cocolog:94105292
ボルヘス『アレフ』『創造者』『ボルヘス怪奇譚集』『伝奇集』を読んだ。それぞれ、短篇小説集、(形而上学的前衛?)詩集、不思議な話の引用集、短篇小説集。『伝奇集』は2015年に読んだのの再読。神と生と死を考えた。 (JRF 0303)
JRF 2023年3月29日 (水)
……。
○ 2023-03-25T19:49:07Z
jrf> 読書。
ボルヘス『アレフ』を読んだ。
『アレフ』(J. L. ボルヘス 著, 鼓 直 訳, 岩波文庫 赤 792-8, 2017年2月)
https://www.amazon.co.jp/dp/400327928X
https://7net.omni7.jp/detail/1106742770
原著は 1949年初版, 1952年 第2版。
JRF2023/3/295602
>私が述べてきた二つの物語は、おそらくただ一つの物語なのだろう。この銅貨の表と裏は、神にとっては同一のものなのだ。<(p.70)
最後の審判を前提とすれば、神は、この世で帳尻を合わそうとするはずである。一方で悪があるならば、それを補う善があるはずだ。
そこから、悪をなすことで善をなせる者が現れ、逆に、善をなそうとする者がいれば、それは悪をなす者を裏で生むので、悪をなそうとするのと同じことだ…といった解釈も出てくる。
JRF2023/3/294357
しかし、善と悪は同時である必要はない。同じ人間である必要もないとすれば、カンブリア紀の進化の大爆発が、今の人間に善や悪を生んでいてもいいわけである。それは進化によって生じていた人間の偏りが悪のようなものを生んでいるという観方につながり、それは別に普通のことだ。([cocolog:93225056] >自らの中には、進化を経て得てきた「悪しきもの」もあるはずである。ただ、それはある時代には必要だったもので、その意味では善で清いものだ。<)
JRF2023/3/290018
神を介在させるとしても、二人の人間をコインの表と裏のように見るのではなく、複数のまたは全体を見て因果応報をなすとも考えられる。
神義論を語る [cocolog:93763227] に>人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされる<と書いたが、そこではまた、次のように書いた。
JRF2023/3/293434
>神はある意味、現実在については、全体しか見ていない。すべての個も見ているが、個は偶然にしかかえりみようとなさらない。個々の帳尻はきっと「死後の世界」も含めた虚の世界において達成されるのであろう。そして、その虚の世界の出来事の話は、現実在にちゃんと影響する。ただ、どこまでが現か虚か、個か全かはこれもはかりがたいものとなるのだろう。<
JRF2023/3/297324
ボルヘスの小説に戻れば、悪や善をなすのは、生や死で分かたれなくても、偽物でも、劇のようなものでもかまわない…という「進展」があるのではないか。
劇のようなものとすれば、では、それを描く作者は何者ということになるだろう? 彼もまた神なのだろうか? それはボルヘスにおいては抑圧される思考なのだろう。抑圧され、神のごとき視点「アレフ」が残されるのだろう。
JRF2023/3/297922
「アレフ」の物語で私は、911で狂う前の私を思い出した。私は電車に揺られながら、長い思考ができなくなり、ただ「X」という文字を思い浮かべて、そこから動けなくなるようなことがしばしばあった。あれは「エックス」ではなく「アレフ」だったのかもしれない。…と今になって空想する。なんと呼ぶかは別として、世界を表す文字に捉われ、この小説のダネーリのように才能が制限されてしまった。(実際は頭の動きが制限されてそうなったのであるが。) それはある意味、今も続いているのかもしれない…。
JRF2023/3/296105
……。
○ 2023-03-25T23:56:49Z
hachetten>JRFさんの解説自体がボルヘス的で私が把握するには少し時間がかかると思いますが、引用の一節、――>二つの物語は、おそらくただ一つの物語<、などは私が読んだボルヘスの>ここに来た時、ここを出る<etc…など「二つを一つと見なす」思考・思想が『アレフ』にも流れていたのでしたか。
善と悪…、偶数と奇数、0と1、表と裏…、全と固、YとN、実と非…、生と死…。それら二つも<一つ>、なのでしょうか。
JRF2023/3/298470
動物が肉を求めて弱の動物を襲う時、そこに善悪はないのだと思います。すると、そのように善悪が人間世界の秩序に固有なら、この世の<全体>のカラクリがまったくわからなくなります。そもそも道徳の価値さえも曖昧になってしまいます。
JRF2023/3/294236
遥かな昔、ある日暮れに紹介された詩人の方から、
「すべては二つではなく三つで割り切れる」
と聞いたことがあります。喫茶店には半地下のようなテーブル席があり、薄暗い煉瓦の壁を背にそう言った詩人の言葉はその後の自分にとっての処世術になりました。YesでもNoでもない、1でも0でもない選択肢がこの世に存在する――ということを悟ったのです。
それは「時間の魔術」です。時間が経てば、「その時」も変化します。そんな「時間の活用」、時魔法――は『神々』ではじめて認識しましたが、遠い日からも頭をめぐっていたものです。
JRF2023/3/299542
JRFさんの『アレフ』への解釈はココログ神義論を頼りに、おそらく小説『神々』と哲学書『シミュレーション仏教』にも潜んでいるのだと思います。
JRF2023/3/292124
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○ 2023-03-26T03:49:20Z
jrf> 三値論理批判は↓などで…。真偽の他に必ず「わからない」という「空間」がある。そして発達した記号論理においては真であるということの中にプログラムのような「化け物」も含まれるようになってくる。
《不完全性定理: 「真」「偽」「わからない」 [ JRF の私見:雑記 ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/__33e0.html
JRF2023/3/298284
そしてそれと「善悪」はまたかなり違うものですね。いつか書きましたが、本当の意味での悪というのは人間には不可能なのではないか…という思いもあります。状況が彼を作るので贖えないほどの悪を彼だけに見出すことはできない。…と。
JRF2023/3/297891
それでも悪を定めて、人には死んで償うほどの悪があると、社会がみなすことは、軍隊を必要とする限り必要だ。…とすると、私の死刑賛成論になっていきます。ただ、死刑賛成といっても、法に順って必ず死刑を執行すべきかというとむしろそうではない。そのあたり、「善悪」でははかれない「第三の選択肢」を必ず追及すべき、そうすれば何かがあるように「神」が取り計らってくれる…ような信心が私にもあります。
とりとめのない話になってしまいましたが…。
JRF2023/3/298423
……。
○ 2023-03-26T05:55:15Z
jrf> 死ぬべき程の悪があるとして、それを贖うことはできるのか。本人の霊のようなものが煉獄において贖うような話はとりあえずおいておいて、死んだ者の家族がいわゆる「追善供養」をして効果があるのか? 私は効果あると思う。追善供養したからといって、何が贖われるのかはよくわからない。
JRF2023/3/291961
すでに転生してたらどうなるのか、最後の審判の前に「霊」が存在しているのか、複数の霊的実体があったりしないのかその場合どうなるのか、…等わからないことはある。しかし、追善供養は生きる家族の霊的生活を改善する。現実世界において効果があるものが、虚の世界において効果がないわけがない。だから、効果があると私は信じる。
もちろん、それが前提だから、生きている家族の生活を経済的に破壊するほどの「供養」は意味がないとも同時に考える。そこにつけこむのは悪だ。
JRF2023/3/292154
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○ 2023-03-26T07:49:05Z
jrf> 人は生きてるうちに悔悛の機会が神から必ず与えられるはずだと信じることもできる。死刑は、死すべき人の生きてるうちでの改悛の機会を奪うから悪なのか?
ここでイスラム教アシュアリー派の三人兄弟についての問答を思い出す。[aboutme:125348] にも出てきた。
JRF2023/3/291722
>「長男は正しい信仰者として、次男は不信仰者として、三男は幼くして死んだ場合、長男は天国の最上位に、次男は地獄に、三男は天国の最下位に行く。三男が早く死んだのはそれ以上生かしておけば、不信仰者になったからである」という師の言葉に、アシュアリーは「神が次男をそうと知りつつ生き延びさせたのはなぜか」と問うたが、師は黙して答えなかった。そこでアシュアリーは回心をした。<
これに私は応える。
JRF2023/3/293229
>それは、三男が死んだのは、他の人の自由意思の結果により、三男が不信仰者として一生を終わるしかなかったのに対し、次男にはもっとマシな選択肢があったのだが、それを選択しなかったのである。と答えることができる。
だが、私もこの答えに違和感を持っている。<
JRF2023/3/291834
三男には罪をおかす機会が与えられなかったし当然悔悛の機会はなかった。そのまま生きていれば、周りの者を不信仰者にしたからとするなら、なぜそのような者が生まれたのかということになる。それでも生まれたほうがマシだったということはありえようが。
他の人にとって不利益になるから、死ぬべきという判断が社会的になされることはあるし、それが悔悛の機会を奪うことがあるのも事実だ。しかし、幼子のまま悪を悪とわからず悔悛の機会さえなく死ぬこともありうるし、死が多くの人に(本人も含め)悔悛の機会または罪に堕ちない機会を与えることも社会的にはある。
JRF2023/3/295824
改悛しなくても進化の過程などで精算は済んでいたという考えも有効であろう。その場合は、社会がそれにケリを付けるのである。死刑が本人の再度の罪を防ぐことがあるというのは、犯されてない罪で裁くことになるのでそれはそれで悪だから、死刑を是認する理由にはなるまい。しかし、社会にとっては意義のある考え方ではあるだろう。
だからこそ、社会の問題だからこそ、「追善供養」に意味がなければならないと私は願う。宗派によっては霊的に意味がなくても、社会的に今生きる者にとって意味があると思いたい。
JRF2023/3/298687
追善供養に必要なのは極言すれば「祈り」だけだと思う。他のものは飾り…記念のようなものだと思う。
JRF2023/3/297500
……。
○ 2023-03-26T13:06:49Z
hachetten>迷ったら、頼りは「時間の魔術」に依存するよう心がけていましたが(上手くいかないこともあります)、「真」「偽」「わからない」の「不完全性定理」というものによって、そんな信念のようなものがより固められた気持ちです。
<「祈り」、他のものは飾り…記念のようなもの>――大切にしたい言葉です。私自身、そう考え、そう生きてきたつもりです、亡き両親、亡き子ら(人ではないですが)へ。
心の財産をいただいた気持ちです、ありがとうございます。
JRF2023/3/297426
……。
○ 2023-03-26T14:37:20Z
jrf> 読書。
ボルヘス『創造者』を読んだ。(形而上学的前衛?)詩集。
『創造者』(J. L. ボルヘス 著, 鼓 直 訳, 岩波文庫 赤 792-2, 2009年6月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003279220
https://7net.omni7.jp/detail/1102717516
原著は 1960年刊。
散文的なので詩集にしてはわかりやすいほうなのかもしれないが、やはり詩は難しい。
JRF2023/3/296918
短篇小説集の『アレフ』は、ほとんど殺人の話だったが、こちらはそこまで殺人の話はない。神と生と死の話は頻出するが。
>そのとき啓示があった。楽園のアダムも見ることができたはずだが、マリーノは薔薇を「見た」。そして、薔薇は彼のことばのなかではなく己れの永遠のなかに生きていること、薔薇を記述や暗示することはともかく、表現することはできないこと、また広間の隅に黄金の影を落としている、うずたかい、誇らかな書物は(彼の夢みたような)世界の鏡ではなく、世界に添えられた、さらに一つの物でしかないことを悟ったのだった。
JRF2023/3/299116
この啓示をマリーノが受けたのは死の直前である。おそらく、ホメーロスやダンテもそうだったにちがいない。
<(p.55-56, 黄色い薔薇)
『華厳経』の「小が大であり、一つがすべてである」という思想([cocolog:93335769])を思い出す。小さなたとえば「薔薇」や「アレフ」の中に宇宙を無限を見出すことができる。また大の中に小を見るのは当たり前に思えるが、宇宙を見ているとき、それは薔薇の匂いをかいでいるに等しいのだということ。
JRF2023/3/297578
しかし、それは人が造った書物に関しては言えない。それはあくまで有限のものだ。我々が読める経もまた有限に過ぎない。もし、それが無限に通じているとすれば、人が造ったからではなくそれがそもそも無限であったからなのだ。書物の一つの文字が無限を秘めているように。
ブッダや菩薩になるとしても限界がある。有限から出発したものは、偶然とのはざまでどうしても遺漏が生じる。そのあたりはフラクタルと華厳経に関する考察([cocolog:93701863])などで言おうとしていたことだった。
JRF2023/3/298653
>アンジェリカとメドーロの愛のために<(p.160, アリオストとアラビア人たち)
[wikipedia: 狂乱のオルランド] に出てくる姫アンジェリカとオルランドの恋敵でアンジェリカと結ばれるイスラム教徒のメドーロ。
愛はいっとき宗教を超える。宗教を脇において愛を結び、その後、つじつまを合わせればよい。宗教家の非難は、嫉妬によるものと思えばいい。現実のほうが、子をなすことのほうが、大事だから。
JRF2023/3/298757
…とはいえ、そんな熱情がよい方向に転ぶと考えるのはややナイーブ過ぎるのかもしれない。例えば、この本の作者の恋は、そのようなものであったか?
JRF2023/3/290934
ファン的なもの友情的なものを超えない慎しいものがあったことがうかがえるが、(…ゴシップ好きの読者が妄想するような…)有名著者の権威を使ったパワハラ的なものがあったかなかったか。いずれにしろ、若者の熱情とは違ったものであったろう。彼にとっては宗教に似たものであったのかもしれないし、そこまでの幻想は抱いてなかったのかもしれない。「無限のもの」があったとすれば、それはもともとそこに…例えばブエノスアイレスに…あったものであろう。
JRF2023/3/292022
……。
○ 2023-03-27T00:44:20Z
hachetten>マリーノが人生の境界線をまたごうとした刹那、「愛の本質のようなもの」を(「見た」=認識)したのではないかと思います。その景色はそれまでの生涯で決して知ることのなかった(「愛の姿」=黄色い薔薇)で、あり、それはむしろよい方向のもの(=“黄金の影”)。
しかしその「死の境界」で悟ったそのような「愛の本質」はマリーノがそれまで求め続け、接してきた書物の数々では決して語られることのなかった(=誇らかな書物は(彼の夢みたような)世界の鏡ではなく)、もしくはごく一部でしかない(=“さらに”一つの物でしかないこと)
を悟った…。
JRF2023/3/294387
ボルヘスの作品に出てくる「多様な一つ」と、このマリーノの死の直前の「一つ」は前者に比べて、趣を変え、形而上的でなく、むしろ単純な「ごく一部」、「ごくはしくれ」という意味ではないでしょうか。もしボルヘス流の「多様な一つ」であれば、「…さらに」は文脈としてやや適正を失っている気がします。
…さらに、は「世界が権威とみなす書物の品々は実は出鱈目だった」を、“さらに”追い打ちをかけるべく「ごくはしくれ」だったことを「一つ」として“詳述”しているのではないでしょうか。
JRF2023/3/290993
もし、マリーノがそれまでの生涯で慕ってきた(あるいは信じてきた)「誇らかな書物」が、そのような悟りの中でも言葉通りに合致していたなら、“「黄金の影”は正々堂々広間の「中央」、そのものに注がれるか、その「誇らかな書物」に影を落とすべくはずで、しかしそうではなく、注がれているのは「片隅」です。
<片隅?と表現することで、ボルヘスはそれを「生涯では気付かなかった場所」にあることを暗喩し、生涯で得た既知が誤りだったことを土壇場で悟り、否定した、ととることもできるように思います。
JRF2023/3/296379
「黄色い薔薇」は、愛の中でも「熱愛」や「愛の告白」めいたものでなく、人間同士の絆に近いものとして比喩されますが、単に「薔薇」とか一般的な「赤い薔薇」とはせず、あえて『黄色い薔薇』と題したのはそのような属性の愛についてのメッセージともとれました。
JRFさんの「小が大であり、一つがすべてである」思想と重ね合わせることで、ボルヘスのこの作品の深い解釈の本質に入れる気がしています。
JRF2023/3/292813
……。
○ 2023-03-27T01:15:48Z
jrf> >“「黄金の影”は正々堂々広間の「中央」、そのものに注がれるか、その「誇らかな書物」に影を落とすべくはずで、しかしそうではなく、注がれているのは「片隅」です。<
深いですね。気づきませんでした。目の衰えたボルヘスが、ボルヘスの場合は知っていたのでしょうが、目を向けていたのが、「片隅」にある人とのつながりだった。そこにこそ「本物」があったということでしょうか…。
JRF2023/3/291024
……。
○ 2023-03-27T12:15:32Z
hachetten>「我々が読める経もまた有限に過ぎない。もし、それが無限に通じているとすれば、人が造ったからではなくそれがそもそも無限であったから」という『華厳経』と類似しているように思いました。
<無限に通じているもの>――<ことばのなかではなく己れの永遠のなかに生きている>と合致しているように思いました。
このことは、死の瞬間まで知り得なかった=広間<生涯の認識>の隅<認識外>にあった、ということではないでしょうか。
JRF2023/3/290986
……。
○ 2023-03-27T17:30:16Z
jrf> 読書。
ボルヘス&ビオイ=カサーレス『ボルヘス怪奇譚集』を読んだ。不思議な話の引用集というか抜き書き集。
『ボルヘス怪奇譚集』(ホルヘ・ルイス・ボルヘス & アドルフォ・ビオイ=カサーレス 著, 柳瀬 尚紀 訳, 河出文庫, 2018年4月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4309464696
https://7net.omni7.jp/detail/1106867509
JRF2023/3/294044
原著は 1967年刊で、その英語訳からの翻訳らしい。ただ、奥付では 1953年とクレジットされていたりよくわからない。
JRF2023/3/291723
「人食い鬼の撲滅」(p.12) は、二匹の蜂を逃がしたら人食い鬼がいなくなったという話だが、これは、人を食うほど肉を好む者は、最近話題の昆虫食も試みるが、やっと蜂蜜によって満足したということなのではないかと私は想う。「気むずかし屋」(p.20)は叔父と甥の難しい相続関係への心理を暗示しているのかもしれない。
JRF2023/3/293165
この本はもしかしたら全編、裏があるまたは心理的な謎解きができるのかもしれない。しかし、そうやって楽しむのがこの本の味ではないように思う。異世界に通じる不思議さを自らの中で消化不良をおこしながら味わうのが、本書の楽しみのように思う。
一方、「アンドロメダー」(p.32)のように私には意味が通じない話もしばしばあった。そういうところは無視するしかなかった。私の理解力不足を嘆くばかりである。
その他、基本的に全編、おもしろくはあったが、特に言及はしない。
JRF2023/3/290439
ほぼ関係ない一点だけ。刺激されて考えたのは「自由意志」について。
「磁石」と「鑢[やすり]くず」を擬人化した話…。
>(…)ひとつの抑えきれない衝動とともに(…鑢くずの…)一同が叫んだ。「待っていてもむだだ。今日いくんだ。いまいくんだ。直ちにいくんだ」。それから一致団結した塊りとなって彼らはさっと動き、つぎの瞬間には磁石にしがみついていた。すると磁石はにやりと笑った -- というのも鋼鉄の鑢くずだちは自分たちの自由意志でその訪問をしたということに、何ら疑惑を抱いてなかったからだ<(p.111)
JRF2023/3/291732
《自由意思と神の恩寵 - JRF の私見:宗教と動機付け》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_2.html
…という記事も書いたが…。
基本的には個々の人には自由意志があるように見える…とは言える。それを超えて…・
JRF2023/3/299929
「神の記憶」的になったときすべては現実以上に理想化されていて、救われた者から見れば、すべての出来事は細部にいたるまで理由付けができるのだろう。かつては偶然に見えたことも、まるで虚の世界があとから整備され理由付けられたかのようになる。そのような理想化が完成しているのだろう。
JRF2023/3/295385
しかし、救われなかった者にすれば、偶然は偶然であった・自由意志があったとしか言えない。「彼ら」がそこに(負の)理由付けを見出すようになったときには、「我々」はすでに塵でしかなく、偶然であったことを主張も思い起こすこともできないのだろう(…)。
JRF2023/3/295125
……。
○ 2023-03-27T17:30:52Z
jrf> 「偶然」は、有限なのか無限なのか、それとは独立なことなのか…。
JRF2023/3/293566
……。
○ 2023-03-28T00:13:41Z
hachetten>文庫になっていたのですか(手元のは晶文社のハードカバーです,絶版かと思っていました)。あとがきに、共著の二人が一人であるように一人のペンネームが記されています。
『磁石』は当時、印象に残りました。
JRF2023/3/295026
「宗教と動機付け」にこの磁石とは別の<自由意思>が語られています。深さ、ではるかにボルヘスを凌いでいますが、これは考察と小説のちがいからかもしれません。『JRF2014』に収録のこの記事の存在を知らなかったのは(おそらくカテゴリの関係)、もったいなく、同時に本書の価値の再発見に至ります。普通、これだけのものをブログでは読めません。
ボルヘスに戻り、当時、『奇跡』も印象的でした。
JRF2023/3/291239
……。
○ 2023-03-28T03:56:42Z
jrf> 「奇跡」、いいですね。「安い奇跡」。奇跡は(神の偉大さを讃えられるような)立派なものでなければならないというのもおかしいですから、親しみやすい奇跡はまた別の話になるのでしょうか…。
JRF2023/3/295204
……。
○ 2023-03-28T19:09:14Z
jrf> 私のブログは、(「雑記」以外は、) 昔の言論系ホームページのシステムを単にブログで構成したもので、ブログにしては「高級」な文になってないと嘘になる。むしろ、ブログに単純に比較できるのは、私がブログというシステムに甘えて、ひよった結果で恥ずかしい…。
JRF2023/3/299793
……。
○ 2023-03-28T18:47:53Z
jrf> 「神の記憶」的に虚の世界なども含めて理想化されたものは、未来においてしか実現しないような印象がもたれたとしたらそれはマズイ。偶然によらない説明によってしか起こり得ない「奇跡」があって、それが理想化による理由付けが今のこの現実においても可能であるという証拠があったことを、救われた者は識ることができるのかもしれない。
JRF2023/3/295729
ただ、神は全能であり、そのような理想化された秩序がないと起き得なかったということはありえず、その証明は不可能なのではないか…という気もする。それでも証明を可能とする、不可能の不可能性があるのかもしれないが。
いずれにせよ、滅ぶ者にとっては、そのような「奇跡」があっても、運良く体験できたとしても、結局は、信じるしかないことに属するだろう。
JRF2023/3/292281
……。
○ 2023-03-28T19:10:39Z
jrf> 読書。
ボルヘス『伝奇集』を再読した。短篇小説集。
『伝奇集』(J. L. ボルヘス 著, 鼓 直 訳, 岩波文庫 赤 792-1, 1993年11月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003279212
https://7net.omni7.jp/detail/1101125972
JRF2023/3/296419
原著は 1944年刊。
ひとことの記録を見ると2015年に一度読んでいる([cocolog:83479882])。私の小説『エアロダイバー』も『神々のための黙示録』も2016年。そのひとことで小説を書きたいと表明しており、また、『神々のための黙示録』の似た部分を考えると、『伝奇集』の強い影響は否定できない。
JRF2023/3/297311
以前、ボルヘスの「直接の影響はないと思います」と書いたが、私の中ではマネしたつもりはなかった。言い訳すれば、私の深いところで受容していたので、その影響が無意識下に抑圧され、意識的にはすっかり忘れていたのであろう。しかし、読み返すと影響は明らかで、hachetten さんの以前の指摘は正しかったと言わざるを得ない。
JRF2023/3/298580
「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」(p.13)の惑星トレーンの記述(p.26 とか)は、『神々のための黙示録』の唯心論的記述と似ているし、「アル・ムターシムを求めて」(p.41)のアル・ムターシムの姿を描写しない手法(p.47)は、『神々のための黙示録』の天国を直接的に描写しない方法と似ている。「八岐の園」(p.119)が「時間」の魔法で終るのも『神々のための黙示録』の最後に似ている。…と言える。
JRF2023/3/293251
hachetten さんは私がボルヘスより優れた部分があるとおっしゃってくださるが、私が読む限り、どう考えてもボルヘスのほうが巧みだと思う。久々に読んで軽くショックを受けた。
ただ、ボルヘス自身が、そういう「オマージュ」を受け容れ、おそらく自身もやっていた…という姿勢であるのには救われる。
JRF2023/3/295717
(「グローバル共有メモ」に書いたものを少し修正してコピペする。hachetten さんに応じていただいたのでそれもコピペする。)
JRF2023/3/298139