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窪島一系『現代人のための仏教説話50』を読んだ。引用で堅めて編集してあることに、ある種の誠実さが現れているように思う。今の私はこういう本に心洗われるように感じる。 (JRF 4370)
JRF 2023年6月11日 (日)
私はお経を読んで宗教哲学的考察をいろいろしているが、しかし、基本的な、子供時代に触れておくべきだったような基礎的な「説話」の知識に欠けている。それが気になっていたところ、この本が Amazon で目についた。そして購入。
この本は現代語訳した仏教説話に、世界の偉人の名言の引用が多く載った解説がそれぞれ付されている。引用で堅めて編集してあることに、作者のある種の誠実さが現れているように思う。今の私はこういう本に心洗われるように感じた。
いつものようにこの本を引用しながら少し見ていく。
JRF2023/6/118692
……。
>いたるところでいじめだの詐欺だの社会不安が増大し<(p.2)
社会「不安」と言って「犯罪」などと言わないのが、わかってて煽っている人のそぶりで、そういう方便を使う方なのだな…と、それを「まえがき」で述べてるのはある意味、誠実だと私は思う。もしかすると、編集の方が優秀という可能性はあるが、それを使えるということはそれを含めて作者の力量だと思う。
JRF2023/6/114940
……。
>すると兎は、「私には食べ物を取ってくる力がない。だからこの身を焼いて食べてください」と言うやいなや火の中に飛び込み、焼かれて死んでしまった。<(p.14, 今昔物語集・巻第五第十三)
『法華経』の喜見菩薩の焼身自殺の話を思い出す。以前…
JRF2023/6/112717
[cocolog:92105472]
>焼身自殺による布施をたたえる。これこそ、この法華経が迫害されると予言しなければならなかったその部分のように思う。ただ、重要なことはこれは「薬王菩薩」に関するものだということ。医学の発展のために身を捧げる覚悟を説いているのかもしれない。でも、だからと言って、だから「善い」という話ではない。私がここで、思い出すのが、インドの神、ガネーシャ。<
JRF2023/6/112781
…と書いている。兎の話もなかなか有名ではあるが、人が死ぬほどのインパクトはなく、軽減されている。
ただ、この話を第一に持ってくるこの本の著者は、日蓮宗で現代は有名な『法華経』の知識を試しているのかもしれない。
JRF2023/6/113850
……。
貧しい老夫婦。お婆さんが髪を売って買った米を桶に入れてやってきた。すべてお坊さん達に施したが…。
>同様にして次々と(…お坊さん達の…)鉢に盛り続け、老夫婦はとうとう三千人余りの僧たちに漏れなく食べ物をお供えすることができたのだった。<(p.18, 今昔物語集・巻第四第十五)
JRF2023/6/113415
これは新約聖書で、イエスと弟子がわずかなパンと魚を分けると5000人以上を満腹にさせたという話(マタイ14章)などを思い出させる。新約聖書の場合、各人が実は弁当を持ってきていた…という解釈も可能だが、今昔物語集の場合は、完全な奇跡になっている。ただ、後者も何か象徴的な意味があるのかもしれない。布施の教えとは別に。
この二つ目の話はキリスト教徒を意識したサービスかもしれない。ただ、このあとの話はどうなのか。私にはわからなかった。
JRF2023/6/112827
……。
>「(…)私のために法華経を書き写して供養してください。そうすれば私の罪は許されるはずですから(…)」(p.83, 日本霊異記・下巻第三十五)
追善供養は(浄土真宗などに)否定されがちだが、私は個人主義が進み過ぎた現代には必要になっていると考えている。
[cocolog:94105292]
>追善供養は生きる家族の霊的生活を改善する。現実世界において効果があるものが、虚の世界において効果がないわけがない。だから、効果があると私は信じる。<
JRF2023/6/117889
……。
>「(…)悪事ばかり働いて成仏できない者を殺しても罪にはならないのだ(…)」<(p.95, 日本霊異記・中巻第二十二)
前に↓のようなことを書いた。
JRF2023/6/115122
>>
○ 2023-03-02T17:11:54Z
jilpa> 『シューベルト: ピアノ・ソナタ 第18番「幻想ソナタ」D.894』第3楽章。二人の家庭のような幸せがありますが、家計のちょっとした苦労が地獄の絶望を覗かせているかのようです。地獄は心のうちにあるのであって救いなきほど悪に手を染めることもまた不可能なように私は思うのですが…。アファナシエフの CD です。
JRF2023/6/117181
○ 2023-03-02T18:04:53Z
jrf> 滅びに予定された人も救われてほしいと願っている。その願いは自由な意思と呼べるのではないか。
JRF2023/6/115767
○ 2023-03-03T11:37:35Z
jrf> 神学的(?)補足説明。
「地獄は心のうちにあるのであって救いなきほど悪に手を染めることもまた不可能なように私は思う」…について。確かに人がなす悪はありうるのだが、人が意志から完全に悪になるとき、それを追い込むものがあったはずで、その追い込んだものの問題と考えれば、その人そのものは救われうるとなる。軽い気持ちで悪を見過ごすような場合、これは存外深い悪ともなりうるが、しかし、悔い贖いの機会はやがて訪れると考えたい。
JRF2023/6/117495
人の力で、本当に絶望の地獄に陥ることもまた不可能。…と私(ジルパ)は考えている。そこには甘さがあるかもしれないことは留保するが。…ぐらいの意味。あとここではシューベルトの梅毒に関する悔いも想像のうちにあるのは留意したい。
JRF2023/6/116826
「滅びに予定された人も救われてほしいと願っている」…については、当然、「人」に「自分」も含まれると考えている。「勝手にしろ」の見放された結果の「自由」を文法の詐術で「自由意志」に結びつける。しかし、逆にそれでも「自由意志」がありうると一度なってしまえば、今度は(二重)予定説の前提が崩れるため、実際救われることもありうるのでは…と道を開くことになる。…そう私(Jion)は考えている。…ぐらいの意味。
<<
JRF2023/6/113916
悪人を殺すのが慈悲だとは私は思わない。悪人を殺すところに置かれるのも仏教的には何かの報いとなるのかもしれない。とにかく、悪人を殺さないで改心させられるなら、それに過ぎることはない。が、世界に軍隊がある間の死刑には私は昔から賛成している。私は非情すぎるのかもしれない。
keyword: 死刑
JRF2023/6/118616
……。
>もし、ある人が忍辱(…)の心を養おうと思うならば、仇敵に対して「この人こそ忍辱の心を植えつけてくれる師匠だ」と思うことだ。<(p.110, 日本霊異記・下巻第二)
これは自分を優位に置く「憎悪」ではないのかな…。次のような話を思い出した。私の愛読書、ラビ・M・トケイヤー『ユダヤ5000年の知恵』(講談社+α文庫, 1993年)に載っている。
JRF2023/6/117833
>復讐と憎悪
「鎌[かま]を貸してくれ」とある男が言った。相手は「いやだ」と拒絶した。しばらくして逆にその拒絶した男が「馬を貸してくれ」と言ってきた。すると彼は「おまえは鎌を貸してくれなかったから、おれは馬を貸さない」と答えた。これは復讐である。
JRF2023/6/114693
「鎌を貸してくれ」とある男が言った。相手は「いやだ」と拒絶した。しばらくして逆にその拒絶した男が「馬を貸してくれ」と言ってきた。初めの男は馬を貸してやったが、貸すときに、「あなたは鎌を貸してくれなかったけれども、私はあなたに貸してやる」と言った。これは憎悪である。
<(p.43)
JRF2023/6/117260
それとも修行の一環であればいいのかな? 平等を目指す宗教はすべて「ルサンチマン」という意見もありそうだが。
JRF2023/6/113153
……。
>「懸情流水 受恩刻石=懸けた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」、それが仏の教えである。<(p.152)
「受恩刻石」が、あまり仏教らしくない言葉のようにも思う。ググったのだが、この熟語は「仏教経典がもと」とは書かれるが、どうもその経典が何か不明な感じである。情報を待つ。
JRF2023/6/119356
……。
僧が渡し守をさとすが渡し守は聞かず、僧はなぐられる。その僧が転生前の釈尊だという。(p.153-158, ジャータカ376)
>仏教には「対機説法」という言葉がある。<(p.158)
本当に「対機」ならば、渡し守にもっと適切な教え方をしてなぐられず、渡し守に悪因を生じないようにすべきではないか。…とか思ったのだが、ブッダになる前の釈尊(の転生前)は、しばしば失敗があるということのようだ。
JRF2023/6/117208
「焼けた鉄の球を飲んだ象」(p.216-222, 賢愚経の第三・二一)や、「夫婦仲を裂いた食べ物の恨み」(p.234-237, 今昔物語集・巻第三第十三)などでも前世において失敗している。
JRF2023/6/117393
……。
>ただ、絶対不変の「我」というものがないわけではない。それは真理である。あらゆるものは常に変化し(諸行無常)、あらゆるものはあらゆる他との関わり合いのなかで存在する(諸法無我)、といった真理は不変であり、それこそが「我」である。したがって、「我」を説く場合は、牛乳がどういうものかを名医が知り尽くして用いるように、人々にわかり易く誤解されないように説くことが肝要である。<(p.178, 大般涅槃経巻第二)
そこまで言ってしまっていいのか。トートロジー(恒真)などはそう決めれば必ず真になるという性質のものだとは思うが。ちなみに「諸法無我」については↓で少し論じている。
JRF2023/6/110992
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
>>
このうち、「諸法無我」についてはこのシミュレーションをやっていく上で心あたりがある。
プログラム用語として、self をプログラムで使ってはいるが、それは我と呼べるような AI ですらない。
JRF2023/6/117671
本稿の最初のころ「信頼度付きで論理式をいじる」など論理体系を作る話をしていたが、事実認定の論理などを作るのはとても難しいことで、そこでは私はどう考えてるか…私から見てどうか…みたいなことが必要になるとは思う。
JRF2023/6/117756
しかし、「私から見てどうか」は別として世界はあるのだから、その世界を論じることができ、本システムのように「私から見てどうか」は、上昇志向(ambition)や教育(education)などといったパラメータに落ちる。そうなれば「私から見てどうか」はいらなくなる。事実認定の論理でも、特定の私に名前を与えて、その名前の者が見ているとすればよく、「私」は必ずしも特別に登場する必要はなくなる。
JRF2023/6/117800
本目的三条件を「自己の探求がよい」から、「自己」を外して「思考と思念を深めるのがよい」としても問題はなかったというより、そう解釈しないと構築を先に進めることはできなかった。
「自分」であることは何かとても大事なことのように思うが、問題を解いてみると、案外「自分」はいらない。
JRF2023/6/117893
我がなくても世界の実相はつかめる…我の必要なく世界・諸法をつかめ…(我がとらえている)世界に我の必要なくせしめよ…とは言えるのかもしれない。
「諸法無我」がそういう意味なら、私もある程度は納得ができる。
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JRF2023/6/118514
『現代人のための仏教説話50』(窪島 一系 著, 佼成出版社, 2020年12月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4333028302
https://7net.omni7.jp/detail/1107140012
JRF2023/6/113388