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橋爪大三郎『はじめての構造主義』を読んだ。レヴィ=ストロースの構造主義を紹介する本。主体を否定する数学的構造との関連、マルクス主義的西欧発展史観を否定した平等で公正な人類学・神話学がある。 (JRF 0638)

JRF 2023年10月 5日 (木)

『はじめての構造主義』(橋爪 大三郎 著, 講談社現代新書 0898, 1988年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061488988
https://7net.omni7.jp/detail/1100631437

JRF2023/10/59411

現在『宗教学雑考集』(仮題)を書いている。キメラとトーテミズムに関して書こうとしていたとき、フロイトの『トーテムとタブー』を検索しようとして、「トーテミズム」で引っかかってきたのがレヴィ=ストロースの『今日のトーテミズム』だった。そこからレヴィ=ストロースに興味を持ったのだが、彼自身の本はどれもやや高く、また難しそうだったので、その前に読むべき本ということで選んだのが、この『はじめての構造主義』になる。レヴィ=ストロースは「構造主義」者。

それではいつものごとく引用しながら、コメントしていく。

JRF2023/10/51834

……。

>サルトルは人間存在を、サイコロのようにこの世界に投げ出されたものとみた(被投性)。そして、それを悟れば、自分を歴史のなかに投げ入れること(参加)ができる、とした。この考えは、倫理的で、魅力的でもあるけれど、その前提として、(マルクス主義の主張するような)歴史の存在を信じなければならない。<(p.19)

JRF2023/10/52726

マルクス主義の>人間社会は歴史法則によって支配されている。(…)資本主義社会はやがていきづまって解体し、社会主義・共産主義に道を譲ることは、もう決まっていて、いくら資本家がじたばた騒いでも、どうにもならない。<(p.17)…という歴史観は、当時、西欧が直面していた資本主義の問題に対する回答として、一定の納得が得られるものだったが、しかし、西欧以外から見たとき、西欧の独善性を感じさせるものだったことも否めない。

JRF2023/10/51044

西欧でもマルクス主義が日和見主義的なものに堕してきていて、それに反発したのがサルトルということになる。

最初それに同調しながら、やがて袂を分かち、西欧以外との平等性・同時性を強く意識するような主義が出てくる。それがレヴィ=ストロースをはじめとする「構造主義」…ということになるらしい。

ただ構造主義自体はそこまで歴史やイデオロギーを重視するものではなく、もっと理論的なもののように思える。それがたまたま、マルクス主義的科学観と対立した。そういう時代だったということなのだと思う。

JRF2023/10/51490

……。

構造主義のいう「構造」はよくわからないものだそうである。

レヴィ=ストロースがヤーコブソンを経由して学んだソシュールの一般言語学は、言語について対立から合理的に導ける一般性を見つけた。そこにマルクス主義のいうような発展史はなく、どのような民族の言語も平等に論理性を持つものとされた。レヴィ=ストロースの方法もそのような合理的な方法だが、じゃあ、その平等で一般的な論理構造が構造主義の「構造」なのかというといまいちそういうことではないらしい。

JRF2023/10/56921

また、現代の我々は LLM (Large Language Model) が比較的単純なプログラムから、そこからは想像できなかった意識のような何かが生じることをみているわけだが、その「何か」が「構造」なのかというと、それも違うのだろう。それよりはもっと、プログラミング言語の構造体的なものに近いようだ。

JRF2023/10/54886

……。

レヴィ=ストロースは26歳のときにブラジルに渡り、そこで週末にインディオの部族の調査を行った。わずか3年のことだが。レヴィ=ストロースは人類学の「調査」はあとにも先にもこの時しかしていない。…

>そこで、英米系の人類学者のなかには、「日曜調査(ふだんは町に住んでいて、たまに出かけてはちょこちょこっと調査すること)でなにが解るものか」「しょせんは安楽椅子人類学者(アームチェア・アンソロポロジスト)さ」などと悪く言う人もいる。<(p.36-37)

安楽椅子人類学者! 安楽椅子探偵ってのもあるけど、逆にカッコイイよね (^^)。

JRF2023/10/53359

……。

モースには「贈与論」という論文があって、そこでは「交換のための交換」が論じられる。交換をしあうことが社会を維持する。そのため交換のための交換をするのであり、貨幣を用いた経済は、そういった社会のあとに現れるものだ…というものらしい。交換される主なものはある意味価値がないもののほうがいいということだ。

そして、このような社会を維持するための交換としてレヴィ=ストロースが挙げたのが婚姻による「女性の交換」という概念で、これにより長年の謎だった複雑なインセスト・タブー(近親婚の禁止)のシステムに説明が付けられたのだった。

JRF2023/10/58782

>女性そのものの価値を、直接味わうことができるようだと、交換のシステム(つまり社会)が成り立たなくなる。だから親族(すなわち、女性の交換システム)が成り立つためには、それが否定されなければならない。同じ集団のメンバー(男性)にとって、女性の利用可能性が閉ざされなければならない。これがインセスト・タブーだ! 近親相姦は、女性が交換される「価値」であることの、裏側の面(反価値)である。近親相姦が否定されてはじめて、人びとの協力のネットワーク(つまり社会)が広がっていくのだ。<(p.91)

JRF2023/10/53078

私は近親婚のタブーについては、↓で、支配層で近親婚は離婚において憎しみが広がるのが国政において支障があるから、あらかじめ近親婚を禁じるのではないかという説を唱えていた。

『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942

JRF2023/10/56254

……。

>あくまでも、交換のための交換が基本であり、それが特殊に変化・発達していった場合にだけ、いわゆる経済(利害にもとづいた交換)が現れるにすぎない。

JRF2023/10/59880

このような見解は、デュルケームの考え方に修正を迫るものだ。歴史は進歩の過程である、という十九世紀以来の発想にも打撃を与える。交換のシステムは機能の観点からとらえきれないというのあから、機能主義人類学にも批判をつきつけたかたちになっている。また経済(下部構造)が文化や精神世界(上部構造)を規定するというマルクス主義の基本的な考え方にも、まっこうから対立するものだった。人びとの利害なんか、そもそも交換の動機になっていない、と言うわけだから。
<(p.104)

これが構造人類学の成功になった。

JRF2023/10/56914

……。

レヴィ=ストロースは舞台を人類学から神話学に移す。そこ、つまり神話においては、少し場所を違えるだけで物語の結末が変わったりする。そこでレヴィ=ストロースはそういう詳細は捨象して、音素のような神話素に注目する。

JRF2023/10/51833

>テキストはふつう、何かを言いたいためにある、と考えられている。言いたいこと(メッセージ)を読み取るのが、テキストの読解である。ところが、レヴィ=ストロースの神話学は、テキストを字義どおりに読まない。それは、テキストの表層にすぎなくて、ほんとうの〈構造〉はその下に隠れている、とみる。テキストをずたずたにして、いろいろな代数学的操作を施してもかまわない、と考えるのだ。<(p.123)

JRF2023/10/52251

聖書読解などでは神の意図・目的を必死に読み取ろうとし、読み取れないときには、意味を越えた神の偉大さを読み込むものだ。私もそうしてきた。マルクス主義の「資本論」に対する姿勢も同じような感じはある。そことレヴィ=ストロースのテキストをずたずたにする操作は根本的に対立する。それが構造主義なのだ。

JRF2023/10/51959

……。

>ヨーロッパの知のシステムは、“真理”をめざして進むものだった。唯ひとつの真理(正しいことがら)がある。そして人間は、いつか真理(正しいことがらをのべる言葉)を手にできる。こう信じられてきた。

これに対して、構造主義は、真理を“制度”だと考える。制度は、人間が勝手にこしらえたものだから、時代や文化によって別のものになるはずだ。つまり、唯一の真理、なんてどこにもない。-- この批判は、レヴィ=ストロースだけじゃなくて、ラカン、フーコー、アルチュセールなど、ほかの構造主義者たちにも一貫して流れるテーマである。
<(p.127-128)

JRF2023/10/55907

経済学の制度学派はまた違うみたいだけど、関連はあるのかな?

JRF2023/10/55114

……。

>ニュートンの古典力学は、十九世紀も末になると、説明できない現象がいくつも現れるようになって、行き詰まってきた。そこでアインシュタインの登場となる。<(p.150)

ここで私の「バベルの塔」の解釈を思い出す。

《『創世記』ひろい読み - バベルの塔》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/02/post_13.html

JRF2023/10/54154

>説 0'.昔は離れた人同志が出会うことはまれで、すべての人が身内で話す言葉はそれぞれほぼ完全にバラバラであったため、身内以外の者と話すための言葉はシンプルな表現に限られていた。「言語」といえるようなものは、実質的に「なかった」のであるが、話されている言葉がある以上、それはあたかも「一つの言葉」と言わざるを得なかった。それが、公共事業を行うために国という単位を作るようになると、「言語」が発達し、逆に「言語」の違いを意識できるようになった。または、国の単位が大きくなり、国の中央にいる者は、「言語」の違いを意識せざるを得ないような、文明の境界に気付くようになった。<

JRF2023/10/51984

「「言語」の違いを意識せざるを得ないような、文明の境界に気付く」というのが「説明できない現象がいくつも現れる」というのに似ていると思った。また、そこでアインシュタインが物理学を「破壊」したのが、神がバベルの塔を破壊したのに似ていると思った。

JRF2023/10/57482

……。

レヴィ=ストロースの背景には現代数学と遠近法があるという。現代数学の群論(置換群)のような考え方が〈構造〉の背景にあり、主体がなくなるまたは自由になるのが遠近法から来ているとこの本の著者は考えているようだ。

JRF2023/10/53996

>これまで何回も注意したように、〈構造〉と(数学的な)変換とは、裏腹の関係にある。だから、神話に〈構造〉があると考えるのと、神話はつぎつぎ変換されていくものだと考えるのとは、一緒のことなのだ。この関係は、当然すぎるくらい当然なのに、なぜか見過ごされてきた。みんなせっかちに、“〈構造〉? そりゃなんだ?”という疑問にばかりとらわれ、すぐそれに答えようとやっきになってきた。ところがおあい憎さま。神話の変換関係を踏まえないうちは、〈構造〉のことなんかわかりっこない。<(p.183)

JRF2023/10/52657

…とこの本の著者はいうのだが、じゃあ、〈構造〉は数学的変換のようなものだとわかったからといって、レヴィ=ストロースの手法がマネできるかというとそうではなく、再現性に乏しいらしい。

JRF2023/10/59259

……。

>レヴィ=ストロースは、主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)の手の届かない彼方に、それを包む、集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することを示した。それが神話である。神話は、一定の秩序 -- 個々の神話の間の変換関係にともなう〈構造〉 -- をもっている。この〈構造〉は、主体の思考によって直接とらえられないもの、“不可視”のものなのだ。<(p.190)

JRF2023/10/51561

構造が主体がないというのは『「シミュレーション仏教』の試み』の際に、「自分」というものがシステムから失われ「諸法無我」を感じたのに似ている([cocolog:94245170] など)。一方、我が、主体が、ずっと残っていくという立場は「一実相印」に現れると考えたのだった。

「一実相印」については、『宗教学雑考集』で『「シミュレーション仏教」の試み』の要約を書く章では次のように書く予定。

JRF2023/10/57251

>一実相印とは、諸法実相 … 全ての存在はありのままの真実の姿である…といったことらしいが、解釈にはいろいろあるらしい。

(…)

「一実相印」については、簡単化されたシミュレーションである以上「ありのまま」に見ることはかなわなくなる。シミュレーション的に世界を観ることをただ詳細に、どこまでも高性能なコンピュータで化け物じみて詳細にしながら、人の心の中など詳細を実験的に得られない限度において、結局はそれを想像で補うというなら、それは「ありのまま」からもっとも離れたものになるだろう。

JRF2023/10/57725

ありのまま世界を見るということは、地動説やコンピュータなどその時代時代に使えるツールを使いながらも、必然的に自己がどう見るかを含み、我を無にしていく中でも最後の最後までは我は残って完成するものなのかもしれない。

JRF2023/10/58857

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