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cocolog:94703217

マックス・ウェーバー『支配について』を読んだ。日本の今後の支配について、三者調整会議の構想を深めながら、『宗教学雑考集』にからんで、カリスマ的支配の説明が興味深かった。 (JRF 4851)

JRF 2024年2月21日 (水)

『支配について - 全2巻』(マックス・ウェーバー 著, 野口 雅弘 訳, 岩波文庫 白 210-1・2, 2023年12月・2024年1月)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003421019 (I)
https://7net.omni7.jp/detail/1107455096 (I)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003421027 (II)
https://7net.omni7.jp/detail/1107463153 (II)

JRF2024/2/213987

>本書は、マックス・ウェーバー(Max Weber, 1864-1920)が第一次世界大戦前、1910年から1914年に執筆し、彼の没後に刊行された『経済と社会』(Wirtschaft und Gesellshaft)初版の第三部(第四版・第五版の第二部)に収録されている、支配についてのテクスト群の翻訳である。<(p.3)

この本は、『支配の社会学』という名でも知られている。

JRF2024/2/215303

『宗教学雑考集』アーリーアクセス版(↓)を書き終えて、しばらく、ゲームで遊んだのち、本格的に次に向けて始動しようか…というところで、読んだのがこの本になる。

《宗教学雑考集 易理・始源論・神義論 - ジルパのおみせ - BOOTH》
https://j-rockford.booth.pm/items/5358889

↑では支配も問題にしたが、支配とは何かみたいなことは論じなかった。

JRF2024/2/219182

私の支配の理解は、↓に書いたところによる。

《なぜ人を殺してはいけないのか》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.html
>●分業と保険が競争を、競争の上でも信用がなりたつよう分配のための支配を、
●信用と分業が共同体を、共同体が保険として公正のための権力を、
●保険と信用が実験を、実験を見えないよう分業し犠牲を活かすための特権を、

必要として導き出したと感じる。


分配する権力が支配であるという理解である。区別するため、「公正のための権力」は、警察権力と書いたほうが良いのかもしれない。

JRF2024/2/212576

……。

私は今後の日本の支配体制について次のような未来図を考えている。

[cocolog:93844439]
>これからの日本は、中国との対抗上、民主主義という体裁をとり続ける必要があるが、一方で、超高齢化で民主主義が機能不全になるのを避けるため若者専門家による専制に近い制度にする必要があるだろう…と私は「預言」している。<

[cocolog:79931284] や [cocolog:93844439] では、衆議院を予算院に、参議院を立法院にすることや、摂政公選制をすることも考えた。

JRF2024/2/211784

[cocolog:94354877]
>日本に必要な若者専門家による専制的支配として、(「若者」)官僚の事務会議、医師・弁護士を中心とした専門家会議、科学者・(IT)技術者からなる技術会議、とそれらを統べる三者調整会議を作り、それに日本を支配させてはどうかという話をした。<

keyword: 三者調整会議

その文脈で、技術会議というのは話題の日本学術会議がそのようなものであるから、次のようなことも書いた。

JRF2024/2/217187


○ 2023-01-04T07:58:49Z

日本学術会議問題。衆議院が65歳定年を受け容れるなら、改革の方向を受け容れるとできないか。それが実現すればむしろ、学術会議のほうが力が強かったと見なせ、独立性の問題も軽減されるのではないか。


ただ、具体的に日本学術会議がどのようなことができるかと考えて、この本を読みながら、次のように妄想した。

JRF2024/2/210895


○ 2024-02-15T14:58:33Z

新聞社が力を失う中、なぜ週刊誌が元気かというと、背後にヤクザ(相当)があるからだろう。なぜヤクザが今でも力があるかというと違法(脱法)薬物が社会に必要とされてるからで、なぜそれが供給できるかというと野良の研究者の「菜園」があるからだろう。

マスコミと検察が更生権力を持ってきたが、突き詰めれば、科学者がそれをコントロールできる時代になったのかもしれない。「日本学術会議」が人事を行うことで野良の研究者にメリットが及ぶなら、彼らが、衆議院に定年制を導入させることも可能なのかもしれない。

JRF2024/2/210117

新聞社は、基本的に取材は図書館、つまり、官僚が大きな部分を担うようになるべきだというのが私の考えだが、一方で、AI の出力をまとめ、それを弁護士・医師の専門家が選別し、AI に入力し、また、専門家の資格試験に使うというパスも考えられる。弁護士が資格の管理を行うようになれば、新聞は AI への入力を人間が確認する場になるのかもしれない。

JRF2024/2/214924

新聞社を図書館で置き換えていくという話は [cocolog:93195641] などでしている。

「菜園」については、たしかアニメ『とある科学の超電磁砲』がらみで何か書いた…と思ったが、過去の私の書き込みを検索すると記憶違いで『神様のメモ帳』のようだ。

JRF2024/2/211591

[cocolog:72224721]
>Google Earth があるのに、麻薬取引が成立するのは、ブクマに書いた(↓)ような「ハウス栽培+同人網」があるからというより、精神薬の処方で足りるような人が(IDを譲渡するなどして)医者にかかることができず、一方で、厳しい統制により麻薬というわかりやすい非統制商材を扱うということが象徴的に必要とされているからだろう。本当は、麻薬そのものの必要性は実は大幅に減っているからこそ、供給量をしぼっていけているのではないか?

JRF2024/2/218333

はてなブックマーク - 《ラノベ評論【神様のメモ帳】 杉井光 - とある青二才の斜方前進》
http://d.hatena.ne.jp/TM2501/20110725/1311586616
jrf:>アニメ11話をチラと見た。院生が遺伝子組換作物で麻薬を成立させ、「同人」網でハウス裁培・製薬まで行い、その純薬能を知った(ネット音痴の)「若者衆」は決起できるという話だった。それが「ニート探偵」のセカイ。<2011/09/19

JRF2024/2/219032

Gemini さんと話すと、ヤクザの薬物取引があるとしても、それは「菜園」というよりは、海外取引などを挙げてそちらのほうが影響があると示唆するのだが、日本のヤクザが、海外のヤクザに対して交渉力を持つためには、「菜園」のようなものが力を持っているのではないか…という妄想が私にはある。

週刊誌とヤクザのつながりも完全に妄想だが、ダウンタウンの松本人志さんが、M1 グランプリの直後、話題にされて「休養」を余儀無くされたのを見て、M1 に関する賭博がらみで、ヤクザの怒りに触れたのかな…という印象がそのような妄想につながっている。

JRF2024/2/210526

あと、マスコミと検察については、最近の政治とカネの報道を受けている。

基本的に今回の「過熱報道」のキッカケは、ミサイルの輸出に関して反対勢力がいなかったことを米国などが問題視したためだという妄想が私にはある。

JRF2024/2/215395


○ 2023-12-26T22:47:23Z

日本の政治資金のキックバックに関する喧騒は、確かにそれも問題なのだが、パトリオットの「輸出」の非道性を隠すための目くらまし、または、よりひどい形態の「輸出」を封じるための牽制ではないか。…と放言してみる。

○ 2023-12-26T23:22:26Z

その先には、漁業を規制するのにミサイル様の技術すら使えるほど、「ミサイル技術」を安価にして良いのかというビジョンが問われてるのだと思う。日本というかアジアは少子化して、ミサイルに頼る未来が見えているし。

JRF2024/2/219001

ただ、「過熱報道」そのものには辟易していて、SNS などで、「批判」がポルノのように惹起・消費されるのを苦々しく見ている。与党支持というわけではないが、SNS での過熱は異様に思い次のような牽制をした。

JRF2024/2/213385


○ 2024-02-06T12:43:59Z

権力批判というのは、自分達は権力者にすりよって甘い汁を吸えるよう、批判させることで権力者から遠ざけ、権力を「理解」する者を少数者にするためにあるんだろうな。だって、左派政権とかできれば、権力批判すら許されなくなるから。権力批判の想起は自由な社会でのシノギのやり方なのだろう。

JRF2024/2/212326

しかし、こう書いてみて、反省した。「いじめ」のようにノリで批判するのではなく、「建設的な批判」をせよ…というのは、よくあるメタ批判で、それができるものでないのはわきまえているべきなのだ。そういうノリの批判ができること自体はすばらしいことで、それは維持されねばならない。

私が挙げるような三者調整会議みたいな支配体制になったとしても、批判は広く許されねばならない。エンターテイメントは必要だし、エンターテイメントとしてのマスコミも必要なのだ。エンターテイメントをどこに位置づけ、どうコントロールするべきなのか…。

JRF2024/2/210507

[cocolog:94408899]
>Google Bard さんにテレビに関する文句を言っていたら、「スマホを利用してなんとか若者がテレビをのっとれ」という話になって、意気投合した。<

スマホに 2ch のような抵抗のメディアはない。しかし、闇バイト募集に見られるように匿名メディアはある。それを利用すれば、スマホ世代がテレビをのっとる算段も付けれるかもしれない。…という話は以前したのだが…。

JRF2024/2/214385

支配層は(その支持層が多数派だとしても)少数であることが安定のために必要だから、大き過ぎるスマホやテレビという大衆メディアは、常に支配されるべき側ではあるだろう。それをどうコントロールするかというビジョンも必要なのかもしれない。

話題になった電波オークションをすれば、かなりテレビはコントロールできるんだろうけど、そこまでしなくとも…とは思う。でも、同じく電波オークションはスマホにもからむ。その辺がカギなのだろうか…。

JRF2024/2/212697

……。

この本では、家産制→封建制→官僚制という単線的な理解ではなく、家産制・封建制・官僚制がそれぞれ生き残りながら複雑にからみあっているという理解があるようだ。それとはあまり関係ないが、私は体制転換については、simple_market_0.pl (↓)について、入れ子構造や「カタストロフィックな遷移」というアイデアを考えたことを思い出す。そのプログラム自体は私の書いたものの中でもほぼ黒歴史化しているが。

《外作用的簡易経済シミュレーションのアイデアと Perl による実装》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2011/01/post.html

JRF2024/2/210870

……。

…と、本の紹介に入る前にかなり、脱線してしまった。

ここから先は、いつも通り、引用しながらコメントしていく。

JRF2024/2/211730

……。

……。

まず『I 官僚制・家産制・封建制』について。

JRF2024/2/210567

……。

>経済的な財の処分権、つまり経済的な権力は、支配の結果であることが非常に多く、きわめてしばしば計画的に手に入れようとされる。そして経済的な権力はそれと同じようにしばしば、最も重要な支配の手段の一つでもある。

しかし、経済的な権力ポジションであるからといってすべてが、このすぐあとに確認するように、かならずしもいつも言葉の慣用的な意味での「支配」として現れるわけではない。
<(I, p.25)

JRF2024/2/214553

上で、「分配する権力が支配である」と私は書いたが、ウェーバーはそれだけとは見ないようだ。確かに、現実に「支配」という言葉に与えられる語感はそれだけでなく、私のそう書いたあとに続く部分では「支配」は「分配する権力」に限らない意味で用いている。

JRF2024/2/211902

……。

近代以降の官職に関する洞察。大事な部分なので、少し長めに引用しよう。「ベルーフ」とは「天職」と訳されることもあるが…。

>官職は「ベルーフ」である。

所定の教育過程が必要要件である。ほとんどの場合、これには比較的長期にわたって、全労働力を注ぎ込むことが要求される。そして一般的な形で定められた専門試験[の合格]が任用の前提条件である。さしあたり以上の二点に、官職がベルーフであることが表れている。

JRF2024/2/218945

さらに、官職がベルーフであることは、官僚の地位の義務的な性格にも表れている。この義務的な性格によって、官僚の関係の内的構造が次のように規定される。官職に就いているということは、法的にも事実的にも、特定の仕事の見返りとして、手に入れることができるレント[利子・年金]収入や役得による収入を所有しているとはみなされない(中世では普通はこのようにみなされており、近代の初期でもそうであることが多かった)。また、官職に就いているということは、自由な労働契約のように、成果を有償で普通に交換することであるともみなされない。

JRF2024/2/213504

官職に就くということはむしろ、私経済でも、安定した生活の提供を受ける代償として、特有の官職忠誠義務を引き受けることであるとみなされる。

近代における官職に対する忠誠には、決定的に重要なことがある。官職に対する忠誠は、純粋類型の場合には、例えば封建制的、または家産制的な支配関係のように、封臣や信奉者の忠誠のような仕方で一人の人(Person)に対して関係を築くことではない。むしろ官職に対する忠誠は、パーソナルでない、事柄に即した[ザッハリヒな]目的に向けられる。
<(I, p.78-79)

JRF2024/2/212706

別のところでは、試験による昇進についても語られる。ウェーバーのこの本においては、官職は、公的機関だけでなく、大企業における官職的なものについても官僚という言葉に含まれる。

JRF2024/2/211192

……。

選挙でえらばれる「官僚」についての記述もある。

>支配される側の人たちによって[選挙などで]選出された役職者はもはや純粋な意味での官僚制的な人物ではない。

当然ながら、選挙が[手続きとして]形式的に存在しているからといって、その背後に任命が隠れていないわけではない。ここで任命というのは、国家の場合はとくに[政権]政党の[実質的な決定をしている]長(Parteichef)によるものである。
<(I, p. 84)

JRF2024/2/210594

ただし、長に選ばれるとはいえ、選挙を経れば、普通の官僚より独立的になるし、非専門的でもかまわないことになることはウェーバーも指摘している。

ところで、これまで私が日本の選挙を見てきての感想に過ぎないが、どうも選挙で「接戦」などが演出されることがあるように思う。政党がカルテルしてるのか、わざと同政党が複数候補を出したり、有力政党がこぞって立候補させたり逆に立候補させなかったり。それで決まった当選を演出している…というよりも、接戦にして「民意を占う」ような側面のほうが強い。だから、単純な票のコントロールとも違う。

JRF2024/2/215187

それはどこからなされるのか、ときには、日本に決める力がないことを、無力感を味合わせるための外国や企業などからの圧力などもあるのだろう。おそらく党の幹事長や選挙対策委員長には、圧力やうまみがあるのだろうとも予想できる。

…このようなことを Gemini さんに示したところ、接戦を演出することで関心を得られるという利点を教えられた。そういえば、以前、私も、マスコミが接戦を演出している可能性を、米大統領選に関して考えたことがあったように思う。

JRF2024/2/217620


○ 2020-12-07T10:19:00Z

アメリカ大統領選挙。不正投票はあっても大規模ではないとして、ただ、接戦に見える…そう報道されることは若干問題があるのではないか。

激戦区は、自分たちが激戦区であることを主張することで資源を多くしてもらえるかもしれない。だから、そう見せる。もちろん、マスコミは激戦のほうが利益が上がる。それがどれほどかは別として、そういうインセンティブが選挙をゆがめてる面はあるのではないか?

JRF2024/2/210388

……。

君主などが税の徴収などを、官僚などに委任するときに起こること…。

>貢租を業務委託するか委任するかする形態は、実にさまざまでありうる。主人と業務請負人の間の力関係に応じて、支配される側の人たちの租税能力を自由に利用しようという業務請負人の利害関心か、あるいは租税能力のサステナビリティを維持しようとする主人の利害関心か、このいずれかが優位に立つことになる。<(I, p.100)

JRF2024/2/215303

主人は、自分の寿命を超える利益を得るために、税を搾取しようとはしない…ということか。その辺で、官僚の世襲も意味があるということだろう。

外部から雇われた経営者が、「経営合理化」してその期だけ利益を出すようなのと似た議論だね。

実際そうなのかはわからないが、そういう側面は予想できる…と。

JRF2024/2/218769

……。

>官僚制的な国家行政の最古の国であるエジプトで、書記や官僚のメカニズムを生み出したのは、国全体に対して上[中央権力]から水事情を共同経済的に規制すること[治水事業]が、技術的・経済的に不可避であるという事情があった。この事情が書記や官僚のメカニズムを生み出し、このメカニズムが今度は、すでに早い時期から、軍事的に組織化された、尋常でない土木活動に、第二の大きな業務分野を発見した。<(I, p.117)

JRF2024/2/215528

ある程度予想できるが、完全には予想できない「水害」について、常備軍のように常備土木員が必要で、その管理に、官僚組織を必要とした…ということだろうか。この本ではこの後、エジプトでは、農閑期に労働力が余りがちで、それを有効に使うためにピラミッドなどが作られたことが示唆される。

JRF2024/2/217288

……。

>イギリスとドイツの実体法の発展には違いがある。この違いの主な理由は、すでに明らかなように、ここ[経済構造]にあったのではなく、それは両国の支配構造の発展の固有の法則性から生じた。イギリスには、中央集権的な司法が存在し、同時に名望家支配も存在していた。ドイツでは、政治的な中央集中は欠如していたが、官僚制化は進んでいた。<(I, p.132)

「名望家」とは地主など、カネと余暇のある「支配をしたい」層のことである。英米法と大陸法の違いについては、かなり昔に私は記事にしたことがある。

JRF2024/2/210477

《英米法と大陸法》
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/02/post_1.html
>大陸法は議員の発案を立法機関で合意する形で発達した。これは制定時には議員が、運用時には市民が、内心で判断できるように、意思形成を重視する形で法体系が整備された(意思表示論など)。(…)一方、英米法は判例法として発達した。その結果、第三者である裁判官や陪審員が裁判時(法律の運用時)に客観的にみて確かめられるものを重視する形で法体系が整備された(約因論など)。<

JRF2024/2/214716

……。

>官僚制化は、安定した伝統的な「暮らし」を確保したいという小市民の利害関心に応える作用や、私的な収益のチャンスを制限する国家社会主義的(staatssozialistisch)な作用を持つ。歴史的に広範囲に及ぶさまざまな事例で、とくに古代において、こうした官僚制化の作用は間違いなく存在した。そしてこの作用は、おそらく私たちのところ[ドイツ]でも、将来的に展開することが予想される。<(I, p.168)

国家社会主義と言えば、ナチスが有名で、それを予言する部分とも言える。

JRF2024/2/214824

……。

>官僚的な行政は、つねに公開性(Offentichkeit)を排除した行政になる傾向がある。

官僚は、自分たちの知識や行動ができるだけ批判にさらされないようにする。

(…)

政党の行動も異なるものではない。カトリック大会や党集会では、人目につく公開性を誇示しているにもかかわらず、政党運営の官僚制化が増大するのにともなって、秘密化も増大している。
<(I, p.174-175)

JRF2024/2/217094

昔は、私も情報公開法などが大事だと思っていた。今も思っているが、むしろ、政治には秘密が必要だという見解に親和的になってるかな。もちろん、隠して益のある秘密がどれぐらいあるか疑問だし、たいしたことない秘密を守らせることに余計な権力ができることへの警戒は必要だけれども。

JRF2024/2/212033

……。

>他の事情が同じであれば、経済的に独立した官僚、つまり財産を持っている階層に属している官僚だけが[君主に反対したり諌言ったりして]あえて職を失うリスクを背負うことができる。財産を持たない階層からのリクルートは、昔からそうであったように、今日でも主人の力を増大させる。<(p.178)

私大か国公立か…という問題とも絡んでくる部分なんだろうね。私は、一般的な大学無償化よりも、国公立の無償化を推す。そういう選択と集中をして、下層から上層へ致れる道を残しておくことが、三者調整会議みたいな「独裁」でも「新しい血」を用いるためには必要だと思う。

JRF2024/2/215582


○ 2023-10-22T18:27:12Z

私は国公立大学の無償化に賛成。財政的にそこにだけ集中すればレベルが上がり、金持ち層の物好きもそこを目指すようになる。受験が厳しくなるが、結果的に国全体の学術レベルを低予算で維持できると思う。内田樹さんがよくいうように、学費を自分で稼げるというのも大きいと思う。それにより自律的な学生も増えるのではないか。

JRF2024/2/213138

奨学金制度だと、そのとき頭のいいものしか選ばれないというのもある。受験で地頭はいいとわかっていても、無視されてしまう。稼ぎながらだとなかなか選ばれない。若者の労働力不足にも、地味に対応した方法ではないか。国公立大学無償化は。

JRF2024/2/211419

[cocolog:93844439]
>官僚には若い警官が、専門家会議には介護職員が、技術会議には若い(IT)技術者が、下部の実働部隊になるのだろう。問題は、下部(の子供)から上部への階層移動をどう確保し、新しい血で国を活性化するにはどうするか…といったところか。

JRF2024/2/218323

そのためには、国公立の学校のみ無償化して、競争を激化させるしかない、「選択と集中」するならそこだろ、って気が私はするのだが…。私学から医師へのパスも残すが、もっとも弁護士や医師になりやすいのは国公立の大学から…とかできないか。一部の私学の国公立化も視野に。

JRF2024/2/212365

……。

官僚は高度に専門家し、君主(主人)は素人=ディレッタントになる。それでも主人は、官僚をコントロールするとき、合議制の諮問機関や官房などを用いる。昨今、官房機密費などが話題になるが、そういうのを攻撃しているのは、実は、官房の外の置かれた専門官僚なのかもしれない。

JRF2024/2/210370

>官房には専門官僚の憎悪が向けられ、失敗した場合には、支配される側の人たちからの不信も向けられた。しかし官房は、ロシアでもプロイセンでもその他の国でも、専門的な知識や行政の「物象化」に直面した支配者が逃げ込む、いわば個人の要塞として発展していった。<(I, p.183)

JRF2024/2/210598

……。

>ヘレニズムや中世、中国の教育課程では、専門的に「役立つ」ものとはまったく異なる教育の要素に重点が置かれていた。<(I, p.198)

このあたり、内田樹さんなどならうまく説明するのだろうが、私にはできない。

専門的技能はあとからでも実地で身につくということなのか、人文的なものは、実地からは得られない…ということなのか、家産的主人にとって、コントロールするには人文的なものがまず必要ということなのか…。

JRF2024/2/213627

……。

>私たちに伝えられているペルシアとヘレニズムの相違は、経済的な作用をよく物語っている。ペルシアの宮廷の維持は、国王が居住する都市にとって重い負担になったが、貨幣経済の性質を有していたヘレニズムの宮廷の維持は都市にとって収入源となった。<(I, p.230-231)

物納が求められると負担になり、貨幣だと、外で得た税収を都市で使ってくれるようになるから…ということだろうか。それとも通貨の発行益(シニョリッジ)が絡む話なんだろうか?

JRF2024/2/213545

……。

>イギリスの弁護士は、自分たちの役得利益のために、裁判官の採用を自分たちの仲間内に限定して行うこと、そして弁護士自体の採用も自分たちが訓練した研修生に限定することを強要し、これによって他の国とは対照的に、大学でローマ法を学んで学位を取得した人たちを排除し、それゆえローマ法の受容そのものを排除した。<(I, p.276)

JRF2024/2/213350

ここも、英米法と大陸法の違いの元となる部分だろうが、むしろ、現代日本の司法修習制度に続く裏事情が読み取れる。日本の司法試験も、民主化・平等化の側面はあるが、大学で長い時間を要することから、その余裕のある「名望家」のためのものという側面も多少はあるのかな、という気がする。三者調整会議で、医師や弁護士に強い力を与えるというのは、名望家を利する面があるのかもしれない。

あと、ローマ法であって、ゲルマン法ではないんだね。

JRF2024/2/213423

……。

家父長制から来ている家産制において、プフリュンデ(俸禄)が既得権となるよう、主人に認めさせたため、やめさせるには、その損失を補う必要が出てきた。パルルマン=フランスの高等法院において…。

>これに対して国王は、自分の意志をパルルマンに押し付けようとして、パルルマンによって、身動きが取れなくさせられることもあった。極端な場合はゼネスト、つまり集団辞職である。こうなると該当するブフリュンデの購入額の全額の返金を、国王は強要されることになりかねなかった。こうしたことが革命までくり返し生じた。<(I, 288)

JRF2024/2/213888

ゼネストをした場合、退職金は支払わないといけないんだね。退職金で破産させることもできる…と。その辺、日本の法律はどうなっているのだろう? ストする者にもちゃんと有利になっているのだろうか?

JRF2024/2/218303

……。

>とくにプフリュンデの専有は、官僚の罷免をしばしば事実上、不可能にした。効果の点でこの専有は、裁判官の「独立性」という近代的な法的保障と同じように機能することがある。しかしプフリュンデの専有は、その意味するところについては[近代的な法的保障とは」ほぼまったく異なる。この専有は官職への官僚の権利の保護を意味する。

JRF2024/2/219545

これに対して、近代的な公務員法では、官僚の「独立性」によって、つまり判決によらなければ官僚を罷免できなくすることによって、官僚のザッハリヒカイト[事柄に即していること]を法的に保障しようとする。官僚のザッハリヒカイトは[官僚の利益のためではなく]支配される側の人たちの利益のためである。
<(I, p.302)

ただ、ウェーバーは家産制と官僚制に完全な断絶を見出すのではなく、連続性があるとも見ているので、プフリュンデの専有が、近代的官僚のあり方を準備したとも見ているのだろう。

JRF2024/2/215295

……。

>家父長制は、自分にとって危険な特権的身分の野望に対しては、大衆を動員して対抗させる。そしてそれによって漁夫の利を得る。大衆はどこでも、家父長制にとっては所与の支持者である。

どこにおいても大衆の伝説によって聖化される理想は英雄ではなく、「善き」君主であった。
<(I, p.497)

上で「権力批判の想起は自由な社会でのシノギのやり方なのだろう。」と書いたが、それは家父長制から来る伝統なのかもしれない。

JRF2024/2/218644

……。

I 巻の訳者解説。

>当時、学部学生だった私は、わからないなりに官僚制の章を懸命に読んだ。ウェーバーの官僚制論では日本の官僚制の現実は理解できない、ということは、これまでもしばしば指摘されてきた。しかし、一つの支配の類型として一貫して官僚制をとらえてみることがなければ、日本の現実における官僚組織の特徴も歪みも把握できない。本書の官僚制のテクストは、官僚制についての、包括的で、視野の広い研究として、今日でもなおも一読の価値がある。

JRF2024/2/218153

これに対して家産制、封建制の章は、正直にいって、当時の私には歯が立たなかった。どうせ最終的に官僚制的な支配(「鉄の檻」)に行きつくのであれば、それ以前の時代の支配構造なんて、それほど重要ではないという先入見が謙虚にテクストに向き合うことを難しくした。これらの章をうまく読むことができなかった一因はおそらくここにあった。

(…しかし…)

JRF2024/2/215625

家産制は大昔に存在した支配構造で、博物館の特定の時代の部屋に展示されているなにかではない。土地、人民、および物品を主人が自分の所有物として扱い、自分の個人的なお気に入りの部下を通じて支配するという家産制的な支配について考察することは、今日とても重要になっている。一部の政治家による政治の「私物化」(privatization)が問われるとき、そこで問題にされていることは家産制的な現象にかなり似ている。

JRF2024/2/211947

また、家産制的な支配は国家に限定されない。経営の決定の迅速化と効率化という名目で推進されてきたトップ・ダウン型の組織形態は、企業だけでなく大学などにも及んでいる。「官僚制の弊害」を除去するという名目で正当化されていた、このような組織では、リーダーの恣意がまかり通りやすい。このようなリーダーは家産制的な「主人」(Herr)の特徴を持つことになる。
<(I, p.542-543)

私も、家産制・封建制については学部学生のころの訳者のように読み飛ばしてしまった。まずかったかもしれない。

JRF2024/2/219564

……。

……。

『II カリスマ・教権制』について。

JRF2024/2/215981

……。

>歴史的に振り返れば振り返るほど、日常の経済生活の要求を超えたあらゆるニーズの充足は、原理的には(…官僚制などとは…)まったく異質な、つまりカリスマ的な基礎を持っていることがわかる。<(II, p.21)

カリスマのあるリーダーの例として、ベルセルク…北欧の狂戦士の名前も挙げる。カリスマを持つ人というのは、ある種の狂気・狂信があるということなのかもしれない。

JRF2024/2/210370

カリスマと言えば、イエス・キリストなどの宗教者はもちろんそうだが、現代では、野球の監督や、アイドルなどにも「カリスマ」はある。リーダーとは限らない。

支配を問題にすれば、リーダーのみの問題となりがちだが、「監督」のように組織の中でカリスマが活かされることもある。官職そのものにカリスマがあるという官職カリスマというものもウェーバーの議論ではでてくるが、それとは別の話だ。

JRF2024/2/210652

……。

>「純粋」な形式のカリスマは、カリスマを持っている人にとって、決して私的な営利の源泉などではない。パフォーマンスとそれに対するお返しの交換という形で[カリスマを]経済的に利用するという意味でも、そしてまた給料をもらうという別の活用の点でも、カリスマは私的営利の源泉ではない。同様にカリスマは、自分の使命の物質的ニーズを賄うための租税の秩序とも無縁である。

JRF2024/2/219310

そうではなく、カリスマの使命が平和のための使命であれば、経済的に必要とされる手段は、[カリスマを信奉する]個々人の後援によってか、あるいはカリスマが向けられる側の人たちからの、栄誉のための贈与、寄付、その他の自発的な提供によって揃えられる。あるいはカリスマ的な戦争の英雄の場合には、戦利品が目的の一つであるとともに、同時に使命のための物質的手段を提供する。

JRF2024/2/214251

どんな(ここで使われている意味での)[家父長制的」な支配とも異なって、「純粋」なカリスマはすべての秩序ある経済の対立物である。カリスマは経済的な無頓着さ(Unwirtshaftlichkeit)が有している力(Macht)の一つであり、そればかりかまさに経済的な無頓着さの力そのものである。カリスマ的な戦争の英雄のように、財の所有を目的とする場合でも、あるいはその場合こそ、そうである。

JRF2024/2/215599

カリスマが経済的な無頓着さの力でありうるのは、カリスマの本質からして、継続的な「制度的」構成体ではなく、「純粋」類型で機能するところでは、まさにその反対だからである。

カリスマの担い手である主人および信奉者とフォロワーが、その使命を果たすことができるためには、この世界のしがらみの外に、日常の職業や日常の家族の務めの外に立たなければならない。
<(II, p.28-29)

JRF2024/2/211113

>カリスマ的英雄が権威を獲得し維持するのは、人生のなかで自分の力を証明することによってのみである。

預言者になりたいのなら奇蹟を起こさねばならず、戦争を導く人(Kriegsführer)になりたいのなら英雄的な行為をしなければならない。

しかし、なによりも、その人の神的な使命は、信仰をもってその人に身を捧げて3いる人びとがうまくいっていること[息災・安寧・繁栄]によって「証明」されなければならない。

JRF2024/2/210550

それができなければ、その人は明らかに神々から遣わされた主人ではない。
<(II, p.32)

「狂信」を支える経済事情とはどのようなものか。

JRF2024/2/214249

家父長制=家産制では、軍が、最終的にはその税の徴収力をもたらすのであるが、しかし、ウェーバーは父権をモデルにしているからそれは第二義的なものなのだろう。父は職により家計を支えることにその権力の源がある。もちろん、子供を暴力で従わせることができることも権力の源かもしれないが、それは二義的である。同様に、家産制も、第一義的には、その経済的なパフォーマンスが威信につながる、軍は二義的なものというのが、基本的な理解なのだろう。

JRF2024/2/217464

家産制では、その経済的パフォーマンスに必要な分だけ、徴収が合理化される。そこに従う者は、すべて、その能力に応じて、主人に力=税を納めなければならない。

それに対し、カリスマ制では、特別な幸運に対し「実績による証明」が必要だが、それは経済に関してではない…ということか。

JRF2024/2/210961

そして、カリスマに金銭を集めるときは、信じる者のみ支払うのが基本となる。それはなぜだろう? より大きな舞台に立てるようにする広告費のようなものだからだろうか? バベルの塔を築くように、カリスマがより高いところに行くようにしたいが、その見返りは求めない…。

逆に、より大きな舞台では奇跡性を証明できないとはどういうことか? アイドルに限界が来る…しかし、支援をし続ける者はいるものだ。

JRF2024/2/219180

現世利益を超えた別の世界から reward があると信じている? いや、reward はなくても良い。そこに輝きがあればよい。ただ、現世の論理が通じるところではない…と信じることが必要ではあるのだろう。

幸運に現世的理由がある場合、その理由に応じた、経済的裏付け(納税)が求められる。逆にそうでないところにはいたるところにカリスマがあるとできるのだろう。現代の国際通貨の論理は、カリスマ制的であろう。

JRF2024/2/210235

いや、家父長についても、カリスマ的な部分はある。その仕事の詳細を家族に秘密にし、「カリスマ」を保つ家庭は多いのではないか。家父長はそれにより自由にできる金が余計に手に入る。それでリスクを取れる面(リスクを取って情報を取れる面)はあるだろう…。

JRF2024/2/213038

……。

>経済も決してカリスマと無縁ではない。

(…)

カリスマと日常生活の対抗関係は、資本主義に特有の経済の分野でもみられる。ここで対立するのは、カリスマと「家」ではなく、カリスマと「経営」である。

JRF2024/2/211331

ヘンリー・ヴィラードは、株式取引所で北太平洋鉄道の保有株式に奇襲をかけた。この目的のために彼が仕掛けたのが、有名な「ブラインド・プール」である。彼は目的を明示せずに詳細を明らかにできない事業のために、大衆から5000万ポンドを募り、彼の名声でこの金額を無担保で借りた。

JRF2024/2/211857

この一件やこれに類似の現象は、壮大な略奪資本主義と経済的な戦利品に群がる人びと[フォロワー]の現象である。これらの現象は、その全体構造において、その「精神」において、通常の大規模資本主義の「経営」の合理的運営とは根本的に異なる。逆にこれらの現象と同質なのは、非常に大きな財政・植民地の搾取事業や、海賊や奴隷狩りと混合した「その場だけの商売」である。これらは太古の昔から存在した。
<(II, p.51-52)

JRF2024/2/213563

たまたま現世の見返りがあるものもあるということか。逆に、それをモデルとして、別世界の見返りを想像させるのが、カリスマ一般の構造ということなのだろうか? 実際に利益化すると、ガッカリする…期待してるだけのときのほうがワクワクした…みたいなものの、期待部分を取り出したモデル…ということなんだろうか?

JRF2024/2/216465

……。

カリスマの持続は難しく、それはしばしば「伝統」に取って変わる。

>戦争の英雄のカリスマ的従士団[フォロワー]が国家になるにせよ、預言者、芸術家、哲学者、倫理的・科学的革新者のカリスマ的ゲマインデが教会、教派[ゼクテ]、アカデミー、学派になるにせよ、一つの文化理念を追求する、カリスマによって導かれるフォロワーが政党[党派]、あるいはたんなる新聞や雑誌の装置になるにせよ、カリスマの存在形式はいつも日常生活の条件と日常生活を支配する諸力、とりわけ経済的な利害関係に委ねられる。

JRF2024/2/210952

(…)

このとき、とりわけカリスマと伝統という、根底では相互に異質で敵対する二つの力が合流する。これは通常の現象である。

(…)

これによっていまやカリスマの本質は、最終的に犠牲にされ、失われたようにみえる。カリスマのきわめて革命的な性格に関するかぎり、実際にそうである。

JRF2024/2/213875

というのも、経済的・社会的な権力ポジションにいるだれもが、カリスマ的な、したがって神聖な権威と源泉からの導出によって、彼らの所有物をレジティメーション[正当化]することに利害関心を持っており、この利害関心がカリスマを奪い取る。これが典型的な仕方で反復される展開の基本的特徴である。

JRF2024/2/212196

したがって、カリスマは、誕生の時点のように、その本物の意味にふさわしく、あらゆる伝統的なものや「レジティメイト」な権利取得に基づいているものに、革命的な影響を与えることはない。いまやまったく逆で、カリスマは「既得権」の正しさ[法]の根拠(Rechtsgrund)として機能する。
<(II, p.61-64)

この後にも、カリスマの後継者問題が議論される。

JRF2024/2/212340

……。

直接民主主義的な選挙は、カリスマ的特徴を持ってはいる。しかし…というか、それがゆえに…というべきか…。

>国会議員(Volksvertreter)を有権者の意志に縛り付けようとする試みはすべて、実際のところ長期的にはいつも、ただ次のことを意味するだけである。その意味というのは、有権者の意志に対する、すでに増大している代表者の政党組織の力をさらに強化することである。なぜなら、彼ら政党組織だけが「国民」を動かすことができるからである。<(II, p.83)

JRF2024/2/211070

カリスマを(政党などの)現実的な継続的な力にする装置は、現代にはあるということか。

近ごろ、「錯覚資産」という言葉が流行ったが、カリスマと重なる部分はあり、それはある程度造れるということだろう。

JRF2024/2/213431

……。

ただし、カリスマはただ利用されるだけでなく、カリスマがそれまで築いたものを「利用」していくときもある。

>感情的な大衆効果はどれも、必然的にある種の「カリスマ的」な特徴を帯びる。この結果として、政党と選挙事業の官僚制化が進み、それがピークに達したときに、カリスマ的英雄崇拝が突然燃え上がることによって、官僚制化が(…逆に…)英雄崇拝に奉仕を強いられるという事態も生じる。<(II, 88)

火が着いたときそれをさらに大きくする、「煽る」装置となることもある。それが政党のもともとの仕組みなのかもしれない。

JRF2024/2/218952

……。

ただし、平時においては官僚化のほうが強い。

>政党経営[幹部]は一般に、とても簡単にカリスマの去勢に成功する。アメリカでは人民投票[プレビシット的]でカリスマ的な「大統領[選挙]のプライマリー[予備選挙]」が実施される。その場合ですらカリスマの去勢はくり返し成功していくだろう。まさに専門家による[政党]経営そのものが有する継続性が、情緒的な英雄崇拝よりも、長期的に戦術的な視点で優れているためである。<(II, p.97)

JRF2024/2/216070

……。

>カリスマ的能力が[神からの]賜物であれば、その所有が試され証明されることはあっても、伝達されたり習得されたりすることはない。ところがカリスマ的能力が、なんらかの、さしあたりは純粋に魔術的な手段によって移転可能なザッハリヒな[客観的な]資質になると、これによって賜物から原理的に[人間の力で後天的に]獲得できるなにかへと変質する道が踏み出される。

こうして、カリスマ的な能力が教育の対象になる可能性が出てくる。

もちろんここでの教育は、少なくとも最初は、合理的あるいは経験的な教説という形式ではない。

JRF2024/2/216065

英雄的精神や魔術的能力は、さしあたりは教えられるものではないとみなされる。

むし、英雄的な精神や魔術的な能力は、それらが潜在的に存在する場合にのみ、全人格の生まれ変わり(Viedergeburt)によって覚醒可能なものである。
<(II, p.127-128)

いわゆる成人儀礼(イニシエーション)がこの種のものになる。割礼などもそうだという話だ。

それは>官僚制によって養成される専門教育に対する根本的なアンチテーゼ<である。

JRF2024/2/215918

……。

>時間がかかり、経済の観点では直接的には役に立たないカリスマ的教育を受けるためには、家の経済が若者の労働力を差し迫っては必要としていないことが、若者にとっての前提条件である。この前提条件は、経済的な労働の集約性が増大するにともなって、ますます所与ではなくなっていった。

しだいに増大しつつあった、富裕層によるカリスマ的教育の独占化は、人為的にさらに高められた。
<(II, p.136)

JRF2024/2/219168

現代では、若者の労働力が不足が厳しく、バイトすることが強く求められている。カリスマ的教育は難しくなっているのかもしれない。

一方で、ゲームに惹かれる若者も多い。ゲームは別世界を見せることから、別世界の価値、カリスマに近いのだろうか? それとも逆にゲームはカリスマを浪費させているのだろうか?

JRF2024/2/219391

……。

君主のような世襲カリスマは…

>まさにその高いカリスマ的資質ゆえに、このような支配者は統治行為、とくに失敗したり嫌われたりした行為の責任を、支配者の代わりになって担ってくれる一人の人物を切実に必要とする。<(p.169)

それがペルシアのシャーのもとでは大宰相という地位になった。逆に、君主が象徴にしりぞく現代日本のような例も出てくるのだろう。

JRF2024/2/219062

……。

官職カリスマの高度に発達したところに、西洋教会のような「教権制」が生まれる。ここからしばらくは「教権制」の話である。

教権制の強制力は「破門」にある。「破門」の効果を上げるためには「弱者救済」も求められるという関係にはなる。

JRF2024/2/212211

>教権制がその要求を貫徹するために用いる権力手段は、教権制が要求し、また手に入れている政治権力の支援を度外視しても、きわめて重要である。破門、礼拝行為からの排除は最も厳しい社会的ボイコットと同じように作用する。経済的ボイコットは、排除された者と交際しないように、との命令という形で行われる。このような経済的ボイコトは、なんらかの形式で、あらゆる教権制に固有のものである。

JRF2024/2/215986

この生活規制の様式は、教権制的な権力利害によって規定されている(そして、これはとにかくかなりの程度において事実である)。そのかぎりで、生活規制の様式は複合する諸勢力の出現とぶつかる。

JRF2024/2/214078

ここから「弱者の保護」が出てくる。「弱者の保護」というのは、教権制ではない暴力に服している人、つまり奴隷、隷従者、女性、子どもを、権力者の無制限の恣意から保護すること、小市民や農民を暴利から保護することである。さらに教権制によって制御できない経済権力の出現の抑制、とりわけ勃興しつつある資本のように、伝統とは縁のない新しい勢力の抑制も行われる。また、一般に、教権制的な権力の内的な基礎である伝統、および伝統の神聖さへの信頼が揺るがないようにすること、したがって、慣習的・伝統的な権威を支持する態度が出てくる。
<(II, p.198)

JRF2024/2/219922

「弱者保護」と保守性が並んで出てくる。権力を維持するために、自然にそうなる。もちろん、「弱者保護」をするために、教権制という権力を作ってきた逆の側面も当然あるだろうが。ただ、老子(第36章)の「奪うためにはまず与えよ」を思い出す部分ではある。

JRF2024/2/219404

……。

官職カリスマ…その独占のために…

>官職に就いておらず、個人の身分でカリスマ的な奇蹟を起こす者は、「異端者」あるいは「魔術師」であると疑われる。すでにグデア(*1)の時代の碑文に、このような例がある。

それと同じように、スーパーナチュラルな能力を個人のものとして自分に帰属させることは、仏教の僧侶の戒律における四つの絶対的な大罪(*2)の一つである。

JRF2024/2/210964

(…)

(*1) グデア(Gudea)は古代シュメールの都市ラガシュの支配者。

(*2) 仏教の戒律でもっとも重い罪である波羅夷[はらい]を指す。波羅夷はサンスクリット語パーラージカ(…)の音訳である。四つの罪とは淫、盗、殺、妄であり、ウェーバーが本文で述べているのは最後の妄ないし大妄語(悟りを得ていないのに悟りを得たと嘘をつくこと)のことである。
<(II, p.200-202)

絶対的な大罪というと、謗法のほうが私の印象にはあって、「妄」をそこまでいうのは、なんか違う印象。

JRF2024/2/210781

……。

>修道士という競争相手に対して、ローカルな教会権力(司教、教区聖職者)は何世紀にもわたって抵抗してきた。それでも、つねに修道士が圧倒した。彼らは旅回りをする、それゆえに人気のある聴罪司祭であった。司牧[魂の配慮]では、修道士が、地元に定住している聖職者の倫理的要求[の水準]に対して、理念的な意味で非常に容易に優位に立った。ちょうど学校の授業の分野で、自由競争が行われる場合に、このような独身の禁欲者の層が、財産で家族を養わなければならない世俗の教師に対して、物質的な意味で優位に立つことができたのと同じである。<(II, p.225)

JRF2024/2/218775

家庭のパーティに招いて歓談するという点は、世俗の教師に優位点があるかもしれないが、本を買う金銭的余裕または借りるコネ・読む時間的余裕は独身者のほうにあるのかもしれない。

『宗教学雑考集』では、林住期に学ぶのが良いのではないかと考えた。そのときはあまり明確な理由を述べなかったが、子供に手がかからなくなったあと、その分を、学びに回せ、また、家計を稼ぐのに忙しい若者の子供の学びを見ることができる…ということだろう。万年林住期的なのが修道士ということになるのか。

JRF2024/2/216684

……。

>神殿と修道院はどこでも、そしてオリエントでは最大規模で、貨幣取引に参加し、預金を受け入れ、あらゆる種類の現物や貨幣の形で利子を付けて貸付や前貸しを行い、さらに他の種類の取引仲介も行っていたと思われる。

JRF2024/2/216254

ヘレニズムの神殿は、部分的には中央銀行として機能し、部分的には保管金庫や貯蓄銀行として機能した([中央銀行としてというのは]アテネの財宝庫のように機能したということである。それは民主主義の時代に国家の財宝に手を出そうとすることに対して抑制をかけるという利点を提供した。この抑制はある程度のものにすぎなかったが、少なくともまったく効果がないわけではなかった)。

JRF2024/2/212546

例えば、奴隷の開放の典型的な形式は、デルフォイのアポロン[神殿]が奴隷を主人から[自由のために]買い取るというものであった。この場合には、アポロン[神殿]は当然ながら、自分の資金からではなく、神殿に預けられていた奴隷の預金からその額を支払った。神殿の金庫に預けられた奴隷の預金は、(奴隷は主人に対して民事上の権利を持っていなかったが)主人がこれに手を出すことから安全に守られていた。
<(II, p.256-257)

JRF2024/2/210474

『宗教学雑考集』に宗教金融のことをほとんど書いてなかった。↓とともに書き足しておこう。

《『新約聖書』ひろい読み - 神殿とハト》
http://jrf.cocolog-nifty.com/religion/2006/08/post.html

JRF2024/2/215780

……。

資本主義では、株主という主人はいるが、何でも命令できるわけではなく、利潤追求という事柄に株主も従属している。そういう意味で、資本主義は労働者や抵当証券の債務者を「主人なき奴隷制」(herrenlose Sklaverei)に巻き込む。

JRF2024/2/217039

>この「主人なき奴隷制」は、制度としてのみ倫理的に議論する余地があるだけで、支配する側であれ、支配される側であれ、個人としての参加者の行動は、原理上は、倫理的に議論することができない。経済的没落はどの観点からしても無益である。こうした経済的な没落によって罰せられるという条件のもとで、参加者の行動はいかなる本質からしても客観的状況によって規定されている。そしてここが決定的なポイントであるが、参加者の行動はパーソナルではない、事柄に即した[ザッハリヒな]目的に「奉仕」するという性格を持っている。<(II, p.266)

JRF2024/2/217078

……。

教権制は利子を禁止し、「公正価格」の取引を勧めようとするが、それはうまくいかないのが常だった。

>利子の禁止と「公正価格」は相互に関連しており、隣人団体の始原的な倫理に由来している。隣人団体の始原的な倫理において交換は、自己の労働によってたまたま生まれた余剰分や生産物に対する埋め合わせにすぎず、他者のための労働は、近隣の助け合いにすぎず、貸出しは、緊急援助にすぎない。

JRF2024/2/213831

「兄弟[同胞]の間」では、人は価格の交渉をしない。そもそも交換するものに対して要求するのは原価(「生活に(最低限)必要な賃金」(living wage)は含む)だけである。相互の労働援助は無償か宴会でのお返しによって行われる。なくても済むものの貸出しには収益を求めず、期待するのは必要な場合の[お互い様という]相互性だけである。

利子を求めるのは権力保持者で、利益を求めるのは異なる部族のよそ者で、兄弟[同胞]はこれを要求しない。

JRF2024/2/213542

債務者は(実際のまたは潜在的な)奴隷であるか、あるいは(アリオストにおける)「嘘つき」である。
<(II, p.273-274)

JRF2024/2/213059

>利子の禁止の実用的な適用の歴史は次のことを教えてくれる。利子の禁止はさしあたり聖職者にのみ、しかも敵に対してではなく兄弟[同胞]のためにのみ導入された。さらに、まさに自然経済[現物経済]が支配的で、事実として消費を目的とした貸借が優勢な時代に、つまり中世初期には、利子の禁止は聖職者自身によってさえくり返し無視された。これに対して、資本主義の「生産のための貸借」(より正確には営利のための貸借)が、さしあたり海外貿易で包括的な規模で機能し始めるとほぼ同じ時期に、利子の禁止は実際に真面目に受け止められるようになった。以上が、歴史の教えるところである。

JRF2024/2/213107

利子の禁止は、経済状況の産物ないし反映ではなく、むしろ教権制の内的強化と自律性の増大の産物ないし反映であった。教権制は、いまや教権制の倫理の基準をますます経済の制度に適用し始め、神学の発展とともに、経済の制度のための包括的な決疑論を生み出した。
<(II, p.275)

JRF2024/2/215548

基本マイルドなインフレが世界経済の潮流だから、利子はとらざるを得ず、その中で、デフレになると、利子の禁止が現実味を帯びた…ということなんだろうか? 海外貿易では貨幣が強くなりデフレぎみになったということか?

JRF2024/2/216663

……。

>農民たちが[プロテスタントの]新しい教説に関心を持ったのは、基本的には聖書に根拠を持ったない貢租や義務から土地を解放するという観点からであった。今日のロシアの農民たちがしていることもこれと同じである。

これに対して、市民層の直接的な物質的利害関心は、最も本質的なところでは修道院の商売との対立に深く関わっており、それ以外のすべては二次的なものに留まっていた。

利子の禁止はどこでも争点として話題にすらなっていない。

JRF2024/2/215855

(…)

しかし、こうした解放の傾向は、宗教的に規定されることから生活全般を解放したいという衝動によってもたらされたわけではまったくなかった。

(…)

まさにこの反対が正しい。それまでの教権制の影響による生活への宗教の浸透は、改革者にとってはまったく不十分であった。しかもこれが最も当てはまっていたのは、まさに市民のサークルであった。
<(II, p.298-299)

JRF2024/2/217472

かつて、経済的な解放と、精神的な引き締めが求められていた…と。精神的な引き締めの主張が正当性をもたらして、経済的な解放につながった…ということだろうか。ただ、その後の推移は、精神的な引き締めが世代を超えて約束通り続いた感じでは決してないようだが…。

JRF2024/2/219899

……。

>労働の成功は、神の意にかなっていることの最も確かな徴候であるので、資本主義的な利潤は、神の祝福がその事業に宿っていることを知るための最も重要な認識根拠の一つである。<(II, p.309)

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)の主張がその後のここにも取り上げられてるね。

JRF2024/2/211216

……。

>ユダヤ教は特別に都会的で、その際に絶対的に同化不可能であり、そして国際的である。このようなユダヤ教の性格は、古代にもすでに存在し、後世でも同であった。この性格は、一方では、儀礼的な動機に基づいている。割礼が知られていない世界でも割礼にこだわること、食事の戒律のために屠畜者が不可欠なことが、そうした動機である。これゆえに、今でも正統派のユダヤ人にとっては、個人で分散して生活することはありえない。また他方でユダヤ教の性格は、教権制的な公的団体のラディカルな否定とメシア的希望に基づいている。<(II, p.314)

ウェーバーには『古代ユダヤ教』という著作もある。

JRF2024/2/214311

国際的で同化不可能だが「個人で分散して生活することはありえない。」というのが印象的。そしてその秘訣は、それが儀礼に基づいているからということのようだ。

JRF2024/2/219148

…… 。

ウェーバーが見たアメリカでは宗教のゼクテ(セクト)が発達していて、そこに属すことが信用を作る。逆にいうと、そこから排除されては信用も得られない。

JRF2024/2/215741

>真のキリスト教徒に対する禁欲的な要求は、資本主義の側で新規参入者に課されるものとまったく同じである。少なくとも「正直は最善の策」(honesty is the best policy)という命題が有効な範囲内では、そうである。監督委員会で、取締役、「プロモーター」(Promoter)、現場監督として、また資本主義装置における信頼が求められる重要な地位で、この類型のゼクテの会員が優遇されている。<(II, p.327-328)

JRF2024/2/216629

かつての mixi や Facebook などを念頭において「連帯して誰を排除するんだ?」と私は警戒する。それは、ここのゼクテに敵対する考え方なのだろう。私はゼクテが差別主義的にならざるを得ないことを警戒する。

JRF2024/2/215121

[aboutme:119666] など
>SNS などの「連帯」は、連帯して誰を排除するんだ?と私に警戒させる。>実体として同じ責任で連帯をするわけでもなく、ナショナリズムを連帯と言ってしまうなら将来すべての人が連帯するという「理想」があるわけでもない。法による社会形成をあきらめ「連帯」を志向するのは秘密ある「内部権力」を認めることだ。<<

JRF2024/2/213954

はてなブックマーク - 《Facebookにもネットワーク外部性?-幅広い世代が利用して高まるユーザビリティ | 経済学はみんなの味方!》
https://ss-wd.com/articles/microeconomics/network-externality/553/
jrf:>SNSは連帯して誰を排除するんだ? 新自由主義が想定した小SNSの連帯・競争でなくNET外部性による大SNS支配の時代。劣後SNSは無責任な整理。代替が効かないのに排除・整理退出の完全な自由を国家は私法人に与えてよいのか?<(2020/02/021)

JRF2024/2/216732

そして私はひとりぼっち。

JRF2024/2/215137

……。

>「カトリック教会の良心の自由は、教皇への服従が許されること」であり、[このことが]すなわち自分に対して自分の良心に従って行動することである、とマリンクロットは帝国議会で述べている。

JRF2024/2/215601

(…)

[これに対して]一貫したクエーカーの良心の自由は、クエーカー自身の良心の自由だけではない。クエーカーでもバプティストでもない人が、あたかもクエーカーやバプティストであるかのように行為することを強制されないことに、一貫したクエーカーの良心の自由の本質がある。

JRF2024/2/213381

(…)

この意味の「良心の自由」こそ、原理的に第一の「人権」である。なぜなら、この「良心の自由」は最も広い範囲に及ぶ力からの自由を保障するからである。

(…)

その他の「人権」「市民権」「基本権」は、この良心の自由の権利に付随している。

JRF2024/2/210888

(…)

これらの[良心の自由から派生する]諸権利は、啓蒙主義時代の次のような信仰に、究極的な正当化(Rechtfertigung)[の論拠]を見いだす。個人の「理性」は神の摂理によって、また、個人こそが自分の利害関心を最もよく知っているとみなされているので、その理性を自由にさせておけば、少なくとも相対的に最良の世界が生み出されるに違いない。これが啓蒙主義時代の信仰である。「理性」のカリスマ的聖化は、カリスマがその波乱に富んだ道程でたどり着いた、カリスマの最後の形式である(「理性」のカリスマ的聖化の特徴的表現がロベスピエールによる理性の神格化である)。
<(II, p.337-339)

JRF2024/2/218706

『宗教学雑考集』の《易の小集団主義》が小集団を指向したのも、自由のためだった。ここでの「良心の自由」のためとも言えるかもしれない。

しかし、私は、「理性」の神授説はとらない。AI LLM が意識・理性を持つように見えるようになった時代において、「最良の世界」が生み出されるという楽観論には立てないかな。

JRF2024/2/217249

……。

II 巻の訳者解説。

>宗教に対して「理性」を対置する議論からウェーバーは慎重に距離をとっている。「「理性」のカリスマ的聖化」という表現を用いていることからもわかるように(教[51])、理性は理性によっては正当化できない基礎を持ち、合理主義は合理主義によっては基礎づけできないものを内在させていることを、彼は強調する。政教分離や寛容といった近代的な政治原理が、いかにゼクテ(教派)の強烈な宗教意識によって可能になったのかを示すことも、「国家と教権制」の章の一つの主題である。<(II, p.426)

JRF2024/2/218440

I・II 巻の全体を通して…

>ウェーバーが目を向けている利害関心のコンステレーション(…布置連関…)というのは、例えば次のようなものである。

社会的平準化としての民主化は官僚制化をもたらすが、この官僚制化は新しい階層構造を生み出し、民主化の傾向と対立する(官[45])。君主の行政スタッフである官僚が専門知識と情報を握るようになると、君主の思惑と官僚の利害は衝突する(官[52])。中央権力はしばしば地方の名望家とぶつかる(家[44])。封建制において君主は、つねに封臣と合意形成し、契約を結ばねばならなかったが、その摩擦の過程で君主の官僚組織が強化・拡大していく(封[10])。

JRF2024/2/219735

主として経済的な機能を担う平時の首長と戦時のリーダーである武侯はそれぞれ異なる論理を持ちながら並存する(カ[6])。伝統を破壊する革命的なカリスマは、時間の経過とともに、伝統との同盟関係に移行する(組[7])。経済的な連関に無関心なカリスマによる支配は、その支配で生活するフォロワーの経済的な利害関心に譲歩せざるをえず、さらには既得権を正当化する機能をも果たすようになる(維[9])。

JRF2024/2/214184

資本主義とその担い手である市民層が台頭すると、君主や貴族は教会の傘のもとに逃げ込んで保守的なブロックを形成し、市民層と対立する(教[38])。労働者階級が台頭すると、市民層も保守的ブロックに接近する。ここからヨーロッパ保守政党(ドイツ中央党)のイデオロギー配置が論じられる(教[39])。そして人民投票的なリーダーは、経済的・社会的な対立を煽り、自らの権力の確立のために利用する(官[47])。
<(II, p.435-436)

JRF2024/2/210989

あまり私が引用してない部分にこういうことも書かれていたわけです。関心を持たれた方は、ぜひ、本を買ってお読みください。

JRF2024/2/216118

……。

……。

ウェーバーのレジティメイトな支配は三類型とされ、それが公務員試験にも出題されるらしい。訳者は単純に「三類型」としてしまうことを批判しているが、『宗教学雑考集』にそれを載せるため、あえて三類型ということで要約していこう。

JRF2024/2/210554

……。

マックス・ウェーバーは正当な支配を三類型に分ける。それは「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」の三つである。なお、「カリスマ」とは人々を惹きつける特別な(神的な)魅力のことである。

JRF2024/2/217352

合法的支配とは、近代的官僚制のことである。ウェーバーにおいては、選挙によって選ばれる公人=政治家もここでいう官僚に含まれる。そこでは官僚は、定められた法の下、事柄に即して物事を処理する。地元の名士だからといって、パーソナルに人に応じて法を曲げたりしない。このシステムでは官僚の専門分化が起こる。現代の民主主義は近代的官僚制を求めるが、官僚自身はその専門性により階級化される矛盾がある。

JRF2024/2/210180

伝統的支配とは、家産制のような家父長制的支配または封建制などの身分的支配をいう。君主は軍を背景に税を取り支配するが、軍が第一義的な支配の力というわけではない。家父長が、稼ぐ力を背景とするように、第一義的には、経済社会を運営する力がその支配源である。

JRF2024/2/212540

家産制では、官僚はしばしば官職が相続されたり売買されたりするようになり、それが逆に自由に退職させることを難しくし、独立性が保たれることがある。しかし、支配される側のために独立性が保たれるわけでもなく、専門化もそれほど高度にはならない。基本的に君主の、または、官僚の恣意がまかり通る支配になる。

封建制では、名誉と忠誠をもとに、多くの権限を封臣に渡すことで、権限の分離が実現しやすい。しかし、それは三権分立のようなものではなく、水平に分立するだけである。

JRF2024/2/213619

カリスマ的支配とは、カリスマが任意の支援を受けて成立する形である。信じる者のみ支払うのが基本で、カリスマには現世の論理が通じないところで輝き続けることが求められる。

JRF2024/2/219942

戦争の英雄もカリスマであり、その場合は略奪品など、現世利益があることもあるが、それをモデルとして、別世界の見返り・輝きを想像させるのが、カリスマ一般の構造ということなのだろう。実際に利益化すると、ガッカリする…期待してるだけのときのほうがワクワクした…みたいなものの、期待部分を取り出したモデルがカリスマ的支配なのかもしれない。

JRF2024/2/214696

カリスマ的支配は、多くは、その後、伝統的支配に移行する。しかし、要所要所でカリスマが生きる形になることもある。野球の監督や、アイドルなど、組織に属しながらカリスマを発揮し、それを支配に活かしていることもある。民主主義の選挙は、恒常的にカリスマを生もうとするシステムと言えるかもしれない。

JRF2024/2/211516

ある意味、家父長についても、カリスマ的な部分はある。その仕事の詳細を家族に秘密にし、「カリスマ」を保つ家庭は多いのではないか。家父長はそれにより自由にできる金が余計に手に入る。それでリスクを取れる面(リスクを取って情報を取れる面)はあるだろう。

カリスマが継承されるとき、官職にカリスマが付与されそれが継承される官職カリスマという形式を取ることがある。これを大がかりにすると、カトリック教会のような教権制が生まれる。

JRF2024/2/211211

これら三類型は、完全に別の話ではなく、一つの具体的な支配に混在しうるものである。民主主義の政治家は、合法的支配の官僚とも目されるが、政治家自身は、秘書を家父長制的につまり伝統的支配によって支配していたり、選挙で選ばれるときは、カリスマ的支配の論理に従って動いていることもある。…という具合いに。

JRF2024/2/212422

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