいのだろう。

JRF2022/10/29969

一方、キリスト教においてその観方が確実に変わっていたように、死後の世界・虚の世界の理論があるほうが人は安心できるのも確かで、ならば、虚の世界もあるよう神は創造できる/してくださったのだろう。我々が素朴に思うような個々に因果応報がなるというのは詳しい摂理と少し違っているように、虚の世界のあり方も素朴な想像とはだいぶ違っている可能性はあるが。

JRF2022/10/21997

その辺りについて、多くの宗教の教えをそれほど破らず考えられる死後の世界のモデルはないか…ということで私が描いたのが 2016年の↓の小説ということになろうか。

《神々のための黙示録(JRF) - カクヨム》
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881174970

JRF2022/10/29231

……。

追記。

虚の世界はあるのか? ないのか?

虚の世界は前提できる。

非宗教的立場からは虚の世界が現実にあるかどうかは不可知だが、そのような虚の世界の「物語」でも現実に影響はできる。

JRF2022/10/30524

虚の世界はどうあるべきかはまず論じることができる。神が優れたものであらせられるのだから、そうあるべきならそうしている。望ましい現実と矛盾がないなら虚の世界はそうあると前提してよい(因明的導出? 参: [cocolog:93262667])。目指すところが違うことなどから虚の世界が複数考えられうることもある。虚の世界どうしは多少の矛盾を含んでいても現実に与える影響が善く、神を優れたものとするなら、問題はなく、きっと弁証法的解決がみつかることだろう。ただ、矛盾によってはどうしても神をあなどらせることがあり、それら全体はあるべき虚の世界ではないとなるのだろう。

JRF2022/10/31105

……。

この世界では時間がたてば客観的には奇跡はほぼなかったことになるが、奇跡はありうることも忘れてはならない。主観的に心理的に救いがあったというだけでなく、奇跡による救いもあるのだ。ただ、それは、たいてい客観的にずっと信じられるほど頻繁でもわかりやすいものでもないようだ。奇跡があるとたのんで行動すれば裏切られる。

JRF2022/10/37977

……。

追記。

奇跡がそのようにしか起こらないということは、神は「有神論の定理が成り立ち、善いことをすれば全体として善くなり、個に直接ではないが間接的に良いことがあること」がわかっておられたというだけでなく、その特長を(長い目で見て)維持しようとなさるということである。

JRF2022/10/55208

……。

我々は他者を救うとき直接救うようなことはあまりしない。自力で労働などにより貨幣を稼がせ(または貨幣がない時代は分業し)、それで自由に「救い」を選択し買わせるほうが好まれる。それは自分への信頼につながるし、独立した自己が依存を脱し自分の上司ではなく神の治める世界への信頼にもつながるということからであろう。依存をまねきやすい奇跡が、起こりにくいことも含めて考えると、神は個の独立を好むともいえそうだ。有神論の定理はある種、集団にしか作用しないが、集団が同じ方向ばかりを向いていては危機に弱くなる。そこに個の独立をもたらす「神の前の平等」を求める余地が生まれるのだろう。

JRF2022/10/56747

《神の前での平等》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_3.html

JRF2022/10/51255

……。

……。

追記。

少し論を逆転させる。

神は個の独立を好むと考えるのはなぜかというと、集団が同じ方向ばかりを向いていては危機に弱くなるから…ということになる。それは↓の枠組でいうと、分業と保険の論理である。

《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html

JRF2022/10/78861

↑によれば、分業と保険からは競争と過失責任が出てくる。いかにも現代が好みそうなテーマだ。分業・保険・信用で一つのセットになっていた。「信用」は出て来ないのだろうか?

「他者を救う」のにおいて、マイナスの方向、悪いことをした場合は罰を与えることになる。その際は「信用」の輪を使うことになるだろう。さらに罰から許しを与え「他者」を活かすのは、「保険」原理であったから、前のコメントの段階で上がっていた「分業」も合わせ、セットが揃うことになる。

JRF2022/10/79317

これらは神が何を善となさるかという集団の合意のようなものに関わってくる。有神論の定理のように、自然に成り立っている動かせないものはあるとしても、それ以外に善は何を基準とするかについては、特に優先順位などは、動かせる。それを誰がどのように動かすか…となると政治の問題になってくる。

JRF2022/10/74960

……。

易理 [cocolog:92984837] などにおいて、「世を混沌と物理(もののことわり)に分ける。混沌から物理をたち上げるとき、要素還元主義的に物の理を追っていくことには限界が必ずあり、物のはじまりを擬制せねばならない。その擬制されたものを鬼と呼ぶ。鬼と物の理も含めたところに全体的な働きが現れることがある。その働きを神と呼ぶ。天意は神の一種と見えなくもない。人心は、神とも見えるがむしろ鬼のように私は思う。鬼・神は起・信なり。」…と述べた。

この神(シン)と、これまでの一神教的な神(カミ)はどう関係するのだろうか。

JRF2022/10/70917

カミはシンの一種であるというだけでなく、神秘的体験によって、確証された人格的なものを持った者である。

私は統合失調症を経験しており、そのようなカミがあることを信じている。ただ、それは奇跡が時間をたてば確証を失うようにどんどん確証は失われる。未来に私の話を読むものはただのビョーキとかたづけるだろう。また、私が通じていたのも唯一神的なものではなく、ほとんどが単なる上位存在的なものであったということにはできる。しかし、私にそうやって神秘でアクセスしてきたのは究極的には唯一神的なカミであったろうと今でも思う。

JRF2022/10/70970

キリスト教では過去の奇跡によって、そのカミはどのようなものか(ある程度)決まっている。しかし、非宗教的立場から、キリスト教は基本、伝聞によりその教義を伝えているとしか言えない。(しかし、その伝聞が生きていること自体に奇跡性を見出せないわけではない。)

JRF2022/10/77213

では、神秘的体験によってシンをカミと認めるべきか。それは長い歴史を見る限り、多くの人にとっては、そうではない。神秘的体験を求めるべきでない。「正常」なまま人生を送り、終えるものが「善」とされねばならない。カミと認めたものが上位存在でしかなく、しかも悪でしかない可能性もある…としておこう。その「上位存在」が(神から)善とされるのも、集団の道ゆきの中で確証すべきことなのだろう。

JRF2022/10/71116

つまり、多くの人にとっては、シンとカミは区別しようのないもの、カミはシンの一種でしかない…でよい。カミを特別に見せるのは政治と言ってよいだろう。広く宗教も政治と見る観方である。もちろん、主に分業のため、一般にいう「宗教」について、政教分離があったほうがよいとは私も思うが。

JRF2022/10/77785

……。

「神が優れたものであらせられるのだから、そうあるべきならそうしている。」…と書いた。しかし、現実は善悪がちゃんと報われるべきなのにそうなっていない。それと同じように虚の世界においても「そうあるべき」ということが、わかりやすく「そうなってる」とは限らない。「虚の世界のあり方も素朴な想像とはだいぶ違っている可能性はある」…と書いたとおりである。

キリスト教などが伝える(確証した)「虚の世界」は、すべての人間にとって真であるとしても、キリスト教徒にとって真である以上には、それ以外にとって真ではない可能性もあるのだ。

JRF2022/10/70986

フラクタル次元と華厳経について考えたこと [cocolog:93701863] のようにある種の仏教的世界観との合同や、《神々のための黙示録》が意味があるかもしれない。

ただ、そういうこととは別に、現代は、映像などが未来に残るようになっており、それを残す基準など現実的な面で、「虚の世界」の論理が部分的に生きてくる可能性がある。従来もそういうことはないではなかったけれども。逆にそれが「虚の世界」の描き方に影響を与える可能性もある。

「虚の世界」もそうやって創られていっているのだ…とは言わないが、それも「虚の世界」の大きな秩序の一つの現れ・影響ではあるのかもしれない。

JRF2022/10/78742

……。

福田歓一『政治学史』を読んでいるのだが、キケロの論として次のように載っている。

>『国家論』によれば republica は単に人々が集合したというものではなく、consensus juris すなわち法・正義・権利についての合意によって、また利益の共同によって結ばれた結合である。<(p.71)

誰を救うべきか…神の善がいかなるものであるか…は、政治によって決まる。

JRF2022/10/79823

>『法律論』のなかで彼は「人は正義のために生まれ、権利は人の意見によらず、自然に基づく」と 言っている。つまり、何が正義であるかは、conventional なものではない、それは自然に由来する、としており、ここにキケロのストア的な考え方が端的にうかがわれる。<(p.71)

「自然法」的なものは別にある。それを「宗教」の所掌とし「政治」と分業するのが自然に見えるが、必ずしもそうすべきというほどではないのだろう。特に複数の宗教が並び立つような場合は特にそうなのだろう。

JRF2022/10/73673

>『国家論』の第1巻では、キケロはスキピオの口をかりてこう言わせている。「それに、あらゆる国家はその最高の権力者の性格や傾向によって違っているのだ。(…)」<(p.71)

分業された部分は特に国によって異ってよい。それが広い意味で何が最善かを探す分業になる。

JRF2022/10/71224

ただし、近代における「自然法」的な人権の主張は、「未開の地」において介入する口実として使われたのではないか…と現代アメリカなどの「人道的介入」で戦争を起こしてきたのを見て思う。(これは、福田歓一の他の本を読んだ([cocolog:90689746])とき、考えたこと。)

[cocolog:90689746]
>実際には集団が保障していて、集団に属さない者には与えられないのだけど、たとえば、それは「基本的人権」なので海外に出ていった先でもその外国に関係なく守られるべき権利ということにもなる。大航海時代を経た権利という感じがする。<

JRF2022/10/71295

……。

神秘的体験といっても、様々な人に「啓示」は与えられていくもの・きたものであって、(少なくとも現在は)体験さえすれば一気にすべてがわかるようなものではない。神は理性だけでわかるものではないが、理性(・知識・知恵)がなければわからないものである。

イスラム教などでは「最後の預言者」性を問題にする。教えを主に言葉で神から直接与えられるようなことは、もう現在においてはありえないと理性でわきまえるべきなのだ。誰か・何かの言葉を神のものだと体験したとしても、その言葉をもはや鵜呑みにしてはいけない。

JRF2022/10/76638

そして私の経験から言えば、何が正しいかを上位存在と争うことはあっても、教えのようなものは自分で見つけるだけで、基本的には自分という人格がこの先どう生きるのかの示唆を受けるだけだった。(そしてその通りには生きれていないが結局はみじめに生きるということだけは合っている。)

JRF2022/10/71783

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追記。

有神論の定理があるから、集団のすべての人は因果応報の「神」を信じなければならないのだろうか? そうではない。

集団が政治によって善をきめ、それで治めるとき、それに人が従うのだから、間接的な善の効果は神を信じない人が含まれていても維持される。それは現代社会を観ればわかる。

逆に間接的な善の効果のあるところでは、誰が・どういう主体がなすかは不分明かもしれないまま、おおむね因果応報が十分にあることを信じていると言える。逆・有神論の定理みたいなものが成り立つ。

JRF2022/10/125808

では社会の核となる層に限ればどうか。その層は「神」を信じねばならないか? 「神」を信じなくても、有神論の定理が成り立っていることは理解する必要があるのだろう。それを理解する以上に利用しようとして王に宗教的カリスマを与える古代国家のような例もあれば、共産主義国家のように政治だけからその効果を導けるとする例もあるとできよう。

JRF2022/10/122385

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「神が優れたものであらせられるのだから、そうあるべきならそうしている。」…と書いたことに対し、「そうあるべき」ということが、わかりやすく「そうなってる」とは限らない…と書いた。とはいえ、政治が善を実現することで「そうなってる」がだいたい実現しているように、虚の世界もいろいろ複雑だが、結局は、だいたい「そうなっている」可能性はあるのだろう。

JRF2022/10/123750

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私は「イエス・キリストの復活を信じる仏教徒みたいなもの・シンクレティスト」だが基本は仏教徒ということになる。それをこれまでの神の理論とどう整合性をつけるか?

JRF2022/10/124866

一つに、私は『「シミュレーション仏教」の試み』において、「仏教とは、本目的三条件「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい」を命令的前提として行う社会に対する最適化プログラムなのではないか。」…と書いており、その本目的三条件を上の神の理論と両立させることが考えられる。ただ、それは最低ラインというべきもので、それだけでは全然仏教的ではない。

JRF2022/10/125387

また一つに、フラクタル次元と華厳経について考えたこと [cocolog:93701863] のようにある種の仏教的世界観との合同や、《神々のための黙示録》の一部に表れているようなこと…仏教的・ゾロアスター教的でもあるような、宇宙論・次元論との統合において、インド的宇宙観や大乗仏教的宇宙観との関係を語ることもできるだろう。

JRF2022/10/120210

そしてさらに一つに、これは手を付けてない部分になるかと思うが、宇宙論と関連して、「仏(ホトケ)」…ブッダとは何か、仏が世界にどう作用するかということを論じるべきなのだろう。仏は、もともと人だった者が、神(シン)として(宇宙的)法則になる・すでになっていた…という側面と、鬼(キ)として世界の創造に関与している…という側面がある…みたいなことは言えそうである。

JRF2022/10/124969

そしてある者がどういう仏であるかは神秘的体験を必要とする啓示的出来事に属すのかもしれない。ただ、これは唯一神信仰とはかなり離れるので慎重な検討が必要だろう。イエスについてはこの宇宙(すべての次元を含む)にある意味「ビッグバン」をもたらしたものだから別格だ…となる(そしてなぜか仏でも(菩薩でも)ない)のか…。さらに詳しくは今後の課題としたい。

JRF2022/10/121710

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「来世がないほうがよい」の涅槃と《神々のための黙示録》に書かれないことで示されたキリスト教的天国について。両者はとても似ているが、別のものだろう。ただ、両者は死後の世界・「虚の世界」に属し、「虚の世界」の複雑性によって何か同じもののの投影としての性格を持つのかもしれない。

JRF2022/10/124176

禅による悟りと私が述べたような神秘的体験も、似ているが別のものだろう。肉体的…脳の機能的にも違うのかもしれず、未来にはその違いを測定すらできるのかもしれない。ただそうであったとしても、「虚の世界」の複雑性がもたらす影響の一種として違うのかもしれない。

そしてそのような多重性を保持しながら思考を続けることが、仏教的なのかもしれない。まぁ、神学にも論争はあるが。

JRF2022/10/120471

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キリスト教・ユダヤ教は、書かれた「事実」としての歴史をとても重視する。それは今でいう創造論なので現実の歴史とは違うが、はじまりのある一本の時の流れを重視する。

それに対し仏教は不立文字…というか、書いて伝えるよりも口伝が基本でそれが長かったこともあるのだと思うが、めいめいが想像上の「歴史」を語りがちで、それはときに人類の歴史以前に人がいたようにも語ってしまう。そこには並行世界的なものすら考えられている。

JRF2022/10/120974

現代は、科学的な歴史がかなり確定している時代であると同時にネットなどバーチャルな世界もあり、両者の折衷的なところに立脚せざるを得ない面があると思う。それが私の考え方に影響していることは確実だろう。ただ、それは結局は多重性を認める方向で、だから私はどちらかといえば仏教的となるのだと思う。

JRF2022/10/123427

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神秘体験を求めるような宗教…新プラトン主義とか…は、統合失調症になる前は、一つ下に見ていた。禅とかは神秘体験とはまた違うという話だったし。冷静に言えば神秘体験は迷妄だろうが、体験した自分からすればもう無視できない。神秘体験を経ないカミの認識はどこまで言ってもシンでしかないと思う。ただ、「神秘体験」ではなく聖霊の導き等があるからカミなのだと主張されれば、区別はしづらい。禅や聖霊の導きや子供の素朴な宗教感情と、神秘体験が何が違うのか、というと難しい。虚の世界の複雑性からみれば同じものの反映とかいえそうではあるけど、本質的な違いもあるかもしれない。

JRF2022/10/123206

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私は「イエス・キリストの復活を信じる仏教徒みたいなもの・シンクレティストだが基本は仏教徒」であるが、天職としては「易者」なのかな…みないなことを前に書いた。

易者といっても占いをするわけではなく、社会に対するスタンスが、どこか他人事で、そうやって自分を留保している(大きな目的を抱かず生活していければいいとしている)感じがあるということ。東洋では昔は(理)学者は易(学)者であったようだし。まぁ、「易双六」を作ったから、「消費者」に売れそうなのは今のところそれぐらいだから、そう思うという面も大きいけどね。

JRF2022/10/120458

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追記。

福田歓一『政治学史』を読んでいてホッブスの人間の予見を重く見る考え方を受けて…。

人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされると私は述べた。そしてその神と同じかどうかはわからないが、神・天意・摂理は社会で優れたものであらせられなければならないとも書いた。

JRF2022/10/165033

その(神の善のむなしい射影として)神・天意・摂理が何を善とするかを予見して社会は動くことになる。社会が「決める」といっても必ずしも間違いではないが、自由に決められるわけではない。神・天意・摂理を優れたものにあらせるために、人間にとっても良い方向に導くことがたいてい求められるなどする。そこで予見されてなされる「偽善」が社会一般でいうところの「善」となるのであろう。

JRF2022/10/164870

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圏論(Category Theory)を昔、「独学」しようとして失敗した。それを再考すべきだと思って本は買ってるんだけど、キッカケがなくて読んでない。

「神の善のむなしい射影として神・天意・摂理が何を善とするかを予見」という話は、ちょっと圏論っぽい。圏論で何か対応することがないだろうか?…と関心を持つ。

ただ、他に読む本がたまってるから、どうするか。先に圏論にかかるというのは無理そうに思うから、かなり先までこの関心を維持できるかが問題か。

JRF2022/10/163391

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