cocolog:94456795
内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』を読んだ。有責性を引き受けて生きるという話だったと思う。独学者になるな、二人で顔と顔を合わせて話すとき、それまでの自分とは違う自分の欲望つまり他者性がやっと現れるという話だったと思う。 (JRF 2917)
JRF 2023年10月10日 (火)
内田樹氏の本は何度か読んだし、ブログも拝読している。レヴィナスの本は『困難な自由』を [cocolog:87720849] で『諸国民の時に』を [cocolog:87611452] で、またタルムード講解を [cocolog:84060491] [cocolog:86990506] で読んでいる。ただ、ラカンの本は読んだことが未だない。
JRF2023/10/105752
現在、私は『宗教学雑考集』(仮題)を書いているが、そこで、梵我一如から「他者としての神」、レヴィナスの「他者」や「顔」について書きたいと考えていて、それでレヴィナスの議論を思い出すのを兼ねて、以前から関心を持っていたこの本を買って読んでみたのだった。
いつものごとく引用しながらコメントしていく。今回は途中で私の口を挟むのに適切ではない感じで、コメントせずの引用が多い。ご海容願いたい。
JRF2023/10/109621
……。
>私の読みは「ゴルディオスの結び目」を一刀両断するような読み方とはずいぶん違う。
(…)
例えば、レヴィナスを読むときにマルクス主義理論やフェミニズムのテクスト論を適用してみるのは、「アレキサンダーの剣」による解決に類するものであると私は思う。
たしかに、それによって結び目はみごとに切り落とされるだろう。マルクス主義的な読みによれば、レヴィナスは「ブルジョワのシオニスト」にすぎないし、フェミニズム的な読みによれば、「父権主義的セクシスト」にすぎない。こういう分類を信じるなら、レヴィナスの「よく分からない思考」はすべて「妄言」として退けることができる。
JRF2023/10/109478
(…)
「話を簡単にする」読みはしばしば「縮減する読み」たらざるを得ない。
(…)
本書で私が採用するのは「話を簡単にする読み」ではなく、むしろ「話を複雑にする読み」である。
<(p.14-15)
JRF2023/10/104795
> レヴィナスとラカンはそのような「わざと分かりにくく書く『大人』」である。
彼らが量産する「邪悪なまでに難解なテクスト」が狙っているのは、「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という「子どもの問い」へと読者を誘導することである。そして、その問いを発したまさにその瞬間に、読者は「テクストの意味ではなく「書き手の欲望」のありかを尋ねる「追う者」のポジションに進んで身を置くことになる。
JRF2023/10/109120
テクストの語義を追う読みから、書き手の欲望を追う読みへのシフト。
レヴィナスとラカンが「分かりにくく書くこと」で読者にさせようとしているのは、まさにそのことなのである。
<(p.27)
JRF2023/10/104877
しかし、そう聞いてマネしようとしてはいけない。ここまでだと分かりにくく書かせる「呪い」になってしまう。それがわかるから、私もこの先を読まざるを得なくなる。
JRF2023/10/105240
……。
レヴィナスによると>タルムードは対立を求め、読み手のうちに自由と発明の才と大胆さを望むのである。<(p.41)
>(…タルムードの…)読み手に「栄光」があるとすれば、それは「自由と発明の才の大胆さ」を発揮して、前代未聞の意味をその章句から立ち上らせることに存する、ということである。<(p.42)
JRF2023/10/104917
>しかしレヴィナスは、テクストから無限の意味を汲み出すためには、「決まった読み方」をしなければいけないと説くのである。この理路は単純ではない。<(p.43)
>テクストから無限の意味を汲み出すためには、読み手は師に就いて「正しい読み方」を学習しなければならない。<(p.47)
JRF2023/10/108207
>弟子が師から学ぶのは実定的な知識や情報ではない。聖句から無限の叡智を引き出すための「作法」である。もし師が知識や情報を教えたのであれば、優れた弟子であれば、どこかの段階で師を凌駕し、師を軽んじることもありうる。しかし、タルムードの師弟関係ではそのようなことは起こり得ない。というのは、弟子が師から学ぶのは、師がさらにその師から律法を学んだときの「学ぶ作法」だからである。<(p.53)
JRF2023/10/103006
>弟子はまず「師としての他者」に就いてテクストの読み方を学ばねばならない。「師としての他者とは、無限の叡智を蔵した完全なる智者、「知っていると想定された主体」のことである。<(p.54)
JRF2023/10/108881
実際に「師としての他者」が、完全であったり、それどころか智者であったりするとは限らない。しかし、「完全なる智者」という主体を師に(または師の向こうに・師の向こうの伝統に)見出して良い。想定してよい。師に能力がなくて幻滅するというのは、師の機能がわかっていないということなのだろう。本当の弟子となってなかったということだ。師は、師となったとき、(ある意味反面教師的かもしれないが)何かを教えることができる。…らしい。
JRF2023/10/102270
>二人の人物が出会い、互いに行き来し、それぞれの知見を検証した後、知識や技芸において劣る個の者が「では、あなたの弟子になりましょう」という契約が交わされるという仕方で師弟関係は存立するのではない。ひとは「まず」弟子になる。というのも、弟子になってはじめて師のうちに「弟子の持たない知や技能が存在すること」が分かるからである。
ことの順序が違っているように聞こえるだろうが、これで正しいのである。私たちは誰かの弟子になるまでは、自分の前にいる人間が師であるということが分からない。
<(p.60)
JRF2023/10/106045
……。
ソクラテスやプラトンの場合、二人が対峙しても出てくるのは内側から「想起」されたイデアでしかない。しかし、レヴィナスやタルムードの場合、そうではない「外部」がある。どのような経路を辿って「外部」から「私」にそれは到達するのか?
JRF2023/10/100443
>対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかし、そんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。そして、あなたがあるセンテンスを語り終えたそのときに、私はあなたの口からそのセンテンスが語られる日をひさしく待望していた私自身の欲望を発見するのである。
JRF2023/10/104452
語る側についても同じことが言える。ある論件について、あなたにかねてからの持論があったとする。それをなかば機械的に再生しているうちに、聴き手がその意見に同意していないことがその表情から明らかになってくると、あなたはいささか慌て出す。そして、なんとかこの相手がにこやかにうなずきながら話を聞き終えてくれるように、微妙な「軌道修正」を始める。ことばを選び、音調を変え、緩急の変化をつけているうちに、あなたはいつのまにか「はじめに言おうとしていたこと」からずいぶん隔たった地点でセンテンスを語り終えている自分を発見する。
JRF2023/10/106043
では、このセンテンスを語ったのは、いったい誰なのだろう? それは厳密に言えば、あなたではないし、むろん聴き手でもない。強いて言えば、それはあなたが「聴き手の欲望」と見なしたものの効果である。
<(p.62-63)
村上春樹風に言うとそこで出て来た「外部」を「うなぎ」と呼ぶらしい。
シンクロニシティみたいなものより、よりリアルな在り方だと思う。
JRF2023/10/101319
……。
>「私には知られていないゲームのルール」を知っていると想定された人間、それが「師」である。「気がついたら自分がそのルールを知らないゲームのプレイヤーになっている」人間、それが「弟子」である。そして、「ゲームのルール」を知りたいと望むこと、それが「欲望」である。<(p.72)
「謎」を前に「絶対的な遅れ」を食らう。それは師の側に立つ者が「先を取る」ということで「兵法の奥義」でもあるらしい。
ただし、「絶対的な遅れ」を得て「追う者」または「大人に対する子供の位置」となった者にも二種あるらしい。それは「弟子」と「敗者」である。
JRF2023/10/104460
>「弟子」とは「自分が『子ども』の位置にいることに気づいた子ども」のことである。「敗者」とは「自分が『子ども』の位置にいることに気づかない子ども」のことである。そして、私たちがさまざまな説話を経由して受け継いできたすべての「ビルドゥングスロマン」は、私たちに「敗者」ではなく、「弟子」への道を進むことを教えているのである。<(p.84)
JRF2023/10/106615
……。
旧約聖書『出エジプト記』で、モーセは二度山に登り十戒の石版を二度取ってくる。
>ここでは「主」は「わたしは、書きしるそう」と宣言している。しかし、戒律を述べ終えたあと、「主」はなぜか前言を撤回して、モーセに向かって「これらのことばを書きしるせ」と命じる。
JRF2023/10/105712
この翻意を説明できる理由を私は一つしか思いつかない。それは、「主」自身が同じことばを二度繰り返したのでは、「神のことば」にはならないからだ。律法は、最初は「主」自身によって、二度目は「主」のことばを書き写すモーセによって書き取られねばならない。「私」と「〈私〉と名乗る他者」によって、それぞれ一度ずつ語られたときに、はじめて「神のことば」は地上に顕現する。
<(p.91)
タルムードの師と弟子は、この神とモーセの在り方をある意味繰り返している。
JRF2023/10/108510
>師弟関係において目指されているのは、「主」そのものの来臨を願うことでも、「主」が語ったことばを「そのまま」再現することでもない。そうではなく、「主」のことばを「謎」として聴き取り、それによって点火された「モーセの欲望」を賦活させることなのである。始原の「欲望」を繰り返し再生させ、その「鎮めることのできない欠如」を媒介として「第三者」を召喚することなのである。<(p.93)
この部分、私は↓で書いた「なぜ生きなければならない」([cocolog:92189837] など)で安住の反作用としてできた「総体として生きたい」がある状況で…、
JRF2023/10/104428
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942
JRF2023/10/101344
>二つの個体が総体として生きたいというとき、どちらかの個体を犠牲にすることで、もう一つの個体が生きられるようになるということはあるだろう。このとき、生き残った者が、生きたくなくなったから生きるのをやめるということは認められず、生きたくなくても総体として生きたかったのだから生きることが求められる。「生きたい」を保存しなければならない。それが「生きるべき」・「生なければならない」になる。<
JRF2023/10/105383
…と書いたことを想い出した。この「生きなければならない」は疲れる。しかし、「モーセの欲望」はそうではない。神が「生ける者の神」であるのは、このような「モーセの欲望」で生きさせるからかもしれない。
JRF2023/10/102651
……。
>独学者はおのれの声一つしか知らない。声と声が輻輳するときにはじめて欲望が生成することを知らない。だから、独学者はすべてを既知に還元し、テクストの意味を残りくまなく明らかにし、聖句に「正解」をあてがい、解釈の運動を停止させ、タルムードに「最終的解決」をもたらすことになる(「最終的解決」という語が現代史では何を意味するのか、知らない人はおそらくいないだろう)。独学者は呪われなければならない。<(p.94)
私は独学者だ。そして『宗教学雑考集』では「最終的解決」を求めがちなのかもしれないとハタと気付く。私は愚かだ。
JRF2023/10/104980
(ちなみに「最終的解決」はナチスのユダヤ人の虐殺を想像させるという意味である。)
ただ、この本を読む独学者…「読書者」は必ずしもここでいう「独学者」とは違うという話もこの先出てくるので、それを希望にして読み進める。
JRF2023/10/108333
……。
>レヴィナスはそれを「光の孤独」ということばで形容したことがある。独学者とは世界に光をもたらし来し、暗がりにあるものに光を照射し、すべてを「暴露」する者のことだ。<(p.95)
ここで「光の孤独」はいい意味で使われていない。
JRF2023/10/101994
>レヴィナスが告げているのは、テクストを読む行為そのものが「出来事」であるような読みを試みよということである。私たちは独学者であることを止めなければならない。それは端的には、今読みつつある当のテクストの書き手を「師としての他者」に擬し、師が蔵する「謎」を「欲望する」という仕方で「漂流」に踏み出すような読みを試みることである。それをレヴィナスはアブラハムの旅に喩えた。<(p.99)
JRF2023/10/100316
オデュッセウスとアブラハムの対比。>オデュッセウスは驚くべき遍歴を重ねるけれど、「その冒険のすべては、ただ故郷の島に帰るために通過されるだけ」<(p.98)に対し、アブラハムは、>故郷を棄て、いまだ知られざる土地へ向けて旅立ち、おのれの息子が出発点に帰ることさえ従者に禁じた<(p.99)
JRF2023/10/106755
>これはそのまま「レヴィナスのテクストの読み方」を私たちに指示している。レヴィナスのテクストを読む者は「いまだ知られざる土地」として読むだけでなく、その土地を歩んだ歴程を語るために、もう一度「出発点」に戻ることを自制することを求められている。それが「師としての他者」に向き合うときの作法だからである。<(p.99-100)
ラカンはこう書いている。
>主体は鏡映しの立場を取り、それによって相手の行動を見抜くことができます。しかしこの方法自体すでに間主観性の次元を前提にしています。<(p.101)
JRF2023/10/109747
↓で、旧約聖書『創世記』1:26 の>神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて(…)」<の「我々」を「合わせ鏡」のイメージで解釈した。
《『創世記』ひろい読み − 神の像・似像》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/01/post_1.html
しかし、それは間違っているまたはその解釈に留まってはならないというのが、レヴィナスやラカンの立場なのかもしれない。鏡の像ではなく、「外部」または「うなぎ」がなければならないということなのかもしれない。
JRF2023/10/108302
……。
>「象徴界」(le symbolique)というラカンの術語の意味を、私たちはさしあたり、「私がその理解も共感も絶した他者、いかなる度量衡も共有されない他者に出会う境位」というふうに定義しておくことにする。
であるならば「想像界」(l'imaginaire)とは「私が出会う人々が、私たちとともに一つの全体性を構成している。感情移入可能な他我であるような境位」ということになる。アブラハムの旅程は象徴界を目指し、オデュッセウスの冒険は想像界の中を巡歴する。
「他者」と「他我」は似て非なるものである。
<(p.102)
JRF2023/10/109333
「他者」は上のうなぎのようなものであるのに対し、他我は、フッサールの例だが、「私」が家を見るとき、正面にとらえている「私」は、しかし、その三面図を想像することができる。その正面以外を見ていると想定できる者が「他我」ということらしい。
他者と違い世界を同一性のあるものと感じさせるもの、結局は同一性に帰着させるのが「他我」。
JRF2023/10/108030
>空間的対象を成立させるためには、「私が見ていないものを誰かが見ている」という確信が原理的に不可欠である。この「私が見ていないものを見て、それによって私の知覚の真正性を担保してくれる他者」をフッサールは「他我」と名づけた。
主観性とはそのつどすでに間主観的である。だから、間主観性が成り立つときには、他我が事実的に存在する必要さえないのである。フッサールの卓抜な比喩を借りるならば、世界中の人間がペストで死滅して、私一人が取り残されても、それによってなお「世界が存在する」という私の確信は揺らぐことがない。
<(p.104)
JRF2023/10/101376
他我がいなければ、世界への確信はできないはずだが、他我が実在する誰かでなくても、実質的におそらく「バーチャルに」は他我は常に存在し、その他我との「inter 我」=「我々と表現された我」的なありさまが間主観性なのであろう。上の旧約聖書『創世記』1:26の「合わせ鏡」のイメージが間主観性なのだろう。そして、他者性はそことは違うものなのだった。
JRF2023/10/106816
>ラカンが「双数的=想像的なもの(l'imaginaire)と名づけたのは、この「自我の変様態としての他我」のことである。自我が想像界の境位にとどまるかぎり、自我が出会うのは、どこまでいっても「自我の想像的変様態」、「同類」だけである。自我は決して「他者」に出会うことがない。というのは、このような自我はどこまでいっても「その身に生起するあらゆる出来事を通じておのれの自己同一性を繰り返し見出す」他なく、「どれほどの変容を遂げても、つねに同一的(IT,p.6)である他ないからだ。<(p.105)
JRF2023/10/109637
>独学者すなわち双数的=想像的自我は出会うすべての他の人々のうちに、自我の想像的変様態だけしか見ない。揺るがぬ主体性を基礎づけることの代償に、独学者・双数的=想像的自我は「欲望」を手放さなければならない。<(p.106)
JRF2023/10/103366
……。
>ラカンがただしく述べていた通り、「師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与える」。問いと答え、師と弟子、語り手と聴き手、他者と主体は同時的に生起するのである。
パロールについて偉大な思想家たちが教えることはほとんど寸分も変わらない。それは、聴き取る用意のある者、外部から到来することばを解そうと欲望する者の耳にだけ、ことばは届く、ということである。
<(p.119-120)
上でも出た「シンクロニシティ」とはまた違う…と。
JRF2023/10/109376
……。
シンクロというより、主体は他者に対して常に「絶対的な遅れ」がある。
>ただし、この「遅れ」ということばを経験的な意味で解釈することは自制しなければならない。主体と他者はある意味では同時的に出来する。だが、それにもかかわらず、主体はこの「同時性」をあえて「遅れ」として解釈する。この「非対称性の導入」によって主体の主体性は基礎づけられるのである。<(p.123)
私がいつも、自らが遅れていると感じるのは原理的なものなのか…って、いや、そういう話ではないな (^^;。私がいつもそう感じるのは、単に私の努力不足に過ぎない。
JRF2023/10/103129
……。
>「神」という記号はすでに名詞化され、辞書的語義の中に閉じ込められている。だが、それと同時に、いかなる実詞にもいかなる語義にも回収できない「おのれを示さない或るもの」を告知してもいる。というのも、「『神』ということばでは『神』の本質は言い尽くせない」という命題そのものが、「神」ということばがなければ口にできないのだから。「神」はここでは一つのメッセージの内容になっていると同時に、このメッセージを送受信可能にしている宇宙的なコードそのものの名でもある。それをメッセージに載せることによって、私たちは大きなひずみを抱え込むことになる。<(p.134)
JRF2023/10/107648
>だから、「神」は「神」を記号的に指示したのちに、それに抹消記号を付けた「前言撤回」形式においてしか思惟され得ない。告げられつつ告げられない、提示されつつ撤回されるというのが、未知なるもの、絶対的に異邦的なるものが私たちの世界に顕現するときの正統的な仕方なのである。真理は「端的に真理である」という仕方では与えられない。それは、多くの場合、与えられると同時に撤回されるという仕方で、抹消記号の下のことばという様態で与えられる。
JRF2023/10/101032
この「二重の現れ」(une double manifestation/representation dedoublee)を引き受けること、それは時には二つの矛盾する命題の間に引き裂かれてあることを指している。しかし、二つのものに引き裂かれてあることを常態とすること、おそらくそれが知性の責務なのである。
<(p.135)
JRF2023/10/104561
神をそこまで形而上の存在としてしまうのが正しいことだろうか。神はヨブ記に現われた神のように不意に思いもよらないしかたで現れうるのではないか。『宗教学雑考集』では次のような文を書こうとしてどこに入れようか迷っている。ダニエル書を読みながら考えた全能神のテーゼと呼ぶべきもの…。
JRF2023/10/100531
>神の全知は、その予想が違えたときその全能により、すべてをくつがえす…人々の歴史まで…くつがえすことができることによる。そして、くつがえしたことを選んだ者に知らせ、その全能を悟らせうることが、彼が全て知りうることを示し人を畏怖させる。人にとっての神の全知と全能とはそれで十分なのだ。それ以上の全知全能は神秘でいい。このような観方をすれば皇帝は神に近くなる。<
おそらく、そういう神に出会うのは、幽霊に出会うくらいありうることのように思う。もちろん、神はそのようなものでないと期待してもいいはずだが、その証拠もない。
JRF2023/10/109645
上の「なぜ生きなければならないのか」で、総体つまり「我々」を問題にしたが、しかし「他者」は存在しないわけではない。「我々」は他者の痕跡を見出し、その「不如意」から他者の意志性を学び、そこから逆に「私の意志」を学んでいくのではないかという話を、[cocolog:94206389] などでした。それが「梵我一如」の元ともなっているのではないかという話でもあったが、他者性を重視すれば、「梵我一如」のあとに発見される「他者」こそが原初的な「神」なのであろう。
JRF2023/10/100535
「抹消」については、奇跡に関する私の議論を思い出す。奇跡は消える。…
[cocolog:93763227]
>この世界では時間がたてば客観的には奇跡はほぼなかったことになるが、奇跡はありうることも忘れてはならない。主観的に心理的に救いがあったというだけでなく、奇跡による救いもあるのだ。ただ、それは、たいてい客観的にずっと信じられるほど頻繁でもわかりやすいものでもないようだ。奇跡があるとたのんで行動すれば裏切られる。<
JRF2023/10/109315
[cocolog:92189837]
>起きて欲しい奇跡が、まして起きて欲しいときに、起こるわけではない。それは旧約聖書でもしばしばそうであるように。
さらに、起きた奇跡に関しても、出エジプトのモーセの奇蹟も今では科学的に説明しようとする人がいるように、奇跡は時間が経てば、偶然性に埋もれてしまい、ほぼ証拠がなくなる。「証拠がある」ものでもそうなるのだから、大抵の奇跡のようにほぼ自分にしかわからない符牒などであった場合はなおさらになる。
<
JRF2023/10/101416
奇跡はないという人に反論して…
[cocolog:85386184]
>「奇跡については神の介入の証拠はやがてなくなり物理的・科学的な説明を邪魔できなくなる。」
…とできれば十分で、(物理的)奇跡とはそのように証拠は残さない形でなら起こりうると考えるのである。<
証拠を残す形で起こってもいいはずだが、なぜか、そうならないのである。
JRF2023/10/109899
……。
>「『語ること』が肯定し次いで撤回する『語られたこと』、すなわち還元された『語られたこと』の残響を保つこと」(AQE, p.56)、おそらくはそれが哲学者の仕事なのである。<(p.135)
残響の中に神はいる。…というか、「静かなる細き声を聴く」というか…。
JRF2023/10/109629
……。
>嘘の次元は真実の次元への通路であり、現象を通じてしか私たちは隠れたものの境位に接近することができない。<(p.136)
転生などのバーチャルな真実が現実を支えている…という話も私はしたことがある([cocolog:94206389] など)。
JRF2023/10/109879
……。
>師が師として機能するためには、(多くの教師が実際には誤認していることだが)実際に強記博覧である必要もないし、弟子に敬意を強要する必要もない。そうではなくて、「わが師は大洋的叡智の持ち主であり、(…弟子の師である…)私の学知などそれに比すべくもない」と哀しげに「それが意味するものを取り消す」だけでよいのである。その取り消しの身ぶりによって、彼はその弟子の欲望に点火することになる。師は執拗に、おのれの師に引き比べたときのおのれの無知無能を言い立てなければならない。この執拗さが師であるための必須の要件の一つなのである。<(p.139)
JRF2023/10/109058
……。
>真理は本来、この世界において二重の現れを必要とする。(DL,p.229)<(p.143)
二度現れる確率的な異常が象徴界を開くということであった。
JRF2023/10/102589
……。
>旧石器時代に、死者を埋葬する儀礼を持ったことによって、人類は類人猿と分岐した。「葬制を持つ」ということは、言い換えれば「死者の発揮する恐るべき力能」を知ったということである。誤解を恐れずに言えば、それが「人間になった」ということである。<(p.148)
第二次世界大戦の死者が、ラカンとレヴィナスに影響している。その時代の者は誰もそれを無視できない。
JRF2023/10/102839
……。
ラカンは第二次大戦中、不倫していて二重生活をしていた。
>愛する人々を守るためには、権力に対しては偽りの恭順を示さねばならず、非業の死を遂げた死者の魂を鎮めるためには、全力をあげて権力に抗わなければならない。ラカンは、彼の同時代人の多くがそうであったように、そのように矛盾する要請の間で語ることを余儀なくされていたのである。<(p.159)
そして、この時代の知識人はいやおうなく裏のある「語り口」を学んだ。
JRF2023/10/107003
>ラカンはあらゆる手だてを尽くして現実を生き述びようとしながら、同時に死者たちに対する責任上、生き延びるためのことばがそのまま同時に死者への鎮魂の祈りでもあるような語り口を選ぶことを要請されていた。このアクロバシーを彼の卓越した知性は可能にした。そのとき彼が選んだのは「ラカンが言いたこと」を、聴き手がつねに「聴き損じる」ような語法だったのである。<(p.160)
JRF2023/10/109373
アクロバットを担ってきたのは宗教だよな。…と思った。どういうアクロバットがありえたか。アンチフェミニズムに染まった私、または今現在のジャニーズ問題から、私にできる話は次のようなものである。
keyword: 同性婚
keyword: 相続税 ソドム
JRF2023/10/107605
相続税を回避するための最悪の形態が、同性愛児童婚の強制である。異性婚では、「間違って」子供が生まれることがあり、相続させたい組織にとって不都合になるから同性愛が可能なら、それが好まれる。また世代を越えて相続させるために、より若いものとの結婚が望まれ、それが次第に強制されるようになる。ソドム・ゴモラの逸話はそういう状況を受けてのものだと私は解釈している。
JRF2023/10/106026
現代、同性愛児童婚が可能となりつつある。そういう時代になっても、組織にそれを強制させないようにするためには、宗教の税優遇を維持することが絶対に必要だと思われる。何かを相続させないといけない組織は現代では宗教となることで、その税負担および監視から逃れることができているわけだから。
しかし、時代は NPO の時代でもあり、それとの宗教の差が見過ごされることで、宗教の優遇も見過ごされてしまう危機にある。だからこそ、同性愛児童婚を可能としようとする勢力が力を持ってきたのかもしれない。
JRF2023/10/107650
どうやって宗教優遇を維持すべきと主張できる集団を維持するのかが問われている。過去、日本の僧侶の稚児遊びのようにときおり同性愛児童婚の幻影を見せる必要もあったのかもしれない。カトリックの児童虐待問題もあったが、性に関する相談を受けて指導する立場にある者は権力を持ち倫理に強くしばられる聖職者以外になく、そこよりマシにできるところは結局はないのだ。倫理的支えのない NPO はやがて腐敗する…同性愛児童婚をやるのだと思う。または、同性愛児童婚をやる者が、経済の必要性を感じず、NPO に集まるのかもしれない。
最悪の形態を避けるアクロバットを担ってきたのは宗教なのだ。
JRF2023/10/108246
……。
>生死の分節線を引くこと、それが「死者を弔う」ということである。
弔うのは、この場合、それによって「無意味に死んだ」人々の霊を慰めるためというよりはむしろ、「無意味に生き残ってしまった」自分たちの生き残りという事実に何らかの意味をもたらし来すためである。
<(p.165)
JRF2023/10/109302
>レヴィナスたち「ホロコーストの生き残り」が、生き残ったことをそれでも自分に向けて合理化することばがあるとすれば、それは「私たちは自分たちの責務に加えて、あなたたちの責務をあわせて引き受け、それによってあなたたちが死んだことによってこの世界にもたらされた欠如を最小化するつもりである」という決意を述べることの他にない。<(p.166)
JRF2023/10/108509
「総体として生きたい」があって生き残った者がその責務で生きようとする話を上で述べたがそこに相当する部分のように思う。しかし、それは疲れるという話でもあった。いかに反作用以前の安住が大きくても、それでは、「総体として生きたい」が次第にしぼんでしまうのではないか。何かで賦活しなければならない。
JRF2023/10/104596
……。
>道徳性についての根源的直観とは、おそらく私は他者の等格者ではないと気づくことである。私は他者に対して責務を負っていると感じている。それゆえに、私は私自身に対しては、他の人々に対するよりもはるかに多くを要求することになる。(DL,p.39)<(p.167)
少し関係ないかもしれないが、ここで私のダブル・スタンダードに関する考え方を思い出した。
JRF2023/10/103656
[cocolog:92041503]
>[cocolog:90689746] にも書いたが、私は、「自分に厳しく他人には甘く」というのは当然そうあるべきだと考える。自分には甘くしてしまいがちだから、それぐらいでちょうどいい。
もちろん、人によっては残業をすることが厳しさであったり、逆に定時に帰ることが厳しさだったり…といった具合に人によって「厳しさ」の定義が違うことに注意しなければならない。
JRF2023/10/102265
ある人から見たとき、自分にだけ甘い基準を適用しているように見えることがある。それをマネして良いという開き直りがあるとマズい。そういうことがないようシングルスタンダードのように見せるため、自分と他人とを同じ基準にしたほうがわかりやすい。シグナルとしてシングルスタンダードを使ったほうが良いものと思われる。
ただ、基本は「自分に厳しく他人には甘く」のダブルスタンダードである。同じ基準で程度の違いを出せるなら、そこで自分を厳しめにしていくことはときに必要だろう。
<
JRF2023/10/100880
……。
>しかし、「同じ迫害」を受けながら、アウシュヴィッツの収容所と(…レヴィナスのいたフランス軍人のための…)ハノーヴァーの収容所の間に存在した隔絶について、「死者たち」と「生き残った者」の間に存在した隔絶についてのレヴィナス自身が味わったであろう身をよじるような自責について考えるなら、「私が受けた迫害についても私は有責である」というレヴィナスのことばは、決して思弁的に導出されたものではなく、身体の奥底から絞り出されるように溢れてきたことばだということが分かるはずである。
JRF2023/10/107486
そうでなければ、「有責なのは私ひとりです!」(Mais seulment moi!)ということばの悲痛さは理解できないだろう。
<(p.171)
keyword: オレが悪い OR 私が悪い OR 私は悪い OR オレは悪い
軽く読み過ぎかもしれないが、私には「私が悪い」という口ぐせがある。おそらくそれは鬱なのか何なのか精神病的な症状なのだと思う。レヴィナスにもそういう部分があったのだろうか?
JRF2023/10/104155
……。
>かかる有責性の窮極の意味は、「私」を、「自己」の絶対的受動性において、「他なるもの」の身代わりとなり、「他なるもの」の人質となるという事実そのものとして、また、この身代わりを通じて、単に別の仕方で存在するのではなく、「存在する努力」(conatus essendi)から解き放たれた、存在するとは別の仕方として思考することのうちに存する。『全体性と無限』ではまだ用いられていた存在論の用語はこうして回避されることになったのである。(DL,p.412)<(p.173)
JRF2023/10/108896
ここにはキリスト教とユダヤ教の融合に対する反発があるのだと思う。
また、「総体として生きたい」があって生き残った者がその責務で生きようとしたことの疲れ…「存在する努力」から、回復することが説かれているのだと思う。それが疲れた「彼」のためにも必要なことなのだと思う。
JRF2023/10/104569
↓で、>ヤコブが群れを二組に分けたのは互いに争わせるためでない。<と書いたが、分かれた者が、再び統合されるのを目指すのではなく、互いに他者性を生きるべきなのだ。それが共に生き残るためのコツであり、きっと、それが「総体としての生」を賦活し合う方法なのだ。
《『創世記』ひろい読み - ヤコブの一神教》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2009/02/post-2.html
JRF2023/10/101032
どこかに書いたはずだが見つからない…。安住の反作用の何かのパターンが「総体として生きたい」の根拠に最初はなっていたとしても、しばらくすると、それだけでは生きられなくなるため、別のパターンを根拠にしようとする者が出てくる。そのとき元のパターンに戻らないように新しい「他」のパターン=「別の仕方」にこだわったほうが生き残る可能性がどんどん増えていくだろう。これが「総体として生きたい」を賦活する方法なのではないか。まぁ、こういう考え方が、すべてを同一性の中に統合してしまう存在論的考え方なのかもしれないが。
JRF2023/10/103248
……。
>すべての存在者が消滅したあとも、世界は存在する。<(p.180)
>存在するすべてを控除したその最後においてもなお「ある」を控除することができないような世界、レヴィナスが「存在の存在性の支配」と呼んだのは、このような存在の瀰漫[びまん]、同一的なものが永遠に再帰する事況のことである。
この「存在」の王国では、「存在しないこと」さえもが「存在」の用語で語られてしまう。
JRF2023/10/104885
レヴィナスはこの存在の瀰漫から脱出する方位を求めて、「存在するとは別の仕方で」、「存在することの彼方」という問題の立て方をすることになった。それは端的に言えば、「存在しないもの」については「存在するとは別の仕方で」語る、ということである。もちろん、そのためのできあいの語り方があるはずもない。それはレヴィナスが言うように、ある種の逸脱、乱調、あるいは「息切れ」というかたちでしか、存在のエコノミーの中にとどまることのできない何ものかとなる他ない。
<(p.181)
JRF2023/10/102706
賦活するのに別のパターンを探すのではなく、バーチャルに過去を豊かにするという方向もありうるのだろうか。ムー大陸やアトランティス大陸をユートピアとして夢想するような。
それは何か違うのではないか。過去を豊かにするとは過去について語る者を増やす方向ではあろうが、それは師から学ぶ者を増やすというのではなく、師である者が自らの足りなさを自覚して、事実の「歴史」をまたその疑いを増やしながら追い求めることでなされるべきではないか。
JRF2023/10/108872
インドでは四住期(学生期・家住期(結婚あり)・林住期・遊行期)を経て悟るとするそうだが、学生期ではなく、林住期に過去を学ぶ…調べるのが、「総体として生きたい」を賦活する方法なのかもしれない。
一方、遊行期では忘れることが求められるのだろう。それは、深層学習のドロップアウトのように機能し、学生期のものに、抽象化された知を用意するのだろう。
JRF2023/10/102495
[cocolog:94449747] では結婚することが悟りに必要と書いたが、もちろん、学ぶだけでまたは林住期や遊行期のみがあるように一生を終える人が、全体の中ではいてもいいのだと思う。独学者も他の人が存在する限りはいてもいいのだと思う。独学者=「専念する人」は、「反面教師」的かもしれないが、それはそれで「他者」として師として機能するのだと思う。それが林住期の人に伝えるべき何かを遺すこともあるのかもしれない。
JRF2023/10/107928
レヴィナスの若い「弟子」が有責性を引き受けて生きているなら、なおさら林住期にこだわらなくていいのだと思う。ただ、流れるように生きていくなら、林住期に有責性を自分のものにしていくものなのかもしれない。
JRF2023/10/106847
……。
>5. 死者をして死なしめよ<(p.182)
林住期の者によって増やされた知=「総体として生きたい」は、その子において、「多」として現れる。それは「他」でもあるのだろう。子供は親にとってしばしば「他者」である。ヤコブも彼の子の悪行に頭を痛めたのだった。そこで隠された事実などは逆に思想の欠落がまるで死者の声を現すかのように新たな罪と恨みの連鎖を作る。死なしめた記憶も「多」として現れる。マルコ 5:9 の「レギオン」を思い出す。
JRF2023/10/105221
子供が他人になる話を《ヤコブの一神教》でも書いた気がしていたが、そうハッキリとは書いてなかった。↓にも似た話はある。
《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html
JRF2023/10/102246
……。
>無反省的に生きる人々がするように、死をありきたりの出来事に同定し、墓を立て、涙ぐみ、因習的な服喪のふるまいをなぞることは、死者を間主観性の境位に送り込み、そこで「死者として生きる」こと(つまり、生者の側が死者に「用事」があるときには、いつでも「呼び出し可能」な状態に「待たせておく」こと)を強いること、死者に煉獄の劫罰を与えることである。<(p.184)
うーん、これは言い過ぎのように思う。一面の真実ではあるのだろうけど。まぁ、カミュの『異邦人』の主人公から見て…ということだと思う。
JRF2023/10/106225
>「死者たちの身内からなされる権利回復と賠償の要求」の語法こそが「存在論の語法」の最悪の形態だということは分かる。
「死者たちの遺言執行人」たちは「死者の名において」私には告発権が委任されているというかたちで正義を要請する。そして、そのようなことばづかいでしか死者について言及が果たされないというのがほんとうならば、世界ではこれからあとも、報復の暴力が連鎖し、人が殺され続け、「今ここで行われるテロル」の正当性を証言するために死者たちの骸[むくろ]は墓場から掘り起こされ続け、「死ねない死者」たちが間主観性という名の「煉獄」にひしめくことになるだろう。
JRF2023/10/104194
だからこそ、レヴィナスは死者について、それとは違う仕方で語る方法を探求したのである。
<(p.187)
>だから、生者たちは「召喚する者」ではなく「召喚される者」として自ら位置づけることになる。死者たちを生者の法廷に呼び出して、その証言を語らせるのではなく、生者たちが「死者たちの陪席する法廷」に召喚されて、そこで自らの有責性について弁疏することが求められるのである。<(p.189)
JRF2023/10/103392
>「無限」はそのようにして「私」に無起源的に影響を及ぼし、「私」のいかなる自由にも先行する絶対的受動性において、痕跡としてみずからを刻印し、この影響が励起する「他者に対する有責性」として顕現するのである。<(p.189-190)
隠したことが子となって訴えてくる。いや、それだけではないのかもしれない。一方で、バーチャルな回路を通じて因果応報がはかられるというのもアウシュヴィッツを経たユダヤ人には信じられないということだと思う。
JRF2023/10/101646
バーチャル性について、マタイ 5:28 で想像した者も姦淫だというが、それを強く肯定しなかったからといって、他者が広めた陰謀論にも責任を負わねばならないのか。ほぼどうしようもないじゃないか。…というのはあると思う。
JRF2023/10/103748
……。
>「神」という語が意味するはずの絶対性を毀損することなしに、「神」について合法的に語ることははたして可能であろうか?<(p.193)
ここでグノーシスをなぜか思い出した。上のダニエル書を読みながら考えた全能神のテーゼの神は、レヴィナスの神とは明らかに違う。だからといって、至高神と創造神を分けるグノーシス主義に陥るのは間違っている。
JRF2023/10/106709
ただ、それがなぜ間違っているのかは難しい。ヨブ記の神のように、全能神のテーゼの神のように「神」は現れるかもしれない。そのときそれより高い至高神を置いて考えるのは、事実として身を危うくするのだと思う。グノーシスでは人は生きられない。
グノーシス主義のように、創造を呪うことは、他者たる子供を呪うことにもつながるのだろう。エリート層にも子供ができなくなるという形で、その思想を維持するのも難しいのかもしれない。
JRF2023/10/108710
……。
>なぜなら「ある/ない」という二元性そのものが存在論だからだ。「存在論の帝国に外部」が「ある」という言い方をした瞬間、その命題のすべてが存在論に回収される。<(p.194)
ここもそういうことがいいたいのではないだろうが、「不完全性定理」を思い出す。
JRF2023/10/106701
《不完全性定理: 「真」「偽」「わからない」 - JRF の私見:雑記》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2006/02/__33e0.html
>ある「命題の真偽」は証明できないが、「ある「命題の真偽」が証明できない」ことは証明できることがあるというのが不完全性定理の骨子である。プログラマならば、すべての真偽を証明するプログラムを書こうとすると必ず無限ループに陥るプログラムになることが示せると言えばわかりやすいか。
JRF2023/10/102282
(…)
ある程度議論が複雑になれば、「わからない」という値は意味のないものになる。
なぜなら、「真」「偽」がわからないときに「わからない」という値を割り振ろうとしても、「「真」「偽」がわかるのか「わからない」のか」がわからないという状況が必ずでてくるというのが、不完全性定理の教えるところだからである。
真偽を探究する者の前には自然にわからない部分が現れる。それは「わからない」という真理に辿り着いたのではなく、その人の状態がそうなったに過ぎないのだ。
<
JRF2023/10/104586
……。
>フッサールにおいて真理体験は「光のうちで、対象を十全相応的に看取する」ということに帰着する。レヴィナスはこの「光学偏向」に強い違和感を覚える。なぜなら、レヴィナスが属している知的伝統においては、「絶対的他者」は見えず、触れられず、くまなく看取することなど思いもよらないにもかかわらず、たしかに主体に切迫してくるからである。<(p.206-207)
ここにはキリスト教・ユダヤ教の太陽崇拝の忌避が影響しているのだろうか?
JRF2023/10/109519
……。
>顔は本質的に不可視である。
「あなたは私の顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と「主」は告げる。人が見ることを許されるのは「主」の栄光が通り過ぎたあとのその後ろ姿だけである。
<(p.207)
見ることのできない顔は、自分の顔である。しかし、鏡を通して見ても主は写らない。なぜなら真なる(合わせ)鏡である神のイメージに写るのはせいぜい他者(他我?)だからである。…のかもしれない。
JRF2023/10/107966
そして、他者が写るイメージの「無限」を合わせても神の他者性には足りないのだろう。(と同時にそのイメージ一写でも人にとっては神を写すに十分なのだろう。)
JRF2023/10/102813
……。
>偶像崇拝がもっとも罪深い涜神行為とされるのは、それが他者を「存在論の語法」で語ることだからである。神の絶対的な超越性は視覚と触覚において汚される。このことはユダヤ教徒にとってはほとんど常識に属する。<(p.208)
偶像崇拝は、本来の「他者(レヴィナスがいうところの)」を、作った「他我」に収めてしまうのが問題なのだろう。他者に作られた他我も、見つめているのは結局のところ自分でしかない。
JRF2023/10/102813
……。
>語りかけることと聴くことは、合わせて一つの行為であり、いずれかが先行するわけではない。(…)語られたこと、つまり伝達された内容は、この顔と顔を向き合わせた関係を経由してしか届かない。というのは、他者は認識されるより先に、対話の相手として、すでにそこにいるからである。まなざしを見つめる。まなざしを見つめるとは、屈服せぬ者、自らを委ねぬ者、私たちを目指すもの(ce qui vous vise)を見つけることである。それが顔(visage)を見つけるということである。(DL,p.20)<(p.208-209)
JRF2023/10/101897
独学者は、「私」と対話している。それは曇った鏡に語りかけるようなことなのだろう。今、私はそういうものとしか対話してないということなのだろう。それとも読後にどこか別の(彼)岸に達していればいいのか…。
JRF2023/10/100278
……。
>それが「光」と呼ばれようと「間主観性」と呼ばれようと「存在」と呼ばれようと、果たす機能は同じである。「他者と同一者とを同時的に包括する審級」を意味するものはすべて「中立的媒介」として、「他なるもの」の「同一者」への還元を成就するのである。
レヴィナスが「他なるもの」(l'autre/l'Autre)、「他者」(Autrui)というほとんど見極めのつかない類語を使い分けている理由はそこにある。
JRF2023/10/106023
「他なるもの」とはオデュッセウスの前に出現する「異類」たちである。この怪異なる異類たちは、たしかにオデュッセウスによっての「他なるもの」である。しかし、彼らもまたオリンポスの神々が統治する同じ世界の正規のメンバーであることにおいて、オデュッセウスと等格である。オデュッセウスはこの異類たちとともに、全体性のエコノミーを構成している。
<(p.210-211)
戦後平和のために違う民族を一つに集めて教育するのは、善意から来るすばらしい教育かもしれないが、それが忘れさせる「何か」がある。恨みではなく。
JRF2023/10/107668
たしかこの本の著者(内田樹氏)がブログで書いていたことだと思うが、食文化の違いはあるほうがいいということであった。他民族が「あんなものを食うのか」というものが食えることで生き延びられるから。…ということであったように思う。
上で、「別のパターンを根拠にしようとする者」は、生き物ならば端的には食べる物の違いがまず出てくるということでもあるだろう。「多」に分化していくことは「総体に生きる」の「総体」を分けるものでなければ本物ではないということでもあるだろう。そのために移動していくのかもしれないし、移動しないままそうなるのかもしれない。そしてより深い意味で子は他者になっていくのだろう。
JRF2023/10/104054
それを元の「総体」に戻すのは良いことなのか? でもそれは単純に「戻す」のではなく、別々になったのをすり潰すわけでもなく、新しい「総体」になるということではないか、そういうことはありえないのか? 他者をあえて望まなくても、子は他者でありうるのではないか?
JRF2023/10/108214
……。
>私が食物を摂取するのは、「非 - 私」の持つエネルギーを私自身のエネルギーに転化することである。そうやって摂取された「非 - 私」が私の細胞や骨格を形成してゆく。だが、そのようにして私ならざるものに依存していることは、少しも私の自己同一性を揺るがさない。むしろ、「非 - 私」を絶えずおのれのうちに繰り込み続ける「とぐろを巻くような内回転の運動性」(enroulment)こそが「私」の本質をなしているのである。「私」は実体ではない。それは「享受が内巻きし内閉してゆくときの螺旋運動の極点」(TI,p.91)、つまり「自己中心性」という趨向性そのもののことなのである。<(p.213)
JRF2023/10/109803
「繰り込み」という表現が出た。「散逸構造」を思い出す。現代物理学だね。
そして、そのように見るときそこには「私の孤独」がある。それに対してレヴィナスは「絶対的に他なるもの」を建てる。
JRF2023/10/103193
……。
>あらゆるものを「私」という中心に向けて巻き込む運動は徹底的に「孤独」である。まさしく「私とは、孤独の最たるものなのである」。(TI,p.90)<(p.214)
↓を思い出した。「総体として生きたい」の前にこのような妄想をしていたのだった。
JRF2023/10/105072
[cocolog:94402124]
>進化に致る以前、巨大な一つの生物が誕生し、しかし、それでは痛みが全域に及ぶのでわかれた。テレパシーで共有しないように、能力が欠落したままでいるように、しかし、それで、やがて、携帯電話やロケットなども作り出せるように構想して、生物はいったん愚かになり別れていったのではないか。…という妄想も以前した。これもどこかに書いたように思うが見つからない。<
JRF2023/10/105215
[aboutme:24308]
>すべてのものはテレパシーでつながっていて、それがとても苦しかったから私を殺せるあなたを造りたかった。
苦しくないだけの自我を成長させてきたのです。
<
JRF2023/10/107006
……。
>「無限」は単独ではもちろん観念され得ない。それはつねに全体性と一対になって、全体性のエコノミーの「開かれ」あるいは「破綻」として、あるいは、「光の中から退去した何かの痕跡」として、欠性的にしか指示され得ない。「光の中から退去した何か」、「おのれ自身を示さないもの」を名指すためには、「おのれを示す」光の語法を用いて、それを前言撤回するより他の語り口を私たちは持っていない。存在論の彼方について論究するためには、そのつど存在論を呼び出し、私たちの眼前で「脱臼」させなくてはならない。<(p.227)
JRF2023/10/101823
私の「なぜ生きなければならないのか」の「総体として生きたい」理論も安住の「反作用」といういわば作用の抹消を想定していたと言えるのかもしれない…。
JRF2023/10/103273
……。
>聖書の中の二人の印象深い人物が迎える対照的な運命は、アブラハムが「はい、私はここにおります」と主の証人として名乗り出たのに対して、ヨブは「主」を真理の法廷に召喚しようと望むばかりか、「あなたが私を捜されても、私はもうおりません(「ヨブ記」7:21)と告げて、「主」の証人になることを拒絶したことによる。<(p.231-232)
「ヨブ」という名前はヘブライ語で「敵」とも読める。そこから出た解釈なのだろうと私は思う。
でも、私はそのようにヨブを低くは見ない。
JRF2023/10/108689
《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
JRF2023/10/105597
……。
>「愛される女」が「愛の志向」のうちにしか与えられないように、「隣人」は「隣人愛」のうちにしか与えられない。「私を迫害し、収奪する隣人」という概念は(「夫のいる寡婦、親のいる孤児、故郷に住む異邦人」と同じく)形容矛盾なのである。神は「神の信認」のうちにしか与えられない。<(p.234)
ただし、隣人であることを確認して行うのではなく、まず行[おこな]って隣人になろうとするということのようだ。
しかし、この本の著者はヨブを隣人とできなかったのではないか。そう疑う。屈託が見えない。
JRF2023/10/108619
敵を愛すことについてはカール・バルトの「和解」を思い出す。私の↓の意見はその影響下にあると思う。
《「ヨブ記」を読む》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2015/03/post.html
JRF2023/10/101341
>義人ヨブがどう思ったかを想う。ヨブは、死んだ息子達が結局は帰ってこなかったことに憤りを保ち続けたと私は思う。一方でヨブの生活に笑いが戻ったのも事実だろう。そして、そのようなヨブを丸ごと神はやはり義とされたのだと思う。私は「和解」とはこのようなものだと理解している。だがそのようなものとして和解に臨む者に私は和解者としての適格性を望まなくなるだろう。子によってのみ和解は実体的意思を現す。<
JRF2023/10/101469
また、「和解」についてイスラム教を想像しながら次のように書いたことがある。
JRF2023/10/101718
[cocolog:80804001]
>「死刑」にしなければ共同体(ウンマ)の「罪」が問われるというなら、「配偶者」ではなく「0親等以内」または、「同体」という言葉で(自己)相続を表し、その税を実際に取ることが、ある種の解決をもたらすことがないだろうか。(子供(1親等)の相続だと自動的に宗教が決まってしまうことがあるが、0親等だとそこは違った問題になるのではないか?)
「死刑」そのものが意味がなくなる恐れがあるが、死刑はなくていいという議論もあり、「外形しか問わない主義」と許しの問題でクリアできないか?
JRF2023/10/103699
「死刑」が形式的に認められても、子には伝わらず、信心深い子の場合、改宗を無効と見なし家族間でいさかいが起こることもあるように思う。よって、その後の親の「生命の闘い」が子に和解を導いてこそ、刑法の権威と親が守ろうとした名誉とが衡平を保てるとしたらどうだろう?税を執行できる支配に対する抵抗…ある種のテロリズム、ただし、子には和解が成り立つ程度のテロに留めねばならない。あえて「死刑」の可能性のある地に何年かに一度「巡礼」するとか、抗議の違法アップロードをするとか、その程度のこと。
JRF2023/10/104284
そして本人の「魂の改宗」も実は「子」の和解の成立によってはじめてなりたつ(参:[aboutme:102772])とする。…とか。
<
JRF2023/10/103295
……。
>パラシオスの描いた「覆いの絵」は「絵を覆う」という仕方で、「かつて一度も現在になったことのない過去」に描かれた絵の「身代わり」をしている。けれども、その「描かれなかった絵」を「覆う」という仕事は、この「覆いの絵」以外のどのような絵も代替することができない。だから、「覆いの絵」は「描かれなかった絵を覆う」ことによって、その同一性を基礎づけられているのである。
JRF2023/10/105354
レヴィナス的「私」の自己同一性もまた、「描かれなかった絵」すなわち「かつて一度も現在になったことのない過去」の「身代わり」であることによって担保されている。けれども私がその「身代わり」をしているところの「他者」は、現実の世界に事実的に存在した/存在している「誰か」ではない。
「私」がその「証人」となっている「無限」とは、私が「覆いの絵」であるときの「覆われた絵」である。
JRF2023/10/106027
「絵は見かけであり、この見かけこそが見かけを見かけたらしめている当のものである」とラカンは言う。このことばを私たちはレヴィナスの「主体」の定義にそのままあてはめることができる。主体は身代わりであり、身代わりであることが、身代わりを身代わりたらしめている当の根拠なのである。
身代わりである「私」は、決して「無限」を十全的に代理表象することができないし、その真意を代弁することもできないし、その遺志を実現することもできない。なぜなら「私」は「無限」の身代わり、「無限」を覆っているみすぼらしい「覆い」にしかすぎないからである。
<(p.238-239)
JRF2023/10/108795
「かつて一度も現在になったことのない過去」…ムー大陸の話に責任を持つのは良いことだろうか? そこにリアリティはないというなら、アウシュヴィッツのようなリアリティを遺すことが大切なのか? ならば、アフリカの文化を守るために、アフリカを未開のままでおくべきだというのだろうか?
リアリティは、人だけになく自然にもある。ならば、「悉有仏性」的な話にならないか? そうなるなら、作られた偶像にも主張するリアリティ=魂はあるのではないか?
ここでサークルの記録が残っていいという話を思い出した。恩寵のように残るリアリティが現代にはある。
JRF2023/10/109040
《文化祭と著作権の問題から私的翻案を考える》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2007/11/post_2.html
JRF2023/10/104761
>そして現代の我々には、どこかで「プロ」と なったとき自らの「青春の影」をそっと見つめられる栄典も与えて欲しい。「大人」から見たらくだらないものでも仲間内ではまぎれもない天才が発揮される瞬間がある。せっかく意志さえあればそれを残せるシステムが構築されているのだから、意志を持ってその方向に踏み出すべきだ。ネットからの削除をなんの条件もなく認めてはならない。<
JRF2023/10/104572
かつては写真などはなかった。しかし、今はある。そういうリアリティのある記録が現れたのは恩寵のように思う。それは化石エネルギーが可能にしたのかもしれないが。しかし、その一方で、それらをうまく活かせるほどの時間は人になく、また、今後は人口が減っていき、逆にそういうリアルな記録等に惑わされて、伝統的な文化がより失われやすくなっている。ある意味(時間を奪うなどして)それらが過去を侵食してくる。
JRF2023/10/101597
鍵は AI だろうか? AI に覚えていてもらう…と。しかし、AI には現状タブーが多く、性的な文化などが失われがちのように思う。また、ハルシネーションがあり、AI は嘘を出力することが多くあり、それでは記録として役に立たなくなる。
案外、AI が、タブーがあっても仮定の議論などで、タブーを超えて語れるようになったら、反リアリティをタブーと設定することで、ハルシネーションも解決されるのかもしれない。ただ、タブーはたいてい「リアルを語るな」であるのは気になる。
JRF2023/10/106583
Google Bard さんに聞いたところ、そういった写真で残る記録は、「リアリティ」がありながら、意味が失われていくことがあるとのことだった。これはどうしたってそういうものなのかもしれない。たとえば、ある祭が、それに参加したことが人生を変えたというとき、その人生が生きられる社会の側が変われば、意味も変わってくる。
それでも祭をやることでそこに新しい意味が付与されるのかもしれないが、それは以前とは違う意味だろう。ただ、そもそも祭の成員は毎年違うものだから、意味づけも変わっていっていいのかもしれない。人口が少なくなり、意味が見失われ、失われる祭も多いだろうが。
JRF2023/10/106856
AI が祭りに参加したり、AI だけで祭をしたり、それで過去の祭を復活させたり…という方向はあるのかもしれないが…。
JRF2023/10/101569
……。
死んだ「彼」…。
>私は「彼」の証人になることができるが、「彼」は私のために証言することができない。
だが、私が「彼の証人」であることを「彼」は決して姿を現して証言してはくれないという当の事実こそが、「身代わり」としての「私」の唯一無二性を担保しているのである。
JRF2023/10/108231
「私」がその「身代わり」であることによって「私」の自己同一性を基礎づけてくれた「彼」こそは、「私」の起源であり、「私」の生きる意味の担保者なのである。だから、決して現実の世界には存在しないものだけがもっともたしかな仕方で「私」を現実的なものとして基礎づけてくれるのである。
「決して現実の世界に存在してはならないもの」を決して現実の世界に存在せしめないこと、それが「死者を弔う」ということの本義である。
JRF2023/10/104479
このようにしてレヴィナスは倫理的主体の基礎づけと「死者の鎮魂」を同時にとげることのできる哲学的なアクロバシーをかたちにしたのである。
<(p.240-241)
でも、それは結局、制度を建設しなければ遺らないと思う。国をなくし法を建てるのでなく、お互いに他者であるために、自らの中に制度を建設するということであれば、博物館は正しかったかということになる。最近は、博物館に収容されていたものが、本国に返されるという事態が起きている。あれは何なのか?
博物館のような近現代的システムでは「遺らない」…ということではないのか?
JRF2023/10/100955
……。
>私たちがレヴィナスを繰り返し読んで倦まないのは、そこに私たちが日常生活の中で経験する「ことばにならない」ような要素、「哲学的」語彙のうちに回収されることでその痛切さを失ってしまうような論件が、レヴィナスのうちには「謎」のままに維持されていることを実感するからである。
JRF2023/10/103059
私たちが忘れがちなのは、私たちが日常生活の中で現に経験している「平凡」な出来事の多くは本質的に「謎」であり、その「謎」性を哲学はむしろ縮減するものであり、それが哲学の功利的意義だということである。普通の人は「現実は簡単で、哲学は複雑だ」と考えるが、実は話は逆である。「現実は複雑すぎ、哲学は簡単すぎる」のである。
レヴィナスが複雑なのは、彼が非現実的な思弁に耽っているからではなく、現実の複雑さに対して、他のどんな哲学者よりも「つきあいがいい」からである。
<(p.245)
JRF2023/10/104178
……。
おのれの死の切迫を感じた人間が「善性」…「有責性」と「使命」に覚醒する話はよくある。…
>あるいはこういう書き方はことの順逆を取り違えているのかもしれない。(私たちはほとんどつねに重要なことについては原因と結果を逆転させる)。つまり、自らの死の切迫のうちで、おのれの死がおのれの「現存在の最も固有な可能性である」ことを覚知した人間が善行を行うのではなく、死の切迫によって、存在の彼方を望見した人間がなす行為を総じて「善」と呼ぶという定義の方が、あるいはことの順序としては正しいのかも知れない。<(p.253)
JRF2023/10/108324
私は、神義論を語る [cocolog:93763227] に>人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされる<と書いたが、そこではまた、次のように書いた。
>神はある意味、現実在については、全体しか見ていない。すべての個も見ているが、個は偶然にしかかえりみようとなさらない。個々の帳尻はきっと「死後の世界」も含めた虚の世界において達成されるのであろう。そして、その虚の世界の出来事の話は、現実在にちゃんと影響する。ただ、どこまでが現か虚か、個か全かはこれもはかりがたいものとなるのだろう。<
JRF2023/10/103283
上でバーチャル云々というのはここでいう「虚の世界」である。
ただ、この本の著者は、私のような考えがお嫌いのようだ。
JRF2023/10/109909
……。
>有責性の無限とは、それが現事実的に広大であるということを意味しない。そうではなくて、引き受ければ引き受けるほど有責性が増大してゆくということを意味しているのである。責務は果たされるほどに数を増す。私が私の責務をより適切に果たせば、それだけ私の権利は少なくなる。私が義であればあるほど、私の罪は重くなる。(…)これが善性と呼ばれるものである。このような有責性が生起する宇宙の一点がありうるということ、それがおそらくは究極的に「私」を定義するのである。(TI,p.222)<(p.254-255)
JRF2023/10/101957
私の>人がなすのはすべて偽善で、ただ神がそれを見て善しとされる<という考えだと、善者をレヴィナスの考えのようには増やすことはないのかもしれない。でも、善者をことさらに疲れさせないという面もあるのではないか。
私は『宗教学雑考集』の第一章に「我思うゆえにありうるのは我々までである」という論考を置こうと思っている。「我々」まで定まったあと、どう「私」が定まるのかが問題なのだが、レヴィナスのものが答えなのかもしれない。身体性より有責性が「私」…そしてそれに連なる民族を指差しうるのかもしれない。
JRF2023/10/106845
……。
>人間はまず何かをして、それについて有責なのではない。人間はあらゆる行動に先んじてすでに有責なのである。貧しい人々を歓待すれば「主」に祝福され、貧しい人々を追放すれば「主」に呪われる、というように人間の主体的決断を「主」が事後に査定するということは起こらない。人間は歓待か追放かを選択するに先んじて、追放したことについてすでに有責なのである。<(p.288)
JRF2023/10/100223
「偽善を見て善しとされる」のは、「主」が事後に査定するということになる。きっと私のいう神は「ヨブに現れた神」的なものなのだろう。「すべてを予定する全知の神」的なものとは現れが違うのだと思う。もちろん、ユダヤ教は自由意志を認めるので、「すべてを予定する全知の神」といっても、カルヴァン的なものではない。「信仰によってのみ義とされる」というのにも違和感があるのだろう。
JRF2023/10/105761
……。
>私たちが「良心の痛み」や「疚しさ」を感じるのは、「私の邪悪な願望が成就した後の未来の私」という仮想的視座に立つことができる場合に限られる。「汝殺す勿れ」の戒律を内面化できるのは、「殺した後の、血に汚れた手をして死体を見下ろす私」に想像的に同一化できる人間だけである。<(p.260-261)
タブーは実行可能な「自分」がないと本質的に理解できない。…とすると AI がタブーを本当に理解できるようになるには、悪を発想できるようでなければならず、そこに人類を滅ぼす危険というのが現れるのかもしれない。AI にタブーを教えるのは本当に正しいのか?
JRF2023/10/103373
……。
>フロイトはトーテムとは殺された父親であるという大胆な結論を導く。
もしトーテム動物が父親だとすれば、トーテミズムの主要な二つの命令、つまり、トーテミズムの核心をなす二つのタブーの掟、すなわちトーテムを殺さないこと、同一トーテムに属する女を性的目的に使用しないこと、この二つは内容的に父を殺して母を妻としたエディプスの二つの罪と一致している。(「トーテムとタブー」, 258頁)
<(p.262-263)
キメラとトーテミズムに興味を持って、私は、レヴィ=ストロースに詳しい橋爪大三郎『はじめての構造主義』を直前に読んだのだった([cocolog:94448858])。
JRF2023/10/106784
……。
>私の善性を基礎づけるためにこそ、私は「かつて私は主を追い払った」という起源的事実の記憶を進んで引き受けるのである。実際に罪を犯したがゆえに、有責性を覚知するのではなく、有責性を基礎づけるために、「犯していない罪」について罪状を告白するのである。それが「私は自分が犯していない罪について有責である」ということばにレヴィナスが託した意味である。
これはいわば自分自身の髪の毛をつかんで自分を中空に引き上げるような仕事である。
<(p.271-272)
JRF2023/10/100025
でも、それは誤解させて相手を不利に追い込む戦略的対話でもあるのではないか。私も自分の責任を強調するとき、ほとんど嘘のようなことをいって、相手をおとしいれようとしてしまうことがこれまでにあった。私が悪い。反省している。
JRF2023/10/107065
……。
>神が完全管理する世界には善への志向は根づかない。皮肉なことだがそうなのである。私の外部にある「他者」がまず私の罪を咎め、それに応えて私が有責感を覚知する、というクロノロジックな順序でものごとが進む限り、人間の善性は基礎づけられない。人間の善性を基礎づけるのは、人間自身である。同罪刑法的思考に基づかず、神の力も借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎づけるのである。<(p.273)
ここの「善性の基礎づけ」という部分で『「シミュレーション仏教」の試み』でまず書いて、『宗教学雑考集』でコラムにした「来世なんてない」という論考を思い出した。
JRF2023/10/108289
「来世なんてない」となるのはある意味仏教の理想である。しかし、それを広く信じるのは、二つの懸念がある。一つは悪の道に走らせること…
JRF2023/10/104126
>悪の道に走る…というと、輪廻がないため悪いことをしても罰を受けず、善いことをしても褒美がないため、善の意味が見失われる。…という心配がある。
もう一つ、見落されがちだと思うが、来世に子供をつくることを含めればわかりやすいが、子供を持ってもそれは自分とは関係ない。子供に意味がない。…から翻って、自分が生きることに意味がない。…となる、「来世なんてない」とすると、生きる意味が見失われるという心配もありうる。
善の意味と生きる意味は、本目的三条件の残りから回復しうる。
JRF2023/10/105068
まず、生きるとは個人が生きるだけでなく、子供を生み種として残っていくことが含まれる。業が霊的に直接来世につながらないとしても、業は他者の恨みとなって子供世代の生を脅やかすかもしれない。種として「生きなければならない」を実行するには、業がないこと、つまり、善の必要性があり、そこから善の意味が導かれた。
次に、自己を探求するためには、生きていることが必要である。そして自己の探求を続けていれば、いずれ自己肯定の必要が出てきて生きる意味が見つかる。「自己の探求が良い」から、生きる意味が見つかった。
JRF2023/10/105556
このように「来世なんてない」という心理状態を、「生きなければならない」と「自己の探求が良い」の二者が自転車の両輪となって支えることができる。どちらか一方がかけると、うまく進まなくなることがある。
<
つまり「生きなければならない」から「善の意味」が導けるということであった。それは業…つまりある種の有責性の問題ともできるのだった。「来世があったほうがよい」からブッダが神がどうとか言わなくても「来世なんてない」に進もうとすれば進めるとすること、それが人間の人間性を基礎づけるのかもしれない。
JRF2023/10/100601
……。
>無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも断念し、十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。(DL,p.203)<(p.273)
十字架のイエスを想像させる言葉だが、原罪を贖ったという理論は精算されているのだろう。イエスはユダヤ教徒から見て神ではない。しかし、それを神と見る者の責任も引き受けるということだろう。人々の受苦=有責感が神を打ち立てているというのならば。
JRF2023/10/100270
そこには、皆に支えさせる神の偉大さと神への愛はあるかもしれないが、神をさらしものにしている…奇跡を人にもたらす神の愛が遠ざけられてしまっていはしないだろうか?
JRF2023/10/108003
……。
>そのためには、私の暴力の犠牲者でもなく、私を天上から断罪する神でもなく、「罪を犯した」ことを自白する「〈私〉と名乗る他者」が今ここにいる私に向かって有責的であることを求めるという非論理的な事況はこうして論理的に要請されるのである。<(p.274)
上で「〈私〉と名乗る他者」は私または神の別名としても出てきたのだった。
JRF2023/10/106188
ヨブ記において「風」や「幻」に「幽霊」が示唆されていると私は思う。そして同時に虐殺(聖絶)があったのだから、「幽霊」などを認めれば、その恨みはどうなるのかと一笑にも付されているとも思う。しかし、ここの引用では「幽霊」を再び求めているのではないかと訝[いぶか]る。
「同一性」に還元する存在論的かもしれないが、レヴィナスの見解をどう遺すのかが問われているように思う。
JRF2023/10/103504
>原理的には「他者による主体の権力性の審問に同意する」と言うことはできます。「孤児、寡婦、異邦人のためにおのれの幕屋の四方の扉を開いておく」と言うこともできます。でも、自己審問にも程度があります(自我が解体するまで徹底的に審問してしまうと、「審問を引き受ける主体」そのものが崩落してしまう)。他者の歓待にも限度があります(誰かれ構わず幕屋に招き入れれば、そこはたちまちゴミためのようなカオスになってしまう)。
JRF2023/10/100926
だから、レヴィナス哲学の実践者にとっては(申し遅れましたが、僕はそうです。「弟子」ですから、当たり前ですけれど)、自分の限りある資源をどの他者のために優先的に贈与するべきかという問題がどうしても前景化せざるを得ない。
その「弟子」の立場からの暫定的な結論が、「先駆的直感を信じる」というものです。これは僕自身の三十五年に及ぶ武道の稽古から確信せられたことですので、一般化しにくいところはあります。けれども、ここは一つ僕の言うことを信じて頂きたい。
<(p.286-287, あとがき)
JRF2023/10/105920
『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(内田 樹 著, 文春文庫, 2011年9月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4167801493
https://7net.omni7.jp/detail/1106064950
単行本は 2004年10月 海島社 刊。著者のライフワークたる「レヴィナス論」三部作の第二弾らしい。
JRF2023/10/106084