cocolog:93808984
本田済『易学 成立と展開』を読んだ。それで考えた。悪い運命を予言して避ける努力がなされたにもかかわらず不運に実現しても、占者は力不足とされても、運命の神は・天意は、力が強かったとできる。占いは神に有利である。 (JRF 9157)
JRF 2022年10月25日 (火)
……。
易・易経についてはゲーム『易双六』を作った関係でも関心を持っている。もちろん、先に易への関心があって、『易双六』を作ったわけだが、関心を強く持続しているのはゲームを作ったことが大きいように思う。
JRF2022/10/257074
高田淳『易のはなし』(岩波新書) はずっと昔に、今回の本と同じ講談社学術文庫から出ている金谷治『易の話』は 2009年ごろ [aboutme:112535] で、、三浦國夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 易経』(角川ソフィア文庫) は 2021年に読んでいる。もちろん、『易経』(岩波文庫)も昔に読んでいる。他にもいろいろ読んでいる。特に 2021年11月ごろに [cocolog:93143975] でそれらを再読していた。
今回の本は文庫の新刊として求めやすく出ているのをたまたま知って、買ってみたしだい。
JRF2022/10/251596
……。
ここから先は「引用」していく。コメントは一部、多く書く部分もあるが、そういうのは少ない。ご容赦願いたい。
JRF2022/10/255860
……。
>孔子の倫理は、(…)大体、動機主義 motivism にある。しかるに易の方は、いかに深遠な哲理を含むと称するにせよ、占い divination の書である以上、動機主義の倫理とあい容れない。(…)孔子も「大体は」未来不可知の立場にあるといってよかろう。とすると、未来を知りうるものとし、吉凶の先見 -- 幾を見て起[た]つことをよしとする易の原理は、孔子から見れば卑しまれねばならない。
JRF2022/10/254372
しかし、この問題はそれだけに尽きないものがある。孔子の考え方が全く非合理的なものを払拭し切っているわけではないから。たとえば、孔子は命(…天命など…)というものを修養の極において見うるものとしている。私がさきに「大体は」と限定した理由がここにある。
<(p.31)
JRF2022/10/257810
儒教は基本的に結果よりも動機を重視する…と。ただ、動機でなんとでもなる部分もあるが、どうにもならない部分もある。後者が「命」と呼ぶものと一致はしないだろうが、それをどういう部分まで認めるかという話はあるだろう。山は押しても動かないという事実と、天命はどうしようもないというのが、ある部分までは似ているとは言える。孔子を不徹底とあやしむ必要はない。
JRF2022/10/256360
……。
>師の卦は戦さの卦で、帰妹は結婚の卦である。今の易のしくみからいうと、結婚のことを占うべく卦を立てたとしても筮して得られる卦は必ずしも帰妹と限らない。逆に戦さを占って結婚の卦が出る可能性もある。完成した易の建て前ではすべての文句が象徴的で万事に即応するとされているものの、当初にそれほどの意識があったかどうか。それにしては文句があまりにも実際のことがらに即し過ぎていて、類推適用に困難である。
JRF2022/10/255115
師・帰妹の卦爻辞の祖型は、それぞれ戦さ、結婚のケースに応じたおみくじである。つまり、戦さを占おうとしう人は、師の字をふくむ一組みのおみくじの中から、一本をひいて吉凶を見るというふうになっていたのではないか。
<(p.43)
JRF2022/10/253729
社会のありようから卦を想像するという方向がある。そのときは爻もあてはめたくなってしまう。それをあえてあてはめないということか。
いや、卦も爻もまずあてはめてみてから占い、このとき、通常の占いでは、どの卦のどの爻を参照すべきかがわかるとして、その卦と爻をまず分けてそれらを逆に使って、あてはめた爻が実際にはどうなるのか、またはどう移るかを占った爻で判断し、その後、あてはめた卦が実際にはどうなるかまたはどう移るかを示すものとして占った卦を用いる。そういう逆向きの占い(逆易占?)ができそうだな…。
JRF2022/10/255468
占うときに指示される爻が二つ以上の場合、一方はあてはめた卦の実際の爻、もう一方は占った卦の爻を指す…どちらがどちらかは場合により決める…といった感じか。まぁ、決定する方法を作ってもよいが。
JRF2022/10/251514
……。
>「貞凶、元所利」(まさにわるし利する所なし、と読みならわすが、貞凶の原義はとうことの結果はわるしであろう)、「貞吝」(これも原義はとうこと吝であろう)、(…)<(p.44)
三浦國夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 易経』を読んだとき([cocolog:93143975])、三浦は>「貞」を原義にさかのぼって「問う」「占う」と解釈して<いたのはここと同じ見解か。ただし、私は、「貞」は「つつしんで」と訳したほうが良い場合があるのでは…と疑問を呈している。
JRF2022/10/258215
……。
陰陽の語はもとひかげ・ひなたの意であろうが、左伝のころにはすでに変質し…
>陽は暑さの、陰は寒さのもとをなす一種の気体であろう。<(p.96)
気の順逆。気に順って政治することもあれば、逆らってなすこともある。物理の慣性の法則や作用反作用の法則にも少し似ている。
JRF2022/10/255166
象数易にしたがって祭をし、その祭の反応・「理論と実情の差」を知ることで、政治がどれほどうまくいっているかを知ることができたりはしたのではないかと思う。大きく違う場合は、逆に、解釈などをかえ、祭をかえることもできただろう。そういう方法は案外楽しく、統計とかがない時代にはうまくいったのではないか。
JRF2022/10/258330
災異が部分的に支配の問題というのは正しい。災害は、事前に何かできることがある場合があるし、事後にもできることがある。必ずできるということはないが、何かができたのではないかと問うのは間違っていない。奇異な事件も、それが本当に人為でないか関心を持つ必要がある。天からのメッセージを読み込み過ぎるのは間違いだが、それに託された人の思いは受け取るべきだろう。私は奇跡があることを信じる人間なので天からのメッセージというのもある程度はありうるとは思うけれども。
JRF2022/10/259493
……。
易経 繋辞伝に導かれる「楽天知命」(天を楽しみ命を知る)という optimistic な人生観。…
>ここでいう知命と孔子のいう知命とでは微妙な差異がある。さきに孔子の倫理が大体において動機主義であること、故に論理的には未来は人間の目から隠されておるべきはずであること、その点で divination とは一線を劃すべき事を述べた。その際、孔子の中に、それとやや矛盾する考え方のあることを指摘しておいたつもりである。人間の、良心の命令にしたがっての道徳的努力の果てに、いかんともすべからざる天命の存在することを認め、かつそれが知りうるものであるとする考えがそれである。
JRF2022/10/258638
しかしながら孔子は五十にして始めて天命を知ったのであり(論語・為政)、天命は「君子」にして始めて知りうるものであった(命を知らざれば君子となすことなし〈論語・堯曰〉)。問題は徳と福との一致不一致にかかわっている。カントは徳と福との不一致を救う手段として、来世の存在、霊魂の不滅を前提し、無限の未来における両者の一致を要請した。ここには明らかにキリスト教の信仰が底流をなしている。しかし、来世や霊魂といった観念をもたない孔子としては、問題を死後の世界に延引することはできない。
JRF2022/10/253581
道義的努力のあとの不遇、それは人智人力を超えた石の壁である。それはあらゆる悲歎と悔恨を冷たく跳ね返す。孔子は、それを「天命」とよんで、笑って諦めることとしたのである。知名とはただ知るというのでなく、知りつつ泰然と諦める境地をいう(伊藤仁斎・語孟字義・天命)。孔子の知命は悲観的ではないまでも悲劇的である。
<(p.110-111)
JRF2022/10/255109
徳は報われるはずである、社会は報いるべきなので。しかし、時を得ない場合は社会が報いてくれない。しかしだからといって徳の追求をやめるべきではない。後世に評価されるかもしれないから。しかし、後世に評価されなくてもやめるべきではない。天が見ているから、または、自分の性が見ているから。その「または」の両者はある意味一致している。そういう自分であるべきだと知り(識り?)(諦めて)受け容れるのが天命…といったところか。
JRF2022/10/255831
>しかるに繋辞で楽天知命という時、やや天命の内容がちがって来ている。それは天地をも人をも然[しか]らしめる法則性なのである。天地人を貫いて違[たが]うことのない法則性は、易において簡易に悟られるが故に、これに沿い、これに身を委[ゆだ]ねて行動することが楽天知命である。ここに孔子の命の悲劇性はない。<(p.111)
JRF2022/10/259753
……。
繋辞の…
>「神を窮め化を知るは、徳の盛なり」とか、「用を利し身を安んじ以て徳を崇[たか]む」とかいうことは、こうして天地人の法則としての道を易で知って、それで身を安泰を図るのが徳だ、ということであり、この徳の意味はきわめて卑しい。
JRF2022/10/251823
(…)
天地の予定調和と一致するものであれば、易は、未来を占うという性格を抹殺してよいはずであるが、繋辞はそれをしない。つまり、具体的な、個々人の運勢については、その気まぐれで予測しがたいことを容認しながら、この個々の運勢を背負った人を、抽象的な人 -- 天地とならべられたばあいの人の観念とすりかえているのである。
JRF2022/10/252849
このトリックを看破する能力が当時の人々になかったのであろうか。否、問題は能力いかんではなかった。時代思潮の澎湃たる流れ、宇宙論へ、天人を貫く理論へ、の流れに乗って、繋辞がなしたこの粗雑ながらの一応の理屈に対して、人々は無反省に拍手を送ったのである。流行の装いの新奇さに目を見張って、布地の穴に気づく余裕がなかったのである。
繋辞の倫理は右の点で、根本的に卑しい。さらに目につくのはいろいろの徳目についての定義である。
JRF2022/10/252359
「富有をこれ大業という」「崇高は富貴より大なるは莫[な]し」「聖人の大宝を位という。何を以て位を守らん、曰く仁。何を以て人を聚[あつ]めん、曰く財」これらは昔から、原始儒家の富についての潔癖と比較して、卑しいと批難されるところである。しかし、これも、時代というものを考え合わさねばならぬ。
JRF2022/10/253575
ここで述べられていることは、その国の隆々たる富を誇り、天下の最富貴者としての矜持に満ちた、稚気満々の創業の君主に向っての頌歌であるにちがいない。(…)儒者の理論は時好に投じて変化することに長けていた。この繋辞を秦から漢初の儒者の作とすれば、こうした卑しさも、別に取り立てて責めるべきすじのものでもない。
<(p.113-114)
JRF2022/10/259805
易は占いの書でありながら科学的・即物的で、資本主義的なのだろう。そういうバランスを取っているからこそ永く存在できたのかもしれない。即物的ということではこの本の著者の方法にもそれはあると思う。
JRF2022/10/258593
言葉としては浅い。しかし、それを占いや象数などと合わせると深みが出る。私の「シミュレーション仏教」の方法を思い出す。
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd
JRF2022/10/252094
……。
第1章のまとめ、易の経と十翼の成立過程と内容の概略。…
>まず易は divination の具として発生した。六十四の卦の形は必ずしも卦爻辞より先にあったものではない。卦爻辞の素材は、古いおみくじの文句、卜辞の残片あるいは諺など。その内容は、したがって、なんら倫理道徳を説く意識はない。ただ結果的に庶民的な処世智といったものは見られる。経の部分の成立時期は、漠然としているが、東周期とだけいっておこう。左伝と比べてわかることは十翼の中で最古の因子は、説卦の後半、および大象の前半の部分にある。つまり八卦をものにあてて解釈する部分である。これを第一群とする。
JRF2022/10/255742
第一群までは、易は儒家と没交渉である。儒家は、その祝司[かんぬし]めいた前身や、運命論といった思想から見て、他の学派よりも易と結びつく可能性がありそうでいて、反面に儒家の進歩的な特徴である動機主義的倫理、合理主義精神のためにそれを阻まれていた。しかし時代の関心の焦点が、人倫から宇宙へ移ると、宇宙論などに欠ける儒家としては、新しい経典を附加して陣営を強化する必要を感ずる。そこで儒家が目をつけたのが易である。
JRF2022/10/254355
ここで彖象が作られた。この第二の群は、易に始めて儒家の教義を結びつけたばかりでなく、新しい自然哲学或は科学である陰陽説をもいちはやく取りこんでいる。
JRF2022/10/255401
やがて大帝国設立とともに、天地人を一貫しての encyclopedia 的理論、新しい政治規範たるべき実用理論が要請される。そこで儒家は、前者のために易を、後者のために春秋をもってこたえようとした。その際、易のために繋辞が作られた。繋辞は易を経典とするのにあずかって最も力のあるものであった。説卦、文言の完成もほぼ同じころである。繋辞、説卦、文言、この第三の群の製作時期は、秦漢より遡ることはできない。序卦と雑卦はおそらく漢初の経学者、占筮者の手に成るものであろう。
<(p.126-127)
JRF2022/10/256191
漢ができはじめのころ、統治なんかまともにできないので、無為無策を称揚する道家がはやり、やがて、統治ができるようになってくると、孝悌を説くがゆえに法や刑のコストが安い儒家が尊ばれた。…という時代思潮を著者は説明し、そこから易の成立を推理している。(それ以前については文献などからの説明が主。)
JRF2022/10/254554
……。
>儒教が二千年の間、官許の哲学として君臨しえたのは、いかなる理由によるのか。最も本質的な点は、その教義が、農業協同体を基幹とする中国社会の構造と適合していたことである。儒教の教義の根本は孝悌にある。親子の愛情は、人間に自然に具わるものであるが、とくに農耕型社会においては根強いものである。孝悌とは、この自然の情意を、規範にまで昇華せしめたものである。それは家父長の支配のもと、家、宗族、ひいては郷党の自律自治のための規範である。
JRF2022/10/250836
国家として、家族道徳による最小行政単位(数では最多)の自治を認めることで、法一元の統制にしたばあい膨大な数にのぼるはずの警察官を省略しうる。そして孔子が「その人と為[な]りや、孝弟にして、上を犯すを好む者はすくなし」(論語・学而)といったように、孝悌の徳は民心を従順ならしめ、権威への服従の姿勢を養う。法律の威嚇脅迫がなくとも、民の服従が期待されうる。
JRF2022/10/255754
法の統制は、効果の現われは早くとも、民心を満足せしめないこと、秦の治世で実験ずみである。原始儒家の、孝だけで天下を治めうるとの主張は、この意味で、全くの誇張ではない。
さらに、儒教理論でゆくと、支配層は有徳者によって占められねばならぬ。したがって民間の名望のある教養人は、官吏に登用せられるべきである。この主張は中国歴代の官吏登用法の中にある程度実現された。これは世襲制のもたらす官界の沈滞を防ぐに有効なばかりでなく、革命の心理的動機たる下位者の上位者へのひがみを緩和するに足るであろう。
<(p.133-134)
JRF2022/10/250560
著者の方法の一部を「即物的」と先に表現したが、なんというか、この現実主義的な主張はすごい。
JRF2022/10/258326
……。
易を参考にした「太玄」という占いがある。揚雄が作り前漢最後期にはやった。
JRF2022/10/256384
>ところで太玄のもつ規則性、すなわち方州部家の地上の世界の展開の規則正しさ、それと照応する天象との整々とした合致、さらに首、賛の性格の整頓していること、これらの規則性は、易の本来の面目とだいぶ趣を異にするものである。
JRF2022/10/252843
繋辞伝に易をたたえて「典要をなすべからず」という。朱子は、太玄を貶して、典要をなすべき書であるという(語類 76)、易は前章に述べた通り、成立要件からして、典要(法則)を立てがたい気まぐれな性質を具えている(吉卦必ずしも吉ばかりでない。位のよしあしも法則を立てにくい。卦の序列も無計画である)。その点が、かえって易の興味を支えているのである。その点、銖錙の批判はまさに急所を突いている。
JRF2022/10/254319
しかし、一歩退いて考えるならば、揚雄の時代の易学者で、「典要をなすべからざる」易を説いた者が果たしてどれだけあったであろうか。孟喜、京房、易緯、前漢易学の主流をなすこの一聯は、すべて易を天と結びつけた。天の機械的運行に結びつけ、易を必然論的因果の書としてしまった。そういう伝統のあとを受けた揚雄の作が、こうした形になるというのも、逃れられぬ運命であった。
<(p.164-165)
JRF2022/10/257119
太玄は後の時代にも影響があったらしい。魅力があったのだろう。当然、私ははじめて知った。
JRF2022/10/254011
……。
魏の王弼の時代、易・老・荘がはやった。老子の無政府主義・反礼教主義が受け、それがまだ君主を要していたのが、君主が弱まり家々がそれぞれ主張しあうような時代になり、荘子の万物の平等が受けるのにうつっていく。…
JRF2022/10/259391
>易は、というのに、繋辞伝に階級を謳歌しているような面もあるにはあるが、反面、変化を説く点では anarchic な気分も多分にある(…)。老・荘・離騒(これも愛読された)ほどの反俗や孤高の精神は、易にはないが、もう少し低いところで時の人の気持に触れるものはある。しかも易の考え方は悲観で終るものでない。安定のあとには不安定が、そして不安定のあとには安定が来る。くよくよするな、といったふうで、一種の救いがある。<(p.186)
JRF2022/10/252439
上で「易は占いの書でありながら科学的・即物的で、資本主義的」と書いたが、易には「自由」があり、占いで立てる身には「独立」がある。
私は福田歓一『政治学史』を読んで自らの政治論をかえりみたとき([cocolog:93797324])、私自身の「思想」の全体主義的傾向を認めざるを得なかった。
それに少し悩んでいたのだが、それに対するカウンターとして、これまでやってきた易の「自由」「独立」がたてられるかもしれない。…と思った。
JRF2022/10/253688
上の引用にあるように易には階級もある。しかし、片側に階級も許すくらい自由でなければ真の自由でもないと思う。
まぁ、これからの時代、階級の一部には AI (による支配)が入ってくるのかもしれないが。
JRF2022/10/252373
……。
>また東晋の殷浩と孫盛とが「易象は見(現)形よりも妙なり」という議論をしたことがある。その論旨のなかに、「八卦は縁化の影迹、天下は寄見の一形」とある(世説・文学注)。おそらく八卦の象徴が無尽縁起の影をやどしているのに対し、目に見える世界はその一時の仮りの姿に過ぎないということで、両人の仏教の素養から推しても、多分に仏教の教義を用いての議論であったと思われる。<(p.202)
ここはむしろ、幾何学からの想像からできたプラトンのイデア論に似ていると思った。
JRF2022/10/251003
……。
晋から南北朝にかけて仏教が隆盛をきわめたが、その中で、儒教に仏教がまたは仏教に儒教が「とりこまれて」いく。仏教でも「家」が大切であることを認めざるをえず…
>晋の孫綽の喩道論は幼稚なものながら、その道を早く暗示している。仏教では家を捨てるから孝道に背く、という非難に対して孫綽は次ぎのように答える。十二部経にも孝は説かれていて、仏教は孝道と矛盾しない。家にある時は孝養を欠かねばよいし、おのれが出家してもその功徳で親が死後天に生れかわるなら、それは大孝である、と。<(p.203)
JRF2022/10/253436
……。
宋代…
>綜合的学者として、朱子は後漢の鄭玄に比べられるが、鄭玄では、真理は経の中で完結しており、経はそれ自体が目的であったのに対して、朱子では、真理は万物の中にあり、経はその真理をつかむ一つの手段なのである。故に聖人への尊敬はかわらないけれど、経なるが故に、その中の誤りにまで盲目であることは朱子にはできない。易についても、欧陽脩が十翼を疑ったほどではないにしても、ある程度の疑問は抱いていたようである。<(p.226)
JRF2022/10/259093
疑問の例もこの本には書いてある。この本の朱子への評価はかなり高い。
JRF2022/10/255814
……。
>筮法とは直接関係がないが、王禹偁の小畜集・巻十九に、珍らしい易についての遊戯を伝えている。同州節度推官の岐賁という人が周易彩戯図というものを作った。六十四卦三百八十四爻のうち乾六爻を除く各卦の各爻をすごろくの盤の各々の目にあてはめる。すごろく盤は、胡応麟の筆叢・巻四十で見ると、たてよこ十九路三百七十一目ある由で、大体合致するわけである。その彩戯図ではさいころ二つを振って進むのであるが、謙卦に遇えば賞があり、訟卦に遇えば罰があるというふうに、遊戯のうちに易理を知りうる功能がある、と。
JRF2022/10/255826
乾のみ省いたのは「君主の卦であって、人臣あえて戯れとなしえない故」だそうで、いかにも宋人らしい謹直さである。当時、神仙を題材といった高尚なすごろくに、李郃の銷夜仙図があって、これは流行した由であるが、この周易彩戯図は果して世間に迎えられたかどうか。王禹偁は「投壷や郷射同様、君子の遊びとしてふさわしい」とほめているが、その後の消息は不明である。
<(p.260-261)
JRF2022/10/250622
「易」で「すごろく」まさに「易双六」である。私の作ったのはタロットカードのソリティアとしての「易双六」であり、ゲーム性はまったく違うが、易の考え方を学べるかもしれない…というところは似ている。あまり、はやってないのも似ているかもしれない orz。
JRF2022/10/255085
《易双六 Youscout ~ Tarot Solitaire (GAME START)》
http://hp.vector.co.jp/authors/VA058801/youscout/youscout.html?jrf_tarot=local&default_lang=ja
《易双六(ようすこう) - タロットカードを使った一人遊び (説明)》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2011/11/post.html
JRF2022/10/255876
……。
西洋の二元論はプラスとマイナスであるのに対し、中国の陰陽の二元論は 0 と 1 に擬えられるという…。
>西洋の二元論は激しい闘争性をはらむだけに、無限の向上又は無限の向下の指向性をも暗示しているが、この中国的な二元論は、プラス対マイナスでない、真の二元論というにふさわしからぬ二元であるだけに、前者とは反対に、穏やかな平和な感じがする。その代り進展はない。無限の循環にならざるを得ない。そしてこの否定を含まない、無限循環性というところに易的思考の限界もまた存するのである。<(p.264)
JRF2022/10/251322
確かに易は自由な割に枠にはまっていてイノベーションがないとは言えるかもしれない。「易双六」には「スーパー易双六」とかいって新たなコレクタブルカードを加えるぐらいの大胆さが必要なのかもしれない。
JRF2022/10/254808
……。
>目次を見ると、易学史の時代区分は、前漢〜後漢〜王弼とそれ以後〜宋明〜清朝、という流れになっている。通常、易学は天人相関説(人事と天=自然とは感応しあうとする説)に基づいて卦爻を操作する、数理的、機械論的なものと、「易」を占術や呪術から解放し、これを一個の哲学の書、智慧の書として捉えなおす立場とがある。漢代に栄えた前者を「象数易」、そのアンチテーゼとして魏の王弼によって先導された易学を「義理易」と呼ぶことがある。著者はそうした両種の易学を踏まえながら、豊かな肉づけを施してゆく。<(p.282, 解題 三浦國夫)
JRF2022/10/259425
用語整理。この本の著者は用語をあまり説明しないので、その点は不親切かな…とは思う。この本は明らかに入門書ではなかった。
JRF2022/10/252833
……。
最後に少し大きな論を建てる。
>易は運命を告げる書である。運命とはいかなるものであるか。ギリシヤ神話では、運命の神を全能の神より強いものとする。人々の運命の糸は、いつも運命の神の手中にあり、鋏でもっていつ切られるかわからない。ここでは運命は知ることを拒絶され、その顔を見ることは恐ろしくてできないような感じのものとして、意識されている。しかも人はこれに立ちむかい、これと争い、はねかえそうと努力しながら、遂には打倒されるのである。
JRF2022/10/250463
(…)
易の運命の考え方はさまで深刻ではない。易では、吉凶の、先に現れる微妙なきざしを見て、吉に就き凶を避けよ、と教える。これがそもそも楽観的な運命の見方である。
<(p.269)
JRF2022/10/259431
占って(悪い)運命を予言したとき、それを行動によって避けることができれば、占いの効用であるし、そうできなければ、運命の神は・天意は、その程度ではどうにもできないほど強力だということになる。
占って良い運命を予言することは祝福・気休めである。行動ののち良い運命が実現しなかったのなら、行動は何か裏切ってなされたのであり、その者が悪いということになる。運命の神が、天意が悪いわけではない。
この辺りカラクリがありそうである。
JRF2022/10/255038
もう少しまとめよう。悪い運命/良い運命 を予言し、必要な行動をアドバイスし、必要な行動が満たされる/満たされない 上で、予言が実現する/実現しない という「/」で場合分けしよう。
まず、悪い運命を予言する場合。
必要な行動が満たされ予言が実現しない場合、と、必要な行動が満たされず予言が実現した場合は、占者がうまく予言しアドバイスしたことになり、占者も神もプラス評価を得る。
JRF2022/10/256022
一方、必要な行動が満たされないのに予言が実現しなかった場合、これは占者が失敗したことになる。占者がすべての責任を引き受けて神を免責することもできようが、基本は、占者も神もマイナス評価を得る。
特殊なのは、必要な行動が満たされたのに予言が実現した場合である。これは占者が失敗し、占者の評価はマイナスになるのだが、運命の神の力はむしろ強かったとしてプラス評価になる。これがカラクリの核である。
JRF2022/10/257971
次に、良い運命を予言する場合。
必要な行動が満たされ予言が実現する場合、と、必要な行動が満たされず予言が実現しない場合は、占者がうまく予言しアドバイスしたことになり、占者も神もプラス評価を得る。
一方、必要な行動が満たされたのに予言が実現しなかった場合、これは占者が失敗したことになる。占者がすべての責任を引き受けて神を免責することもできようが、基本は、占者も神もマイナス評価を得る。
JRF2022/10/250723
そして、必要な行動が満たされないのに予言が実現した場合。これは占者が失敗し、占者の評価はマイナスになる。一方、運命の神の力は強かったとはならない。罰されるべきなのに神が罰しないからである。神の評価もマイナスになる。
占者にとって、良い悪い、行動の満不満、実現非実現は、基本的にイーブンであるのに対し、神にとっては、悪い予言が必要な行動が満たされたのに予言が実現した場合に余計にプラスになるため、長く占いを続けていれば、神の評価はプラス方向に動いていくことになる。
占いは神に有利なのだ。
JRF2022/10/252268
ところで、占者が占いによらず良い運命が訪れるか悪い運命が訪れるか判断するとしよう。すると、上で「特殊」とした場合において、占者の評価がマイナスになると同時に、判断した占者の力がプラス評価されるということが起きる。長くやればやはりプラスになるにしろ、占者は有利な悪い運命ばかりを予言したくなる。神が別にあるのに比べ効果が薄くなるわりに、人々からは疎まれるようになる。一神教の預言者が悪い運命ばかり予言して疎まれるのも、このあたりに理由があるのかもしれない。
JRF2022/10/251326
占者がコントロールするのは必要な行動が何であるかという部分にすべきなのだろう。例えば、失せ物探しなど具体事を占うとき、必要な行動は簡単に満たされるわりに「見つかる」という良い予言は実現しないことが多くなる。占者・神にマイナス評価になりがちだ。そういうときは、具体的な行動を指定するのではなく、見つかろうが見つかるまいがいずれにしろ役に立つ倫理的なアドバイスをすれば、必要な行動は簡単に満たせなくなり、必要な行動ができず見つからない場合は、マイナス評価につながらないし、必要な行動ができて見つからなかった場合も、その行動が別途役に立っているなら、マイナス評価を補うことができる。
JRF2022/10/252508
そのような倫理的アドバイスに適しているのが、義理易を取り入れた易占になろう。逆にそういう倫理的アドバイスをよしとしない場合、具体事を占えば、神の信用を毀損することになる。このあたりが、一神教が占いを否定した理由なのではないか。
ただ、易占は倫理的なアドバイスなく具体事を占うことがある。それは、易占は商売で、商売のためだから、すべての人に信じさせる必要はなく、カルト的な人気を得ればよいからであろう。占断して天意が疑われる結果になったとしても、そういう人は去る者は追わず…とするのである。逆にうまくいけば、カルト的人気を稼げるわけだから。
JRF2022/10/257949
この辺りが、易占が「技術」であるとこの本が示唆するところであろう。
あと、そもそも悪い運命をなぜ神が決めるか。これも大きな問題である。これについては、[cocolog:93763227] などで考えた神義論のテーマと言える。一方、ある種即物的に、運命は自然現象だからという考え方もあるであろう。災害のように悪い運命があるという考え方である。後者を神義論とあわせるなら、神は来世も含めたとても複雑な秩序を施しているから、ほとんど自然現象のように悪い運命がある。…となるか。
(なお、キリスト教の予定説では、行動する「自由意志」すら認めない次元での話なので、ここでの運命の予言とは話が異なる。)
JRF2022/10/252880
……。
追記。
占いでは神が有利であるとしても、神に間違いの可能性をある意味認めているわけで、そこでは一神教的な絶体的な神という印象は薄くなる。そういう相対的…というと語弊があるが、非絶対的な「控えめな」神であることに満足するのが、むしろ、易経的宗教性なのかもしれない。
JRF2022/10/274387
『易学 成立と展開』(本田 済 著, 講談社学術文庫 2683, 2021年9月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4065250110
https://7net.omni7.jp/detail/1107225443
>本書の原本は、1960年にサーラ叢書(平楽寺書店)より刊行されました。<…とのこと。著者は、2009年に死去。
JRF2022/10/250773