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cocolog:94424426

ロイ・W・ペレット『インド哲学入門』に目を通した。かなり哲学よりで難しく、自我と転生の関係を決して物語ふうには語らず、「指向性をもつ心的状態があるがそれは身体的状態である」みたいな学問的言い方に終始する。 (JRF 4510)

JRF 2023年9月22日 (金)

『インド哲学入門』(ロイ・W・ペレット 著, 加藤 隆宏 訳, ミネルヴァ書房, 2023年9月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4623096157
https://7net.omni7.jp/detail/1107433399

Roy W. Perrett『An Introduction to Indian Philosophy』(2016) が原著。

JRF2023/9/224020

最近、『宗教学雑考集』(仮題)というこれまでこの「ひとこと」などに書いてきた宗教(哲)学的つぶやきを雑駁に集めたものを書きまとめている。そこで参考にできるものはないかと思っているときに、Twitter で紹介され Amazon の新刊として現れてきたのが、この本。同様に得た Hieros Phoenix『必修魔術論』([cocolog:94417533])の直後に読んだ。

JRF2023/9/224383

とても難しい本で、読んだというよりは目を通したぐらいにしか言えない。大事なところに付箋を付けながら読んで、あとからそれをブログにメモするのが私の読み方だが、この本の場合、付箋を付けようとするとすべてに付けないといけない感じの勢いになるため、逆に付けずにあっさり流し読みした。

JRF2023/9/226159

かなり哲学よりで難しく、自我と転生の関係を決して物語ふうには語らず、「指向性をもつ心的状態があるがそれは身体的状態である」みたいな学問的言い方に終始する。若い頃の私なら、かじりついて読み切ろうとしたかもしれないが、今の私は、誰かにまかせるつもりで、あまり真剣には読まなかった。今回、第2章以降は、いつものような引用もあまりせず、私の「理論」との関係で、いくつか言及するものはあるが、それぐらいにしておく。

第1章の途中までは引用を中心に見ていく。

JRF2023/9/226438

……。

ジャイナ教の聖者は…

>「ティールタンカラ(tirthankara, *渡しを作る人)」<(p.12)

ヘッセ『シッダルタ』で師というか友というかで、渡し守が出てきたのは、この意味があったのかな。

[cocolog:94240082]
>ヘッセ『シッダルタ』を読んだ。釈迦ゴータマとは別人の同時代のバラモンの子シッダルタの物語。<

JRF2023/9/229930

……。

>[仏教がチベットに伝播するにつれ、チベット僧たちは中観派の伝統を維持安定させ、インドにおける中観派の卓越性に関する修正主義者的な歴史を普及させている。こうした物語を未だに無批判に受け入れる西洋の仏教徒が時々いる。]<(p.15)

インドでは、中観派はかえりみられなくなったが、そうではなかったかのような修正した歴史が語られている…ということだろうか。

JRF2023/9/228804

……。

>いずれにせよ、絶対的な歓喜[あるいは苦しみの無]としての解脱は、それが快楽として純粋であり、また一旦達成されれば永続するという理由で、性愛(kama)とは異なる。<(p.31)

「最後の審判」のあと、善人は永遠に天国で良い報いを得、悪人は永遠に地獄で苦しむ…というようような考え方と、「永続する快楽」という点で似ている。世界観は違うのではあるが。影響というか、少なくとも信者の間では考え方の交流があっただろう。

《教義の内発性と外部の影響》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_1.html

JRF2023/9/223906

……。

>(…『マヌ法典』ではいう…)人が規定にしたがってヴェーダを学び終え、彼の責務にもとづいて子孫をもうけ、能力にしたがって犠牲を捧げて供犠祭を行った時、彼は自己の心身を解脱に向けてよい。しかし、ヴェーダを学んでおらず、子孫をもうけず、犠牲を捧げて供犠祭を行わずして、再生族[四つのヴァルナのうち上位三ヴァルナ、すなわち、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ]の男子が解脱を求めるならば、彼は沈み込む。<(p.36)

子供のころから仏道に入って修行する…みたいなのは評価されないんだね。そうすると学に限界がありそうだけど…。いや、普通の人が、宗教哲学を学ぶことが想定されてるのかな。

JRF2023/9/227936

仏教の菩薩の是認には、普通の人が悟れるというだけでなく、誰かに金を出してもらって涅槃のために専心してもそれはそれで一つの人生だ…という側への考慮もあるのかな。

JRF2023/9/222469

……。

ヒンドゥー思想には二つの潮流がある。

>その二つの潮流とは、初期のヴェーダ祭式の伝統にみられるような行動主義(pravrtti)と後代のウパニシャッドの遁世者たちの伝統にみられる寂静主義(nivrtti)とである。行動主義者たちの理想では、社会生活を送り、我々に言外に示された社会的な義務[ヴェーダ祭式の厳格な遂行義務を含む]をすべて綿密に実行することを薦める。他方、寂静主義者たちの理想では、世俗の社会から完全に身を引き、社会的義務の遂行と結びついた行為をすべて放棄し、熟考におのれのすべてを捧げることを薦める。

JRF2023/9/225458

行動主義者の伝統において推奨される規律の第一の目標は、ダルマに規定された責務をすべて遂行することによってこの世において徳を積み、死後に天界に達することである。寂静主義者の伝統において推奨される規律の第一の目標は、あらゆる業から解放された状態であると考えられている解脱の達成である。
<(p.42-43)

小乗仏教が寂静主義で、そこから揺り戻して、大乗仏教は行動主義者的になったという見方もできるのかも。

JRF2023/9/223419

Hieros Phoenix『必修魔術論』([cocolog:94417533])では、「東方聖堂騎士団」と「銀の星」団という二の系統の組織が出てきたが、この場合、「銀の星」団は儀式を重視するので、行動主義的と思うかもしれないが、実際は、個人が儀式が無駄であることを学んでいくという点で、寂静主義なのだろう。「東方聖堂騎士団」は儀式が人脈などの実利につながるという点で、行動主義なのだろう。

JRF2023/9/229077

……。

>しかしながら、ヒンドゥーの伝統ではまた、出家して解脱を求めるものたちが、家長の寛大さに物質面で依存していることを認めている。このように、すべての人にとって、超道徳的な理想である解脱を自分自身で体現することが道徳的な義務でないとしても、この理想を最もよく促進するこの社会を確実なものとする義務はある。カーストと人生の段階にしたがって行為者に義務を割り当てる伝統的なヴァルナ・アーシュラマ・ダルマの枠組みがそうであるように、道徳の要求と超道徳的なものを効果的に調和させる社会政治的な構造が我々には必要なのである。<(p.49)

JRF2023/9/228462

一人「輪廻がない」とさとっても、それを広めて人々が因果応報を信じなくなり、社会が乱れるなら、その一人の「さとり」は本物ではないということだと思う。人は因果応報を求める。「さとり」のあと人にどういう社会を遺せるかが問題なのだと私は思う。

JRF2023/9/226781

そういう意味で、現代は監視社会になりつつあるが、刑罰による因果応報がしっかりして、輪廻がないとしても問題ない社会になりつつある。これは「さとり」を積み重ねてきた結果かもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、古代から見ればある種の理想社会に近付きつつあるのだろう。

つまり「さとり」というのは、社会=ブラフマンの「さとり」を目指すべきということなのだろうか? ブラフマンがすでにさとっているというとき、時の無限の向こうにいるブラフマンはすでにさとっているが、社会は随時さとっていっているに過ぎない…となろうか。

JRF2023/9/224902

……。

ここから先はあっさり流して読んだ。

JRF2023/9/229016

……。

第3章は「推論」の章だが、以前、師茂樹『最澄と徳一』([cocolog:93262666])を読んだときに仏教の「因明」という推論方法を知ったのだが、この第3章が対象としていたのはそれだと思う。

私は、因明を現代記号論理学的に解決しようとしたが、失敗した。ただ失敗の途中で興味深い間違いをしたのを思い出した。

JRF2023/9/227202

[cocolog:93262667]
>仏教的因明的導出を可能にする様相一階述語論理を考えていたら、キリスト教の三位一体を否定する結果が導き出せてしまって驚いたが、さらによく検討したところ導出におかしいところがあってホッとした。<

逆に、このような間違いが頻繁にあって、それに対する正しい説として「三位一体」があったのだろうか?

JRF2023/9/220422

……。

この本の第5章の「世界」は、この地球にどういう場所があって…などという意味の世界ではなく、縁起論などが語られる素粒子物理学的な目で見た世界である。

無限後退などを気にするようだが、現代の我々は無限や全称記号(∀)の論理をうまくつかって、微分などを定義している。微分の微分…二階微分なども無限後退と見られたかもしれないが、それをうまく使って力学などを構築している。

JRF2023/9/221573

ただ、一方でカオスなど、無限に後退していっても、本質的にバラバラになる概念も我々は知っている。

JRF2023/9/227238

私は、そういう乱数的な部分は因果論においても本質的なものとして考えるべきではないかと考えつつある。罪を犯すということが誰かに振りかかったとき、それは不幸だが、罪の軽重に応じて十分長い期間を取れば、それは偶然の一種であったと見なし、許すべきだ。これは長い期間で見れば、それは乱数と変わらない…そして乱数と変わらなければ、因果のくびきからは離れるべきだと言える。もちろん、すべて乱数だと言って、良いことをした人が報われず、悪いことをしても罰されない…となってはいけない。それは死後などにつじつまがあわされるべきだ。

JRF2023/9/227428

しかし、それはそれとして、一つの(ブッダの)世界の原理として、乱数の原理はあると私は思うのだ。

JRF2023/9/227291

……。

>我々は苦しみ(duhkha)からの解放を目指す行為主体として首尾よくこの世界にやってくるのだが、その可能性を許容するこの世界についてどのように説明を与えるかというのが、インド哲学の理論上の典型的な課題であった。解脱の実現可能性を保証するためには、人がその結果を予測できたうえで、行為の意図的な行為者(conscious agent)として一連の出来事にかかわっていくことができるほどに確かな因果的結びつきが出来事と行為の間にあるということを我々が確信できている必要がある。

JRF2023/9/223362

そのために、インドの哲学者たちはそうした因果の諸連鎖を解脱にかかわりがあるものとしてみなすように努め、これら因果の諸連鎖の一部分として提示されたものとして因果の連関の本質を分析することに努めた。
<(p.225-226)

JRF2023/9/225698

↓の解釈は正しそうだ。

《四諦:仏教教義の提案的解釈》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_6.html
>苦諦 現世は苦である。人は前世での煩悩の咎めをうけるために、無常なこの世に煩悩の権化として生まれるのである。この世において、人の行いは常に煩悩の徴しとならざるを得ない。この世に生まれた者は釈迦といえどもこの因果に苦しまねばならない。<

JRF2023/9/228618

……。

「因果応報」は、物理学においては、「手を出せば返ってくる」という作用・反作用の法則と、「よいものはそのままいつづけられる」という慣性の法則になっている…といえるかもしれない。

物理学からレベルを上げて、生物学レベルでの「因果応報」ということになると、反作用は「なぜ生きなければならないのか」(↓などで書いた)で使ったのを思い出す。

JRF2023/9/229529

[cocolog:92999303]
>なぜ「生きなければならない」というと、かつて宇宙に安住があったことの反作用として総意として「生きたい」があり、その総意を受け継ぐために個々に「生きなければならない」のだ<

また、慣性は↓で「選択慣性」という言葉を使った。

JRF2023/9/227802

《イメージによる進化》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post.html
>選択慣性 保守性の発揮や自然変異による選択慣性。くじゃくの羽のように、そこまで大きくキレイにする必要のない物が、過去のくじゃく社会の経験または、メスの美的感覚の発現により、より特定のイメージが選択されやすくなる。昔は意味(力)があったものが、なくなるか過度になってからも、そのようなイメージが持続する。<

JRF2023/9/228363

さらに生物学を超え、人間のレベルにまで来ると、『「シミュレーション仏教」の試み』でも書いた「有神論の基本定理」を成り立たせるために、神が良いこと悪いことに死後の世界を通じてかもしれないが、つじつまをあわせるという信念が必要になってくると私は考える。

JRF2023/9/226033

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月11日)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
>因果応報の神を信じると何が良いのか? …良いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。…これを「有神論の基本定理」のように私は見なす。<

JRF2023/9/220463

……。

第6章は「自我」論だが、転生や魂に関する議論だとして、私は私の「魂の座」の理論を思い出した。

JRF2023/9/227397

[cocolog:92137624]
>>
《魂の座》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_10.html
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようになった場合、霊魂がどのように意志を持つかが問題となる。説 1. 神の記憶モデル(…)説 2. 霊的肉体モデル(…)。<

上で>生命または意思を持つとはどういうことかというのはよくわかっていない。<と述べたが、かりに科学的に意思がどのようにできているかがわかったとしても、なお、霊魂を否定できないことを説明するものとして↑の記事がある。

JRF2023/9/226331

2008年12月4日のひとこと
>《魂の座》の記事で注目して欲しいのは実は「説2」。説1の神の記憶モデルは自然法則の自動性を死後にまでつきつめると容易に導かれ、説1だけを真理とするのはカトリックとかでは実は異端なのだと思う。

(…)

それに対し説2は神の介入をやたらと認めるようで「日本人」は稚拙とみなすかもしれないが、ロジカルには、これもまた反駁できない説明であることに気付いて欲しい。いちいち神が登場して魂を「霊的肉体」に移すんだというイメージを含らませれば、自らの存在への見方は変わってくると思う。

JRF2023/9/225862

なにより、現に…

[aboutme:75920]
>意志の働きが、脳の動きによって説明できるようには、完全には、まだなっていない<。

本当に「その日」が来るかは疑わしい。
<<

JRF2023/9/226335

[cocolog:93009141]
>>そして、>死んで閻魔大王に会うというとき、人は「霊的肉体」を得ていると言えるだろう。一方で、閻魔帳が自分以上に自分を知っているというのは「神の記憶」に近い。<>ちなみに、霊的肉体や神の記憶は、アートマンのように常住不滅で同一である必要はまったくない。そうである可能性をまったく排除するものでもないが…。<

神の記憶モデル的なものとと霊的肉体モデル的なもの、どちらも可能性があり、どちらかでしかないように考えられるが、どちらもありうる「神秘」があるのかもしれない。
<<

JRF2023/9/226344

東洋にはたましいを魂と魄に分けて考えることもある。この本でも、プラクリティとプルシャの二つに分けることがある。この二つの分け方が「魂の座」と対応しているようには思えないが、よくある考え方なのかもしれない。

霊的肉体モデルで、神がお迎えに来てくれるというとき、身体から掬い出す「何か」に常に含まれるもの=アートマンがあっても良いが、この理屈ではなくても良い。上で引用した部分の繰り返しになるが。

JRF2023/9/225445

神の記憶モデルの場合も、ケガなどの欠陥は補正されて、天使のようなものとして記憶が生きる形になるのかもしれない。するとそれは霊的肉体にある程度似たものともなるのかもしれない。両者は案外近い概念かもしれず、しかし、別と考えることで魅力的なストーリーができるものかもしれず…難しい。

「魂の座」理論に対して、インドの考え方は、神を登場させるのではなく、その代わりに原理・法則(ダルマ?)が作用して転生が起こるとする。

JRF2023/9/224174

人は大人になると、世話をされることが少なくなる、自然法則と相対して生きる。だから、霊的肉体モデルのような神の「世話」を想像しにくくなるのかもしれない。そういう意味で、インドの原理による理解は、「大人の魂論」という側面があるのかもしれない。もちろんこの場合、大人だから良いということではない。

JRF2023/9/229338

……。

>仏教徒たちは「無我(anatoman)」説を主張し、「私」という語が何らかの実体を指示することを否定する。むしろ、人は、長きにわたって様々な因果関係によって連結された一過性の心理的物理的要素の束(bundle)にすぎないとみなされた。<(p.246)

仏教の中観派はある意味、無我観を徹底した空の理論を持っている。それが、魂の輪廻の問題をどう考えるか。輪廻はあるとするのだが…。

JRF2023/9/221292

>瓶、布、莚、軍隊、森、花環、木、家、車、小屋などのものは、人々によって共通して語られるようなあり方で存在していると理解されるべきである。なぜなら、ブッダはそういったものに関して世間と議論をしなかったからである。さらに、荷車の所有者と荷車の構成部位、属性を保有するものと諸属性、執着や欲望をもつ人々、諸特徴の基体と諸特徴、燃料とそれを燃やす火といったものに荷車の分析を適用することによって、人はそうしたものが七つのうちのいかなるあり方でも存在していない(…チャンドラキールティ(七世紀)による自我に関する七重否定(p.277)…)ということを理解する。

JRF2023/9/227444

しかし、そのような分析の対象とならない限り、それらのものは別のあり方で存在する。すなわち、世間の人に良く知られているという点では存在している。(『マディヤマカ・アヴァターラ(Madhyamakavatara * 入中論)』)
<(p.278)

JRF2023/9/221007

輪廻があると世間には知られている。…世間は輪廻があると思っているべきで、それは方便かもしれない。それと同時に、人間がそういう「一過性の心理的物理的要素の束」であっても個人として存在するように、魂もあるとは言えるのかもしれない。…ということか。

JRF2023/9/228379

……。

第7章の「究極的存在」についてはブラフマンとアートマンについて、「梵我一如」がどうなのかという話が展開されてると思う。

「梵我一如」については、梵我一如が胎児の感覚から来ていて、人は胎児のときの不如意からまず世界=神に人格性を見出し、神の人格性=意志性から私の人格性=意志性を発見するから、神は人格神なのであり、梵我一如が奥義的真実と感じるのだ…いう話を以前『ヒンドゥー教の本』を読んだ([cocolog:94238182])ときしている。

JRF2023/9/223114

この章を読んでるときは↓を思い出していた。

《神は至善か、暴君か》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_8.html

《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html

JRF2023/9/228457

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