cocolog:94474286
デュルケム『宗教生活の原初形態』を読んだ。トーテミズムと私の「イメージによる進化」論や「捨て扶持」理論などを関連させることができた。私の論に引き寄せすぎかもしれないが、刺激的な議論ができたと思う。 (JRF 4468)
JRF 2023年10月20日 (金)
原著は ´Emile Durkheim『Les Formes 'el'e mentaires de la vie religieuse』(1912年)。
JRF2023/10/208540
現在、私は『宗教学雑考集』(仮題)を書いているが、キメラ論に関してトーテムについて知りたいと思い、いろいろ探していたところ、まずレヴィ=ストロースの構造主義に関心を持って、橋爪大三郎『はじめての構造主義』を読んだ([cocolog:94448858]。そして、フロイトの『トーテムとタブー』は入手困難もあってあきらめ、その次に選んだのがこの本になる。
JRF2023/10/208700
結果としてこの本は当たりだった。私に大きな刺激をもたらし、トーテミズムと私の「イメージによる進化」理論・「捨て扶持」理論などを結び付ける役に立ってくれた。もちろん、キメラに関しても関連付けられたと今は思っている。
なお、キメラについてはスフィンクスとミナレットの話が私の持ちネタである(参: [aboutme:114757])。そこでは「群盲象を評す」もキメラ空想遊びと関連づけている。
では、いつものごとく引用しながら、コメントしていこう。「引用」部分が大きくなったところも多い。私の責任だが、昔の文章ということもあって冗長な面もあったと思う。
JRF2023/10/207001
……。
理性は経験的認識を凌ぐ力を持っているが、それは社会から来るというのがデュルケムの論である。
>理性はこの力を何かはっきりしない神秘力から得てきたのではなくて、よく知られている定式によれば、単に人間は二重であるという事実によっているのである。人には二つの存在がある。すなわち、有機体に基礎をおき、これによって活動の範囲が狭く限定されている個人的存在と、知的道徳的方面における最高の実在をわれわれの心中で表象し、これを観察によって知ることのできる社会的存在、著者の意味する社会とがある。<(p.42)
JRF2023/10/206018
個人が経験したことを抽象化するのではなく、すでに抽象化したものを個人に与えてくるのが社会…といったところか。
直前に内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』を読んだ([cocolog:94456795])が、そこで説明される他我と他者の差があった。社会は結局社会に統合される他我しか与えようとしないという感じだろうか。
でも、それも個人にとっては他者性があることがあるし、社会も新たな記号連関みたいな「他者性」を個人から得ることもあるのだと思う。
JRF2023/10/200962
……。
>人々に事物が複雑でなかなか了解し難いことを教えたのは、科学であって宗教ではない。<(p.56)
原始人は物事を単純に見ている。そこに「神秘」はなく、それもあるがままに自然に起こっているという認識なのだろう。科学があるから、科学で説明できないことが神秘として「発見」される。…と。
JRF2023/10/203514
……。
聖と俗を分けるのが「宗教」なのだという。
>仏教がなぜ宗教であるかの理由もここにある。すなわち、それは神を欠くが、聖物の存在すなわち四聖諦とこれから派生する行事の存在とを認めているからである。<(p.72)
四諦は聖であるかもしれないが、尊ぶべき普遍の真理ぐらいの重みで、それを俗な哲学と分けるほどのことはないように私なんかは思うのだが、本来は、かなり問答無用に分けるべきものであったし、私が知らないだけで、今もそうなのかもしれない。
JRF2023/10/200121
……。
聖と俗の異質性は著しく「退化」すると互いに猜[そね]み合うと考えられるが…。
>僧院主義はここに発する。<(p.76)
JRF2023/10/204817
私には「捨て扶持」理論というのがあって、僧は元は社会の「捨て扶持」で暮らす階級であったと考えている (参: ↓)。社会の実質的な役に立つなら他の職業があたるべきだが、役に立っているかどうかがわからないという点で、鬼神に関する仕事に僧があたることになるとする。これは経済的にそうなるという理論のため、原始社会の聖と俗もそのようにまずは生じたともできる。「捨て扶持」で暮らすのは老人もそうだとされがちだとするが、原始社会で老人が聖となるのは、そこに起源があるのかもしれない。
JRF2023/10/205079
『「シミュレーション仏教」の試み』(JRF 著, JRF 電版, 2022年3月)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TPTYT6Q
https://j-rockford.booth.pm/items/4514942
JRF2023/10/209055
……。
聖物と俗物と宗教的信念と儀礼の定義。
>聖物とは、禁止が保護し孤立させる物である。俗物とは、この禁止の適用された聖物から離れたままでいなければならない物である。宗教的信念とは、聖物の性質およびこの聖物が相互に、あるいは俗物と保つ関係を表わす表象である。終りに、儀礼とは、人が聖物に対してどのように振舞うべきかを規定した行為の規準である。<(p.77)
JRF2023/10/202065
……。
呪術を宗教と分ける定義。
>呪術的教会は存在しない。呪術者とその施術を乞う個人たちとの間には、これらの個人の間におけると同じく、同じ神の信徒、同じ礼拝の遵奉者が構成している団体に比すべき同一の道徳的団体の構成員たらしめる継続的な紐帯がない。呪術者のもっているのは顧客であって教会ではない。<(p.83)
JRF2023/10/203709
『宗教学雑考集』に「易の小集団主義」という [cocolog:93808984] を元にした節があるのだが、そこで小集団を推すのだが、それはデュルケムの定義では「呪術集団」になるということか。悲しい。適度な距離感で「顧客」の小集団を維持してそれで教えの伝達・相続はこと足りるとするのは今の時代にも合ってるように思うのだが。ただ、大集団を目指さないと小集団にもならない…というのは私も実感しつつあるところではある。
ただし、デュルケムも呪術と宗教を完全に分けようとは思っていないらしい。
JRF2023/10/201810
>とはいえ、われわれは両者間に継続の中断を決しようとする考えではない。この二領域の境界はしばしば不明瞭である。<(p.88, 注)
JRF2023/10/209220
……。
デュルケムによる宗教の定義。他の研究者が宗教でないとしてしりぞけたものを含むようにしているようだ。
>宗教とは、神聖すなわち分離され禁止された事物と関連する信念と行事との連帯的な体系、教会と呼ばれる同じ道徳的共同社会に、これに帰依するすべての者を結合させる信念と行事である。<(p.86-87)
JRF2023/10/201848
……。
デュルケムは先行研究者のいうアニミズムやナチュリズムを原始とする考え方を排し、彼らにはそこから導かれるとされたトーテミズムこそが原始であるとする。アメリカインデアンにあったそれが、地理を隔てたオーストラリアでも発見されたことこそ、その原始性の証明である。
アニミズムは祖先崇拝または夢の経験から来た霊魂観念が、精霊概念となり…、
JRF2023/10/205844
>それゆえ、すでに述べた理由で、ひとたび人間とは精霊が生かしている肉体であるという観念に達すると、これと同種の(…人の有機体と夢の実体との…)二重性や自身のと似た霊魂を必然的に無機物にも帰属させざるを得ないのである。<(p.98)
…それは宇宙的精霊の理論となり、そこからアニミズムが生じる。それがトーテミズムとなったという理路になる。
JRF2023/10/205769
……。
しかし、デュルケムはそのアニミズムの理論に反駁する。
>確かに人間がその心象を事物に投射する必要があったとしたら、最初の神聖な存在は人に似せて考えらるべきであった。ところが神人同形態説(anthropomorphisme)は、原始的どころか、むしろ比較的に進歩した文明の特色である。起源においては、聖的存在は動物や植物の形で考えられていて、それから徐々に人間的形態が開放されたにすぎない。<(p.122)
JRF2023/10/205511
私は…、産まれる前後において、「我々」は他者の痕跡を見出し、その「不如意」から他者の意志性を学び、そこから逆に「私の意志」を学んでいくのではないかという話を、[cocolog:94206389] などでした。それが「梵我一如」の元ともなっているのではないかという話でもあった。
その「神」は父でも母でもないまず他者でなければならないから意志を持つ動物などのほうが想像しやすかったのかもしれない。まぁ、[cocolog:94206389] の議論では、だから神は人格を持つ…とつなげたのだったが。
JRF2023/10/209991
……。
次に、デュルケムはマクス・ミュラーのナチュリズムを批判していく。
>アニミズムの根柢に横たわっている推定は宗教は少なくとも起源においては何ら経験上の実在を表明しない、という点にあることはすでに述べた。マクス・ミュラーが出発しているのはそれと反対の原理からである。宗教は経験に依るものであり、しかも、宗教はあらゆる自らの権威をこの経験から引き出す、というのが彼の公理である。<(p.131-132)
JRF2023/10/204743
自然が恒常なものと考えられたのは、正規的に回帰することが発見されてからであって、基本的に過去の原始人にとっては、自然を前にしたとき驚きを発見し、それを神話などに保存していった。古代インドのヴェーダにおける火=アグニなどにその様子が見てとれる。…という。
JRF2023/10/201590
>彼はその思想をひき立たせるため、ヴェーダの宗教では重要な地位を示めている自然力、火にこれを適用した。「(…)火が最初に出現したことが、どんな印象を人の精神に与えたかは、容易に想起できよう。(…)それは来ては去るものであって、これを保存しておかねばならなかった。それは自ら破壊性を帯びてはいたが、同時にまた冬期の生活を可能にした。(…)後になって、金属が加工され器具や武器が製作されたのもまた火のおかげである。(…)」
JRF2023/10/209718
(…)自然の局面のうちで、われわれを囲繞[いにょう]し、支配している無限が圧倒してくるような感じを呼び起す傾向のないものはない。宗教が派生してきたのはこの感動からである。
<(p.134-135)
JRF2023/10/200520
このような側面はあると私も思うが、ただ、ヴェーダに関しては、火への驚きを保存しているというよりは、人間を人間たらしめたものは何かという問いに「火」と答え、そこから「火」に始源性を求めたということではないか。そういう意味では後世の反省によると思う。
JRF2023/10/201112
……。
ナチュリズムの方法は、インド=ヨーロッパ語族の言語の特徴に注目する。そこでは語根が決まっていて、それへの変化により、語が事物を表したり、動詞を表わしたりする。それが人格的作因としての神を想像させ、自然の単語から神の理論が作られた…というものである。
しかし…、
JRF2023/10/203184
>ナチュリズムはかつてわれわれがアニミズムに向けた抗議から外見上だけ免れるにすぎない。これもまた、宗教を、客観的価値のない広大な比喩に帰するから、錯覚的心象の体系としている。(…)どのようなことが試みられても、宗教の主な目的が自然の力を表明することにあるならば、そこには欺瞞的な擬説の体系以外を認めることは不可能であり、それが存続するとは理解しえない。<(p.144-145)
ナチュリズムは否定された。
JRF2023/10/201805
……。
儀礼はしばしば失敗する。
>儀礼が期待された結果を生じないと、その失策は何らかの執行上の過失か対立する神性の介在に帰せられる。しかし、そのためには宗教的観念はこの経験上の欺瞞が害[そこな]う感情とは異なる感情にその起源をもっていなければならない。さもなければ、宗教的観念の抵抗力がどこからくるのであろうか。<(p.148)
では、どういう宗教なら自然崇拝的なものが存続可能なのか。
JRF2023/10/204781
>宗教はわれわれを感覚的な事物に適応させる欲求とはまったく異なる欲求に応ずると仮定しよう。すると、宗教は、この欲求を満足させない、またはよく満足させないことだけで、衰えていく危険はない。もし、宗教的信仰が人を物質世界と調和させるために生まれたのでないとしたら、世界との戦いにおいてこの信仰が人を危うくしたであろう過誤はその源泉に至らない。それは他の源泉から養われているからである。<(p.147-148)
JRF2023/10/200744
それがトーテミズムということのようだが、しかし、私はトーテミズムでも物質世界へ影響するために宗教が用いられているということは相変わらず言え、アニミズムやナチュリズムを完全に否定するまでのことはできないように思う。
アニミズム的要素、ナチュリズム的要素というのはそれはそれで常にあったと私は思う。トーテミズムにそれらが薄いとすれば、トーテミズムにはそれらを阻害する要素がむしろあったのではないかと疑う。その要素こそが、デュルケムのいう「他の源泉」ということかもしれないが。
JRF2023/10/206538
……。
トーテミズムの重要性が「発見」されて議論を洗練させる嚆矢となったのがロバートソン・スミスの論考…。
JRF2023/10/207632
>スミスはトーテム信仰の文字を超えて、この信仰が依っている深い原理に達しようと努めた。すでにその『初期アラビアの血縁と結婚』で、彼はトーテミズムは人と動物(または植物)との先天的または後天的な同体を仮定することを一瞥させている。その『セム族の宗教』では、これと同じ考えで供犠上の体系の最初の起源を論じた。すなわち、人類はトーテミズムに食物上の交霊を負うというのである。もちろん、スミスの所説が片面的であることは明白である。それは現在知られている事実に適合しないが、依然として天才的な見地を含んでいる。<(p.161)
JRF2023/10/203354
こことはあまり関係ないが、「食の原罪」…みたいなものがあるのかな…と思う。食を禁じるタブーは、それ以外のものに食べることについても「食べることの罪」がありうることを想起させる。食べるから殺してもよい…という考え方に一石を投じる。そこに罪の意識を生じさせ、氏族ではなくより大きい部族単位で、同罪者による(赦しの)組織化がなされたのかもしれない。
案外、キリスト教の聖餐式も似た起源を持つのかもしれない。
JRF2023/10/204904
……。
>人は五感を魅する美しい形態を木や石に固定するためよりも、むしろ自己の思考を物質によって表現するためにデッサンを始めたと思われる(…)。<(p.225, 注)
氏族の表象であるトーテムは動植物が多いのだが、後の時代になると日・月・星などの無生物もトーテムとなる。トーテムは聖物であるチュリンガなどに図で描かれるが、それはかなり幾何学的な「記号」として描かれる。それは技術がなくて似せられなかったというよりも、思考のほうを描きたかったのではないか…ということらしい。
JRF2023/10/207414
その記号性から、それは個人のトーテムである前にまず、氏族や部族といった社会のトーテムであったのが先ではないか、旗が国家の表象であるように…とデュルケムは類推していく。
>トーテム的存在の画像はトーテム的存在そのものより以上に神聖である<(p.234)
JRF2023/10/201921
トーテムの動物はタブーで禁じられてる場合が多いが、しかし、どうしてもというときは食われるし、老人は聖とみなされその動物を食っていい…などということがある。動物は俗界に普通にいるものでもある。
しかし、トーテムの画像が描かれた聖物のチュリンガは、決して粗末には扱われない。「記号」になっているがゆえに、高い聖性を帯びるのだ。
JRF2023/10/205157
……。
トーテムへの博物学的関心も考慮すべきだと私は考える。トーテムが博物学的関心から選ばれることはなかったにしても、トーテムにより博物学的関心が生まれ、動植物の知識の伝達の分業がなされることはあったろう。
JRF2023/10/202879
トーテムと分業の関係についても考えるべきだ。トーテムの動物に関わることをごっこ遊び的に分担するところからはじまり、大事な動物とそうでない動物でそれを扱う人間の側に差別があらわれうる。それを防止するために、平等をはかるよう、そうでない動物の担当者には、大事な仕事が割り振られたりしただろう。トーテム信仰が分業の単位になっていた可能性はある。…と思う。
トーテムシステムが宇宙論…宇宙をトーテムで分割する論となっていたことがデュルケムの議論でも示されるが、それはそもそも分業の必要性から生まれたのではないか。
JRF2023/10/201215
ごっこ遊びという話があったが、キメラ遊びはトーテムについてタブーがある中での、魔術的関心からなされることがあったであろう。「イケナイ遊び」で、ただ、暗黙に許される人気の知的遊戯でもあったのかもしれない。
ただ、こういう個人の遊びなどから個人のトーテムができ、それが受け継がれて社会のトーテムとなったという見方をデュルケムは否定し、あくまで社会のトーテムが先にあったと論陣を張る。
JRF2023/10/204548
……。
トーテムは人の名前にしばしば含まれる。それは人間と動物を同一視することを導く。人間と動物の二元性が生まれる…。
JRF2023/10/206728
>われわれにはきわめて奇異なこの二元性を理解し易いようにするため、原始人は神話を考えついた。もちろん、神話は何ものも説明しないし、また困難を他に転換するだけであるが、それを転換して少なくとも論理的不評を減じようとする。それは詳細にわたっては異説があるが、すべて同じ地盤に建てられている。すなわち、人間とトーテム動物との間に前者を後者の縁者とする血統上の関係を設けることを目的としているのである。なおまた異なった仕方で表象されているこの起源の共通性によって、性質の共通性が説明されると、信じられている。
JRF2023/10/200996
たとえばナーリニエリ族は、最初の人々のうちのある者は禽獣に変形する力をもっている、と想像した。オーストラリアの他の社会では人類の発端に、あるいは理由はまったくわからないが、人間がその子孫であるとされる奇異な動物、あるいは両界の仲介者である混成的存在、あるいは、また、まったく一定の器官、一定の四肢を欠いていて、身体の諸部分のほとんどは素描されていない、辛うじて表象される形の定まらない創造物を設けた。
<(p.240)
JRF2023/10/207331
……。
トーテムは神ではなく親類やよく言って祖先である。そこには友好関係のようなものがあるだけで、動物崇拝とはまた違うらしい。
>したがって、トーテミズムを動物崇拝の一種とみることは慎しまねばならない。人は自らが聖界に属しているから、自らがその名をおびている動物や植物に対して、けっして信者がその神に対するような態度をとらない。その関係は、むしろ、きわめて同一標準の、等しい価値にある二存在の関係である。せいぜいのところ、少なくとも若干の場合には、動物は神聖な位階においてわずかに高い地位を占めているようだ、といえるだけである。<(p.244)
JRF2023/10/201245
……。
個人的トーテミズムと集合的トーテミズムの二制度…
>しかし、この二制度の親縁がどんなに深いにしても、双方の間には重大な差異がある。氏族は自らのトーテムに用いられる動物、または植物から出たと考えているが、個人はわれわれの私的トーテムと何ら継承関係を維持しているとは信じない。それは友であり、連盟者であり、保護者である。それは親類者ではない。それが所有していると思われる功徳を利用はする。けれども、それと血を同じうしてはいない。
JRF2023/10/206315
第二に、氏族の諸員は、必要な格式が守られることだけを条件として、彼らが集合的にその名をおびている動物を隣接している諸氏族が食べることを許す。これに反して、個人はその私的トーテムが属している種を尊敬するだけでなく、これを外部の者から保護しようと努める。少なくとも、人間の運命と動物のそれとが接続していると思われることろでは、どこでもそうである。
<(p.287)
JRF2023/10/205602
個人的トーテミズムは、ポケモンみたいな友逹…イマジナリーフレンドみたいなものか。上で挙げた博物的関心はあくまで個人的トーテミズムに限られるのだろう。
JRF2023/10/202378
……。
>トーテミズムがどのように発生したかを知りたい者が観察しなければならないのは、ジャワでもスマトラでもメラネシアでもない。それは、すなわち、オーストラリアである。ところが、ここには死者の崇拝も輪廻説もない。もちろん、氏族の建設者である神話的英雄は周期的に化身する、とは信じられている。しかし、それは排他的に人体内にである。いずれも出生は、われわれが述べるように、これらの化身の所産である。それゆえ、トーテム種の事物が儀礼の対象であるとしても、それは祖先の霊魂がそこに宿っていると思われているからではない。
JRF2023/10/207453
この最初の祖先たちがしばしば動物の形態で表象されているのは真実であり、また、このたびたびの表象はわれわれが考慮しなければならない重大な事実である。けれども、それを発生させたのは輪廻への信念ではない。なぜなら、これはオーストラリア社会には知られていないからである。
<(p.305-306)
JRF2023/10/204808
私には「イメージによる進化」という立論がある。
《イメージによる進化》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post.html
鶏が先か卵が先かという議論があるが、私は鶏のイメージが先と答える。鶏のイメージが漠然と目指されて、性選択などのおかげで、その方向に導かれると考える。そのイメージは群で共有されるだろうから、それは群進化的でもある。
JRF2023/10/204894
トーテミズムは、まるで私の「イメージによる進化」の理論を先取りしていたかのように思える。動物をイメージして、そこに向かう、またはその良い特性を取り入れるのを是とするのだ。群進化的であることは、デュルケムがいう集団的トーテミズムが先というのにも合致する。
遺伝的なバラエティを増すためには、単一の動物でなくいろいろな動物を理想としたほうがいいだろう。そして理想が離れても、人間として産めることを担保するためにも、交雑は可能であり続けるべきことから、氏族を超えた部族的であることも必要となる。
JRF2023/10/206357
私の「イメージによる進化」論が実際の科学的真理とは違う可能性は未だ残るが、そういう論を仮説的に原始人も持っていたと考えることは行き過ぎではないのではないか。
JRF2023/10/204696
……。
私は宗教には有神論の基本定理というものを普段、考えている。(『宗教学雑考集』の草稿から↓を引用するが、同様の議論は『「シミュレーション仏教」の試み』にもある。)
>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。<
JRF2023/10/208174
因果応報を実現するために、トーテムシステムにおいては、見えないところで人以外の動物などが見張っているとするのだろう。
JRF2023/10/200600
見張るのがなぜ霊であってはいけなかったか。それは、イメージによる進化を実現するため、トーテムシステムを維持する必要があったからだろう。つまり、話は逆で、トーテムシステムを維持するために、霊ではなく動物などが見張っているのでなければならなかったのだ。オーストラリアの状況では、霊は当然考えられただろうが、それが抑圧され、なかなか一般性を帯びなかったのはこのためだろう。上で挙げたトーテミズムにあった、アニミズムやナチュリズムを「阻害する要素」とはこれのことである。
JRF2023/10/206304
では、トーテミズムを克服し霊の議論を可能にしたものは何なのか? それは最初に挙げたスフィンクスやミナレットの登場(参: [aboutme:114757])ではないか。人はもはや動物としての進化よりも、スフィンクスが示したように道具を合わせた全体として「進化」すべきであり、それをミナレットが示すように地下資源も含めた地球全体が支えてくれている…という確信が、トーテミズムを「克服」し、科学と同時に霊の理論も中心に導き入れたのではないか。
JRF2023/10/208169
原始社会においても埋葬はあり、死者の見守りなどは意識されたし、呪術者もいたので降霊術などもあったろう。霊の理論は大人社会の常識では否定されたかもしれないが、それはそれで広くあったと私は思う。そこでは、また、「霊」は暗がりを怖がる幼児性の象徴でもあったのかもしれない。ある種、トーテムを脱した社会は、心理的ネオテニーなのだろう。
JRF2023/10/204437
……。
食べたトーテムから、女性は受胎すると考える。受胎が問題になるのは、まさに上で述べた「イメージによる進化」を想起させる。
>すなわち、これを生んだのは原住民が生殖に対して抱く観念であり、また、この理由から、原始的トーテミズムをフレーザーは受胎的(conceptionel)と呼ぶのである。<(p.328)
どういうイメージの子が産まれて来てよいのか、それは逆にどういうイメージの子ならば「堕胎」するかという話になる。
JRF2023/10/208230
>この見地からは、トーテムの宗教的特質はまったく説明できない。人間と動物との漠然とした親縁に対する漠然とした信念な礼拝を定めるに足りないからである。この別個の世界を混同すると、世界を聖と俗とに二分する結果をもたらすことができない。<(p.329)
JRF2023/10/200519
上で挙げた「捨て扶持」理論では、聖は、「捨て扶持」で生きる階級が鬼神にたずさわることに追いやられることでできるのだった。そして、僧は「来世がないのがよい」も主宰するようになるが、それには、来世=子という考えから、産児制限の是認もありうるとしたのだった。もちろん、それは、「堕胎」よりも、人口増が戦争を導き人が死ぬよりは、予め結婚などを規制し子供の数を抑制するということだったが。
JRF2023/10/201893
しかし、それは、より原始的な社会においては、直接、聖が、産児制限としての「堕胎」に関わっていた可能性を示唆するのかもしれない。それは秘密にせねばならないからこそ、聖と俗がハッキリ分けられるべきなのだ。プライバシーと似た淵源を持つのかもしれない。(プライバシーは私生児の生命を意味することがありうる。…という議論を私はしたことがある。[aboutme:125348] などにまとめがある。)
JRF2023/10/203021
「イメージによる進化」をうながすため、イメージに沿った者のほうが(それが障害でも)生き残りやすくする…ということが、産児の時点からあったのではないか。
また、産まれてからも、いろいろな場面で、イメージに合わない者を選別する機会はあったものと思われる。仇を討つとき、それを邪魔したり助けたりというので、そういう選別が起こったことなどがあるかもしれない。
死者の霊が人を襲うということは普通ない。それは単にそういうことあると告げられたものの中に生じる幻覚であるものだ。しかし、聖集団による暗殺が死者の霊の理論を作りえたことも事実だろう。
JRF2023/10/209599
……。
マナという力の理論が(マナという名前ではないが、類似物の想像によって)トーテミズムとともに普及している。
>マナは確定的にはどこをも占拠しない、そして、至るところにある。生活のあらゆる形態、人間・有生物・単なる鉱物の活動のすべての効力は、マナの影響に帰されているのである。<(p.350)
JRF2023/10/207960
マナから私は、私は『宗教学雑考集』や『「シミュレーション仏教」の試み』で書いた「なぜ生きなければならない」([cocolog:92189837] など)で安住の反作用としてできた「総体として生きたい」を思い出した。
JRF2023/10/202098
マナはこの「総体として生きたい」に相当すると考えられる。そして、「総体として生きたい」は、「なぜ生きなければならないか」を導くための中間点として求められたものだった。つまり、マナの理論も原始社会において「なぜ生きなければならないか」の理論が必要になったため生まれたのではないか。
JRF2023/10/200719
そして原始社会で、なぜ「生きなければならない」が必要になったかといえば、生きる力の衰微があったのだと思う。上で因果応報のためにトーテム動物が見張っていると考えたが、見張るなら日や月のほうが確実だと言える。後代に日や月のトーテムが認められたのはそれゆえかもしれない。しかし、日や月まで見張っているとなったその監視の強さにより、生きる力が衰微したのだと私は考える。主に性行為が監視によって衰微しただろうから。
JRF2023/10/202075
……。
ヨーロッパ社会を想像して、演説において自分の考えより進んだ考えを我知らず演説してしまうことがある。社会がそういう刺激をもたらしたのだ。そういう刺激は社会はつねに個人にもたらしている。
JRF2023/10/206564
>いわば、(…マナのような?…)エネルギーの何らかの横溢が外部からやってこないときは、われわれの生活の一刻たりといえどもない。自らの義務を果した者は、共感を表示するありとあらゆる現れに、仲間が彼に対して抱いている尊敬や好意、励ましの感銘を見出す。彼はこの励ましを平生は考慮に入れていないが、にもかかわらずやはりこれが彼を支えているのである。
JRF2023/10/205189
社会が彼について抱く感情は、彼が自分自身についてもっている感情を高める。彼は同時代人と道徳的に調和しているので、行動においていっそうの自信と勇気と豪胆さとをもつ。自らの神の注視が慈愛深く彼の方に向けられているのを感じている信者とまったく同じである。
<(p.381)
近現代においては社会が神である。…と。
JRF2023/10/201691
……。
>なおまた、われわれは、現在においても過去においても、社会があらゆる断片から聖なる事物を創造するのをみる。もし、社会がある者に熱中し、彼に社会を動かす主要な熱意を見出すとともにこれを満足させる手段を見出すと信じるならば、彼は比類なき者とされて神化される。世論は神々を守っているのとまったく似た尊厳を彼に与える。これは、その世紀の信仰を生えている多くの主権者に起ったことである。(…)しかも、また、社会だけがこの種の祭神(apotheose)の作者であることは明白である。<(p.333-334)
JRF2023/10/204503
ここでは聖=英雄(ヒーロー)という図が描かれている。しかし、これは少し違うのではないか。聖はむしろ老人などであって、そこから負託された王こそが、ここでいう祭神で、それは俗から選ばれた(戦争などの人殺しができる)代表者なのではないだろうか。それを聖がどう操るかという視点はあるかもしれないが…。
JRF2023/10/201258
……。
オーストラリアの宗教祭儀は、タブーもやぶられるような狂乱が行われる。この狂乱の祭が、いってみれば、近現代の社会で演説するのに似ているとも言いたいようだ。
>両性は性的関係を支配している規準に反した関係を結ぶ。男は妻を交換する。ときには、近親婚による結合さえ -- 普通時には、厭忌すべきことと判断され、厳重に罰されるのに -- 公然と罰せられることなく契られる。<(p.390)
JRF2023/10/207627
ここに「突然変異」のイメージを私は見出す。近親婚が現実には障害をもたらすものではないとしても、そういうものだとされていたと思われ、その障害があってもいいという観念があったのではないか。また、イメージ違いの者の交雑が、(種の違う動物が子を生まないか生んでも障害を生むように、) 障害的であっても、ときおり、強い個体を生み出しうるという考えもあったのではないか。
JRF2023/10/200676
……。
日常生活と祭という二つの異質な世界がある。
>一つは、彼が物憂くも日常生活を後っている世界である。これに反し、もう一つの世界には、狂愚の状態にまで彼を興奮させる異常な威力と同時に関係しない限り、参入できないのである。前者は、俗の世界であり、後者は、聖なる事物の世界である。<(p.393)
JRF2023/10/204263
『宗教学雑考集』の「易理」の章で論じるが、祭はケガ人などの数を案外、正確に予言できる。できる不義の子供の数も確率的に予想できただろう。俗人にとって狂愚かもしれないが、聖者にとってはコントロールされたものの可能性がある。上で聖による選別に言及したが、その舞台の主なものはここにあるのかもしれない。
JRF2023/10/200842
……。
>このこと(…祭の理論や記号の理論などが…)が立証されれば(…立証されたので…)、われわれはトーテム的信念に本質的なすべてを了解するに至ったのである。宗教力は氏族の無名な集合力以外のものではなく、またこの集合力はトーテムの形態のもとでのみ精神に表象されるのであるから、トーテム的記号は神の可視的な姿体のようなものである。それゆえ、礼拝がこれを促し、または妨げることを目的としている善良なあるいは恐るべき行動が発すると思われるのは、トーテム的記号からである。このようにして、これが一連の聖なる事物のうちで首位を占めていることが判明するわけである。<(p.399)
JRF2023/10/209732
記号によってできるのは、聖というよりは国家のように思う。ここで私は私の「国家自由主義」的な主張を思い出す。
JRF2023/10/204044
[cocolog:91758418]
>私はよく話をするのが、新商品たるウォークマン(今なら「ポータブルプレイヤー」かな)を買える自由のためには何が必要か…ということ。そのためにはウォークマンをどこかから買ってくる自由があればいいだけではない。そのアイデアを生み、それが生産できる何者かがいなければならず、その生産には長い教育が必要である。また、その需要のためには、音楽がなければならず、文化資本が必要となる。エロ本を買う自由という話も私はする。それも少し違った論理が必要になる。<
JRF2023/10/204277
これをつきつめれば、自由のために国家が必要となる。ある種の人々には、驚くべき主張かもしれないが。
原始社会における祭もこれではないか。
抑圧された無意識が自由=狂愚を希求していることを、祭は示す。そしてそれだけでなく、聖のコントロールとして、トーテム=イメージによる進化こそが、自由をもたらすと、そこにおいて条件付けされるのだ。道具や機械ではなく、人という生物の進化しか自由をもたらすものがないという観念においては、それは正しいのだ。それが部族社会という国家(とトーテムシステム)を肯定するのだと思う。
JRF2023/10/201746
……。
>記号が宗教生活の著しい源泉(…)である。人は、自ら良く知っているように、これに間接にしか参加しない。彼は、自己を聖なる事物の圏内に誘う力が、自己に専属しているのではなく、外部からきたものであることを熟知している。<(p.400)
>(…デュルケムの見地からは…)宗教は、何か言説できない錯覚であることをやめて、実在に足場を占める。事実、信徒が自ら依存し、また自らのもっとも良いものを保持している道徳的威力の存在を信ずるのは、誤っているとはいいえない。すなわち、威力は存在している。それは社会である。<(p.405)
JRF2023/10/207219
記号と社会で、デュルケムは(私から見れば)形而上学的に論を止めるが、私は、記号の源泉となるのは「イメージによる進化」による堕胎などなので、物理的実体を基礎に考えていると言える。フランス革命の余韻が残るような、「社会」に特別な価値を見出すようなことは私はしない。
JRF2023/10/205509
……。
>神とは、社会の具象的な表現にほかならないからである。<(p.407)
社会が神であるとハッキリ述べている部分。
JRF2023/10/206792
……。
>事物が所有すると思われている功徳がそれに内在的でなく、それが想起し、また象徴する若干の感情 -- これらの起源はそれ以外にあるが -- からくるとすれば、事物は、このよび起す役割を果すために一定の広さをもつ必要がなくなるから、全部的であってもなくても同じ価値をもつであろう。部分は全体を促すので、それは、また、全体が促す感情をもよび起す。単なる旗の断片が旗そのものと同時に祖国を表象する。であるから、それは同じ資格でまた同じ程度に聖である<(p.412)
JRF2023/10/202488
仏舎利は、非常に細かくされてもやはり聖だった。または実質なくなっていても聖だったことを思い出す。
JRF2023/10/208425
……。
>このように、社会生活はあらゆるその部面において、またその歴史のあらゆる時期において、広汎な象徴主義[サンボリスム]によってのみ可能である。物質的記号・造形された表象 -- われわれはこの研究では、とくにこれらに専心しなければならない -- は、その特殊な形態である。けれども多くの他のものがある。集合的感情も等しく人物または定式に変化しうるのである。ある定式は旗である。また、ある実際上または神話上の人物は象徴である。
JRF2023/10/202356
しかし、あらゆる打算や反省の外できわめて速やかに現われるはずの一種の記号がある。すなわち、それはわれわれがトーテミズムで重要な役割を演じるのをみた記号である。それは入墨である。
<(p.417)
どこかで見たのか、私のただの妄想だったかは定かではないが、入れ墨は一種のカルテで、その病歴を示すものだったとのことだった。犯罪歴は病歴に含まれる。
JRF2023/10/204656
……。
なぜ動物や植物がトーテムとして選ばれやすかったか。それは進化的近縁のほうが、イメージによる進化に適合するからというのが私の答えだが、デュルケムはまだ答えていない。その答えは…。
JRF2023/10/202550
>記号が名目よりも重要な役割を演じたことは、われわれには真実と思われる。それはとにかくとして、記された徴は、今日でもまだ氏族の生活では話された徴よりもっと中心的な地位を占めている。ところで、記号的画像の材料はデッサンによって象られうる事物にだけ求められた。他方、これらの事物は、氏族の人々がもっとも直接に、またもっとも親しく関係していたものでなければならなかった。動物はこの条件を最高度でみたした。これらの狩猟者や漁撈者の民族にとっては、動物は、実際に、経済的環境の本質的要素を構成した。この関連では、植物は次にしか出てこない。
JRF2023/10/208003
(…)
これに反し、太陽・月・星は余りにも遠く、他の世界に属しているという印象を与えたのである。
<(p.421)
自画自賛になるが、デュルケムの理論より私の理論のほうが説得力があるように思う。
JRF2023/10/200827
なぜトーテムに日や月が選ばれにくかったかは、イメージによる進化だけでなく、実際にそれをトーテムとして採用すると、上で書いたように「生きる力」が失われたため、そこでロールバックが起ったのかもしれない。
JRF2023/10/207664
……。
>今日われわれにまったく自明と思われている真理があるとすれば、それは単に外見だけでなく、もっとも本質的な特性によって違っている鉱物・植物・動物・人間などの諸存在は等値として、かつまた、直接相互に交換できるもの、としてみなすことができない点である。科学文化が、さらに根強く、われわれの精神に植えつけている永い間の風習は、生物進化説(transformisme)そのものでも存在を否定しない柵を諸種の自然界間に設けることを教えてくれたのである。
JRF2023/10/208581
というのは、これは、生命は無生物から、また人間は動物から生まれえたことを認めるにしても、生物はひとたび形成されると鉱物とは別なものであり、人間は動物と別なものであることを誤解しないからである。
<(p.423)
キリスト教社会では、進化論は驚きを持って迎え入れられたかもしれないが、日本のようなアニミズム的社会では動物から人に変わったのは大いにありうることだった。ただ、猿だけでなくキツネなども人になれるというもので、そこには大きな断絶があった。
JRF2023/10/205735
しかし、家畜を生んでいたころの人類はそれとは違い、どういう動物はかけあわせることができるか、できないか、それを人に適用したらどうなるかについて、その知識が社会で重視されていたと思われる。そこでは自然に進化というものが現代ほどではないにせよ、ある程度は理解されていたのではないか。イメージによる進化論は、鶏が先か卵が先かの議論から生じうるもので、それは古代でもある程度可能だったように思う。
JRF2023/10/204780
イメージによる進化は、視力の獲得のように種を越えた形質の伝達を説明しうる。それは、誰かが視力を獲得したとき、それを論理的に察知すれば、そういうものを目指そうとして、イメージによる進化・性選択などが駆動するからである。イメージは種を越えて、形質を実現しうる。無生物からであろうと学べるのだ。
JRF2023/10/200010
……。
……。
以上までが「上巻」である。
ここまでの私、ちょっと自分の議論に引き寄せすぎて結論を急いだきらいはあるかもしれない。イメージによる進化そのものの概念に原始人が到達していたとは思えないなどアラはあるだろう。
以下、「下巻」に入る。
JRF2023/10/208184
……。
>われわれは、以前の諸章では、トーテム的宗教の基本である諸原則を研究した。そこには、霊魂、精霊、神話的人物の概念がまったく欠けていることがみられた。しかし、霊的存在の観念が、トーテミズム、ひいてはまた、一般に宗教思想の基底にはないにしても、この観念に出会わない宗教はない。したがって、これがどうして構成されたかを探求することが重要になる。この観念が二次的形成の産物であることを確言するには、さきに叙述し説明したより本質的な概念から、これがどんな様式で派生したかを確定しなければならない。<(p.9)
JRF2023/10/205573
上巻を読んで私は、霊がトーテミズムの社会で一般的でなくそれが抑圧されてるように描いてきたが、それはデュルケムのフレームワークなだけで、本当は、霊魂も普通にその社会にあるらしい。だから、私の立論は修正を要する。デュルケムが霊をトーテミズムより後代においたのは、十分な理由があり、やはり霊は抑圧されていると見るべき…と考えるのがその修正となろう。
JRF2023/10/209932
ところで、この先、デュルケムは、霊概念をかなり論理的整合性のあるものとして描いているが、日本の霊概念の状況を考えると、オーストラリアでもそこまで論理的整合性はなかったのではないか。トーテミズムの抑圧が霊概念をあいまいにしている面もあったはず。日本では、涅槃の教えと道教的霊概念の衝突があって、それが、霊概念の解釈的統一を妨げている面もあると思うが、そういうことが、トーテミズムにもあるのではないか。論理的整合性なく説話的に様々な霊概念は並立できるものだ。それが、霊に関する言説を西洋人に複雑なものに見せているのではあるまいか。
JRF2023/10/203565
そのような霊概念の並立は、霊などにこだわるより現実にこだわること…または霊にこだわるとしても共通要素的なものにこだわることを薦める意味もあるだろう。
JRF2023/10/202316
……。
オーストラリアにおける霊魂は普通は目に見えないものだという。
>呪術師あるいは老人が霊魂を見る能力をもっていることは真実である。けれども、われわれの感覚を逃れる事実を彼らが知覚するのは、あるいは年齢、あるいは特殊な教養に負う特殊な力能の功徳によるのである。ドウソンによれば、普通の個人たちは、生存中のある一瞬間しか、彼らと同じ特権を享受しない。彼らがまさに早死しようとするときが一瞬である。したがって、このなかば奇蹟的な幻覚は不吉な前兆と考えられている。<(p.11)
JRF2023/10/205963
……。
>オクナニキッラは、氏族のチュリンガが保存されている聖堂の類いであって、さまざまなトーテム的礼拝のセンターのようなものである。これらの聖堂のいずれかをさまよっている霊魂の一つが、ある婦人の肉体に入るときには、受胎、出産が結果するのである。それゆえ、各個人は特定のある祖先の新たな生れ替り(avatar)とみなされている。すなわち、彼はこの祖先のものであって、新たな身体に新たな特徴をもって再現したのである。だとすれば、これらの祖先とは、何であったのだろうか。<(p.24)
JRF2023/10/209164
>霊魂には、それら以外のものは存在しないのであるから、われわれは、霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのものである、という結論に達した。<(p.25)
トーテムの霊が受胎させるというのは、イメージによる進化にかなり近い考え方である。
JRF2023/10/200390
それはそれとして、祖先がなぜ重要かというと、それは老人崇拝に関係しているのではないか。祖先を大事にすることは、過去の記憶(記録)を大事にすることである。すると、自然に老人が偉いという話になる。これがなぜトーテミズム=イメージよる進化に大事かというと、進化だけが良いということになると、早く子供を生んで早く成長して結果がわかるのが良いとなる可能性があるからだ。そうではなく長命でいたいというのも、人の変わらぬ欲であろう。長命が有利になるためには、老人にまでなったものの親族が生殖について高評価を得る必要がある。だからこそ老人崇拝が起こるのだろう。
祖先崇拝は長命崇拝でもあるのだろう。
JRF2023/10/206221
……。
>ストレロウによれば、ひとたび葬儀によって決定的に身体から解放された霊魂は、もはや再び化身するものではない。それは死者の島に立ち去り、再びこの地上に帰りたくなるまでは、そこで昼は眠り夜は踊って暮す。そのときがくれば、生者の中に立ち戻ってきて、その死者が残した幼い子供たちの傍で、あるいは、子供たちがいないときには、孫たちの傍で守神の役を司る。霊魂は彼らの身体に入って、その発育を用意にする。<(p.29)
上で「「霊」は暗がりを怖がる幼児性の象徴」かもと書いたが、それを裏付けるような話だ。
JRF2023/10/207791
……。
霊が胎児に「入る」にはラタパとナマトゥナの二つの方法がある。
>(…祖先や英雄と関連を保っている…)これらの木や岩のおのおのの上や、これらの水穴のおのおのの中にはラタパ(ratapa)と呼ばれる胎児が生存している。(…)胎児の一人は彼女の腰から入り込むことができる。
(…また別に…)
所定のときに、彼(…すなわち祖先…)は、地下の隠れ場を出て、ナマトゥナ(namatuna)と呼ばれる特別な形をした小さなチュリンガを通る夫人に突き刺す。チュリンガは婦人の身体に穿ち入って、そこで人間の形をとる。その間に祖先は再び地下に消え去るのである。
<(p.20)
JRF2023/10/205119
人の霊が二種に分かれるというのしばしばある。中国では魂と魄があるし、地獄で苦しむ者と閻魔帳に書かれた記録もその二種だという話もしたことがある([cocolog:93009141])。そして私の立論でよく出てくるのが《魂の座》の話である。[cocolog:94424426] で引用した部分があるので、そちらを見ていただきたい。そこでは「霊的肉体モデル」と「神の記憶モデル」が、その二種になる。
JRF2023/10/206997
ラタパは「神の記憶モデル」だろう。上で、監視を行うトーテムの話があったが、それで閻魔帳に付けているのが「神の記憶モデル」に相当する。これは、付き詰めると、神の中の完全な記憶は、いわば天使的になるのも注目すべきである。デュルケムが後に、集合的社会がもたらす記号的霊意識を挙げるが、これは天使的なので、「神の記憶モデル」に相当しよう。
JRF2023/10/200193
一方、ナマトゥナは地下にいることから、冥府のイメージを適用して、そこでは罰などの応報を受けている贖罪体…霊的肉体の存在が想定されるので、「霊的肉体モデル」に近いのではないだろうか。地獄や冥府の考え方が、デュルケムはオーストラリアにない…といいたいのかもしれないが、(敵の)死者が苦しむ・呪いを受けるというのは、ないとおかしい気がする。
まぁ、これらも私の議論に無理に近付け過ぎてるキライはあるが。
JRF2023/10/203963
……。
>霊魂は、また、しばしば、動物の形態で表象されている。下級社会では、死はけっして純然たる生理的原因からくる自然的事変とはみなされていない。それは、一般には、妖術者の呪詛に帰されている。オーストラリア部族の大多数では、殺害に責任ある主謀者が誰であるかを確定するのに、殺害者の霊魂は、一種の必然性に屈して、不可避的に自らの生贄を訪れてくる、という原理から出発する。(…)<(p.48)
…そして屍体の近くに動物の足跡が残っていれば、そのトーテムの者の犯行だということらしい。
JRF2023/10/200357
そこで推理がなされているように見えて、実は事前にわかっていて占いの結果を操作するようなことがされたりする場合もあるというところで、霊魂概念、トーテム概念が強化されていくのだろう。上で死者の霊の概念を作るために暗殺することなどを挙げたが、そこまでする必要はない感じか。
JRF2023/10/200814
……。
>死後、霊魂が明白に動物の形態で現われる事例は、トーテミズムが多少とも害われた社会から借用されている。それは、トーテム的信念が比較的に純粋なところでは、霊魂概念はどうしても曖昧だからである。<(p.52, 注)
なるほど、霊概念があいまいなところほどトーテム的信念がしっかりしているようだ。これは、私の立論とも整合性がある。
JRF2023/10/207161
……。
>ある神聖な対象物の効験が、抽象的な形態で精神の中に表象されているか、あるいは、何かの人的な動作主体に帰されているかは、事の本質にとって問題ではない。双方の信念の心理学的根源は完全に同じである。すなわち、ある事物が神聖であるのは、それが、何らかの理由で、俗なるものの影響からこれを引き離す集合的な尊敬感情を鼓吹するからである。<(p.58-59)
キリスト教徒または現代人は、「霊的肉体モデル」を信じがたい面があるようだ。「神の記憶モデル」もそれが生命力があるように描くバージョンになれば、かなり「霊的肉体モデル」に近づき両者の差がなくなるということもある。
JRF2023/10/204537
ここでデュルケムが語っているのは、その両者を混同していることの影響があるのかどうなのかはよくわからないが、私は混同しているのかな…と思う。
JRF2023/10/206258
……。
>われわれが行った分析から、不滅の信仰はけっして道徳的観念の影響によって構成されているのではない、という帰結をうるのである。人間は、道徳的行為の正しい報酬が現世において得られない場合には、これを来世で確保しようとして、自らの生存を墓の彼方まで延長することを想像したのではない。というのは、このような配慮が原始的な彼岸の観念とまったく無縁であることをわれわれはみたからである。<(p.61)
私の論では、トーテムシステムを守るために、霊システムによる因果応報が抑圧されるという話だった。
JRF2023/10/207493
>原始人は霊魂を虚無から引き出す全能神の観念をもたない。霊魂は霊魂によってしか作られない、と思っているのである。したがって、生れ出る霊魂はかつて存在していたものの新たな形態であるにすぎない。ひいては、他の霊魂が形成されうるためには、かつて存在していた霊魂が、依然として、存在していなければならない。要するに、霊魂不滅の信念は、当時、人類が自己の注意を促さずにいなかった一事実を、自らに説明するための唯一の様式であった。それは集団の生命の永続性である。個人は死ぬが、しかし、氏族は残存する。<(p.63)
JRF2023/10/205682
氏族の永続性が大事というのは、旧約聖書のユダヤ教的かもしれない。
ただ、私は、長命崇拝=祖先崇拝のために、祖先が不滅に見守る必要があるから不滅の信仰ができたのかな。…と思う。
それが地獄的概念と合わさると永劫の罰的になってくるが、それがムゴイと考えるなら、トーテムの中でも下位の畜生への転生といった形になるのだろうか。それが、他の氏族にトーテム動物が殺されることの是認につながるとかあるのかもしれない。
JRF2023/10/200996
……。
>上述したことから、人格の観念は二種の因子の産物であることになる。一つは、本質的に、非人格的である。これは、集合体に霊魂として役立つ霊的原理である。事実、個人的霊魂の本体そのものを構成しているのはこの原理である。ところが、それは特定の人物の物ではない。すなわち、それは集合的資産の一部をなしているのである。あらゆる意識は、その中で、また、それによって、交通するのである。しかし、他方、各個の人格が存在するためには、この原理を寸断し、これを分化する他の一因子が介在しなければならない。いいかえれば、個物化の因子を必要とするのである。この役割を演ずるのが身体である。<(p.66)
JRF2023/10/201957
「集合的資産」が、天使化した「神の記憶モデル」に相当し、「身体」が、「霊的肉体モデル」の生きてるときに対応するのだろう。
JRF2023/10/201900
……。
>霊魂観念に依拠して、われわれは、非人格的な力の圏域の検討をすませた。しかし、すでに、オーストラリアの諸宗教は、霊魂の上に、高級な神話的諸人格、すなわち、精霊・開化的英雄・固有の神々さえも認めている。<(p.71)
さらに創造神的な「大神」も「国際的」にあるのだという。キリスト教の影響とする研究者もいたが、デュルケムはそうではなく英雄などから独自に発達したものだという。
JRF2023/10/208728
……。
>われわれは、個人的霊魂が祖先の精霊のもう一つの形相にすぎないことをみた。(…)要するに、それは、同じ霊魂が二つの身体をもっているということである。
(…)
個人的トーテムは、保護者的祖先のあらゆる本質的な特徴をもち、同じ役割を果す。それは、したがって、同じ起源をもち、同じ観念から派生したのである。
事実、双方とも霊魂の二分割から成っている。トーテムは祖先と同じく、個人の霊魂である。しかし、霊魂が有機体の内部にもっているとされているものよりは、高級な力能を付与され、外部化したものである。
JRF2023/10/203382
(…)
われわれが自己の外に投出しようとするわれわれ自身の完全無欠の部分がある。われわれがこのように自己を考える様式は、これを避けることができないほど、われわれの天性のうちに堅固な基礎をもっているのである。
<(p.82-83)
どうもキリスト教の聖霊のような外在的「道徳的意識」は普遍的にあるということらしい。
JRF2023/10/201205
……。
悪霊というものも当然ある…。
>彼らは、同類であるアルチュリンガの英雄たちとは単に特別な特色によって区別されている。彼らは化身しない。生きた人間のうちには、彼らを代表するものはけっしてない。彼らは人間の子孫をもたない。いくつかの徴によって、子供が彼らの業の産物であると信じられるときには、生まれるとすぐに殺してしまう。<(p.88)
ここは実際に「堕胎」はありえたという証言になる。
JRF2023/10/205579
……。
大神については様々な部族間で名前や細部は違うものの似た「神話」が広く共有されている。
>したがって、宗教的国際主義は、きわめて最近のもっとも進んだ諸宗教の特殊性ではけっしてない。<(p.98)
JRF2023/10/202589
……。
パーカー夫人がユーアライ族で観察した一神話では…。
>この部族では、トーテムとは、最初は、(…大神である…)バイアメの身体の諸部分に与えられた名前にすぎなかった。<(p.108)
ここは食べ物ではないけど、少しハイヌウェレ神話型的だね。
JRF2023/10/200886
……。
>諸霊や神々が霊魂以前には考えられえないにしても、これらは死によって解放された単なる人間の霊魂以外である。そうでなければ、彼らの超人的な力能はどこからくるのであろうか。<(p.114)
JRF2023/10/204460
「大神」は、『「シミュレーション仏教」の試み』におけるエリート=支配層が、災害に対処するところに関連があるように直感する。災害には戦争も含まれ、そういう大きな単位での「公共事業」が必要とされたとき、そのモデルとなる大神の「超人的な力能」の必要性が痛感されたのではないか。成人式を大神が主宰するのは戦争または戦争に代わる命がけの公共事業への参加を求めるようになるからのように思う。
JRF2023/10/200579
……。
>一言でいえば、宗教的禁忌は至上命令である。呪術的禁制あは利的格言、衛生的および医学的禁忌の最初の形態である。<(p.120)
上で挙げた「易の小集団主義」で、問題は、占いで悪い運命を予言する場合、必要な行動が満たされたのに予言が実現した場合が特殊なことである。この場合、占者が失敗し、占者の評価はマイナスになるのだが、運命の神の力はむしろ強かったとしてプラス評価になる。これがカラクリの核である。
JRF2023/10/202169
これが確率的偏りとなって、占いは神に有利になる。これがおそらくデュルケムのいう「呪術」の方法である。ただし、この「呪術」では神も間違うことは出てくる。
JRF2023/10/200991
>ところで、占者が占いによらず良い運命が訪れるか悪い運命が訪れるか判断するとしよう。すると、上で「特殊」とした場合において、占者の評価がマイナスになると同時に、判断した占者の神の力がプラス評価されるということが起きる。良い運命や悪い運命を公平に選んでも長くやればやはりプラスになるにしろ、占者は有利な悪い運命ばかりを予言したくなる。神が別にあるのに比べ効果が薄くなるわりに、人々からは疎まれるようになる。一神教の預言者が悪い運命ばかり予言して疎まれるのも、このあたりに理由があるのかもしれない。<
JRF2023/10/209071
これがデュルケムのいうところの「宗教」の方法だろう。常に、タブーという必要な行為を破れば悪い運命が起きると予言する。必要な行為をしているにもかかわらず、悪い運命が振り注いだ場合、神官的な者は不十分性を咎められるかもしれないが、神(またはトーテム)自体はその力の強さをよりいっそう認められることになる。悪い運命を予言し続けている限りは神は間違わない。だから、タブーという形式が重視されるのであろう。
JRF2023/10/208250
……。
>服喪中は、少なくとも、その縁者は、死者の名を言ってはならない。<(p.125)
戒名って意外にこういう原始的なところから来ているのかも。
JRF2023/10/204019
……。
>儀礼的虐待<(p.142)
原始人には、血を流す祭儀など残虐行為がある。それが、どうしても、やりすぎを含むため、まずは他人が関与しない自分で自分を苦しめる苦行になっていき、最後は、苦行も否定された…という感じなのだろうか。
JRF2023/10/203535
>事実、人間の偉大さがもっともよく示現されるのは、苦悩に挑んでいく様式によってである。人は自発的にとるであろう道程に反する道程に従わせるほどに、その性質を統御するときほど、非常な光輝をもって、自己の上に高まることはない。人は、快楽が呼ぶところに盲目的に赴く他のあらゆる被造物に伍して、このことによって、自己を特異な存在たらしめている。これによって、人は世界において固有の地位を占めている。苦悩は、人を俗的環境に結びつけていることを検証する。
JRF2023/10/202986
ひいてはまた、それは、正当にも、解脱の器具とみなされている。であるから、このようにして解脱した者は、自己が事物に対して一種の制禦力が与えられていると信じるとき、純然たる幻覚の生贄となっているのではない。事物を放棄したこと、そのことによって、彼は、実際に事物の彼方に高まっている。彼は天性を沈黙させたから、天性よりも強いのである。
<(p.144)
JRF2023/10/205567
集団として「善い」を実現するために、本能的欲求が命ずるままでなく、苦悩できるところが人間の特長ということだろう。人は、トーテムの善いイメージのために、自己犠牲的になることができる。苦行は問題だが、本能の超克そのものは求められていることでもあったのだろう。原始社会でもそれが「人間性」であるという自己認識もあったのかもしれない。
JRF2023/10/202070
……。
彼ら=大苦行者について…。
>通常、人々に情熱を抱かせる一切のものに対して彼らの示す軽視のうちに、人は、度のすぎたもののあることに気づいて、驚く。しかし、これらの極端さは、安易な生活や通常の悦楽に対する嫌悪を信者に十分抱かせるためには、必要である。群集が目標を余りにも低くおかないためには、選良[エリト]は、それを高すぎるところにおかねばならない。平均が妥当な水準にとどまるためには、誰かが誇張しなければならないのである。<(p.145)
JRF2023/10/201513
『宗教学雑考集』のコラム「来世なんてない」で取り上げること、『「シミュレーション仏教」の試み』に元はあった部分だが、次のような文を書いた。
JRF2023/10/201401
>現代の日本では、僧は、涅槃に入ること・「来世がないほうがよい」という外観を保つために善行していると極論してよいのではないか。僧が善行することを見て、人々は僧が尊ぶ涅槃に入ることは社会的にも良いことなのだと確信できる。
(…)
僧が「善行」をすることで、涅槃に入ろうとすることが善いことだとブランド化される。それはブランド化だから、僧と同じことができなくても、自分は涅槃に(いずれ)入ると考えることができる。涅槃に入る方法は、僧的な善行以外にもいろいろある。
<
JRF2023/10/204136
「苦行」ではないかもしないが、エリート(僧など)が行うことで、必要なことをブランド化するということは原始時代から必要とされてきたのだろう。
JRF2023/10/209546
……。
聖界と俗界は対立する…。
>この心理的対立、この観念の相互的な排除は、当然、それに対応する事物の排除にまでいたらねばならない。これらの観念が共存してはならない以上、事物が抵触し合ってはならないし、けっして、関係してはならない。これが禁忌の原理そのものである。<(p.151)
JRF2023/10/201439
観念の世界で、そこまで分離する…となると、VR (仮想現実)と相性が良いのではないかと思う。もちろん、VR に参加する者は、俗な部屋にいるから、実際やってて聖なる感じはしないのだけど、工夫の仕方によっては、聖俗の分離をかなりしっかりできるのではないか。
VRChat には寺などもある。今は、ちょっとふざけた感じを許しているけど。
《仮想山 観心寺 The Japan Temple - VRChat》
https://vrchat.com/home/world/wrld_3073de19-9714-4fa6-9bb2-9f40c9d3325f
JRF2023/10/209069
その辺、今後の発展が期待できるのかもしれない。
JRF2023/10/206648
……。
>この神聖なものの伝播性は、これ以上の多くの事例によってその存在を証明する必要のない、余りにもよく知られた事実である。われわれは、ただ、これが進んだ宗教におけると同じく、トーテミズムでも真実であることを確定しようと思う。これがひとたび立証されれば、この神聖なものの伝播性は、聖を俗から区分する禁忌の極度な厳密さを容易に説明する。宗教力はこうした法外な拡充力をもっているから、俗的存在のもとも軽い接触・物質的または単に道徳的なもっとも少ない接近でさえ、宗教力をその固有の領域外に引き出してしまうからである。<(p.154)
JRF2023/10/203801
伝染性は、まるで神がウィルスか細菌であるかのようになされる。[cocolog:92031461] でギリシアの神についてそのような妄想をしているし、旧約聖書では、皮膚病について、ウィルス的なものを知っているかのような扱いをしていたりする。ウィルスなどの性質について、結構、皆がある程度はわかっていたのではないか…と思う。
ウィルス的な流行があって、それをモデルとして、聖概念が作られているというのは大いにありうることだと思う。もちろん、ウィルスそのものの実態は本当にはわかっていないから、行き過ぎとかはあるだろうけど。
JRF2023/10/207679
……。
>灌奠[かんてん]<(p.158)
読めなかった。ググると「酒や水などの液体を地面や犠牲獣の上に注ぎかける行為」らしい。この本、難読漢字がわりとある。
JRF2023/10/208452
……。
>人間を活気づける宗教的原理、すなわち、霊魂は人間に、部分的には外在しているのである。<(p.161)
本には「重ね合わせ」の語もある。「神の記憶モデル」みたいなのは、オーバーレイしている感じはある。守護霊もそんな感じだが、守護霊でなくとも霊がそもそもオーバーレイしているという空想は私にも親しい。
JRF2023/10/207032
……。
>人・動物・植物・岩石は同じトーテムに与かることとなる。すなわち、人は動物の名を帯びているからである。動物は、トーテム的標章を思わせるからである。植物は、これらの動物を養うに役立つからである。岩は祭儀が行われる場所を守護するからである。ところで、宗教力は、それゆえすべての有効性の源泉であるとみなされている。したがって、同じ宗教的原理をもった諸存在は同じ本質をもっている、とされねばならないし、また、互いに二次的な特性によってのみ分化する、とされねばならない。諸存在を、同じ範疇に配列し、相互に伝達可能な同一種類の変種としかみないことが当然と思われる理由は、ここにある。<(p.163)
JRF2023/10/202719
こうなるのは、トーテムから人が受け取るものが多義的であることを認めているからではないか。
JRF2023/10/202414
……。
>われわれは、明瞭でないクロオレエの説については、何ごともいわない(…)。これによれば、タブーの伝播性は、ある種の伝染病毒(contage)の現象を、誤って解釈したことに起因するであろう、という。これは、気儘な説である。ジェヴォンズが、さきの一節で、これについて、きわめて正しく評言したように、聖の伝染的特質は先験的に肯定されているのであって、解釈を誤った経験上の信仰によるものではない。<(p.164, 注)
デュルケムは、上のウィルス説は否定するようだ。確かに安直な説かもしれないが、そういうシンプルな原理が案外、的を得ていることも多いように私などは思うのだが。
JRF2023/10/200940
……。
タブーが消極的礼拝であったのに対して、積極的礼拝を考えていく。それはしばしば「インティチユマ」と呼ばれる。
その儀礼の一つは、異なった場所をツアーしていき、様々な所作をする。一つに指導者であるアラトゥンジャが聖石を叩くものである。
>この儀礼の意味は明瞭である。アラトゥンジャが聖石を叩くのは、塵を掃うためである。このきわめて聖なる塵の細粒は、生命の萌芽である、とみなされている。<(p.170)
JRF2023/10/205152
昔、子供のころに見たテレビ(?)の特撮(『マタンゴ』?)の影響で、キノコが不得意な方がいた。生物からキノコが生える…人からも生えるかもしれない…という恐怖は、人によってはとても怖いらしい。上の塵の儀礼は、そういう恐怖を克服するものではないか?
私は宇宙人が怖くて、怖過ぎて夢に見ない…または、夢に見ていたことを忘れていたりする。最近では、ホラーアニメで宇宙人(リトルグレイ?)のぬいぐるみみたいなものを相棒にしているような女の子が出てて驚いた。あれも、怖過ぎるものに慣れてしまい、自分の守護霊みたいにしようという面があるのだと思う。
JRF2023/10/205651
成人儀礼にはそういう子供っぽい恐怖と向き合う…みたいなものはわりとあるのではないか。
恐怖だけではない。家に入って来る虫には何かの縁を私は感じる。そういう虫を助けるのは気持ちいい。そういう虫は精霊のようにも感じる。ただ、大人になって狩りをするとき、そういう感情は邪魔になる。恐怖とは反対の感情、それ以外の感情も克服することが求められただろうとは思う。
JRF2023/10/207485
……。
上でも少し述べたが、祭は多義的な面があるだろう。祭だけでなくトーテムもそもそも多義的だろう。
トーテムが「イメージによる進化」のためだというのも多義の中の一つで、そう学ぶものもいたが、そうでないものを見出す者も多かったと思われる。
ある祭について、それが何の祭かを自分で考えさせることに意味がある。トーテムの動作などが何を意味しているかを自分で考えさせることに意味がある。自分で考えるのはトーテムなどの意味を時代などに合わせて常に新しく更新するためであったと考える。
JRF2023/10/204037
……。
>二人の男がその血管を割いて、血を聖石の上に流出させる。(…)傷口から流れ出る血は蒐められて、「ミンカニの排泄物」と混ぜられ、こうしてできた混淆物が砂丘の上におかれる。儀礼は完了し、人々は、絨毯蛇が豊かに生まれ出る、と信ずる。<(p.174-175)
自然に人を求めさせるために血の祭儀を行うのではないか。人の血を栄養としたものは、より多くの人の血すなわちより多くの人口を求めるようになる…という考え方があるのではないだろうか。
JRF2023/10/205625
だからこそ、このあとに>自分たちのトーテムに役立っている動物や植物を食うことができるのに、インティチユマの翌日には、この律法は停止される。<(p.180)というのは、すぐに血を求めてくるようなものはダメで、人が成長する時間待ち死ぬのを待ってから血を求めるようなものでなければ、意味がないからということではないか。
ただ、こういう目的ならば、血でなくても糞でいいのではないか…という面もあると思う。その辺りは、私にも謎だが、糞は自らの一部でないという偏見が大きかったのかもしれない。
JRF2023/10/201892
あと、血を流すのには、戦闘等で血を流すことの訓練…血を多く流しても平気な者のほうが、婚姻において有利にして、そのような方に進化するのを狙っているという面もあるのかもしれない。ひょっとすると、近代まで行われていた瀉血も、(私はそれは超嗅覚などで診察的効果があったのだと思っていたが、) 最初は、そういう目的があったのかもしれない。
JRF2023/10/208594
……。
一般的な供犠、上で「食の原罪」と関係あるのではとして挙げた聖餐式もこれである。これも原始社会に原型がある。
JRF2023/10/204508
>ローバートソン・スミスの諸著が、伝統的な供犠説に、どのような革命をもたらしたかは、知られている。彼以前には、供犠は、臣民の君侯に対するそれに似た、強制的または無条件の一種の貢物、あるいは、献上とだけみられていた。ロバートソン・スミスは、この古典的な説明が儀礼の二つの本質的特色を考慮していない、という点を指摘した最初の人であった。<(p.185)
JRF2023/10/205573
「二つの本質的特色」のうちの一つは、それが食物である。…ということである。>共同でとられる食事は、多くの社会で、これに出席した人々の間に、人工的な親縁関係を創造する<(p.185)。供犠は、>何にもまして、食物上のコンミュニオン(交霊)の行為であった。<(p.186) なお、「コンミュニオン」の語は、聖餐式の別名「聖体拝領」を訳ともするようだ。
JRF2023/10/206372
もう一つは、読んだのだがよくわからない。おそらく、それは「奉献」である。供犠は、>神々が、土地およびその生産物の卓越した所有者である王の類として、考えられている、大宗教においてのみ、生まれることができたものである<(p.193)。…ということのようだ。なぜならば、創造の神がどうして、被造物をわざわざもらわねばならないか…そうでもしないとそこが説明できないからだ。
JRF2023/10/205720
ただし、この後者を、デュルケムは否定する。大宗教でなくとも、原始社会にもあるからだ。
その鍵は季節的な生命の繰り返しにある。雨などがない時期に、インティチユマを行うと、まるで、それのおかげで雨が降ったかのようになって、生命が湧いてくる。生命が湧く前の「神」には、つまり社会には、食物などが実際不足しているので、それを捧げる必要があるのだ。
JRF2023/10/200755
>人がインティチユマを行なうことをやめたら、聖なる存在は地面から消失するであろう。したがって、ある意味では、聖なる存在が生存を維持しているのは、人による。それにもかかわらず、他の関連からは、人は自らの生存の維持を聖なる存在に負うのである。聖なる存在が、ひとたび、成熟しきると、人は、それから、自らの霊的存在を維持し、恢復するのに必要な力を借りうるからである。したがって、人が自らの神々を作る、といいうる。あるいは、少なくとも、神々を持続させるのは人である。けれども、同時に、人が持続するのは、聖なる存在によってである。<(p.193-194)
JRF2023/10/204486
このような儀式によって、予言は自己実現し、それによって、信仰は強化され、社会はより結束力をもつことになる。…ということのようだ。
JRF2023/10/202387
>聖なる存在と関連している集合的表象を更新する唯一の仕方は、聖なる存在を宗教生活の源泉そのものに、いいかえれば、会合した集団に再び浸すにある。ところで、外的事物が周期的にこれをとおろ危機そのものの促す情緒は、これを目撃した人々を、何なすべきかを見出すため、集合させる。しかし、人々は、会合しただけで、互いに力づけられる。彼らは救済の手段を一緒になって求めるがゆえに、これを見つけ出すのである。
JRF2023/10/205517
共同の信仰は、再建された集合体の中で、当然にも、再び活気づく。それは更正する。なぜなら、それは、本来自らが生まれてきたところの条件そのものの中に再び置かれているからである。この信仰がひとたび恢復されると、それは人々の精神に生じるすべての個人的な疑いを苦痛なしに克服する。
JRF2023/10/200525
聖なる事物の心象は、これを弱める傾きのあった内部的または外部的な諸原因に抵抗するに足る力を取り戻す。神々の外見上の滅亡にもかかわらず、もはや、神が死ぬであろう、とは信じえない。人々は神々が自らの奥底に再生しているのを感じるからである。神々を救うために用いられた過程は、それがどんなに荒唐であろうとも、無駄とは思われない。すべてが、これらの過程が有効に働いたかのように推移するからである。人はより強くなったと感じるから、より信仰を堅くする。しかも、実際に人はより強くなったのである。衰弱していた力が意識の中に再びよび醒されたからである。
<(p.201-202)
JRF2023/10/207647
儀式で、信仰は強化されるようになったわけだが、その現実の力は何だろうか。それは会合したことそのものにある。…ということらしい。確かに若い者が知らない一時的な困難について、会合したことで、年寄りからそれにどう対応したかを知らせることなどあっただろう。それだけでなく、会合できるというそのことが安心感を持たらしたということであろう。そして、それが結束力を強め、問題解決をより容易にすることもあったかもしれない。
JRF2023/10/209058
>神々もまた、信徒に劣らず、礼拝を必要とするのである。<(p.202)
結局は、神々は人の心の中にあり、礼拝がその存在を確かにするということだが、そこには、物理的な再生が迂回されている。礼拝がなければ神は物理的に維持しないとも観念されている。…ということだろう。
>儀礼、とくに周期的な儀礼は、自然の規則正しい運行しか求めないから、きわめてしばしば、自然が儀礼に服従しているように見えるのは驚くべきことではない。<(p.228)
JRF2023/10/205875
……。
新たな世代が完全な発展に達したそのときこそ供犠が行われるべきときである。
>すなわち、ここに、トーテム神は、青春のあらゆる栄光につつまれて、立ち現れるのである。これが、いかなるときでも、初物が、著しく神聖な存在に留保された、非常に聖なる食物と考えられている理由である。<(p.188)
JRF2023/10/205723
初物については、[cocolog:71746024] に書いたことがあるが、そのときは、ブログへのトラックバックスパムについて、「初物」つまり最初にやってきたものをそれが悪意を持ったものでも問答無用に残すことにした意図を書いていた。
>つまり、先を争わせると、自然に八百長的なことが起きるようになり、その元締めが必要になる。そこを煽るというのはすなわちその元締めの上がりを増やすことを意味する。<
JRF2023/10/201557
漁獲制限など獲るのを何か制限して状況を守らせるのに、初物をとにかく重視し、それ以外を軽視すると、力のある者が初物を常に制したいと思えば、漁場を監視するしかなくなる。放っておけば力のある者は、自分の好きなときに釣る自由を欲するものだが、初物を重視すると、指導者が監視のコストを直接払わなくても、むしろ、指導者以外の力ある者が勝手にコストを払って監視に協力するようになるのだ。
供犠に初物が重視される意味には、こういう側面もあると思う。
JRF2023/10/205061
……。
供える行為は、元々はトーテムに対するもので人格神に対するものではなかった。しかし…。
>いずれにしても、供える行為が、精神のうちに、ある道徳的主体 -- 供物はこれを満足させるためにある -- の観念を当然にも、よび醒すことは明瞭である。われわれが記述した儀礼的所作は、人物に向けられたのであると信ずるとき、もっとも容易に理解される。したがって、インティチユマの行事は、まったく非人格的な力しか働かさないで、異なった概念に道を準備した。確かに、これらの行事は、それらだけでは、神話的人格の観念を促すには不十分であった。
JRF2023/10/202586
けれども、ひとたび、この観念が形成されてからは、これらの儀礼の性質そのものによって、これは礼拝の中に入り込むにいたった。これは、行動や生命により直接に混同して、同時にまた、いっそうの実在を獲得した。したがって、礼拝の実行は、もちろん、二次的様式においてではあるが、それでも注目されるに価いする様式で、宗教力の人物化を容易にした、と信じることができるのである。
<(p.197)
JRF2023/10/208221
上で「多義性」の話をした。トーテム儀式から、イメージによる進化を受け取る者もいたが、そうでない者もいただろう。儀礼はそうでない者でも納得できるように発展してきた。その中で、供犠を通じた礼拝から、人格神を見出す者も出てきたのだろう。
JRF2023/10/204980
……。
>社会はのべつまくなしに会合を開くことはできない。生活の要請は、社会が際限なしに集会の状態にとどまることを許さない。それゆえ、社会は、再びその必要を感じるときに再び会合すべく、分散するのである。これらの必然的な交代にこそ、聖なる時と俗なる時との規則的な交代は対応しているのである。<(p.207-208)
現代、SNS はほぼ「のべつまくなしに会合を開く」ことを可能にしている。上で VR で聖空間を作る話をしたが、何か別の聖を作るべきときが来ているのかもしれない。
JRF2023/10/200166
……。
共感的呪術の原理は二つある。
第一の原理は、>ある対象物に達するものは、この対象物と何かの接近または連帯の関係を維持しているすべてのものにも達する。したがって、部分に影響するものは全体に影響する。<(p.218)
第二の原理は、>似たものは似たものを生じる(。…)風や落水の響きをまねて、人は、雲が形造られ、ついに雨を促す、等々である。<(p.219) 血腥[ちなまぐさ]い儀礼の他に、このような模擬的儀礼も知られている。
JRF2023/10/202193
>通例の諸定義とは反対に、いわゆる共感的呪術の二原理、それに対応する行事を、真に分化しているのは、一方では、接近が、他方では類同が働いている、という事実ではない。そうでなくて、前者には、伝染的交通だけしかなく、後者には生産と創造がある、という事実である。<(p.220)
JRF2023/10/208035
……。
宗教の力は社会性にある。だから、個別の儀礼が信じられなくてもあまり影響はない。それは現代の宗教にも言える。…らしい。
>もっとも教養ある民族や環境にあっては、個別に考察された各儀礼に教義の帰している特別な効力については、疑惑を抱きながらも、依然として、礼拝を続けている信者にしばしば出会うのである。彼らは、規定された戒律の細目を合理的に正当化できる、とは確信していない。けれども、彼らは、自らがこれに直面して躊躇する道徳的混乱に陥ることなしには、これらの戒律から脱却することは不可能だろうと感じている。
JRF2023/10/209415
彼らにあっては、信仰が知的根本を失ったという事実それ自体が、信仰がその上に立脚している深い理由をこのように明証している。単純にすぎる合理主義が、ときとして、儀礼的な規定に対して加える安易な批判に信徒が一般に無関心なままでいる理由は、ここにある。(…)説教師は(…)礼拝の規則的な執行によって得られる道徳的慰安の感情を覚醒、あるいは再覚醒することに腐心する。(…キリスト教徒…)彼らは「救うものは信仰であること」を知っているのである。
<(p.225-226)
JRF2023/10/208549
……。
「霊魂」という概念がなぜ生じたか。
>諸社会が自らを組織に象って、物理界の力能が考えられたのである。であるから、人間は、自己に対して作った観念に、社会生活から借りた概念を導き入れないでは、力の宿っている身体を支配している力など想到しえなかったのである。事実、人は自己の物理的写しから自らを区別し、また、これに対して一種の高級な威厳を自らに帰せなければならなかった。つまり、自らを一つの霊魂であると考えねばならなかった。人が実際に存在すると信じている力を常に表象したのは、確かに、霊魂の形態においてである。
JRF2023/10/202279
われわれは、霊魂が、自ら動き、考え、感じる抽象的な機能に与た名とは、まったく別物であることを知っている。それは、何にもまして、宗教的原理であり、集合力の特殊な側面である。要するに、人は、自らを霊魂と感じ、ひいてはまた、力と感じている。人は社会的存在だからである。(…)動物が霊魂をもたないのは、人間の社会に比すべき社会生活に参与していないからである。動物には文明に似た何ものもない。
<(p.236-237)
JRF2023/10/204439
動物に霊魂がないということはない。人は動物に霊魂を認めうる。しかし、動物自身には霊魂という概念はないであろう。なぜなら、霊魂は社会があってはじめて生じる概念だから…ということだろう。
というか、「概念」というものが生じるのがどうも霊魂が現れたのとときを同じくするように思える。デュルケムはそう述べているのではないか。
JRF2023/10/205859
>概念は、社会が事物を表象する様式を表明するということは、概念的思惟が人類と同時代だということでもある。われわれは、概念を、多少とも、後期の文化の所産とみることを、拒否する。概念によって思考しない人間は、人間ではあるまい。彼は社会的存在ではあるまいからである。個人的知覚に還元されるならば、人間は動物と区分があるまい。<(p.361)
動物も死んだ個体のことは思い出すことはあるだろう。記憶はあるから。しかし、その思いはすぐに消えるのではないか。今の自分にはほぼ関係なく、それが現れるにいたった状況に関し警告を受け取ることはあろうが、それがそこにいるなどと考えることは判断を鈍らせるからである。
JRF2023/10/203264
しかし、人間は死者を常時思い出すことができる。それを集合=社会に固着させることで。固着できるような社会は言葉またはシグナルが作るのであろう。シグナルが共通の意味を持ちうる社会が必要だから。社会が記憶を刺激するのは、社会が社会の敵になるため、警戒すべきものであるからかもしれない。人類には戦争が必要なのかもしれない。その付随物として、死者が警告するようにまた判断を邪魔するようになったのであろう。その散発的残像現象と折り合いを付けるため、言葉で概念化する必要が生じ、そこに概念と霊魂がほぼ同時に生じたのかもしれない。
JRF2023/10/208803
……。
ウォルンカという大蛇の神について…。
>故老は、すべてが終結したとき、ウォルンカが満足していれば雨を降らす、と告げている。けれども、祝祭が執行されるのは、雨を降らせるためではない。<(p.256)
いや、これはデュルケムは極論を言ってるように思う。どこかで、世界的に、蛇とくに大蛇は、氾濫する川の象徴だという話を読んだことがあったように思う。そうならば、それは雨と強く関連していると言える。
JRF2023/10/205975
……。
>ワーラムンガ族には、「笑う若者」のトーテムがある。<(p.257)
動物でない意外なトーテムだが、デュルケムはほぼ説明しない。スペンサーとギレンの書には詳しい説明があるのかもしれないが。
ただ、「笑い」ということに関しては、一般に「笑い」こそが人間の特長と見る見解もあったはずなので、それは原始人の「人間性」の認識でもあって大事にされてきたのかもしれない。
JRF2023/10/202893
……。
>遊戯および芸術の主要な諸形態が宗教から生まれたと思われていることも、また、それらが、久しい間宗教的特性を保っていたことも、周知の事実である。それらの理由は判明している。すなわち、それは、礼拝が、直接には、まったく別の目的を目指しながらも、同時に人間にとっては一種の娯楽だったからである。<(p.259-260)
遊びは根源的には宗教性を帯びているのだろう。現実生活に基本的に必要ないというよりもそれにかまけることは身を危うくするという点において。
JRF2023/10/205117
しかし、遊びは社会関係を準備するものであり、それ自身幸福をもたらすものだ。それが幸福をもたらすには、進化論的理由もあったはずだ。おそらくそれは、自分の可能性を知ることを促すこと、または、発現しにくい遺伝的形質を発見・訓練することで(異性にとっても)好ましく発現させることにも役立ったのであろう。
JRF2023/10/200921
……。
儀礼において…。
>本質的なのは、個人たちが集まっていること、共通の感情が痛感され、かつまた、共通の行為によって表明されることである。しかし、こららの感情やこれらの行為の特別な性質は、比較的に副次的かつ偶然的な事物である。<(p.271)
「共通」であることが大事であって、何を共通しているかは関係ない…と。
でも、これは私の上の「多義性」の議論とは、少し見解を異にするものだ。社会というのは同床異夢があるもので、儀礼もそれで良いのではないだろうか?
JRF2023/10/207007
……。
オーストラリアの原始社会には葬送儀礼も当然ある。血なまぐさく悲しみ、もちろん、そこには本当の悲しみもあるだろうが、かなり儀礼的である。
ワーラムンガ族では、服喪期において、女性が…
>彼女たちは絶対的な沈黙を二ヵ年も続けることのある服喪期を課せられる。(…)彼女たちは、それを慣習としているので、服喪が満期になった後でも、進んでことばを語ることをやめ、所作による言語を用いる。なおまた、彼女たちはこれをひどく巧妙に操る。スペンサーとギレンとは、二十四年間以上も話をしないでいた老婆を知っていた。<(p.280)
JRF2023/10/207306
上で、言葉が社会・概念・霊魂を作ったと述べたが、文盲が今もいるように、最初は、話せない者も、わりと同じ集団にいるという社会が長かったのかもしれない。ここの話さない彼女たちは、話せない人類が多かったことを記念しているのかもしれない。
JRF2023/10/206763
……。
ある葬送儀礼において女性たちが…。
>手や膝で歩きながら、彼女たちは塹壕に沿って、男たちの開かれた両脚の間をとおっていく。この光景は大きな性的興奮の状態を表示している。<(p.285-286)
そういえば、人は死に近づくと生存本能として性欲が刺激されうる…という話をどこかで読んだか聞いたかしたことがある。血なまぐさい儀礼も案外、性的興奮を目的としている部分もあるのかもしれない。
JRF2023/10/201015
それは死がもたらした親族などの空白を新しい関係で補うことを促すのかもしれない。祭でスワッピング=妻の交換などがなされうるという話もあったが、少なくとも親族の間では一夫一妻は案外崩れていたのかもしれない。もちろん、原始社会のほうが厳しい部分もありえるから、そう見えて、介護的関係にとどまっていた可能性も大きい。原始社会が現代から見てどこまで放縦なのかははかりがたい。
JRF2023/10/200833
……。
喪の義務はどこから来るのか?
>民族誌学者や社会学者は、一般に、原住民がこの質問に対してする応答で満足していた。死者は泣かれるのを好む。死者の権利である哀惜の貢物を拒むと彼を怒らせる、とかいい、また、その怒りを予防する唯一の方法は、死者の思いのままになることである、という。
しかし、この神話学的説明は問題を解決せず、その用語を置き換えるだけである。
<(p.290)
JRF2023/10/205893
>生存者の記憶の中に生き残りたい、という欲求は、喪の起源とされるどころか、むしろ、喪こそ、ひとたび構成されると、死後の哀惜の観念と嗜好とを呼び起したのではないか、と反問したいほどである。<(p.290-291)
>身内の一人が哭されることもなしに死んでゆくのを等閑視する一家族は、それによって、道徳的統一と凝集力とを欠いていることを証明している。すなわち家族は退位する。それは存在を放棄する。<(p.293)
JRF2023/10/203305
社会が喪という儀礼を求める。会合を求める…ということのようだ。なぜ、それが血なまぐさくなるかは、別の説明(例えば私が上で挙げた説明)がいるように思うが。
喪をしなければ死者が悪霊のように悪をなし、喪が終れば善霊となる。この変化はなぜ起こるか…。
JRF2023/10/206316
>人は、落胆と苦悩との期にあったときには、人々を迫害することに専念している悪をなす存在の特徴のもとに、霊魂を表象した。再び信任と安全とを感じる今は、霊魂が、本来の性質と柔和と連帯との最初の感情とを取り戻したことを認めねばならない。その生存の異なった時限において考えられた、霊魂の著しく異なった様式は、こうして説明できる。<(p.297)
集団が会合するために、霊は悪をなしえなければならず、会合が終れば集団が回復したから、霊はなぐさめられた…となる…ということのようだ。上の私の「空白を新しい関係で補う」論とも整合的である。
JRF2023/10/207628
>喪を説明するために、人々は墓の彼方に霊魂の存在を延長した。これは、儀礼が信念に反応する様式の一つの新しい例示である。<(p.298)
集団が会合するための喪が先にあって、それを説明するために、霊概念ができた、または、霊概念が強化された。…とデュルケムは考えるようだ。
JRF2023/10/200813
……。
喪以外の贖罪的儀礼は、オーストラリアには少ないそうだ。しかし、ないわけではない。ないわけではない部分については、喪と同じような来歴があると考えるようだ。一方、少ない理由については…。
JRF2023/10/201328
>宗教力が個性化されている、より進んだ諸宗教について贖罪的儀礼を研究するとき、これらの儀礼は神人同形態的な観念と密接に関連しているように思われる。信徒が自ら不自由をなめ、虐待に屈するのは、自らが依存していると信じる聖的存在のあるものに帰している悪意を解くためである。聖的存在の憎悪や激怒を宥和するため、彼は要求される以上に赴くのである。それらの存在から打たれないように、われとわが身を打つのである。したがって、これらの行事は、神々や精霊が人類のそれと似た感情を持つ道徳的人物として考えられる時限に達しなければ、生じえなかったようである。<(p.304)
JRF2023/10/203859
……。
>宗教的祭儀は、それが集合的であるというだけで、生命的調子を高める。しかも、人は、辛い焦燥の形態のもとというだけであれ、悦ばしい狂熱の形態のもとでであれ、自らの中に生命を感じるとき、死を信じない。したがって、安堵し、勇気を取り戻す。そして、主観的には、すべてが、怖れられていた危険を儀礼が実際に排除したかのように、推移する。
JRF2023/10/202544
ここに、どうして、人は、治療的または予防的功徳を、発せられた叫びやそそがれた血に、自身または他者に加える怪我に、儀礼が作られた運動に帰するか、の理由がある。しかも、これらさまざまの虐待は、必然的に、人を苦しめるので、ついに、苦痛はそれ自ら悪を呪い病気を治す手段とみなされるようになる。
<(p.306-307)
こことはあまり関係ないが…。
JRF2023/10/207950
死の原因がもし感染症なら、血なまぐさい祭儀は、感染確率を増やしたはずである。それにより全滅したほうが、他の部族にまで病気が広がらないため、結果的には良かったという面もあるのかもしれない。血なまぐさい文化のほうが群全体は生き残れ、進化論的に良かったのかもしれない。
JRF2023/10/201504
……。
>あらゆる形態のもとで、宗教生活は、人を自己をこえて高め、人が自らの個人的自発性にのみ服していたら営んでいたであろう生活よりも高級な生活を営ませることを目的としている。すなわち、信念は、宗教生活を表象という用語で、表明しているし、儀礼は、宗教生活を組織し、その運用を規定しているのである。<(p.317-318)
>信念は、宗教生活を表象という用語で、表明している<…が難しいが、自分では思いつかないような社会の作る概念が、思考を高級にしている…ということだろうか?
JRF2023/10/201568
……。
>われわれが研究した体系がどれほど単純であるにしても、われわれは、この中に、もっとも進歩した諸宗教の基底にもある、あらゆる偉大な観念と主要な儀礼的態度を再発見した。<(p.321)
>ただ一つだけのある事例で、学者が生命の秘密を探し出すにいたったとするならば、これが考えられるうちでもっとも単純な原形質的存在のそれであっても、こうして得られた諸真理は、あらゆる生物、もっとも高級な生物にも適用されるべきであろう。<(p.322)
JRF2023/10/204002
普通の科学では、一部を証明しても全体を証明したことにならない。しかし、その一部が始原であり、そこからすべてが生じたのなら、その始原に関する証明は全体に適用できるものを多く持つであろう。始原を追う意味がここにある。
JRF2023/10/209351
……。
>われわれは、道すがら、思考、ひいては、科学の基本的な範疇が宗教的起源をもっていることを立証した。これは、呪術、ひいては、呪術から派生し到達するまで諸種の技術についても、同様であることをみた。他方、進化の比較的に進んだ時点以前に到達するまで、道徳と法律との規準が儀礼上の掟から区分されていなかったことは、久しい以前から知られている。したがって、要約すれば、ほとんどすべての主要な社会的制度は宗教から生まれた、といっていい。(…)宗教が社会の本質的なものを生み出したとするならば、それは、社会の観念が宗教の魂だからである。<(p.327)
JRF2023/10/206987
>科学の基本的な範疇が宗教的起源をもっていること<…については、確かにこの本で語られていたが、私も過去に例えば↓のようなことを述べている。ただ↓は科学が宗教にどう見出せるかという逆の方向から考えたのだったが。
[cocolog:94424426]
>「因果応報」は、物理学においては、「手を出せば返ってくる」という作用・反作用の法則と、「よいものはそのままいつづけられる」という慣性の法則になっている…といえるかもしれない。<
JRF2023/10/200716
……。
>社会的活動の形態のただ一つが、まだ、明白に宗教に連結されていない。すなわち、それは経済的活動である。(…)経済的価値は、一種の力能、効力であり、しかも、われわれは、力能の観念が宗教的起源であることを知っている。富はマナを交付できる。したがって、富はこれをもっている。ここから、経済的価値の観念と宗教的価値のそれとの間には、関連がないはずはない、と予見できる。けれども、これらの関連の性質が何であるかを知る問題は、まだ研究されていない。<(p.329, 注)
JRF2023/10/203528
橋爪大三郎『はじめての構造主義』を読んだ([cocolog:94448858])とき、モースの贈与論との関連で、>あくまでも、交換のための交換が基本であり、それが特殊に変化・発達していった場合にだけ、いわゆる経済(利害にもとづいた交換)が現れるにすぎない。<ということだった。そこではデュルケムの批判もされていたが、それはこの本とは別の論なのだろう。
JRF2023/10/202232
……。
「社会」という言葉を使ってきたが、「社会」とは何ぞや? 欠陥と不完全に満ちた現実の社会であろうか。逆に悪は永久に一掃されている完全な社会のことであろうか…。
>理想社会は現実社会の外にはない。理想社会は現実社会の一部をなしているのである。両者の間は、排斥し合う両極間におけるように、分割されていないどころか、われわれは一方を保持しないでは、他方を保持できない。(…)何にもまして、社会がそれ自体について作る理念によって構成されているからである。<(p.334)
JRF2023/10/203538
私は『「シミュレーション仏教」の試み』において、社会のモデルを作った。モデルは「理想化」ではあるが、それは一般にいう「理想」とはまた違う。現実の社会とは違うモデルをそうやって作り、シミュレーションし、分析することで、しかし、現実の社会に示唆を与えることができるとした。そしてそれが空性の発見という仏教的手法の一つなのだと主張した。だからこそ「シミュレーション仏教」なのだ…と。
これまで、原始社会と一口に言っても、それはどこまで理想化されたものかはわからないが、ある種のモデルと、その特殊化は想定してきたと思う。あいまいだけれども。
JRF2023/10/200768
……。
>宗教的信仰が、ときとして、外見上、どれほど奇異であろうとも、発見されねばならない真理を含んでいることを、公理とみるのである。<(p.360)
これは、トーテムに多義性があっても、しかし、トーテムシステムに意味があることを疑わないという態度に通ずるものがある。
JRF2023/10/204408
……。
現代の「概念」は「一般的観念(マナーのような常識だろうか?)」である。これは本来は違うという…。
JRF2023/10/202673
>われわれの現在の概念は、大部分、それ(…一般的観念…)と同じく不確定である。われわれは、これらの概念を、議論の内や、学問的著作をするときにだけ、定義することを強いられている。一方、われわれは、概念をつくることが一般化することであることをみた。概念的に思考するとは、単に、いくつかの対象に共通な特性を孤立させ、また、一緒に集めることではない。それは、可変的なものを恒久的なものに、個人的なものを社会的なものに、包括することである。しかも、論理的思考は概念とともに始まるから、それは、いつも存在していたことになる。<(p.361-362)
JRF2023/10/205357
こことはあまり関係ないのだが、研究者社会…日本では左翼社会の層の厚さが薄くなっているのでは…ということを考えた。大学では、様々な試験を行う。それは学生に物を教えるというテイではあるが、若者からアイデアを吸い上げるという機能も恒常的に持っていたのではないか。もちろん、盗用がないようにはしていただろうが、そこから刺激を受けることで、指導者の研究に厚みが出ていたことは否定できないのではないだろうか。
右派論壇でも似たことがあっただろう。ここはゴーストライター的に、書生やスピーチライターに書かせるような実態があったと思われる。
JRF2023/10/209366
書生や若者がそれを受け容れてこれたのは、彼らに発表の機会がなかったからであろう。ところが、それがインターネットの安い出版能力によって、状況が変わってしまった。私自身その恩恵を受け、こうして、安くいろいろなことを書いている。
しかし、私の状況は厳しい。ほとんど読まれないからだ。私は訓練が足りないまま、大学の外に出て、それで苦しんでいる面もあろう。でも、それは私以外にもそういう人は増えたのではないか。そして、それが、左翼・右翼双方の論壇を細らせていっているのではあるまいか。
JRF2023/10/205359
私のような者は、最初は自由になったと思ったから、利益を得たと思った。しかし、ことここに及んでは、それが良かったとはとても言えない。SNS も社会だが、それを超えた(再)社会化が欲しいと思うゆえんである。
JRF2023/10/204753
私は、失業に課税しろ…とか、45分労働したら15分休憩つまり45:15 ぐらいの割合で個人のためのネットが使えるように…とか、これまでいろいろ社会については「提言」してきたんだけど、なかなか聴かれない。私が社会に属してないからでもあるだろう。社会が変わるのが先か、私が社会に包摂されるのが先か…。鶏が先か、卵が先か…。イメージはよくしてるんだけどね。orz
(最後はヒガミになってしまった (^^;。)
JRF2023/10/205417
『宗教生活の原初形態 (全二巻)』(エミル デュルケム 著, 古野 清人 訳, 岩波文庫 白214-1・2, 1941年7月・1942年2月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003421418 (上巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1100573362 (上巻)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003421426 (下巻)
https://7net.omni7.jp/detail/1100573363 (下巻)
JRF2023/10/209334