cocolog:94240082
ヘッセ『シッダルタ』を読んだ。釈迦ゴータマとは別人の同時代のバラモンの子シッダルタの物語。古代インドの宗教的遍歴がおもしろいのだが、「輪廻転生」が偽物でしかないなど、キリスト教への改宗を誘う傲慢さを読む人もいるだろう。 (JRF 1882)
JRF 2023年6月 8日 (木)
finalvent さんが先日紹介していて関心を持った。
《finalvent:Twitter:2023-05-23》
https://twitter.com/finalvent/status/1658960196105035777
JRF2023/6/84550
>
若い頃、自分の人生を決めた三冊の本。
(1)山本周五郎『虚空遍歴』
(2)ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
(3)ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』
ちなみに、お勧めはしないぞ。影響受けると、クズの人生になりかねん。
とはいえ、こうした作品からしか見えてこない人生というのは、あり、まあ、そうなってから読んでよいかも。
<
JRF2023/6/89594
この本の直前に学研『ヒンドゥー教の本』を読んで([cocolog:94238182])おり、その影響下で読んだことになる。
釈迦ゴータマとは別人の同時代のバラモンの子シッダルタの物語。シッダルタの子もシッダルタなので都合3人のシッダルタがいることになるか。ただ、ゴータマがシッダルタであるという記述はない。
古代インドの宗教的遍歴がおもしろい。あらすじとしては…、
JRF2023/6/83515
美男子で賢いシッダルタはバラモンの子として修行を積み、バラモンの修行に疑問を感じて、友ゴヴィンダと沙門のもとに出家する。しかし、沙門のもとの修行でも納得いかない中、ゴータマの噂を聞き沙門のもとから出て会いにいく。ゴータマに会って衝撃を受け、ゴヴィンダはゴータマの弟子になるが、シッダルタは、俗世に生きるようになる。
当初はかつての修行者の優位で、シッダルタは、うまくやっていく。カマラという娼婦の恋人が重要な役割りを果たす。商売でも成功する。
JRF2023/6/87514
しかし、やがて、シッダルタは自分が子どもっぽいと見なす人々(小児人種と書く)のようになろうとして、なれないと思っていたのが、完全にそのような人になるまで落ちぶれてしまう。富裕ではあったのだが。
精神が落ちぶれる最後のところで翻意して、賢人的な渡し守ヴァズデーヴァとともに河の渡し守として生活をはじめる。そこである種の賢人となるシッダルタ。ゴータマが死に近付いたとき、河にかつての恋人が彼の子供を連れてやってきて、恋人は不慮の事故で死んでしまう。
JRF2023/6/86736
子への愛でふたたび「子どもっぽい人々」の気持ちに近付くシッダルタ。しかし子どもは「不良」になり、家を飛び出してしまう。
渡し守ヴァズデーヴァも死んで一人になって再び賢人的となったシッダルタのところに、ゴータマが死んだあとも弟子として修行してきたゴヴィンダが訪れる…。
…という物語。完全にネタバレだが、この話はこのスジが味わうポイントではないので、語っても問題ないだろう。
さて、続いては、いつものように引用しながら見ていこう。
JRF2023/6/87221
……。
>そのときシッダルタは声低く言った。あたかも自分自身に語るように。「瞑想とは何であろう。肉体を離脱するとは何であろう。断食とは何であろう。呼吸の停止とは何であろう。それは自我からの逃避なのだ。我である苦しみからのしばしの脱離、生の苦痛と無意識とに対するしばしの麻痺にすぎないのだ。これと同じ逃避、同じしばしの麻痺は、旅籠屋[はたごや]で数椀の濁り酒や椰子酒を傾ける牛追いすらも見出すことができるのだ。
JRF2023/6/82749
そのとき牛追いはもはや彼の自我を感ぜず、生の苦痛を感ぜず、しばしの麻痺陶酔を見出すのだ。彼は酒杯[さかずき]の上にまどろみながら、シッダルタやゴヴィンダが長い修行を経て肉体を離脱し、非我の中に住むときに見出すのと同じものを見出すのだ、それが真相なのだ、ゴヴィンダよ」
<(p.28)
JRF2023/6/80597
私は『ヒンドゥー教の本』を読んだ([cocolog:94238182])とき、「悟り」を理論的に精緻化していくのは、「祭式を複雑なもの」にしていくのに相当し、その目的は権威を高めるためではないか…というようなことを書いた。権威が関係ないなら、私の書き振りはシッダルタのような意見になる。そして権威は(仏教的)真理にとってはさほど大事とは思えない。人に模範を示すこと・示せることは(正しい教えに人を誘ったりするために)それはそれでとても大事ではあるのだけれど。
JRF2023/6/82648
……。
>この二人の若者が沙門たちのもとに留まり苦行をともにすることも、すでに三年になろうとしていた。その頃、さまざまな経路と迂路を経て一つの知らせ、一つの噂、一つの風説が二人の耳に達した。ゴータマと呼ばれる人が出現した、彼は崇高者であり仏陀である、彼はおのれのうちに世の苦悩を克服し、輪廻転生の轍[わだち]を停めた、彼は弟子たちにかこまれ、説法しつつ国内を廻っている、所有なく家なく妻なく、身には苦行者の黄衣をまとうているばかりである、しかも彼の額[ひたい]は明るい、至高の幸を受けているから。そして婆羅門も王侯も彼の前に身をかがめ弟子となる。そう噂は語るのであった。<(p.33)
JRF2023/6/86907
釈尊の描写の最初のものである。シッダルタは沙門の下にいることに疑問を感じていたこともあり、ゴータマの元に出かけることにする。
JRF2023/6/85404
>シッダルタは言った。「まずこの実を味わおうではないか、そしてその先のことは成行きにまかそう。ゴヴィンダよ、だが、我々がすでにゴータマから与えられた善き実とは、じつはこうなのだ、それは彼が我々を呼び出して沙門のもとを去らしめるということなのだ。友よ、彼がなお我々に対し他のより呼き実を与えることができるかどうか、我々は焦ることなく心静かに待とうではないか」<(p.37)
JRF2023/6/83242
運命的なことがわかる瞬間がある。修行者ならばなおさら。が、ここはそういうことではないのかもしれない。そういうことであるのかもしれない。
JRF2023/6/83280
……。
ゴータマと会って、ゴヴィンダは彼の弟子となった。しかし、シッダルタはその道を行かなかった。
ゴータマの教えは明瞭で、ある意味簡潔である。
>仏陀の奥義と秘宝とは彼の教えにあるのではなくて、仏陀がかつて大悟の瞬間に体得した、言葉には言い得ぬ、そして教え得ぬ或るものの中にあるのだ<(p.67)
…これがシッダルタの得たところとなり、彼はゴヴィンダとゴータマと別れ、俗世に戻ることになる。
JRF2023/6/83904
>(シッダルタ:)「(…)真我[アートマン]をわたしは求めた。梵[ブラフマン]をわたしは求めた、わたしはわたしの自我を砕き、殻を破り、その未知の内部から、あらゆる殻の核心、真我、生命、神性、究極なるものを探り取ろうとしていた。しかもそのときわたし自身というものは、わたしの手から逃げ去ってしまっていた」<(p.58)
そして彼は「私」を取り戻す。
JRF2023/6/86097
しかし、私はここにキリスト教の影響を強くみる。『ヒンドゥー教の本』を読んだ([cocolog:94238182])とき、梵我一如が胎児の感覚から来ていて、キリスト教は、それを三位一体として取り込み、人はキリストに倣うことで梵我一如を我がものにするといったことを書いた。これは誰か理想があって、それに倣うものだということ。こに現れるのは、キリストに倣うのではなくゴータマに倣うことになるが同じものだ。これはキリスト教的構図ではないか。
JRF2023/6/89945
さらに議論を先取りすると、キリスト教では、同時に人は、神にはなれない。それは厳しく排除される。そこから、理想像に倣いながら、それとは違うものを目指さねばならなくなる。そこに個性が生じる。
そう言いながら、神は唯一だから、海が一味であるように人が一味であることを求めようとする。そこに本質的な多様性が残ることを認めないのだ。海の広大さを忘れるがごとく。
しかし、旧約聖書まで遡れば、人には決して一味となることを求められてないことがわかる。
JRF2023/6/84874
《『創世記』ひろい読み - ヤコブの一神教》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-2.html
>ヤコブが群れを二組に分けたのは互いに争わせるためでない。<
JRF2023/6/80095
……。
シッダルタはある「真理」に達する。
>このように、外からの命令に従うことなく、内の声に聴き、すすんでそれに応ずること、それが善なのである、必須のことなのである、他の何ものも必須ではない。<(p.68)
彼はここから普通の生活に戻る。
JRF2023/6/88964
『ヒンドゥー教の本』を読んだ([cocolog:94238182])とき、「梵我一如」が感覚的なもので、神の意志性から私の意志性を発見できるものだったとしても、それは一時的なものに過ぎず、そこから先の生活が普通にあるはずのものである…と書いた。「梵我一如」的な真理にこだわらないならば、普通の生活に戻るしかない。
JRF2023/6/82401
しかし、キリスト教には「聖霊」という概念があるが、外部から訴えるように自分の前に迫るものがあることがあるものだ。それは内からだけでなく、あらゆるものを動員して考えて答えを出さねばならない。「普通の生活ならば、「内の声に聴き、すすんでそれに応ずる」」だけで良いということはない。
JRF2023/6/83241
……。
俗世に戻ったシッダルタの「できること」。
>「わたしは考えることができます。わたしは待つことができます。わたしは断食することができます」<(p.90)
これらしかないという認識…。
それはどういう役に立つのか…という問いに対し…。
JRF2023/6/80558
>「この上なく役に立ちます、御主人。人が食べるものをもたないとき、断食は彼のなしうる最も賢明な行為です。たとえば、もしシッダルタが断食することを学んでいなかったとするなら、彼は今日のうちに何かの勤めにつかねばなりません -- あなたのところにせよ、他のところにせよ。なぜなら飢えが彼を駆ってそうさせるからです。しかしシッダルタはこうして静かに待つことができます。彼は焦燥を知りません。彼は窮地を知りません。彼は長いあいだ飢えに攻められ、しかもそれに対して笑いを返すことができます。御主人よ、断食はそういう徳をもつのです」<(p.90-91)
JRF2023/6/85466
断食と待つことは現れているが、考えることはどこに現れるか。読み書きができるのが役立つというのは前に出てきたが…。「笑いを返すことができる」という部分だろうか?
JRF2023/6/84185
……。
>彼は、人間たちが或いは動物じみて日々を過ごすのを見た、そういう生活をシッダルタはいとおしく思いもし、同時に軽蔑もするのであった。彼は彼らが金のために、小さい快楽のために、小さい名誉のために、苦労し悩み白髪になっていくのを見た。それらのものはシッダルタの眼にはそのように心を労する価値の全くないものとしか映らなかった。彼は彼らが互いを罵り、互いの心を傷つけ合うのを見た、沙門ならば微笑してすます苦痛を哀訴し、沙門ならばまったく感じぬ欠乏に苦しむのを見た。<(p.98)
JRF2023/6/86537
軽蔑してしまうのを許すのが、西洋インテリ的または貴族的感覚だな…と思う。私はバグと向き合うコンピュータの学問に近かったせいかもしれないが、学べば謙虚になるものと思う。不正への怒りはあるかもしれないが、人を軽蔑はしなくなるものではないか…と私などは思うのだが。
JRF2023/6/81126
……。
性行為のあと、娼婦の恋人カマラはいう…
>「(…)けれど、あなた、あなたはやっぱり沙門なのだわ、やっぱりあなたはわたしを愛してはいない。あなたは誰も愛していないのだわ。そうじゃない?」
「そうかも知れない」とシッダルタはものうげに答えた。「わたしもお前も同じなのだ。お前もやはり愛してはいないのだ -- そうでなければ、どうしてお前は愛を一つの技術として営むことができよう。われわれのような種類の人間には、おそらく人を愛するということはできないのだろう。小児人種にはそれができる、それが彼らの秘密なのだ」
<(p.102-103)
JRF2023/6/86311
愛については私もよくわからない。ただ、誰でもそうではないか。性の興奮はある。しかし、それは愛とは何か違う。そういう意味では誰も愛を知らずに愛し合っている。ひるがえって、それが愛なのではないか。愛は、ある意味、自らの意志を超えたところから来る。
JRF2023/6/85130
……。
シッダルタは自堕落な生活から飛び出して河のほとりにやってきた。
>もはや青春の時代は去り、髪は半ば白く、身も心もいよいよ衰えてゆく今となって、自分はもとに戻って子供の状態からやり直しをしなければならないとは。またもや彼はほほえまずにはいられなかった。まことに彼の運命は奇異なものである。彼は下へ下へくだって行くのだ、そしていま彼は再びこの世に裸の、空手の、無知の者として立っているのだ。<(p.130)
JRF2023/6/81690
↓を思い出す。
《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
>下っていく道すじ。別に上にいたわけでもない。でも、下っていく。ずいぶん力が落ちた。あのころアレでも力があったほうなんだなぁ。……と、振り返りつつ、別にそれはいい、私はそれでいいとした。振り返って詳しく見ることまでは億劫だからしない。地道に。元から下にいたんだとしても、「地道さを」と思い……夜道を歩いたことがあった。<
JRF2023/6/85204
《道を語り解く − 教え説くのではなく》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post.html
>道の先に目的地があっても道がそこで終わるわけではない。でも道を往く私には終りはあって、一生があって、一年があって、一日がある。あるとき立ち留まって逡巡する。この光陰をどうしのぐべきなのか、と。自分には知識も、努力によって身につく能力もないことをときに感じる。<
JRF2023/6/85762
だからといって子供のように、無垢に戻ったとは私は思わなかった。子供でなければ無知だということはない。大人で普通に無知であることはありえる、私のように。そういうふうに思わないシッダルタは、作者は、インテリなのだなぁ…と思う。
JRF2023/6/82052
……。
>自分は愚者とならねばならなかった、かくしてこそ真我[アートマン]を再び自分の中に見出すことができるようになったのだ、自分は罪を犯さねばならなかった、そうしてこそ自分は再び生きることができるようになったのだ。<(p.132)
それをアートマンと思うこと、このような真実に目覚めたと思うこと、それもまた、愚かになった頭で考えるがゆえのことだ。愚かさの証拠だ。私も同じようなものなのでわかる。彼が本当に目覚めていた若いころならば、決してそれを真理とはしなかったろう。
JRF2023/6/87513
若いころの真実は真実で、年老いてからそれを否定しがちだが、それはいけない。若いときの真実はやはりものすごい真実なのだ。鈍麻していく中で、それを否定するのはよくないことだと思う。
音楽の指揮者のようにトシをとることで、熟成する芸術・技術はある。でも真理は若いころにあると思う。まぁ、私の人生がそうだったというだけかもしれないが。何が真理だったかは忘れてしまったが。
JRF2023/6/86218
……。
不良になった息子が逃げた。渡し守ヴァスデーヴァは言う…。
>「(…)では君はほんとうに信じているのか、君が愚かな所業を重ねたのは、息子にそれをくり返させないつもりからだと? それに事実、君は息子を輪廻から護ることができるだろうか。(…)」<(p.165)
こういうことを「輪廻」というのはただの比喩であるならいいのだが、これこそが輪廻の本質だと押し付ける改宗を誘う者のおもむきがある。この「輪廻」の偽物さに、キリスト教への改宗を、その意図がないかのように隠して誘う傲慢さを読む人もいるだろう。
JRF2023/6/86428
逆にいうと、息子が似ているというのは輪廻とは本質的に違うことだ。親の因果を子に報いるというのは人の社会が作るもので、それは(神的な)摂理ではないというのが、東洋の常識なのだと思う。それは人がなす罰の与え方としてはありうる。しかし、非道だからこそ人を驚かせる罰として効果があると見るのだ。
JRF2023/6/82845
……。
>(「小児人種」…)これらの人々はその盲目的な誠実、盲目的な力と強靭さとにおいて、愛すべく、また嘆賞すべき存在である。智者、瞑想家にくらべて、何一つ劣った点がない、もしあるとすれば、それはただ一つの些事、ただ一つの極めて小さい事柄にすぎないのだ。それは「いっさいの生命の統一」についての意識、それについての意識された思想だけなのだ。<(p.177)
「いっさいの生命の統一」は、梵我一如なのか、海は一味なのか。それが(キリストの)愛だというなら、それは誤解だと私は思う。
JRF2023/6/81610
……。
>彼は感じた、自分は今この老ヴァズデーヴァを、人々が神々を見るような心で見ている、そしてこういう状態はいつまでも永続することはあり得ないということを。心のうちに彼はヴァズデーヴァと訣別しはじめた。同時に絶えず語りつづけた。<(p.182)
なぜその確信にいたったのか。それは、キリスト以外、人が神になれないというキリスト教の認識からではないのか…。
JRF2023/6/82792
『ヒンドゥー教の本』の中の人々は、僧などに神々を見て、それは人のレイヤーとしてある程度残り続けたのではなかったか。
JRF2023/6/83732
……。
>涅槃と輪廻を「一」として観念しようと(…)<(p.204)
そこにまで一を求めるのは求めすぎではないか。仏教の中でも求めることはあるかもしれないが…。
JRF2023/6/82479
……。
最後、ゴヴィンダとシッダルタが再び会う。
わたしの額[ひたい]に接吻しろと渡し守の賢人シッダルタに言われてゴヴィンダは従った。
JRF2023/6/88838
>(動物のほか…)神々を見た、クリシュナ神を見た、アグニ神を見た -- 彼はこれらすべての像や顔が、おのおの他を助け、愛し、憎み、滅ぼし、新たに生み合って、無数の相互関係を織り成しているのを見た、その像、その顔、ことごとくが「死への意志」であった。激しい無常の告白であった。しかしそのいずれもが死にはしなかった、ただそれは姿を変えるばかりである、常に新たに生まれ変わった -- 常に新しい姿を得た、しかも一つの姿と次の姿との間には「時」が存在しなかった。
JRF2023/6/83560
-- そしてすべてこれらの姿や顔はよどみ、流れ、生殖し、泳ぎ去り、融合し合った、そしてそれらすべてをおおうて、稀薄な、形なき、しかも実在する或るものが、薄いガラスか氷のように、常に張られているのであった、透明な膜のように、または水で出来た殻、型、仮面のように。そしてこの仮面がほほえんでいた、この仮面こそシッダルタのほほえむ顔で、それに彼、ゴヴィンダがいま唇を触れているのだ。
JRF2023/6/80591
そして(ゴヴィンダはいま知った)この仮面のほほえみ、形態の転変流転をおおうこの「統一」のほほえみ、千万の生と死との上に立つこの同時のほほえみ、このシッダルタのほほえみこそは、仏陀ゴータマのほほえみとまったく同じものであったのだ、ゴヴィンダ自身幾度となく畏敬の念をもって仰ぎ見たあの安らかな、静かな、きよらかな、はかり知れぬ、おそらくは寛慈な、おそらくは皮肉を帯びた、叡智を湛えた、千様の仏陀のほほえみそのものであったのだ。ゴヴィンダは悟った、完成者はまさにかくのごときほほえみをほほえむものであることを。
<(p.205-206)
JRF2023/6/89418
keyword: 永劫回帰
ここはニーチェの「永劫回帰」に相当するヘッセの思想なのだろう。
ただ、私は、宇宙観には、無限の時間ではじまりがないものと、一神的なはじまりのある時間の観方がいり組んだ形で存在しうる([cocolog:93225056], [cocolog:93870385] など)と考えていて、「永劫」というものを「一」に関連付けて考えない。もちろん、現実は「一」つではあるというのが認識のことはじめなのだけれど。
JRF2023/6/88344
……。
結局、私は私の愚かさから、作者に嫉妬して愚痴をこぼして鑑賞するだけになったということだろう。本当の意味でこの本を味わったとは言えないに違いない。しかし、それはそれとして、宗教哲学的な思考ができて、それは楽しいことだった。おもしろかった。
JRF2023/6/84922
……。
……。
追記。
訳者の情報を付すのを失念していた。
『シッダルタ』(ヘルマン・ヘッセ 著, 手塚 富雄 訳, 岩波文庫 赤 435-6, 2011年8月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003243560
https://7net.omni7.jp/detail/1106073840
ヘッセの原著は第一部が1919年、第二部をあわせて完結したのが 1922年。初訳は 1941年だそうだが、この訳の初出は1953年の角川文庫。
JRF2023/6/85509
『シッダルタ』(ヘルマン・ヘッセ 著, 岩波文庫 赤 435-6, 2011年8月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003243560
https://7net.omni7.jp/detail/1106073840
『シッダルタ』に訳はいくつかあるが、この岩波文庫が格調高いそうなのでこれを選んだ。難しいかと心配していたが、ルビもしっかり付いていてちゃんと読めた。
JRF2023/6/86772