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竹村牧男『入門 哲学としての仏教』に目を通した。難しく、若い頃に読んだなら、いろいろ考え込んだであろうところを流して、目を通すだけになった。著者はやや独善的と一見思うが、それは菩薩が仏を目指して半ばにある自己を肯定する大乗仏教に端を発するのだろう。 (JRF 1745)

JRF 2022年11月26日 (土)

『入門 哲学としての仏教』(竹村 牧男 著, 講談社現代新書 1988, 2009年4月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4062879883
https://7net.omni7.jp/detail/1102663345

JRF2022/11/268430

仏教書は、2022年2月に華厳経に関する本を読んだり([cocolog:93335769])、1月に師茂樹『最澄と徳一』を読んだり([cocolog:93262666])していた。しばらく、仏教書から離れていたが、そろそろ次の本を読んでみようと手に取ったのがこの本だった。

JRF2022/11/262506

仏教は宗教の中では哲学にかなり近いものと一般には認識されているものと思う。もちろん、哲学的探求には限度があり、信じるべきと決めるところもあり、仏教においては、それは単に決めたものではなく、真理であるからこその悟りということになるのだとは思う。その「確信」を不立文字など様々なしかたで、師資相承していくのが客観的に見て仏教という宗教ということになるのだと思う。

JRF2022/11/268044

その仏教という宗教をあえて哲学としてとらえるとどうなるのか。そういう本だと期待してこの本を読み、その期待は満たされるはずのものだとはわかった。が、しかし、私にはこの本は難しく、若い頃に読んだならいろいろ考え込んだであろうところを、今回は、流して、目を通すだけに終った。「読んだ」とまでは言えない。

JRF2022/11/266481

ただ、その責任の一端は、この本にもあるように思う。最初のほうにやや独善的な文が置かれているからだ。

>実際、私はこれだけが絶対正しいと主張する立場は、この地球社会の時代に、もはや克服されなければならないと思っている。そういう自宗絶対主義は、グローバルなこの時代を愚弄するものだと思う。<(p.9)

…と書きながら、そのすぐあとで…。

JRF2022/11/269018

>それまでの仏教にもそういう面は多分にあったが、大乗仏教は世界の分析などにおいて、それまでの分析をもっともっと深めたものであった。そこには、大乗仏教徒のあらゆる知性が注ぎこまれ、今日存在する西洋哲学に勝るとも劣らない「知」の体系が構築されていったのであった。だから大乗仏教は最高の学問として、各国でその受容を競いあったのである。<(p.10)

大乗仏教ができた当時の話であるが、「最高」という言葉を使ってしまう。それは自宗絶対主義ではないのか…などと思う。

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このやや「独善的」という態度はどこから来るのか。これは大乗仏教の構造に理由があるのかもしれない。

JRF2022/11/268903

仏教には様々な仏典があり、すべてを修することは難しく、またはすべてを修せたとしても平等に修することは難しい。ある者が学んだものは限られ、しかし、それを人に伝えるにはそこに誇りを持っているべきである。それはすべての真理を被覆するものでない限られたものでしかないかも知れないが、それは仏の普遍の真理に必ず通じている。大乗仏教は菩薩になることを求め、菩薩は仏を目指すが仏ではない。仏の真理そのものに達してなくとも誇りを持って限られた真理を菩薩として保持していれば、やがて今生ではないかもしれないが、仏に通じる。

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仏の、すべてが平等となる地平ではなく、菩薩の、上を目指すのを良いとするそのあり方が独善性をよしとするのであろう。

JRF2022/11/262578

この点は、大乗仏教にならなかった仏教を「小乗仏教」と著者が呼ぶことにも現れている。「小乗」という言葉は、侮蔑であるという人がいるのはよく知られたことであろう。しかし、本来、釈尊には「大」だからよい「小」だから悪いという価値観はない。しかし、大乗仏教には、「上を目指すのを良いとするそのあり方」から「大」を良いとする(のであろう)。だからこそ、この呼び方が出てくる。「小乗仏教」にある者からすれば、単にそう言われるのは「大乗仏教」の側の迷妄に過ぎないという話でしかない。

JRF2022/11/265099

著者も結局はこう述べる。

>というわけで、いわゆる小乗仏教は部派仏教のことといってよいが、その代表格が説一切有部であり、ある意味で仏教のオーソドックス(正統)である。<(p.29)

JRF2022/11/261373

……。

私と著者の理解が違う部分も目立つ。例えば因果と縁起の関係。

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>何かある植物の種子[たね]があるとしよう。この種子は、それだけでどこかに保存されているだけでは、ただそのままである。しかしこれは水につけ、土に蒔[ま]けば、しばらくすると、芽が出てくる。やがて大きく育って花も咲かせ、実を結ぶことにもなるであろう。このとき、種子はまさしくその花などの因である。しかしこの因が、土に埋められ、水分や養分が与えられることによって、結果が現れることになる。

JRF2022/11/262547

その水分や養分次第で、結果がどうなるか変化してもくる。立派な花が咲くか、貧弱な花しか咲かないか、ちがいが出てくる。その水分や養分にあたるものを、仏教では縁というのだ。こうして、因だけで果があるとは見ない、かならず因と縁があいまって果があると見る。これが縁起の道理である。<(p.42)

JRF2022/11/266765

量子力学にフェルミオンとボソンがあるが、フェルミオンが因果的で、ボソンが縁起的と対応できるところから、因果と縁起を別に見るのが流行っているのではないかと私はいぶかっているが、仏教の元々のところは、フェルミオンは考えず、ボソンのみがある…因果は虚妄で、縁起のみを考えるものだというのが私の理解である。

JRF2022/11/265309

神義論を語る [cocolog:93763227] にも書いたが、>人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされる<…という考え方を私はする。似たように、「ある」のは言わばすべて「縁起」であり、それを見て、人は「因果」があるとするのみだと私は考える。「因」は「縁」の一種、「果」は「起」の一種というわけでなく、「因」が「起」、「果」が「縁」となってることもありうる。

JRF2022/11/264033

いや、それどころか「ある」のは「縁」の海だけで、そこに「ある」と見出す我々が見るのが「起」でしかないのかもしれない。不確定性原理における観測が「起」のようなものと考える。

JRF2022/11/260015

……。

この本はだんだん難しくなるのだが、「第6章 関係について -- その無限構造の論理」は、フラクタルとか「くりこみ」とかがやりたいのかな…と思った。「第7章 時間について -- 絶対現在の時間論」は、運動を論じながら、微分の話がほぼ出ないため、現代ではよくわからない感じになっているように思った。その辺り、現代の話を取り込むこともできようが、そういう方向に安易に行かないのが、仏教哲学の普遍性を維持するのに役立っている面もあるのかもしれないと思った。

JRF2022/11/263232

……。

仏教の世界観と一神教的世界観について。

>仏教は絶対者を人格的とばかり見るのでもないし、非人格的とばかり見るのでもないというべきであろう。それは一神教ではないし、かといって諸仏を説くとしても、普遍的な本性を説かないような単なる多神教でもない。また、神々のヒエラルキーを堅持していて、すべては唯一の最高神に帰するような多神教でもない。<(p.170-171)

宇宙の時間は無限にあるのか、始原(たる創造神)があるのか。それについては、宮坂宥勝 訳注『密教経典』を読んだとき、竜樹の『十二門論』の記述に関して次のように書いた。

JRF2022/11/265488

[cocolog:93225056]
>宇宙創世論または次元創世論ではじまりはあるかという問題。創造神がいるとすればどこにいて、そこは誰が作ったのか…と。

JRF2022/11/266594

でもね、創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。そこから未来が確定するごとに線を太くするように過去が創造されていく…。たとえば、そういう創造神がイエス・キリストなのかもしれない。もちろん、こういう解釈はキリスト教にとっても異教的解釈だろうけど。

JRF2022/11/266697

少なくとも「はじまり」があるということはその前というのも概念的に考えることができ、それは無限にはじまりなく続くかもしれない。しかし、アキレスと亀が無限を有限の中に閉じこめるように、その中にいる者にとっては無限だが、外から有限ということはありえ、すると、その「無限」を先ほどのように忽然と現れ創造することもできる。しかし、それは無限の中の一部かもしれない…。

結局これはどちらもありうる話なのだと思う。

JRF2022/11/263331

創造神は、複数の者が同時に…ということがありうるので「唯一神」でないことはありうる。最初が多神的であることはありうる。しかし、神義論を語る [cocolog:93763227] にも書いたように私は統合失調症の発作において、始原は唯一神であり、そこからアクセスがあったと悟った。「出逢った」と思ったのは上位存在でしかなかったけれども。その確信は今はほぼ忘れつつあるが、しかし、それを裏切ることは難しい。

JRF2022/11/264103

どういう次元構造かわからないが、「唯一神」という考えは間違っていない。始原の無限の向こうに始原があり、唯一神の背後の唯一神があるという構造があるかもしれない。この宇宙が見捨てられたものでだからそれを創った「唯一神」というものが考えられる…という考え方もあるかもしれない。しかし、私の「確信」においてはそうは考えない。

JRF2022/11/264694

一部のプロテスタントや一部のユダヤ教徒が考えるように、唯一神以外の「上位存在」はない、それは比喩的なものでしかない、…という考え方は、統合失調症を経験したことのない「普通の人」にとっては、そういう結論になるのは自然であると思う。そういう「上位存在」がないという歴史観にたって始原を考えれば、私の考えたような複雑な次元構造はむしろ不自然で、神は聖書の歴史に現れたただ一者となるのであろう。

もし、私が統合失調症を経験していなければ、「唯一神」という考え方も、上で著者が示した仏教的宇宙論も等閑視できたのであろう。が、私は経験してしまったのだ。そこから考えるしかない。

JRF2022/11/261957

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