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cocolog:94517420

ロビン・ダンバー『宗教の起源』を読んだ。社会脳理論、メンタライジイング理論、エンドルフィンの役割等、新鮮な話題がとてもおもしろかった。進化論的考察や経済学実験など根拠がしっかりしているのがすごい。 (JRF 8380)

JRF 2023年11月11日 (土)

『宗教の起源 - 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(ロビン・ダンバー 著, 小田 哲 訳, 白揚社, 2023年10月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4826902484
https://7net.omni7.jp/detail/1107442530

原著は、Robin Dunbar『How religion evolved』(2022)。

JRF2023/11/112594

現在、私は『宗教学雑考集』(仮題)を書いていて、その取材のためエリアーデ『世界宗教史 1』([cocolog:94505557])の再読などをしている。そんな中、私の興味のど真ん中の本がちょうど、10月に出たようで、私の言いたかったことが先に言われてしまってないか…とドキドキしながら読み始めたのがこの本になる。

JRF2023/11/116431

結果的には、私の主張との重なりはわずかだった。あとで紹介する有神論の基本定理と似た主張もあるが、同じものではなかった。しかし、宗教と、社会脳理論・経済学実験・進化論的科学・神経科学との関連などが書かれた大変刺激的な本で、私はとても興味深く読んだ。これからの執筆活動に役に立つだろう。

JRF2023/11/119058

いつものごとく引用しながらコメントしていくが、今回は、コメントよりも引用の分量が多くなる。ただ、新しい本ということもあり、いささかそれはマズイ。そのため、引用すべきところも、自分の言葉で言い換えるのをなんとか増やした。その辺、そうせずに引用したほうが、将来に文が残りやすくなくなるので、著者もうれしいのではないかという気はするのだが、慣行にできるだけ従うのを優先した。

そうした上でも、まだ、引用が多い。そこで、まず私の対応としては、言われれば、いつでもこの「ひとこと」を取り下げる…ということは述べておきたい。

JRF2023/11/117309

その上で、この「ひとこと」を読んでいただける方には、少しでも目につく文章があれば、(私を助けると思って、) ぜひこの本を買っていただきたい。買って損のない本であることは請け合う。

JRF2023/11/113442

……。

>もちろん、宗教は近代に始まった現象ではない。人間ははるか昔から、死後に生きる世界があると信じていたようだ。死後に使う副葬品を墓に入れる習慣は、およそ四万年前から少しずつ定着していった。<(p.14)

現生人類の登場は20万年前くらいでだが、意図的埋葬とわかっているのはせいぜい10万年前までのことらしい(p.173)。

JRF2023/11/117327

エリアーデ『世界宗教史 1』([cocolog:94505557])を再読した際、子宮墓に裸で埋葬し、自然界に還ってからの再誕生を企図するのが先で、その後、石棺により死後の世界で永い間生きることを願うようになったと私は考えた。副葬品は死後の世界の肯定するが、その後、永くそこにいると考えることになるのかどうかはわからない。

JRF2023/11/115894

死後、副葬品といっしょに旅立って、自然に還るということなのかもしれない。骨猟から道具を使った狩りに移行するため、骨を埋めるのが霊の理論より先…みたいなことも書いたが、転生しないまでも、死後の邪魔をしてはならないとできれば、骨をあばき返してはいけないとできるので、私の理論は成立する。問題ないとしたい。

JRF2023/11/112998

ちなみに私は、骨食から霊の理論を導くという形になったが、霊がその前から存在しなかったと言いたいわけではない。そのあたりは、創造論と進化論の議論([cocolog:93369982] など)と同じで、考古学的な真実から見れば、なぜか、霊の理論がそのように登場してきたように読めるようになっているということだ。霊や神はそれ以前から存在しているだろうが、それが人類にわかるようになったのは、考古学的にはここ20万年とかそれぐらいのことでしかない…ということのようだ。神がそうした目的はわからないとしておきたい。目的の一例を挙げれば、それは現代の人類が霊を知らないことへのある種の許しなのかもしれない。

JRF2023/11/116553

……。

>これまでの宗教の定義については、二つの大きな流れがあると考えていいだろう。ひとつは19世紀に活躍した社会学の父、エミール・デュルケームに始まったものだ。宗教を道徳的共同体 -- 同じ一連の信念を共有する集団 -- で実践される慣行体系と位置づけて、人類学的な立場から、儀式などの慣行が果たす実用的な役割を重視する。宗教は「行うもの」という考えだ。

JRF2023/11/118358

もうひとつはより哲学的、心理的な視点から、宗教を包括的な世界観ととらえる。共同体のなかで、さしたる証拠もなく委けいれられている一連の信念であり、この場合の宗教は「信じるもの」である。

両者は正反対の定義のようだが、どちらも正しく、信念と儀式がそれぞれ宗教の異なる側面を表わしていると受けとるのが、より現実的な解釈だろう。
<(p.18-19)

JRF2023/11/112177

デュルケム『宗教生活の原初形態』([cocolog:94474286])も最近読んだ。

「行うもの」がアニミズム的で、「信じるもの」が教義宗教的になり、教義宗教にも当然アニミズム的「行うもの」が共存している。それは単に儀式が教義宗教にあるというのではなく、イースターやハロウィンのような土俗の宗教を取り入れる形で共存しているということだった。

JRF2023/11/114604

……。

>第1章では、宗教の発展と、宗教の研究に用いられてきた手法について、歴史的な視点で見ていく。続く二つの章で議論の土台を据える。なぜ人間は宗教を信じる傾向にあるのか、宗教を信じることがなぜ実際に有益なのか -- この二つをそれぞれ少し変わった切り口で考えていきたい。前者の軸となるのは、人智を超えた世界を信じたがる人間心理、いわば「神秘志向」であり、そこに宗教の起源があるというのが私の考えだ。

JRF2023/11/116730

後者に関しては、進化論を重視する人たちにはひっかかりがあるかもしれないが、宗教を信じることは個人の利益になると私は考えている。たしかに宗教は人を健康にする可能性があり、実際に効果も認められているが、あいにくそういうことではない。本当の利益は社会レベルで存在し、宗教によって共同体の結束が強まれば、組織が有効に機能するようになり、ひいては個々の構成員の利益になるという話だ。
<(p.22)

JRF2023/11/112628

進化論的観方によれば、群に利益があることでも、それが結果的に個人の利益になるのでなければ、フリーライダーが生じ、それが差を生んで、フリーライドしない者は数が少なくなる…すなわち、群に利益があることだけでは、その方向への進化は起こらない…ということだった。

それは文化遺伝子(ミーム)についても言えるということのようだが、私には信じがたい。私は「イメージによる進化」を信じており、性淘汰を通じて、群淘汰的なことは実現しうると考えるからだ。

JRF2023/11/114299

《イメージによる進化》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/06/post.html

JRF2023/11/115954

本に戻るが、従来、宗教は群の利益はあるかもしれないが、(進化的)適応度を高めないと考えられることがあり、宗教的認知科学はいわばその「錯誤」を認知の歪みに求めることがあった(p.36)。

それはそれとして、私が宗教、特に因果応報を主張する宗教において大事だと考えているのは、有神論の基本定理と私が呼ぶもので、それがあるがゆえに宗教は信じられるようになる…ぐらいのことは暗に考えている。

JRF2023/11/114071

(『宗教学雑考集』の草稿から↓を引用するが、同様の議論は『「シミュレーション仏教」の試み』にもある。)

>因果応報の神(または摂理)を信じると何が良いのか? …善いこと・悪いことには報いがあると人々が信じると、悪いことが起きにくくなりそれを実際良い報いとして人々が受け取る。つまり、実際に良い報いがある。…これを「有神論の基本定理」と私は呼ぶ。<

JRF2023/11/110155

これは個人にとってはわかりにくいが、確かに、個人にも利益があることを主張しているため、著者のような進化論的視点から見ても問題ないと思われる。ただ、わかりにくいことは確かなため、(宗教)支配層がいて主導・指導しなければ、この利益を実現することは難しいのかもしれない。

JRF2023/11/119734

……。

人類学的宗教学は、ジェイムズ・フレイザー『金枝篇 -- 比較宗教の一研究』(1890)が嚆矢で、それにエドワード・タイラー『原始文化』(1871)などが続いていく。タイラーの研究は進化論の影響が強かった。そして、

JRF2023/11/117268

>人類学の形成に重要な影響を与えたのが、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(1902)と、エミール・デュルケームの『宗教生活の原初形態』(1912)だ。どちらも部族社会を対象にしていない。ジェイムズが心理学的な立場を固持したのに対し、デュルケームの視点は社会学的だった。ジェイムズは宗教の起源と有用性をはっきり区別して、どちらかに関する疑問に答えが出ても、それがもういっぽうの答えになるとはかぎらないとくぎを刺した。(…)

JRF2023/11/110777

さらに、「健全な精神」の宗教と「病んだ魂」の宗教を区別した点も重要だ。前者は満足と幸福を得られる宗教で、後者は深い苦悩を抱えた人が、いわば「危機の転化」として経験する宗教だ。宗教体験の中心には神秘主義があるとジェイムズは考えた。

JRF2023/11/112453

いっぽうデュルケームの視点は、宗教儀式がつくりだす興奮と畏怖、すなわち「集合的沸騰」が軸になっている。宗教を社会構築の土台として考えたデュルケームだが、のちの人類学者は因果関係をひっくりかえして、伝統的宗教の儀式や信念は、ある社会の社会的・政治的構造を複製あるいは強化するものにすぎないと主張した -- つまり国家と教会が政略で結婚したのである。これはたしかに正しい面もあるが、デュルケームの洞察の核心部分を見のがしている。
<(p.35-36)

JRF2023/11/116545

ジェイムズ『宗教的経験の諸相』は買ってあるが読んでない。デュルケム『宗教生活の原初形態』([cocolog:94474286])はそういう話だったかな…。トーテミズムを私は「イメージによる進化」と結び付けたのだった。

興奮=オルギー=乱交では、スワッピングなども許される。それは、トーテム間の交雑可能性を維持するため、また、生殖能力の強い個体を有利にするためじゃないかと私は思ったのだが、デュルケム的視点では、社会の紐帯を強めるためなのだろう。

JRF2023/11/111184

近親相姦も許すオルギーについては、次のようにも書いた。

>ここに「突然変異」のイメージを私は見出す。近親婚が現実には障害をもたらすものではないとしても、そういうものだとされていたと思われ、その障害があってもいいという観念があったのではないか。また、イメージ違いの者の交雑が、(種の違う動物が子を生まないか生んでも障害を生むように、) 障害的であっても、ときおり、強い個体を生み出しうるという考えもあったのではないか。<

JRF2023/11/119737

……。

宗教を認知の歪み的にみなす理論の例としては、「行為主体過剰検出装置(HADD)』説がある。人類学者パスカル・ボイヤー、心理学者ジャスティン・バレットによるもの。それは…

JRF2023/11/119512

>動物には適応度にじかに関わる現象を察知する感覚が備わっている。たとえば森のなかで小枝が折れる音がしたとき、捕食者が接近しているなと勘づくことができれば、捕食者や敵の餌食にならずにすむ。取りこし苦労のこともあるが、ほんとうに捕食者が近付っているのに小枝の音を聞きながすよりは、まちがいなく危険は回避できる(「パスカルの賭け」の一例)。その結果、私たち人間もすぐに説明できない現象を見えない神秘的な存在で説明するようになった。

JRF2023/11/118013

これは人間の行動全般に浸透していて、海が怒っているとか、空模様が険悪だとか、物理現象にまで動機を当てはめようとする。こうして考えると、宗教は生物学的システムに組みこまれたエラーということになる。
<(p.36-37)

化学物質過敏症の私の解釈を思い出した。

JRF2023/11/118388

はてなブックマーク - 《反証実験の必要性〜化学物質過敏症に対する負荷テスト - NATROMのブログ》
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070128#p1
jrf:>私もときどき匂いや光などに過敏に反応する自分を見つけることがある。少しの過敏が「化学的雰囲気」への条件反射を生む。過敏性は体調によるが条件反射がそれを補完しているということはないか?行動療法が効く?<

JRF2023/11/111205

……。

>神の「最小限の反直感性」も古典的な例だろう。神ともなれば日常的な物理法則を破ることもたやすいが、やりすぎると信憑性がなくなるから最小限にとどめているというのだ。<(p.37)

これについては、私も似たことをいうことがある。

JRF2023/11/113492

[cocolog:94456795]
>>
[cocolog:93763227]
>この世界では時間がたてば客観的には奇跡はほぼなかったことになるが、奇跡はありうることも忘れてはならない。主観的に心理的に救いがあったというだけでなく、奇跡による救いもあるのだ。ただ、それは、たいてい客観的にずっと信じられるほど頻繁でもわかりやすいものでもないようだ。奇跡があるとたのんで行動すれば裏切られる。<

JRF2023/11/114783

[cocolog:92189837]
>起きて欲しい奇跡が、まして起きて欲しいときに、起こるわけではない。それは旧約聖書でもしばしばそうであるように。

さらに、起きた奇跡に関しても、出エジプトのモーセの奇蹟も今では科学的に説明しようとする人がいるように、奇跡は時間が経てば、偶然性に埋もれてしまい、ほぼ証拠がなくなる。「証拠がある」ものでもそうなるのだから、大抵の奇跡のようにほぼ自分にしかわからない符牒などであった場合はなおさらになる。

JRF2023/11/110660

奇跡はないという人に反論して…

[cocolog:85386184]
>「奇跡については神の介入の証拠はやがてなくなり物理的・科学的な説明を邪魔できなくなる。」

…とできれば十分で、(物理的)奇跡とはそのように証拠は残さない形でなら起こりうると考えるのである。<

証拠を残す形で起こってもいいはずだが、なぜか、そうならないのである。
<<

JRF2023/11/112204

……。

著者はシャーマニズムを重視する。ヨガなどに対し、それほど修行できない者がトランス状態を利用することに注目するようだ。

JRF2023/11/111865

>トランス状態に入ると、精神的には現実感がありながら、自分が存在しているはずの物質世界と異なる感覚を覚える。これこそが、霊的世界が存在し、たまにそこに行くことができることを示す揺るぎなき証拠だろう。ただしこのトランスの世界では、この世にいない懐かしい人(先祖など)だけでなく、日常の世界で怖れている存在(鬼や悪霊など)にも出あってしまうのが謎であり、そこは説明が必要だろう。<(p.55)

シャーマニズムについては、『楚辞』([cocolog:93348917], [cocolog:86489259])を思い出す。

謎については説明がほぼなかったように思うが、文化の影響ということだろう。

JRF2023/11/117937

……。

幻覚剤はシャーマニズムにはよく使われる。サボテンの一種ペヨーテから抽出されるメスカリン、麦角菌成分の誘導体の LSD、200種以上のキノコに含まれるシロシビン、この本には天然の植物由来としか書かれてない DMT、もちろん、大麻・アヘン・酒もよく使われていた。(p.66-68)

シャニダール洞窟遺跡で見つかったネアンデルタール人は、薬理作用のある植物の花粉とともに見つかった(p.180)。ただし、それが動物によって持ち込まれたという意見もあるようだ。

JRF2023/11/111443

《シャニダール洞窟 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8B%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%B4%9E%E7%AA%9F
>しかしながら近年は、花粉が動物によって墓穴に持ち込まれたことを示唆する研究もあらわれている。<

JRF2023/11/118750

……。

宗教のご利益は何か。ここ1世紀の研究者の答えを五つのテーマにまとめる。(p.72)

● 宗教は原始的な科学の一形態である。(『「シミュレーション仏教」の試み』の本目的三条件の一つに「思考・思念を深めるのがよい」があって、それは転生の理論を導くと同時に、科学理論も導きうるとしたのだった。)

JRF2023/11/116739

● 宗教は医学的介入の一形態である。(宗教は心理を通じたり慣習を通じたりして健康に実際に役立つことがある。)

● 宗教は協力の強制手段である。(迷信などで正しい行動を促すことで、有神論の基本定理はここに属すのかもしれない。)

● 宗教は政治的抑圧の仕組みである (カール・マルクスの言葉を借りれば民衆のアヘンだ)。(人身供犠を通じて、階層を強制したりすることがこれにあたる。それを利益とするには、それが社会の安定性に寄与すると考えることになるのだろう。)

JRF2023/11/119671

● 宗教は共同体結束の仕組みである。(デュルケムも同様なことを述べていたように思う。共同体になることが、親密さなどを導き、それが収穫の融通などの利益だけでなく、安心感などをもたらす…ということだろう。)

もちろん、どれか一つしかあてはまらないという議論ではない。

JRF2023/11/115617

……。

戦争などにおける願かけは、人々を鼓舞するのか、成功することがしばしばある。しかし、

>願かけはいつも成功するわけではない。1340年代にヨーロッパを黒死病が襲ったときは、社会全体が良きキリスト教徒の務めを果たせなかった神罰であると多くの人びとが考えた。そこで鞭打苦行者として知られる悔悛者の一団が町から町へと渡り歩き、賛美歌を歌いながら自らを鞭で打ち、神の許しを乞うた。けれども彼らが町や村に病気を広めて歩くので、ついには多くの町が門を閉じて悔悛者を拒絶するようになった。<(p.74)

JRF2023/11/115665

デュルケム『宗教生活の原初形態』([cocolog:94474286])を読んだとき、葬儀などで自分を血が出るまで傷付ける=「鞭打つ」ことが書かれていた。それは病気を広めがちなのになぜ起こるかというと…

[cocolog:94474286]
>死の原因がもし感染症なら、血なまぐさい祭儀は、感染確率を増やしたはずである。それにより全滅したほうが、他の部族にまで病気が広がらないため、結果的には良かったという面もあるのかもしれない。血なまぐさい文化のほうが群全体は生き残れ、進化論的に良かったのかもしれない。<

JRF2023/11/115872

……。

上の「宗教は医学的介入の一形態である。」の具体的数値。

JRF2023/11/116576

>信仰に積極的な人は、そうでない人より健康であることも確かめられている。アメリカ人の成人2万1000人を対象に行なった調査で、宗教礼拝に一度も出席したことがない人は、最低でも週に一度は礼拝に行く人よりも、8年間の追跡期間中に死亡するリスクが19倍も高かったのだ。過去の42件の研究でメタ分析を行なった研究もある。計12万6000人の対象者のうち、宗教に積極的に関与する人は、一度も教会に行ったことがない人にくらべて、追跡期間内に生存している確率は26%も高かった。社会人口学的な変数や持病を加味したうえでの結果である。<(p.77)

JRF2023/11/115697

……。

上で、宗教に進化論を適用しようとするとフリーライダーが問題となると書いた。これに対する宗教の回答と見られるのが「高みから道徳を説く神」を設定して、すべてお見通しの警官のような役目を果たしてもらうことのようだ(p.80)。

有神論の基本定理の因果応報の神もこの一種だろう。

そして、もう一つ思い出すのが、私の「荒廃世界の幻想」の理論だ。そのコラムは『宗教学雑考集』にあり、それは『「シミュレーション仏教」の試み』にも載っている。

JRF2023/11/115306

そこでは、憎しみが多いと捕まる人が多い…ことが、仏教の一つの柱になっているのではないかという話をした。一方、キリスト教の場合、その成立時は、支配者と民衆の民族が違い、「憎しみが多いと捕まる人が多い」が成立していなかったところに、何かマジックがあるということだった。

支配者が道徳を守らせる話は、この本では別になっているが、判然と分けられるものでもないだろう。

JRF2023/11/112958

……。

心理学用語でプライミングというものがあり、それは被験者を無意識のうちに特定の心理状態に置くものである(p.83)。

>宗教的プライミングが、もともと宗教的な人をさらに利他的にするかどうかはっきりしない。仮にそうだとしても効果はささやかなものだ。<(p.84)

宗教が心理に与える影響は経済学的実験などではどうもハッキリしないらしい。

この辺り、この本は詳しいので、気になる方はこの本を買って、書かれた参考文献をあさるのがよさそうだ。

JRF2023/11/119605

……。

人身供犠は階層社会を作る際に現れ、恐怖によりそれはかなり強固なものとなる。反乱は、人口が少なすぎて監視がゆきとどき、できなかったのであろう。

>ひとたび供犠をともなう階層化を遂げた社会では、この社会構造が崩れることはまずない。<(p.88)

JRF2023/11/110152

……。

>集団生活の鍵を握るのは結束だが、それを維持するのは容易ではない。物理的に接近した環境で暮らすのは、生活面での負担も社会的なストレスも大きい。哺乳類では、一日の移動時間が長くなったり、食料資源をめぐる争いが激化したりするデメリットが生じるのに加え、集団生活により心理的ストレスはメスの妊娠率を顕著に左右する。ストレスによって生理周期を調整する脳や卵巣の内分泌系が停止し、繁殖能力が下がるのだ。こうした損失、とくに不妊による損失を軽減しておかないと、集団は分裂し、消散してしまう。<(p.91)

そうなのか。都市化が少子化を導くのは、こういう生物学的背景もあるのか?

JRF2023/11/118651

……。

この本の図2が宗教の「ご利益」をシステム的に表す図である(p.95)。

「宗教」が「科学」「健康」「集団結束」に影響する。

「科学」が「外的脅威」を下げる。

「外的脅威」があると「集団規模」を大きくしなければならない。

「集団規模」が大きくなると、「集団結束」が難しくなり、「支配層」を置き組織化せざるを得ない。

「支配層」は「協力」を強制するが、「協力」できることが「集団規模」をを大きくさせるし、「集団規模」が大きくなれば「協力」せざるを得なくなる。

「宗教」による「集団結束」も「協力」を促す。

JRF2023/11/119522

……。

霊長類は毛づくろい=社会的グルーミングにより社会をまとめている。このとき、上下関係などを覚えるために、相手のことを覚えておく必要がある。これがどうも、脳が大きいことの理由のようだ(p.101)。これは関係の数が増えるほど指数関数的に複雑になる。集団規模に応じて脳も大きくなるはずだ…というのが「社会脳仮説」である。(p.102)

JRF2023/11/118439

>霊長類の新皮質の大きさと集団規模の関係から、人間「本来」の集団規模を見積もることができる。サルと類人猿で得られる方程式に、ヒトの新皮質の大きさを代入すればいいだけだ。この式から予測されるヒトの集団の大きさはおおむね150となる。<(p.102)

この 150 をこの著者の名をとって、ダンバー数というらしい。

そして、実際、人の集団の数を観察すると、150 がマジックナンバーになっているようだ。

JRF2023/11/116757

他に 1.5、5、15、50、150、500、1500、5000 …というのが、よく現れる数値らしい。(図3 p.105)

《ダンバー数 - Wikipedia》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E6%95%B0

JRF2023/11/116236

……。

アーミッシュやフッター派という、共同体主義のキリスト教の教派では、数が増えると分割が行われる。フッター派はおおむね 150 人以上になると分割される。アーミッシュの平均規模は 113人、フッター派の平均規模は 109人だった。

>とくに 50人 あるいは 150人前後で始まった派生集団が、その中間規模の派生集団にくらべて、再分割までの期間が長いことは興味ぶかい。50 と 150 は特別な安定感のある魔法の数字らしく、共同体は派生集団がこの数に達するまで、分割を遅らせようとしていた可能性もある。<(p.112-113)

JRF2023/11/118102

私が通っていたころのかつて日本では学校のクラスの人数を45人ぐらいにして、教師を二人つけるのに、20人学級、30人学級はやりたがらない感じがあった。今では、20人学級とかも多いようだが。建物の問題もあったろうが、それは、50人がマジックナンバーだからだったんだろうか?

JRF2023/11/112430

……。

>社会的グルーミングの真の価値は、毛のなかに指をすべりこませ、皮膚に軽く、ゆっくりと触れる手の動きにある。この動きに反応するのが、脳に直結しているC触覚線維と呼ばれる求心性神経だ。その唯一の役割は脳の奥深くでエンドルフィンの分泌をうながすことにある。<(p.122)

母はよくマッサージにいくが、あれはグルーミングなのか。本来は私がやるべきなんだろうな。いつか私に罰があたるのだろう。

JRF2023/11/116990

ところで社会脳仮説と並んでこの「エンドルフィン」がこの本の主役なのだが、社会脳に関しては適応の圧力がわかりやすいのに対し、このエンドルフィンはなぜそれが発達してきたのか、私には、この本からは読み取れなかった。

JRF2023/11/111650

……。

グルーミングには時間がかかる。それでグルーミングの数つまり関係の数には上限があることになる。この制限を取り払うにはどうすればよいか。それは、直接触れることなくエンドルフィン分泌をうながす行動である。エンドルフィンが結束感をうむ。

>獲得した順に行動を並べると、笑うこと、歌うこと、踊ること、感情に訴える物語を語ること、宴を開くこと(みんなで食事をして酒を飲む)で、最後に忘れてはならないのが宗教儀式だ。<(p.124)

JRF2023/11/119939

笑いは、攻撃でなくて遊びであることを示すための発声から生じている(p.124)そうである。私は笑いは死に関連していて、死ななくて済んだことを仲間に知らせるための表現じゃないか…とか思っていたのだが。

JRF2023/11/110785

……。

エンドルフィンの他に信頼感をもたらすのが、特徴の共有である。それは7つぐらいにまとめられるという。

>名づけて「友情の七つの柱」である。具体的には、言語、出身地、学歴、趣味と興味、世界観(宗教、道徳、政治の立場)、音楽の好み、そしてユーモアのセンスである。家族でも友人でも、これらの共通点が多いほど関係は強固になり相手のために行動する気持ちが強くなる。<(p.129)

JRF2023/11/115580

政治・道徳・宗教の共通点は高い親密度を誇ることになるが、それと同じくらい高いのが意外なことに音楽の好みである。これは出身地や民族よりも高い。

この七つの柱のどれかが合えばいいということで、150人を大幅に超える巨大集団を構成できるらしい(p.133)。

JRF2023/11/110393

……。

神や霊の理解には「メンタライジング」の理論が重要になるらしい(p.134)。

メンタライジングとは心の理論で、「なぜきみがそれを信じるか私が不思議に思っているときみは考えているんだと私は思う」といった意図を再帰的に表すとき、何段ぐらい意図の再帰構造を認識できるかの能力のことのようだ。人間では、この何段かの「志向性」は、大人では3次か6次ぐらいまで幅があるが、5次ぐらいが普通のようだ。

DMT (デフォルト・モード・ネットワーク) という脳の領域と、メンタライジング能力、そして友人の数は相関関係にある(p.136)。

JRF2023/11/111655

このメンタライジング能力が宗教の成立に大きく関わっている(p.138)。

意識がある動物はすべて1次志向性は持っているとできる(p.139)。

自分の以外の生き物に精神があることを理解できなければ、別の霊的世界に意図を持った存在がいることは想像できない。相手の心という別世界が想像できなければ霊の世界もない。霊の世界の成立には2次志向性以上が必要であろう。(p.138) (ちょっと、ライプニッツのモナド論を思い出すね。)

その霊の世界の中で、相手が別の信念を持っていることに気付くには3次志向性以上が必要であろう(p.138)。

JRF2023/11/117898

相手が神を信じていて、その神がまた別の意図を持っているとわかるためには、4次志向性以上が必要だろう。しかし、そこまででは個々の神でしかなく、「個人宗教」しか生じない(p.140)。

意図を持つ神について、自分と相手の神の違いを吟味し、ともに是認できる命題を定式化できるのは、5次志向性からである。ここで初めて「共有宗教」が成立する。(p.140)

4次志向性の考え方は…

>神が存在し、私たちを罰する意図があるとあなたは考えていると私は思う。<(p.141, 表1)

JRF2023/11/112479

…となり、5次志向性の考え方は…

>神が存在し、私たちを罰する意図があることを、あなたと私は知っているとあなたは考えていると私は思う。<(p.141, 表1)

…ということになるようだ。

ネアンデルタール人にも脳の大きい個体がいて、神の理論を持つ者もいたかもしれないが、「共有宗教」が生まれたとできるのは現生人類がお目見えした約20万年前以後ということになりそうだ(p.189)。

JRF2023/11/112828

ところで、私は、「他者としての神」の理論というべき持論がある。内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』([cocolog:94456795])を読んだときには次のような話をしている。

[cocolog:94456795]
>「我々」は他者の痕跡を見出し、その「不如意」から他者の意志性を学び、そこから逆に「私の意志」を学んでいくのではないかという話を、[cocolog:94206389] などでした。それが「梵我一如」の元ともなっているのではないかという話でもあったが、他者性を重視すれば、「梵我一如」のあとに発見される「他者」こそが原初的な「神」なのであろう。<

JRF2023/11/110044

これはメンタライジングの理論に似ている。古代インド人もメンタライジングの理論にある意味で到達していたのかもしれない。

JRF2023/11/111066

……。

メンタライジングの能力は女性より男性のほうが低い。自閉症の者もメンタライジングの能力は低い。そして、メンタライジングの能力の低さは有意に「神を信じるかどうか」に影響している。知能指数は、「神を信じるかどうか」に影響しないにも関わらず(p.142)。

JRF2023/11/119645

……。

脳の大きさの議論に関して…

>これに関しては、重要なのは相対的な脳の容積(脳の容積を体重で割ったもの)だという意見もあり、実際に体重を計算に含めて比較分析を行なっている例も多い。しかし残念ながら、神経学的な見地からはこれは完全にナンセンスである。認知能力と相関するのはつねに脳(もしくは脳領域)の絶対的な容積であって、相対的な容積ではない。(…)絶対的な脳の大きさがすべてなのである。<(p.303, 注)

JRF2023/11/117144

ただし、霊長類に限る…ということだろう。じゃなければ、クジラの脳の大きさが知能につながっているはずとなる。まぁ、だから、欧米では捕鯨反対の声が大きいのかもしれないが。(もちろん、知能があるほど食えないというのもおかしな話だが。)

JRF2023/11/112728

……。

儀式がなぜ重要か? (p.155)

●シボレテ仮説 - 儀式を立派にこなせれば、共同体に属する秘密を知っていると示せるから。

● コストリー・シグナリング仮説 - 不便や苦痛に耐え、時間と費用をかける覚悟があればあるだけ、その共同体に属したい欲求あ強くなるはずだから。

● 向社会性仮説 - 儀式に参加することで他の構成員に対してより向社会的に接したくなるから。

● 共同体結束仮説 - 儀式が共同体意識をつくりだすから。

● エンドルフィン仮説 - 儀式がエンドルフィン分泌の引き金になっているから。

これらも、どれかひとつが正解なら残りは不正解という話ではない。

JRF2023/11/113138

……。

サンデー・アセンブリー運動は、日曜礼拝の儀式のみ行うようなヒューマニズム的宗教代替を作り出そうとした運動だが、そこの集まり「チャプター」において、

>チャプター内のグループ活動に時間を費やす人ほど、幸福感が大きくなるという顕著な結果が得られたのだ -- この結果は男性におけるもので、女性はこの限りではない。友情形成に関する研究が示すように、男性の社会的結束感は活動主体で、同好会のようなグループ活動から生まれるのに対し、女性は会話主体で、一対一の関係が軸になっていることも関係しているだろう。<(p.162-163)

JRF2023/11/113006

男性の活動はエンドルフィン分泌を増したということか…。ならば、女性はなぜ会話だけにとどまるのか?

JRF2023/11/110591

……。

合唱において、男声と女声の声域はきっかり1オクターブ違う。>声の低さは身体の大きさを連想させ、生殖可能なメスをめぐる競争で有利なので低い声の男性ほど魅力が増す<(p.166)と考えられるが、なぜその差が1オクターブなのか。

>オクターブ等価性は、(比較的)大きな集団で結束を強めるために、男声と女声を調和させる特別な仕組みのようだ。音を一致させて歌うことが「スイートスポット」になって、背筋がぞくっとくる感覚が生まれ、帰属意識を高めるのだ。グレゴリオ聖歌の生みだす効果がまさにそれである。<(p.166-167)

JRF2023/11/113763

その美しさがエンドルフィンをより分泌させる。なぜそれが美しいのかは周波数理論的な物理現象から来ているということだろうか。

のちに、ネアンデルタール人も、洞窟などで、この効果なら得ることができたと推測できるらしい。

ネアンデルタール人にシャーマンがいたと主張する考古学者もいるが、この世界に影響をおよぼす霊的世界を信じいたことはありそうにない。ただ、音楽などで、トランス状態に入る方法を見つけていたことは充分考えられる。(p.193)…というのが著者の見解のようだ。

JRF2023/11/119856

……。

>ここ10年ほどのあいだに新しい統計手法が開発され、言語の系統樹をもとに、文化進化の系統樹を構築できるようになった。(…)語族をたどれるのもおよそ10万年までだが、にもかかわらず、それは現代のさまざまな部族集団の遺伝子系統樹と驚くほどよく重なっている。<(p.181)

すきえんてぃあ さんという方が、Twitter (X) におられて、よく日本語の古い形の話をされてるのが最近印象に残っている。ぜひ立派になっていただきたい。

《すきえんてぃあ さん / X》
https://twitter.com/cicada3301_kig

JRF2023/11/118928

……。

>農業は少ない労力で栄養状態を大幅に改善したから健康に良いという考えがすっかり定着しているが、実はその逆だったようだ。同じ地域に暮らしていた狩猟採集民と初期農耕民を骨に残る生理的ストレスの痕跡や、エネルギー処理量から比較したところ、農耕民のほうがはるかに強い栄養的ストレスを受けていたことがわかった。

JRF2023/11/112847

農業は重労働であり、気候に左右され、野生動物や害虫の被害もある。それでも選択の余地はなかった。望んだとしても狩猟採集生活はもはや続行不能であり、集落に寄り集まって暮らさざるを得ず、それによって生じる大きな労苦に耐えるしかなかったのだ。つまり人びとは農業を発展させるために村をつくったのではない。少なくとも集落が一定の規模になってからは、村で生活するために農業を始めたのである。
<(p.197)

JRF2023/11/118866

まず、集落ができる。…ということなのだろう。

経済学が労働力の移動をよく前提とするが、言語の違いなど文化資本などの影響で、動けない労働者は多い。それは本質的なのだろう。確かに、民族移動などはあったが、それも自発的なものとは少し違ったのだろう。

集落については、上の すきえんてぃあ さんが、次のようなツイートをしていた。

JRF2023/11/118766

《すきえんてぃあ:X:2023-11-08》
https://twitter.com/cicada3301_kig/status/1722259878427996630

農耕が始まるまでは文明は生まれない
 ↓
アナトリアのギョベクリテペ遺跡は1万年前
 ↓
まあ出アフリカ直後の地点ならさもありなん
 ↓
スンダランドのグヌンパダン遺跡は2万年前
 ↓
は? ←イマココ

JRF2023/11/110100

Wikipedia によるとギョベクリ・テペ遺跡は南トルコにある。グヌン・パダン遺跡はインドネシア西ジャワ州にある。ただ、グヌン・パダンは疑われているようだ。

私は、Xbox360でゲーム『マインクラフト』をやったとき、祭壇のようなものをまず作ったことを思い出した。

JRF2023/11/110467

……。

時代に関係なく狩猟採集集団の上限が約50人ぐらいらしく、その付近で、集団内の暴力が多くなりコントロールできなくなるようだ(p.205)

JRF2023/11/113037

>人間がより大きな集落で暮らしていくには、その規模の拡大にあわせてストレスや集団内の暴力を減らす方法を見つけていくことが必須だった。そこで大きな集落をつくる部族社会は、分裂を食いとめるために多様な戦略を実行した。たとえば踊りや宴会など、共同体の結束を維持する活動をより頻繁に行なう。結婚に際して男性側が出す婚資など、婚礼に関する正式な取りきめを増やす。民主的な社会から、正式な指導者を擁する男性優位の階層構造に切り替える。……そして、明確な儀式と正式な礼拝所、専門職を擁する教義宗教への移行である。<(p.206)

JRF2023/11/113620

……。

この本を読んでから、この「ひとこと」を書く直前に事件があった。

[cocolog:94515614]
>パナマで道路を封鎖した環境活動家二人を、77歳の弁護士が銃で殺した事件があった。<

環境保護団体がある種のカルトとであるというのはこの本にも書かれている(p.286)。

JRF2023/11/114472

欧米で、その弁護士を支持する者の中には、警察がなぜ違法な環境保護活動を見過ごしたのかという論調があった。それに対し私は警察力にたよるには財政的問題などが出てくるとして、宗教的解決…>動物供犠とゲーマーを神社でつなぎ、アニミズムを社会に再統合することでもろもろ抑止できないか。<…ということを述べた。

これはこの本の次の部分の議論に関係してくるだろう。

JRF2023/11/110183

>警察力による上からの秩序強制は、共同体の構成員(とりわけ若い男性)の問題行動を管理するのに役だつが、各人が共同体への参加意識を持って自重するほうが、秩序維持にはまちがいなく効果的だ。それが宗教の最も望ましい役割だろう -- 信念と儀式を共有して帰属意識をつくりだすのだ(…)。<(p.210-211)

さらに「高みから道徳を説く神」がいれば、なおよいとのことだ。

そういう神への信仰はなぜ可能になるか。

JRF2023/11/110088

>気まぐれな神々の宗教では、儀式は共同体の責務という認識であり、神罰は社会全体に一様に下される。これに対して、高みから道徳を説く神への信仰では、天罰はあくまで個人が対象で、個々のそれまでの生きかたの報いととらえられる。<(p.212-213)

共同体の責務というのは、つまり、人身供犠が求められることになるということだろう。しかし、上で書いたように、人身供犠は組織化を可能とした。そして組織化が可能になると、生産力が高まり、組織の巨大化も可能になってくる。外的に対する軍事力も発達してくる。複雑な文化も現れてくる。

JRF2023/11/114646

社会構造の複雑さが頂点に達してから約300年後に、高みから道徳を説く神が出現する例が多いようだ(p.214)

高みから道徳を説く神が出現したから社会がより大きく複雑になれたのか、社会がより大きくなったから、宗教が複雑になり高みから道徳を説く神が現れたのか、鶏が先か卵が先かのような問題のようだ。

JRF2023/11/115556

>いずれにせよ、高みの神が出現する分かれ目が人口100万人前後であることは、データがはっきり物語っている。高みの神は都市国家というより帝国と結びついており、ひいてはかなり大規模な社会政治的なストレスに対応するためのものだった可能性がある。<(p.214)

帝国については一点、こころあたりがある。

JRF2023/11/115730

[cocolog:94456795]
>>
『宗教学雑考集』では次のような文を書こうとしてどこに入れようか迷っている。ダニエル書を読みながら考えた全能神のテーゼと呼ぶべきもの…。

>神の全知は、その予想が違えたときその全能により、すべてをくつがえす…人々の歴史まで…くつがえすことができることによる。そして、くつがえしたことを選んだ者に知らせ、その全能を悟らせうることが、彼が全て知りうることを示し人を畏怖させる。人にとっての神の全知と全能とはそれで十分なのだ。それ以上の全知全能は神秘でいい。このような観方をすれば皇帝は神に近くなる。<
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JRF2023/11/110441

ここと関連して、どこかの「ひとこと」でメソポタミアのハンムラビ法典を念頭に、法を作ったことが神のイメージを固定したみたいな論があったのだが見つからない。ネフィリムに関する議論とは違う…。

なかなか見つからなかったが、おそらく↓(「始源を考える」より)だろう。「神の記憶モデル」と「霊的肉体モデル」については [cocolog:94424426] に「魂の座」の議論があるので、そちらを見ていただきたい。

JRF2023/11/113914

[cocolog:94206389]
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○ 2023-05-21T06:55:26Z

神が未来にわたって全知、あらゆることに全能というのはどこから出てくるのか?

因果応報のためには、人のなしたことをすべて知っていなければならない。応報がいつも機能しているためには、いつでも介入できる能力があり、いつでも介入していなければならない。(このあたりは、それぞれ「神の記憶モデル」「霊的肉体モデル」にも対応しているのだろう。) でも、それらは「神が未来にわたって全知、あらゆることに全能」とは少し違う。

JRF2023/11/113510

それが未来にわたって全知となるには、応報がその人のためになっていることがわかっていることが必要だから、未来もわかっていなければならないからだろうか。ただ、神が公平な裁判を行うという概念は古代にもあったが、しばしば神は至善(常に人にとって善いことをなす)ではなく、そこに全知性は成立してなかったと思われる。どこから至善で全知が導き出されるのか? …善は人が決めるものだから、神も決める、神の決めたことが善だから、神は至善なのだ…という展開だとすると、法律の成立が至善性・全知性の淵源なのかも。

JRF2023/11/119957

人に言うことを聞かせるには「全能」を信じさせたほうが良い。しかし、なぜそれを信じることができるのか? 奇跡信仰との関連か…。なぜ奇跡を信じることができたのか? 世界が広まり伝聞が重要になったからだろうか…。公共事業や科学技術の驚異が、人にその延長線上の全能がありうることの信仰を生んだのだろうか…。

JRF2023/11/116345

文明の進展とともに「神の記憶モデル」と「霊的肉体モデル」が相互に影響を与え合った…ということだろうか? 法で人が応報することが「神の記憶モデル」に作用し「全知性」を、技術などの知識の蓄積が「霊的肉体モデル」に作用して「全能性」を形成していった…と。
<<

これが高みの神の生成の神学的側面なのかもしれない。そうでないかもしれないが。

JRF2023/11/110212

著者の結論は次のようなものである。

>以上三つの研究からは、二つの結論がおのずと浮かびあがってくる。まず、高みから道徳を説く神の出現はとても遅く、枢軸時代と呼ばれる紀元前1千年紀がほとんどだった。そのすべてにおいて、社会と政治が急速に複雑さを増し、人口が100万人規模に増大して、それにともなう集団生活のストレスの増加に対処するのが難しくなっていたことが関係している。これまでに見てきたように、暴力や窃盗、虐待、口論が増え、人間関係が緊張してきたのだ。

JRF2023/11/112708

もうひとつは、高みから道徳を説く神が出現する前に、天罰を恐れる人びとが神をなだめるため、儀式を複雑化させていった時代が長く続いていたということだ。これは人口10万人前後の社会と関わりがあると思われ、最も古いのは紀元前6000年ごろのアナトリアやレヴァントだが、高みの神が登場する2000年前(紀元前2500年ごろ)という例が多い。

JRF2023/11/113752

これは見すごされがちなことだが、ほとんどの場合、こうした儀式の形態が現われたのは、人口が急増してひと握りの中心地(町や都市)に集中した直後に社会の複雑さが急激に増したのと同時期である。人口の増加は、これらの地域で農産物の余剰を増やせる条件が整ったこと、さらには気候も影響しているようだ。いっぽう、都市の急成長はほとんどの場合、富と権力の中心地における経済的な機会が、地方から人びとを吸い寄せることで達成される -- これは今日まで続く構図だ。
<(p.216-217)

JRF2023/11/118281

社会問題による「ガラスの天井」があって、その解決策が見つかると共同体を大きくできたのだという。そうでなければ、分裂するなどして小さい共同体で安定する(p.217-218)。

JRF2023/11/112639

……。

>宗教専門職の出現に最も直接の影響をおよぼしていたのは、食料備蓄の存在だった。<(p.218)

これについては、私には「捨て扶持」理論というのがあり、よくそれで僧の出現の議論をする。

keyword: 捨て扶持

デュルケム『宗教生活の原初形態』([cocolog:94474286])を読んだとき、トーテミズムの「聖職者」について、この理論で説明していた。

JRF2023/11/116434

……。

熱帯は言語の種類が多く、宗教も分断されている。

>熱帯地方の人びとが隣人と交流しようとしないのは、食料供給がらみの問題からではなく、免疫のない未知の病をうつされる危険が高まるからだ。<(p.223)

熱帯は病原菌に有利な土地という視点は私にはなかった。マラリアだけの話じゃないんだね。(p.219)

JRF2023/11/119027

……。

カルトの…

>パナシア協会は、サウスコットの教えにもとづいたフェミニスト神学を採用し<(p.236)

フェミニスト団体がカルト的であると感じることがあるが、すべてのフェミニスト団体がカルト的でないにせよ、カルトに淵源の一つを持つ団体はありそうである。

JRF2023/11/115783

……。

この本の結論的なもの…。

>宗教の進化を支えているのは神秘志向である -- これがこの本の最大の主張だ。神秘志向は、現生人類のみが持つと思われる高次元のメンタライジング能力と、別次元の意識のなかで強烈な没入感をともなうトランス状態を生みだすエンドルフィンの働きによって生まれる。人智を超えた世界に関わるこの能力は、二つの点で重要だった。

JRF2023/11/118388

ひとつは、社会的結束の神経生物学的な基礎をもたらして、参加意識を生みだせること。これは抽象的・観念的な信念にはできないことである。目に見えない超自然的な世界と、そこにいる存在を信じることは、人の心をかきたてる特別な魅力があるようだ。ただしその世界に住むのが何者かは、それぞれの文化の信仰によって異なる。

JRF2023/11/114512

もうひとつは、結束を強める行為のなかでも、宗教は規模が格段に大きいということ。笑い、会話、踊り、語り、宴はどれも規模が限られるし、小さい共同体でしか効果がない。歌唱はいくらかましだが、それでも宗教が対応できる規模とは比較にならない。宗教は友情の七つの柱のひとつにも数えられるほどだから、膨大な数の他人どうしの心をひとつにすることもできる。
<(p.279-280)

JRF2023/11/114961

そしてアニミズムやシャーマニズムの没入型の古い宗教形態を核として、新しい層である教義宗教が、神学的な納得を通じて加わっていくとする(p.280)。

この辺り、私は納得したのだが、しかし、エンドルフィンがどうやって進化的にその作用を獲得したかがわからなかったこと、また、カルトの理論については、いまひとつ、納得できなかった。

しかし納得できた部分だけでも価値が大きい読書だった。

JRF2023/11/110622

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