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cocolog:93797324

福田歓一『政治学史』を読んだ。 [cocolog:93763227] で神義論から考えが政治論に移って、昔の私の「なぜ人を殺してはいけないか」の社会論を元にいろいろ考えた。私の議論の枠組みには普通選挙の必要性など組織論が欠けているのに気付かされた。 (JRF 1900)

JRF 2022年10月18日 (火)

『政治学史』(福田 歓一 著, 東京大学出版会, 1985年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4130320203
https://7net.omni7.jp/detail/1101095460

JRF2022/10/184030

以前、福田歓一の入門的な本である『近代民主主義とその展望』と『近代の政治思想』を読んだ([cocolog:90689746], 最近 [cocolog:93775112] で←に言及している)。その際、奮発して、この本も買っていたのだが、なかなか読む機会がなかった。今回、神義論から社会の問題を考察していく([cocolog:93763227])なかで、政治に関心を持ちこの本を手に取った。

JRF2022/10/186452

いつものように引用していくが、今回は私のコメントが少ない部分も多い。ご容赦いただきたい。[cocolog:90689746] や [cocolog:93763227] に書いたことは多くは繰り返さないので、それらもご参照いただればと思う。

JRF2022/10/183577

……。

ギリシア。ペロポネス戦争後…。

>その中で、思想は公共性を失い、著しく主観化してく、変化は伝統を再確認してきた悲劇の世界にも起こって、エウリピデスの悲劇はアイスキュロスのそれに比して主観化が著しいとされている。このような時代背景のもとに、伝統を現在化して来た悲劇に代わって、伝統批判につき進んだのが哲学であるとすれば、ニーチェが哲学を呪いソクラテスを罵倒したのも理解できよう。<(p.14-15)

悲劇…特に神話を元にした悲劇は、伝統の共有として意味があった。それは国民の「教養」を深めるための装置であった。…と。

JRF2022/10/184455

……。

プラトン『ポリティア』の中の教育論…。

>プラトンにとって、丁度認識の段階がそうであったように、最初の教育は感性から始まる。すなわち音楽、さらには詩や物語から始まり、それに続いて守護者としての資質と特に関係の深い体育が施される。算術や幾何の自由な学習は体育に先立って行われるが、選ばれた者に対しては体育を終った20歳から30歳まで数学的諸学科の研究が課され、さらに選ばれた者については35歳までに哲学的訓練が施される。それを終って50歳まで公務の訓練を積んで最もすぐれた者が50歳以後交代で統治に当るのである。<(p.29)

ニートは35歳まで…というのはここから来ているのかな?

JRF2022/10/188751

……。

>アリストテレスにとってこのようなよい人間を作るには、生まれつき、理性 logos に加えて習慣 ethos が必要であって、それは法 nomos による統制によって可能であり、そして法はまさに政治の所産である。こうして個人のよい生活を論じる倫理学は自然に polis に問題を移して行く。こうして政治学を人間行為の究極目的に関する学問であり、最高善の考察であると位置付けたのである。<(p.40)

倫理的であろうとするためには政治が安定していなければならない。倫理学は政治学に統制される。…と。衣食足りて礼節を知る…みたいなものか。

JRF2022/10/186699

……。

ギリシアにはギリシア的自由の精神があって、それは…。

>即ち、ポリスという特異な共同体における政治生活そのもの、自由な人間の自由な共同体としてのポリスに人間が参加するという積極性であり、そのような経験の中から最善の政治生活を不断に問い続けたことである。

JRF2022/10/184059

学問の問題として言えば、およそ政治の問題を神話や伝説や権威の問題とするのではなく、また、政治の問題を支配者の個人的な修養あるいは道徳の問題とするのでもなく、まさに、人間の理性の問題として問うたことが重要である。ポリスにおいてはすべての自由人が政治の当事者であったから、これらすべての自由人に共通に担われる理性の問題として政治が問われたからであり、そこから、政治哲学が初めて体系づけられたのは理由のあることである。
<(p.49)

政治哲学がなぜギリシアにはじまるか…ということ。もちろん、西洋政治学史としてはだけど。

JRF2022/10/189689

……。

p.71 のキケロの『国家論』に関連して神義論を語る [cocolog:93763227] に書いたことを再録する。

>>

JRF2022/10/181520

我々は他者を救うとき直接救うようなことはあまりしない。自力で労働などにより貨幣を稼がせ(または貨幣がない時代は分業し)、それで自由に「救い」を選択し買わせるほうが好まれる。それは自分への信頼につながるし、独立した自己が依存を脱し自分の上司ではなく神の治める世界への信頼にもつながるということからであろう。依存をまねきやすい奇跡が、起こりにくいことも含めて考えると、神は個の独立を好むともいえそうだ。有神論の定理はある種、集団にしか作用しないが、集団が同じ方向ばかりを向いていては危機に弱くなる。そこに個の独立をもたらす「神の前の平等」を求める余地が生まれるのだろう。

JRF2022/10/189725

(…)

神は個の独立を好むと考えるのはなぜかというと、集団が同じ方向ばかりを向いていては危機に弱くなるから…ということになる。それは↓の枠組でいうと、分業と保険の論理である。

《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html

↑によれば、分業と保険からは競争と過失責任が出てくる。いかにも現代が好みそうなテーマだ。分業・保険・信用で一つのセットになっていた。「信用」は出て来ないのだろうか?

JRF2022/10/182649

「他者を救う」のにおいて、マイナスの方向、悪いことをした場合は罰を与えることになる。その際は「信用」の輪を使うことになるだろう。さらに罰から許しを与え「他者」を活かすのは、「保険」原理であったから、前のコメントの段階で上がっていた「分業」も合わせ、セットが揃うことになる。

これらは神が何を善となさるかという集団の合意のようなものに関わってくる。有神論の定理のように、自然に成り立っている動かせないものはあるとしても、それ以外に善は何を基準とするかについては、特に優先順位などは、動かせる。それを誰がどのように動かすか…となると政治の問題になってくる。
<<

JRF2022/10/184002

>>
福田歓一『政治学史』を読んでいるのだが、キケロの論として次のように載っている。

>『国家論』によれば republica は単に人々が集合したというものではなく、consensus juris すなわち法・正義・権利についての合意によって、また利益の共同によって結ばれた結合である。<(p.71)

誰を救うべきか…神の善がいかなるものであるか…は、政治によって決まる。

JRF2022/10/189054

>『法律論』のなかで彼は「人は正義のために生まれ、権利は人の意見によらず、自然に基づく」と 言っている。つまり、何が正義であるかは、conventional なものではない、それは自然に由来する、としており、ここにキケロのストア的な考え方が端的にうかがわれる。<(p.71)

「自然法」的なものは別にある。それを「宗教」の所掌とし「政治」と分業するのが自然に見えるが、必ずしもそうすべきというほどではないのだろう。特に複数の宗教が並び立つような場合は特にそうなのだろう。

JRF2022/10/180333

>『国家論』の第1巻では、キケロはスキピオの口をかりてこう言わせている。「それに、あらゆる国家はその最高の権力者の性格や傾向によって違っているのだ。(…)」<(p.71)

分業された部分は特に国によって異ってよい。それが広い意味で何が最善かを探す分業になる。

ただし、近代における「自然法」的な人権の主張は、「未開の地」において介入する口実として使われたのではないか…と現代アメリカなどの「人道的介入」で戦争を起こしてきたのを見て思う。(これは、福田歓一の他の本を読んだ([cocolog:90689746])とき、考えたこと。)

JRF2022/10/183428

[cocolog:90689746]
>実際には集団が保障していて、集団に属さない者には与えられないのだけど、たとえば、それは「基本的人権」なので海外に出ていった先でもその外国に関係なく守られるべき権利ということにもなる。大航海時代を経た権利という感じがする。<
<<

JRF2022/10/181269

……。

キリスト教の登場。両剣論…

>二つの剣、つまり宗教上の権威も世俗の権威も、ともに神が下さったものである。したがってこの二つの権力は異なるものである。このように二つの権力があるのは、世俗の秩序とともに、そこに宗教の秩序があるというクリスト教社会の二面性の象徴である。<(p.103)

JRF2022/10/188584

>ところが、教皇の権力が強くなると、イエスはすべて権力をペテロに与えたのであって、皇帝の権力はペテロの権力を引き継いだ教皇からさらに授権されたという教皇権優位の主張がやがて現れる。世俗の権力が直接神から授けられたものか、それとも教皇を通じて関接に授けられたものかが問題となったのは、力関係が逆転して、両剣論が世俗の権力の教皇権力に対する自律か服従かという範囲にはいっていくことを意味するのである。<(p.104)

JRF2022/10/184294

フィリオクェ論争というのがある。聖霊は父から発出するが、子からも発出するとするか、という論争である。これがなぜ問題になったのか、私は今いち理解できなくなっていたが、結局は、この両剣論の問題で、子からも発出するというのが西方で、そうでないのが東方だったのは、西方は子から発出してさらに父から直接発出することは今はない…と解釈していた…ということなのだろう。そこから西方は教皇を通じて世俗の権力が統制されるべきとしていたのだろう。

JRF2022/10/186259

……。

普遍論争において、>普遍は実在すると考えるのが、いわゆる実念論 realism である。<(p.133) >これに対して唯名論 nominalism とは、普遍は単なる名前だけであって実在はない、観念にすぎないと考え<(p.133)、個物を重視する。ここで realism …「リアリズム」は現代に使われる…または、この本でこのあとででてくる「リアリズム」という言葉とは意味が違うことに注意が必要である。

JRF2022/10/188836

>教会がリアリズムの立場に親近性をもっていたのは容易に理解できる。なぜなら、教会はカトリックの名前のとおり、それ自体普遍的なものとして自らを位置づけていた。つまり、教会は単に個々の信徒の集合ではなくて、この信徒に先立つところの共同体、先立つところの権威をもった実在だということである。そしてまた、人類もまたむなしい概念ではなく、人類が実在であればこそ、たとえばアダムによって人類すべてが罪に堕ちるとか、あるいはイエスによってすべてが救われるとかいうことがあると考えたからである。<(p.134)

JRF2022/10/183516

この本は結構、神学・キリスト教史にページを割いているが、私は、その辺りは昔、他の本で学んできた(参:↓)から、ここではあまり言及しないことにする。

《参考文献:キリスト教・神学関連 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/03/post.html

ただ、この部分、教会がリアリズムだから、原罪論が成り立つとかは(たぶん学んだのを忘れたからか)ハッとする考え方だった。

JRF2022/10/182750

……。

トマス・アクィナスの考え方…。

>だから神の存在や世界創造は理性でわかるけれども、三位一体とか最後の審判とか煉獄とかの教義は、理性ではわからないので、啓示によらなければならない。しかしそれらは、理性を超えたものではあっても、理性に反するものではない。理性の及ばぬところでは信仰に信頼すると説くのである。<(p.139)

私は神の存在や世界創造も啓示的事象であると思うが、[cocolog:93763227] にはこのあたりのことも書いている。多神教的なシンと一神教的なカミを区別した上で…

JRF2022/10/183102

[cocolog:93763227]
>神(シン)と、これまでの一神教的な神(カミ)はどう関係するのだろうか。

カミはシンの一種であるというだけでなく、神秘的体験によって、確証された人格的なものを持った者である。

(…)

神秘的体験を求めるべきでない。

(…)

神秘的体験といっても、様々な人に「啓示」は与えられていくもの・きたものであって、(少なくとも現在は)体験さえすれば一気にすべてがわかるようなものではない。神は理性だけでわかるものではないが、理性(・知識・知恵)がなければわからないものである。

JRF2022/10/181062

(…)

禅や聖霊の導きや子供の素朴な宗教感情と、神秘体験が何が違うのか、というと難しい。

JRF2022/10/184769

……。

ダンテは人類社会は教皇とは別に一人の皇帝がすべての民族からなる普遍帝国を治めるべきと主張する。そして、教皇の皇帝に対する権威はほぼ認めない。

JRF2022/10/185625

>まずダンテは帝国がクリスト教や教皇に先立って存在した以上、間接権力の主張はすでに奇怪であるとし、さらにここで、ダンテは人間は中間者 medium であるといい、したがって二つの目的を持つという。現世的生の幸福と、永遠の生の幸福であり、哲学と神学がこれに相応する。(…)教皇はしばしば皇帝は自分に従うべきだと主張するが、皇帝の権威は教皇によって授けられたものではなく、直接神によって授けられたものであるから、教皇の支配すべきものではない。<(p.154)

JRF2022/10/186364

イエス・キリストによって新しい時代が始まったとすれば、帝国が先立って存在しても、間接権力の主張は認められると私は思うのだが…。

JRF2022/10/186595

……。

14世紀初頭のパドゥアのマルシリウスは、>法の有効性は人民がそれを立たたことに由来する<(p.157)とし、>法によって人を強制する支配者は、人民に対して責任を負っている<(p.157)とする。そして、>大衆のもっている叡智が専門家のもっている知識よりも誤りがないと主張しており、支配者はしばしば横暴なことをしがちであるがゆえに、人民の作った法に従わせなければならないとする。<(p.157)

JRF2022/10/183791

>マルシリウスは一般民衆も社会生活のうちに判断能力をもっていると力説していたことは否定できず、民主的側面を見ることができる。ただ、それは決して近代的なものではない。(…)法の権威を人民に求めることには、教会の介入に対する政治社会の自律が被治者や共同体に基礎を求めさせたことを示すように思われる。<(p.158)

民主的というか共和的考え方が、教皇の力の弱まり身分制議会が広まる中、復活してきた。…と。

JRF2022/10/184522

……。

14世紀中盤のオッカムのウィリアムになると、18世紀のルソーの『社会契約論』につながる「社会契約」とほぼ同じ概念が出てくる。

>国家の起源について、マルシリウスは、アリストテレスに従って家族からの自然的な展開をいうが、ウィリアムはむしろ、歴史の最初に理想的な自然状態、つまり支配のない状態があったことを前提にして、人間が政治社会を立てるのは、公共の福祉、共通の善を実現するためであり、人間社会の一般的契約によって人間は政治社会にはいる。これは、17世紀に理論的発展をとげる社会契約説の最も早くかつ鋭い提示である。<(p.162)

JRF2022/10/182872

……。

最初の贖宥状が出たのが1315年…。

>縁故採用、身びいきを意味する nepotism という言葉があるが、これはこの時代に教皇が独身の戒律にもかかわらず、私生児をつくり、その子供を甥 nepos ということにして引き立てたことからおこった言葉である。<(p.165)

「プライバシー」は私生児の権利に関係があると私は思っている(昔には [aboutme:76272] にちょっと書いた)。ネポティズムは明確に私生児に関連があるんだね。

JRF2022/10/183781

……。

>ルネサンスの思想の中には、無限を追求しようという要素があって、これは美についても、また認識についても、富についても、権力についても、無限なものを追求しようという衝動が強く見られる。しかし、このように無限を求める衝動はギリシア人にはまったくない。ギリシア人の世界は、秩序正しく組み込まれた有限な世界、宇宙 kosmos であって、無限は不吉なものと思われていた。無限という観念は実はクリスト教的要素であり、しかもこの場合それが人間化されて出てくるのである。<(p.181)

JRF2022/10/186563

オッカムのウィリアムの、個物に形相があるという考え方が個物の中に無限があるという考え方に通ずるのだろう。大乗仏教ではある意味、最初からそういうのはあったように思うが。

JRF2022/10/187855

……。

ルネサンス以降、権力のために権力を求める政治的人間が作る国として stato という言葉が civitas や republica (共和国) に代わって国家を意味するようになってくる。

>それまで長く使われて来た cvitas は古代の都市共同体に由来する言葉であって、republica : res publica と同義に用いられて来たのであるが、stato のラテン形の status が身分より前に状態を指す言葉であった。ところが、この新しい stato は何よりもそれを支配する権力、やがてまた権力が支配するための機構をさす言葉として登場する。

JRF2022/10/186911

(…)

ルネサンスにおいて成立した stato という概念は国家と訳すものの、優越的には、権力それ自体、また権力者、さらにその機構であって、被治者を含まない概念として成り立ったのである。

(…)

権力者の権力行動が権勢を創り出すときそれが芸術作品としての国家と呼ばれるのである。
<(p.184)

「芸術作品としての国家」としての stato。

JRF2022/10/182992

……。

マキアヴェリ(1469-1527)の考え方によれば…、

>いくつかの権力主体が stato を競い合っている時、そこでは互いに恐怖しあっている状態がある。この対外的技術の要点は、他の権力者に対して、どこまでも自己の利益を貫徹することである。自己の利益を貫徹したければ、信義とか正義とか、そういう規範を一切無視して、どこまでも自己の利益を追求しなければならない。<(p.193)

JRF2022/10/183768

>やがてマキアヴェリの同時代人であるジョバンニ・デ・ラ・カサが、「今の時代に人々は、利益 utilita のことを、スタトの理性 ragion di stato と言っている。」と記して、ここから国家理性 raison d'Etat という言葉が生まれるゆえんである。<(p.193)

国家理性…ってそういう意味なのか…。

JRF2022/10/187401

……。

>マキアヴェリは、人間は自分の運命をどうすることもできない。人間社会は fortuna (…運命…) によって支配されている。しかし、まったく他力に支配されるものではない、という。fortuna を破るものが virtu であってこの virtu は virtue、美徳、徳性ではあるが、この場合は道徳的な意味であるよりは、人間が運命に対抗するだけの能力、資質をいう。そして人間社会について fortuna を制御する virtu は君主の力であり、変化する状況への適応能力である。

JRF2022/10/182097

その意味では、マキアヴェリは、運命に対する自由を、この適応能力に求めている。これは機会主義 opportunism の教説である。これを日和見主義と訳すと、いかにも消極的、受動的なイメイジになるが、本来の機会主義ははるかに能動的、積極的な prudenza 予測能力であって、変化する状況を先まで見通し、この状況を打開するに何が必要 necessita であるかを鋭く見破って、必要であれば道徳的な悪もあえてする。道徳に拘束されずに必要なことをあえてする決断だけが運命を制御するのである。
<(p.194)

JRF2022/10/184910

1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』あたりからセカイ系という言葉が 00 年代にかけてはやった。それに対抗するのが「決断主義」と言われた。マキアヴェリあたりを参照してたのだろうか?

JRF2022/10/186496

……。

トマス・モア(1478-1533)の『ユートピア』。モアは寛容な社会を想像した。福田に言わせると大衆の自発的活動がどこにもないのが欠点だという。それはこの時代の他のユートピア小説にも言えることらしい。それはそれとして…

JRF2022/10/181625

>このモアの寛容の考え方には一つの限界がある。宗教上の信仰については、どれでも認めそれを理由に迫害されることはない。ただ無神論 atheism だけは寛容しない。すなわち無神論の人間には法的な保護を与えない。(…)寛容思想は、これから見ていくようにさまざまな形態のものが出てくるが、18世紀になっても、無神論を認めるという主張だけは、なかなか出てこない。つまり、神を信じないものは内面におそれるものがないから、社会信頼できる成員になれない(…かららしい。…)<(p.217-218)

JRF2022/10/187393

私は、ユートピア小説については、[cocolog:91331645] でフランシス・ベーコン『ニュー・アトランティス』を読み、[cocolog:83220604] でモリス『ユートピアだより』を読んでいる。

そしてこの部分を読んで、神義論を語る [cocolog:93763227] に…

JRF2022/10/183399

[cocolog:93763227]
>有神論の定理があるから、集団のすべての人は因果応報の「神」を信じなければならないのだろうか? そうではない。

集団が政治によって善をきめ、それで治めるとき、それに人が従うのだから、間接的な善の効果は神を信じない人が含まれていても維持される。それは現代社会を観ればわかる。


…などと書いた。

JRF2022/10/184650

……。

国王の権力が絶対主義国家を確立するそのとき…。

>もちろんその場合に権力がはじめから私利私欲を表に立てて現れるわけではない。それどころか公共の福祉 salus publica, あるいは人民の安寧 salus populi という言葉は絶対主義の常套文句である。こういう名分をかかげて、表面上はすべての臣下に対して中立的な公正な第三者のように装いながら、しかし自己の権力の及ぶ領域の中で社会生活に強く干渉していく。

JRF2022/10/188644

特に権力が中立的に見えるということから、絶対主義の意味を新しく勢力を持つようになったブルジョワジーと封建貴族との均衡の上に成り立つ支配様式であるとする、たとえばエンゲルスのような考え方があるが、実は本当の問題はこの強大な中央集権によって、ヨーロッパの政治生活に新しい単位が確立し、それまでの普遍世界に代わって現在まで続いている主権国家という単位、いわば近代における政治生活の基本形式をまさに絶対主義が作り出した点にある。
<(p.254-255)

JRF2022/10/186855

中立的で公正であるように見えるのは装いであって、「公共の福祉」などを言うときには裏に「私利私欲」がある。…と。まぁ、政治的にはそういうことが多い気はする。

なぜそれが支配者の利益になってるかというと、権力を使って実現している何かがあるということなのだろう。それで満たされるのが支配欲に過ぎないならかわいいものだが、それ以上があるとすると、陰謀論に陥いりそう。

JRF2022/10/180020

……。

カルヴァンの後継者ベーズ(1519-1605)は、新教への圧迫に対し、抵抗権のようなものを考えていた。といってもこの時代ではまだ人民による革命というところまでは踏み込まない。

>ここで抵抗の資格を持っているのは次位の為政者 magistrats inferieurs と呼ばれる。これは本来の為政者である国王が暴君になったときに国王につぐその下の為政者、具体的には大貴族、あるいは三身分会が抵抗権を行使する。(…)誰もが抵抗しては秩序は守れない。だから次位の為政者達が抵抗権を行使して暴政 tyrannie をもとにもどすべきである、こういう主張を述べた。<(p.259)

JRF2022/10/187451

権力は人民の同意に基づくという理屈にはいたるのだが、人民が反乱すると秩序がなくなる…アナーキーになる…と考えたようだ。

JRF2022/10/184613

……。

ホッブス(1588-1679)。ホッブスについては入門的な本『近代民主主義とその展望』と『近代の政治思想』を読んだ([cocolog:90689746])ときにも書いた。

JRF2022/10/187067

>人間観察者としてのホッブスにとって人間を動かす根本的な情念は虚栄心 vanity, vain glory だという。彼の定義によれば、すなわち人間が他の人間と自分とを比較して自分の方がまさっているということを自分で考えるとき感じるよろこびである。そうだとすると人間と人間の間にある普通の状態は相互不信であり、相互の猜疑心であり、相互の恐怖であり、相互の競争であって、ここに出てくる人間はまったく反社会的な人間、あるいは状況化された人間、要するに制度を持たない人間である。

JRF2022/10/181594

だから人間がはじめて他の人間と向い合うとき、その人間と他の人間との関係では人間同士の間に制度ができない。そこにはコミュニケーションは確かにあるけれども行動様式はお互いに反制度的であって、ゼロ・サム的に相手をやっつけようとする行動しか出てこない。
<(p.321)

かくして万人の万人による闘争となり、人に(将来の枯渇の)予見能力があるからそれがいっそうひどくなる。それでは結局自己保存が逆にあやしくなるので、互いにそういう追及をしないという契約のもと国家が現れることになる。ただ、この場合の自然は闘争状態なので、人は国家のもとでも簡単に自己保存の追及にいってしまう。…ということらしい。

JRF2022/10/180172


ホッブスの議論には弱点がある。

>ところが彼の自然状態における人間を前提するとき第三者について一致することは経験的にはほとんど考えられない。人間を支配する一番強い情念が虚栄心であり、その虚栄心は他人に対する自分の優越を考えるときに味わう快楽であるとすれば、そういう人間ばかりがいるところで、ある人間を主権者に指名することに全員が一致することはど考えられないことはない。まさにそこに彼の理論が持っている非常な不安定性がある。<(p.333)

JRF2022/10/180661

なお、ホッブスの「予見」という考え方を受けて、神義論を語る [cocolog:93763227] に…

>人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされると私は述べた。そしてその神と同じかどうかはわからないが、神・天意・摂理は社会で優れたものであらせられなければならないとも書いた。

JRF2022/10/184590

その(神の善のむなしい射影として)神・天意・摂理が何を善とするかを予見して社会は動くことになる。社会が「決める」といっても必ずしも間違いではないが、自由に決められるわけではない。神・天意・摂理を優れたものにあらせるために、人間にとっても良い方向に導くことがたいてい求められるなどする。そこで予見されてなされる「偽善」が社会一般でいうところの「善」となるのであろう。


…と書いた。

JRF2022/10/188445

……。

ピューリタン革命(1642-1649)においては、理論ではなく実践において政治哲学の刷新が求められた。新教において…

>自由な人間が自発的により集まって信仰の組織を作っている。その前提には自由な個人というものは秩序を作って行く能力があるという確信が存在する。既成の秩序がつぶれたら秩序全部がなくなってしまうというような考え方に対して、自分達は自由に自発的な秩序を作るという自負で対抗するのである。

JRF2022/10/181453

ホッブスが個人主義を前提に政治理論を築きながら、現実には自由な個人が秩序を作れるとはまったく考えていない、あの民衆の秩序形成能力に対する不信とはまさに対照的である。
<(p.338)

JRF2022/10/184863

……。

イングランドでピューリタン革命期を生きたハリントン(1611-77)は、近代所有権の出現に注目して新しい政治体制を構想した。君主政は大土地所有に結び付いていたが、中小の土地の私有によって共和政が現れてきたのだという。

JRF2022/10/185195

>権力形態を左右するのは土地所有のあり方であるから、土地の分配の急激な変化を避けなければならない。それに一番必要なのは土地の集中を防ぐことである。土地所有が集中すると大土地所有が生まれ、王政が戻ってくる危険があるから、農地法を作って土地所有の集中を避けなければならない。危険なのは長子相続制 primogeniture であって長子だけが財産を相続することになれば土地は細分化されない。それを均分相続にすれば、ますます細分化されて共和政ができる。<(p.353)

JRF2022/10/189904

長子相続を否定するのが共和政のいしずえ、相続税政策などが共和制…民主制を支える…と。すると、最近の日本の一人っ子の増加は、長子相続の増加につながるから、むしろ君主制的な考え方が復活するということだろうか。

JRF2022/10/185905

……。

ロック (1632-1704)。ロックについても入門的な本『近代民主主義とその展望』と『近代の政治思想』を読んだ([cocolog:90689746])ときに書いた。

他人と争うと考えるホッブスと違い、ロックは生産によって自然と関わるのを人間の自然状態としたから…

JRF2022/10/184341

>ロックの自然状態においては、人間は自然と向き合っているのであって他人と向き合っているのではないことが明らかであり、したがって自然状態が戦争状態となる必然性はない。<(p.371)

ホッブスは互いに攻撃しないために国家権力を必要とした。ロックの人間は平和に共存できるのになぜ国家を必要とするか。

JRF2022/10/188214

>ロックはやはり自然状態は不便だと述べる。自然状態の中では争いが起きたときに権威をもって解決してくれる公権力がない。平和な状態でも紛争の可能性は排除されていないからこそ、自然法を共同で執行するような政治権力が要るのだということになる。政治社会、あるいは国家(…)を構成する動機は広義の property の保障である。<(p.373)

人間がどうして集団になるのか。

それを↓の枠組を使って考えてみよう。

《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html

JRF2022/10/181360

↑の分業・信用・保険を「原始目的三立」と呼び、刑からの許し・正当防衛・過失責任を「対罪三立」と呼び、支配・権力・特権を「組織力三立」と呼ぼう。

原始目的三立の「分業」から「生産」を有利とするための集団化がまず考えられる。

次に、子供が生まれそれが「他人」となり、少なくともそこから守るために原始目的三立の「信用」の輪を強固にするため数を増やす必要がある。それは「防衛」のための集団化と言えよう。

JRF2022/10/187807

そして、「保険」の番であるが、これは少し考え方が難しいが、自分が保険のために生きているとするなら死ねば、保険を維持するには自分の機能を「継承」させる必要があり、そのための数が必要となる。これを「継承」のための集団化と考えよう。

この生産・防衛・継承を「集団化三立」と呼ぼう。ロックはこのうち生産を集団化の大きなところと見、ホッブスは防衛を大きなところと見たと言えよう。

JRF2022/10/187066

なお、神義論を語る [cocolog:93763227] ところで、有神論の定理と集団化についてみてきたが、それと「集団化三立」の関係は、「集団化三立」が成立して集団ができたところに有神論の定理が成り立つようになるという順番だろう。

JRF2022/10/184964

ただし、有神論の定理が成り立っていなくても、「鬼神は起信なり」の神(シン)の認識は定義(易理 [cocolog:92984837] など)上、存在しうる。これは因果応報以前の神ということになろう。唯一神信仰は因果応報を超越していると説く場合があるが、その超越性のむなしい射影として、因果応報以前の神があったのだろう。([cocolog:93763227] でも書いたが、「むなしい射影」を圏論(Category Theory)に結び付けることはできないだろうか?)

JRF2022/10/185015

集団化すればただちに国家権力を持つわけではない。そこに軍という確実な力がそなわるには別の動機付けを考える必要があろう。

なお、ここでいう国家の「権力」は組織力三立の「権力」と少し違う。前者を「軍権力」、後者を「共同体権力」と仮に呼んで区別しておこう。なお、軍権力の軍には警察力もここでは含まれるとしておく。

JRF2022/10/188192

軍権力は組織力三立をすべてを使役する概念でもあろう。組織力三立を管理するには軍が必要である。ただ、組織力三立を管理するために軍が生まれたとは考えにくい。もうワンクッション必要であろう。

JRF2022/10/187358

軍が生まれた理由には戦争がなぜ必要であったかを考える必要がる。それには「集団化三立」のそれぞれの失敗を抑えるために必要とされたと考えることができると思う。集団化三立のうち「生産」は災害などによって失敗し、「防衛」は他者を内に含む社会不安を生み出して失敗し、「継承」は端的には王位継承など権力の継承の失敗などがありうる。この失敗が力を求めさせ、そこでできた力を「組織力三立」に利用することになると考える。

JRF2022/10/182822

「継承」の失敗は、現代はもう少し考えることがある。図書館が新聞社の記者ネットワークを一端を支える方向性を私は考えている([cocolog:93195641])が、図書館が「継承」に大きな役割を今後担うことが考えられる。それが軍の介入を招くと考えるのは行き過ぎに思うかもしれないが、スパムメールに対して越境して攻撃したい([cocolog:93195641] とか)とか私も考えることがあるので、その辺りを問題にすることもできるのではないか。

JRF2022/10/185965

……。

国家を作る社会契約…、

>それは単一の契約、結合契約、団体設立契約であって全員一致でないといけない。(…)政治社会とは、経験的には、複数の人間がいるだけであり、ただ、そういう人間には共通の規範意識があり、互いに約束したという権利義務関係において結びついている。こういう権利義務関係は、もちろん物として人間を縛るものではなく、彼らがそれを実現してゆこう、それに従って行動しようとする意識をもっている限り成り立つにすぎない。そういうものとして人的団体すなわち政治社会が成り立ち、しかも、その政治社会の意志決定が多数決で行われるのである。<(p.375)

JRF2022/10/182666

全員一致で多数決に基本従って行きましょうと決めたから、多数決が有効であるだけ…ということだろう。

JRF2022/10/181209

……。

>自然状態でそれが侵害されたときには自力救済によって自然権を守るために natural power を行使するのである。ところが、政治社会にはいるとこの力の行使を止めて、その代わりに公権力による対外的な防衛と権利の侵害に対する救済とを期待するのである。つまり、合法的な暴力としての公権力が国家に集中して現れるのである。<(p.377)

軍の力の独占はなぜ生じるか。

これも「原始目的三立」から考えると、まず、軍にいながら他の職業をするよりも専業のほうが強くなるだろう。つまり三立の「分業」から「分業」がまず理由としてある。

JRF2022/10/180497

そして、今度は「信用」について、信用の輪は制裁し合っていくと収集がつかないため、最終的に制裁する者を決めたほうがいい。「信用」から「最終性」の必要性が次の理由として出る。

さらに、今度は「保険」について、他者を殺すような他者を保険のため生かすには、自由な復讐を禁じる必要がある。「保険」から一般の「復讐の禁」が次の理由として出る。

これらが軍の力の独占をもたらすと私は考える。

JRF2022/10/185977

……。

ロックは立法権を至上権として位置づけるが…、

>ロックは権力の種別として、立法権と並んで執行権 executive power と外交権 federative power を挙げている。<(p.379)

外交権には戦争の権利も含まれる。

これはある意味で三権分立を示している。

私の三立の枠組では組織力三立が三権分立に対応するだろう。三権分立の三権は行政権・立法権・司法権だが、それを組織力三立に割り在てると、「支配」が行政権、「共同体権力」が立法権、「特権」が司法権ということになるか。

JRF2022/10/186135

ロックのものに割り当てると、執行権が「支配」、立法権が「共同体権力」、外交権が「特権」ということになろう。

JRF2022/10/183662

ただ、立法権が「共同体権力」というのはわかりにくい。共同体が保険として公正のため造るのが共同体権力ということであるが、公正さを決め弁証法的に社会を変革するのが立法で、それにより受動的に力の作用点が変わるのであるから、そこに力=権力の契機があるということか。「保険」というのは基本保守的に法はかえる必要のないものだが、もしかするとかえる必要があるかもしれないと保険をかけて作ったのが立法権ということになろうか。まぁ、ロックがいうように立法権こそ至上権で、至上権だから立法権は(共同体)権力の主なのだという理由付けで十分かもしれないが。

JRF2022/10/189436

……。

>権力機構外にある人民がもつ権利が抵抗権と革命権である。<(p.380)

私の三立の枠組では明示的な抵抗権や革命権の話は出てこない。これをどう考えるべきか。

抵抗権・革命権は、生産・防衛・継承をわざと失敗させる権利であると考えるが、それらの失敗はそもそも軍の必要性を意味した。よって、抵抗権・革命権はそれらをわざと失敗しても軍が動かない・抑えられるその条件が権利の実質をもたらすのだろう。

JRF2022/10/184420

そこに善がなければまず軍を抑えられるということはないだろう。それは「有神論の定理」的な善かもしれないが、その前の原始目的三立の目的を満たすのが善として十分である。

現代中国のように軍の力がとても強くなると、抵抗権・革命権はほぼないに等しくなる。軍の力が増し過ぎると、イノベーションが抑えられるように私はイメージする。社会が硬直すると表現できる。

JRF2022/10/183819

イノベーションというと知財であるが、それは私が少し前に [cocolog:93717633] などで語った必需品と贅沢品の宇宙的独立関係を思い出させる。生存のための必需品と知的イノベーションのための贅沢品はどちらをどれだけ増やすかは独立に決めざるを得ない。どちらがどれだけ多いと良いとかは決定できない。宇宙はそうなっている。…という議論があった。

軍の力をとても強くするのは、その独立関係を否定し、すべてが必需品として扱われるべきだという方向ではないかと思う。

JRF2022/10/185282

しかし実際は(…と私は考えるが…)独立関係にあるから、そのような方向性は、大きく誤り他との競争に負ける可能性があるというべきだ。(独立だから逆に勝つ可能性もあるのであるが。)

ここから結論として、必需品の軍をとても強くすることの逆なので、抵抗権・革命権は贅沢品にあたり、それを重視する立場がある、善に関して余裕がある…ということになる。あまりいい印象にならないが、これが私の議論の枠組での結論になる。

JRF2022/10/189080

あと、必需品と贅沢品の宇宙的独立関係は、地球全体の話で、国が複数あるときその国でどういう選択をするかというのはそれほど独立ではないかもしれない…とここで議論していて気付いた。

その時代の全体の状況によって、必需品(軍事)と贅沢品(自由)のどちらにウェイトを置くかが勝利につながるか違うというのはありそうで、どの国も競争をしている以上、ある程度は似た配分にしないといけないという面はあるように思う。そうすると独立とは言えなくなりそう。

JRF2022/10/184845

……。

>(…)ヴォルテールさえ、「もし神が存在しないのなら我々が創り出さねばならない」<(p.387)

有神論の定理が集団に成り立つ。だから「神(・天意・摂理)」があるとしたほうが有利だ…とは言える。神(カミ)がいようといまいと。

JRF2022/10/184660

……。

モンテスキュー(1689-1755) の三権分立…

>「すべての国家には三つの権力がある。立法権、万民法(国際法)に関する事項の執行権、及び国法に関する執行権がそれである。」「第1の権力によって君主または支配者は一時的または恒久的法を作り、第2の権力によって彼は講和しまたは戦争し、大使を派遣接受し、治安を維持し侵入に備える。第3の権力によってかれ犯罪を罰しまたは個人の争いを裁判する。ひとは執行権のうちこの最後のものを裁判権と呼び、その他のものを単に国の執行権と呼ぶことが出来る。」<(p.398)

JRF2022/10/181773

そして三権を牽制させあうことでコントロールできる…ということらしい。

これまで三権分立に組織化三立を対応させてきたが、どうもそれはかなり見方が違うのかもしれないな…。牽制させあうなら、力のバランスも考える必要があるという面もある。

JRF2022/10/188061

……。

アダム・スミス(1723-1790)からリカード(1772-1823)の古典経済学では…

>その関連で今一つ重要なのは、論理的に完結した国民経済において、土地と資本と労働と生産が3要素としてあげられ、それに見合って地主と資本家と労働者の3階級が、法則的必然性をもって立ち現れたことである。(…身分の平等が意識から消えたあと…)社会の法則性の発見は、今や階級の必然性を提示する。<(p.442)

JRF2022/10/182864

消費者・労働者といった身分に関し、新しい身分法が必要となってくる(参: ↓)…という論が私には昔からある。それが平等でなければならないからと強者と同じ枠で語られたらたまらない。確かに昔のような身分制の復活には気を付けないといけないが。

JRF2022/10/180428

[aboutme:119666]
>現代は貴族制度のようなものがなくなったので、身分権が親権だけになったという論なのだろうが、現代では新しい「身分」権として逆に弱い者に特権を与えるという文脈がある。労働者の団結権や、消費者のクーリングオフの権利などである。「身分」を認めないという姿勢は大事だが、ともすると、それは弱い者に作るべき新しい権利を阻害する方向で働く。<

JRF2022/10/184687

……。

カント(1724-1804)は、国家国民の概念の必要性をなかなか提示しなかったが、それが提示されたのは、戦争の放棄と国際連合を迂回してからであった。そこを理想として追うとき国家国民が現れてくるという形にしたということらしい。その背景には現実のドイツの国家事情の苦しさがあった。

JRF2022/10/184140

>こうしてカントは現実の国家ときびしく距離をおきながら、政治社会の意味を見出すために迂回に迂回を重ね、その途上世界秩序について不朽の構想を展開し、その構成者としてようやく共和政的な国家に行きついたのであった。年老いたカントは、フランス革命において、政治進歩の可能性だけでなく、事実も見ることができた。しかし、ほとんど最晩年の作である『法論』の国家契約には、ルソーの革命性はもはや姿をとどめてはいなかったのである。<(p.469)

JRF2022/10/186422

……。

ヘーゲル(1770-1831)…、

>国家の組織において、ヘーゲルは(…)世襲の立憲君主制を提示する。普遍的なものを規定する立法権には君主と統治権の担当者が参加するほかに、両院制の議会をおく、その上院は農業身分を代表とする世襲の土地貴族から構成され、下院は商工業身分から選出されるが、この選挙はどこまでも地方自治体や職業団体を母体とするものであって、個人が公民として選挙権をもつことを許さない。これは国家の有機的組織を構想するヘーゲル終生の信念であって、その観点から英国の選挙法改正案を批判した作品がその絶筆となった。<(p.489-490)

JRF2022/10/184868

このあたりがマルクス、エンゲルスを通じて現代の中国などに続いた民主集中制などにつながるのだろうね。

あと、職業団体などの組織が決定的力を持つのは日本の普通選挙でも同じことか。現状のシステムを見たらヘーゲルはなんといっただろう?

JRF2022/10/187636

……。

ヘーゲルはまた戦争について…

>対他関係における国家は、他の国家と相対し、そこでは独立こそ「国民の第1の自由であり、最高の名誉である。」国家相互間の承認において国際法は成り立つけれども、それは単なる当為以上のものではなく、国家相互間の現実は主権を原理とする自然状態であって、カントの永久平和の構想はまったくの夢想にすぎず、そこでは戦争の必然性が承認されるばかりでなく、平和の招く腐敗を防ぐものとして、その倫理的意義が強調される。<(p.490)

JRF2022/10/184878

必需品と贅沢品の宇宙的独立関係のひとこと([cocolog:93717633])で、>生存競争して、不健康な長寿個体を排除するのが、正当化される<といったことを考えた。それに似ている。

しかし、戦争…核戦争までする必要はないと私は思う。民主主義がまともに機能していれば、腐敗もある程度、防ぎやすいだろう。ただ、世界政府よりは、戦争をしないまでも、複数国家で競争しているほうが、健全性を保ちやすいという側面はあるかな…とは思う。一方で、金融資産課税などを公平にするためには国際協調がかなりしっかりしないと難しそうというのがあって難しい。

JRF2022/10/189484

……。

……。

今回、学んでみて、私の議論の枠組には組織論が決定的に抜けていることに気付かされた。普通選挙や議会の必要性といった部分を私は導き出していない。社会経験の少なさが組織論への無理解につながっているのだと思う。ただ、今は時代としてすでに普通選挙が実現しており、その必要性の議論に意識が行きにくいというのはある。認識論からはじめないのも時代だろう。

JRF2022/10/185852

そして全体主義的な面が少なからず私にあるのは、中国などが元気で、日本も中国との対抗上、民主主義を堅持しながら、しかし、超高齢化に対応するため(若者の)専門家支配を目指す時代的背景からだとも思う。あまり自分では意識してこなかったが。

JRF2022/10/186922

……。

……。

追記

「集団化三立」について。「防衛」は一足飛びの印象がある。集団になったほうが有利なのは、「分業」の場合は明らかで、「保険」も二人は必要ということでそのまま出るが、「信用」の輪については、少し難しい。「信用」は、一人が言うより二人が言うほうがより信用できるというというのを考えるべきなのではないか。

そういう「原始目的三立」の段階で、すでに集団になる理由はある。その後それらが互いに影響しながら発展すると、生産・防衛・継承の集団化三立になるのだろう。

JRF2022/10/254242

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