cocolog:94490727
吉田敦彦『日本神話の源流』を読んだ。定住の文化(=「堕胎」文化)と非定住の文化(「捨て子・骨肉の争い」文化)の違い、および、非定住の文化がなぜ支配層の文化となっていったかを考えた。 (JRF 0822)
JRF 2023年10月30日 (月)
現在、私は『宗教学雑考集』(仮題)を書いているが、ハイヌウェレ神話に関心があり、[cocolog:94486803] でも関連のひとことをしている。それについて書かれている本を Amazon などで探したところ、見つかったのが、この『日本神話の源流』だった。Amazon によると以前私は買ったことがあり、実際、この「ひとこと」のログに読んだことが書かれていたが、しかし、残念ながら、本が見つからず、再購入したのだった。ただし、再購入したあと、本は見つかったため、2冊所持することになった。
いつものごとく引用しながら、コメントしていく。
JRF2023/10/308165
……。
日本はユーラシア大陸の東端に位置し、「吹き溜まり」的文化である。北・西・南から日本には文化が入ってきた。基本的に、南洋の文化と共通な祖先を持つ文化が先に入り、後に北方の騎馬系民族的支配者文化が入り、それが記紀に現れている。…という。
岡正雄氏によると…
JRF2023/10/307932
>先史時代の日本列島には、少なくとも次の五つの種類の、起源を異にする「種族文化複合」が渡来したと想定されている。
(1)母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化
(2)母系的・陸稲栽培=狩猟民文化
(3)父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化
(4)男性的・年齢階梯的・水稲栽培=漁撈民文化
(5)父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化
<(p.25-26)
これは作業仮説的なものであるが、大枠はこれであろうと、吉田氏も同意している。
JRF2023/10/308517
……。
>岡氏はまた、日本の固有文化の中に、異なる二つの信仰形態が混じりあっていると指摘された。すなわち --
(1)カミは天上にあって、人間界へは、山上、森、樹梢に降下してくるという、カミの出現を垂直的に表象する信仰形態。
(2)祖先 - 祖霊 - 死者 - 異形の人間・仮面仮装者、すなわち信仰対象の表象はより具象的ではあるが定形的ではないものが、かなたから村を訪れてくる、すなわち出現を水平的に表象する信仰形態。
JRF2023/10/303962
そして、このうちの前者を最初に日本列島に持ち込んだのは、おそらく (3) の文化であり、後者は本来 (1) の文化に固有のものであったろうと想定された。
<(p.32-33)
この後者のものがトーテミズムに近いのだろう。霊の理論がハッキリしていない(定形的でない)のは、霊の理論に対するトーテミズムによる抑圧が忘れられてなかったからではないか。(トーテミズムについては直近でデュルケム『宗教生活の原初形態』を読んでいる([cocolog:94474286])。)
JRF2023/10/307745
異形の人間を許すのも、イメージによる進化=トーテミズムの構図を思い起こさせる。ただ、ナマハゲが何の動物かと言われると説明に窮するが。
トーテミズムがなくなっても、その抑圧下で許容された様々な霊の理論が残り、それらが共存する形で、特定の霊理論への収斂への抑圧を維持したのではないか。特に幽霊など身近に霊が出現するという形態は、自然の中に祖先などの霊を見出すトーテミズムの名残りではないか。
ただ、トーテミズムまで遡るのは、やり過ぎかもしれない。すべての民族がトーテミズムを経由しているとも限らないわけだし。
JRF2023/10/305714
……。
>『古事記』のオオゲツヒメの話と、『日本書紀』のウケモチの神の話のあいだには、明らかにつぎの三つの特異な要素が共通して見られる。
(1)身体から汚物あるいは分泌物を出すのと同じしかたで食物を出し、饗応する神があったが、
(2)ある時その饗応を受ける者に、食物を身体から出しているところを覗き見され、怒りをかって殺された。
(3)この神の屍体から、人間の主食となる食用植物が生じ、これによって農業が開始された。
<(p.58)
JRF2023/10/309358
この大体をハイヌウェレ(椰子の枝)神話が共有している。この本にはオオゲツヒメもウケモチもハイヌウェレもその神話の概説が載っている。
そして、私はこのハイヌウェレ(系)神話の意味を [cocolog:94486803] では、
>ハイヌウェレ神話が謎だったが、子宮墓とともに産道から生まれて来ることを「見てはいけない」ことを表している、そこに産児制限があった…と考えればいいのではないかと思い致った。<
…と述べた。つまり、栽培=農業の開始と定住による人口限界の意識が生み出した神話なのだろう。…と。
JRF2023/10/301411
……。
古栽培文化に属するところの中には、凄惨な首狩りや食人文化もあった。
>たしかにわれわれには、少女が集団的凌辱を加えられたうえで殺され、食べられてしまうというような儀式を、いかなる理由によっても正当化することはできない。しかし世界秩序を維持し文化的価値を擁護するためと称して戦争をおこし、あらゆる残虐な手段による大量殺人を絶えず繰り返してきた「文明人」に、人間文化を存続するためにぜひとも必要な儀礼として、人身供犠や首狩り、食人等を行なう民族を、そのことだけをとりあげて野蛮人呼ばわりする資格がないことも明らかであろう。<(p.70-71)
JRF2023/10/301097
飢餓も経験した男性の成人儀式で、少女が集団的凌辱を加えられたうえで殺され、食べられるというとき、そこには、子供を産み、相続していくためには女が必要だという理解は当然あり、にもかかわらず、男たちはそれを殺してでも生き残ろうとする…という「悲しい現実」への理解が求められているのだと思う。
JRF2023/10/306459
定住した上で食料がなくなれば、他者を攻めようともするが、基本的に隣接する地域にも食料がないことが想定される。そのとき、男性は一人残せば十分で、あとは女性が生き残れば、いいのだ、それが合理的だ…とは考えない…ということだ。男性がむしろ生き述びて文化を伝えるのであり、そのためには戦争もするし、女性も食い物にするのだ。
しかし、これは男性優位の原理かというとそうではない。少女が一人犠牲になれば、男が一人あまる。出産でも女性が死にやすい。だから、その分、男は死んでいい。…という原理なのだろう。
JRF2023/10/303242
そして何より重要なのは、戦争や食人に比べれば、聖者が管理する産児制限=「堕胎」のほうがマシだというのが暗に示されているのだろう。むしろ、戦争による拡大は忌避されている。
しかし、これこそが「定住の呪い」なのだ。
JRF2023/10/303364
……。
海幸彦・山幸彦の神話では、弟の山幸彦が、借りた釣り針をなくし、それを探しに海の中の国に行く。このような話は、南洋でも見つかっている。
一方、イザナギとイザナミが矛を上げたときにオノゴロ島ができるという神話があるが、それに似た話も南洋にあり、そこでは、島を釣り上げて創造するという話になっている。
>魚が陸地になる。 (p.101)<
…という話だ。
JRF2023/10/302627
この二つの神話は別々のもののようだが、これを統合すると新たな視点が得られる。つまり、釣り針のない釣り竿と糸で、島を「釣る」ビジョンだ。
我々は大陸移動説を知っているが、元々は島が動くというのは与太話であった。しかし、いくつか、島が動くというのに似た現象はあった。
一つは、海底火山の活動などによる島の隆起だ。ただ、これはあまり記録されている感じではない。
JRF2023/10/301325
また一つは、蜃気楼である。ただ、これは不思議な現象であるが、幻覚であることも容易に知られよう。
また一つは、海岸線の変化である。これは動いてはいないのであるが、まったく動かないという概念の形成を邪魔したとは言えるだろう。観察にはある程度、長い年月を要するため、さらに長い年月を経れば、動かないこともありえなくはないとは思っただろう。
JRF2023/10/306946
また一つは、海洋民族の不安である。海洋民族が海に出たとき、島は動くはずのないものだった。しかし、思ったように戻って来れないことも多々あったと思われる。また、飢餓などで新しい島を発見するのを夢見ることもあったかもしれない。そのようなとき、海流の理解が求められたと思われる。この海流を見るという考え方が、針のない釣り糸で見ることができるとして、実際できたかどうかは別として、そう形容されたのではないか。それで現実的に新しい島を発見できるかはわからないが、そうなればいいな…というアイデアはあっただろう。それが、島を釣るという神話になったのではないだろうか。
JRF2023/10/301750
実は、さらにもう一つ大陸移動が古代でも信じられた可能性はある。それは星の観測だ。とても長い間、星を観測すれば、星座全体が動いていることがわかる。これを星が動いているのではなく地面が動いていると解釈したならば、間違ってはいるのだが、大陸移動という説になりうる。
JRF2023/10/308861
『列子』湯問篇には、蓬莱山などの五山について…
>この五山は海に浮いてゐるために、潮波と共に絶えず上下に揺れ、暫らくも静止することがない。(…天帝は…)十五頭の巨鼇[おおがめ]を集めさせた。さてこの鼇の頭の上へ五山を載せるのであるが、一頭では疲れ果てる恐れがあるので、まづ十五頭を三組に分け、五頭づゝ三交代し、一交代は六万年と定めた。これによって五山は始めて安定するやうになった。<(p.105)
…とある。まず、この六万年という「とても長い」を表した単位が星が動くと想定されるべき単位に近いということである。
JRF2023/10/300476
そしてもう一つは、亀が出てくることだ。インドの世界観の図でも、亀が出てくることがあるが、これは海洋民族にとっては重要な意味を持つだろう。それは地球が丸いということを表しているとも読めるからだ。
海洋民族は、完全な球形とまでは思ってなかったかもしれないが、海の地平線から島を見るとき、島が地平線に隠れていくことが、不思議であっただろう。そこから、どうも大地と海は亀の甲羅のように丸みがあるかもしれない…という考えには到達していたのではないか。
JRF2023/10/308587
もし、これが地球が丸いという仮説まで届いていたとしたら、太陽や月が丸いのも、地球が丸いのと同じかもしれない…というところまで行っていたかもしれない。トーテミズムで、後代になってトーテムに太陽や月も現れてくるのは、そういう考えに到達して以降、それが地球のようにとても大きい実体と感ぜられたからだったのかもしれない。
そして、さらに重要なことは、そのような丸みに気付けば、次には、なぜ、物が丸みに沿って落ちないかが問題となる。重力というものに考えが致らないとすれば、地が引っぱっているか、空が抑えている…としかならなかっただろう。
JRF2023/10/300541
ここで、エリアーデ『世界宗教史 7』を読んだとき、南洋では、天空と地下に挟まれたものとして、この地上世界が想定されていたことを思い出す。まさに、中つ国であることが、丸さを解決する理論となるのだ。
JRF2023/10/302080
……。
p.112 あたりで、イザナギ・イザナミが島を生む神話が書かれている。一番目に生まれたのはヒルコで、二番目に生まれたのは淡島、その二人は生みそこないなので子に入れられず、それから淡路島、四国と続く。
私は、淡島の部分を淡路島と覚え間違っていた。しかし、淡島とは何ぞ…と思って調べてみても、よくわからない。島ではないのだろうか? 淡路島の旧名ではないのだろうか?
JRF2023/10/303373
《淡島(その1) – 國學院大學 古典文化学事業》
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/chimei/awashima-1/
>「淡島」の名義については「淡」を「沫」と解釈して沫のような頼りない島とする説、実体のない島と解釈する説、ぐじゃぐじゃとして固まらない島と解釈する説、親神である伊耶那岐命・伊耶那美命がこの島を「アハメ(淡)ニク(悪)」んだためにこの名がついたとする説、「淡」を「粟」と解釈し「豊饒の島」とする説などがある。<
JRF2023/10/306233
なるほど。蜃気楼の島という考えも私の上の議論と関連付ければできそうだ。
JRF2023/10/301762
……。
イザナギの黄泉国訪問と、ギリシアのオルフェウス(オルペウス)の冥府降りはとても似ている。ただ、従来、この種の神話は世界各地に見出されているから、そこから類縁があるとされてきた。しかし、どうもこの二つのみが似過ぎていて、何か関連があるとせざるを得ないようだ。
>オルペウス伝説と類似した説話の分布状況については、近年スウェーデンの民族学者フルトクランツによって、網羅的に近い研究がなされている。
JRF2023/10/308496
このフルトクランツの著書によってみると、オルペウスやイザナギの場合と同様、亡夫を上界に連れ戻すため、冥府を訪問した夫の冒険を主題とした説話は、日本とギリシアを除けば、ポリネシアと北アメリカとのただ二つの地域に限って濃密に分布している。しかもこの夫の企てが失敗に終わったとされ、その失敗の原因が冥府で課せられた禁令に夫が違反したことであったとされている話は、日本とギリシア以外では、北アメリカの原住民の伝承中にしか見られない。(…)狭義の「オルペウス型神話」は、実は旧大陸においては、ただ日本とギリシアに出け見出されるのであ(…る…)。
<(p.142)
JRF2023/10/303104
>日本神話では、イザナギが冥府からイザナミを連れ帰れなかった理由の一つは、前述したように、イザナミがすでに冥界の食物を摂取してしまったことであったとされているが、これときわめてよく似た話も実は従来からしばしば指摘されているように、(…オルペウス伝説とは別の…)ギリシア神話の中に見出されるのである。
JRF2023/10/302749
ギリシア神話で、死者の国の女王とされているペルセポネ女神は、大地の女神デメテルの愛娘[まなむすめ]であり、最初は母親とともに地上で暮らしていたが、あるとき冥府の王ハデスにとらわれ、地下に拉致されて、無理やりその妻にされてしまった。この暴挙に怒ったデメテルは、後に述べるような仕方(…人間に身をやつし放浪する仕方(p.144)…)で、女神としての役割を放棄し、大地より作物を出すことをやめて、世界を飢饉に陥れた。そこで神々の王ゼウスは困惑し、ハデスを説得して、ペルセポネを母親のもとへ返させることにした。
JRF2023/10/301819
しかし、ペルセポネは、このときすでに冥府で石榴[ざくろ]の実を口にしていたために、上界に完全に復帰することができず、その後もハデスの妃として一年のうちの一定期間を、死者の国で過ごさねばならなくされたといわれているのである。
<(p.140-141)
JRF2023/10/309444
>もとは上界に居住していた有力な女神がなぜ冥界に所属する存在となり、死者の国の支配者とあったかを説明するために用いられているという点でも、ギリシア神話と日本神話は軌を一にしている。<(p.143)
ギリシア神話では話は別々だが、島釣りでもそうだが二つの説話が別々だから、別々に解釈すべきとは限らない。それを教えられる人物は同じで、その二つの説話から、一つの解釈を導き出していた可能性もあるからだ。
JRF2023/10/307137
石榴の実を食べたというのは赤ん坊などを食べたことの隠喩であろうとは思う。しかし、そうすると帰れなくなるのはなぜなのだろう? 別にそういうことをしても、子供を産む能力には変化はないはずである。また、普通の食物の場合、客人としてその地の物を食って帰れないということは普通はないはずである。共食が親族関係を作るというのはあるかもしれないが、帰れないほどのものでは普通はない。
JRF2023/10/307078
…というところで、これは非定住文化から見た定住文化への揶揄ではないかと思い致った。帰れなくなったのはなぜかではなく、帰らないことに子を食った原因を見出さねばならないのだと思う。
JRF2023/10/305385
上で書いたように定住文化は最終的に「堕胎」を覚悟する文化だった。それに対し非定住の文化は、食物などが足りなくなったら、随時、(野生で育つことを期待して) 子を捨てていく「捨て子」文化だとできるのだろう。そして、「捨て子」がたまたま育てば、向かって来ることもありうる。それとは戦うのが想定されるところから、ひるがえって、いっしょにいる親族どうしでも戦う「骨肉の争い」が予定される文化でもあるのだろう。兄弟争いがモチーフになる。
JRF2023/10/306657
そして、重要なことは、定住よりも非定住のほうが文化が古いと想定できることだ。これは古代においても同じであっただろう。事実はどうか知らないが、非定住の者の中に定住した者がいる、しかし、非定住のままで居続ける自分達のほうが正統だという意識はありえたように思う。
例えば、ローマの建国神話のロームルスとレムスが捨て子になって狼に育てられたというのは、トーテミズムと同時に非定住の正統を主張する意図があったのではないか。実際は非定住じゃなくても、そこを淵源とするという宣言だろう。
JRF2023/10/307734
……。
デメテルはポセイドンによって求愛されたとき、馬に変身して逃げようとしたが、ポセイドンも馬になって、交尾されたという。(p.146)
ポセイドンについては↓で妄想しており…、
《フルタ製菓 横山光輝の世界 バビル2世 ポセイドン [ JRF の私見:雑記 ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2009/11/post.html
横山光輝『マーズ』を読んだときに [aboutme:118797] で…、
JRF2023/10/309256
>スフィンクスは「正解」を答えられたあと、海に身を投げて死んだとされる。スフィンクスのようなキメラは海ならばある(あった)のかもしれない。「キメラ」の試みは海に捨てられたのかもしれない。
そして、これが海神ポセイドンになったという解釈しよう。ポセイドンの物語には、大地母神デメテルに馬を贈ったという話がある。
<
JRF2023/10/306197
…と書いている。ここでは馬は贈ったことになっていて、話が違う。まぁ、それはおいておいて、私のこの話は、↓につながる。
《漢字の「馬」の象形文字はむしろ「棒馬(hobby horse)」では? [ JRF の私見:雑記 ]》
http://jrf.cocolog-nifty.com/column/2012/09/post.html
>古代人が「馬」と認識する動物は、古代において「新しい動物」という感覚が広くあったのではないか。
JRF2023/10/309250
それは中国も同じで、馬のような動物はいたかもしれないが、今我々が見るような馬でなかった、または、直に乗って便利なものとは思われてなかったのではないか。そして、一般に動物を操作することを模式化した「棒馬」が先にあり、まるで「棒馬」のように操作できる動物ということで、それを生きている馬の字として充てたというのが金文の時代の認識なのではなかろうか?(まるで想像上の「麒麟」になぜか生きているキリンを措定したように。)
<
キメラの成功例の一つが、馬だったのかもしれない。…と私は妄想する。
JRF2023/10/307474
また、土地が定住で埋まり、非定住はかなり不利だったところ、それを逆転したのが、馬なのかもしれない。…とも思う。
JRF2023/10/305621
……。
ギリシアと日本をつなぐのは騎馬民族のスキュタイ。スキュタイには三種の神器があり、それは日本の三種の神器に比定できる。…だけでなく、通り道の朝鮮にも明示はされていないが、三種の神器的なものを見出せるのだという。
JRF2023/10/300826
>スキュタイの王家に伝承されていた宝器は前述したとおり、いずれも黄金製の、犁に軛の付属した耕具と、戦闘用の斧と盃であったが、これらはデュメジルとバンヴニストによって、スキュタイ人が人間社会にとって不可欠の要素と考えていたと思われる三種類の職業を、その遂行のために必要な道具によって象徴したものであったことが明らかにされている。耕具と戦闘用の斧に関しては、前者が農民の、後者が戦士の用具であり、これらがそれぞれ、食糧生産と先頭を象徴することは、ほとんど自明であろう。
JRF2023/10/308967
三番目の盃は、イラン系の民族にとっては、宗教の儀式を執行するために肝要な祭具であった。ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の中で祭司と戦士と農民のそれぞれの「道具一式」が列挙された箇所(ヴェンディダッド、14、8-10)においても、祭司用の道具の主な部分は、聖酒ハオマの盃をはじめとする多くの盃によって占められている。(…)盃は、スキュタイ王によって大女神自らの手で施行されるものと観念されていたらしい王権の授与式においても、中心的な役割を与えられていた聖器であったと結論してよかろう。
<(p.161-162)
JRF2023/10/309718
日本の三種の神器においては、鏡=盃=(宗教=王権)、剣=戦斧=軍事、玉=耕具=食料生産 とピッタリ対応できるということだ。高句麗においては金爾、兵物、鼎となるらしい (p.225)。
私は↓の中で、本目的三条件「来世がないほうがよい」「生きなければならない」「自己の探求がよい(改め「思考と思念を深めるのがよい」)」という枠組みを挙げた。
JRF2023/10/304106
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942
JRF2023/10/305779
しかし、本目的三条件を三種の神器に比定しようとすると微妙に合わない。宗教は「来世がないほうがよい」で良いとしても、それは王権を意味しない。王権はむしろ軍事で、それは「生きなければならない」にあたるのだろうか。食料生産・経済は、「思考・思念を深めるのがよい」という面もあるが、「生きなければならない」という面もある。
これは別のものと考えたほうが良さそうだ。おそらく、『「シミュレーション仏教」の試み』は「堕胎」を許すシステムだったから、本目的三条件は、定住の文化が理想とする条件なのだろう。そして、三種の神器は、非定住の文化の最適化の在り方を示すのではないか。
JRF2023/10/304523
以前、聖は「堕胎」や「プライバシー」を淵源とする…と一緒くたにしていたが、非定住の捨て子文化において、聖は、「堕胎」ではなく、「プライバシー」に関わると考えるべきなのかもしれない。プライバシーは私生児…妾腹の子の問題というのが私の見立てでもあった([aboutme:125348] などにまとめがある)。非定住文化が捨て子文化であることをやめずに定住した場合には、下々に「捨て子」するということになるのだと思う。
JRF2023/10/303523
捨て子された者を管理するにはどうするか? 昔は顔で見分けるしかなかった。だから、顔を見る鏡が三種の神器にあるのだろうか? 以前、顔の識別のための進化が、文字の認識を可能にした…というのをどこかで見たことがあるが、鏡は、文字文化も表しているのかもしれない。
JRF2023/10/301090
ドンファン(またはドン・ジョバンニ)について、または「性の上納」に関してどこかで書いたが、見つからない。『フィガロの結婚』の初夜権にもつながる話。貴族は、軍に対する責任として、寡婦を引き受ける必要があり、最終的にはそれと子を設けなければならないから、好色でなければならない。…みたいなものがあったのかもしれない。もちろん、部下の妻に手を出せば、ダビデのように破滅する。それはやらないにしても、好色であることは理想とされうる。これが「捨て子」文化的なのだろう。
JRF2023/10/304106
しかし、そうやって「捨て子」された者はどう生きるのか? 身分を押し出されていって最終的には賤民として、鉱山などで働くのかもしれない。男はそれでいい。そこで死ねばいいが、子を産める女はどうすればいいのか? もちろん、鉱山労働の対極にあるのは遊女になることであろう。しかし、それをほうっておけば、子が産まれ定住の呪いがかかってくることになる。
JRF2023/10/302807
遊女がなぜ堕胎しないと想定できたか? ピルなどの避妊薬や中絶薬の存在を私は疑いたくなるが、避妊教育の徹底とすれば、上の文字文化の話とつながる。現代教育の高い国で、出生率の低下が指摘されているが、文字などの教育によって、子を産める適齢期に結婚させないという戦略があったのかもしれない。遊女は、できるだけ高い身分の子を残そうとするだろう。それもまた、子を残すのに待ちの姿勢を与えたのかもしれない。また、高齢になっても魅力的であり続ける化粧と鏡の存在が大きかったのかもしれない。
JRF2023/10/300257
ところで、支配の効率性には、縁故が少ない少数派であり続けることが必要になる。
なぜ捨て子文化なのに、少数派を維持できるのか。長子制による「骨肉の争い」がある…というのは、ありうるが、それは、農耕文化でも長子制を取るので、それだけが理由とはならない。
思うに、捨て子文化だが、妾腹の子が、その後の長子相続などに影響することを抑えるため、そういう子を生むのは許容されても、父の目が届くうちは、その子に子を設けさせないのが合理的となるのだろう。そのため、僧制のような独身制のシステムが背後にあったのではないか。
JRF2023/10/305152
あとは、教育による適齢期からずらすのと合わせて、一本という感じか。適齢期からずらすのは支配層近辺だけかもしれないが、それが被支配層と出生率の差を生み、自然に少数派になるという効果もあったかもしれない。
つまり、長子制、僧の独身制、適齢期が三種の神器で、それぞれ剣・鏡・玉に相当するのだろう。ただ、適齢期は、玉というより鏡じゃないかということだったのでそこは合わないかもしれない。父の形身の玉ということかもしれない。浪曲などでは形見の話がよく出てくるが、妾腹の文化は形身の文化でもあったろう。ちなみに、売春は貨幣とリンクされることがあるが、玉は貨幣的である。
JRF2023/10/304687
ところで、なぜ非定住者が支配に適していたか? それは金属器の影響ではないか。
武器を使うのを厭わないためというのは理由にならない。農耕民族も守るためには武器を使うからだ。しかし、武器の独占のために金属を独占しようとしたとき、違いが生じる。
金属は、鉱山への道を含む通商路をおさえることが農耕以上に必要になるため、移動がメインの非定住文化を基礎としたほうがよかったのだろう。それがスキュタイが金を神器に使っていた理由の一つでもあろう。
JRF2023/10/308627
ところで、ドンファンと言えば、ヨーロッパの中世は、遊女を教育するという文化でもなかったはずで、どうやって、産児制限をしていたのだろう?
もちろん、一番は産児制限の必要をなくする生産力の増強で、ドンファンの時代はそれがうまくいっていたのだろう。しかし、それより以前、ローマ帝国の滅亡からあとの衰退時代はどうしたのだろう? 中世にはヨーロッパは風呂に入らなくなったという話を読んだことがあるが、不潔にすることで人が死にやすい状況を作り、人口抑制していたのだろうか?
JRF2023/10/309130
もしかすると、それは、異民族の侵入の激しかったヨーロッパにおいて、原住民のささやかな、しかし命がけの抵抗だったのかもしれない。つまり、恵まれた支配者よりも原住民が病気に強く進化しようとしたのかもしれない。ただ、やがて(生産力がついてきたとき)、それは魔術として排除されていくのだろう。
JRF2023/10/306580
……。
スキュタイのナルト叙事詩…
>ナルト叙事詩の中では、しばしば英雄が殺した敵の頭皮を剥ぎ取り、これを材料にして女たちに外套[がいとう]を縫わせることが物語られている。<(p.167)
上で、首狩りと食人を同列に挙げたが、もしかすると、食人は定住、首狩りは非定住の文化なのかも。首狩りは、分かれた者を顔で見分ける文化から来ているのかもしれない。
JRF2023/10/302791
……。
ナルト叙事詩で…
>ゼラセが墓の中でワステュルジとその馬によってつぎつぎと犯され、その結果、彼女から双児の子としてサタナと馬が生まれるという話は、前にわれわれが類似を問題にした、デメテルとポセイドンを主人公とするギリシア神話、およびアマテラスとスサノオを主人公とする日本神話の双方と明らかによく似ている。<(p.179-180)
ユニコーンと処女の話を思い出す。馬に女を犯させるという魔術があったかはわからないが、いっしょに住むことで意志が通うようなことは期待されていたかもしれない。
JRF2023/10/308597
……。
デメテルの聖所にあった木彫りの像は…、
>パウサニアスが当地を訪れたときは焼失していたが、彼が土地の人々から聞いて記しているところによれば、身体は人間の姿をしていたが、頭は馬形で、その頭からさらに蛇や、その他の野獣の像が生え出ていた。そしてこの女神像は、片手に海豚[いるか]を持ち、もう一つの手には、一羽の鳩を持っていたという。<(p.194)
JRF2023/10/306969
[aboutme:114757] では、デメテルのような大地母神は、地球または大地という「生物」に足の生えた子宮墓というキメラである…ようなことを述べている。ここではより直接的に、大地母神をキメラとして表しており、その顔が馬を意味しているわけである。
ところで、なぜキメラのように自由自在に動物は生まれてこれないのか? 生まれさせることができないのか?
JRF2023/10/304725
自由に生まれても環境の変化に対応できなくなったら意味がない。ならば、なぜ、動物は自由に変態できないのか? 狐狸の類のように変化すると言われているものはあるが、実際のところ変化しないことは古代人も知っていただろう。両生類は変態するが、自由な変態ではない。
生物的保守主義のようなものがある中、長寿を目指しているようではある。しかし、なぜそうなのか。
古代において、それにもっともらしい理論を与えるのは、神が目的を持って、そういう摂理を創ったから、…というものしかないのではないか。
JRF2023/10/309618
デュルケム『宗教生活の原初形態』を読んだとき([cocolog:94474286])、トーテミズムを克服し霊の議論を可能にしたものはスフィンクスやミナレットの登場ではないかと書いたが、それだけでなく、上のような洞察が、創造神という「仮説」を広く受け容れる結果を導いたという点でも、キメラ遊びがトーテミズムの終焉を導いたのではないか。
先の疑問をどうしてもわからないのは要するに私なので、それを古代人にもあてはめるのは、おこがましいかもしれないが。
JRF2023/10/301117
……。
>天孫降臨に随伴した神として、『古事記』と『日本書紀』に共通して名をあげられているのは、すべてで七柱である。(…)アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤの五神は、五部神[いつとものおのかみ]もしくは五伴緒[いつとものお]として一括されて(…いる…)。<(p.198-199)
スーパー戦隊シリーズが基本 5 人で、追加戦士とかで増えるのは、この辺に淵源があるのだろうか?
JRF2023/10/308949
『日本神話の源流』(吉田 敦彦 著, 講談社学術文庫, 2007年5月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061598201
https://7net.omni7.jp/detail/1102417730
元は、講談社現代新書 1976年1月(1975年?)に刊行されたもの。わたしの「ひとこと」の記録([aboutme:29243])によると、2007年12月に一度読んだことがあったようだ。ただ、そのころはまだ、メモを「ひとこと」上に付ける文化が私にはなく、読みっぱなしだった。
JRF2023/10/303910