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技術系電子本。Python による仏教社会シミュレーション( https://github.com/JRF-2018/simbd )の哲学的解説です。令和4年3月11日発売。

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cocolog:93896796

大角修 訳『大日経・金剛頂経 全品現代語訳』に目を通した。解説は神仏習合について考えさせるもので読みごたえがあったが、本篇は些末なことにこだわっていて、釈尊が否定したはずの儀式主義に陥っているようにも思えた。私はちゃんと読めなかったということだろう。 (JRF 3673)

JRF 2022年12月 9日 (金)

『全品現代語訳 大日経・金剛頂経』(大角修 訳, 角川ソフィア文庫, 2019年10月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4044004811
https://7net.omni7.jp/detail/1107025915

JRF2022/12/98033

仏教書を久々に読んでいる。竹村牧男『入門 哲学としての仏教』に目を通した([cocolog:93870385])のに続いて読んだ。大角修氏の訳のお経の本は、この他、大角修『善財童子の旅』([cocolog:93335769])、『法華経』([cocolog:92105472])、『浄土三部経』([cocolog:92083486]) を読んでいる。

「大日経 入真言門住心品第一」については、宮坂宥勝 訳注『密教経典』([cocolog:93225056])で読んだことがあったが、内容はほぼ覚えていなかった orz。

JRF2022/12/92770

今回の本は、解説がとてもためになったと感じた。私はもしかすると住んでるところからして、知らず知らずに、密教=真言宗の影響が強かったのかもしれない。

JRF2022/12/96976

……。

「はじめに 密教と日本の神仏」より。

JRF2022/12/93714

……。

>ところで、『古事記』『日本書紀』では海をかきまぜて日本の島々をうみだしたのはイザナギ、イザナミという夫婦神である。それが『沙石集』では天照大御神になっている。そのころ、『古事記』『日本書紀』は読まれずに次第に伝聞となるなかで、中世(平安後期から鎌倉・室町時代)には「記紀」にはなかった神仏習合の神話が各地の寺社を中心に語られるようになった。中世日本紀とか中世神話と総称される。そのコアになったのが大日如来だった。

JRF2022/12/96777

(…)

(…室町前期の『神道集』の…)ここでいう「日本記」は元の『日本書紀』ではなく、中世に語られるようになった日本の始まりの物語で、日本の国土は原初の海底にあった大日如来の印から始まったという。そこから山々を神仏の霊場とする修験道がうまれて民衆にひろまった。
<(p.12-13)

JRF2022/12/93932

『入門 哲学としての仏教』を読んだ([cocolog:93870385])ところにも書いたように、宇宙観には、無限の時間ではじまりがないものと、一神的なはじまりのある時間の観方がいり組んだ形で存在しうる。そこに、歴史はまたは一般の生活においては上位存在がないかのように過ごされるという歴史の一回性が絡んでくる。

夫婦神がはじまりであるということと、大日如来が始源であるということは神秘として並立しうると私は思う。

JRF2022/12/92049

[cocolog:93225056]
>創造神が世界を創れる可能性ができたとき、創造神以前から創造神が現れるまでの世界が「忽然と現れる」こともまったくありえないわけではない。創造神はある程度時間が経過して現れているように見えるけど、その創造神がいると確定したから世界のはじまりができた…ということはありえないわけではない。<

[cocolog:93870385]
>創造神は、複数の者が同時に…ということがありうるので「唯一神」でないことはありうる。<

JRF2022/12/94439

複数の始源が、始源であるという意味において正しく、それが必ずしも多神教的上下関係を持たない…それらは尊卑・前後という概念を超えている…ということは私は考えられるとしたい。

JRF2022/12/98134

科学的には日本の土地は大陸移動によって何億年かけてできたのかもしれないが、日本人が日本という国を認識したときそこにあったのはイザナギ・イザナミの神話であり、イザナギ・イザナミの神話が成り立つよう日本がはじまっていたのであり、世界がはじまったのは、日本がはじまっていたから…と考えること自体は、国家宗教としてはありうる方向である。日本にいる者にとってはイザナギ・イザナミがなければ世界が創造されていないのと同じことだったのかもしれない。

JRF2022/12/95198

それとは(ある意味)別に、宇宙が存在するのは大日如来の働きがあるということになるのだろう。その両者がつながるところに梵字の神話があり、それが記紀の過去においてまったくその徴候がなかったとは言えない面もあるのではないだろうか。例えば記紀の文をある法則で並べると梵字相当になるとか。(逆にどうやってもならないとか。)

JRF2022/12/90847

……。

>大日如来はマハーヴァイローチャナ(摩訶毘盧遮那)の漢訳で、万物をくまなく照らす日輪のごとき仏の意。「光明遍照」などとも訳される。その遍く照らす光を受けて、空(常に変化して固定した実体はないこと)を本質とする万物が、この現象界に無限に生起する。季節のめぐりや作物の稔り、星々の運行などの森羅万象の根源にある神秘な力の働きが大日如来であり、諸仏諸尊はもとより日本の神々にもなって現れるが、大日如来自身は姿も形もない。それは如来の秘密である。<(p.14)

JRF2022/12/92451

>密教は浄土信仰や法華信仰、禅宗とも混淆して日本の仏教全体をつつみ、中世には神仏の全体が「顕密儒道」等とよばれるようになった。「顕密」は顕教(浄土信仰や法華信仰)と密教のことで仏教界の総称、「儒道」は中国の儒教・道教・陰陽道で、それらも密教と渾然と混ざりあった。そこに古来の天神地祇も神仏習合してまつられ、多神教・偶像崇拝の最たる状況となったが、その根源には目にみえない大日如来(法身の仏という)があるという点で一神教的な構造をもつ。<(p.18-19)

JRF2022/12/95121

>神田千里著『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)によれば、宣教師たちは、この国の宗教はキリスト教に似ていると思い、それは悪魔の巧妙な偽造だと考えた。そして日本人は、神デウスは大日如来のようなもので、愛によって人々を天国に入れる神の子イエスは阿弥陀仏のようなものだと考えて納得し、キリスト教に入信する者も多かったということである。<(p.19)

多神教における最上位神ではなく天使や悪魔などの上位存在とは大きく違う唯一神に相当するのが大日如来ということなのだと思う。

JRF2022/12/98023

『入門 哲学としての仏教』を読んだ([cocolog:93870385])ところにも書いたが、私は統合失調症になったとき、唯一神からアクセスがあったと「悟った」が、「出逢った」と思ったのは上位存在までだった。その在り方は、とても大日如来的であった(ここでいうところの…という限定はつくが)ということになろう。これが、私が住んでるところで真言宗の影響を意外に受けたのかもしれないと思うところである。「大日」という言葉からは日本を連想する。それはまた日本に生きているという事実が無意識下にあることの反映でもあるのかもしれない。

JRF2022/12/94751

ただ、それは(私の「妄想」も含めて)本当のキリスト教などの一神教からすると「悪魔の巧妙な偽造」ということになるんだろうね。

JRF2022/12/94766

……。

空海は讃岐で公共事業に参加したようだが…

>奈良時代の行基のころから、僧とともに溜め池の修造や橋づくりなどに参加することは自分に功徳を積むことだと考えられたので、いっそう熱意をもったことだろう。<(p.22)

私は八正道の「正精進」は、正しい公共事業…みたいに思っている。

keyword: 正精進

JRF2022/12/98803

《十二縁起と八正道:仏教教義の提案的解釈 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-1.html
>在俗者も生活のうちで八正道などの言葉にふれ、無意識のうちに八正道を実践しているものと私はする。例えば、公共事業という方便は実は正精進の姿ではないか。<

JRF2022/12/99420

……。

>ところで、加持祈祷の「加持」という言葉は大日経・金剛頂経に頻出する。密教のキーワードのひとつで、衆生(人々)を加護するなどの仏菩薩の働きをいう。さらに人が加護を願って祈祷することから加持祈祷というが、もとは加持と祈祷は別の言葉である。その加持について空海は『即身成仏義』に「加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表わす。仏日の影(光)、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」という。

JRF2022/12/96831

如来の光明が人の心に映ることが「加」、その光を人が心に感じることが「持」であるから、「加持」とは仏と人の心が響き合うことで、それを感応道交という。
<(p.22-23)

「加持」については『密教経典』([cocolog:93225056])「理趣経」のところで↓とあった。

JRF2022/12/90584

[cocolog:93225056]
>>
>加持(…とは…) サンスクリット語アディシュターナの訳語。本来は神秘的な呪力を意味したが、密教では仏菩薩などが、不可思議な力のはたらくを加えて、生きとし生けるものを護ること。<(p.114, 注)

加持祈祷の「加持」ってそういう意味だったんだ…。持を加える…だから、忍耐とか護りのようなものを与えるのかと思ってた。
<<

JRF2022/12/98801

……。

「三句の法門」は、「如来の一切智は菩提心を因とし、大悲を根本とし、方便を究竟とする」だが、菩提心・大悲はわかるとして「嘘も方便」の「方便」がなぜ究竟なのかはわかりにくい。密教では手に印契[いんげい]をむすび、口に真言を唱え、意[こころ]に本尊を観じることによって、仏の虚空に入っていくことができると説きそれが「方便」となるのが、それらはいってみれば、偶像崇拝的である。しかし、

JRF2022/12/97510

>それ以外に道はないことから方便が究竟とされるのだろう。<(p.29)

この辺は私がしばしば述べる(例えば[cocolog:93870385]・[cocolog:93763227])、>人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされる<…という考え方に似ているように思う。人は方便しかできるものではない。今気付いたのだが、私のそれを辿っていけば、↓を過ぎることになるのだろう。

JRF2022/12/92813

《四諦:仏教教義の提案的解釈 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html

苦諦 - 現世は苦である。人は前世での煩悩の咎めをうけるために、無常なこの世に煩悩の権化として生まれるのである。この世において、人の行いは常に煩悩の徴しとならざるを得ない。

JRF2022/12/94853

(…)

道諦 - 回向の方法は、人によって違うがすべての人に用意されており、それを人生の中から見つけることができるはずなのだ。しかし、仏性そのものではない人である間は、真の方法はただ煩悩に霞んで見えるのみである。

JRF2022/12/98725

つまり、この世は苦で、本当の善はないと言える。すべて「偽善」。しかし、「回向」としての何がしかはでき、それで十分善とされうるのだということ。誰に「されうる」のかは説明しないが。人生において何かをなせと導かれるかもしれないが、それはこの宇宙において「方便」なのだ…と。

いや、話は逆なのかもしれない。「大日経」の方便が究竟であるという記述から、《四諦:仏教教義の提案的解釈》のような見解を導くべきなのかもしれない。

JRF2022/12/99031

……。

本篇に行く前に先に巻末の「密教の小事典」から。

>仏教はおよそ二千五百年前、インド亜大陸北部のタラーイ盆地にあったシャーキャ国の王子ガウタマ・シッダールタが出家・修行してブッダ(覚者)になり、自身が体得した静かな境地(さとり)に至る道を人々に告げたことに始まる。以来、初期の仏教は比丘(僧)を供養することで功徳をつみ、現世の幸福と来世の安らぎを祈るものとなった。<(p.384)

JRF2022/12/93183

ハッとした。「さとり」とはひとことで言えば「静かな境地」なのだな。そして仏教はそれを得た僧を供養する宗教ということだ。…なるほど、そういうふうに言えばいいのか。…と思った。「仏教」の優れた要約だと思う。

JRF2022/12/98929

……。

本篇はほぼ読み飛ばした。目を通すだけになった。

基本、些末なことにこだわっているように思える。しかし、大日如来を持ち出せば終りとなるような、何でも一味と考えるような、ありかたも間違っており、細部にこだわっていくことも大事なことなのであろう。

JRF2022/12/92658

私は統合失調症のとき、体の各部に意志が別に宿り、タップなどをすることでそこと交信することができると感じた。最初は楽しく会話していたが、徐々にいろいろな会話が続き苦しくなった。これは魔境であり、そういうことをやるとしたら、印契などに宿らせ、それを解けば解けるようにあるべきなのかもしれない。まぁ、そもそも「交信」みたいなものはあるべきではないかもしれないが。

JRF2022/12/99860

ところで、その些末なことにこだわるという部分は儀式主義ということにもなっているといえるのではないか。それは釈尊がバラモン教を批判するときにあったものである。ここが密教のあとのインドで仏教の信者離れを導いたのではないか。本当に、儀式が必要ならば、僧だけでなく信者個々にも必要であろう。その需要を満たしたのがイスラム教ということではなかったのか。

JRF2022/12/92858

また、今回のお経の段階ではまだ少しだが、密教では性を肯定する文脈もある。もちろん、それは修行として、通常の性交ではないのだが。しかし、それは生殖の肯定につながるだろうし、そうなれば、↓でも語った「捨て扶持理論」のように、僧が生産のバッファとして期待されていた面が、僧の宗教性のバックボーンにあるとすれば、性の肯定は、保守的な宗教に関する考えとは相入れない。僧も生産性があるとして、妻帯までは許すとしても、不貞に近いことを肯定するところまでいけば、要は邪教に堕したと見なされがちになったのではないか。

JRF2022/12/94496

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q

性の肯定は信者離れを食い止める面ももしかするとあったのかもしれないが、それを望んで来るものは、静かなさとりを重視する仏教にふさわしい者であったかは疑問である。

なお、今回の経で、性に関する部分はいちおう次の部分にはあると言えるが、象徴でしかないとも読め、微妙である。

JRF2022/12/91504

>次に秘密成就の法を説け。婆伽[ばが](バガ=愛欲・性器)によって女人あるいは男子の身に入るのである。意[こころ]によって完全に入ったと想し、彼の身体に遍満せしめよ(性の快楽を仏と合一する悦楽に通じるものとみる)。<(p.361, 金剛頂経)

ただ、「男」も現れており、江戸などの僧の稚児に対する男色趣味を思わせる。こんな古くから芽があったんだね。

JRF2022/12/93207

……。

以上とは話の筋が変わるが一点だけ。

>また秘密主よ、これらが成仏の因(さとりのもと)の初心であると諸仏は語る。そして業・煩悩から解脱し、しかも菩薩の道をゆく者は業・煩悩をよりどころとして世間の人々に敬われ、常に供養されるのである。<(p.68, 大日経)

たしかに、煩悩にまみれた生活をしなければ、真に下々のことはわからないというのはあると思う。ここはそういうことを述べているのだろうか? 違うのかもしれない。私ごときにはわからないもっと深い真理があるのかもしれない。密教は奥深いものだから…。

JRF2022/12/99627

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