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cocolog:94206389

始源を考える。社会に因果応報の神は有用である。偶然を認めて許すことが因果応報と「対立」する。「私」につながる偶然に神または摂理の意志性を見出す。意志には今も秘密があり、意志の発生にいたる偶然の蓄積の過去が有限の始源を私に信じさせる。 (JRF 6352)

JRF 2023年5月20日 (土)

(「グローバル共有メモ」でまず考えたことを少し加筆しながらコピペしていく。)

JRF2023/5/204066

○ 2023-05-19T03:40:31Z

始原について考える。

無限に過去があるとしても、その無限を等比数列の和のように一度に(あるレベルから見れば「有限」に)作り出すことも可能かもしれない。始原があるとしても、その始原を作ったものは何かというとき、過去も自らと一緒に作り出していたと答えることができる。しかし、それでも始原にはその時間軸における過去があり得ないとはならない。無限の過去も想定できる。この連鎖はとても複雑な構造を作りうる。この議論において、そこに神があるかないかはあまり重要ではない。

JRF2023/5/205401

社会には因果応報の神がいたほうがいい。それは語った。

意志はとても不思議なもので、それがどう成り立つか、今の科学では解明できないし、解明できたとしても過去それが成り立ったことを偶然としかみなせないだろう。その偶然性と神を関連付けることは可能である。

そういった神がなぜ生じたかという始原を上の物理的(?)始原とどう対応させるかという問題がある。うまく対応させねば、因果応報の神が「死んで」しまう。

JRF2023/5/202118

ファインチューニングの議論を考えれば、この物理世界も偶然性の高いものだとでき、そうすれば、そこに神をどうかかわらせるかという議論もでき、そこに神のある始原を考えることもできる。やや汎神論的な見方に傾くかもしれないが。

JRF2023/5/206872

……。

……。

上のようなことは何度か語っている。宮坂宥勝 訳注『密教経典』を読んだ([cocolog:93225056])とき、『入門 哲学としての仏教』を読んだ([cocolog:93870385])ときなど。宇宙観には、無限の時間ではじまりがないものと、一神的なはじまりのある時間の観方がいり組んだ形で存在しうる。

JRF2023/5/209231

また、>社会には因果応報の神がいたほうがいい。それは語った。<…というのは、神義論を語った [cocolog:93763227] でいうところの「有神論の定理」で、『「シミュレーション仏教」の試み』にも書いてあること。

JRF2023/5/206244

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
>因果応報の神を信じると何が良いのか? …良いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。…これを「有神論の基本定理」のように私は見なす。<

JRF2023/5/208798

《JRF-2018/simbd: シミュレーション仏教 - Buddhistic Philosophical Computer-Simulation of Society》
https://github.com/JRF-2018/simbd

JRF2023/5/208188

さらに、「意志はとても不思議なもの…」というのは、↓のように私にはよく出てくる議論。

JRF2023/5/206331

[cocolog:92137624]
>>
《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。説 1. 神の記憶モデル(…)説 2. 霊的肉体モデル(…)。<

上で>生命または意思を持つとはどういうことかというのはよくわかっていない。<と述べたが、かりに科学的に意思がどのようにできているかがわかったとしても、なお、霊魂を否定できないことを説明するものとして↑の記事がある。

JRF2023/5/208723

2008年12月4日のひとこと
>《魂の座》の記事で注目して欲しいのは実は「説2」。説1の神の記憶モデルは自然法則の自動性を死後にまでつきつめると容易に導かれ、説1だけを真理とするのはカトリックとかでは実は異端なのだと思う。

(…)

それに対し説2は神の介入をやたらと認めるようで「日本人」は稚拙とみなすかもしれないが、ロジカルには、これもまた反駁できない説明であることに気付いて欲しい。いちいち神が登場して魂を「霊的肉体」に移すんだというイメージを含らませれば、自らの存在への見方は変わってくると思う。

JRF2023/5/207643

なにより、現に…

[aboutme:75920]
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていない<。

本当に「その日」が来るかは疑わしい。
<<

JRF2023/5/209832

……。

……。

○ 2023-05-19T05:02:41Z

因果応報と偶然性は関連がある。悪があるとしても、それは長い年月を考えれば、偶然に過ぎないとできる。偶然なら応報の必要はなくなる。

「ブッダ」と菩薩の次元における違いを考察したことがある(フラクタルと華厳経に関する考察 [cocolog:93701863] [cocolog:93849921] など)が、それを念頭に置きながらもう一度、考える。

JRF2023/5/207354

「ブッダ」による因果応報の超越は、偶然とはならないラインを決めそこで応報すべき善悪が釣り合うところをその「ブッダ」の世界とすると考えられる。それは数直線上の無限に至るかもしれないが、それを次元として超えるものに対応できない。時代によって偶然には偏りがあるから、応報がうまく釣り合う「仏国土」はバーチャルな世界も含めて、たどっていけば一定の世界になる。

菩薩は、善悪に偏りがあってもよく、その分、様々な次元で…つまり偶然の状況に対応しうるものとなる。しかし、それは一つの世界を構成しない。一人の在り方でしかない。

JRF2023/5/207403

神はそういった一定の世界を偶然の可能世界がどう現実に実現しているかによって、意志を見出される。仏国土がバーチャルにいろいろあるとしても、それを現実にどう切り取るかの問題のほうが大事になる。神にはさまざまな「仏国土」が縮約された「現実」がある。(易理 [cocolog:92984837] や [cocolog:93797324] の「鬼神は起信なり」…とどう関連するか?)

JRF2023/5/204432

善いとは何か。善くあろうとすることとは何が違うのか。…という論点はありうる。私は仏教において何を善とするかは三つの基準(「本目的三条件」)を決めた。しかし、その詳細は「シミュレーション仏教」の枠組みでも簡単なものにならなかった。「ブッダ」の悟り方にもいろいろあるのかもしれない。

JRF2023/5/209129

「ブッダ」の在り方がいろいろのように、因果応報とこの物理世界との対応のさせ方はいろいろ在りうるのだろう。しかし、現実は一つと見るべきで、神の在り方は「ブッダ」ほど自由ではないのかもしれない。

JRF2023/5/208227

……。

……。

○ 2023-05-19T05:11:44Z

「因果応報」は物の世界では保存則など物理法則に対応するものがあるかもしれない。偶然…エントロピーと関連するのだろうか?…に物理法則がどれほど適応されるのか…みたいな世界観があれば、これまでの議論は物理学でも現れてもよさそうだが…。そういう観方が可能だろうか? 私にはわからない。前は反・ドジッター空間(ADS)([cocolog:93831542])とかいろいろ考えていたが、結局、私にはそれを論じる実力がない…と認めざるを得ない。

JRF2023/5/204849

……。

……。

○ 2023-05-19T05:58:09Z

補足。

「応報すべき善悪が釣り合う」はレッセフェール(自由放任)で釣り合うということではなく、刑罰なども導入した上で、なお、バーチャルな地獄とかの概念で、釣り合うということ。殺人を犯した者を死刑にしなくても釣り合うと考えるのは、そこに偶然の要素を認めるからという見方ができる。現代に近づき罰が軽くなるのは、技術などによって偶然の偏りが変わり、偶然と認めるラインを前進させることができたからといえよう。昔のほうが偶然を認めがたく、応報すべき善悪を必要としたといえる。

JRF2023/5/206107

それである種の「ブッダ」の「仏国土」はその内実が変化するのだろう。この娑婆は釈尊の「仏国土」だが、じゃあ、仏国土が変化したかというと、変化したとも言えるが、相変わらず釈尊の仏国土のままとも言える。他の「仏国土」の「内実が変化」というのも、そのような具合だろう。

JRF2023/5/201937

……。

○ 2023-05-19T06:18:53Z

犯人が捕まり刑がちゃんと執行されるようになると、重罰の必要性がなくなり、偶然を認める範囲が増える。偶然を認める範囲が増えるというのは、思考の広がりを意味するため、「思考・思念を深めるのが良い」の方向になり、また、応報すべき善悪を超えていくという点で、「来世がないのが良い」の方向にもなることになる。

(「思考・思念を深めるのが良い」と「来世がないのが良い」は、「シミュレーション仏教」における「本目的三条件」のうちの二つ。)

JRF2023/5/202255

……。

……。

○ 2023-05-19T10:58:00Z

補足。

「「ブッダ」による因果応報の超越は、偶然とはならないラインを決めそこで応報すべき善悪が釣り合うところをその「ブッダ」の世界とすると考えられる。」…と言い切っていいものかと迷っている。

JRF2023/5/204454

これは原始の釈尊の涅槃ではなく大乗の涅槃の理論であるのだろうと思う。修行者が「ブッダ」になったとき、次の生が「仏国土」に転生する…というわけではなく、「ブッダ」になった瞬間、「仏国土」が現れており、そこに「ブッダ」として現れている、修行者が生きている場合は、その「仏国土」に「ブッダ」としている生とは別の生として修行者の生が残るということではないか。

JRF2023/5/205049

その生を菩薩として生きることができ、菩薩として転生することもできるが、それは「ブッダ」から転生しているのとは違う…ということではないか。その「ブッダ」は生死を超越していて「涅槃にある」という。つまりは、生も超越していて通常の意味で「生きている」というわけでもない…と。かといって法律のような言語化できる抽象的概念になっているわけでもない…と。「抽象的存在」とはギリギリ言えるのか、言えないのか…。

JRF2023/5/204996

「応報すべき善悪」が存在するということは「応報すべき善」と「応報すべき悪」は存在し、因果応報の超越はないのでは?…という議論もできる。ただそれは「すべき」というだけで、釣り合っていれば応報されないでよいとされるということではないか。善は個人に応報されず全体に応報される。悪は全体に及ぶことを個人に追及し、広がるのを防ぐ。しばしばそういうものだ。

JRF2023/5/206131

「仏国土」にも善や悪はあり、応報は「ブッダ」がしようとせずとも「仏国土」が自然になす。全体としては善悪が報われる。…ということではないか。「仏国土」がどう応報し応報しないか決め、その決め方に釣り合いがある場合、その「仏国土」はリアルになる。そう信じる。…ということではないか。

(今風に言えば、ワールドを作るのが修行者の目的なんだろうか?)

「仏国土」は(バーチャルには)どこかにあるとできるが、娑婆世界の一時代の一部として部分的に現れることができるとすれば、現実とかかわりを持たせることができるが…。

JRF2023/5/201768

……。

○ 2023-05-19T11:59:26Z

「仏国土」の始原はいってみれば、「ブッダ」になった修行者にあるのではあるが、「仏国土」の時間的始原はそれとは別にあり、その国土が持つ応報の機能によって、時間的始原があるのか、無限の過去があるべきなのかが決まる。そして無限の未来があるべきか終末があるべきかも決まるのだろう。(「決める必要がない」という決まり方もあるかもしれないが。)

JRF2023/5/205000

……。

○ 2023-05-19T19:30:18Z

始原を因果応報と絡めて考えると、創造神の意思を持った開始がない限り、因果は過去に向けてたどっていくことができ、「無限の因果の退行」を可能とするよう過去に無限に開かれた時間的始原のない世界がふさわしいとなろう。

一方、神がいれば、今悪い状態であることの因果を未来に良い状態がありうるからだと、未来に目を向けることができる。

JRF2023/5/200901

ただ、これらはそう考えやすいというだけで、神がいなくとも、未来に補償があるという摂理がありうるならよく、そうすれば無限の因果の退行は必要なくなる。時間的始原はあってもよい。

JRF2023/5/203725

では始原はどれぐらい昔であればいいのか? 因果を認識しうる意志が生じるまでの偶然の蓄積のための過去は有限でありうる。有限時間の偶然で意志は生じえないという立場もあるかもしれないが。ただいずれにせよ、始原があってもその時間的過去が問えるのは変わらない。因果応報の神は(または摂理は)「そのとき」のためにすべてを(「過去」を含めて)創造していた(している)とできるだろう。

JRF2023/5/201562

仮に異星人がいたとしても、異国の人間がいたとしても、自分達のために創造がなされたという理論は構築できるだろう。「私」が存在し(しばらくの間)生きてよい・生きてよかったと考えるから、「私」につながる偶然は特別視できるから、そういう始原があると私はほとんど信じているといえる。

JRF2023/5/203552

……。

……。

追記。

上で出てきた易理「鬼神は起信なり」の鬼と始原との関係について。

「鬼」は、「擬制された物のはじまり」のことであった。私が信じると述べた始原は、とりあえず設定されたという意味の鬼ではない。そこにあるはずという確信があり、具体的にこれと指摘できないという点で「鬼」的ではない。しかし、「鬼」という考えは「私」というものに似たものを設定するということから考えれば、「私」から導かれた始原は「鬼」に似ているとは言えるだろう。

JRF2023/5/202250

いや、そもそも「意志」というものは偶然から区別されるものとして「神」に見出されるものなのかもしれない。「私の意志」というのはその「神の意志」に似たものとして、神と同じく偶然を左右できるものとして、発見されるべきものなのかもしれない。「私の意志」…「魂」的なものは外から来たもので、「鬼」が概念として先にあると言えるのかもしれない。やや倒錯的だが。

JRF2023/5/206508

ある意味、「私」を始原として「鬼神」の世界ができているのであるが、しかし、その「鬼神」は「私」に時間的には先行している。これは、菩薩と仏国土の関係に似ている。菩薩と仏国土の関係が、「私」と「鬼神」の関係の反映なのか、逆なのか。ここも倒錯がありそうである。

JRF2023/5/205083

……。

こうして「始原」を探求して何が得られるのだろうか?

これはある種の「自分探し」なのだろう。「自分」の発見のしかたを教えてくれる。引いては様々な生き方があることを教えてくれる。

これは「本目的三条件」のうちの「思考・思念を深めるのがよい」の前形態である「自己の探求がよい」に相当するものだ。

JRF2023/5/208359

なぜそれが良いかを、「シミュレーション仏教」の論旨に照らして考えると、それだけで良いことというほかに、他人の操作に主体的に応じることができるようになって、他人が気が回らないことができることで、災害などに強くなり、集団として「生きること」に寄与することができるようになる…ということだろう。(「狂信」のような限界はあるけれども…。)

JRF2023/5/209959

……。

……。

追記。

○ 2023-05-21T06:55:26Z

神が未来にわたって全知、あらゆることに全能というのはどこから出てくるのか?

因果応報のためには、人のなしたことをすべて知っていなければならない。応報がいつも機能しているためには、いつでも介入できる能力があり、いつでも介入していなければならない。(このあたりは、それぞれ「神の記憶モデル」「霊的肉体モデル」にも対応しているのだろう。) でも、それらは「神が未来にわたって全知、あらゆることに全能」とは少し違う。

JRF2023/5/221868

それが未来にわたって全知となるには、応報がその人のためになっていることがわかっていることが必要だから、未来もわかっていなければならないからだろうか。ただ、神が公平な裁判を行うという概念は古代にもあったが、しばしば神は至善(常に人にとって善いことをなす)ではなく、そこに全知性は成立してなかったと思われる。どこから至善で全知が導き出されるのか? …善は人が決めるものだから、神も決める、神の決めたことが善だから、神は至善なのだ…という展開だとすると、法律の成立が至善性・全知性の淵源なのかも。

JRF2023/5/223143

人に言うことを聞かせるには「全能」を信じさせたほうが良い。しかし、なぜそれを信じることができるのか? 奇跡信仰との関連か…。なぜ奇跡を信じることができたのか? 世界が広まり伝聞が重要になったからだろうか…。公共事業や科学技術の驚異が、人にその延長線上の全能がありうることの信仰を生んだのだろうか…。

JRF2023/5/226174

文明の進展とともに「神の記憶モデル」と「霊的肉体モデル」が相互に影響を与え合った…ということだろうか? 法で人が応報することが「神の記憶モデル」に作用し「全知性」を、技術などの知識の蓄積が「霊的肉体モデル」に作用して「全能性」を形成していった…と。

JRF2023/5/221130

……。

鬼神の話と魂魄の話をどう関連づけるか…。「神の記憶モデル」「霊的肉体モデル」と「魂魄」はどう対応できるのか、できないのか…。

JRF2023/5/225933

……。

○ 2023-05-21T07:23:42Z

人格神はなぜ生じるか? 「私」に至る偶然に神の意志性を見出し、そこから私の意志性を発見する。「私」が人であり動物などより優れていることから、こんどはそれを神に適用して、神が人格神となる。…ということだろうか。動物より優れているが動物を支配していいにつながるのが、創世記の構図か。文明化された人が動物のように(山などで)生きられなくなって、そこを反省するとアミニズム(山岳信仰とか)になるのかな…?

JRF2023/5/226810

……。

○ 2023-05-21T20:47:04Z

「法で人が応報すること」・「技術などの知識の蓄積」は、人が神に近付こうとしているとも言える。

一方、神が人となる…という方向に付いては、キリスト教につながる神の「転生」の一回性みたいな議論を確かどこかに書いた…。

JRF2023/5/225768

[cocolog:93039063]
>神性人性の議論(単性説とか)において、まず、人が神に近しいものになれるとしても神でなかった者が神そのものにはなれない…というのは、唯一神信仰でそれを認めると、神が人になって天に帰るという構造になり、それはつまり何度もあって良いということになり、輪廻転生と変わらない。まずそこを避けるというのは、「最後の審判」のほうが絶対的な教えであるということだろう。あと、救世主イエスを神と見ることを避ける道もなかったのだろう…真の救世主は「終末」における唯一神のたった一度の転生という信仰理論が先にあったか。<

JRF2023/5/223895

[cocolog:93369982]
>人であるキリストの行為だからこそ人は倣えると感じることができ、キリストが神だからこそ、倣わなければならないとわかる。それが成り立つタイミングに神は人となられた。そのタイミングは、真の救世主は「終末」における唯一神のたった一度の転生として理解できる宗教的環境があり、ローマの支配で、市民の憎しみが警察などに共有されず教えが活かしやすい時であった([cocolog:93039063])。そういう「時」はこの先もあるように思えるが、実は広い宇宙で一回きりのタイミングだったのかもしれない。<

JRF2023/5/225388

菩薩が、ブッダと成ることが決まってからも、何度もこの世に現れるのは、まさに「転生」と解釈される。そういうのを嫌った宗教があった。

JRF2023/5/225609

>最後の審判は、輪廻転生に比べて、上昇志向を焚き付け、現世での革命を志向しがち<([cocolog:93039063])で、それをユダヤ教→キリスト教は選択する。そこはまず絶対で、だから「輪廻転生」は否定されねばならない。しかし、神が人に「転生」するのが(最後の)一回だけなら、それは「輪廻転生」ではギリギリない…という理論がキリスト教創始のころのヘレニズム世界にはあったのではないか。そして人となった神こそが「救世主」である…と。

JRF2023/5/229179

なぜ「救世主」という概念が生まれてきたか? 平等への待望が広まり、革命を担う誰かを求めたからではないか?

JRF2023/5/224102

なぜ平等への待望が生まれたか? 教育の普及…学べば言葉をまたは文字をほとんど誰しもが使えたという人類の偶然が、能力の平等を意識させ、商業がチャンスを希求させ、さらに戦争が能力主義を求めたからではないか? 能力が同じなら分配も平等に…そうしなければ争いが起こるとできたのが原点ではないか。仮に能力が劣ることがあっても、それは障害者のようなもので、偶然であり、補うべきものとできた部分もあったか。

JRF2023/5/227555

征服された民族では、どうしても征服者と差が付き、そこに「平等への待望」が広まる…ということではないか。革命の方法は、まず征服者に面従腹背しながらテロを是認することがあり、それを経済的に支えるために、「救世主」宗教が出てきたのではないか。

その性質上、お上に睨まれないようあからさまに宗教の中枢に集金しないのが、支持を増やす秘訣でもあったか。自由な経済と相性が良かったのだろう。

JRF2023/5/229876

一方で山賊や傭兵を増やすより、征服者の支配に従うほうが商業にとっては効率的で、「救世主」宗教は宗教にとどまる限りは、征服者にとっても意義があるものとなっていったのかもしれない。

JRF2023/5/220343

……。

……。

追記。

○ 2023-05-23T12:48:44Z

神が人となることについては、ずっと昔の形態として、ネフィリムとかギリシア神話とか、神と人が結婚して子供が産まれるというものがある。王は神の血を引いているというのがよくあった。「神の化身」も歴史以前にはよくあったと思われる。

JRF2023/5/233780

ただ、神が人を超えた力を持てば持つほど、王などが同じ力を持つとするのは不可能になっていく。王に不可能なことがなぜ他の人に可能なのか。そういう「スーパーパワー」を必ずしも持たないのに、なお神の化身でありうるには、カリスマを持つ「救世主」概念の登場まで待つことになるのだろう。神がその力を抑えて人となるのは、人に範を示すなど人を通してでなければ得られないカリスマが必要などとなったのだろう。

JRF2023/5/234340

……。

……。

追記。

○ 2023-05-22T10:02:04Z

たまたま旧約聖書を読んでいて神義論に関するおもしろい注釈に出会った。>善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。<(コヘレトの言葉 7:15) の注釈:

JRF2023/5/239707

>God deals strictly with the righteous to atone for their sins, so that they will not require punishment in the Hereafter.

JRF2023/5/231865

He defers punishment of the wicked because he is waiting for them to repent, or He may be rewarding their good deeds in This World so that they will not enjoy the bliss of the World to Come (Alshich).<

JRF2023/5/238459

訳(Google訳をちょっと修正):>神は義人に対して厳しく罪を償わせ、来世で罰を必要としないようにします。神が悪人の懲罰を延期するのは、彼らが悔い改めるのを待っているか、あるいは彼らが来るべき世界で至福を享受できないから、この世で善行に報いるのかもしれない。<

JRF2023/5/231324

悪人が栄えるのは地獄に行く前にそのわずかな善に報いておく必要があるから…ということらしい。私が恵まれた生活をしているのは、それでか。納得。私は老人となるこの先よい生活を維持できなくなるだろうが、それは私が善人になったからでなく、わずかな善行ゲージが切れたからなんだろうな…。

JRF2023/5/234638

(なお、上の注釈の引用は↓)

『THE TANACH - THE ARTSCROLL SERIES* / STONE EDITION』(MESORAH PUBLICATIONS, Ltd., 1996)
https://www.amazon.com/dp/B00E28UJHU (2001年版 私が持ってるのは 1996年版の2000年プリント)

JRF2023/5/230674

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