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cocolog:94238182

学研『ヒンドゥー教の本』を読んだ。胎児のころの記憶から梵我一如が正しいという感覚が生じるのではないか。イスラム教は梵我一如をキリスト教という過去として「達成」しているのではないか。 (JRF 7352)

JRF 2023年6月 6日 (火)

『ヒンドゥー教の本 - Books Esoterica 12 インド神話が語る宇宙的覚醒への道』(学研, 1995年5月)
https://www.amazon.co.jp/dp/405600871X
https://7net.omni7.jp/detail/1100889041

JRF2023/6/69205

あのオウム真理教の地下鉄サリン事件(1995年3月20日)とほぼ同時期の本で、直後というよりはただ中の発売だったと思われる。当時、宗教への関心のレベルが相当高かったことはうかがえ、それは、この本が主たる著者がいない「寄せ集め」であるにもかかわらず、宗教哲学の記載などが簡潔で高いレベルを保っていることからわかる。

引用をしながら、少し私の考えを語りたい。

JRF2023/6/69926

……。

>梵[ブラフマン]と我[アートマン] - 自分という存在の本質とは何か、自分を取り巻く大いなるものの正体とは何か --。インド人は、この果てしない形而上の議論を極限のレヴェルにまでおし進めてきた。そして、永遠に存在する個人の本体(アートマン)と宇宙の根本原理(ブラフマン)を“発見”し、それが同一であると悟り切った。ここから、さまざまな秩序や法則が、“智慧の輪”によって一挙に連結されていったのだ。<(p.8)

JRF2023/6/60574

「始源」を考えた [cocolog:94206389] で、>人格神はなぜ生じるか? 「私」に至る偶然に(まず)神の意志性を見出し、そこから私の意志性を発見する。<…と述べた。これが「梵我一如」に相当するものだろう。意志性といった場合、肉体的一致までは要求していないので「梵我一如」と正しく対応するわけでなく、もっと素朴であるが。

神の意志性はいつ発見するのか、その永遠性を必要と考えたとき・望んだときだろうか? いや、永遠性はあとづけのもので、神との対峙が先にあると私を自らを振り返って思う。

JRF2023/6/68405

他者という点では親などの認識のほうが先ではないか、親の意志性の認識から私の意志性をまず発見するのではないか? …この見方は、少し事実と異なるのではないか。欲望は意志の前からあると考えるが、そこにあるのは、欲が実現するかどうかという視点で、欲に応えてくれる存在がある…ということであろうと思われる。何かと不如意のなか、欲望が実現するときがある。そこから欲望が実現しやすい親という「他者」を認識することにはなるのだろう。しかし、本人が未熟で理性的な意志性の発見までにはなかなかいたらないのではないか。

JRF2023/6/62227

ただ、そのような素朴な意味での「他者」性の発見も含めるなら、それは、まず胎児の段階にあるのではないか。ある意味、胎児の段階でそのわずかな「世界」を「他者」と知るものと思われる。そしてそれは「他者」でありながら、自己と一体である。

…もしかするとそれが「梵我一如」の正体なのかもしれない。「梵我一如」は胎児であったことの記憶が残滓として残っていて、それを真実と感じてしまうところに真実性の担保がまずあるのかもしれない。

JRF2023/6/68951

もちろん、発達心理学的にそのようになるのは「梵我一如」が先に真理としてあって、発達心理的にそうなるように神が創った、または、そう感じる場合に形作られる原理が先にあってそれのみが「自然選択」されてきたということかもしれないが。

JRF2023/6/69730

……。

>(…ヒンドゥー教の前身のバラモン教のヴェーダ聖典の編纂の時代…)バラモンたち自身も、専門的知識を独占することによって自分たちの権威をより高めようとする意図もあって、祭式を複雑なものにしていった。<(p.61)

「梵我一如」が私のいうように素朴な胎児経験の感覚に由来しているといった場合、その「悟り」を理論的に精緻化していくのは、「祭式を複雑なもの」にしていくのに相当するのではないか? その目的は権威を高めるためか。

JRF2023/6/64232

「梵我一如」が真理だという感覚が先にあり、それをもっともらしくするために理論を構築する…。親などが不如意だったストレスが、「苦」と名前を変え、その「苦」がないところに解脱的「梵我一如」がある…と考えるなど。

もちろん、繰り返すが、そういう真理が先にあって、人間がそれを正しいと感じるように創られた、そしてそういう真理に到達するものが偉いと認められるように創られている…という可能性を排除するものではない。

JRF2023/6/68184

……。

>ウパニシャッドの別名はヴェーダンタで、これは「ヴェーダの末尾」という意味であり、その内容形式は、種々多様であるが、この「知識の重視」という点で一貫している。

そして重要なのは、ウパニシャッドにはサンヒター(本集)では語られていなかった「輪廻転生」と「梵我一如による輪廻からの解脱」について語られている点である。

元来、牧畜を業としていたアーリヤ人の宗教観の中には、「来世」の概念はあっても、転生を延々と繰り返す「輪廻」は見られなかった。これは自然の循環とともに生きる農耕文化を担っていた先住民の文化を長い年月をかけて吸収した結果であると考えられている。

JRF2023/6/60217

近年、「ウパニシャッド」という言葉は、「同置」という意味で解釈されてきている。同置とは、異なるレヴェルのものに潜む同一性を感得することである。ブラフマン(梵=宇宙の根本原理)と、アートマン(我=個体の原理)が究極的は同一であるということを学び悟った者が解脱できるという教義は、まさに宗教から哲学へと一歩踏みだしたものであった。
<(p.63)

JRF2023/6/65338

「梵我一如」が感覚的なもので、神の意志性から私の意志性を発見できるものだったとしても、それは一時的なものに過ぎず、そこから先の生活が普通にあるはずのものである。それを「解脱」という恒久的なものと考えるには、「何か」が別に必要であろう。

私はバラモンの祭への言及を過去にしていたと思うのだが、探しても見つからない…。

私には「捨て扶持」理論というのがあって、僧は元は社会の「捨て扶持」で暮らす階級であったと考えている (参: ↓)。社会の実質的な役に立つなら他の職業があたるべきだが、役に立っているかどうかがわからないという点で、鬼神に関する仕事に僧があたることになるとする。

JRF2023/6/62994

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q

JRF2023/6/61144

易の作法が、おそらくそれから外れることが、特別な凶兆であった(どこかに書いたはずだが見つからない…)のと同じように、バラモンの作法から外れるのも凶兆であった。それは純朴な古代人にとって、ストレスがかかる状況が可視化されるという意味では合理的であったかもしれない。凶兆の解釈は、周辺の情況の解釈も含むものであったとすれば、そこにも合理性があったであろう。天啓ということにすれば王などに言えないことも言えたというのは、易理に関するひとこと([cocolog:92984837])で示唆したことでもあったか。

JRF2023/6/61093

そういう社会からズレた階級を肯定する必要があったと思われる。単に知的階級が必要という段階を越え、「解脱が良い」…「涅槃が良い」もまた肯定するには、戦争などにおける狂信の問題があったろうと思われる…というのは、『「シミュレーション仏教」の試み』で語った。

逆にその階級が力を持ち過ぎたという問題も出てきたのだと思われる。それが仏教の誕生につながるということになるのだろうか。

JRF2023/6/67980

仏教は、バラモン教に対しては、悟りは「わかるものではない」ということを示したのかもしれない。祭祀・祭式によって神秘的な力が付くというものではない。祭祀・祭式の伝承が常住の霊(アートマン)に解脱という「味」を付けるわけではない。「解脱」は霊が何かをわかることではない。…ということだろう。

しかし、仏教は「十二縁起(十二因縁)」「六処」の理論などによって「霊」の動きは説明する。

JRF2023/6/66711

[cocolog:93870385]
>仏教は宗教の中では哲学にかなり近いものと一般には認識されているものと思う。もちろん、哲学的探求には限度があり、信じるべきと決めるところもあり、仏教においては、それは単に決めたものではなく、真理であるからこその悟りということになるのだとは思う。その「確信」を不立文字など様々なしかたで、師資相承していくのが客観的に見て仏教という宗教ということになるのだと思う。<

JRF2023/6/65369

師茂樹『最澄と徳一』([cocolog:93262666]):>究極の真理に至る道程には、言葉で解決すべき無数の問題が横たわっている。仏道を歩む者は、最後には言葉を捨てるとしても、それまでは言葉を使って正確に教理を理解し、言葉を使って高僧と問答し、言葉を使って誰かを説得しなければならない。問答で教理上の未解決問題を解こうとしていたこの時代の人々にとってはなおさらであろう。<(p.160-161)

JRF2023/6/67157

[cocolog:93225056]
>>
>心は内に在らず、外に在らず、及び両中間にも心は不可得なり。<(p.36)

JRF2023/6/65013

ここでいう心は、知や理解ではない。心は縁起するもので己の中にとどまるものでもない。だからといって、とらえどころのないものこそ心…というわけでもない。仏教では、概念を不可知論的にのみ置くことをヨシとしない。それは迷いに人を置き去りにすることだ。仏教は、ちゃんとモデル化し、たとえば十二因縁論などにする。それは辿り着ける真理ではなく、教えられねばわからないものである。迷うものからすれば間に合わせの命題にしか思えないかもしれないが、悟っていない者にも正しいとして問題ないことが顕らかとなっている真理なのである。そこに「仏教」の意義がある。
<<

JRF2023/6/63836

このあたりのことは、私はもっと以前に語ったはずだが、見つからない…。

つまるところ、知のみで探求して「わかるものではない」という中で、師子の関わりで、こう覚えれば間違わないという理論・技法を教える。おそらくそれはヒンドゥー教でも同じだろう。ヒンドゥー教のヨガは体に間違いが起こりやすいため、その辺で迷いが生じにくくなっている面もあるかもしれない。そういった精緻化が、人を偉いと思わせるものであることはここですでに語った。

JRF2023/6/64167

しかし、こういった精緻化は、輪廻転生を一方においてかかげるからという側面があるかららしい。なぜなら、キリスト教などでは、個人においてそういう精緻化は行わないからだ。そこには、輪廻の理論が無意識に与える「死後、感覚(痛覚)がどこまでもあるのではないか」という不安を断ち切る必要があるかないかが問題として横たわっているのかもしれない。他にも何かあるのかもしれないが。

JRF2023/6/60063

私自身が、こういうことにこだわるのは、『「シミュレーション仏教」の試み』で「来世がないのが良い」としたからという側面があるだろう。やはり転生の理論が背景にある。

キリスト教でも、私の梵我一如が胎児の感覚から来ているという理論からすると、梵我一如的なものを真理ととらえる感覚自体はなければならない。キリスト教では、それは、三位一体のイエスと神の一致に現れ、そのイエスに倣うことによって、個々がそれを(胎児のころから数えて再び)ものにする。…という形なのだろう。

JRF2023/6/67353

イスラム教の場合、神人一致というとスーフィズムがあるが、スーフィズムのないところもあることを考えると、そこ以外に、梵我一如的なものがあるに違いない。難しいが、それは、梵我一如の感覚が胎児という「過去」の記憶であると同様に、キリスト教という「過去」が梵我一如を「達成」しているとして取り込んでいるということではないか…と私は考える。ここから敷衍すると、逆にキリスト教を過去とできることが弱いところほど、スーフィズムが現れることが予想されるが、実際のところはどうなのだろう?

JRF2023/6/64282

……。

>気息がいかに重視されていたかは、気息のうちの「吸気(プラーナ)」に捧げられたヴェーダ讃歌からもうかがうことができる。<(p.88-89)

中国の気にも通じるところだが、よりヨガ的理解になる…ということだろうか。

上でも言及した易理のひとこと [cocolog:92984837] に次のように書いている。

JRF2023/6/62092

[cocolog:92984837]
>象に神[かみ]の現れを見るのはおおかた気の迷いであるが、気象…気圧など…が人の心に影響を与えるのは事実である。人の気を動かすものを神[しん]とするならそこに神が現れている。人の気を鬼とし、物理の象とあわせて働いているのを神とも見れるかもしれない。

荒天が続けば怒っているとして擬人化して天意を導くことがある。しかしそれより気圧で人の心がしずんでるほうが天意という名を持つ者の効果にふさわしい気がする。

JRF2023/6/68310

気圧や湿気などが人に影響を与えるのは事実だが、それは微妙なものであることが多い。それゆえに、玄義が発生しやすいのかもしれない。大麻の煙のような実際的なものもあっただろうけれども、そういう直接的なものだけでない意味があったものと思われる。

JRF2023/6/68040

……。

>ムドラーとは本来は手の印相を意味した。密教(…の…)あの印契[いんげい]のことである。

そうした本来の意味に加えて、クダリニーの発言をともなった性的修道論であるタントリズムの発展によって、あらゆる意味づけがなされてきた。

(…)

このようにムドラーとは、クンダリニーを目覚めさせるテクニックを意味し、ハタ・ヨーガではもっとも高い位置付けがなされている。

(…)

また、長い時間をかけて舌の筋を切り自由に反転させたり、伸ばしたりすることで頭蓋の孔[あな]を塞ぎ、クンダリニーを目覚めさせようとするケーチャリー・ムドラーなどがある。
<(p.121-122)

JRF2023/6/65365

「要訓練薬効」の話([cocolog:77188750])を思い出す。ラスプーチンの青酸カリに関する逸話もその一種ではないか…とか私は思っていたのを思い出す。

JRF2023/6/63417

……。

>神が実在するか否か、という問いはタントリストにとって問題とはならない。むしろ自らの気(プラーナ)の力によって神を眼前に生み出すことができるはずだと考えるのである。サンスクリットの「サーダナ」(成就法)は成立させること、存在を確立させることを意味する。<(p.127)

ここに続く具体例の説明は、私の統合失調症体験の一つを思い出させる。はっきりした姿ではなかったが、競うようにして学ぶことを求められた「気がした」。

JRF2023/6/69122

《テレビが裏切っている --- 精神分裂病時に考えたこと - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/post_3.html#more
>私は、突然表れたファラオの絵のような影 (おそらく何らかの物の影) に礼をすることで、その「神」の指導を仰ぐことになった。

「神」が、私に初心者として世界の創造の方法と危機の方法を教えようとしていた。その媒体はテレビだった。

JRF2023/6/66545

……。

>アルタ(実利)、カーマ(性愛)、ダルマ(社会義務行為)の3つは、人生の三大目標(トリ・ヴァルガ)と呼ばれまたモークシャ(解脱)を加えて四大目標ともいわれる。<(p.134)

>ヴェーダの文献は次のように述べる。「バラモンはその誕生のとき、3つのリナ(債務)を背負って生れる。それらは儀礼に関しての神々へのリナ、学習に関しての聖仙へのリナ、そして子孫に関しての祖霊へのリナである。彼は儀礼の実行、学生になって(ヴェーダを学習すること)、子孫を残すことによってリナから開放される」(『タイッティリーヤ・サンヒター』6.3.10.5)

JRF2023/6/66680

『「シミュレーション仏教」の試み』で挙げた本目的三条件は「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい(改め「思考と思念を深めるのがよい」)」であった。

四大目標に照らせば、アルタ、カーマは「生きなければならない」に、モークシャは「来世がないほうがよい」にあたるだろうが、ダルマと「自己の探求がよい」を結び付けるのは難しい。ただ、「自己の探求がよい」の中には転生の知識も含まれるので、そことダルマを関連付けることはできるかもしれない。

JRF2023/6/68066

一方、リナについては、神々へのリナが「来世がないほうがよい」に、聖仙へのリナが「自己の探求がよい」に、祖霊へのリナが「生きなければならない」にちょうど対応する感じがする。私は、経済的思考で考えがちだから、債務(リナ)という言葉に親和性が出たのかもしれない。

JRF2023/6/62804

……。

>アルタを守るためには戦乱のない安定した国が必須条件である。そのために王が修めるべき学問が『アルタ・シャーストラ』である。

『アルタ・シャーストラ』は、カウティリヤに帰せられ、3世紀になるまで一本の写本すら発見されなかった幻の大著である。覇権を目指す王を主人公にして国家論、君主論、軍事論等が展開し、カウティリヤを人は「インドのマキャベリ」あるいは「インドのビスマルク」と呼ぶほどである。

JRF2023/6/68774

「実際、よく熟慮された王権が民にダルマ、アルタ、カーマをもたらすのである」(1.4.11)。それとは逆に、「王権を全く用いない場合には弱肉強食を生じる(1.4.13)である。
<(p.142)

新自由主義批判の文脈だったか、資本主義は、ある意味もっとも素朴な形態で、ほうっておくとそうなるもので、だから、資本主義に終焉などはない…みたいな議論を見たことがあったように思う。

keyword: ホッブス
keyword: マキアヴェリ

JRF2023/6/68902

……。

最後に、私の「ひとこと」を読んでる方の中には仏教に関心のある方も多いかもしれないので、ヒンドゥー教の「ブッダ」に対する観方について、少し長く引用しておこうと思う。

>ヴィシュヌの化身たち(9) ブッダ(仏陀) … 誤った思想を説き魔人を地獄へと導く

JRF2023/6/63570

カリ・ユガという最悪の時代の初期に、ヴィシュヌは神々の敵である魔神たちを迷わせて救済するため、シュッドーダナの息子として生まれた。彼は成長してブッダとなり、ヴェーダの教義に反するような教えを説いた。それは、伝統的な知恵を軽蔑し、カーストを無視し、祭祀のもつ価値を倫理思想と取り替えて、魔神たちに個人重視の思想を植えつけるものであった。ブッダの教えに従う者たちはヴェーダの宗教を捨てて異端となり、最下層の人々からも布施を受けて、地獄に墜ちるのにふさわしい行為を行った。こうして魔神たちはブッダに化身したヴィシュヌに退治された。

JRF2023/6/64676

ここにはブッダを誤った道の指導者と見る、ヒンドゥー教徒たちのブッダ観が如実に反映されている。
<(p.195)

JRF2023/6/61170

私の妄想では、主に大乗仏教が(脳)外科手術などの無理をしたから、支持を失ったのではないか…とか想像している。

『法華経』を読んだときのひとこと [cocolog:92105472]

JRF2023/6/65467

>>
《メガテン 第二集 ガネーシャ》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/07/post_1.html
>[wikipedia:ガネーシャ] によると、親のシヴァが首を切ってどこかに投げたあと、無実なのがわかって、探すとみつからない。しかたなく象の首を付けたんだそうです。これまた不思議な話です。象の頭は西でみつかった開頭術で脳の皮質部分を除いたものを表したものなのか(…)<

JRF2023/6/64583

生きた人間の開頭手術を行ったのではないか…という疑いが私にはある。それに信仰を「利用」したのか…と。もしそうなら、その点、ローマのガレノス([cocolog:92031461])のほうが倫理的だった。その呪いがインドと西欧の差にもなったのではないかと私は思ってしまう。
<<

JRF2023/6/68922

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